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第二十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):沖縄陸軍病院南風原壕群20号編~<br /><br />沖縄県島尻郡南風原町。沖縄島南部に位置する人口37,000人程の小さな町ではあるものの那覇のベットタウン化が進み、沖縄県の市町村で唯一海に面していないこの町は珍しく〝平成の合併〟の話がまとまらず破談になり、そのまま単独で南風原町として存在しています。琉球王府時代からの直轄地であり首里に近いという地の利を生かせて繁栄を極めた街だそうです。今なお現代の交通の拠点でもあり沖縄自動車道那覇料金所、那覇空港自動車道の南風原北・南インターチェンジも設けられています。<br /><br />前掲した資料館としての南風原文化センターに続き、平成19(2007)年6月に一般公開が開始された沖縄陸軍病院南風原壕群20号へと向かいます。南風原文化センターからの通路を歩いて行くと〝悲風の丘〟と〝沖縄陸軍病院壕跡〟の碑が並んで建立されています。那覇にあった陸軍病院は十・十空襲によって焼失、そのため交通の要所でもあり陸軍病院の分院があったこの地南風原国民学校へと移動して来ました。その後工兵隊によって掘られた黄金森一帯の30~40もの数があったとされる〝沖縄陸軍病院南風原病院壕〟へと入ることになります。その移動時期と前後して昭和20(1945)年3月23日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒によって構成された〝ひめゆり学徒看護隊〟が従軍することになりました。生徒と引率教師237名が従軍することとなりますが、僅か2ヶ月間で戦況は著しく悪化し、首里に置かれていた沖縄守備第32軍司令部が南部に撤退。それに伴い陸軍病院にも撤退命令が出たために、伊原・糸州・山城等糸満付近の壕に分散して入ることとなりました。移動に伴い傷病兵の動けるものは学徒や衛生兵に肩を借り移動しましたが、多くの重症を負った身動きの取れない兵は、処置という名目で毒物や手榴弾といった手段によって自決を余儀なくされたと記録されています。その数ははっきりとはしないものの、黄金森の慰霊碑には2,000余名が死を選ぶことしかできなかったとも書かれています。また放置された兵士の中には、部隊を追いかけて砲弾の飛び交う戦地を這って追いかけた者もいたそうですが、梅雨の時期泥沼化した地面を這うのは困難を極め、そのまま事切れた者も多くいたようです。<br /><br />南風原文化センターから南風原病院壕群第20号へと向かう通路に建立されたふたつの碑は、ここがという意味ではなく、付近一帯が病院壕であったことを表すために建立されたものだと考えるのが筋が通るように思えます。確かに沖縄陸軍病院南風原病院壕址の碑の後方に第一外科壕〝ロ-5号壕〟があったことは事実ですが、やはり特定の壕としての碑として建立されたもののようには思えません。そして悲風の丘を上がるように歩いて行くと、飯上げの道と書かれている場所に到着します。言うまでもなくここは陸軍野戦病院壕として使用された場所であり、そこに配属されたひめゆり学徒が過酷な勤務を強いられていた場所に他なりません。なぜ飯上げの道なのか?これは壕に配属されていた学徒達が現在の南風原文化センターを越えた場所にあった井戸を利用し、食事を〝天秤棒〟で担ぎ、この飯上げの道を往復したことに起因しています。片道約800mあるこの道は、当時砲弾の飛び交う戦場を歩く大変危険な仕事でした。足場の悪い道を歩いているうちに足をとられて大鍋をひっくり返したこともあったようです。今ではロープが張られ最小限の設備は整えられているもののやはり足場は悪く、降雨の後や足の悪い方には迂回路としての歩道を勧めています。ただこの付近一帯は運動公園を整備する際にかなり整地が行われたと聞いています。元々どんな場所であったかということは私自身知らないため、単純な比較はできないものの今なお残る道でも十分と思えることから考えると当時はかなりの悪路だったことが容易に想像することができます。行きが下りで帰りは登りですが歩く際には細心の注意が必要です。<br /><br />飯上げの道を通り抜けると舗装された道に出て、そのまま沖縄陸軍病院南風原壕群第20号の受付へと向かいます。壕の見学には予約が必要でできればFAXでの申込みをして欲しいとのことでしたが、間際で時間がないときは電話でも受け付けてもらえることもあります。しかしあくまでガイドさんが常駐されておられる訳ではないため、不可能なこともあります。本日最後の16:30の枠で予約を入れておき、受付で名前と入壕費300円を払います。ヘルメットと懐中電灯は借りられるものの、懐中電灯はあまり良いものではなく自分で持ち込んだ方が良いようにも思います。受付前に置かれていた付近一帯から採取された砲弾の破片は手にすることができます。見た目よりずっしりとした重みのある砲弾の破片。大きなものだと破壊力の凄まじさは容易に想像がつきますが、小さな破片でも傷口は小さくても肉や骨を抉るように刺さっていくため、死に至る傷を負うことは戦争という状況下でいかに簡単に受けてしまうかを思い知ります。これはやはり資料館ではなかなかわからないもの、現地に足を運んではじめて知る貴重な体験です。<br /><br />糸数のアブチラガマは撮影禁止ですが、南風原壕群第20号は可能です。ただ真っ暗な闇の中を小さな懐中電灯で進んで行くのには、なかなか写真まで撮ることができないのが事実です。ガイドのGさんに連れられて真っ暗闇を歩いて行くのは、心細い気持ちも確かにありました。<br /><br />装備を整えいざ壕の中へと進みます。南風原壕群第20号というとカマボコ型をした入口を思い出すのはなんでだろう…と思っていたのですが、確かにありました。要は壕内部の保存のため湿度を保つためにされているとのことでした。二重にある鍵付きのドアを開けて内部へと進むと、最初はウレタンで保護された壕壁に出会います。そして手術壕とされる第19号と第21号への通路との交差部分。なぜかそこには丈夫の壁を支えているような足場のようなものが組まれていました。そして凡そ30分程で出口に到着。入口と同じような扉がつけられており、その外側には地中に埋められていた薬品類が出土した場所の標記がしてありました。<br /><br />この30分という時間は決まっており、ガイドさんもそれで満足が行く説明になっているのかどうかは疑問に思うところもあると仰っていました。確かに1回あたりの入壕を10名と定められており、今回のような閑散としたときはともかく、やはり修学旅行等で団体が入ると時間に追われてしまうことは否めないと仰っていました。ただなにより考えなくてはいけないことが〝壕の保全〟であると言えるでしょう。公開から8年が過ぎて、見学者の増加とともに壕内の劣化の進み具合は予想をはるかに超えるものでした。まず同時期に公開を開始した第24号は、土砂の流入により3年間で閉鎖されました。そして収容された兵士が天井に書いたとされた〝姜〟の文字は、剥離の可能性が高く現在応急処置中ということで足場みたいなものが組まれていました。<br /><br />元々この付近は琉球石灰岩質の頑丈な地層ではなく、砂岩の層であるため掘りやすいものの脆いところもありました。壕内の壁はほとんどが砂岩層であったがため、取り巻く環境の変化、特に乾燥による影響が非常に大きく、元々は火炎放射によって真っ黒になっていた壁一面が崩落し、今のようなまだら模様になってきています。<br /><br />戦跡の保存と活用という相反することについて、ガイドさんを含めたその現状を知る人からの判断が分かれていると思いきや、意外と皆さん同じ意見をされていました。見てもらえる状況である限り見学者を受け入れたいとのこと。他の壕のように放置され、時間の流れとともに消えていく訳でもなく、知らないうちに開発の波に埋もれる訳でもなく、日常から史跡保護のために気を配りながら、追壕体験をして貰おうと、むしろ積極的に活用していくことこそが戦跡の平和利用というお考えのようです。あくまで戦跡の保存は税金を含めた公費を利用し、運営に纏わる経費を入場料等で賄うのであれば、なにかの思いがきっかけとなり戦跡へと足を運ぶ者にとっては〝きっかけ〟を失うことにはならないため大変ありがたいことだと思います。確かに不透明な資金運用の結果、特定の団体に管理させることは、〝金儲けの戦跡ガイド〟の健全化は図れても、きっかけを失うことにより個人の見学者は減り、結果としてはその戦跡に纏わる話そのものが取り上げられることがなくなり、結局史実が語られなくなるリスクを考えてしまいます。<br /><br />事実この1年間でも見学者が増えた旧海軍司令部壕、減ったヌヌマチガマという知名度の高さを誇る場所の話が現実論としてある訳であり、その中で可能な限り受け入れをして貰える沖縄陸軍病院南風原壕群第20号はやはり貴重な存在になりつつあることは事実です。一般に門戸を開きつつも壕の保全のために少しずつではあるものの修復しながら運営されていることは、時間を空けて再訪した際に全く同じ状態で見ることができないかも知れません。日々変わりつつある戦跡を訪れ、見て聞いて感じることの大切さを痛感した僅か30分程の壕巡りだったように思います。<br /><br />最後にお話しを伺ったGさんにお礼を言い、またなにか思うところがあれば再訪しますとお礼を言い壕を後にします。<br /><br />改めて外部から見た第20号の写真を撮って、時間切れで回れなかった中庭にある慰霊碑へとやってきます。隅っこには崩落した第24号がありますが、パッと見ただけでは土砂の流入が激しくちょっとやそっとでは立ち入りはできそうにありません。そして〝憲法9条の碑〟。平和希求への象徴的なものとしてよく見かけるものではありますが、意外なことに建立者は地方自治体の発案の場合と、個人が有志を募って建立したものと分かれるそうです。史上稀に見る地上戦が行われた沖縄でその思いが強いことの想像はつきますが、読谷村と西原町は市町村が建立したのに対し、南風原町・宮古島市・石垣市のものは地元の9条の会のメンバーや住民が寄付金を募って建立し、完成後市町村に寄贈され後は各自治体が管理して現在に至ります。ちなみにその他にも那覇市の恒久平和の碑等、同じ意図を持ち憲法9条を謳っているものとして同一視されているものもありますが、ここでは〝憲法第9条の碑〟と刻まれているものに限定しています。その建立の経緯はともかく、やはり御影石を用いた立派過ぎる碑であることがなんとなく違和感を持つところがあります。そんなところで存在感を出しても意味がない…。それより憲法第9条の上っ面の利用そのものを考えなければならない時代になっていることは間違いないことであり、よくある〝憲法第9条の碑〟に刻まれている条文を〝丸写し〟したTシャツを、条文の意味すら分からない年端もいかない少年少女に着ることを要求し、そこから平和主義をゴリ押しする無茶苦茶なやり方は、戦時中という理由の元で徴兵を余儀なくされた〝学徒隊〟と同じ考えではないか、そう思えてなりません。平和を希求する気持ちは多くの人々が持つ〝共通〟した考えではあれど、現在の〝憲法は守って当たり前〟的な時代に於いて、一方的な考えを押し付けることは教育ではありません。むしろ〝洗脳〟と言っても過言ではないでしょう。〝平和を考える〟ことは必要不可欠ではあるものの、学校で行う歴史や道徳の時間で〝討論的〟な授業ではなくただの〝説明〟だけで済ましているのが現実です。それでは今の〝考えることをしない子供達〟がその憲法第9条を理解して建設的な意見を持つことなど期待する方が難しいのではないでしょうか? <br /><br />以前平和学習の応答に於いて、憲法第9条第1項の〝戦争の放棄〟について、〝スイスに倣えば良い〟という意見があったとの記述がありました。永世中立国=戦争をしないとの考えによるものだそうですが、実際にスイスは軍隊を持っています。永世中立国の名のもとで戦争を仕掛けはしないが、本国の〝自衛〟に対する意識は大変大きなものがあり、第二次世界大戦中領空侵犯をした連合国・枢軸国軍機合わせて250機を撃墜した記録も残っています。つまり〝自衛のための攻撃〟は〝交戦権〟にあたらないという解釈がされており、軍を持ち徴兵制を有する国民皆兵国家であるというのが事実です。それは日本に於ける憲法第9条第1項〝戦争の放棄〟、第2項前段〝戦力の不保持〟、2項後段〝交戦権の否認〟とは全く異なる〝自衛のための戦争〟であり〝軍隊の保持〟であり〝自発的交戦権の否定〟に基いている〝憲法〟は、あくまで諸外国に対する〝自国に対する戦闘行為〟を〝禁止〟するものではないという事実を端折ることはできない事実です。スイスの場合は様々な問題で戦争を仕掛けるメリットがないとされていますが、日本の場合は〝迎撃をされない〟から良いように解釈されているところがあるように思います。勿論戦争を仕掛けることでなんら〝得になる〟ことがないのは、国民の貧困改善を外地に向けて戦争を仕掛けた経験のある日本国民であれば、わからない方はおられないでしょう。しかしそれは内地で〝攻撃を受けるリスクが少ない〟から言えるところはあり、尖閣諸島をはじめとする国境の島沖縄では、日常生活を遂行するにあたって生ずる領海・領空侵犯によって脅かされている事実を、抜きにして語ることが果たして〝平和主義〟の四文字で済ませることができるのかは正直疑問に思えるところがあります。<br /><br />那覇空港の拡張が叫ばれるのは民間航空機の優先順位が一番低く、①米軍、②自衛隊、③民間機となっている現実から、民間機によって沖縄を訪れる観光客を誘致する第3次産業の声が大きいことはいうまでもありません。たまたま早着した飛行機が空自機のスクランブル発進のため滑走路が使われ、そのために出発できない機材によってエプロンが空かず結果として遅延する現実もあります。そしてその現場にいた観光客は時としてスクランブル発進をした空自戦闘機の〝マッハの爆音〟を耳にすることもあるでしょう。それをどう思うかは個人の自由だとは思いますが、これが日常的なものであれば…考えて当たり前だと思います。<br /><br />かつて大日本帝国は皇民化主義という名のもとで戦争を始めました。そして15年戦争末期、米軍が降伏を呼び掛けるビラをばら撒いてもそれに従うことは許されず、結果史上稀に見る激戦の部隊となった沖縄では軍民問わず20万人を超える犠牲者を出しました。そのビラを握り潰したのは日本軍であり、当時の取り巻く環境下では〝降伏〟という選択肢はなかったための結果だと思われます。しかし考え方によってはその内容を〝当たり前〟としてしまった結果、疑うことを知らずに戦争に巻き込まれて、志半ばにして斃れた少年少女がたくさんいたという史実。それが意味も分からず〝憲法第9条〟と書かれたTシャツを着て、偏った知識で〝平和もどき〟を説かれている姿と被ってしまうのは果たして私だけでしょうか?少なくともが学校やその他の教育機関で、〝憲法第9条〟の条文に対して、指導者や生徒を含めた論議がされていればともかく、日本史に於いても時間切れと称し、近代史等言葉すら出てこない教育の元で付け焼刃の体験がなにか建設的な答えを生むのだろうか…。そう思えてなりません。<br /><br />多くの戦跡ではなにも一組の団体だけが訪れているのではありません。色々な思いを持って訪れている方々がおられる公共の場に於いて、そのような無責任な言動を行うことは慎んで頂きたい。それが大人の態度だと思います。どこぞの首相や知事が言っていることはともかく、〝平和ガイド〟としての役割は、自分の考えを押し付けるのではなく、70年前に斃れた同世代の少年少女達がどのように考えるのか、それをサポートすることではないでしょうか。そんなことをふと感じました。<br /><br />憲法第9条の碑の隣には同じく最近建てられた〝鎮魂平和の鐘〟がありました。南風原壕の見学の際、時間によってはガイドさんが〝突いてみて下さい〟と勧めるようなことがあることは書かれていましたが、私の場合は壕見学にみっちり時間を割いて頂いたのでその時間はありませんでした。見学を終えて付近一帯を散策していて平和の鐘を見上げていたところ、入壕の受付管理をされていたご婦人がふと話し掛けて来られました。それはこの平和の鐘を見つめたまま突くこともせず立ち去ろうともしない私に何か思うところはあったのかも知れません。彼女が言われることには正面に窪みがあり、そこにはひめゆり学徒が病院壕から運び出した切り取った四肢や遺体を掘り込んだ場所であるということ、そしてその隣には沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校敷地所縁の〝相想樹(そうしじゅ)〟が植えられていると聞きました。元々形式的なものにはあまり関心を持たないため、鐘を突くことには抵抗もありましたが、そのお話を聞きようやく素直になれたところがあり、2回程突かせて貰いました。それは形式ではなく、この地で亡くなられた兵士や学徒すべての方へのレクイエム…そう思えたからです。そしてその隣にある〝鎮魂の歌碑〟と言われる石碑。一部ではひめゆり学徒の生存者のものと記載されているものもあるようですが、紀春と書かれているのは当時軍医で見習士官だった長田紀春沖縄陸軍病院慰霊会会長の詠まれたものです。<br /><br />額(ぬか)づけば<br />戦友(とも)葬りし<br />日のごとく<br />夜明けの丘に<br />土の香匂(にお)ふ<br /><br />両の足<br />失なひし兵<br />病院を<br />探して泥道<br />這(は)ひずり来たる<br /><br />病院壕で亡くなった兵士を埋めること、そして南風原から陸軍病院が撤退するときの様子を詠まれたものですが、この情景が後に沖縄陸軍病院南風原壕が南部に撤退するときの様子を語る二首の詩となっており、表現は違うもののその情景を表す〝代名詞〟ともなっているものにも拘らず、実は出所が知られていなかったもののようでした。今回長田先生の目の当たりにされた光景を詠んだ歌碑(平成19(2009)年10月5日付琉球新報)を見て、デジャヴではないかとその光景が脳裏を過った気がしました。<br /><br />そうこうして一通りの見学を終え、再び飯上げの道を歩きます。帰りは上りになるのですが結構急な坂であることがわかります。この急坂を炊きあげられた飯を天秤棒で担いだひめゆり学徒の苦労を改めて感じつつ、沖縄陸軍病院南風原壕址碑・悲風の丘の碑へと戻ってきます。日暮れの遅さはいつもながらに思うもののさすがに2月の末では17:30頃になると夕方を呈するようになり、車へと戻ります。約1時間半のコースでしたが、色々と知らなかったことや新たな発見ができて満足できました。「次に来るときには大切な人を連れてきて下さいね。」とガイドさんより頂いた意味深な言葉がなんとなく心に残ってる…と思いながら次の目的地へと進んで行くためにこの地を後にします。<br /><br />これにて〝第二十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):沖縄陸軍病院南風原壕群20号編~〟は終わります。次章〝第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)編~〟に続きます。

第二十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~南風原(はえばる):沖縄陸軍病院南風原壕群20号編~

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2016/02/29 - 2016/02/29

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第二十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):沖縄陸軍病院南風原壕群20号編~

沖縄県島尻郡南風原町。沖縄島南部に位置する人口37,000人程の小さな町ではあるものの那覇のベットタウン化が進み、沖縄県の市町村で唯一海に面していないこの町は珍しく〝平成の合併〟の話がまとまらず破談になり、そのまま単独で南風原町として存在しています。琉球王府時代からの直轄地であり首里に近いという地の利を生かせて繁栄を極めた街だそうです。今なお現代の交通の拠点でもあり沖縄自動車道那覇料金所、那覇空港自動車道の南風原北・南インターチェンジも設けられています。

前掲した資料館としての南風原文化センターに続き、平成19(2007)年6月に一般公開が開始された沖縄陸軍病院南風原壕群20号へと向かいます。南風原文化センターからの通路を歩いて行くと〝悲風の丘〟と〝沖縄陸軍病院壕跡〟の碑が並んで建立されています。那覇にあった陸軍病院は十・十空襲によって焼失、そのため交通の要所でもあり陸軍病院の分院があったこの地南風原国民学校へと移動して来ました。その後工兵隊によって掘られた黄金森一帯の30~40もの数があったとされる〝沖縄陸軍病院南風原病院壕〟へと入ることになります。その移動時期と前後して昭和20(1945)年3月23日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒によって構成された〝ひめゆり学徒看護隊〟が従軍することになりました。生徒と引率教師237名が従軍することとなりますが、僅か2ヶ月間で戦況は著しく悪化し、首里に置かれていた沖縄守備第32軍司令部が南部に撤退。それに伴い陸軍病院にも撤退命令が出たために、伊原・糸州・山城等糸満付近の壕に分散して入ることとなりました。移動に伴い傷病兵の動けるものは学徒や衛生兵に肩を借り移動しましたが、多くの重症を負った身動きの取れない兵は、処置という名目で毒物や手榴弾といった手段によって自決を余儀なくされたと記録されています。その数ははっきりとはしないものの、黄金森の慰霊碑には2,000余名が死を選ぶことしかできなかったとも書かれています。また放置された兵士の中には、部隊を追いかけて砲弾の飛び交う戦地を這って追いかけた者もいたそうですが、梅雨の時期泥沼化した地面を這うのは困難を極め、そのまま事切れた者も多くいたようです。

南風原文化センターから南風原病院壕群第20号へと向かう通路に建立されたふたつの碑は、ここがという意味ではなく、付近一帯が病院壕であったことを表すために建立されたものだと考えるのが筋が通るように思えます。確かに沖縄陸軍病院南風原病院壕址の碑の後方に第一外科壕〝ロ-5号壕〟があったことは事実ですが、やはり特定の壕としての碑として建立されたもののようには思えません。そして悲風の丘を上がるように歩いて行くと、飯上げの道と書かれている場所に到着します。言うまでもなくここは陸軍野戦病院壕として使用された場所であり、そこに配属されたひめゆり学徒が過酷な勤務を強いられていた場所に他なりません。なぜ飯上げの道なのか?これは壕に配属されていた学徒達が現在の南風原文化センターを越えた場所にあった井戸を利用し、食事を〝天秤棒〟で担ぎ、この飯上げの道を往復したことに起因しています。片道約800mあるこの道は、当時砲弾の飛び交う戦場を歩く大変危険な仕事でした。足場の悪い道を歩いているうちに足をとられて大鍋をひっくり返したこともあったようです。今ではロープが張られ最小限の設備は整えられているもののやはり足場は悪く、降雨の後や足の悪い方には迂回路としての歩道を勧めています。ただこの付近一帯は運動公園を整備する際にかなり整地が行われたと聞いています。元々どんな場所であったかということは私自身知らないため、単純な比較はできないものの今なお残る道でも十分と思えることから考えると当時はかなりの悪路だったことが容易に想像することができます。行きが下りで帰りは登りですが歩く際には細心の注意が必要です。

飯上げの道を通り抜けると舗装された道に出て、そのまま沖縄陸軍病院南風原壕群第20号の受付へと向かいます。壕の見学には予約が必要でできればFAXでの申込みをして欲しいとのことでしたが、間際で時間がないときは電話でも受け付けてもらえることもあります。しかしあくまでガイドさんが常駐されておられる訳ではないため、不可能なこともあります。本日最後の16:30の枠で予約を入れておき、受付で名前と入壕費300円を払います。ヘルメットと懐中電灯は借りられるものの、懐中電灯はあまり良いものではなく自分で持ち込んだ方が良いようにも思います。受付前に置かれていた付近一帯から採取された砲弾の破片は手にすることができます。見た目よりずっしりとした重みのある砲弾の破片。大きなものだと破壊力の凄まじさは容易に想像がつきますが、小さな破片でも傷口は小さくても肉や骨を抉るように刺さっていくため、死に至る傷を負うことは戦争という状況下でいかに簡単に受けてしまうかを思い知ります。これはやはり資料館ではなかなかわからないもの、現地に足を運んではじめて知る貴重な体験です。

糸数のアブチラガマは撮影禁止ですが、南風原壕群第20号は可能です。ただ真っ暗な闇の中を小さな懐中電灯で進んで行くのには、なかなか写真まで撮ることができないのが事実です。ガイドのGさんに連れられて真っ暗闇を歩いて行くのは、心細い気持ちも確かにありました。

装備を整えいざ壕の中へと進みます。南風原壕群第20号というとカマボコ型をした入口を思い出すのはなんでだろう…と思っていたのですが、確かにありました。要は壕内部の保存のため湿度を保つためにされているとのことでした。二重にある鍵付きのドアを開けて内部へと進むと、最初はウレタンで保護された壕壁に出会います。そして手術壕とされる第19号と第21号への通路との交差部分。なぜかそこには丈夫の壁を支えているような足場のようなものが組まれていました。そして凡そ30分程で出口に到着。入口と同じような扉がつけられており、その外側には地中に埋められていた薬品類が出土した場所の標記がしてありました。

この30分という時間は決まっており、ガイドさんもそれで満足が行く説明になっているのかどうかは疑問に思うところもあると仰っていました。確かに1回あたりの入壕を10名と定められており、今回のような閑散としたときはともかく、やはり修学旅行等で団体が入ると時間に追われてしまうことは否めないと仰っていました。ただなにより考えなくてはいけないことが〝壕の保全〟であると言えるでしょう。公開から8年が過ぎて、見学者の増加とともに壕内の劣化の進み具合は予想をはるかに超えるものでした。まず同時期に公開を開始した第24号は、土砂の流入により3年間で閉鎖されました。そして収容された兵士が天井に書いたとされた〝姜〟の文字は、剥離の可能性が高く現在応急処置中ということで足場みたいなものが組まれていました。

元々この付近は琉球石灰岩質の頑丈な地層ではなく、砂岩の層であるため掘りやすいものの脆いところもありました。壕内の壁はほとんどが砂岩層であったがため、取り巻く環境の変化、特に乾燥による影響が非常に大きく、元々は火炎放射によって真っ黒になっていた壁一面が崩落し、今のようなまだら模様になってきています。

戦跡の保存と活用という相反することについて、ガイドさんを含めたその現状を知る人からの判断が分かれていると思いきや、意外と皆さん同じ意見をされていました。見てもらえる状況である限り見学者を受け入れたいとのこと。他の壕のように放置され、時間の流れとともに消えていく訳でもなく、知らないうちに開発の波に埋もれる訳でもなく、日常から史跡保護のために気を配りながら、追壕体験をして貰おうと、むしろ積極的に活用していくことこそが戦跡の平和利用というお考えのようです。あくまで戦跡の保存は税金を含めた公費を利用し、運営に纏わる経費を入場料等で賄うのであれば、なにかの思いがきっかけとなり戦跡へと足を運ぶ者にとっては〝きっかけ〟を失うことにはならないため大変ありがたいことだと思います。確かに不透明な資金運用の結果、特定の団体に管理させることは、〝金儲けの戦跡ガイド〟の健全化は図れても、きっかけを失うことにより個人の見学者は減り、結果としてはその戦跡に纏わる話そのものが取り上げられることがなくなり、結局史実が語られなくなるリスクを考えてしまいます。

事実この1年間でも見学者が増えた旧海軍司令部壕、減ったヌヌマチガマという知名度の高さを誇る場所の話が現実論としてある訳であり、その中で可能な限り受け入れをして貰える沖縄陸軍病院南風原壕群第20号はやはり貴重な存在になりつつあることは事実です。一般に門戸を開きつつも壕の保全のために少しずつではあるものの修復しながら運営されていることは、時間を空けて再訪した際に全く同じ状態で見ることができないかも知れません。日々変わりつつある戦跡を訪れ、見て聞いて感じることの大切さを痛感した僅か30分程の壕巡りだったように思います。

最後にお話しを伺ったGさんにお礼を言い、またなにか思うところがあれば再訪しますとお礼を言い壕を後にします。

改めて外部から見た第20号の写真を撮って、時間切れで回れなかった中庭にある慰霊碑へとやってきます。隅っこには崩落した第24号がありますが、パッと見ただけでは土砂の流入が激しくちょっとやそっとでは立ち入りはできそうにありません。そして〝憲法9条の碑〟。平和希求への象徴的なものとしてよく見かけるものではありますが、意外なことに建立者は地方自治体の発案の場合と、個人が有志を募って建立したものと分かれるそうです。史上稀に見る地上戦が行われた沖縄でその思いが強いことの想像はつきますが、読谷村と西原町は市町村が建立したのに対し、南風原町・宮古島市・石垣市のものは地元の9条の会のメンバーや住民が寄付金を募って建立し、完成後市町村に寄贈され後は各自治体が管理して現在に至ります。ちなみにその他にも那覇市の恒久平和の碑等、同じ意図を持ち憲法9条を謳っているものとして同一視されているものもありますが、ここでは〝憲法第9条の碑〟と刻まれているものに限定しています。その建立の経緯はともかく、やはり御影石を用いた立派過ぎる碑であることがなんとなく違和感を持つところがあります。そんなところで存在感を出しても意味がない…。それより憲法第9条の上っ面の利用そのものを考えなければならない時代になっていることは間違いないことであり、よくある〝憲法第9条の碑〟に刻まれている条文を〝丸写し〟したTシャツを、条文の意味すら分からない年端もいかない少年少女に着ることを要求し、そこから平和主義をゴリ押しする無茶苦茶なやり方は、戦時中という理由の元で徴兵を余儀なくされた〝学徒隊〟と同じ考えではないか、そう思えてなりません。平和を希求する気持ちは多くの人々が持つ〝共通〟した考えではあれど、現在の〝憲法は守って当たり前〟的な時代に於いて、一方的な考えを押し付けることは教育ではありません。むしろ〝洗脳〟と言っても過言ではないでしょう。〝平和を考える〟ことは必要不可欠ではあるものの、学校で行う歴史や道徳の時間で〝討論的〟な授業ではなくただの〝説明〟だけで済ましているのが現実です。それでは今の〝考えることをしない子供達〟がその憲法第9条を理解して建設的な意見を持つことなど期待する方が難しいのではないでしょうか?

以前平和学習の応答に於いて、憲法第9条第1項の〝戦争の放棄〟について、〝スイスに倣えば良い〟という意見があったとの記述がありました。永世中立国=戦争をしないとの考えによるものだそうですが、実際にスイスは軍隊を持っています。永世中立国の名のもとで戦争を仕掛けはしないが、本国の〝自衛〟に対する意識は大変大きなものがあり、第二次世界大戦中領空侵犯をした連合国・枢軸国軍機合わせて250機を撃墜した記録も残っています。つまり〝自衛のための攻撃〟は〝交戦権〟にあたらないという解釈がされており、軍を持ち徴兵制を有する国民皆兵国家であるというのが事実です。それは日本に於ける憲法第9条第1項〝戦争の放棄〟、第2項前段〝戦力の不保持〟、2項後段〝交戦権の否認〟とは全く異なる〝自衛のための戦争〟であり〝軍隊の保持〟であり〝自発的交戦権の否定〟に基いている〝憲法〟は、あくまで諸外国に対する〝自国に対する戦闘行為〟を〝禁止〟するものではないという事実を端折ることはできない事実です。スイスの場合は様々な問題で戦争を仕掛けるメリットがないとされていますが、日本の場合は〝迎撃をされない〟から良いように解釈されているところがあるように思います。勿論戦争を仕掛けることでなんら〝得になる〟ことがないのは、国民の貧困改善を外地に向けて戦争を仕掛けた経験のある日本国民であれば、わからない方はおられないでしょう。しかしそれは内地で〝攻撃を受けるリスクが少ない〟から言えるところはあり、尖閣諸島をはじめとする国境の島沖縄では、日常生活を遂行するにあたって生ずる領海・領空侵犯によって脅かされている事実を、抜きにして語ることが果たして〝平和主義〟の四文字で済ませることができるのかは正直疑問に思えるところがあります。

那覇空港の拡張が叫ばれるのは民間航空機の優先順位が一番低く、①米軍、②自衛隊、③民間機となっている現実から、民間機によって沖縄を訪れる観光客を誘致する第3次産業の声が大きいことはいうまでもありません。たまたま早着した飛行機が空自機のスクランブル発進のため滑走路が使われ、そのために出発できない機材によってエプロンが空かず結果として遅延する現実もあります。そしてその現場にいた観光客は時としてスクランブル発進をした空自戦闘機の〝マッハの爆音〟を耳にすることもあるでしょう。それをどう思うかは個人の自由だとは思いますが、これが日常的なものであれば…考えて当たり前だと思います。

かつて大日本帝国は皇民化主義という名のもとで戦争を始めました。そして15年戦争末期、米軍が降伏を呼び掛けるビラをばら撒いてもそれに従うことは許されず、結果史上稀に見る激戦の部隊となった沖縄では軍民問わず20万人を超える犠牲者を出しました。そのビラを握り潰したのは日本軍であり、当時の取り巻く環境下では〝降伏〟という選択肢はなかったための結果だと思われます。しかし考え方によってはその内容を〝当たり前〟としてしまった結果、疑うことを知らずに戦争に巻き込まれて、志半ばにして斃れた少年少女がたくさんいたという史実。それが意味も分からず〝憲法第9条〟と書かれたTシャツを着て、偏った知識で〝平和もどき〟を説かれている姿と被ってしまうのは果たして私だけでしょうか?少なくともが学校やその他の教育機関で、〝憲法第9条〟の条文に対して、指導者や生徒を含めた論議がされていればともかく、日本史に於いても時間切れと称し、近代史等言葉すら出てこない教育の元で付け焼刃の体験がなにか建設的な答えを生むのだろうか…。そう思えてなりません。

多くの戦跡ではなにも一組の団体だけが訪れているのではありません。色々な思いを持って訪れている方々がおられる公共の場に於いて、そのような無責任な言動を行うことは慎んで頂きたい。それが大人の態度だと思います。どこぞの首相や知事が言っていることはともかく、〝平和ガイド〟としての役割は、自分の考えを押し付けるのではなく、70年前に斃れた同世代の少年少女達がどのように考えるのか、それをサポートすることではないでしょうか。そんなことをふと感じました。

憲法第9条の碑の隣には同じく最近建てられた〝鎮魂平和の鐘〟がありました。南風原壕の見学の際、時間によってはガイドさんが〝突いてみて下さい〟と勧めるようなことがあることは書かれていましたが、私の場合は壕見学にみっちり時間を割いて頂いたのでその時間はありませんでした。見学を終えて付近一帯を散策していて平和の鐘を見上げていたところ、入壕の受付管理をされていたご婦人がふと話し掛けて来られました。それはこの平和の鐘を見つめたまま突くこともせず立ち去ろうともしない私に何か思うところはあったのかも知れません。彼女が言われることには正面に窪みがあり、そこにはひめゆり学徒が病院壕から運び出した切り取った四肢や遺体を掘り込んだ場所であるということ、そしてその隣には沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校敷地所縁の〝相想樹(そうしじゅ)〟が植えられていると聞きました。元々形式的なものにはあまり関心を持たないため、鐘を突くことには抵抗もありましたが、そのお話を聞きようやく素直になれたところがあり、2回程突かせて貰いました。それは形式ではなく、この地で亡くなられた兵士や学徒すべての方へのレクイエム…そう思えたからです。そしてその隣にある〝鎮魂の歌碑〟と言われる石碑。一部ではひめゆり学徒の生存者のものと記載されているものもあるようですが、紀春と書かれているのは当時軍医で見習士官だった長田紀春沖縄陸軍病院慰霊会会長の詠まれたものです。

額(ぬか)づけば
戦友(とも)葬りし
日のごとく
夜明けの丘に
土の香匂(にお)ふ

両の足
失なひし兵
病院を
探して泥道
這(は)ひずり来たる

病院壕で亡くなった兵士を埋めること、そして南風原から陸軍病院が撤退するときの様子を詠まれたものですが、この情景が後に沖縄陸軍病院南風原壕が南部に撤退するときの様子を語る二首の詩となっており、表現は違うもののその情景を表す〝代名詞〟ともなっているものにも拘らず、実は出所が知られていなかったもののようでした。今回長田先生の目の当たりにされた光景を詠んだ歌碑(平成19(2009)年10月5日付琉球新報)を見て、デジャヴではないかとその光景が脳裏を過った気がしました。

そうこうして一通りの見学を終え、再び飯上げの道を歩きます。帰りは上りになるのですが結構急な坂であることがわかります。この急坂を炊きあげられた飯を天秤棒で担いだひめゆり学徒の苦労を改めて感じつつ、沖縄陸軍病院南風原壕址碑・悲風の丘の碑へと戻ってきます。日暮れの遅さはいつもながらに思うもののさすがに2月の末では17:30頃になると夕方を呈するようになり、車へと戻ります。約1時間半のコースでしたが、色々と知らなかったことや新たな発見ができて満足できました。「次に来るときには大切な人を連れてきて下さいね。」とガイドさんより頂いた意味深な言葉がなんとなく心に残ってる…と思いながら次の目的地へと進んで行くためにこの地を後にします。

これにて〝第二十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):沖縄陸軍病院南風原壕群20号編~〟は終わります。次章〝第二十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)編~〟に続きます。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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  • 南風原文化センターから沖縄陸軍病院南風原壕群第20号へと向かいます。

    南風原文化センターから沖縄陸軍病院南風原壕群第20号へと向かいます。

  • 南風原陸軍病院壕址。<br /><br />この場所が陸軍病院壕址とされているものも見かけますが、南風原陸軍病院壕とは付近の黄金森(くがにむい)一帯に掘られた30〜40もの壕の総称になります。<br /><br />強いて言うなら碑の後方に第一外科ロ-5号があったとする場所ではあります。

    南風原陸軍病院壕址。

    この場所が陸軍病院壕址とされているものも見かけますが、南風原陸軍病院壕とは付近の黄金森(くがにむい)一帯に掘られた30〜40もの壕の総称になります。

    強いて言うなら碑の後方に第一外科ロ-5号があったとする場所ではあります。

  • 同じく建立は沖縄陸軍病院慰霊会とあります。

    同じく建立は沖縄陸軍病院慰霊会とあります。

  • 沖縄陸軍病院<br /><br /> 第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立ニ中に兵舎を置いていました。病院長は広池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300余名の体制でした。<br /><br /> ところが1944(昭和19)年10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945(昭和20)年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237人が、看護補助のため動員されました。彼女たちは戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれます。<br /><br /> 米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余の壕(通称:南風原陸軍病院壕)へと移動しました。外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められたのです。<br /><br /> 5月22日、首里城地下に置かれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕跡」碑には、「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。<br /><br />1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。第二次大戦の戦争遺跡としては全国で初めてのことでした。<br /><br />現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。その他の壕は入り口が落盤しているため、琉球大学考古学研究室の協力で、壕の位置を調査しています。<br /><br />南風原文化センター 2002年

    沖縄陸軍病院

     第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立ニ中に兵舎を置いていました。病院長は広池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300余名の体制でした。

     ところが1944(昭和19)年10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945(昭和20)年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237人が、看護補助のため動員されました。彼女たちは戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれます。

     米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余の壕(通称:南風原陸軍病院壕)へと移動しました。外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められたのです。

     5月22日、首里城地下に置かれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕跡」碑には、「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。

    1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。第二次大戦の戦争遺跡としては全国で初めてのことでした。

    現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。その他の壕は入り口が落盤しているため、琉球大学考古学研究室の協力で、壕の位置を調査しています。

    南風原文化センター 2002年

  • 悲風の丘の揮毫は佐藤栄作首相のもののようです…。

    悲風の丘の揮毫は佐藤栄作首相のもののようです…。

  • 天つ日も<br /> おだしき光を<br />  そそげかし<br /><br />傷負ひ眠る<br /> 丘のみたまに<br /><br />元軍医見習士官であった長田紀春先生の詩です。

    天つ日も
     おだしき光を
      そそげかし

    傷負ひ眠る
     丘のみたまに

    元軍医見習士官であった長田紀春先生の詩です。

  • 碑の後面には沖縄陸軍病院慰霊会とあります。

    碑の後面には沖縄陸軍病院慰霊会とあります。

  • ひめゆり学徒達が歩いた?飯上げの道?。

    ひめゆり学徒達が歩いた?飯上げの道?。

  • 現在でもロープが張っています…。

    現在でもロープが張っています…。

  • 今日は乾燥しているため…。

    今日は乾燥しているため…。

  • 歩いてはいますが…。

    歩いてはいますが…。

  • 気を付けないとひっくり返ります…。

    気を付けないとひっくり返ります…。

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群20号、受付へとやってきました。

    沖縄陸軍病院南風原壕群20号、受付へとやってきました。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、パンフレット。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、パンフレット。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、パンフレット。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、パンフレット。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、入口。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、入口。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、入口。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、入口。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、見学者の心得。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、見学者の心得。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 埋められた医薬品の数々。

    埋められた医薬品の数々。

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  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、内部の様子。<br /><br />壕壁が平坦なのは保護のためウレタンを張っているためです。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、内部の様子。

    壕壁が平坦なのは保護のためウレタンを張っているためです。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕内部の様子。黒い部分は火炎放射器で焼かれた痕です。

    沖縄陸軍病院南風原壕内部の様子。黒い部分は火炎放射器で焼かれた痕です。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、内部の様子。<br /><br />暗くてピントが合いません…。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、内部の様子。

    暗くてピントが合いません…。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号に残る火炎放射器で焼かれた柱の痕跡。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号に残る火炎放射器で焼かれた柱の痕跡。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 落盤により入れない19号への通路。

    落盤により入れない19号への通路。

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  • 同じく落盤により入れない21号への通路。

    同じく落盤により入れない21号への通路。

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  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号にて、壁に残るつるはしの痕。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号にて、壁に残るつるはしの痕。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号にて、火炎放射器で焼かれたあと。環境の変化で剥離が始まっています。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号にて、火炎放射器で焼かれたあと。環境の変化で剥離が始まっています。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 収容患者によって刻まれた?姜?の文字。剥離の可能性が高く応急措置がなされています。

    収容患者によって刻まれた?姜?の文字。剥離の可能性が高く応急措置がなされています。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 剥離が始まっている壕内部の壁。

    剥離が始まっている壕内部の壁。

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  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号内部の壁の様子。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号内部の壁の様子。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号出口。少しでも劣化を防ごうと環境管理が厳重になされています。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号出口。少しでも劣化を防ごうと環境管理が厳重になされています。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、出口。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号、出口。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 出土した医薬品はこのあたりから発見されました。

    出土した医薬品はこのあたりから発見されました。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 糸数(アブチラガマ)が見えました。

    糸数(アブチラガマ)が見えました。

    黄金森公園 公園・植物園

  • 沖縄陸軍病院南風原壕群第20号が一般公開された頃はこの24号も見学できたそうです。

    沖縄陸軍病院南風原壕群第20号が一般公開された頃はこの24号も見学できたそうです。

  • しかし僅かな期間で・・・。

    しかし僅かな期間で・・・。

  • 土砂が流入し3年程で中に入れなくなりました。

    土砂が流入し3年程で中に入れなくなりました。

  • 沖縄の反戦のシンボル?憲法第9条の碑?。

    沖縄の反戦のシンボル?憲法第9条の碑?。

  • 憲法第9条の碑、裏面。

    憲法第9条の碑、裏面。

  • 鎮魂と平和の鐘、全景。<br /><br />後ろには相思樹(ソウシジュ)の木と遺体や切断した四肢を埋めた砲弾跡があります。

    鎮魂と平和の鐘、全景。

    後ろには相思樹(ソウシジュ)の木と遺体や切断した四肢を埋めた砲弾跡があります。

  • 鎮魂の鐘、鐘の部分。<br /><br />理屈抜きでレクイエムの気持ちを持って突かせて頂きましたが良い音色でした。

    鎮魂の鐘、鐘の部分。

    理屈抜きでレクイエムの気持ちを持って突かせて頂きましたが良い音色でした。

  • 鎮魂と平和の鐘、由来文。

    鎮魂と平和の鐘、由来文。

  • 〝鎮魂の歌碑〟<br /><br />額(ぬか)づけば<br />戦友(とも)葬りし<br />日のごとく<br />夜明けの丘に<br />土の香匂(にお)ふ<br /><br />両の足<br />失なひし兵<br />病院を<br />探して泥道<br />這(は)ひずり来たる<br /><br />長田紀春沖縄陸軍病院慰霊会会長(当時軍医見習士官)の詠まれたものです。<br /><br />《平成29年12月25日追記》<br />今日の琉球新報に長田先生が亡くなられた記事が載っていました。ご冥福をお祈り致します。以下新聞記事の転記です。<br /><br />沖縄戦当時沖縄陸軍病院の第3外科で軍医見習士官として負傷者の治療に当たった長田紀春(ながた・きしゅん)さんが22日午後11時40分、老衰のため那覇市内の施設で死去した。97歳。那覇市上之蔵町出身。告別式は25日午後2時から同45分、那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣で執り行われる。喪主は長男紀勝(きしょう)氏。<br /><br /><br />長田さんは戦前(戦中の間違い・注釈)軍医見習士官として従事。戦後は自らの悲惨な戦争体験を語り継ぐなどの平和活動を積極的に行い、同じ第3外科で看護婦長として負傷者の治療に当たった故具志八重さんとともに生存者の証言を集め出版した。<br /><br />2007年の沖縄陸軍病院南風原壕群の一般公開にも尽力した。沖縄陸軍病院慰霊会の会長を務め、慰霊祭を執り行ってきた。<br /><br />戦後は小児科医として小児医療・保健に携わり、沖縄の戦中戦後の混乱時に地域医療に貢献した。<br /><br />特に感染症をはじめとする小児疾病治療に精力を傾け、育児健康知識の普及や学童の健康管理に尽力した。2001年には、地域の医療活動に貢献した医師に贈られる第8回「ノバルティス地域医療賞」に選ばれた。

    〝鎮魂の歌碑〟

    額(ぬか)づけば
    戦友(とも)葬りし
    日のごとく
    夜明けの丘に
    土の香匂(にお)ふ

    両の足
    失なひし兵
    病院を
    探して泥道
    這(は)ひずり来たる

    長田紀春沖縄陸軍病院慰霊会会長(当時軍医見習士官)の詠まれたものです。

    《平成29年12月25日追記》
    今日の琉球新報に長田先生が亡くなられた記事が載っていました。ご冥福をお祈り致します。以下新聞記事の転記です。

    沖縄戦当時沖縄陸軍病院の第3外科で軍医見習士官として負傷者の治療に当たった長田紀春(ながた・きしゅん)さんが22日午後11時40分、老衰のため那覇市内の施設で死去した。97歳。那覇市上之蔵町出身。告別式は25日午後2時から同45分、那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣で執り行われる。喪主は長男紀勝(きしょう)氏。


    長田さんは戦前(戦中の間違い・注釈)軍医見習士官として従事。戦後は自らの悲惨な戦争体験を語り継ぐなどの平和活動を積極的に行い、同じ第3外科で看護婦長として負傷者の治療に当たった故具志八重さんとともに生存者の証言を集め出版した。

    2007年の沖縄陸軍病院南風原壕群の一般公開にも尽力した。沖縄陸軍病院慰霊会の会長を務め、慰霊祭を執り行ってきた。

    戦後は小児科医として小児医療・保健に携わり、沖縄の戦中戦後の混乱時に地域医療に貢献した。

    特に感染症をはじめとする小児疾病治療に精力を傾け、育児健康知識の普及や学童の健康管理に尽力した。2001年には、地域の医療活動に貢献した医師に贈られる第8回「ノバルティス地域医療賞」に選ばれた。

  • 鎮魂の歌碑、建立の謂れ。

    鎮魂の歌碑、建立の謂れ。

  • 相思樹(ソウシジュ)の木。<br /><br />こちらの後方に手術で切断した四肢を埋めた穴があったそうです。

    相思樹(ソウシジュ)の木。

    こちらの後方に手術で切断した四肢を埋めた穴があったそうです。

  • 飯上げの道を戻ることにします。

    飯上げの道を戻ることにします。

  • 結構キツイ坂です。

    結構キツイ坂です。

  • そして足場も良くありません。

    そして足場も良くありません。

  • ひ〜は〜ひ〜は〜。<br /><br />タバコハヤメヨウ…。

    ひ〜は〜ひ〜は〜。

    タバコハヤメヨウ…。

  • 今上ってきた坂ですが、急勾配がわかりますか?

    今上ってきた坂ですが、急勾配がわかりますか?

  • そして陸軍病院壕址の碑まで戻ってきました。

    そして陸軍病院壕址の碑まで戻ってきました。

  • だいぶ日が傾いてきたのがわかります。

    だいぶ日が傾いてきたのがわかります。

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