2014/09/15 - 2014/09/18
43位(同エリア352件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
さんふらわあで志布志に入り、そこからレンタカーを利用して鹿児島の特攻戦跡を巡る旅としてまとめるつもりでいましたが、史跡や資料館等戦跡を回ったことをひとつにまとめきれないことを感じました。そのため番外編として、その①旧陸軍の万世・知覧編、その②旧海軍の鹿屋・串良・笠之原編として見て聞いたことを書いてみます。一部自分の拙い言葉で考えを述べるところがありますので、なにか思われることがありましたらご指摘下さい。
こちらでは陸軍特別攻撃隊基地の史跡として、万世・知覧のことを書いています。
2014年9月16日火曜日
志布志を出てから4時間半でやっと本日の第一目的地、万世(ばんせい)特攻平和祈念館へと到着します。志布志から154.4km、机上の予定より約15km程余分に走りました。
まず近づいて思ったことは凄く厳かな場所であるということ。石灯籠が所狭しと並んでいます。国道270号線から入って行くとの祈念館の入口に着きますが、駐車場はそのまま進んで祈念館を回り込む形で入ります。元々万世特攻平和祈念館は静かに戦争の悲惨さを伝える場所として運営されているため、同じく陸軍の特攻基地であった知覧に比べ知名度が低いと言われています。わからなくもない理由なのですが、やはり平和のありがたみを再検証する場所として必ず訪れたい場所だということは間違いないと思います。
車を停めて祈念館の建物に沿って玄関へと向かいます。正面には”よろずよに”他様々な慰霊碑が並んでいます。それを写真に収めながらこの万世特攻平和祈念館の建物を少し離れて見てみます。建物の屋根は隊員の方々が空への憧れの練習機”赤とんぼ”の複葉型をイメージし、大屋根に平和を祈る合掌の姿とををシンボル化したユニークな”複葉合掌型”の形をしていますのでそれを確認してみます。写真で撮るとわかり辛いように思いますが、まさしく言われている通りでした。そして祈念館に入場します。万世特攻平和祈念館は一階は撮影OKですが、二階は個人所有物も多く著作権のこともあり撮影禁止になっています。入館料の300円を払って中へと入ります。年表等その戦時中を振り返るものがたくさんあります。でも一番目を引くものは多分多くの方が知っておられる一枚の写真です。”仔犬(子犬)を抱く少年兵”、昭和20年(1945年)5月26日に撮影されたものだそうです。この写真は知覧で撮影されたものと思われているようですが、実際には万世で撮影されたものだそうです。翌日早朝写真に写っておられる若き特攻隊員の方々は南方へと出撃され、帰らぬ人となりました。動物は癒しとよく言われますが、この写真とても2時間後(実際は悪天候で翌日)に死に征く運命を背負っておられるようには全く思えない屈託のない笑顔をされているように思います。もちろん心の中までは見ることはできないのでなんとも言いようがないところもありますが、あと数ヶ月終戦が早ければ落命されることもなかったのかもと思うとやるせない気持ちになりました。
少年の名前は荒木幸雄伍長、第七十二振武隊・九九式襲撃機の隊員として昭和20年5月27日早朝に出撃し、沖縄金武湾の東50km付近でアメリカのレーダー駆逐艦”ブレイン”に突撃し戦死されました。享年17歳。戦死により階級特進され最終階級は陸軍少尉とのことです。群馬県桐生市のご出身で陸軍少年飛行兵に応募し、優秀な成績で太刀洗陸軍飛行学校生徒隊に入隊、戦局の悪化でわずか半年の習得期間にもかかわらず、学問と飛行訓練に優れた才能を発揮され、卒業時には最高栄誉とされる陸軍航空総監賞を受賞されています。このことでも十分優秀な方だったことは想像がつきます。しかしその優秀さが特別攻撃隊員としてかわれたことに時勢の無常を感じずにはおられません。
荒木幸雄さんが万世から出撃されたことを証明するご家族への手紙(ハガキ)が、2階展示室にありましたのでご紹介します。
陸軍伍長 荒木幸雄
最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら
出撃当日(昭和20年5月27日)の消印が押してあり、宿舎の住所が川辺郡加世田町飛龍荘内と書かれていたことで、荒木伍長はこの万世飛行場から出撃されたという証になりました。
写真に写っておられる第七十二振部隊神風特別攻撃隊隊員の方ですが、少年飛行兵第十五期生の同期だったそうです。前列左から早川勉 伍長(18歳2ヶ月・三重県四日市市出身)、荒木幸雄 伍長(17歳2ヶ月群馬県桐生市出身)、千田孝正 伍長(18歳6ヶ月・愛知県丹羽郡出身)、後列左から高橋要 伍長(18歳7ヶ月・東京都出身)、高橋峯好 伍長(17歳4ヶ月・神奈川県横浜市出身)(敬称略)とホントあどけなさが残っている普通の少年です。もし現在(2014年現在)ご存命ならば86・7歳、現役で活躍されていてもおかしくない年齢です。皆様戦死による階級特進で少尉が最終階級となられています。大変失礼かとは思いますが、あまり個人のことは調べられないため、わかる範囲でのご紹介をさせて頂きます。
【高橋峯好伍長辞世の手紙】
父さん、母さん、
長らくお世話をかけました
峯好もいよいよ出撃します
ではくれぐれも御身体を大切に
高橋峯好
出撃前夜 五月二十六日
【千田孝正伍長辞世の手紙】
必沈 轟沈 又轟沈
吾が願ひ 酒のみて
我必沈確実なり
快なるや我が体当たり
見よ 沖縄の空と海を
我法名には
「純」を忘れられないように願う
「ああ哀しいかな」は必要なし
何も俺は哀しいわけは一つもない
唯 喜びで一杯なり
それから我には遺骨だなんてない
我が身の者は残しません
大体俺なんか墓地なんて勿体ない
俺はむしろ墓地より拍手の邦画好きだ
孝正の遺ハイは仏壇より神様棚のほうがいいかも知れぬ
次に過去を語る
何故俺は高二から工業高をやめたか
何故川崎航空機に入ったか
一に飛行士になりたかったので
そうして俺は幸せすぎた
親に対して申し訳なし
用語説明です。陸軍少年飛行兵(略して少飛とも言われる)とは、旧陸軍の航空兵科現役下士官となるため、10代の男子志願者から選抜されて陸軍の航空関係諸学校で教育を受ける者のことを指します。1933年(昭和8年)4月に制度の原点となる陸軍飛行学校生徒が定められ、1940年(昭和15年)4月より正式に「少年飛行兵」の名称となり太平洋戦争(大東亜戦争)終結まで存在しました。生徒は在校中は兵籍にある軍人ではなく、卒業後に上等兵の階級を与えられて部隊に配属され、およそ1年の訓練と下士官候補者勤務を経て現役航空兵伍長に任官されました。この伍長という階級が、"子犬を抱いた少年兵"の写真で屈託のない笑顔をされている方々のものです。(wiki改)
ちなみに階級がすべてではありませんが、「兵籍にある軍人ではない」というのは飛行学校の生徒で訓練中に事故で落命したとしても戦死の扱いにはならないため、残された遺族に恩給が支払われないことを意味します。
陸軍の階級について簡単に説明しますと、兵または兵卒として下位から二等兵→一等兵→上等兵→兵長、下士官として伍長→軍曹→曹長、それ以上の士官(将校)としての尉官が准尉(准士官)→少尉→中尉→大尉、佐官として少佐→中佐→大佐、将官(高級将校)として少将→中将→大将(その上の元帥というのは例外のようです)となります。特攻隊員として逝かれた方の多くは下士官の階級です。先述した少年飛行兵のように学校を出て上等兵として任官されたのち下士官候補者としての勤務のあと伍長に任官されるというのが一般的だったようですが、その階級と命を引き換えなければいけなかったご時世にいささか憤りを感じずにはいられません。
館内中央には、平成4年7月に万世沖より引き上げられた海軍の零式三座偵察機が展示されています。この機には機銃、天測器そして極秘のレーダーも備え付けられていました。この機は第634海軍航空隊・偵察302飛行隊の所属機で、昭和20年6月4日福岡の基地(玄海基地)から沖縄方面の夜間索敵のため発進し、帰途に敵機の追撃を受け応戦し、燃料切れで吹上浜沖に不時着、塔乗員3名は田布施海岸に泳ぎ着いた。機体は平成4年8月に引き揚げられたものを譲り受けられたそうです。搭乗されていた方は偵察員(機長)の矢島萬平中尉、操縦員の中野貞利上飛曹、通信員の小川金蔵上飛曹(敬称略)で海軍所属ですが、この機に関しては地理的なものも考慮され、万世特攻平和祈念館に展示されることになりました。50年もの間海中に沈んでいたため損傷は大変激しいものであったそうですが、現海上自衛隊鹿屋航空工作所の尽力で復元されたそうです。
写真で切り取った軍服と飛行服は、東條正男少尉(戦死後中尉)のもので、ご遺族の末弟正年氏の寄贈によるものだそうです。東條正男少尉(敬称略)は、昭和十七年夏飛行第六十六戦隊第一中隊付操縦将校として、当時の満州間島省東盛湧飛行場に着任、その後、昭和十九年フイリピンのバラワン島で対潜哨戒のため、夜間離陸時に壮烈な戦死を遂げられました。この軍服等を寄贈された末弟の正年氏の話によりますと、フイリピンで戦死してなければ、飛行第六十六戦隊が万世に展開されたことに伴い、きっと万世飛行場から出撃していたであろうとのことでした。
同じく1階に展示されているものに旧日本陸軍九八式直協偵察機のエンジン・プロペラと機関砲があります。これは昭和59年(1984年)1月に茨城県鹿島灘沖2,000m、水深25mに沈んでいたものが操業中の漁船の網に引っかかり引き上げられ、元隊員の方々の尽力により拾得者から旧加世田市(現南さつま市)が無償で譲り受けたものだそうです。戦後39年の眠りを経てこの場所で戦争の悲惨さを無言で後世に伝える第二の役目を果たしてくれることに感謝の念を込めたいと思います。
二階には特別攻撃隊として征かれた隊員の方々の遺書や遺品が展示されています。撮影禁止なので写真はありませんが、実は私自身血染めの血判状などを見ているうちに、展示品の無言の訴えかけに直視できなくなりました。私はなにを求めてこの万世に来たのか?なにを知りたかったのか?それは興味本位だったのではないだろうか?自問自答している自分に、見る資格はないのではと思うようになっていたからです。一通り見てきましたが、自分の言葉で説明ができないような気がしてきました。なので万世特攻平和祈念館の二階展示室のものについては、次回以降自分の言葉でまとめられる時にしたいと思います。
最後に旧陸軍万世飛行場の歴史を紹介します。日本三大砂丘の吹上浜に昭和19年の終わり頃、陸軍最後の飛行場が建設されました。しかし終戦間際のわずか4か月しか使われなかったので“幻の特攻基地”といわれています。そしてこの万世特攻基地から17歳の少年飛行兵を含め約200人の特攻隊員が祖国を護るため沖縄に出撃していきました。特攻隊員には遺骨はありません。しかし、この世に書き残した遺書があります。その“至純の心”を綴った『血書』や遺品の本物を二階に、一階には吹上浜沖から引き揚げられた日本にたった一機しか残っていない“零式三座水上偵察機”を展示してあります。
平和祈念館の外観は少年飛行兵たちが大空に憧れ初めて飛んだ練習機“赤とんぼ”複葉型を模し、大屋根に平和を祈る合掌をイメージした“複葉合掌型”なっています。慰霊碑は、昭和47年に特攻隊の慰霊顕彰目的に建設され、旧町名“万世”をも意味する“よろずよに”と刻銘されています。
平和への祈りをこめて 広大で美しい砂丘を 松に囲まれた吹上浜
この地にかつて 酷(さび)しく悲しい過去がありました
陸軍最後の特攻基地“万世飛行場”
“戦争とは”
“祖国とは”
残された品々は、時代を越えて
今に語りかけます。
文書はパンフレットと説明書として書かれたものを転記し、一部言葉を変えて書いております。
万世特攻平和祈念館の外には、慰霊碑があります。先述した陸軍特攻慰霊碑“よろずよに”、陸軍萬世特攻飛行場建設時殉職者慰霊碑。戦時中とはいえ尊い命がこの風光明媚な万世の地で、もしくは万世の地から散って征く、征った事実は消えるものではありません。文才のない私には上手く言えませんが、今は安らかにお眠り頂きたいと心底思います。
文中に出てきた言葉を説明します。戦闘機の九九式、零式と言う言葉、これは飛行機が開発された年になります。紀元や皇紀○○年という言われ方ですが、この暦日本ができたときが紀元・皇紀元年となり、紀元2600年と言うのが昭和15年、即ち1940年になります。零式と言うのは紀元2600年、九九式は紀元2599年なので昭和14年(1944年)になります。その年の下2桁が○○式になります。
では先へと行きます。知覧というと誰もが聞いたことのある場所だと思います。陸軍の特攻飛行場があった場所、薩摩の小京都と言われる庭園があるところ。今回私はその特攻の史跡を訪ねるべくやってきました。
万世から約20km、時間にすると30分程で到着します。ただ今回は行程の組み方が甘く、予定時刻より大幅に遅れての到着となりました。知覧特攻平和会館の閉館は17:00、到着は16:20。とにかく会館だけは時間厳守なんで小走りに見て行きます。知覧は陸軍の特攻飛行場として大多数の若い隊員の方々が南へと飛んで逝かれて帰らぬ人となりました。その犠牲となられた隊員の方々1,036名すべての写真が飾られています。正直その数だけでも圧倒されます。ただ言葉は悪いですが見学者が多く、万世のようにゆっくり見て浸ってと言う訳には行きませんでした。館内は撮影禁止なのでカメラを抱えてということはありませんが、空いているところをつないで見て行く感じになります。ただどうしても今回は時間のことが頭からはなれず、申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたが、ざっくりと見ただけで時間になってしまいました。
知覧特攻平和会館について紹介させて頂きます。入場すると正面には”特攻隊員を天国にいざなう天女たち”を描いた信楽焼の陶板画が飾られています。その下には”特攻平和会館について”と題した”特攻平和会館の設立主旨”がプレートに刻まれていました。
知覧特攻平和会館の設立趣旨
この特攻平和会館は太平洋戦争の末期、沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。
私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご協カ、ご支援で展示しています。
特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ、雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに平和会館を建立した次第であります。(原文のまま)
館内は撮影禁止ですが、特攻戦没者1,036名(うち知覧から出撃436名)の特攻隊員の遺影が出撃順に掲げられ、彼等が残した遺書や辞世の句、家族への手紙、遺品などが展示されている他、日本でただ一機現存する陸軍三式戦闘機”飛燕(ひえん)”や陸軍四式戦闘機”疾風(はやて)”、海から引き上げられた零戦(海軍零式戦闘機)、そのほか戦闘機や戦争関係資料が展示されています。
折しも昨年2013年末公開の特攻隊員と零式艦上戦闘機(零戦)を取り上げた百田尚樹氏原作の映画“永遠の0”が700万人の観客動員数を記録し、特攻隊員への関心が高まったことにより、特攻ゆかりの地に足を運ぶ方が増えているそうです。ちなみに2014年9月16日火曜日に訪れた私は、本年210,555人目の来館者です。
閉館時間になったので外へと出ます。この知覧特攻平和会館は知覧平和公園の中にあり、その他企画展をしているミュージアム知覧、特攻隊員勇士の像”とこしえに”、母の像”やすらかに”、一式戦闘機”隼”(映画撮影時の復元)、三角兵舎(復元)、特攻平和観音、太刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊記念碑、知覧基地特攻隊の歌々碑、知覧町護国神社、鳥濱トメ顕彰の碑、平和の鐘、慟哭・誓いの碑、アリランの碑、生き残られた隊員の歌碑、”俺は君のためにこそ死にいく”撮影記念碑、航空自衛隊T-3初等練習機等当時を偲ぶものが敷地内にあります。
実は展示を見ていてひとつ思ったことがあります。特別攻撃隊隊員として南の空へと飛んで征かれた隊員の方々の写真が展示されています。ほとんどの方は名前・出身地・現階級・年齢等が記載されていますが、おひとりだけ名前がなく姓と階級のみ記載されていた方がおられました。これから先は推測の域なので聞き流して頂きたいのですが、戦時中の混乱期、戦死の連絡があったとて家族もそれを受け取れるかどうかの保証もなかったと思います。軍の方には勿論記録はされていたのでしょうがやはり混乱の最中、すべての戦死者の方々の情報の中には時代の流れと現実の挾間で埋もれてしまったものもあるのかも知れません。また特攻隊員として征かれた方のほとんどは、残された家族に不利益が及ぶのを防ぐため、個人特定をされる情報を持たなかったと聞いています。知覧では隊員の方々の情報を知る方から、写真に付箋という形で居住地や出身などの情報をつけておられました。これはありがたいことなんだろうとは思います。ただ遺族の方によってはそっとして欲しいと思っておられる方もいらっしゃるように思います。私も母方の祖父が沖縄戦で亡くなっていますが、母はまだ返還前の沖縄に遺族会から一度行った限りでその後は行かなかったようです。祖母は行きたいと言っているうちに亡くなってしまい、母親に”行こう”と何回か誘いましたが乗り気でなかったようで、時間だけが経ってしまい亡くなりました。良くも悪くもなんにでも興味を持ち、思いたったらいてもたってもいられない精神の持ち主が唯一私だけなのかも知れません。もしかすると母親はその場所を訪れることが嫌だったのかも知れません。既に答えを聞ける人はいなくなりました。戦後生まれの私になにがわかるとお叱りを受けるかも知れませんが、万世と知覧の展示を見てその異なる意図を知り少し書かせて頂きました。
永続的な平和を望んでいるのは、特攻隊員として征かれた方、残った方、その後生まれた方すべて共通の考えだと思います。ただそういう考えもあって当たり前のような気がしたので少し書かせて頂きました。もし気に障られた方がいらっしゃったら冒涜するつもりは毛頭ありませんので先に謝っておきます。文章が拙いので上手く伝わっていないところはお許し下さい。
自分なりに調べたことで、一般的に言われていることと違うこともありました。特攻機には片道分の燃料しか積まないで出撃したということですが、どうもそれは違うようです。往復分くらいの燃料は積んでいくことで、様々な理由で帰還を余儀なくされた場合、一旦基地に戻り再度出撃することができるようにしていたこと。これはバンザイ特攻と呼ばれる、「勝ち目がないから突撃して果てる」ことを禁じていた軍規からも伺えます。しかし本当の狙いは別にあり、特攻機に搭載した爆弾の破壊力を増幅させるために、揮発油である燃料を積んでいたということが理由だったと聞きました。いずれにせよ特攻機が”人が乗った爆弾”であることには違いありません。事実を知らなくても知っても答えは闇の中、想像するだけで特攻機に乗って出撃された方の心境はどうだったろうと思う気持ちは増すばかりです。
本題に書かれていることの補足として、2007年5月に公開された、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」のことについて少し述べたいと思います。石原慎太郎氏脚本のこの映画をこの旅行記を書いているうちに見ることができました。調べた内容と照らし合わせると、数人の実在の方はそのままのお名前で出ておられますが、あとは実在の方々をモデルにしてのフィクションです。どうしても映画という性格上、ストーリー性を持たせるためのような気がしますが、鳥濱トメさんの目線からということであれば、ノンフィクションとして仕上げるのもありではと思います。一度流すかたちで見たあと、登場人物一人ひとりを実在の方と照らしあわせてみると、この映画の素晴らしさ、すなわちこの特攻という悲劇と大戦末期の時代の流れというものが本当に合致しているということがわかります。「永遠の0」のブレイクが特攻史跡巡りに拍車をかけたと言う話は先述しましたが、この「俺は、君のためにこそ死ににいく」は、史実をもとに作り上げられていること、即ち映画のストーリーがそのまま時代の流れと受け止められる点では、陸軍の特攻を伝える方法のひとつだと思います。
特攻は決して美化されるものではないと思います。しかし戦後の平和な時代に産まれ育つと、わずか69年前の事実に向き合おうとしない、また向き合うことが変な人と思われるのが今のご時世ではないでしょうか。映画の世界と過去の事実を一緒にしているとお叱りを受けるかも知れませんが、私は関心を持たないことが一番問題ではと思います。ひょんなきっかけで儚く短くも一生懸命生きて征かれた多くの若者のことを知り、その足跡を辿って史跡に足を運び、史実を見て、心で何かを感じることができれば、過去の過ちを現在に生かすことができ、繰り返すことがないようにできるに違いないと思います。
旅行記とは内容がかけ離れてしまいましたが、この拙い文章がそのきっかけになればと切に思い、この万世と知覧の陸軍特攻史跡巡りのくくりとします。
以下興味が湧いたらご覧下さい。
~戦跡を巡る旅シリーズ~
【通番002】さんふらわあで航(い)く鹿児島海軍特攻戦跡を巡る旅~笠之原・串良・鹿屋編~
http://4travel.jp/travelogue/10933914
【通番003】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之①~豊見城・旧海軍司令部壕編~
http://4travel.jp/travelogue/10963283
【通番004】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之②~宜野湾・嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023
【通番005】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅滋賀壱之①~滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~
http://4travel.jp/travelogue/10974454
【通番006】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之①~碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537
【通番007】【通番007】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之②~武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699
【通番008】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅福岡壱之③~筑前町立大刀洗平和記念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990539
【通番009】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅鹿児島その弐~喜界島戦争史跡:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~
http://4travel.jp/travelogue/11015120
※未完成
【通番010】あみんちゅ戦跡を訪ねる旅沖縄壱之③~石垣島・八重山平和祈念会館とバンナ公園編~
http://4travel.jp/travelogue/10964521
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 船 レンタカー JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
PR
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万世特攻平和祈念館、入場券。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世特攻平和記念館のパンフレット、表面。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世特攻平和記念館のパンフレット、裏面。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世特攻平和祈念館入場時に、入場券・パンフレットと一緒に頂いた旧陸軍万世飛行場の歴史について。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世特攻平和祈念館入場時に、入場券・パンフレットと一緒に頂いた旧陸軍万世飛行場の歴史について(裏面)。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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駐車場から見た万世特攻平和祈念館。側面になりますが、建物の右側にある三角形が、正面から見ると手を合わせているように見えるシンボルです。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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正面から見た万世特攻平和祈念館。建物の屋根は特攻隊員として逝かれた方が、パイロットとして生まれて初めて飛んだ憧れの練習機”赤とんぼ”の複葉型を模し、大屋根に平和を祈る合掌をシンボル化したユニークな”複葉合掌型”の形をしています。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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ちょっとアングルを変えてみました、万世特攻平和祈念館。写真右手に“よろずよに”の慰霊碑があります。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世特攻平和祈念館です。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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陸軍萬世特攻飛行場建設時殉職者・戦没者慰霊碑です。特別攻撃隊員として、戦闘員として、また飛行場建設時に殉職された多くの方々の御霊を慰霊しています。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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萬世陸軍特別振武隊・航空戦隊戦没者慰霊碑と陸軍萬世特攻飛行場建設時殉職者・戦没者慰霊碑の説明書き。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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陸軍萬世飛行場建設時の殉職者のお名前が刻んであります。万世特攻平和祈念館にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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萬世特攻慰霊碑"よろずよに"の左側、特攻震武隊戦没者が刻銘されている石板です。万世特攻平和祈念館にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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萬世特攻慰霊碑"よろずよに"の右側、飛行第六十六戦隊、飛行五十五戦隊、第十九航空通信連隊、海軍第一正統隊の戦没者のお名前が刻まれている石板です。万世特攻平和祈念館にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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萬世特攻慰霊碑"よろずよに"の碑とそのまわりの様子。
"よろずよに"の由来について、
平和への祈りをこめて 広大で美しい砂丘を 松に囲まれた吹上浜
この地にかつて 酷(さび)しく悲しい過去がありました
陸軍最後の特攻基地“万世飛行場”
“戦争とは”
“祖国とは”
残された品々は、時代を越えて
今に語りかけます。万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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萬世特攻慰霊碑"よろずよに"の碑とそのまわりの様子。両脇には戦没者の方々のお名前が刻んである石板があります。
万世飛行場からの出撃数と戦死者数
特攻振武隊 29回 121名
第六十六戦隊 19回 72名
第五十五戦隊 5回 6名
その他 2名
合計 201名
万世特攻平和祈念館にて。万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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イチオシ
萬世特攻慰霊碑"よろずよに"、慰霊碑のアップ。
話題になることもありますが、この慰霊碑自体は沖縄の方角(南)を向いているますが、搭乗員は東を向いています。これは再会を誓った九段の方角だという説と、鹿児島が日本の西端なので故郷の方角を向いているという説があります。ただふるさと説はちょっと無理なところもあります。
万世特攻平和祈念館にて。万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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萬世特攻慰霊碑"よろずよに"の由来の石碑。
昭和19年(1944年)、太平洋戦争の戦局はとみに悪化し、すでに決定的段階を迎えんとしていた。ここ加世田市吹上浜の地に、戦勢転換の神機を期すべく地元民学徒ら軍民一致の協力によって、本土防衛沖縄決戦の基地萬世飛行場が建設された。
昭和20年(1945年)3月28日より終戦に至るまで、陸軍特別攻撃隊振武体の諸隊、飛行第66戦隊、飛行第55戦隊の若き勇士たちは、祖国護持の礎たらんと、この地より雲表の彼方へと飛び立った。一機また一機と。征きて帰らざる者あまた。或いは空中に散華。或いは自爆。壮絶にして悲絶。その殉国の至誠は鬼神もこれに哭(こく)するであろう。
終戦以来幾星霜、ここに祖国は、その輝かしき復興をとげた。われら生き残りたる者と心ある人々は、英霊の魂魄(こんぱく)を鎮め、その偉勲を讃えんがために、ここにこれを建立する。
昭和47年(1972年)5月29日(碑文より抜粋)万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世特攻平和祈念館の"子犬を抱いた少年兵"写真。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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この写真の方々は第七二振武隊員十名のうち、少年飛行兵五名の方で、萬世飛行場で撮影。
昭和二十年五月二十六日午後二時頃撮影され、沖縄が天候不良で出撃延期となり、翌日の昭和二十年五月二十七日午前五時萬世飛行場より出撃・散華されました。
(原文のまま)
万世特攻平和祈念館1階にて。万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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九九式襲撃機の説明書き。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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九九式襲撃機の説明書き。万世特攻平和祈念館1階展示室にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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第七三振武隊木原愛夫兵長のノート。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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250キロ爆弾を装着した特攻機の九九式襲撃機(イメージ)。
万世特攻平和祈念館1階展示室にて。万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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竹製落下燃料補助タンクの説明書き。万世特攻平和祈念館1階展示室にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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竹製落下燃料補助タンク。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世陸軍飛行場の米軍による航空写真。万世特攻平和祈念館1階展示室にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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万世特攻平和祈念館の設立について。
千羽鶴の重みを感じます。万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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【平和祈念館設置にあたって】
この平和祈念館は、かつての熾烈を極めた太平洋戦争の末期、本土防衛、沖縄決戦の第一線基地として建設された「万世陸軍飛行場」の一角にあたり、ここから多くの若い隊員たちが、祖国護持の礎たらんと若き至純の使命感と情熱をもって、南溟の大空へ飛び立って征った悲痛な思い出の地である。
特攻隊員には遺骨はない。しかし書き残されたものはある。航空隊員にとって爆弾を抱いて最後に飛び立った基地「万世」(ばんせい)が戦死の地なのである。この地に、かつて大空に憧れ飛んだ懐かしい複葉練習機を型どり、全国の人びとの強力を得て建設されたこの平和祈念館に、特攻隊員の遺影や遺書を安置し、展示することは誠に有意義なことというべきである。
今日の日本の平和と繁栄は、散華された英霊の犠牲の上に築かれたものであり、平和は血と涙によってもたらされたものであることを正しく後世に伝えていくことは、残された私達の責務であると信じ、平和への祈りを新たにしたいものである。
万世特攻平和祈念館1階展示室にて。万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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見辛くて申し訳ありません。万世沖海中より引き上げられた海軍ゼロ零式三座偵察機について書いてあります。万世特攻平和祈念館一階展示室にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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同じく見辛くて申し訳ありません。万世沖海中より引き上げられた海軍零式三座偵察機が万世特攻平和祈念館にやってきた由来が書いてあります。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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平成4年7月に万世沖より引き上げられた海軍の零式三座偵察機が展示されています。この機には機銃、天測器そして極秘のレーダーも備え付けられていました。この機は第634海軍航空隊・偵察302飛行隊の所属機で、昭和20年6月4日福岡の基地(玄海基地)から沖縄方面の夜間索敵のため発進し、帰途に敵機の追撃を受け応戦し、燃料切れで吹上浜沖に不時着、塔乗員3名は田布施海岸に泳ぎ着いた。機体は平成4年8月に引き揚げられたものを譲り受けられたそうです。搭乗されていた方は偵察員(機長)の矢島萬平中尉、操縦員の中野貞利上飛曹、通信員の小川金蔵上飛曹(敬称略)で海軍所属ですが、この機に関しては地理的なものも考慮され、万世特攻平和祈念館に展示されることになりました。50年もの間海中に沈んでいたため損傷は大変激しいものであったそうですが、現海上自衛隊鹿屋航空工作所の尽力で復元されたそうです。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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イチオシ
別方向より、引き上げられた海軍零式三座偵察機。万世特攻平和祈念館にて。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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海中に沈んでいた時、並びに引き上げられた時の模様。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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海中に沈んでいた時、並びに引き上げられた時の模様。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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コクピットに残っていた木札。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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引き上げられた零式三座偵察機に搭乗されていた3名の隊員の方々のご紹介。偵察員(機長)の矢島萬平中尉、操縦員の中野貞利上飛曹、通信員の小川金蔵上飛曹(敬称略)。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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イチオシ
万世沖より引き上げられた海軍の零式三座偵察機。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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フィリピンバラワン島対潜哨戒中に戦死された東條正男少尉(戦死後中尉)のお姿。ご遺族が飛行服と軍服を提供されました。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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東條正男少尉の飛行服と軍服。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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旧日本陸軍九八式直協偵察機のエンジン・プロペラ・機関砲のいわれ。
昭和59年1月、茨城県鹿島沖2,000m、水深25mの海底から、操業中の漁船の網にかかり引き上げられたもので、旧陸軍の特攻機をして使用された機種の1つであったことから、旧隊員の苗村七郎、佐藤平蔵、遠藤武、阿尾新次郎の4氏が橋渡し役となり、拾得者の篠塚誠治(誠栄丸船長)氏から旧加世田市が無償で譲り受けたものである。(原文のまま)万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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イチオシ
引き上げられた旧特攻機(と同機種)のエンジン・プロペラ・機関砲。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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最後に敬意をこめて万世特攻平和祈念館の文字を撮ります。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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イチオシ
万世特攻平和祈念館の"子犬を抱いた飛行兵"写真。あえて万世と知覧のかけ橋としてこの位置に置きます。
万世特攻平和祈念館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館入場券、表面。
折しも昨年2013年末公開の特攻隊員と零式艦上戦闘機(零戦)を取り上げた百田尚樹氏原作の映画“永遠の0”が700万人の観客動員数を記録し、特攻隊員への関心が高まったことにより、特攻ゆかりの地に足を運ぶ方が増えているそうです。
ちなみに2014年9月16日火曜日に訪れた私は、本年210,555人目の来館者です。
(チケットの裏面にあるシリアルNo.のこと)知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館入場券の裏面。
平成26年度の210,555のシリアルナンバー入り。知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館のパンフレット、表面。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館のパンフレット、裏面。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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イチオシ
知覧特攻平和会館入口ロビーにある、"知覧鎮魂の賦"の壁画。高さ3m×幅4.4mの信楽焼きの陶板壁画です。宮崎市在住の仲矢勝好氏画だそうです。
紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を6人の飛天(天女)が救い出し昇天させる姿を表したものです。絵心がまったくない私にもこの絵が語りかける恒久平和を願う想いは伝わってきました。知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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子犬を抱く少年兵、知覧特攻平和会館展示品より抜粋。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館展示の零式戦闘機。屋外より撮影。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館2階の展示品の抜粋。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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陸軍三式戦闘機「飛燕」、知覧特攻平和会館展示品。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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手を振りて 知覧翔び征く特攻機 君の笑顔に昭和責めらるる 木香
平成三年三月三日 航空局第十四期操縦生 特攻隊要員
伊集院町 黒木範男・西都市 沼口次男 建之
特攻隊員として生き残られた方の追魂の歌碑です。心中複雑なことお察し致します。知覧平和公園 公園・植物園
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アリランの歌碑。
アリランの歌聲とほく 母の国に念い残して散りし花々
朝鮮半島出身の特攻隊員のことを歌ったものだそうです。
朝鮮半島でも始まった志願兵の中に特攻隊員を志す方もいらっしゃいました。光山文博こと卓 庚鉉(タク・キョンヒョン)少尉(戦死により陸軍大尉)、その人です。特攻前夜。富谷食堂での話の中、鳥濱トメさんが普段寡黙な光山少尉に「今夜が最後だから、光山さんも歌いませんか?」と尋ねたところ、「自分は朝鮮人です。最後だから私の故郷の歌を、お母さん聞いて下さい。」とおっしゃってアリランを歌われたそうです。
時代背景を含めすごく難しいことだとは思います。また心の底までは見えないので憶測でしかありませんが、最後に言われたお母さんとは、鳥濱トメさんであり、遠い祖国のお母さんそのものであったように思います。
なおこの碑の設立に関してはあまり書かれているものがなく一件新聞記事から抜粋したものを紹介します。
朝鮮半島の遺族は肩身の狭い思いをしていると知った千葉県在住の舞踊家江藤勇さんが、"日本人こそ真心込めて慰霊すべき"と知覧町の郷土史家村永馨さんに協力要請し実現したものがこのアリランの歌碑であります。知覧平和公園 公園・植物園
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光山文博少尉、本名卓 庚鉉(タク・キョンヒョン)。
朝鮮慶尚南道生まれで立命館中学、京都薬学専門学校を卒業後、特操1期生に合格。
昭和20(1945)年5月11日、知覧飛行場より一式戦闘機「隼」にて特攻出撃、沖縄近郊にて戦死。知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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知覧平和公園にて、鶴田正義南洲神社名誉宮司の歌碑。
帰るなき機をあやつりて 往きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと
出撃された特攻隊員の方々のお気持ちを詠まれた詩だそうです。
知覧平和公園にて。知覧平和公園 公園・植物園
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ホタルの碑。
映画“ホタル”の監督降旗康男氏の歌碑、
燃えつきず 立ち寄る家の 今 ありやなしや ホタルよ ここで休んで下さい知覧平和公園 公園・植物園
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映画”俺は、君のためにこそ死ににいく”撮影記念の碑。
短い青春を
懸命に生き抜き
散っていった
特攻隊の若者たちが
「お母さん」
と呼んで慕った
富谷食堂の女主人
鳥濱トメさんは、
折節にこの世に現れ
人々を救う菩薩でした。
石原慎太郎知覧平和公園 公園・植物園
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ホタル伝説のモデルとなった宮川三郎軍曹。映画ホタルとは異なります。
宮川軍曹は「明日ホタルになって帰って来るよ」と言い残し出撃。その夜富屋食堂にいた鳥濱トメと娘、出撃前の隊員たちは、飛んできた一匹のホタルを見て宮川軍曹の生まれ変わりと思い、「同期の桜」を歌って涙したという話があります。
知覧で出撃を待つ特攻隊員は、陸軍指定の富屋食堂に出入りし、42歳の女主人鳥浜トメを母のように慕っていました。1945年6月5日、宮川三郎軍曹の20歳の誕生日をトメは心づくしの料理で誕生日を祝い、明日に控えた出撃のはなむけとしました。
途中空襲警報で防空壕に避難し,そこから出てきたときに言ったことが、「母さん、お世話になりました。お国の為に見事に散ってまいります。そして私はホタルとなって、母さんのもとに帰ってまいります。ホタルを見たら私だと思ってください。」と言ったといいます。翌6月6日の宵になって,特攻隊員で賑わう富屋食堂に一匹のホタルが舞いこんで来た。それを見つけたトメは「宮川さんが帰ってきた」と叫び、泣いたそうです。
この話は特攻の話を知らない方でも知っておられると聞いています。二十歳の誕生日を迎えた翌日に出撃を控えた宮川軍曹は、何を思い、何を考えていたのでしょうか?翌日は荒天で宮川機を除いた出撃機はすべて帰還しました。ただ一人戻ってこなかった宮川軍曹が言って逝った「ホタルとして戻って来ます」。その言葉通り、鳥濱トメさんのもとに戻って来たホタルの話を聞くと…多分ほとんどの方が涙するのではと思います。
若干本題とは外れますがどうしても紹介したくてここに載せました。知覧平和公園 公園・植物園
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イチオシ
平和の鐘。
恒久の平和を願う多くの方々により日々突かれています。知覧平和公園 公園・植物園
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哭、誓いの碑
この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、
民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う
LAMENTATION, MONUMENT OF PLEDGE
NO MORE TRAGEDY. WE HEREBY VOW ETERNAL PEACE
FOR ALL MANKIND THROUGHOUT THE WORLD,
IRRESPECTIVE OF NATIONS AND RACES
さつま同郷の有志これを建つ 平成12年11月知覧平和公園 公園・植物園
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平和の母像。
知覧平和公園 公園・植物園
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復元された三角兵舎。
知覧平和公園 公園・植物園
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庄覧平和観音像。
墓碑や慰霊碑に建立された観音菩薩の像には、祖国に殉じた戦没者の極楽往生を願うと共に、残された遺族の名伏し難い苦悩に大慈大悲を求める心が込められているそうです。知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎のいわれ。
知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎の由来。
三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装してありました。
各地から集まった隊員は、2〜3日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。
出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌を
うたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙等をしたためて出撃して征ったのです。
ここに三角兵舎を復元し当時をしのぶよすがとするものであります。
(原文のまま)知覧平和公園 公園・植物園
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違うアングルから三角兵舎。
知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎の内部(複製)。
知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真。
昭和20年4月12日、特別攻撃隊「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」に乗って知覧を出撃する穴沢利夫少尉に手を振る知覧高等女学校の生徒たち。知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真、寄せ書きを書く隊員たち。
知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真。
特攻機を見送る隊員たち。知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真。
出撃前夜の宴。知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真。
出撃される前の隊員の方々。知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真、出撃2時間前の腹ごしらえ。
知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真、出撃前夜(うでずもう)。
知覧平和公園 公園・植物園
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三角兵舎内の写真、別れの杯。
知覧平和公園 公園・植物園
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『別れの杯』。
真ん中の背の低い方が知覧特攻平和会館館長を務められた板津忠正軍曹です。 -
特攻平和観音堂。
知覧平和公園 公園・植物園
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特攻平和観音堂。
知覧平和公園 公園・植物園
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特攻平和観音堂、手前にあるのは藤棚。花の時期に来て見たいものです。
知覧平和公園 公園・植物園
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特攻平和観音堂の由来。
この地は昭和十七年三月大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が設けられて連日隊員の訓練を重ねたところであったが国際情勢の次第に緊迫し険悪となるにしたがいついに昭和二十年本土最南端航空基地として陸軍最後の特攻基地となり凡そ一千の若き勇士が莞爾(かんじ:ほほえむ様子)として雲流るる果て遥か逝いて帰らざる壯途につかれた思い出深い土地である。これら若人の至情至純の精神を顕彰し悠久空へ散華せる御霊のとこしえにやすらかならんことを記念し以て祖国の久遠の平和復興に資せんため関係旧将士の浄賤を集めてつくられた特攻平和観音像今この念願を同じくする有志等の願望によりこのゆかりも深い知覧町旧飛行場跡に奉安する尚その一体は海軍のそれと共に東京世田谷山観音寺内特攻観音堂に安置されてあるがこの観音像は大和法隆寺の秘佛「夢ちがい観音」を模造したものであり高さ一尺八寸胎内に特攻勇士の芳名を謹記した巻物が納入されている。茲(ここ)に知覧町民の浄賤をもって堂宇を建立し一千勇士の御霊を永遠に鎮める
(原文のまま)
ですが…国語力がないので部分的におかしいところがあるかも知れません。知覧平和公園 公園・植物園
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特攻平和観音堂・観音の由来
太平洋戦争末期の沖縄戦において一千三六名の特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰し、世界の恒久平和を祈念するため、旧知覧飛行場跡地に特攻平和観音堂を昭和三十年九月二十八日に建立し観音像を安置しています。
この観音像は大和法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて謹鋳した一尺八寸(五十四センチ)の金銅像です。
知覧町では昭和三十年奉安以来毎年五月三日、知覧特攻基地戦没者慰霊祭を挙行し、御霊らの慰霊顕彰に努めています。
尚、観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した霊名録が奉蔵されています。
知覧特攻慰霊顕彰会(原文のまま)
多分…ですが、上の石碑の文言をわかりやすく書いてあると思います。知覧平和公園 公園・植物園
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特攻英霊芳名、特攻平和観音堂にて。
太平洋戦争末期の沖縄戦において、特攻隊員として逝かれた1,036名の方々のお名前が刻みこまれています。知覧平和公園 公園・植物園
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特攻平和観音、奉納の歌碑。
飛び立ちて生きて返らぬ若わしの み霊守らせ平和観音
玉砕のみ霊なぐさめとこしえに 守り給へや平和観音知覧平和公園 公園・植物園
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知覧町護国神社。
知覧平和公園の中に鎮座しているこの神社は、明治2年に戊辰戦争の戦没者を祀ったのが始りとされ、のち西南戦争から太平洋戦争までの戦没者を順次合祀されたそうです。一時期は豊玉姫神社内に移っていましたが、昭和34年現在地に遷座ということだそうです。知覧平和公園 公園・植物園
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イチオシ
特攻像"とこしえに"の像。
昭和49年に建立され、作者は伊東五百亀氏だそうです。知覧平和公園 公園・植物園
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特攻像"とこしえに"の像、アップで。
銅像は開聞岳と飛び立って逝く沖縄すなわち南を向いており、それに対し頭は故郷や靖国神社の方向を向いているとされています。なおこれらの説はこれという根拠がなく、諸説あるため、解釈によっては矛盾が生じることはご了承下さい。
左手の軍刀は戦争を意味し、握手しようとしている右手は平和を象徴しています。知覧平和公園 公園・植物園
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【特攻像「とこしえに」の由来】
特攻機は、遂に帰って来ませんでした。国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。
特攻像「とこしえに」は、全国の心ある人々によって建てられました。
み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ
りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて
あゝ
開聞の南に消えた勇士よ
(原文のまま)知覧平和公園 公園・植物園
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イチオシ
母の像“やすらかに”
知覧平和公園 公園・植物園
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母の像“やすらかに”の碑文。
特攻隊の若い命は再び帰らず。
出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿。
この晴姿をせめて母上に一目
最後の別れと、お礼を一言。
胸を張り裂けそうな、その心情は、
母もまた同じであったろう
今ここに立つ母の姿
とこしえに母と共に安らかに
母の温かいみ胸で、
御霊の安らかならんことと
世界・平和を祈念して。
昭和六十一年三月三十日
熊本県芦北町 前田将知覧平和公園 公園・植物園
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特攻の母鳥濱トメ顕賞の石灯籠。
知覧平和公園 公園・植物園
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特攻の母鳥濱トメ顕賞の碑文。
知覧平和公園 公園・植物園
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太刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊の正門跡石碑(移設復元)。
【由来文】この門柱は、昭和16年12月この地に開校された、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所(のちに教育隊となった)の正門です。
終戦後昭和26年、旧知覧中学校の正門として使用されていたが、昭和56年統合により閉校になったのでここに移転復元したものです。
昭和62年12月 知覧特攻慰霊顕彰会知覧平和公園 公園・植物園
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大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊之記念碑 内閣総理大臣 中曽根康弘 書
大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊之記念碑の由来文。
大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊(当初分教所)は昭和16年末知覧飛行場の完成を待って創立、先づ第10期少年飛行兵の教育を開始、尓後少年飛行兵、下士官学生、特別操縦見習士官等が相次で入隊、猛烈な教育訓練の下、数多の飛行機操縦者が巣立った処である。
然るに教育期間僅か2年9ヶ月にして戦局の推移と知覧飛行場の地理的戦略的関係により昭和19年9月町民の念願も空しく教育隊は解隊、その前後に隊員は京城(ソウル)を初め内外の各教育隊等に転属、後には飛行戦隊が駐留、昭和20年には遂に特攻の基地と化した。
思えば当飛行場は教育隊時代隊長はじめ教官助教学生軍属が一丸となり祖国の安寧と東洋平和建設の為熱き血を沸らせた処である。
吾々の若き日の汗の染みこんだこの地に知覧教育隊の存在した事実を後世に伝えると共に戦争の悲劇が二度と繰り返されることなく、世界の恒久平和の確立が一日も早からんことを希って、この記念の碑を建立する。
昭和60年4月7日知覧平和公園 公園・植物園
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知覧基地特攻隊の歌(歌碑)
ああ薩南の此の地より 敵撃滅の命を受け まなじり決し若人が 翔び立つ姿尊しや その名特別攻撃隊
ああ明日はなき此の命 胸に秘めたるその覚悟 祖国の平和念じつつ 南の空に翔び立ちし その名特別攻撃隊
ああ今此処に銅像の 勇士の姿仰ぐとき 国を護りしつわものの 勲は永久に薫るらん その名特別攻撃隊知覧平和公園 公園・植物園
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第四〇教育飛行隊(西都第一二三部隊)由来
昭和一九年知覧に第四〇教育飛行隊があり、七月から年末まで学徒出身の特別操縦見習士官第二期生一三六名の操縦教育が実施された。その後部隊も見習士官も移動した。
それから半年の後、再び知覧に降り立った同隊の第二期生及び教官を含む四七名がいるが、全員振武隊となり、思い出の飛行場から一路沖縄に出撃した。
なお第四〇教育飛行隊は菊池、各務原と移り陸航士第五八期生五〇名及び第三期生六一名の教育を続けて終結した。
平成二年五月三日建立・平成一四年三月三一日修復
第四〇教飛の会
知覧特攻顕彰会
特操二期生会知覧平和公園 公園・植物園
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イチオシ
知覧平和公園にて。
映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で使われた一式戦闘機「隼」(レプリカ)。知覧平和公園 公園・植物園
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“特攻の母”として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員の無残にも美しい青春を描いた、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年5月12日公開作品、製作総指揮・石原慎太郎)で実際の撮影に使用された「隼」。
【一式戦闘機「隼」】
大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)において、陸軍の主力戦闘機として活躍した一式戦闘機「隼」?型甲をモデルに当時の資料や小飛会の意見を取り入れて忠実に復元制作された。
「隼」は当時知覧の特攻基地からは九七式戦闘機に次いで多い120機が飛び立っている。
(平成19年2月設置 南九州市(※当時の知覧町))
ちなみに主題歌はB'zの"永遠の翼"でした。知覧平和公園 公園・植物園
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特攻像「とこしえに」の隣にあるこの飛行機は、当時特攻機として使われたものではありません。これは戦後の航空自衛隊の初等練習機(Tー3型機)で山口県防府北基地で使われていたものを、平成17年(2005年)に用途廃止された際に当時の知覧町が借り受けここに展示したものです。
勘違いをされておられる方が多いようなので念のため記載します。知覧平和公園 公園・植物園
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知覧平和公園敷地にあるミュージアム知覧と南九州市博物館。
ミュージアム知覧 美術館・博物館
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ミュージアム知覧の企画展の案内。
ミュージアム知覧 美術館・博物館
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ミュージアム知覧の外観。
ミュージアム知覧 美術館・博物館
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ミュージアム知覧、入口。
ミュージアム知覧 美術館・博物館
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知覧特攻平和会館。
知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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あみんちゅ戦争を学ぶ旅
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2014/09/15~
大隅半島(鹿屋・垂水・志布志・肝属)
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2014/09/16~
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那覇
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那覇
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第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~
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第三十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~軍都大阪編~
2020/08/19~
大阪城・京橋
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この旅行記へのコメント (3)
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- はまちゃんさん 2015/07/02 19:14:47
- 胸が熱くなり涙をこらえる事が出来ません
- 6年前に知覧特攻平和会館を訪れたときに、特攻隊で飛び立つ前に両親に宛てた手紙や遺書などを見て、彼らがどの様な気持ちでこれらをしたためたかを考えると、本当に胸が熱くなり涙をこらえる事が出来ませんでした。現在の日本の繁栄がこのような武人達の尊い犠牲のもとに成り立っているということを、私たちは絶対に忘れてはならないと思いました。
“たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん”の旅行記を見させてもらって、また、あのときの体験を思い出しました。
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- 墨水さん 2014/10/11 23:57:31
- 沖縄へ。
- 初めまして。
万世・知覧へ往って、思うと事有る様子には十分解りました。
総ては、沖縄の救援のためなんですね。
沖縄では絶望的状況に有って、5月には組織的戦闘は不可能になりました。
絶望的状況の中でも、将来の為に其の身を献げてくれた人達が居たんです。
でも、今の沖縄の世論は、「本土は、沖縄を見捨てた。」とか「何もしてくれなかった。」とか言う始末です。
彼らの献身を認めない事が「平和」だと沖縄は考えています。
「平和」の考え方も色々有る事も、知っておくべきです。
私は、特攻隊員達の礎で、今日の日本の繁栄が有ると考えていますけどね。
感動してくるのも良いんだけれど、ハンドルネーム何とかならない?。
「人を食った」ネーミングに、「ホントにこの人は万世・知覧で感動してきたんかいな?。」と、思ってしまいます。
感動を伝えたいの?、おちゃらけにしたいの?。
私は、どちらでも対応しますよ。(手厳しく。)
墨水。
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- カスピ海さん 2014/10/10 21:22:56
- よろずよに
- たかちゃんティムちゃんはるおちゃん、まゆみさん こんばんは
万世と子犬を抱く少年兵の写真の背景をはじめて知りました。
涙があふれてとどめることができなかったです。
思えば隣国の先祖に気兼ねをするあまり自らの先祖である日本の英霊を軽視しすぎたという自責もわいてきました。
> 英霊の魂魄(こんぱく)を鎮め、その偉勲を讃えんがために
未来の日本を担う私達へむけての伝言にしっかり耳を傾けて考えていかなくてはと思います。
ほんとうに、渾身の旅行記をありがとうございます。
カスピ海
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