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第二十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):南風原文化センター編~<br /><br />沖縄県島尻郡南風原町。沖縄島南部に位置する人口37,000人程の小さな町ではあるものの那覇のベットタウン化が進み、沖縄県の市町村で唯一海に面していないこの町は珍しく〝平成の合併〟の話がまとまらず破談になり、そのまま単独で南風原町として存在しています。琉球王府時代からの直轄地であり首里に近いという地の利を生かせて繁栄を極めた街だそうです。今なお現代の交通の拠点でもあり沖縄自動車道那覇料金所、那覇空港自動車道の南風原北・南インターチェンジも設けられています。<br /><br />交通の要所であった南風原の地に沖縄陸軍病院本体が移設されたのは、昭和19(1944)年10月のことでした。開南中学校や済生会病院を利用していた陸軍病院は十・十空襲によって焼失、そのため分院のあったこの地南風原の国民学校へと移動して来ました。そして地上戦の始まる寸前である昭和20(1945)年3月23日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒と引率教師237名が看護補助要員として動員されました。これが戦後に名付けられた〝ひめゆり学徒隊〟にあたります。<br /><br />間もなく始まる地上戦を前に沖縄陸軍病院は、黄金森一帯に掘られた約30余りの地下壕に移動します。これらの壕が南風原陸軍病院壕と呼ばれるものになります。戦況が悪化し昭和20(1945)年5月25日には首里城下にあった第32沖縄守備軍司令部が糸満の摩文仁へと撤退し、それに伴い陸軍病院も南部への撤退命令が出されます。<br /><br />僅か2ヶ月の陸軍病院壕だった期間を経て、病院関係者や患者が壕を出て南部へと向かう際、同行できない重傷患者約2,000名には自決を強要したとされる記述もあります。また取り残されたもののなんとか南部へと向かおうと試みた重症患者もいたものの、砲弾の飛び交う中足元に絡む泥に移動を阻まれ、ほとんどそのままこと切れたようです。<br /><br />平成21(2009)年11月3日にリニューアルオープンしたこの南風原文化センター。4つの展示テーマによって沖縄戦と住民の暮らしを学ぶというコンセプトの元作られています。<br /><br />展示テーマⅠ「南風原の沖縄戦、ここでは、体験寝台、手術台、遺物、地形模型など、当時の様子をリアルに感じることができます。沖縄陸軍病院で生き残った兵士や看護師の証言映像や、南風原陸軍病院で実際に使われていた医療品や日用品などの展示もあります。<br />また、奉安殿・忠魂碑の実物大模型や、学童疎開、移民と戦争について紹介しています。南風原町だけではなく県内の資料も広く紹介し、沖縄戦全体の動きを理解できるようになっています。<br /><br />展示テーマⅡ 「戦後・ゼロからの再建」、戦後史は、政治や社会の動きだけではなく、庶民のたくましい暮らし、さらには映画・マンガ・オモチャなどの娯楽も紹介しています。<br />戦後生活の始まりの場であった収容所の展示から始まり、多くの年表、写真、実物資料などを展示しています。アメリカ統治時代の言葉やオキナワン・イングリッシュ、高等弁務官や政治家の言葉等も紹介しています。<br /><br />展示テーマⅢ 「移民」、ハワイ、北米、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアへの移民を紹介しています。第一回ハワイ移民や第一回ブラジル移民、そして現在の各国の町人会の様子を展示しています。<br />貧しい時代に、大志を抱いて遙かなる国に渡って行った南風原の先輩達と、その子孫である2世・3世とのつながりを感じさせます。<br /><br />展示テーマⅣ 「人々の暮らし」、物のとぼしい時代に生きた庶民の暮らしや生活の知恵や工夫を紹介しています。まず「人の一生」として人が生まれてから死ぬまでの人生儀礼の解説から始まり、「カヤブチャ(茅葺き家)」の展示にすすみます。<br />「年中行事」のコーナーでは、字兼城の綱曳きで実際に使われている綱や、火を噴く龍蛇「ジャー」なども展示されています。<br /><br />これら4つの展示コーナーの中で、戦中のことを表しているのは〝展示テーマⅠ〟の場所になります。南風原に移転した沖縄陸軍病院、空襲を避けるように軍の設営隊が構築した付近にある30余りの壕に点在して前線から送られてきた負傷兵の治療に当たります。那覇にあった頃の陸軍病院は診療科が3つあり、外科・内科・伝染病科に分かれていました。しかし沖縄での地上戦が始まると、圧倒的に外科の重症患者が多くなり昭和20(1945)年4月には3つの外科に編成替えを強いられることになります。この時期にひめゆり学徒看護隊が沖縄陸軍病院南風原壕へと配属されました。<br /><br />〝沖縄陸軍病院壕をリアルに再現、模擬体験もできる場所〟として南風原での沖縄戦を網羅する見ごたえのある戦跡資料館。最初病院壕のジオラマに入ってみると、往時の壕内で行われていた〝治療〟というものにどれだけのギャップを受けるのか?というものを感じ、また壕内での臭いを〝模擬体験〟することを含めた追体験。そして看護をした側の証言や、青酸カリを飲まされ奇跡的に助かった傷病兵の生々しい証言等も展示をされています。その証言というものが南風原近郊であったものであり、証言者が元ひめゆり学徒や陸軍病院職員係者であったということも、より史実としての重みを増しているように思います。解説ビデオによる病院壕の説明は、噛み砕いた往時の病院壕の内容を示しておりわかり易く作られているように思います。<br />そしてこのセクションでの体験内容として、展示物を〝手に取ることができる〟ということがあります。沖縄戦で使われた砲弾の破片等これらが見えない速さで回転しながらビュッと飛んできたらどうなるか…という現実的なことも紹介されています。展示物にある〝弾痕の残る衣服〟に繋がるものではあるのですが、傷口は大したことなかったものの、身体から出る砲弾の破片は肉や骨をえぐって出てくるため相当な大きさだったという証言。さほど大きなものではない砲弾や破片によって多くの人々の命を奪ったことは容易にわかります。<br /><br />ただこの南風原文化センターでの病院壕のジオラマをはじめとした再現は、あくまで付近にあった病院壕跡から発掘されたものに過ぎません。出土した遺物の一括管理をするためにこの南風原文化センターのひとつのコーナーを利用しています。このあたり黄金森一帯に掘られた30余りの病院壕のうち、見学のために解放されているものが沖縄陸軍病院南風原病院壕群20号になりますが、見学用や壕の保全のために補強されたり、応急処置をされている部分などがあるため、出土した遺物を壕内で保存するのが難しい現実があるため、資料館としての南風原文化センターで保存されているに過ぎないというのが今の状況です。そのことに対しどうこうと意見するつもりはありませんが、資料館としてただ陳列するだけだとその戦争を髣髴する遺物を活かすことができないという概念が見え隠れしていることも事実です。確かに前線の野戦病院としてろくな治療もできず、また治療をする立場の軍医や衛生兵、看護婦や学徒看護隊すらも劣悪な環境に置かれていたのは事実です。しかしそれを戦時中沖縄が強いられたとされる皇民化主義による奉安殿の設置にまで触れてしまうと、病院壕の資料ではなく沖縄戦に対する資料館になってしまうのではないでしょうか。勿論それ即ち悪いという訳ではありませんが、幅広い観点に立って作られた戦争資料館の多くが〝設立ポリシー〟が曖昧になっており、最終的に何を訴えたいか?もしくは見学者にどのように思われたいかというところがすごく曖昧にされており、結局のところ<br />〝ただ訪れただけ〟という結果になってしまうのではと危惧します。<br /><br />南風原壕群だけでも僅か2ヶ月の期間しか存在はしていないものの、軍司令部の南部撤退による〝撤退命令〟により、重症兵を放置したという事実だけでも大変奥深い問題であり、それだけを語るだけでかなりの内容になると思われます。事実としてこの南風原文化センターの展示内容も、戦争に関する〝展示テーマⅠ〟にはすごく力が入っているように思えるものの、その他の〝展示テーマⅡ〟〝展示テーマⅢ〟〝展示テーマⅣ〟に関してはさほど力を入れている感はなく、さっと見れば良いのかという印象を受けました。展示テーマⅡの0からの復興と展示テーマⅢの移民に関しては、戦後沖縄が復興するのに必要不可欠なものであるにも拘らず、ひきつけるものを感じません。また展示テーマⅣの生活も戦時中の話なのか戦後の話なのかがすぐには分からず、結果スルーしてしまう理由にもなると思えます。<br /><br /><br />沖縄戦に於いて必ず伝えなければならないことは、住民を巻き込んだ〝史上稀に見る地上戦〟の舞台となったがゆえ、多くの犠牲者を出したという〝事実〟だと思います。その意見には反論はないものの、戦後焼け野原となった沖縄の地で運良く生きながらえた住民の方々がどのようにして焼け野原を復興し、どのような手段を用いてその復興を支える費用を稼ぎ出したのかを説明しなければ、現在のような〝根拠に欠ける風評〟でもって理解されない若しくは理解しようとしないまま時間だけが過ぎていくように思えてなりません。働く場所すらなかったこの沖縄の地を、移民という手段によって笠戸丸に乗って地球の反対側まで、片道の旅をされた多くの方々の支援によって復興を遂げた〝事実〟こそ戦後の沖縄を物語るに欠かせないことではないでしょうか。<br /><br />この南風原文化センターも戦争資料館という意味合いだけではなく、せっかく展示テーマⅡ・Ⅲ・Ⅳで戦後の沖縄を綴ろうとしているのであれば、もう少し力を入れて表現を考えて貰いたい…そのように思えます。憎しみだけをやり取りし形だけの平和主義を語ることでは、所詮建設的な答えなど出てくるわけもないように考えます。<br /><br />公立の平和祈念資料館の類には同じような展開に難ありの施設が多々あることは言うまでもありません。その点では個人の資料館には確固たる〝信念〟が伺えます。それが良いか悪いかは別として、見学を終えたときに必ずその信念が伝わってきます。それは施設にかかる費用の問題ではなく、なぜこの施設を作ろうとしたかという〝心〟だと信じています。<br /><br />立派な南風原文化センターの戦争に込める気持ちは受け取りました。後はその〝復興に纏わる苦労〟をわかりやすく伝えてくれることを願います。所要時間が1.5~3時間とありましたが、時間が足りなければ翌日もう一度来ようと考えてはいましたが、残念ながら尻つぼみとなってしまいました。沖縄でも数少ない戦後に言及している施設の〝強み〟を発揮できるよう今後に期待して、時間になったため第二外科壕群第20号の見学へと向かうことにします。<br /><br />これにて〝第二十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):南風原文化センター編~〟は終わります。そして〝第二十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~〟へと続きます。

第二十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~南風原(はえばる):南風原文化センター編~

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2016/02/29 - 2016/02/29

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第二十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):南風原文化センター編~

沖縄県島尻郡南風原町。沖縄島南部に位置する人口37,000人程の小さな町ではあるものの那覇のベットタウン化が進み、沖縄県の市町村で唯一海に面していないこの町は珍しく〝平成の合併〟の話がまとまらず破談になり、そのまま単独で南風原町として存在しています。琉球王府時代からの直轄地であり首里に近いという地の利を生かせて繁栄を極めた街だそうです。今なお現代の交通の拠点でもあり沖縄自動車道那覇料金所、那覇空港自動車道の南風原北・南インターチェンジも設けられています。

交通の要所であった南風原の地に沖縄陸軍病院本体が移設されたのは、昭和19(1944)年10月のことでした。開南中学校や済生会病院を利用していた陸軍病院は十・十空襲によって焼失、そのため分院のあったこの地南風原の国民学校へと移動して来ました。そして地上戦の始まる寸前である昭和20(1945)年3月23日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒と引率教師237名が看護補助要員として動員されました。これが戦後に名付けられた〝ひめゆり学徒隊〟にあたります。

間もなく始まる地上戦を前に沖縄陸軍病院は、黄金森一帯に掘られた約30余りの地下壕に移動します。これらの壕が南風原陸軍病院壕と呼ばれるものになります。戦況が悪化し昭和20(1945)年5月25日には首里城下にあった第32沖縄守備軍司令部が糸満の摩文仁へと撤退し、それに伴い陸軍病院も南部への撤退命令が出されます。

僅か2ヶ月の陸軍病院壕だった期間を経て、病院関係者や患者が壕を出て南部へと向かう際、同行できない重傷患者約2,000名には自決を強要したとされる記述もあります。また取り残されたもののなんとか南部へと向かおうと試みた重症患者もいたものの、砲弾の飛び交う中足元に絡む泥に移動を阻まれ、ほとんどそのままこと切れたようです。

平成21(2009)年11月3日にリニューアルオープンしたこの南風原文化センター。4つの展示テーマによって沖縄戦と住民の暮らしを学ぶというコンセプトの元作られています。

展示テーマⅠ「南風原の沖縄戦、ここでは、体験寝台、手術台、遺物、地形模型など、当時の様子をリアルに感じることができます。沖縄陸軍病院で生き残った兵士や看護師の証言映像や、南風原陸軍病院で実際に使われていた医療品や日用品などの展示もあります。
また、奉安殿・忠魂碑の実物大模型や、学童疎開、移民と戦争について紹介しています。南風原町だけではなく県内の資料も広く紹介し、沖縄戦全体の動きを理解できるようになっています。

展示テーマⅡ 「戦後・ゼロからの再建」、戦後史は、政治や社会の動きだけではなく、庶民のたくましい暮らし、さらには映画・マンガ・オモチャなどの娯楽も紹介しています。
戦後生活の始まりの場であった収容所の展示から始まり、多くの年表、写真、実物資料などを展示しています。アメリカ統治時代の言葉やオキナワン・イングリッシュ、高等弁務官や政治家の言葉等も紹介しています。

展示テーマⅢ 「移民」、ハワイ、北米、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアへの移民を紹介しています。第一回ハワイ移民や第一回ブラジル移民、そして現在の各国の町人会の様子を展示しています。
貧しい時代に、大志を抱いて遙かなる国に渡って行った南風原の先輩達と、その子孫である2世・3世とのつながりを感じさせます。

展示テーマⅣ 「人々の暮らし」、物のとぼしい時代に生きた庶民の暮らしや生活の知恵や工夫を紹介しています。まず「人の一生」として人が生まれてから死ぬまでの人生儀礼の解説から始まり、「カヤブチャ(茅葺き家)」の展示にすすみます。
「年中行事」のコーナーでは、字兼城の綱曳きで実際に使われている綱や、火を噴く龍蛇「ジャー」なども展示されています。

これら4つの展示コーナーの中で、戦中のことを表しているのは〝展示テーマⅠ〟の場所になります。南風原に移転した沖縄陸軍病院、空襲を避けるように軍の設営隊が構築した付近にある30余りの壕に点在して前線から送られてきた負傷兵の治療に当たります。那覇にあった頃の陸軍病院は診療科が3つあり、外科・内科・伝染病科に分かれていました。しかし沖縄での地上戦が始まると、圧倒的に外科の重症患者が多くなり昭和20(1945)年4月には3つの外科に編成替えを強いられることになります。この時期にひめゆり学徒看護隊が沖縄陸軍病院南風原壕へと配属されました。

〝沖縄陸軍病院壕をリアルに再現、模擬体験もできる場所〟として南風原での沖縄戦を網羅する見ごたえのある戦跡資料館。最初病院壕のジオラマに入ってみると、往時の壕内で行われていた〝治療〟というものにどれだけのギャップを受けるのか?というものを感じ、また壕内での臭いを〝模擬体験〟することを含めた追体験。そして看護をした側の証言や、青酸カリを飲まされ奇跡的に助かった傷病兵の生々しい証言等も展示をされています。その証言というものが南風原近郊であったものであり、証言者が元ひめゆり学徒や陸軍病院職員係者であったということも、より史実としての重みを増しているように思います。解説ビデオによる病院壕の説明は、噛み砕いた往時の病院壕の内容を示しておりわかり易く作られているように思います。
そしてこのセクションでの体験内容として、展示物を〝手に取ることができる〟ということがあります。沖縄戦で使われた砲弾の破片等これらが見えない速さで回転しながらビュッと飛んできたらどうなるか…という現実的なことも紹介されています。展示物にある〝弾痕の残る衣服〟に繋がるものではあるのですが、傷口は大したことなかったものの、身体から出る砲弾の破片は肉や骨をえぐって出てくるため相当な大きさだったという証言。さほど大きなものではない砲弾や破片によって多くの人々の命を奪ったことは容易にわかります。

ただこの南風原文化センターでの病院壕のジオラマをはじめとした再現は、あくまで付近にあった病院壕跡から発掘されたものに過ぎません。出土した遺物の一括管理をするためにこの南風原文化センターのひとつのコーナーを利用しています。このあたり黄金森一帯に掘られた30余りの病院壕のうち、見学のために解放されているものが沖縄陸軍病院南風原病院壕群20号になりますが、見学用や壕の保全のために補強されたり、応急処置をされている部分などがあるため、出土した遺物を壕内で保存するのが難しい現実があるため、資料館としての南風原文化センターで保存されているに過ぎないというのが今の状況です。そのことに対しどうこうと意見するつもりはありませんが、資料館としてただ陳列するだけだとその戦争を髣髴する遺物を活かすことができないという概念が見え隠れしていることも事実です。確かに前線の野戦病院としてろくな治療もできず、また治療をする立場の軍医や衛生兵、看護婦や学徒看護隊すらも劣悪な環境に置かれていたのは事実です。しかしそれを戦時中沖縄が強いられたとされる皇民化主義による奉安殿の設置にまで触れてしまうと、病院壕の資料ではなく沖縄戦に対する資料館になってしまうのではないでしょうか。勿論それ即ち悪いという訳ではありませんが、幅広い観点に立って作られた戦争資料館の多くが〝設立ポリシー〟が曖昧になっており、最終的に何を訴えたいか?もしくは見学者にどのように思われたいかというところがすごく曖昧にされており、結局のところ
〝ただ訪れただけ〟という結果になってしまうのではと危惧します。

南風原壕群だけでも僅か2ヶ月の期間しか存在はしていないものの、軍司令部の南部撤退による〝撤退命令〟により、重症兵を放置したという事実だけでも大変奥深い問題であり、それだけを語るだけでかなりの内容になると思われます。事実としてこの南風原文化センターの展示内容も、戦争に関する〝展示テーマⅠ〟にはすごく力が入っているように思えるものの、その他の〝展示テーマⅡ〟〝展示テーマⅢ〟〝展示テーマⅣ〟に関してはさほど力を入れている感はなく、さっと見れば良いのかという印象を受けました。展示テーマⅡの0からの復興と展示テーマⅢの移民に関しては、戦後沖縄が復興するのに必要不可欠なものであるにも拘らず、ひきつけるものを感じません。また展示テーマⅣの生活も戦時中の話なのか戦後の話なのかがすぐには分からず、結果スルーしてしまう理由にもなると思えます。


沖縄戦に於いて必ず伝えなければならないことは、住民を巻き込んだ〝史上稀に見る地上戦〟の舞台となったがゆえ、多くの犠牲者を出したという〝事実〟だと思います。その意見には反論はないものの、戦後焼け野原となった沖縄の地で運良く生きながらえた住民の方々がどのようにして焼け野原を復興し、どのような手段を用いてその復興を支える費用を稼ぎ出したのかを説明しなければ、現在のような〝根拠に欠ける風評〟でもって理解されない若しくは理解しようとしないまま時間だけが過ぎていくように思えてなりません。働く場所すらなかったこの沖縄の地を、移民という手段によって笠戸丸に乗って地球の反対側まで、片道の旅をされた多くの方々の支援によって復興を遂げた〝事実〟こそ戦後の沖縄を物語るに欠かせないことではないでしょうか。

この南風原文化センターも戦争資料館という意味合いだけではなく、せっかく展示テーマⅡ・Ⅲ・Ⅳで戦後の沖縄を綴ろうとしているのであれば、もう少し力を入れて表現を考えて貰いたい…そのように思えます。憎しみだけをやり取りし形だけの平和主義を語ることでは、所詮建設的な答えなど出てくるわけもないように考えます。

公立の平和祈念資料館の類には同じような展開に難ありの施設が多々あることは言うまでもありません。その点では個人の資料館には確固たる〝信念〟が伺えます。それが良いか悪いかは別として、見学を終えたときに必ずその信念が伝わってきます。それは施設にかかる費用の問題ではなく、なぜこの施設を作ろうとしたかという〝心〟だと信じています。

立派な南風原文化センターの戦争に込める気持ちは受け取りました。後はその〝復興に纏わる苦労〟をわかりやすく伝えてくれることを願います。所要時間が1.5~3時間とありましたが、時間が足りなければ翌日もう一度来ようと考えてはいましたが、残念ながら尻つぼみとなってしまいました。沖縄でも数少ない戦後に言及している施設の〝強み〟を発揮できるよう今後に期待して、時間になったため第二外科壕群第20号の見学へと向かうことにします。

これにて〝第二十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~南風原(はえばる):南風原文化センター編~〟は終わります。そして〝第二十一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~糸満:マヤーガマ(マヤーアブ)~〟へと続きます。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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  • ラムロールちゃんさん 2016/09/05 16:53:15
    はえばる・・・
    たかティムさん、こんにちは。

    小学校3年生ぐらいの頃、ひめゆりの少女たち、という本を図書室で借りて読んだことがあります。
    その時、はえばる、という読み方を知りました。
    それをふと思い出してクリック…

    こんなところもあるんですね。
    勉強になりました。

    ラムロール

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