知覧・南さつま・日置旅行記(ブログ) 一覧に戻る
さんふらわあで志布志に入り、そこからレンタカーを利用して鹿児島の特攻戦跡を巡る旅としてまとめるつもりでいましたが、史跡や資料館等戦跡を回ったことをひとつにまとめきれないことを感じました。そのため番外編として、その①旧陸軍の万世・知覧編、その②旧海軍の鹿屋・串良・笠之原編として見て聞いたことを書いてみます。一部自分の拙い言葉で考えを述べるところがありますので、なにか思われることがありましたらご指摘下さい。<br /><br />こちらでは陸軍特別攻撃隊基地の史跡として、万世・知覧のことを書いています。<br /><br />2014年9月16日火曜日<br />志布志を出てから4時間半でやっと本日の第一目的地、万世(ばんせい)特攻平和祈念館へと到着します。志布志から154.4km、机上の予定より約15km程余分に走りました。<br /><br />まず近づいて思ったことは凄く厳かな場所であるということ。石灯籠が所狭しと並んでいます。国道270号線から入って行くとの祈念館の入口に着きますが、駐車場はそのまま進んで祈念館を回り込む形で入ります。元々万世特攻平和祈念館は静かに戦争の悲惨さを伝える場所として運営されているため、同じく陸軍の特攻基地であった知覧に比べ知名度が低いと言われています。わからなくもない理由なのですが、やはり平和のありがたみを再検証する場所として必ず訪れたい場所だということは間違いないと思います。<br /><br />車を停めて祈念館の建物に沿って玄関へと向かいます。正面には”よろずよに”他様々な慰霊碑が並んでいます。それを写真に収めながらこの万世特攻平和祈念館の建物を少し離れて見てみます。建物の屋根は隊員の方々が空への憧れの練習機”赤とんぼ”の複葉型をイメージし、大屋根に平和を祈る合掌の姿とををシンボル化したユニークな”複葉合掌型”の形をしていますのでそれを確認してみます。写真で撮るとわかり辛いように思いますが、まさしく言われている通りでした。そして祈念館に入場します。万世特攻平和祈念館は一階は撮影OKですが、二階は個人所有物も多く著作権のこともあり撮影禁止になっています。入館料の300円を払って中へと入ります。年表等その戦時中を振り返るものがたくさんあります。でも一番目を引くものは多分多くの方が知っておられる一枚の写真です。”仔犬(子犬)を抱く少年兵”、昭和20年(1945年)5月26日に撮影されたものだそうです。この写真は知覧で撮影されたものと思われているようですが、実際には万世で撮影されたものだそうです。翌日早朝写真に写っておられる若き特攻隊員の方々は南方へと出撃され、帰らぬ人となりました。動物は癒しとよく言われますが、この写真とても2時間後(実際は悪天候で翌日)に死に征く運命を背負っておられるようには全く思えない屈託のない笑顔をされているように思います。もちろん心の中までは見ることはできないのでなんとも言いようがないところもありますが、あと数ヶ月終戦が早ければ落命されることもなかったのかもと思うとやるせない気持ちになりました。<br /><br />少年の名前は荒木幸雄伍長、第七十二振武隊・九九式襲撃機の隊員として昭和20年5月27日早朝に出撃し、沖縄金武湾の東50km付近でアメリカのレーダー駆逐艦”ブレイン”に突撃し戦死されました。享年17歳。戦死により階級特進され最終階級は陸軍少尉とのことです。群馬県桐生市のご出身で陸軍少年飛行兵に応募し、優秀な成績で太刀洗陸軍飛行学校生徒隊に入隊、戦局の悪化でわずか半年の習得期間にもかかわらず、学問と飛行訓練に優れた才能を発揮され、卒業時には最高栄誉とされる陸軍航空総監賞を受賞されています。このことでも十分優秀な方だったことは想像がつきます。しかしその優秀さが特別攻撃隊員としてかわれたことに時勢の無常を感じずにはおられません。<br /><br />荒木幸雄さんが万世から出撃されたことを証明するご家族への手紙(ハガキ)が、2階展示室にありましたのでご紹介します。<br /><br />陸軍伍長 荒木幸雄<br />最后の便り致します<br />其後御元気の事と思ひます<br />幸雄も栄ある任務をおび<br />本日出発致します。<br />必ず大戦果を挙げます<br />桜咲く九段で会う日を待って居ります<br />どうぞ御身体を大切に<br />弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら <br /><br />出撃当日(昭和20年5月27日)の消印が押してあり、宿舎の住所が川辺郡加世田町飛龍荘内と書かれていたことで、荒木伍長はこの万世飛行場から出撃されたという証になりました。<br /><br />写真に写っておられる第七十二振部隊神風特別攻撃隊隊員の方ですが、少年飛行兵第十五期生の同期だったそうです。前列左から早川勉 伍長(18歳2ヶ月・三重県四日市市出身)、荒木幸雄 伍長(17歳2ヶ月群馬県桐生市出身)、千田孝正 伍長(18歳6ヶ月・愛知県丹羽郡出身)、後列左から高橋要 伍長(18歳7ヶ月・東京都出身)、高橋峯好 伍長(17歳4ヶ月・神奈川県横浜市出身)(敬称略)とホントあどけなさが残っている普通の少年です。もし現在(2014年現在)ご存命ならば86・7歳、現役で活躍されていてもおかしくない年齢です。皆様戦死による階級特進で少尉が最終階級となられています。大変失礼かとは思いますが、あまり個人のことは調べられないため、わかる範囲でのご紹介をさせて頂きます。<br /><br />【高橋峯好伍長辞世の手紙】<br />父さん、母さん、<br />長らくお世話をかけました<br />峯好もいよいよ出撃します<br />ではくれぐれも御身体を大切に<br />                   高橋峯好<br />       出撃前夜 五月二十六日<br /><br />【千田孝正伍長辞世の手紙】<br />必沈 轟沈 又轟沈<br />吾が願ひ 酒のみて<br />我必沈確実なり<br />快なるや我が体当たり<br />見よ 沖縄の空と海を<br /><br />我法名には<br />「純」を忘れられないように願う<br />「ああ哀しいかな」は必要なし<br />何も俺は哀しいわけは一つもない<br />唯 喜びで一杯なり<br /><br />それから我には遺骨だなんてない<br />我が身の者は残しません<br />大体俺なんか墓地なんて勿体ない<br />俺はむしろ墓地より拍手の邦画好きだ<br />孝正の遺ハイは仏壇より神様棚のほうがいいかも知れぬ<br /><br />次に過去を語る<br />何故俺は高二から工業高をやめたか<br />何故川崎航空機に入ったか<br />一に飛行士になりたかったので<br />そうして俺は幸せすぎた<br />親に対して申し訳なし<br /><br />用語説明です。陸軍少年飛行兵(略して少飛とも言われる)とは、旧陸軍の航空兵科現役下士官となるため、10代の男子志願者から選抜されて陸軍の航空関係諸学校で教育を受ける者のことを指します。1933年(昭和8年)4月に制度の原点となる陸軍飛行学校生徒が定められ、1940年(昭和15年)4月より正式に「少年飛行兵」の名称となり太平洋戦争(大東亜戦争)終結まで存在しました。生徒は在校中は兵籍にある軍人ではなく、卒業後に上等兵の階級を与えられて部隊に配属され、およそ1年の訓練と下士官候補者勤務を経て現役航空兵伍長に任官されました。この伍長という階級が、&quot;子犬を抱いた少年兵&quot;の写真で屈託のない笑顔をされている方々のものです。(wiki改)<br />ちなみに階級がすべてではありませんが、「兵籍にある軍人ではない」というのは飛行学校の生徒で訓練中に事故で落命したとしても戦死の扱いにはならないため、残された遺族に恩給が支払われないことを意味します。<br /><br />陸軍の階級について簡単に説明しますと、兵または兵卒として下位から二等兵→一等兵→上等兵→兵長、下士官として伍長→軍曹→曹長、それ以上の士官(将校)としての尉官が准尉(准士官)→少尉→中尉→大尉、佐官として少佐→中佐→大佐、将官(高級将校)として少将→中将→大将(その上の元帥というのは例外のようです)となります。特攻隊員として逝かれた方の多くは下士官の階級です。先述した少年飛行兵のように学校を出て上等兵として任官されたのち下士官候補者としての勤務のあと伍長に任官されるというのが一般的だったようですが、その階級と命を引き換えなければいけなかったご時世にいささか憤りを感じずにはいられません。<br /><br />館内中央には、平成4年7月に万世沖より引き上げられた海軍の零式三座偵察機が展示されています。この機には機銃、天測器そして極秘のレーダーも備え付けられていました。この機は第634海軍航空隊・偵察302飛行隊の所属機で、昭和20年6月4日福岡の基地(玄海基地)から沖縄方面の夜間索敵のため発進し、帰途に敵機の追撃を受け応戦し、燃料切れで吹上浜沖に不時着、塔乗員3名は田布施海岸に泳ぎ着いた。機体は平成4年8月に引き揚げられたものを譲り受けられたそうです。搭乗されていた方は偵察員(機長)の矢島萬平中尉、操縦員の中野貞利上飛曹、通信員の小川金蔵上飛曹(敬称略)で海軍所属ですが、この機に関しては地理的なものも考慮され、万世特攻平和祈念館に展示されることになりました。50年もの間海中に沈んでいたため損傷は大変激しいものであったそうですが、現海上自衛隊鹿屋航空工作所の尽力で復元されたそうです。<br /><br />写真で切り取った軍服と飛行服は、東條正男少尉(戦死後中尉)のもので、ご遺族の末弟正年氏の寄贈によるものだそうです。東條正男少尉(敬称略)は、昭和十七年夏飛行第六十六戦隊第一中隊付操縦将校として、当時の満州間島省東盛湧飛行場に着任、その後、昭和十九年フイリピンのバラワン島で対潜哨戒のため、夜間離陸時に壮烈な戦死を遂げられました。この軍服等を寄贈された末弟の正年氏の話によりますと、フイリピンで戦死してなければ、飛行第六十六戦隊が万世に展開されたことに伴い、きっと万世飛行場から出撃していたであろうとのことでした。<br /><br />同じく1階に展示されているものに旧日本陸軍九八式直協偵察機のエンジン・プロペラと機関砲があります。これは昭和59年(1984年)1月に茨城県鹿島灘沖2,000m、水深25mに沈んでいたものが操業中の漁船の網に引っかかり引き上げられ、元隊員の方々の尽力により拾得者から旧加世田市(現南さつま市)が無償で譲り受けたものだそうです。戦後39年の眠りを経てこの場所で戦争の悲惨さを無言で後世に伝える第二の役目を果たしてくれることに感謝の念を込めたいと思います。<br /><br />二階には特別攻撃隊として征かれた隊員の方々の遺書や遺品が展示されています。撮影禁止なので写真はありませんが、実は私自身血染めの血判状などを見ているうちに、展示品の無言の訴えかけに直視できなくなりました。私はなにを求めてこの万世に来たのか?なにを知りたかったのか?それは興味本位だったのではないだろうか?自問自答している自分に、見る資格はないのではと思うようになっていたからです。一通り見てきましたが、自分の言葉で説明ができないような気がしてきました。なので万世特攻平和祈念館の二階展示室のものについては、次回以降自分の言葉でまとめられる時にしたいと思います。<br /><br />最後に旧陸軍万世飛行場の歴史を紹介します。日本三大砂丘の吹上浜に昭和19年の終わり頃、陸軍最後の飛行場が建設されました。しかし終戦間際のわずか4か月しか使われなかったので“幻の特攻基地”といわれています。そしてこの万世特攻基地から17歳の少年飛行兵を含め約200人の特攻隊員が祖国を護るため沖縄に出撃していきました。特攻隊員には遺骨はありません。しかし、この世に書き残した遺書があります。その“至純の心”を綴った『血書』や遺品の本物を二階に、一階には吹上浜沖から引き揚げられた日本にたった一機しか残っていない“零式三座水上偵察機”を展示してあります。<br /><br />平和祈念館の外観は少年飛行兵たちが大空に憧れ初めて飛んだ練習機“赤とんぼ”複葉型を模し、大屋根に平和を祈る合掌をイメージした“複葉合掌型”なっています。慰霊碑は、昭和47年に特攻隊の慰霊顕彰目的に建設され、旧町名“万世”をも意味する“よろずよに”と刻銘されています。<br /><br />平和への祈りをこめて 広大で美しい砂丘を 松に囲まれた吹上浜<br />この地にかつて 酷(さび)しく悲しい過去がありました<br />陸軍最後の特攻基地“万世飛行場”<br />“戦争とは”<br />“祖国とは”<br />残された品々は、時代を越えて<br />今に語りかけます。<br /><br />文書はパンフレットと説明書として書かれたものを転記し、一部言葉を変えて書いております。<br /><br />万世特攻平和祈念館の外には、慰霊碑があります。先述した陸軍特攻慰霊碑“よろずよに”、陸軍萬世特攻飛行場建設時殉職者慰霊碑。戦時中とはいえ尊い命がこの風光明媚な万世の地で、もしくは万世の地から散って征く、征った事実は消えるものではありません。文才のない私には上手く言えませんが、今は安らかにお眠り頂きたいと心底思います。<br /><br />文中に出てきた言葉を説明します。戦闘機の九九式、零式と言う言葉、これは飛行機が開発された年になります。紀元や皇紀○○年という言われ方ですが、この暦日本ができたときが紀元・皇紀元年となり、紀元2600年と言うのが昭和15年、即ち1940年になります。零式と言うのは紀元2600年、九九式は紀元2599年なので昭和14年(1944年)になります。その年の下2桁が○○式になります。<br /><br />では先へと行きます。知覧というと誰もが聞いたことのある場所だと思います。陸軍の特攻飛行場があった場所、薩摩の小京都と言われる庭園があるところ。今回私はその特攻の史跡を訪ねるべくやってきました。<br /><br />万世から約20km、時間にすると30分程で到着します。ただ今回は行程の組み方が甘く、予定時刻より大幅に遅れての到着となりました。知覧特攻平和会館の閉館は17:00、到着は16:20。とにかく会館だけは時間厳守なんで小走りに見て行きます。知覧は陸軍の特攻飛行場として大多数の若い隊員の方々が南へと飛んで逝かれて帰らぬ人となりました。その犠牲となられた隊員の方々1,036名すべての写真が飾られています。正直その数だけでも圧倒されます。ただ言葉は悪いですが見学者が多く、万世のようにゆっくり見て浸ってと言う訳には行きませんでした。館内は撮影禁止なのでカメラを抱えてということはありませんが、空いているところをつないで見て行く感じになります。ただどうしても今回は時間のことが頭からはなれず、申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたが、ざっくりと見ただけで時間になってしまいました。<br /><br />知覧特攻平和会館について紹介させて頂きます。入場すると正面には”特攻隊員を天国にいざなう天女たち”を描いた信楽焼の陶板画が飾られています。その下には”特攻平和会館について”と題した”特攻平和会館の設立主旨”がプレートに刻まれていました。<br /><br />知覧特攻平和会館の設立趣旨<br />この特攻平和会館は太平洋戦争の末期、沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。<br />私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご協カ、ご支援で展示しています。<br />特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ、雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに平和会館を建立した次第であります。(原文のまま)<br /><br />館内は撮影禁止ですが、特攻戦没者1,036名(うち知覧から出撃436名)の特攻隊員の遺影が出撃順に掲げられ、彼等が残した遺書や辞世の句、家族への手紙、遺品などが展示されている他、日本でただ一機現存する陸軍三式戦闘機”飛燕(ひえん)”や陸軍四式戦闘機”疾風(はやて)”、海から引き上げられた零戦(海軍零式戦闘機)、そのほか戦闘機や戦争関係資料が展示されています。<br /><br />折しも昨年2013年末公開の特攻隊員と零式艦上戦闘機(零戦)を取り上げた百田尚樹氏原作の映画“永遠の0”が700万人の観客動員数を記録し、特攻隊員への関心が高まったことにより、特攻ゆかりの地に足を運ぶ方が増えているそうです。ちなみに2014年9月16日火曜日に訪れた私は、本年210,555人目の来館者です。<br /><br />閉館時間になったので外へと出ます。この知覧特攻平和会館は知覧平和公園の中にあり、その他企画展をしているミュージアム知覧、特攻隊員勇士の像”とこしえに”、母の像”やすらかに”、一式戦闘機”隼”(映画撮影時の復元)、三角兵舎(復元)、特攻平和観音、太刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊記念碑、知覧基地特攻隊の歌々碑、知覧町護国神社、鳥濱トメ顕彰の碑、平和の鐘、慟哭・誓いの碑、アリランの碑、生き残られた隊員の歌碑、”俺は君のためにこそ死にいく”撮影記念碑、航空自衛隊T-3初等練習機等当時を偲ぶものが敷地内にあります。<br /><br />実は展示を見ていてひとつ思ったことがあります。特別攻撃隊隊員として南の空へと飛んで征かれた隊員の方々の写真が展示されています。ほとんどの方は名前・出身地・現階級・年齢等が記載されていますが、おひとりだけ名前がなく姓と階級のみ記載されていた方がおられました。これから先は推測の域なので聞き流して頂きたいのですが、戦時中の混乱期、戦死の連絡があったとて家族もそれを受け取れるかどうかの保証もなかったと思います。軍の方には勿論記録はされていたのでしょうがやはり混乱の最中、すべての戦死者の方々の情報の中には時代の流れと現実の挾間で埋もれてしまったものもあるのかも知れません。また特攻隊員として征かれた方のほとんどは、残された家族に不利益が及ぶのを防ぐため、個人特定をされる情報を持たなかったと聞いています。知覧では隊員の方々の情報を知る方から、写真に付箋という形で居住地や出身などの情報をつけておられました。これはありがたいことなんだろうとは思います。ただ遺族の方によってはそっとして欲しいと思っておられる方もいらっしゃるように思います。私も母方の祖父が沖縄戦で亡くなっていますが、母はまだ返還前の沖縄に遺族会から一度行った限りでその後は行かなかったようです。祖母は行きたいと言っているうちに亡くなってしまい、母親に”行こう”と何回か誘いましたが乗り気でなかったようで、時間だけが経ってしまい亡くなりました。良くも悪くもなんにでも興味を持ち、思いたったらいてもたってもいられない精神の持ち主が唯一私だけなのかも知れません。もしかすると母親はその場所を訪れることが嫌だったのかも知れません。既に答えを聞ける人はいなくなりました。戦後生まれの私になにがわかるとお叱りを受けるかも知れませんが、万世と知覧の展示を見てその異なる意図を知り少し書かせて頂きました。<br /><br />永続的な平和を望んでいるのは、特攻隊員として征かれた方、残った方、その後生まれた方すべて共通の考えだと思います。ただそういう考えもあって当たり前のような気がしたので少し書かせて頂きました。もし気に障られた方がいらっしゃったら冒涜するつもりは毛頭ありませんので先に謝っておきます。文章が拙いので上手く伝わっていないところはお許し下さい。<br /><br />自分なりに調べたことで、一般的に言われていることと違うこともありました。特攻機には片道分の燃料しか積まないで出撃したということですが、どうもそれは違うようです。往復分くらいの燃料は積んでいくことで、様々な理由で帰還を余儀なくされた場合、一旦基地に戻り再度出撃することができるようにしていたこと。これはバンザイ特攻と呼ばれる、「勝ち目がないから突撃して果てる」ことを禁じていた軍規からも伺えます。しかし本当の狙いは別にあり、特攻機に搭載した爆弾の破壊力を増幅させるために、揮発油である燃料を積んでいたということが理由だったと聞きました。いずれにせよ特攻機が”人が乗った爆弾”であることには違いありません。事実を知らなくても知っても答えは闇の中、想像するだけで特攻機に乗って出撃された方の心境はどうだったろうと思う気持ちは増すばかりです。<br /><br />本題に書かれていることの補足として、2007年5月に公開された、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」のことについて少し述べたいと思います。石原慎太郎氏脚本のこの映画をこの旅行記を書いているうちに見ることができました。調べた内容と照らし合わせると、数人の実在の方はそのままのお名前で出ておられますが、あとは実在の方々をモデルにしてのフィクションです。どうしても映画という性格上、ストーリー性を持たせるためのような気がしますが、鳥濱トメさんの目線からということであれば、ノンフィクションとして仕上げるのもありではと思います。一度流すかたちで見たあと、登場人物一人ひとりを実在の方と照らしあわせてみると、この映画の素晴らしさ、すなわちこの特攻という悲劇と大戦末期の時代の流れというものが本当に合致しているということがわかります。「永遠の0」のブレイクが特攻史跡巡りに拍車をかけたと言う話は先述しましたが、この「俺は、君のためにこそ死ににいく」は、史実をもとに作り上げられていること、即ち映画のストーリーがそのまま時代の流れと受け止められる点では、陸軍の特攻を伝える方法のひとつだと思います。<br /><br />特攻は決して美化されるものではないと思います。しかし戦後の平和な時代に産まれ育つと、わずか69年前の事実に向き合おうとしない、また向き合うことが変な人と思われるのが今のご時世ではないでしょうか。映画の世界と過去の事実を一緒にしているとお叱りを受けるかも知れませんが、私は関心を持たないことが一番問題ではと思います。ひょんなきっかけで儚く短くも一生懸命生きて征かれた多くの若者のことを知り、その足跡を辿って史跡に足を運び、史実を見て、心で何かを感じることができれば、過去の過ちを現在に生かすことができ、繰り返すことがないようにできるに違いないと思います。<br /><br />旅行記とは内容がかけ離れてしまいましたが、この拙い文章がそのきっかけになればと切に思い、この万世と知覧の陸軍特攻史跡巡りのくくりとします。<br /><br />以下興味が湧いたらご覧下さい。<br />~戦跡を巡る旅シリーズ~<br /><br />【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933914<br /><br />【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10963283<br /><br />【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10981023<br /><br />【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10974454<br /><br />【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990537<br /><br />【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990699<br /><br />【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990539<br /><br />【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/11015120<br /><br />※未完成<br />【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10964521<br />

第一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~鹿児島陸軍特攻戦跡:万世・知覧編~

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2014/09/15 - 2014/09/18

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

さんふらわあで志布志に入り、そこからレンタカーを利用して鹿児島の特攻戦跡を巡る旅としてまとめるつもりでいましたが、史跡や資料館等戦跡を回ったことをひとつにまとめきれないことを感じました。そのため番外編として、その①旧陸軍の万世・知覧編、その②旧海軍の鹿屋・串良・笠之原編として見て聞いたことを書いてみます。一部自分の拙い言葉で考えを述べるところがありますので、なにか思われることがありましたらご指摘下さい。

こちらでは陸軍特別攻撃隊基地の史跡として、万世・知覧のことを書いています。

2014年9月16日火曜日
志布志を出てから4時間半でやっと本日の第一目的地、万世(ばんせい)特攻平和祈念館へと到着します。志布志から154.4km、机上の予定より約15km程余分に走りました。

まず近づいて思ったことは凄く厳かな場所であるということ。石灯籠が所狭しと並んでいます。国道270号線から入って行くとの祈念館の入口に着きますが、駐車場はそのまま進んで祈念館を回り込む形で入ります。元々万世特攻平和祈念館は静かに戦争の悲惨さを伝える場所として運営されているため、同じく陸軍の特攻基地であった知覧に比べ知名度が低いと言われています。わからなくもない理由なのですが、やはり平和のありがたみを再検証する場所として必ず訪れたい場所だということは間違いないと思います。

車を停めて祈念館の建物に沿って玄関へと向かいます。正面には”よろずよに”他様々な慰霊碑が並んでいます。それを写真に収めながらこの万世特攻平和祈念館の建物を少し離れて見てみます。建物の屋根は隊員の方々が空への憧れの練習機”赤とんぼ”の複葉型をイメージし、大屋根に平和を祈る合掌の姿とををシンボル化したユニークな”複葉合掌型”の形をしていますのでそれを確認してみます。写真で撮るとわかり辛いように思いますが、まさしく言われている通りでした。そして祈念館に入場します。万世特攻平和祈念館は一階は撮影OKですが、二階は個人所有物も多く著作権のこともあり撮影禁止になっています。入館料の300円を払って中へと入ります。年表等その戦時中を振り返るものがたくさんあります。でも一番目を引くものは多分多くの方が知っておられる一枚の写真です。”仔犬(子犬)を抱く少年兵”、昭和20年(1945年)5月26日に撮影されたものだそうです。この写真は知覧で撮影されたものと思われているようですが、実際には万世で撮影されたものだそうです。翌日早朝写真に写っておられる若き特攻隊員の方々は南方へと出撃され、帰らぬ人となりました。動物は癒しとよく言われますが、この写真とても2時間後(実際は悪天候で翌日)に死に征く運命を背負っておられるようには全く思えない屈託のない笑顔をされているように思います。もちろん心の中までは見ることはできないのでなんとも言いようがないところもありますが、あと数ヶ月終戦が早ければ落命されることもなかったのかもと思うとやるせない気持ちになりました。

少年の名前は荒木幸雄伍長、第七十二振武隊・九九式襲撃機の隊員として昭和20年5月27日早朝に出撃し、沖縄金武湾の東50km付近でアメリカのレーダー駆逐艦”ブレイン”に突撃し戦死されました。享年17歳。戦死により階級特進され最終階級は陸軍少尉とのことです。群馬県桐生市のご出身で陸軍少年飛行兵に応募し、優秀な成績で太刀洗陸軍飛行学校生徒隊に入隊、戦局の悪化でわずか半年の習得期間にもかかわらず、学問と飛行訓練に優れた才能を発揮され、卒業時には最高栄誉とされる陸軍航空総監賞を受賞されています。このことでも十分優秀な方だったことは想像がつきます。しかしその優秀さが特別攻撃隊員としてかわれたことに時勢の無常を感じずにはおられません。

荒木幸雄さんが万世から出撃されたことを証明するご家族への手紙(ハガキ)が、2階展示室にありましたのでご紹介します。

陸軍伍長 荒木幸雄
最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら 

出撃当日(昭和20年5月27日)の消印が押してあり、宿舎の住所が川辺郡加世田町飛龍荘内と書かれていたことで、荒木伍長はこの万世飛行場から出撃されたという証になりました。

写真に写っておられる第七十二振部隊神風特別攻撃隊隊員の方ですが、少年飛行兵第十五期生の同期だったそうです。前列左から早川勉 伍長(18歳2ヶ月・三重県四日市市出身)、荒木幸雄 伍長(17歳2ヶ月群馬県桐生市出身)、千田孝正 伍長(18歳6ヶ月・愛知県丹羽郡出身)、後列左から高橋要 伍長(18歳7ヶ月・東京都出身)、高橋峯好 伍長(17歳4ヶ月・神奈川県横浜市出身)(敬称略)とホントあどけなさが残っている普通の少年です。もし現在(2014年現在)ご存命ならば86・7歳、現役で活躍されていてもおかしくない年齢です。皆様戦死による階級特進で少尉が最終階級となられています。大変失礼かとは思いますが、あまり個人のことは調べられないため、わかる範囲でのご紹介をさせて頂きます。

【高橋峯好伍長辞世の手紙】
父さん、母さん、
長らくお世話をかけました
峯好もいよいよ出撃します
ではくれぐれも御身体を大切に
                   高橋峯好
       出撃前夜 五月二十六日

【千田孝正伍長辞世の手紙】
必沈 轟沈 又轟沈
吾が願ひ 酒のみて
我必沈確実なり
快なるや我が体当たり
見よ 沖縄の空と海を

我法名には
「純」を忘れられないように願う
「ああ哀しいかな」は必要なし
何も俺は哀しいわけは一つもない
唯 喜びで一杯なり

それから我には遺骨だなんてない
我が身の者は残しません
大体俺なんか墓地なんて勿体ない
俺はむしろ墓地より拍手の邦画好きだ
孝正の遺ハイは仏壇より神様棚のほうがいいかも知れぬ

次に過去を語る
何故俺は高二から工業高をやめたか
何故川崎航空機に入ったか
一に飛行士になりたかったので
そうして俺は幸せすぎた
親に対して申し訳なし

用語説明です。陸軍少年飛行兵(略して少飛とも言われる)とは、旧陸軍の航空兵科現役下士官となるため、10代の男子志願者から選抜されて陸軍の航空関係諸学校で教育を受ける者のことを指します。1933年(昭和8年)4月に制度の原点となる陸軍飛行学校生徒が定められ、1940年(昭和15年)4月より正式に「少年飛行兵」の名称となり太平洋戦争(大東亜戦争)終結まで存在しました。生徒は在校中は兵籍にある軍人ではなく、卒業後に上等兵の階級を与えられて部隊に配属され、およそ1年の訓練と下士官候補者勤務を経て現役航空兵伍長に任官されました。この伍長という階級が、"子犬を抱いた少年兵"の写真で屈託のない笑顔をされている方々のものです。(wiki改)
ちなみに階級がすべてではありませんが、「兵籍にある軍人ではない」というのは飛行学校の生徒で訓練中に事故で落命したとしても戦死の扱いにはならないため、残された遺族に恩給が支払われないことを意味します。

陸軍の階級について簡単に説明しますと、兵または兵卒として下位から二等兵→一等兵→上等兵→兵長、下士官として伍長→軍曹→曹長、それ以上の士官(将校)としての尉官が准尉(准士官)→少尉→中尉→大尉、佐官として少佐→中佐→大佐、将官(高級将校)として少将→中将→大将(その上の元帥というのは例外のようです)となります。特攻隊員として逝かれた方の多くは下士官の階級です。先述した少年飛行兵のように学校を出て上等兵として任官されたのち下士官候補者としての勤務のあと伍長に任官されるというのが一般的だったようですが、その階級と命を引き換えなければいけなかったご時世にいささか憤りを感じずにはいられません。

館内中央には、平成4年7月に万世沖より引き上げられた海軍の零式三座偵察機が展示されています。この機には機銃、天測器そして極秘のレーダーも備え付けられていました。この機は第634海軍航空隊・偵察302飛行隊の所属機で、昭和20年6月4日福岡の基地(玄海基地)から沖縄方面の夜間索敵のため発進し、帰途に敵機の追撃を受け応戦し、燃料切れで吹上浜沖に不時着、塔乗員3名は田布施海岸に泳ぎ着いた。機体は平成4年8月に引き揚げられたものを譲り受けられたそうです。搭乗されていた方は偵察員(機長)の矢島萬平中尉、操縦員の中野貞利上飛曹、通信員の小川金蔵上飛曹(敬称略)で海軍所属ですが、この機に関しては地理的なものも考慮され、万世特攻平和祈念館に展示されることになりました。50年もの間海中に沈んでいたため損傷は大変激しいものであったそうですが、現海上自衛隊鹿屋航空工作所の尽力で復元されたそうです。

写真で切り取った軍服と飛行服は、東條正男少尉(戦死後中尉)のもので、ご遺族の末弟正年氏の寄贈によるものだそうです。東條正男少尉(敬称略)は、昭和十七年夏飛行第六十六戦隊第一中隊付操縦将校として、当時の満州間島省東盛湧飛行場に着任、その後、昭和十九年フイリピンのバラワン島で対潜哨戒のため、夜間離陸時に壮烈な戦死を遂げられました。この軍服等を寄贈された末弟の正年氏の話によりますと、フイリピンで戦死してなければ、飛行第六十六戦隊が万世に展開されたことに伴い、きっと万世飛行場から出撃していたであろうとのことでした。

同じく1階に展示されているものに旧日本陸軍九八式直協偵察機のエンジン・プロペラと機関砲があります。これは昭和59年(1984年)1月に茨城県鹿島灘沖2,000m、水深25mに沈んでいたものが操業中の漁船の網に引っかかり引き上げられ、元隊員の方々の尽力により拾得者から旧加世田市(現南さつま市)が無償で譲り受けたものだそうです。戦後39年の眠りを経てこの場所で戦争の悲惨さを無言で後世に伝える第二の役目を果たしてくれることに感謝の念を込めたいと思います。

二階には特別攻撃隊として征かれた隊員の方々の遺書や遺品が展示されています。撮影禁止なので写真はありませんが、実は私自身血染めの血判状などを見ているうちに、展示品の無言の訴えかけに直視できなくなりました。私はなにを求めてこの万世に来たのか?なにを知りたかったのか?それは興味本位だったのではないだろうか?自問自答している自分に、見る資格はないのではと思うようになっていたからです。一通り見てきましたが、自分の言葉で説明ができないような気がしてきました。なので万世特攻平和祈念館の二階展示室のものについては、次回以降自分の言葉でまとめられる時にしたいと思います。

最後に旧陸軍万世飛行場の歴史を紹介します。日本三大砂丘の吹上浜に昭和19年の終わり頃、陸軍最後の飛行場が建設されました。しかし終戦間際のわずか4か月しか使われなかったので“幻の特攻基地”といわれています。そしてこの万世特攻基地から17歳の少年飛行兵を含め約200人の特攻隊員が祖国を護るため沖縄に出撃していきました。特攻隊員には遺骨はありません。しかし、この世に書き残した遺書があります。その“至純の心”を綴った『血書』や遺品の本物を二階に、一階には吹上浜沖から引き揚げられた日本にたった一機しか残っていない“零式三座水上偵察機”を展示してあります。

平和祈念館の外観は少年飛行兵たちが大空に憧れ初めて飛んだ練習機“赤とんぼ”複葉型を模し、大屋根に平和を祈る合掌をイメージした“複葉合掌型”なっています。慰霊碑は、昭和47年に特攻隊の慰霊顕彰目的に建設され、旧町名“万世”をも意味する“よろずよに”と刻銘されています。

平和への祈りをこめて 広大で美しい砂丘を 松に囲まれた吹上浜
この地にかつて 酷(さび)しく悲しい過去がありました
陸軍最後の特攻基地“万世飛行場”
“戦争とは”
“祖国とは”
残された品々は、時代を越えて
今に語りかけます。

文書はパンフレットと説明書として書かれたものを転記し、一部言葉を変えて書いております。

万世特攻平和祈念館の外には、慰霊碑があります。先述した陸軍特攻慰霊碑“よろずよに”、陸軍萬世特攻飛行場建設時殉職者慰霊碑。戦時中とはいえ尊い命がこの風光明媚な万世の地で、もしくは万世の地から散って征く、征った事実は消えるものではありません。文才のない私には上手く言えませんが、今は安らかにお眠り頂きたいと心底思います。

文中に出てきた言葉を説明します。戦闘機の九九式、零式と言う言葉、これは飛行機が開発された年になります。紀元や皇紀○○年という言われ方ですが、この暦日本ができたときが紀元・皇紀元年となり、紀元2600年と言うのが昭和15年、即ち1940年になります。零式と言うのは紀元2600年、九九式は紀元2599年なので昭和14年(1944年)になります。その年の下2桁が○○式になります。

では先へと行きます。知覧というと誰もが聞いたことのある場所だと思います。陸軍の特攻飛行場があった場所、薩摩の小京都と言われる庭園があるところ。今回私はその特攻の史跡を訪ねるべくやってきました。

万世から約20km、時間にすると30分程で到着します。ただ今回は行程の組み方が甘く、予定時刻より大幅に遅れての到着となりました。知覧特攻平和会館の閉館は17:00、到着は16:20。とにかく会館だけは時間厳守なんで小走りに見て行きます。知覧は陸軍の特攻飛行場として大多数の若い隊員の方々が南へと飛んで逝かれて帰らぬ人となりました。その犠牲となられた隊員の方々1,036名すべての写真が飾られています。正直その数だけでも圧倒されます。ただ言葉は悪いですが見学者が多く、万世のようにゆっくり見て浸ってと言う訳には行きませんでした。館内は撮影禁止なのでカメラを抱えてということはありませんが、空いているところをつないで見て行く感じになります。ただどうしても今回は時間のことが頭からはなれず、申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたが、ざっくりと見ただけで時間になってしまいました。

知覧特攻平和会館について紹介させて頂きます。入場すると正面には”特攻隊員を天国にいざなう天女たち”を描いた信楽焼の陶板画が飾られています。その下には”特攻平和会館について”と題した”特攻平和会館の設立主旨”がプレートに刻まれていました。

知覧特攻平和会館の設立趣旨
この特攻平和会館は太平洋戦争の末期、沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。
私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご協カ、ご支援で展示しています。
特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ、雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに平和会館を建立した次第であります。(原文のまま)

館内は撮影禁止ですが、特攻戦没者1,036名(うち知覧から出撃436名)の特攻隊員の遺影が出撃順に掲げられ、彼等が残した遺書や辞世の句、家族への手紙、遺品などが展示されている他、日本でただ一機現存する陸軍三式戦闘機”飛燕(ひえん)”や陸軍四式戦闘機”疾風(はやて)”、海から引き上げられた零戦(海軍零式戦闘機)、そのほか戦闘機や戦争関係資料が展示されています。

折しも昨年2013年末公開の特攻隊員と零式艦上戦闘機(零戦)を取り上げた百田尚樹氏原作の映画“永遠の0”が700万人の観客動員数を記録し、特攻隊員への関心が高まったことにより、特攻ゆかりの地に足を運ぶ方が増えているそうです。ちなみに2014年9月16日火曜日に訪れた私は、本年210,555人目の来館者です。

閉館時間になったので外へと出ます。この知覧特攻平和会館は知覧平和公園の中にあり、その他企画展をしているミュージアム知覧、特攻隊員勇士の像”とこしえに”、母の像”やすらかに”、一式戦闘機”隼”(映画撮影時の復元)、三角兵舎(復元)、特攻平和観音、太刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊記念碑、知覧基地特攻隊の歌々碑、知覧町護国神社、鳥濱トメ顕彰の碑、平和の鐘、慟哭・誓いの碑、アリランの碑、生き残られた隊員の歌碑、”俺は君のためにこそ死にいく”撮影記念碑、航空自衛隊T-3初等練習機等当時を偲ぶものが敷地内にあります。

実は展示を見ていてひとつ思ったことがあります。特別攻撃隊隊員として南の空へと飛んで征かれた隊員の方々の写真が展示されています。ほとんどの方は名前・出身地・現階級・年齢等が記載されていますが、おひとりだけ名前がなく姓と階級のみ記載されていた方がおられました。これから先は推測の域なので聞き流して頂きたいのですが、戦時中の混乱期、戦死の連絡があったとて家族もそれを受け取れるかどうかの保証もなかったと思います。軍の方には勿論記録はされていたのでしょうがやはり混乱の最中、すべての戦死者の方々の情報の中には時代の流れと現実の挾間で埋もれてしまったものもあるのかも知れません。また特攻隊員として征かれた方のほとんどは、残された家族に不利益が及ぶのを防ぐため、個人特定をされる情報を持たなかったと聞いています。知覧では隊員の方々の情報を知る方から、写真に付箋という形で居住地や出身などの情報をつけておられました。これはありがたいことなんだろうとは思います。ただ遺族の方によってはそっとして欲しいと思っておられる方もいらっしゃるように思います。私も母方の祖父が沖縄戦で亡くなっていますが、母はまだ返還前の沖縄に遺族会から一度行った限りでその後は行かなかったようです。祖母は行きたいと言っているうちに亡くなってしまい、母親に”行こう”と何回か誘いましたが乗り気でなかったようで、時間だけが経ってしまい亡くなりました。良くも悪くもなんにでも興味を持ち、思いたったらいてもたってもいられない精神の持ち主が唯一私だけなのかも知れません。もしかすると母親はその場所を訪れることが嫌だったのかも知れません。既に答えを聞ける人はいなくなりました。戦後生まれの私になにがわかるとお叱りを受けるかも知れませんが、万世と知覧の展示を見てその異なる意図を知り少し書かせて頂きました。

永続的な平和を望んでいるのは、特攻隊員として征かれた方、残った方、その後生まれた方すべて共通の考えだと思います。ただそういう考えもあって当たり前のような気がしたので少し書かせて頂きました。もし気に障られた方がいらっしゃったら冒涜するつもりは毛頭ありませんので先に謝っておきます。文章が拙いので上手く伝わっていないところはお許し下さい。

自分なりに調べたことで、一般的に言われていることと違うこともありました。特攻機には片道分の燃料しか積まないで出撃したということですが、どうもそれは違うようです。往復分くらいの燃料は積んでいくことで、様々な理由で帰還を余儀なくされた場合、一旦基地に戻り再度出撃することができるようにしていたこと。これはバンザイ特攻と呼ばれる、「勝ち目がないから突撃して果てる」ことを禁じていた軍規からも伺えます。しかし本当の狙いは別にあり、特攻機に搭載した爆弾の破壊力を増幅させるために、揮発油である燃料を積んでいたということが理由だったと聞きました。いずれにせよ特攻機が”人が乗った爆弾”であることには違いありません。事実を知らなくても知っても答えは闇の中、想像するだけで特攻機に乗って出撃された方の心境はどうだったろうと思う気持ちは増すばかりです。

本題に書かれていることの補足として、2007年5月に公開された、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」のことについて少し述べたいと思います。石原慎太郎氏脚本のこの映画をこの旅行記を書いているうちに見ることができました。調べた内容と照らし合わせると、数人の実在の方はそのままのお名前で出ておられますが、あとは実在の方々をモデルにしてのフィクションです。どうしても映画という性格上、ストーリー性を持たせるためのような気がしますが、鳥濱トメさんの目線からということであれば、ノンフィクションとして仕上げるのもありではと思います。一度流すかたちで見たあと、登場人物一人ひとりを実在の方と照らしあわせてみると、この映画の素晴らしさ、すなわちこの特攻という悲劇と大戦末期の時代の流れというものが本当に合致しているということがわかります。「永遠の0」のブレイクが特攻史跡巡りに拍車をかけたと言う話は先述しましたが、この「俺は、君のためにこそ死ににいく」は、史実をもとに作り上げられていること、即ち映画のストーリーがそのまま時代の流れと受け止められる点では、陸軍の特攻を伝える方法のひとつだと思います。

特攻は決して美化されるものではないと思います。しかし戦後の平和な時代に産まれ育つと、わずか69年前の事実に向き合おうとしない、また向き合うことが変な人と思われるのが今のご時世ではないでしょうか。映画の世界と過去の事実を一緒にしているとお叱りを受けるかも知れませんが、私は関心を持たないことが一番問題ではと思います。ひょんなきっかけで儚く短くも一生懸命生きて征かれた多くの若者のことを知り、その足跡を辿って史跡に足を運び、史実を見て、心で何かを感じることができれば、過去の過ちを現在に生かすことができ、繰り返すことがないようにできるに違いないと思います。

旅行記とは内容がかけ離れてしまいましたが、この拙い文章がそのきっかけになればと切に思い、この万世と知覧の陸軍特攻史跡巡りのくくりとします。

以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~

【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~
http://4travel.jp/travelogue/10933914

【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~
http://4travel.jp/travelogue/10963283

【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023

【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~
http://4travel.jp/travelogue/10974454

【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537

【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699

【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990539

【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~
http://4travel.jp/travelogue/11015120

※未完成
【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~
http://4travel.jp/travelogue/10964521

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
レンタカー JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)

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あみんちゅ戦争を学ぶ旅

この旅行記へのコメント (3)

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  • はまちゃんさん 2015/07/02 19:14:47
    胸が熱くなり涙をこらえる事が出来ません
    6年前に知覧特攻平和会館を訪れたときに、特攻隊で飛び立つ前に両親に宛てた手紙や遺書などを見て、彼らがどの様な気持ちでこれらをしたためたかを考えると、本当に胸が熱くなり涙をこらえる事が出来ませんでした。現在の日本の繁栄がこのような武人達の尊い犠牲のもとに成り立っているということを、私たちは絶対に忘れてはならないと思いました。
    “たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん”の旅行記を見させてもらって、また、あのときの体験を思い出しました。
  • 墨水さん 2014/10/11 23:57:31
    沖縄へ。
    初めまして。
    万世・知覧へ往って、思うと事有る様子には十分解りました。
    総ては、沖縄の救援のためなんですね。
    沖縄では絶望的状況に有って、5月には組織的戦闘は不可能になりました。
    絶望的状況の中でも、将来の為に其の身を献げてくれた人達が居たんです。
    でも、今の沖縄の世論は、「本土は、沖縄を見捨てた。」とか「何もしてくれなかった。」とか言う始末です。
    彼らの献身を認めない事が「平和」だと沖縄は考えています。
    「平和」の考え方も色々有る事も、知っておくべきです。

    私は、特攻隊員達の礎で、今日の日本の繁栄が有ると考えていますけどね。

    感動してくるのも良いんだけれど、ハンドルネーム何とかならない?。
    「人を食った」ネーミングに、「ホントにこの人は万世・知覧で感動してきたんかいな?。」と、思ってしまいます。
    感動を伝えたいの?、おちゃらけにしたいの?。
    私は、どちらでも対応しますよ。(手厳しく。)
    墨水。
  • カスピ海さん 2014/10/10 21:22:56
    よろずよに
    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん、まゆみさん こんばんは

    万世と子犬を抱く少年兵の写真の背景をはじめて知りました。
    涙があふれてとどめることができなかったです。
    思えば隣国の先祖に気兼ねをするあまり自らの先祖である日本の英霊を軽視しすぎたという自責もわいてきました。

    > 英霊の魂魄(こんぱく)を鎮め、その偉勲を讃えんがために

    未来の日本を担う私達へむけての伝言にしっかり耳を傾けて考えていかなくてはと思います。
    ほんとうに、渾身の旅行記をありがとうございます。
    カスピ海

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

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