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第三十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~軍都大阪編~<br /><br />天下の台所大阪。歴史上に於いても名前が途切れることはなかった場所だ。豊臣秀吉は大阪城を築城し、ここを日本の中心と目論んだことは教科書でにも載っている。商売とは関係なく〝立地〟から戦場となることもあり、近代までの戦いが繰り返されてきたことも事実である。<br /><br />しかし大きな戦いの主戦場になることも少なかったこともあり、多くの歴史的建造物を残して現在に至っている。戦争を知らない世代から見ると、戦争に於ける大阪の役割とは?と話すものもいるようだ。堺の商人が輸入した〝鉄砲〟で戦国の世が終わり、江戸時代260年に繋がったとすれば、良い方は良くないかも知れないが〝儲け〟と〝安住〟を両立させて生き長らえてきたとも言えるのではなかろうか。<br /><br />そんな大阪が明治維新で変わってしまった。兵部大輔まで上った大村益次郎の出現であった。彼の行ったことは近代日本に向けて掛けがえのないものであったと同時に、新政府軍として〝敵は西にあり〟と説き続けている。そんなこともあり西日本に見張りの利く〝大阪〟を軍都化するように働きかける。「敵は西に在り」というかの如く…。<br /><br />しかし新政府内の薩長閥の中でもぎくしゃくしていたご時世、大村益次郎も例外ではなく明治2年に攘夷論者の長州藩士に暗殺される。享年45歳であった。益次郎は暗殺前から大阪に軍務官の大阪出張所を設置していた。それに加えて大阪城近くに兵部省の兵学寮を設けた上にフランス人教官を招き、〝フランス軍〟をモデルとする新しい軍の建設を始めていた。<br /><br />そして軍都を纏めるべく大阪城に造兵廠を、また畿内宇治に火薬製造所を建設することを決定している。ここに益次郎の〝建軍の中核〟を従来の東京ではなく、関西大阪に移転させるとした願いが成立する。大阪が日本の地理的な中心にあり国内の事変に対応しやすいという建前上の理由もあるが、やはり自身の軍制改革を良しとしない薩摩の大久保利通一派の妨害から脱するという政治的な思惑がより強かったと言われている。東北平定後に南西日本の雄藩の動向を警戒してその備えとして日本の台所の意味合いを持つ大阪を重視しており、ほとんど戦いの中心にならなかった史実と武器調達が海路で容易だったことがその裏付け理由だったと言われている。志半ばで斃れた益次郎であったが、その思惑は他の同志に引き継がれて明治4(1871)年の大阪鎮台の創設に繋がっている。大日本帝国陸軍の生みの親として益次郎の名前が挙げられるのはこのような由来からである。明治6(1873)年には我が国に於ける鎮台数は6つとなり、大阪鎮台の管轄地が第4軍管となる。また第4軍管は3つの師管に分けられ、第8師管が大阪、第9師管が大津、第10師管が姫路を本営としていた。師管には同一番号の歩兵連隊が対応していたが、これらは軍備計画の段階的なことであり、実際には第9連隊は京都、第10連隊が岡山を屯営としていた。明治10(1877)年に不平士族達の不満から発生した西南戦争では、この大阪鎮台が前進基地となり近代日本最後となった内戦に於ける正規軍の拠点ともなっていた。その後明治18(1885)年に条例改正により第4軍管は第7・第8の2つの師管区に減らされ、明治21(1888)年には鎮台は廃され師団制に移行している。同時に軍管が師管となり、大阪鎮台(第4軍管)は第4師団(第4師管)へと移行されることとなった。<br /><br />新しい師団制度は徴兵にも密接に関連しており、一部例外はあれど原則それぞれの師管下に戸籍のある者はそのまま師団に入ることとなっていた。また第4師管は2つの旅管に分けられて第7旅管が大阪・和歌山・大津・京都の各大隊区に、第8旅管が姫路・岡山・神戸・宮津の各大隊区から構成されることとなる。<br /><br />明治23(1890)年に宮津大隊区が福知山大隊区と改称、そのまま日清戦争に突入することとなる。その後軍拡により師管区の倍増が図られ、旧第4師管区の北西部が第10師管区として新設された。この際師管同士の境界は都道府県境とは一致しておらず、新第4師管区で大阪湾に続く海峡防衛を同一師管の統一指揮下に置く意味合いとして区分けされている。<br /><br />明治36(1903)年には再び旅管が置かれることとなり、第7旅管が大阪・和歌山連隊区、第19旅管が大津・京都連隊区から構成されることとなり、この区分で日露戦争へと突入することとなっている。第4師団を率いたのは小川又次・塚本勝嘉の両中将。それぞれ小倉藩・大垣藩という幕府軍として戦った藩兵の一人から将校に上った人物であるが、先の日清戦争では第4師団として大連湾に上陸したのが講和条約調印の翌日であったため戦うことなく帰投しているが、日露戦争には第二軍(奥保鞏大将)隷下師団として従軍し金州・遼陽・奉天に於いて参戦している。小倉藩所縁の司令官と師団長、偶々かも知れないが何か感ずるものがある。<br /><br />また第4師団隷下の第8・第9連隊に於いて大阪と京都を屯営としていたことから、「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊(京都の第9連隊と〝くれんたい〟とを掛けている)」と揶揄されたことが伝わっている。大阪・京都という兵隊は弱いということだが、大阪鎮台隷下部隊として従軍した西南戦争、第4師団隷下部隊として従軍した日露戦争、後述の第二次世界大戦を含め、果敢に戦い戦績を収めており、その記録もしっかりと残っている。推論ではあるが明治維新ですべて東京へとも持って行かれてしまった関西エリア。軍も大阪を主に…と論じていたところから一個師団のされてしまった史実、それに加えて謂れのない理由で貶されれば良いように思うものはないだろう。そんな貶めを受けても変わらない大阪師団、なんとなくではあるが大阪鎮台・第4師団の考えは今なお住民に受け継がれているところがあるように思える。勿論良い意味でだが…。<br /><br />昭和6(1931)年の満州事変後、昭和12(1937)年に第4師団は満州に駐屯する。これに伴い大阪では留守第四師団司令部が編成され、次いで中部防衛司令部が併設されることとなる。程なくして盧溝橋事件が勃発、日中戦争に突入すると主に北支や満蒙を転戦していた。その後昭和12(1940)年には中支に派遣されて数々の軍事行為に従事している。暫くして第4師団を含む各師団は師団編成の4単位制から3単位制へと移行されたことに伴い、大本営直轄となり南方戦線を見据えての部隊の集結と再編成を行っている。この際隷下の歩兵第70連隊が第25師団に編入されている。昭和15(1940)年には中部防衛司令部の中部軍司令部改編に伴い昭和16(1941)年1月に守第四師団司令部は二之丸に新築された木造庁舎に移転する。<br /><br />昭和16(1941)年12月8日に勃発した太平洋戦争では中支からフィリピンへと移動し第2次バターン半島攻略作戦に従事。第14軍(司令官:本間雅晴中将)隷下となってコレヒドール島上陸に成功し、同攻略戦の勝利に大きく寄与している。その後内地に帰還するが再動員され、第25軍(司令官:田辺盛武中将)隷下部隊として昭和18(1943)年11月にはインドネシアスマトラ島パレンバンの防衛にあたることとなる。昭和20(1945)年には第15軍隷下の部隊となり、改編された第39軍(司令官:中村明人中将)に編入されタイの防衛を担っている。後に第39軍が第18方面軍に改編昇格するも、1ヶ月後には終戦を迎えた。終戦時の師団長は木村松治郎中将。復員は昭和21(1946)年5~6月にランパーン県からバンコクを経て浦賀・鹿児島に到着している。<br /><br />師団がタイに転戦した頃に大阪では昭和20(1945)年2月1日に中部軍司令部は第十五方面軍司令部に改編されると同時に中部軍管区司令部が併設され、決號作戰(本土決戦)に備えていた。しかし昭和20(1945)年8月15日に〝大東亞戰爭終結ノ詔書〟を拝して16日に停戦を迎えている。敗戦後はGHQに接取され、昭和22(1947)年には占領軍の失火により天臨閣が焼失したが、司令部庁舎は昭和23(1948)年から昭和33(1958)年までは大阪市警視庁(現大阪府警察本部)、昭和35(1960)年から平成13年(2001)年まで大阪市立博物館として使用された。昭和6(1931)年に完成したロマネスク調の建物は、その後長らく使用されていなかったようだが、平成29(2017)年に改修が終了し、レストラン等が入居する〝〟として同年10月19日にオープンし、現在に至っている。<br /><br />そんな輝かしい戦績を持つ第4師団ではあるが、その拠点とした大阪城界隈では〝それ故〟に空爆の対象とされ多くの被害を出している。明治3(1870)年2月3日に新設された兵部省直轄の造兵司は旧幕府の長崎製鉄所(現三菱重工長崎造船所)の工作機械および技師・職工を移転し、その後東京の旧幕府・関口製造所から大砲鋳造設備を移転して操業を開始する。兵部省から陸軍省に管轄が変わった後も戦役があるごとに規模を拡大し、大阪砲兵工廠を経て陸軍造兵廠大阪工廠、そして昭和15(1940)年4月1日には陸軍兵器本部の新設に伴い、その管轄下となり大阪陸軍造兵廠と改称した。戦時中は武器弾薬を製造するために多い時には68,000人もの老若男女がここで働いていたと言われている。日本が戦争を続けるのになくてはならない施設は、戦況が悪化し制空権を奪われた昭和20(1945)年には大規模な爆撃の対象となり、昭和20(1945)年1月30日、6月7日、6月15日、6月26日、7月24日、8月14日の6回に渡り被害の度合いはばらつきがあるもののB-29の大編隊による空襲を受けている。特に終戦前日の8月14日には造兵廠を狙った1t爆弾4発が逸れて国鉄京橋駅の城東線ホームを貫通、空襲を避けるために片町線ホームにいた多くの人々の前で爆発し、名前がわかった者だけでも210名、無縁仏となった者が他に500とも600名とも言われる犠牲者を出した〝京橋駅爆撃〟が起こっている。爆撃後に撒かれた〝空襲は今日で終わりです〟のチラシをどのように取るのかはさて置き、翌昭和20(1945)年8月15日の敗戦を以って、軍都大阪の歴史は終わりを告げることとなる。<br /><br />軍都大阪を提唱した大村益次郎は暗殺され、その後軍都化はしたものの最後に多くの犠牲者を出してその歴史を終えた。ここまでならば戦争論で片付けられてしまうのかも知れないが、歴史に翻弄された旧軍都大阪はその後も異様とも思える開発ラッシュに揉まれることとなる。戦争遺構を残そうとする考えがある中で、暗黒の時代を残す建物は〝再開発〟の名目の下どんどん破壊されて行き、全く関係のない建物や街が出来ていった。運良く取り壊しを免れていても、ある時点以降は放置され朽ちる一方となっている建物も多く存在する。先見の明がある大阪の政治家であっても、過去の〝遺物〟に関して取り上げることは聞いたことがない。結局のところこのまま時の流れが風化させることを願っているのであろうかと首を傾げたくなる。<br /><br />大阪城以外にも旧日本軍の施設は府内に残っており、大阪城界隈だけのことを述べても意味がないとも考えられる。しかし〝戦跡フィールドワーク〟としての活動や、病院内や都跡にある〝連隊記念碑〟をはじめ、先の大戦関連の史跡管理は統一感が全くないように思えてならない。むしろ史跡を壊して〝石碑〟を残せば良いとでも考えているのであろうか?<br /><br />今回大阪城界隈の戦跡をピックアップして〝軍都大阪〟とした。しかし歴史をたどれば証如の石山本願寺に始まり、豊臣秀吉の大阪城という時代もあった訳である。その遺構は形を変えて残ってはいるが、ここでひとつ私の頭から離れないことがひとつある。それが〝血塗られた歴史〟という概念である。石山合戦・大坂の陣でも多くの血が流れている。300年の年月を越えてそのジンクスは残っていた。これを鎮めるには〝慰霊〟という考えを持たなければならないと思えてならないのである。<br /><br />私自身霊感がある訳ではないので推測でしかないが、大阪城一帯は〝陰と陽〟がはっきりし過ぎていると訪れて最初に思ったことを記憶している。残すものは残し、その謂れも明記する。その訴えかけをどう取るかは訪れたもの次第ではあるが、きっかけがなければ慰霊する〝理由〟もわからなくなっている今日では必要なことではなかろうか?そう思いながら各時代の戦争遺構が残る大阪城を後にした私であった。

第三十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~軍都大阪編~

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2020/03/12

第三十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~軍都大阪編~

天下の台所大阪。歴史上に於いても名前が途切れることはなかった場所だ。豊臣秀吉は大阪城を築城し、ここを日本の中心と目論んだことは教科書でにも載っている。商売とは関係なく〝立地〟から戦場となることもあり、近代までの戦いが繰り返されてきたことも事実である。

しかし大きな戦いの主戦場になることも少なかったこともあり、多くの歴史的建造物を残して現在に至っている。戦争を知らない世代から見ると、戦争に於ける大阪の役割とは?と話すものもいるようだ。堺の商人が輸入した〝鉄砲〟で戦国の世が終わり、江戸時代260年に繋がったとすれば、良い方は良くないかも知れないが〝儲け〟と〝安住〟を両立させて生き長らえてきたとも言えるのではなかろうか。

そんな大阪が明治維新で変わってしまった。兵部大輔まで上った大村益次郎の出現であった。彼の行ったことは近代日本に向けて掛けがえのないものであったと同時に、新政府軍として〝敵は西にあり〟と説き続けている。そんなこともあり西日本に見張りの利く〝大阪〟を軍都化するように働きかける。「敵は西に在り」というかの如く…。

しかし新政府内の薩長閥の中でもぎくしゃくしていたご時世、大村益次郎も例外ではなく明治2年に攘夷論者の長州藩士に暗殺される。享年45歳であった。益次郎は暗殺前から大阪に軍務官の大阪出張所を設置していた。それに加えて大阪城近くに兵部省の兵学寮を設けた上にフランス人教官を招き、〝フランス軍〟をモデルとする新しい軍の建設を始めていた。

そして軍都を纏めるべく大阪城に造兵廠を、また畿内宇治に火薬製造所を建設することを決定している。ここに益次郎の〝建軍の中核〟を従来の東京ではなく、関西大阪に移転させるとした願いが成立する。大阪が日本の地理的な中心にあり国内の事変に対応しやすいという建前上の理由もあるが、やはり自身の軍制改革を良しとしない薩摩の大久保利通一派の妨害から脱するという政治的な思惑がより強かったと言われている。東北平定後に南西日本の雄藩の動向を警戒してその備えとして日本の台所の意味合いを持つ大阪を重視しており、ほとんど戦いの中心にならなかった史実と武器調達が海路で容易だったことがその裏付け理由だったと言われている。志半ばで斃れた益次郎であったが、その思惑は他の同志に引き継がれて明治4(1871)年の大阪鎮台の創設に繋がっている。大日本帝国陸軍の生みの親として益次郎の名前が挙げられるのはこのような由来からである。明治6(1873)年には我が国に於ける鎮台数は6つとなり、大阪鎮台の管轄地が第4軍管となる。また第4軍管は3つの師管に分けられ、第8師管が大阪、第9師管が大津、第10師管が姫路を本営としていた。師管には同一番号の歩兵連隊が対応していたが、これらは軍備計画の段階的なことであり、実際には第9連隊は京都、第10連隊が岡山を屯営としていた。明治10(1877)年に不平士族達の不満から発生した西南戦争では、この大阪鎮台が前進基地となり近代日本最後となった内戦に於ける正規軍の拠点ともなっていた。その後明治18(1885)年に条例改正により第4軍管は第7・第8の2つの師管区に減らされ、明治21(1888)年には鎮台は廃され師団制に移行している。同時に軍管が師管となり、大阪鎮台(第4軍管)は第4師団(第4師管)へと移行されることとなった。

新しい師団制度は徴兵にも密接に関連しており、一部例外はあれど原則それぞれの師管下に戸籍のある者はそのまま師団に入ることとなっていた。また第4師管は2つの旅管に分けられて第7旅管が大阪・和歌山・大津・京都の各大隊区に、第8旅管が姫路・岡山・神戸・宮津の各大隊区から構成されることとなる。

明治23(1890)年に宮津大隊区が福知山大隊区と改称、そのまま日清戦争に突入することとなる。その後軍拡により師管区の倍増が図られ、旧第4師管区の北西部が第10師管区として新設された。この際師管同士の境界は都道府県境とは一致しておらず、新第4師管区で大阪湾に続く海峡防衛を同一師管の統一指揮下に置く意味合いとして区分けされている。

明治36(1903)年には再び旅管が置かれることとなり、第7旅管が大阪・和歌山連隊区、第19旅管が大津・京都連隊区から構成されることとなり、この区分で日露戦争へと突入することとなっている。第4師団を率いたのは小川又次・塚本勝嘉の両中将。それぞれ小倉藩・大垣藩という幕府軍として戦った藩兵の一人から将校に上った人物であるが、先の日清戦争では第4師団として大連湾に上陸したのが講和条約調印の翌日であったため戦うことなく帰投しているが、日露戦争には第二軍(奥保鞏大将)隷下師団として従軍し金州・遼陽・奉天に於いて参戦している。小倉藩所縁の司令官と師団長、偶々かも知れないが何か感ずるものがある。

また第4師団隷下の第8・第9連隊に於いて大阪と京都を屯営としていたことから、「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊(京都の第9連隊と〝くれんたい〟とを掛けている)」と揶揄されたことが伝わっている。大阪・京都という兵隊は弱いということだが、大阪鎮台隷下部隊として従軍した西南戦争、第4師団隷下部隊として従軍した日露戦争、後述の第二次世界大戦を含め、果敢に戦い戦績を収めており、その記録もしっかりと残っている。推論ではあるが明治維新ですべて東京へとも持って行かれてしまった関西エリア。軍も大阪を主に…と論じていたところから一個師団のされてしまった史実、それに加えて謂れのない理由で貶されれば良いように思うものはないだろう。そんな貶めを受けても変わらない大阪師団、なんとなくではあるが大阪鎮台・第4師団の考えは今なお住民に受け継がれているところがあるように思える。勿論良い意味でだが…。

昭和6(1931)年の満州事変後、昭和12(1937)年に第4師団は満州に駐屯する。これに伴い大阪では留守第四師団司令部が編成され、次いで中部防衛司令部が併設されることとなる。程なくして盧溝橋事件が勃発、日中戦争に突入すると主に北支や満蒙を転戦していた。その後昭和12(1940)年には中支に派遣されて数々の軍事行為に従事している。暫くして第4師団を含む各師団は師団編成の4単位制から3単位制へと移行されたことに伴い、大本営直轄となり南方戦線を見据えての部隊の集結と再編成を行っている。この際隷下の歩兵第70連隊が第25師団に編入されている。昭和15(1940)年には中部防衛司令部の中部軍司令部改編に伴い昭和16(1941)年1月に守第四師団司令部は二之丸に新築された木造庁舎に移転する。

昭和16(1941)年12月8日に勃発した太平洋戦争では中支からフィリピンへと移動し第2次バターン半島攻略作戦に従事。第14軍(司令官:本間雅晴中将)隷下となってコレヒドール島上陸に成功し、同攻略戦の勝利に大きく寄与している。その後内地に帰還するが再動員され、第25軍(司令官:田辺盛武中将)隷下部隊として昭和18(1943)年11月にはインドネシアスマトラ島パレンバンの防衛にあたることとなる。昭和20(1945)年には第15軍隷下の部隊となり、改編された第39軍(司令官:中村明人中将)に編入されタイの防衛を担っている。後に第39軍が第18方面軍に改編昇格するも、1ヶ月後には終戦を迎えた。終戦時の師団長は木村松治郎中将。復員は昭和21(1946)年5~6月にランパーン県からバンコクを経て浦賀・鹿児島に到着している。

師団がタイに転戦した頃に大阪では昭和20(1945)年2月1日に中部軍司令部は第十五方面軍司令部に改編されると同時に中部軍管区司令部が併設され、決號作戰(本土決戦)に備えていた。しかし昭和20(1945)年8月15日に〝大東亞戰爭終結ノ詔書〟を拝して16日に停戦を迎えている。敗戦後はGHQに接取され、昭和22(1947)年には占領軍の失火により天臨閣が焼失したが、司令部庁舎は昭和23(1948)年から昭和33(1958)年までは大阪市警視庁(現大阪府警察本部)、昭和35(1960)年から平成13年(2001)年まで大阪市立博物館として使用された。昭和6(1931)年に完成したロマネスク調の建物は、その後長らく使用されていなかったようだが、平成29(2017)年に改修が終了し、レストラン等が入居する〝〟として同年10月19日にオープンし、現在に至っている。

そんな輝かしい戦績を持つ第4師団ではあるが、その拠点とした大阪城界隈では〝それ故〟に空爆の対象とされ多くの被害を出している。明治3(1870)年2月3日に新設された兵部省直轄の造兵司は旧幕府の長崎製鉄所(現三菱重工長崎造船所)の工作機械および技師・職工を移転し、その後東京の旧幕府・関口製造所から大砲鋳造設備を移転して操業を開始する。兵部省から陸軍省に管轄が変わった後も戦役があるごとに規模を拡大し、大阪砲兵工廠を経て陸軍造兵廠大阪工廠、そして昭和15(1940)年4月1日には陸軍兵器本部の新設に伴い、その管轄下となり大阪陸軍造兵廠と改称した。戦時中は武器弾薬を製造するために多い時には68,000人もの老若男女がここで働いていたと言われている。日本が戦争を続けるのになくてはならない施設は、戦況が悪化し制空権を奪われた昭和20(1945)年には大規模な爆撃の対象となり、昭和20(1945)年1月30日、6月7日、6月15日、6月26日、7月24日、8月14日の6回に渡り被害の度合いはばらつきがあるもののB-29の大編隊による空襲を受けている。特に終戦前日の8月14日には造兵廠を狙った1t爆弾4発が逸れて国鉄京橋駅の城東線ホームを貫通、空襲を避けるために片町線ホームにいた多くの人々の前で爆発し、名前がわかった者だけでも210名、無縁仏となった者が他に500とも600名とも言われる犠牲者を出した〝京橋駅爆撃〟が起こっている。爆撃後に撒かれた〝空襲は今日で終わりです〟のチラシをどのように取るのかはさて置き、翌昭和20(1945)年8月15日の敗戦を以って、軍都大阪の歴史は終わりを告げることとなる。

軍都大阪を提唱した大村益次郎は暗殺され、その後軍都化はしたものの最後に多くの犠牲者を出してその歴史を終えた。ここまでならば戦争論で片付けられてしまうのかも知れないが、歴史に翻弄された旧軍都大阪はその後も異様とも思える開発ラッシュに揉まれることとなる。戦争遺構を残そうとする考えがある中で、暗黒の時代を残す建物は〝再開発〟の名目の下どんどん破壊されて行き、全く関係のない建物や街が出来ていった。運良く取り壊しを免れていても、ある時点以降は放置され朽ちる一方となっている建物も多く存在する。先見の明がある大阪の政治家であっても、過去の〝遺物〟に関して取り上げることは聞いたことがない。結局のところこのまま時の流れが風化させることを願っているのであろうかと首を傾げたくなる。

大阪城以外にも旧日本軍の施設は府内に残っており、大阪城界隈だけのことを述べても意味がないとも考えられる。しかし〝戦跡フィールドワーク〟としての活動や、病院内や都跡にある〝連隊記念碑〟をはじめ、先の大戦関連の史跡管理は統一感が全くないように思えてならない。むしろ史跡を壊して〝石碑〟を残せば良いとでも考えているのであろうか?

今回大阪城界隈の戦跡をピックアップして〝軍都大阪〟とした。しかし歴史をたどれば証如の石山本願寺に始まり、豊臣秀吉の大阪城という時代もあった訳である。その遺構は形を変えて残ってはいるが、ここでひとつ私の頭から離れないことがひとつある。それが〝血塗られた歴史〟という概念である。石山合戦・大坂の陣でも多くの血が流れている。300年の年月を越えてそのジンクスは残っていた。これを鎮めるには〝慰霊〟という考えを持たなければならないと思えてならないのである。

私自身霊感がある訳ではないので推測でしかないが、大阪城一帯は〝陰と陽〟がはっきりし過ぎていると訪れて最初に思ったことを記憶している。残すものは残し、その謂れも明記する。その訴えかけをどう取るかは訪れたもの次第ではあるが、きっかけがなければ慰霊する〝理由〟もわからなくなっている今日では必要なことではなかろうか?そう思いながら各時代の戦争遺構が残る大阪城を後にした私であった。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩

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  • 横浜臨海公園さん 2020/09/06 12:51:09
    京橋駅空襲
    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さま、こんにちは。

    旅行記を拝見させて頂きました。
    大阪京橋空襲は終戦前日白昼に行われたもので、特に京橋駅被災では、空襲から身を守る為に片町線連絡通路に退避していた人々に頭上に直撃弾が炸裂し、遺体がバラバラになった事から死者数が当時でも特定困難となり、現在でも残る片町線京橋変電所建物に、爆風で切断吹飛ばされた手首が無数に張り付いていたなど、現在でも乗換であの辺を歩くと背筋がゾッとする想いがさせられます。


    横浜臨海公園

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