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第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~<br /><br />沖縄県糸満市山城にある平和創造の森公園。市民の憩い場として老若男女が利用する敷地内にひっそりとある戦争史跡、それがマヤーガマになります。平和創造の森公園から国道331号線に抜ける道のギリギリの敷地内にあるとされていましたがなかなかわかりません。たまたまレンタカーのナビになにやら碑の場所が記されていることに気付き、駐車場に停めて歩いて行くと…ありました。<br /><br />特に大きな看板がある訳でもないため、そのまま進みガマ内部へと進みます。マヤーガマは地上戦が始まる前の昭和19(1944)年から昭和20(1945)年3月までの間山城集落の住民1/3が避難していた場所であり、尊い命を守った場所として今なお畏敬の念をもっている場所になります。<br /><br />しかし沖縄での地上戦が行われたのは昭和20(1945)年4月~6月のことであり、住民がマヤーガマを後にしたのはその前の話になります。しかし沿革について書かれているものが全く見当たらず詳細はわからないのですが、南部に撤退してきた第62師団隷下の部隊が、他の壕やガマに入っていたものの戦闘によって追われ、このマヤーガマに来たとの記述があります。実際にガマ内部の遺品の中には軍靴の底が多数見つかっていることから、住民の避難壕として使われていたマヤーアブに兵士が入り、わずかな期間ではあれど軍民共同の壕となっていたと思われます。それが5月下旬から6月にかけてのことであれば、住民の一部特に子供がいる家族は、追い出しとは言いませんが子供の泣き声に過剰に反応し、別の場所に移ったのではないかと考えます。<br /><br />いずれにせよ3月にすべての住民が他へと移った訳ではないと思います。結局のところ軍属が最後までマヤーガマに居た訳ではなかったでしょう。また軍民混在だったとされるこのマヤーガマも、やはり遺品分布から見ても入口付近に住人が、奥に軍人がそれぞれ籠っていたには間違いありません。<br /><br />軍属が入っていた壕に必ず付きまとう慰安婦の問題。軍が乗っ取ったとされる壕やガマに必ず見え隠れすることであり、マヤーガマでもその存在が言われています。しかし時期的にも強制連行されたという訳ではなく、元来そのような仕事を生業としていた方々が軍と行動をともにしていたという説が濃厚のようです。このあたりの話に新説が出てくるのかどうかわかりませんが、それはそれでまたその時に考えようと思います。<br /><br />約30分位でガマを巡り、入口へと出てきてまさかのハプニング。立入禁止と書いてあります。ロープが掛かっているので気付かない訳はないのですが、それに気付きませんでした。まあ入ってしまったものは仕方がないので、受付窓口になっている平和創造の森公園の事務所に行ってみます。おそるおそる入壕について聞いてみると、原則個人での入壕は認めておらず、ガイド団体に一任しているとのこと。たまたま他でも同じことが騒がれたことがあるので、理由を聞くと意外な回答が帰ってきました。平和学習などでも利用されている場所ではあるものの、旅行保険を含めた傷害保険の種類によっては〝壕やガマへ入る行為〟により危険等級が上ってしまうことがあり、その内容によっては怪我をした場合保証されないリスクがある現実があります。数多い保険の担保の問題までの管理を窓口でやっていると大変だということにより、管理者責任を取ることができないという理由でそうなってしまったようです。<br /><br />確かに日帰りのレクレーション保険だと引っ掛かるかも?と思えるところはあるのですが、〝鍾乳洞〟に入るのに保険料が割り増しになることなど聞いたことがありません。まあそんなことを一観光客がブツブツ言っても始まらないのでどこまでならOK?という聞き方に変えると、「壕入口までは可」ということでした。ということは今後マヤーアブのイメージが出て来なくなるかもと思ったので今回敢えて載せています。<br /><br />確かにガマや壕を取り巻く関係は日に日に変わってきています。劣化が進んだりした結果数十年後には今見学できる壕やガマがいくつ残っているのだろうか…。なんとなく知りたくもなりました。一昔前までガマや壕等の立ち入りは〝自己責任〟という範疇で行われていた場所がほとんどだったように思います。いつの頃からか修学旅行をはじめとした〝平和学習〟のコースとして組み込まれるようになり、入壕管理が行われるようになりました。確かに壕の中で70年前に起こった戦争という悲劇を追体験し、その体験を後世に活かすことができたら価値はあると思います。しかし人間というもの全てが同じ考えであるわけではなく、今のような十把一絡げで〝壕へ連れて行く〟感じのものでは〝残るもの〟もないように思えてなりません。<br /><br />壕やガマは場所にもよりますが、ガマ内部への直接攻撃によって犠牲者を出しています。堅固なものゆえ黄燐弾やガソリンなどを流し込んだ後に火炎放射器などによって火を点けられると逃げようがありません。しかし琉球石灰岩で構成される多くの壕やガマは、その硬さゆえ壕内の避難民の命を助けることができた事実もあります。しかしその壕やガマが環境の変化による影響で劣化し、戦争直後の様相を呈することができなくなっている現実も残念ながらあるのも事実です。義務感で訪れて得るものがあるならば、まだ救われるところもあるとは思います。しかし今の平和教育ように〝何でもいいからガマか壕を体験する〟などという目的であればやらない方がいいと思うところもあります。人の出入りだけを増やすだけでは壕の劣化だけを促すことにしかならないのではないのでしょうか…。<br /><br />なお写真の写り方で大きく明るさが異なっていますが、これはデジカメによるストロボ撮影をしたものとモバイルカメラによるものの二種類があるためです。ガマ内部の本来の見え方はモバイルカメラで撮ったものよりさらに暗いものになります。しかしモバイルカメラ+フォトライトではほとんど見えないため混在させていますので、現実の暗さはもっと暗いものだったと思って下さい。<br /><br />意図的ではなく入ってしまったマヤーアブで感じたことだけを書いてこの〝第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~〟を終わります。<br />

第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~

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2016/03/01 - 2016/03/01

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第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~

沖縄県糸満市山城にある平和創造の森公園。市民の憩い場として老若男女が利用する敷地内にひっそりとある戦争史跡、それがマヤーガマになります。平和創造の森公園から国道331号線に抜ける道のギリギリの敷地内にあるとされていましたがなかなかわかりません。たまたまレンタカーのナビになにやら碑の場所が記されていることに気付き、駐車場に停めて歩いて行くと…ありました。

特に大きな看板がある訳でもないため、そのまま進みガマ内部へと進みます。マヤーガマは地上戦が始まる前の昭和19(1944)年から昭和20(1945)年3月までの間山城集落の住民1/3が避難していた場所であり、尊い命を守った場所として今なお畏敬の念をもっている場所になります。

しかし沖縄での地上戦が行われたのは昭和20(1945)年4月~6月のことであり、住民がマヤーガマを後にしたのはその前の話になります。しかし沿革について書かれているものが全く見当たらず詳細はわからないのですが、南部に撤退してきた第62師団隷下の部隊が、他の壕やガマに入っていたものの戦闘によって追われ、このマヤーガマに来たとの記述があります。実際にガマ内部の遺品の中には軍靴の底が多数見つかっていることから、住民の避難壕として使われていたマヤーアブに兵士が入り、わずかな期間ではあれど軍民共同の壕となっていたと思われます。それが5月下旬から6月にかけてのことであれば、住民の一部特に子供がいる家族は、追い出しとは言いませんが子供の泣き声に過剰に反応し、別の場所に移ったのではないかと考えます。

いずれにせよ3月にすべての住民が他へと移った訳ではないと思います。結局のところ軍属が最後までマヤーガマに居た訳ではなかったでしょう。また軍民混在だったとされるこのマヤーガマも、やはり遺品分布から見ても入口付近に住人が、奥に軍人がそれぞれ籠っていたには間違いありません。

軍属が入っていた壕に必ず付きまとう慰安婦の問題。軍が乗っ取ったとされる壕やガマに必ず見え隠れすることであり、マヤーガマでもその存在が言われています。しかし時期的にも強制連行されたという訳ではなく、元来そのような仕事を生業としていた方々が軍と行動をともにしていたという説が濃厚のようです。このあたりの話に新説が出てくるのかどうかわかりませんが、それはそれでまたその時に考えようと思います。

約30分位でガマを巡り、入口へと出てきてまさかのハプニング。立入禁止と書いてあります。ロープが掛かっているので気付かない訳はないのですが、それに気付きませんでした。まあ入ってしまったものは仕方がないので、受付窓口になっている平和創造の森公園の事務所に行ってみます。おそるおそる入壕について聞いてみると、原則個人での入壕は認めておらず、ガイド団体に一任しているとのこと。たまたま他でも同じことが騒がれたことがあるので、理由を聞くと意外な回答が帰ってきました。平和学習などでも利用されている場所ではあるものの、旅行保険を含めた傷害保険の種類によっては〝壕やガマへ入る行為〟により危険等級が上ってしまうことがあり、その内容によっては怪我をした場合保証されないリスクがある現実があります。数多い保険の担保の問題までの管理を窓口でやっていると大変だということにより、管理者責任を取ることができないという理由でそうなってしまったようです。

確かに日帰りのレクレーション保険だと引っ掛かるかも?と思えるところはあるのですが、〝鍾乳洞〟に入るのに保険料が割り増しになることなど聞いたことがありません。まあそんなことを一観光客がブツブツ言っても始まらないのでどこまでならOK?という聞き方に変えると、「壕入口までは可」ということでした。ということは今後マヤーアブのイメージが出て来なくなるかもと思ったので今回敢えて載せています。

確かにガマや壕を取り巻く関係は日に日に変わってきています。劣化が進んだりした結果数十年後には今見学できる壕やガマがいくつ残っているのだろうか…。なんとなく知りたくもなりました。一昔前までガマや壕等の立ち入りは〝自己責任〟という範疇で行われていた場所がほとんどだったように思います。いつの頃からか修学旅行をはじめとした〝平和学習〟のコースとして組み込まれるようになり、入壕管理が行われるようになりました。確かに壕の中で70年前に起こった戦争という悲劇を追体験し、その体験を後世に活かすことができたら価値はあると思います。しかし人間というもの全てが同じ考えであるわけではなく、今のような十把一絡げで〝壕へ連れて行く〟感じのものでは〝残るもの〟もないように思えてなりません。

壕やガマは場所にもよりますが、ガマ内部への直接攻撃によって犠牲者を出しています。堅固なものゆえ黄燐弾やガソリンなどを流し込んだ後に火炎放射器などによって火を点けられると逃げようがありません。しかし琉球石灰岩で構成される多くの壕やガマは、その硬さゆえ壕内の避難民の命を助けることができた事実もあります。しかしその壕やガマが環境の変化による影響で劣化し、戦争直後の様相を呈することができなくなっている現実も残念ながらあるのも事実です。義務感で訪れて得るものがあるならば、まだ救われるところもあるとは思います。しかし今の平和教育ように〝何でもいいからガマか壕を体験する〟などという目的であればやらない方がいいと思うところもあります。人の出入りだけを増やすだけでは壕の劣化だけを促すことにしかならないのではないのでしょうか…。

なお写真の写り方で大きく明るさが異なっていますが、これはデジカメによるストロボ撮影をしたものとモバイルカメラによるものの二種類があるためです。ガマ内部の本来の見え方はモバイルカメラで撮ったものよりさらに暗いものになります。しかしモバイルカメラ+フォトライトではほとんど見えないため混在させていますので、現実の暗さはもっと暗いものだったと思って下さい。

意図的ではなく入ってしまったマヤーアブで感じたことだけを書いてこの〝第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~〟を終わります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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