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第三十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~広島原爆被害の数字と理屈~<br /><br />堅固な建物構造により倒壊を免れた旧広島燃料会館は昭和4(1929)年3月に建てられた『大正屋呉服店』が対岸の細工町から新築移転したもので、当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物として完成しています。1~3階はショーウィンドウのある売場で土足で回ることができ、屋上からは市内が一望できまたという一昔前の『デパート』のようなお店でした。しかし昭和18(1943)年12月に繊維統制令により呉服店は閉鎖、被爆当時は他の耐火建物と同じく国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得して使用していました。そして昭和20(1945)年8月6日の原爆投下時には、爆心地から170mという至近距離で被爆し、熱線によって地下室を除いて全焼し、爆風によって屋根が押しつぶされ建物内部もめちゃくちゃに壊れました。しかし建物の開口部が爆心地の方向にはほとんどなかったこともあり、建物外と内部による気圧の差が生じなかった、あるいは小さかったため基本的形態は破壊を免れて残存しました。その際に建物内で働いていた従業員のうち28名は即死、8名は傷付きながらも脱出しましたがその後亡くなられました。そして戦後は早い時期での補修工事が進み、引き続き燃料会館として使用されていました。<br /><br />平和記念公園の建設に伴い『取り壊し』が議論されますが、昭和32(1957)年に広島市が<br />買収し、東部復興事務所として使用しました。その後拐取を含めた大規模な補修工事が行われた後に、昭和57(1982)年からは平和記念公園レストハウスとして使用され、現在に至っています。<br /><br />被爆に耐えた建物がどれ位の爆風に耐えたかという記述がされており、具体値と共に紹介されているものがありました。まず原爆が発した爆風の圧力〝3500000Ph(パスカル)〟=〝35.69 kgf/cm?(キログラム・パー・平方センチメートル:1cm?にかかった圧力)〟。それに対し爆風による建物の損傷度合が〝30kgf/cm?〟で〝構造物が倒壊し、特殊な対爆構造物以外では耐えられない〟とあり、致死率に至っては〝32kgf/cm?〟で99%(ほぼ助からない)、そして人体の損傷は〝32kgf/cm?〟で〝即死レベル・肺:破裂と機能消失・内臓:修復不能な重大な損傷・皮膚:重度の裂傷・眼:眼球破裂・耳:鼓膜破裂〟とされています。データの信憑性は引用が不明だったため全く正しいとは言えないものの、日本人の平均体表面積を1.6m?とするならば、爆風を受けた一人当たりの圧力は約571t…。想像することが全くできない数字でした。それがマッハ(音速)を超えるスピードで襲ってきたときに人間が何をできるかを考えることだけ無駄な話です。<br /><br />建物は構造的なこともあり、それに加えて偶然的な理由も重なり、熱線や爆風の直撃を受けていても全壊を免れられたものもありました。ただ人間は熱線・爆風ともに直撃を受けただけで即死でした。しかしこれは『物理的』な問題に限ったことであり、核兵器の本能の怖さである『化学的』な問題によって一命を取り留めた多くの被爆者の将来に影を落としました。数値的な問題で語れる問題ではありませんが、力学的な問題として書かれていたことがわかりやすかったこともあり、一部を引用してみました。<br /><br />地下室はそのままになっているそうですが、ショップ部門が結構繁盛しており尋ねるのも悪いかなと思い、またの機会にすることにして次の目的地へと向かいます。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、数年前に一度原爆忌の折に訪れた場所ではありますが、時間に押されてゆっくり見学ができなかったこともあり、再訪を考えていた施設のひとつです。8月中は19:00迄開館していることもあり、敢えてこの日に広島行きを考えた理由でもあります。<br /><br />地下1階から入館する特殊な造りは何となく記憶にも残っています。入口階段前に作られたモニュメント。原爆投下時刻である8時15分を中の時計が指していることを『知らない』訪問者が多いことは聞いてびっくりしました。そして地下1階に降りて行くと時計部分から曲がれる水を通したモニュメントがあり、水を欲して亡くなった被爆犠牲者に対する『哀悼の意』を表しているとの話を聞きました。そして入場する訳ですが、元来日本国政府の『原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律』によって平成14(2002)年8月1日に建立された『国立広島原爆死没者追悼平和祈念館』は、平和記念公園内にある資料館とはまたコンセプトが違うこともあり、入館無料の施設としてガイドブックにも掲載はされているものの、『与えられるものがない』との酷評も多い施設でもあります。地下一階に設けられている『情報展示コーナー』と『体験記閲覧室』、入口での原爆に纏わるアニメの上映は立ち寄った来館者が足を止めて映像には見入っているものの、その他のコーナーでは『ひとつの資料』に対し『掘り下げて知ることができる』素晴らしい面もあれど、簡単に『見て』『聞いて』わかるような単純なものではありません。私自身も『広島原爆について』知りたいとは思うものの、原爆被害の『なにが知りたい』ところまでは限定しては来なかったため、自身の疑問提起のために訪れたという理由がありました。ただそれならば一般の観覧者と持つ知識はさほど変わらないレベルであって、せっかくの施設を利用『し切れていない』ことに気付きます。そして地下二階の『平和記念・死没者追悼空間』では、爆心地からのパノラマ写真に、原爆死没者数14万人をタイルの数とし、犠牲者の追悼と平和を考える場所とされているのは理解できるものの、静かな場所であるからその気持ちに『なれる』ことであって、決して『子供達の声』や場所もわきまえない『外国語の会話』が聞こえるような環境では、なにもない暗い空間があるだけと言われても仕方がないように思います。普通の資料館であれば展示品に見入るのは自分の勝手であり、外野が騒ごうが気にならないことはわかります。ただやはり抽象的な造りによって『とある目的を構築する』のであれば、やはりそのような環境を作らなければならないのではないでしょうか。それ程入館者が多い訳ではなかったものの、分別のある大人の来館者だけという訳でもなく、そのうち自分の考えに集中できなくなったこともあり外に出ました。公共の施設ゆえ『利用者の限定』ができないのであれば、回数行ってその中で機会を見つける以外に方法はないようです。それには少しがっかりしました。<br /><br />そして広島平和記念公園ならここ!と言っても過言ではない『原爆死没者慰霊碑』へとやって来ます。本当は『広島平和都市記念碑』と言いますが圧倒的に『原爆死没者慰霊碑』として言われていることが多いのが事実です。原爆死没者慰霊碑はここに祀られて眠る多くの被爆犠牲者の霊に対し『雨露から守りたい』という気持ちを込めて埴輪の家型に設計されています。中央には『原爆死没者名簿』を納めた『石棺』が安置されており、石棺の正面には論議を醸し出している『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』と刻まれています。この碑文に対し『日本が過ちを犯した』ように取れると称し、壊したり落書きする等の事件に遇っています。トルーマンという張り紙をしたケースもありました。一時期収まっていた論議だったと思うのですが、また最近増えてきたようにも思います。結局は『主語の取り方』のように思うのですが、原爆投下は間違いなくアメリカの手によるものです。そしてダウンフォール作戦を未然に防ぎ、米兵100万人の命を救ったのは『原爆』だと言い切った以上、アメリカが『原爆投下』を『間違い』だと認めることはないでしょう…おそらくは。碑の揮毫に携わった人々は故人となっており、実際のことが露見することはまずない状況で、過剰に『主語』の定義を語るものでは今更ないのではと思えてなりません。碑文を読んだ方からの『違和感』がその理由とされていますが、もし『碑文』について論議するのであれば、原爆ドームの世界遺産登録時に報告書から外された『世界で初めて使用された核兵器』の一文を削除させないことをなぜしなかったのか?という疑問が起こります。つまりこの『一文』が書き加えられることによってアメリカが核兵器を使用したことを認めることになることがわかっていたからに過ぎません。そしてそんな解釈を今から論議して、被爆犠牲者の眠る『聖地』を荒らすことを望むものはいないように私自身は思っています。この碑文に関しても私自身深い意味を持っているなんぞ思ってもいません。普通のお墓に刻まれている『志』の文字と同じだと思っています。<br /><br />その後平成20(2008)年にはG8下院議長会議の広島開催を機に多言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語(簡体字)、ハングルを追加)での新たな説明板を設置していますが、そこまでしても拭えないものがある『事実』はやはり認識する必要があると思います。恒久平和を願うのに『被爆犠牲者』を例えとして挙げることは有りだと思います。しかし『被爆犠牲者』に対する『慰霊』の気持ちを『反戦運動』に転化することは間違っています。今の時代『慰霊祭』で行われている『反戦運動』を行うことは常習化されたものになっていますが、『霊を慰める気持ち』を持たずに、その慰霊祭に集まる『ひと』を利用しようとしている浅はかな考えにはもう飽き飽きしている私でした。しかるにこの『原爆死没者慰霊碑』にそれ以上のものを求めている訳ではありません。平和記念公園設計の時に丹下健三氏が考えた『原爆死没者慰霊碑』『平和の池』『平和の灯』『原爆ドーム』が一直線上に並ぶ景色を見て、それがキレイに見えることこそが被爆死没者の慰霊に繋がると位にしか思っていないので…。<br /><br />そして今回の旅の『時間指定目的地』のひとつである『広島平和記念資料館』へとやって来ます。既に18:00ですが8月はあと1時間見学ができるため訪れました。現在広島平和記念資料館は本館が来年平成30(2018)年7月にリニューアルオープンするまでは閉館しています。初めてこの広島平和記念資料館を訪れたのは、やはり8年前の原爆忌の時。広島市が一番混雑する(広島出身の同僚より)時に例えられるときであり、そのほとんどが平和記念資料館を訪れるために『見る』余裕すらなかった記憶が残っています。ただその反面展示を見て『動けなくなった』記憶も残っています。今となってはその後に続けて行った『沖縄平和祈念資料館』が上書きされてしまい、思い出せないことも多いものの初めての如く楽しみにしていたこともありました。入口にある『地球平和監視時計』、最上段にはJSTを表すアナログ時計、中段は広島原爆投下からの日数で26,321日、下段には最後の核実験からの日数で354日となっています(いずれも平成29年8月29日現在)。平和記念館が閉館後も見られるものであり、広島を訪れた方なら誰でも一度は見たことがあるものですが、残念ながら平成29(2017)年9月3日に北朝鮮による核実験が行われたことによって、監視後24回目のリセットとなっています。いつになったらこの人間同士のばかし相いが終わるのでしょうか…。<br /><br />そして『ローマ法王平和アピール碑』、昭和56(1981)年2月25日当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が1981(昭和56)年2月25日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が、広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑において、核兵器廃絶を訴えた『平和アピール』を象形化した像を造り、平和祈念のひとつのより所にしようという声が上がったことにより出来上がったものです。碑には『平和アピール』の中の『戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任を取ることです。』の一文が日・英で刻まれています。この一文は『ヒロシマ原爆』の責任を擦り付けるのではなく、ヒロシマ原爆を考える『全ての者』が将来の平和に対しての責任を負うとしていることです。確かにスキャンダルもありましたが、イラク戦争の正当性を時のブッシュ大統領が『神のご加護を』『神の祝福あれ』等と『神』という言葉を引用していたことに対し、『神の名前を用いて人を殺すとは』と不快感を露わにしており、『イラクでの戦争に正義はなく、全くの罪である」と批判しています。今までアメリカの『都合の良い』解釈を押し付けられてきた日本人、そして広島の住民にとってはスカッとしたことだったのではないでしょうか。少なくとも私はそう思いました。そういう経緯を踏まえた上でヨハネ・パウロ二世の『功績』から造られたものであれば、相当大きな『意味を持つ』ように思えます。<br /><br />そして『濱井信三氏胸像』、原爆投下時に一配給課長だった濱井氏は広島の自宅で被爆。上司が被爆死したため、中間管理職ながら復興の最前線に立って奔走し、戦後昭和22(1947)年4月に公職選挙法下で行われた市長選に於いて最初の市長となり、同年8月6日に最初の第1回広島平和祭と慰霊祭を執り行い、平和宣言を発表しました。その後通算4期に渡って市長を務め、一貫して核兵器の全面禁止を訴え続けるとともに広島平和都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園の建設と市中心部への福音100m道路(平和大通り)の建設を打ち出し、現在の広島市街の基礎を作った人物です。広島の父・原爆市長とも言われる濱井市長は昭和43(1968)年2月に急死されますが、後を継いだ山田市長を中心として市民葬が執り行われています。昭和44(1969)年に平和祈念資料館に氏の功績を称えた胸像が置かれて現在に至っています。<br /><br />入口付近を見学した後資料館へと向かいます。本館が閉鎖されているため東館のみの見学になりますが、チケットブースが常設展の奥で企画展の手前にあるため、チケット購入後『企画展』に先に向かってしまう観覧者が多く見られます。私もその一人ではあるのですが、企画展はそもそも無料の区域なので敢えて先に回ることは資料館側の意図とは異なる結果になるはずです。チケットブースにて『常設展』を先に回るように誘導すべきなのでしょうがそれもありませんでした。ただ資料館の意図はともかく、閉館中の本館の展示資料が企画展に展示されているため、見学最初に時間を費やしてしまったため結局時間が無くなり、本館展示を駆け足で見るため『記憶に残らない』と言われることが多い中、数を減らして展示してあるものは十分に見学できるため、時間配分は上手く行くように思います。ただ『企画展』のリーフレットを取得し、それによって展示資料を確かめながら進むには、『常設展』のリーフレットは使えないので注意が必要です。敢えて内容までは記しませんが、企画展の展示には『被爆後』を主としてコーナーが作られており、原爆投下直後の様子がわかりやすく展示されています。<br /><br />そして常設展を見学するためエスカレーターで二階へと上がります。エスカレーター入口で初めてチケットチェックがあります。常設展では主に広島に『原爆投下』されるに至るにあたっての過程が展示されています。投下場所の選定・その投下場所に与える影響、そして(原爆投下に)失敗なきよう『予行演習』としての『パンプキン爆弾』の投下に纏わることが記されています。パンプキン爆弾は長崎に硬化されたプルトニウム型原爆『ファットマン』の形状に似せて作られていたため、広島に投下された『リトルボーイ』とは形状が異なるものの、昭和20(1945)年7月25日の広島への原爆投下命令を前提に周辺都市である山口県宇部・愛媛県宇和島・西条・新居浜に投下されています。この模擬爆弾の投下開始時期が広島原爆投下命令が出された日よりも早いという事実が近年わかってきています。我が街大津にも一発のパンプキン爆弾による空襲がありました。昭和20(1945)年7月24日午前7時47分、東洋レーヨン石山工場に米軍B-29爆撃機Straight Flushからパンプキン爆弾が投下されました。一説によると死者16名重傷者13名と言われていますが正確な数字はわかっていません。現東レでは始業時・終業時にサイレンを鳴らしていますが、これはこの時に犠牲となった方々の慰霊の意味も込めて敢えて『空襲警報音』にしているとこの区域の小学校では教えられていることを聞きました。この『原爆投下地点』は短期間の間に変更が加えられており、米軍の原爆投下計画自体は結構早くから決定されていたとする説には間違いはないでしょう。結果として広島には原爆投下が行われ、熱線や爆風によるものの他に『放射線被害』が加わった『新型爆弾被害』が深刻なものとなりました。ヒロシマに原爆が投下され、壊滅的な被害を被った話は即座に日本のみならず世界を駆け巡ります。その時に落胆の声を上げた物理学者がいました。アルベルト・アインシュタイン、20世紀最大の物理学者でありノーベル物理学賞受賞者でもあるアインシュタインは、『アインシュタイン=シラードの手紙』によってアメリカのルーズベルト大統領に『核開発』を働きかけたと言われる『アインシュタインの手紙』にサインをしたというものです。このあたりは興味本位で書かれているものに『アインシュタインはユダヤ人』でありナチスドイツの核開発を頓挫させるためだったと言われることもあるようですが、実際には少し異なるようです。やはりハンガリー出身のユダヤ人物理学者である『レオ・シラード』の亡命先であるアメリカでの『研究費の捻出要請』に起因するものではないかという説が濃厚のようです。ウランの核分裂による『莫大なエネルギー』の放出が原子爆弾の開発に繋がり、ベルギー領コンゴで採れる良質の『ウラン』がドイツの核開発利用される危惧をアメリカに伝える意図があったとされています。ただ漠然とそのようなことを言った訳ではなく、ウラン核分裂時の膨大なエネルギー放出が『ひとつの都市を吹っ飛ばせる爆弾となりうる』という発表を公表されてしまったことにもよるとされています。公表されてしまった以上利用する国は出てくるわけで、その第一候補に挙げられていた国がナチスドイツだったという事が理由に挙げられています。ただ知名度を利用してアインシュタインの名前も入れて届けられたルーズベルトへの手紙は、ヨーロッパでの開戦後の昭和14(1939)年10月になったとされています。しかしアメリカ政府の動きは遅く、再びアインシュタインに手紙を頼んだ結果僅かな研究費を手にすることはできたそうです。しかしイギリスのモード委員会の報告がアメリカに伝わると扱いは急転し、1942年6月に陸軍管理下で『マンハッタン計画』が開始されることになります。しかし軍との対立が表面化する中で『核開発問題の遅れ』をナチスドイツに負けると例え続けたシラードはその時既に危険分子扱いされていました。計画からは隔離されもいていましたが、原爆が使用されなければ原爆を管理する国際的合意に至らないかも知れないなどという『戦後の核兵器の取扱い』について述べていた記録も残っています。そして1945年3月の連合国軍のストラスブール占領によってもはやナチスドイツの核兵器保持がなくなった上で、米軍による日本の都市の焼夷弾による戦略爆撃が続く中で、原爆使用が日本になるとの懸念を持ちます。そこでルーズベルトに再びアインシュタインの手を借りて手紙を書き、戦後の核開発競争を避けるために科学者との協議をするという約束を取り付けるものの、その前にルーズベルトの急死によって実現しませんでした。そしてトルーマン新大統領に接触を試み、国務長官であるバーンズに『日本に原爆投下すればソ連に核兵器の情報が洩れて数年で開発にこぎつけるに違いない。また核開発の競合は両国を破滅に導くだろう』と警鐘を鳴らしますが、バーンズは理解せず逆に『開発につぎ込んだ大金を米国民にどう説明するか?』と言い切られています。その後も原爆の『政治的影響』を記した『フランクリンメモ』等も提出されますが、結果として『決まっていた』日本への原爆投下を止めることはできませんでした。その後人道的見地を根拠に『日本への原爆使用に対し反対する嘆願書』を作るものの、スティムソン陸軍長官はポツダム会談のためトルーマンとともに海外におり、結果としてその嘆願書が原爆投下前に目にされることはありませんでした。<br /><br />結局広島と長崎には原爆が落とされ、多くの犠牲者を出しました。そして日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をします。ここで戦後における核開発に対するシラードの憂いが現実のものとなります。危惧したアメリカとソ連の核開発競争は東西冷戦の中で現実のものとなって行きます。1949年のソ連の原爆実験成功に対し、翌年にはアメリカが水素爆弾開発に着手します。これに対して水素爆弾開発反対の立場を取り続けるシラードは、究極の核兵器『コバルト爆弾』の案を提出するに至ります。使ってしまえば最後『占領』も『被占領』もできないものとして…。<br /><br />その一方ルーズベルトへの手紙にサインをしたアインシュタインには、『確かにその手紙には署名している』と暴露めいた記述が見られます。ただ時期的にナチスが政権を取ってドイツに敵視される状態であったことから、ナチスドイツが核兵器開発を手掛けており、それに対抗して…というところではシラードの考えと被るところは確かにあるかも知れません。アインシュタインは大量殺戮兵器である『核兵器』の開発には、その後反対の立場を取り続けているのは事実です。しかしアメリカ国籍取得後いっときは海軍省兵器局顧問に就任しており魚雷の起爆装置の開発に携わっています。魚雷が『人殺し』の兵器ではないという認識はなかったはずです。それではなぜなのか…という疑問も残ります。ただ魚雷の開発に携わることで、軍部主導で行われていた『核兵器』の開発の『情報』が得られないようにされていたという説があります。過去の平和主義を含めた政治的傾向から判断して『機密を守れない可能性があった』との証言も残っており、敢えて『おとり』的に武器開発をさせて、秘密裏に進められている『マンハッタン計画』にアインシュタインが入って来れば、結果すら変わってしまうという危惧がされていたこともほぼ事実のようです。科学研究開発局の局長であった『ヴァネヴァー・ブッシュ』がアメリカ国防研究委員会(NDRC)を設立させ、第一次世界大戦の折に科学者と軍の関係が協力的でなかったことを教訓に一定の基準で『科学者』を排除し、戦時中の科学研究の調整・制御役を演じてきました。その結果1945年7月16日に行われた人類初の核実験である『トリニティー実験』は、8月6日の広島原爆投下後に公表されており、当日のアラモゴード航空基地は「遠隔地の火薬庫が爆発したが、死者・負傷者は出なかった。」との発表がされています。一定の基準内だったシラードと基準外だったアインシュタイン。その二人の違いは日本への原爆投下の『可能性』を知っていたか・知らなかったか?という事ではなかったかと思います。親日家で知られるアインシュタインにとって日本への原爆投下は、自分自身を引き裂かれる思いだったと思います。広島の原爆投下を知り発した『O weh!』のひとことがその断腸の思いを語っています。戦勝に湧くアメリカで『我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない』と演説したことからもその気持ちが伝わります。<br /><br />トリニティ実験によって始まった戦後核の取扱いについて、アインシュタインをはじめとした物理学者の多くは、何某らの形で『核開発』に携わってきたことを悔いていたといっても過言ではありません。レオ・シラードもアルベルト・アインシュタインも…。特にアインシュタインは広島・長崎に投下された原子爆弾の犠牲者に『取り返しのつかないことをした』と広島の平和活動家谷本清牧師や湯川秀樹博士に涙ながらに詫びたとされており、後にアインシュタインがイギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴えるといった内容の『ラッセル=アインシュタイン宣言』に署名しています。その呼び掛けに応じて集まった科学者達による全ての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える国際会議『パグウォッシュ会議』の開催へと繋がります。しかしその活動の中で『東西冷戦』の影響を受けていたことも確かで、日本の学者たちの声明が、宣言署名者によって握りつぶされたこともありました。また学者間でも『核開発』に対し考え方の相違もあり、バートランド・ラッセルのように『核兵器廃絶』を唱えるもの、レオ・シラードのように『核抑止論』を唱える者との対立が鮮明化し、現在では『核抑止論』がパグオッシュ会議に於ける『多数論』として定着し、現在に至っています。<br /><br />核兵器の廃絶と言っても、既に開発された核兵器を廃棄することを国家が行うかどうかは正直疑問に思います。発電設備等の『平和のための原子力』の提供から、核兵器が開発された事実もある訳ですから…。日本は『非核三原則』の下で核兵器を『もたず・つくらず・もちこませず』を制定当時の国是としていました。加えて昭和43(1968)年には『核エネルギーの平和利用』が表明されました。原子力発電所も平和利用のひとつではありますが、チェルノブイリや東電福島原発のような事故が起こるとやはり『核兵器化』してしまうリスクは勿論ある訳であって、一歩間違うとヒロシマの二の前になる可能性は否定できません。そして『平和利用』のために提供された技術が国家によって『核兵器化』され、人々の生活に不安を与えていることは、誰もが知っている事実です。<br /><br />某国では核兵器の実験が未だ行われており、その度に平和記念資料館に置かれている『世界平和監視時計』の『最後の核実験からの日数』がリセットされています。制裁決議がどれ程の効果があることは私にはわかりません。しかし世界初の核兵器が投下された広島と長崎では今なお被爆による『後遺症』に悩む方々が多くいらっしゃいます。アインシュタインや湯川秀樹博士等の『物理学者』は、その核兵器のメカニズムがわかるために自分の研究や発見が『核兵器開発』に繋がってしまったことを悔いておられる方が多いと知りました。素人にはビジュアルでの『インパクト』によってしかその『悲惨さ』がわかりませんが、愚かな自己顕示欲に駆られた時代遅れの『核開発』を止める手段が出てこないことに歯痒さを感じます。今後どのような流れになるのかはわかりませんが、改めて『核』のない平和な時は、普遍的なものとして続いて行って欲しいと改めて思いました。<br /><br />広島平和記念資料館の展示に戻りますが、現在本館が改修工事をしているために東館のみの開設になっていますが、一部本館の展示が『特設展』という形で見学することができます。被爆して熔けた三輪車や被爆死した少年少女の衣服、熔けたガラスや焼け焦げた弁当箱等は見たことはあれど、やはり実物を見るのとではインパクトも変わります。そしてなにより私が魅かれたのは『佐々木偵子さんの折り鶴』でした。言わずと知れた『原爆の子の像』のモデルになった少女のことですが、オバマ大統領の広島訪問によって特にクローズアップされたところも、よく知られる理由にはなったことは間違いありません。2歳で被爆するも症状が出ず、すくすくと育った彼女の夢は『学校の先生』だったそうです。しかし10年経って原因不明の『しこり』ができたことによって余命僅かな『白血病』を患っていることが判明します。入院しながら薬包紙等を使って1,300羽もの千羽鶴を折りました。その背景には1,000羽の折り鶴を折ると『退院できる』と聞いていたからだそうです。しかし願いは叶わず僅か12歳という短い生涯を偵子さんは終えました。<br /><br />以前の広島平和記念資料館では展示品の多さから『時間配分』の難しさが指摘されていました。団体旅行ではそれが顕著で最初の方からゆっくり見て行くと、最後の方では時間がなくなり、駆け足で見るとかスルーしなければならないために展示物の意図が伝わらないことが言われていました。私自身も確かにそう思ってはいたのですが、この偵子さんの千羽鶴が何処にあったのかを思い出すことができませんでした。そのため今回初めて見たことになりますが、ここで出てきたdéjà-vu。以前に見た記憶があるような不思議感が出てきます。理由はわかりませんが飾られている千羽鶴が目に見えない力で私に訴えを投げかけています。そのため目を背けそうにもなりましたが堪えて見続けました。被爆死者の遺物はご遺族が惨劇を後世に伝えるために展示資料として提供されたものであり、やはり『私物』として見るのであれば写真は控えた方が良いとの考えからほとんど撮ってはいませんが、この千羽鶴だけはどうしても保存したいと思って撮影しました。<br /><br />私の気持ちはどうでもいいことですが、偵子さんの『想い』が少しでも多くの人に届けば…という気持ちを込めて眺めながらカメラに収めました。<br /><br />広島平和記念資料館の適正滞在時間は何時間?ということがHP上でも論議されていますが、やはりこれは人によってかなりの開きがあることに間違いはありません。まぁそんな論議はどうでもいいことですが、訪れた日はまだ本館の改修工事が終わっていないため、東館と一部本館展示品による『特設展』だけでいえば効率良く回れるように思います。今回の滞在時間は約1時間でしたが、見て得たものには満足しています。ただこの1時間は8月の開館時間が19:00までとなっているためにでき得たことであり、通常はできませんのでひとこと断りを入れておきます。<br />

第二十九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~広島原爆被害の数字と理屈~

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2017/08/29 - 2017/08/29

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第三十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~広島原爆被害の数字と理屈~

堅固な建物構造により倒壊を免れた旧広島燃料会館は昭和4(1929)年3月に建てられた『大正屋呉服店』が対岸の細工町から新築移転したもので、当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物として完成しています。1~3階はショーウィンドウのある売場で土足で回ることができ、屋上からは市内が一望できまたという一昔前の『デパート』のようなお店でした。しかし昭和18(1943)年12月に繊維統制令により呉服店は閉鎖、被爆当時は他の耐火建物と同じく国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得して使用していました。そして昭和20(1945)年8月6日の原爆投下時には、爆心地から170mという至近距離で被爆し、熱線によって地下室を除いて全焼し、爆風によって屋根が押しつぶされ建物内部もめちゃくちゃに壊れました。しかし建物の開口部が爆心地の方向にはほとんどなかったこともあり、建物外と内部による気圧の差が生じなかった、あるいは小さかったため基本的形態は破壊を免れて残存しました。その際に建物内で働いていた従業員のうち28名は即死、8名は傷付きながらも脱出しましたがその後亡くなられました。そして戦後は早い時期での補修工事が進み、引き続き燃料会館として使用されていました。

平和記念公園の建設に伴い『取り壊し』が議論されますが、昭和32(1957)年に広島市が
買収し、東部復興事務所として使用しました。その後拐取を含めた大規模な補修工事が行われた後に、昭和57(1982)年からは平和記念公園レストハウスとして使用され、現在に至っています。

被爆に耐えた建物がどれ位の爆風に耐えたかという記述がされており、具体値と共に紹介されているものがありました。まず原爆が発した爆風の圧力〝3500000Ph(パスカル)〟=〝35.69 kgf/cm?(キログラム・パー・平方センチメートル:1cm?にかかった圧力)〟。それに対し爆風による建物の損傷度合が〝30kgf/cm?〟で〝構造物が倒壊し、特殊な対爆構造物以外では耐えられない〟とあり、致死率に至っては〝32kgf/cm?〟で99%(ほぼ助からない)、そして人体の損傷は〝32kgf/cm?〟で〝即死レベル・肺:破裂と機能消失・内臓:修復不能な重大な損傷・皮膚:重度の裂傷・眼:眼球破裂・耳:鼓膜破裂〟とされています。データの信憑性は引用が不明だったため全く正しいとは言えないものの、日本人の平均体表面積を1.6m?とするならば、爆風を受けた一人当たりの圧力は約571t…。想像することが全くできない数字でした。それがマッハ(音速)を超えるスピードで襲ってきたときに人間が何をできるかを考えることだけ無駄な話です。

建物は構造的なこともあり、それに加えて偶然的な理由も重なり、熱線や爆風の直撃を受けていても全壊を免れられたものもありました。ただ人間は熱線・爆風ともに直撃を受けただけで即死でした。しかしこれは『物理的』な問題に限ったことであり、核兵器の本能の怖さである『化学的』な問題によって一命を取り留めた多くの被爆者の将来に影を落としました。数値的な問題で語れる問題ではありませんが、力学的な問題として書かれていたことがわかりやすかったこともあり、一部を引用してみました。

地下室はそのままになっているそうですが、ショップ部門が結構繁盛しており尋ねるのも悪いかなと思い、またの機会にすることにして次の目的地へと向かいます。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、数年前に一度原爆忌の折に訪れた場所ではありますが、時間に押されてゆっくり見学ができなかったこともあり、再訪を考えていた施設のひとつです。8月中は19:00迄開館していることもあり、敢えてこの日に広島行きを考えた理由でもあります。

地下1階から入館する特殊な造りは何となく記憶にも残っています。入口階段前に作られたモニュメント。原爆投下時刻である8時15分を中の時計が指していることを『知らない』訪問者が多いことは聞いてびっくりしました。そして地下1階に降りて行くと時計部分から曲がれる水を通したモニュメントがあり、水を欲して亡くなった被爆犠牲者に対する『哀悼の意』を表しているとの話を聞きました。そして入場する訳ですが、元来日本国政府の『原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律』によって平成14(2002)年8月1日に建立された『国立広島原爆死没者追悼平和祈念館』は、平和記念公園内にある資料館とはまたコンセプトが違うこともあり、入館無料の施設としてガイドブックにも掲載はされているものの、『与えられるものがない』との酷評も多い施設でもあります。地下一階に設けられている『情報展示コーナー』と『体験記閲覧室』、入口での原爆に纏わるアニメの上映は立ち寄った来館者が足を止めて映像には見入っているものの、その他のコーナーでは『ひとつの資料』に対し『掘り下げて知ることができる』素晴らしい面もあれど、簡単に『見て』『聞いて』わかるような単純なものではありません。私自身も『広島原爆について』知りたいとは思うものの、原爆被害の『なにが知りたい』ところまでは限定しては来なかったため、自身の疑問提起のために訪れたという理由がありました。ただそれならば一般の観覧者と持つ知識はさほど変わらないレベルであって、せっかくの施設を利用『し切れていない』ことに気付きます。そして地下二階の『平和記念・死没者追悼空間』では、爆心地からのパノラマ写真に、原爆死没者数14万人をタイルの数とし、犠牲者の追悼と平和を考える場所とされているのは理解できるものの、静かな場所であるからその気持ちに『なれる』ことであって、決して『子供達の声』や場所もわきまえない『外国語の会話』が聞こえるような環境では、なにもない暗い空間があるだけと言われても仕方がないように思います。普通の資料館であれば展示品に見入るのは自分の勝手であり、外野が騒ごうが気にならないことはわかります。ただやはり抽象的な造りによって『とある目的を構築する』のであれば、やはりそのような環境を作らなければならないのではないでしょうか。それ程入館者が多い訳ではなかったものの、分別のある大人の来館者だけという訳でもなく、そのうち自分の考えに集中できなくなったこともあり外に出ました。公共の施設ゆえ『利用者の限定』ができないのであれば、回数行ってその中で機会を見つける以外に方法はないようです。それには少しがっかりしました。

そして広島平和記念公園ならここ!と言っても過言ではない『原爆死没者慰霊碑』へとやって来ます。本当は『広島平和都市記念碑』と言いますが圧倒的に『原爆死没者慰霊碑』として言われていることが多いのが事実です。原爆死没者慰霊碑はここに祀られて眠る多くの被爆犠牲者の霊に対し『雨露から守りたい』という気持ちを込めて埴輪の家型に設計されています。中央には『原爆死没者名簿』を納めた『石棺』が安置されており、石棺の正面には論議を醸し出している『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』と刻まれています。この碑文に対し『日本が過ちを犯した』ように取れると称し、壊したり落書きする等の事件に遇っています。トルーマンという張り紙をしたケースもありました。一時期収まっていた論議だったと思うのですが、また最近増えてきたようにも思います。結局は『主語の取り方』のように思うのですが、原爆投下は間違いなくアメリカの手によるものです。そしてダウンフォール作戦を未然に防ぎ、米兵100万人の命を救ったのは『原爆』だと言い切った以上、アメリカが『原爆投下』を『間違い』だと認めることはないでしょう…おそらくは。碑の揮毫に携わった人々は故人となっており、実際のことが露見することはまずない状況で、過剰に『主語』の定義を語るものでは今更ないのではと思えてなりません。碑文を読んだ方からの『違和感』がその理由とされていますが、もし『碑文』について論議するのであれば、原爆ドームの世界遺産登録時に報告書から外された『世界で初めて使用された核兵器』の一文を削除させないことをなぜしなかったのか?という疑問が起こります。つまりこの『一文』が書き加えられることによってアメリカが核兵器を使用したことを認めることになることがわかっていたからに過ぎません。そしてそんな解釈を今から論議して、被爆犠牲者の眠る『聖地』を荒らすことを望むものはいないように私自身は思っています。この碑文に関しても私自身深い意味を持っているなんぞ思ってもいません。普通のお墓に刻まれている『志』の文字と同じだと思っています。

その後平成20(2008)年にはG8下院議長会議の広島開催を機に多言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語(簡体字)、ハングルを追加)での新たな説明板を設置していますが、そこまでしても拭えないものがある『事実』はやはり認識する必要があると思います。恒久平和を願うのに『被爆犠牲者』を例えとして挙げることは有りだと思います。しかし『被爆犠牲者』に対する『慰霊』の気持ちを『反戦運動』に転化することは間違っています。今の時代『慰霊祭』で行われている『反戦運動』を行うことは常習化されたものになっていますが、『霊を慰める気持ち』を持たずに、その慰霊祭に集まる『ひと』を利用しようとしている浅はかな考えにはもう飽き飽きしている私でした。しかるにこの『原爆死没者慰霊碑』にそれ以上のものを求めている訳ではありません。平和記念公園設計の時に丹下健三氏が考えた『原爆死没者慰霊碑』『平和の池』『平和の灯』『原爆ドーム』が一直線上に並ぶ景色を見て、それがキレイに見えることこそが被爆死没者の慰霊に繋がると位にしか思っていないので…。

そして今回の旅の『時間指定目的地』のひとつである『広島平和記念資料館』へとやって来ます。既に18:00ですが8月はあと1時間見学ができるため訪れました。現在広島平和記念資料館は本館が来年平成30(2018)年7月にリニューアルオープンするまでは閉館しています。初めてこの広島平和記念資料館を訪れたのは、やはり8年前の原爆忌の時。広島市が一番混雑する(広島出身の同僚より)時に例えられるときであり、そのほとんどが平和記念資料館を訪れるために『見る』余裕すらなかった記憶が残っています。ただその反面展示を見て『動けなくなった』記憶も残っています。今となってはその後に続けて行った『沖縄平和祈念資料館』が上書きされてしまい、思い出せないことも多いものの初めての如く楽しみにしていたこともありました。入口にある『地球平和監視時計』、最上段にはJSTを表すアナログ時計、中段は広島原爆投下からの日数で26,321日、下段には最後の核実験からの日数で354日となっています(いずれも平成29年8月29日現在)。平和記念館が閉館後も見られるものであり、広島を訪れた方なら誰でも一度は見たことがあるものですが、残念ながら平成29(2017)年9月3日に北朝鮮による核実験が行われたことによって、監視後24回目のリセットとなっています。いつになったらこの人間同士のばかし相いが終わるのでしょうか…。

そして『ローマ法王平和アピール碑』、昭和56(1981)年2月25日当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が1981(昭和56)年2月25日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が、広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑において、核兵器廃絶を訴えた『平和アピール』を象形化した像を造り、平和祈念のひとつのより所にしようという声が上がったことにより出来上がったものです。碑には『平和アピール』の中の『戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任を取ることです。』の一文が日・英で刻まれています。この一文は『ヒロシマ原爆』の責任を擦り付けるのではなく、ヒロシマ原爆を考える『全ての者』が将来の平和に対しての責任を負うとしていることです。確かにスキャンダルもありましたが、イラク戦争の正当性を時のブッシュ大統領が『神のご加護を』『神の祝福あれ』等と『神』という言葉を引用していたことに対し、『神の名前を用いて人を殺すとは』と不快感を露わにしており、『イラクでの戦争に正義はなく、全くの罪である」と批判しています。今までアメリカの『都合の良い』解釈を押し付けられてきた日本人、そして広島の住民にとってはスカッとしたことだったのではないでしょうか。少なくとも私はそう思いました。そういう経緯を踏まえた上でヨハネ・パウロ二世の『功績』から造られたものであれば、相当大きな『意味を持つ』ように思えます。

そして『濱井信三氏胸像』、原爆投下時に一配給課長だった濱井氏は広島の自宅で被爆。上司が被爆死したため、中間管理職ながら復興の最前線に立って奔走し、戦後昭和22(1947)年4月に公職選挙法下で行われた市長選に於いて最初の市長となり、同年8月6日に最初の第1回広島平和祭と慰霊祭を執り行い、平和宣言を発表しました。その後通算4期に渡って市長を務め、一貫して核兵器の全面禁止を訴え続けるとともに広島平和都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園の建設と市中心部への福音100m道路(平和大通り)の建設を打ち出し、現在の広島市街の基礎を作った人物です。広島の父・原爆市長とも言われる濱井市長は昭和43(1968)年2月に急死されますが、後を継いだ山田市長を中心として市民葬が執り行われています。昭和44(1969)年に平和祈念資料館に氏の功績を称えた胸像が置かれて現在に至っています。

入口付近を見学した後資料館へと向かいます。本館が閉鎖されているため東館のみの見学になりますが、チケットブースが常設展の奥で企画展の手前にあるため、チケット購入後『企画展』に先に向かってしまう観覧者が多く見られます。私もその一人ではあるのですが、企画展はそもそも無料の区域なので敢えて先に回ることは資料館側の意図とは異なる結果になるはずです。チケットブースにて『常設展』を先に回るように誘導すべきなのでしょうがそれもありませんでした。ただ資料館の意図はともかく、閉館中の本館の展示資料が企画展に展示されているため、見学最初に時間を費やしてしまったため結局時間が無くなり、本館展示を駆け足で見るため『記憶に残らない』と言われることが多い中、数を減らして展示してあるものは十分に見学できるため、時間配分は上手く行くように思います。ただ『企画展』のリーフレットを取得し、それによって展示資料を確かめながら進むには、『常設展』のリーフレットは使えないので注意が必要です。敢えて内容までは記しませんが、企画展の展示には『被爆後』を主としてコーナーが作られており、原爆投下直後の様子がわかりやすく展示されています。

そして常設展を見学するためエスカレーターで二階へと上がります。エスカレーター入口で初めてチケットチェックがあります。常設展では主に広島に『原爆投下』されるに至るにあたっての過程が展示されています。投下場所の選定・その投下場所に与える影響、そして(原爆投下に)失敗なきよう『予行演習』としての『パンプキン爆弾』の投下に纏わることが記されています。パンプキン爆弾は長崎に硬化されたプルトニウム型原爆『ファットマン』の形状に似せて作られていたため、広島に投下された『リトルボーイ』とは形状が異なるものの、昭和20(1945)年7月25日の広島への原爆投下命令を前提に周辺都市である山口県宇部・愛媛県宇和島・西条・新居浜に投下されています。この模擬爆弾の投下開始時期が広島原爆投下命令が出された日よりも早いという事実が近年わかってきています。我が街大津にも一発のパンプキン爆弾による空襲がありました。昭和20(1945)年7月24日午前7時47分、東洋レーヨン石山工場に米軍B-29爆撃機Straight Flushからパンプキン爆弾が投下されました。一説によると死者16名重傷者13名と言われていますが正確な数字はわかっていません。現東レでは始業時・終業時にサイレンを鳴らしていますが、これはこの時に犠牲となった方々の慰霊の意味も込めて敢えて『空襲警報音』にしているとこの区域の小学校では教えられていることを聞きました。この『原爆投下地点』は短期間の間に変更が加えられており、米軍の原爆投下計画自体は結構早くから決定されていたとする説には間違いはないでしょう。結果として広島には原爆投下が行われ、熱線や爆風によるものの他に『放射線被害』が加わった『新型爆弾被害』が深刻なものとなりました。ヒロシマに原爆が投下され、壊滅的な被害を被った話は即座に日本のみならず世界を駆け巡ります。その時に落胆の声を上げた物理学者がいました。アルベルト・アインシュタイン、20世紀最大の物理学者でありノーベル物理学賞受賞者でもあるアインシュタインは、『アインシュタイン=シラードの手紙』によってアメリカのルーズベルト大統領に『核開発』を働きかけたと言われる『アインシュタインの手紙』にサインをしたというものです。このあたりは興味本位で書かれているものに『アインシュタインはユダヤ人』でありナチスドイツの核開発を頓挫させるためだったと言われることもあるようですが、実際には少し異なるようです。やはりハンガリー出身のユダヤ人物理学者である『レオ・シラード』の亡命先であるアメリカでの『研究費の捻出要請』に起因するものではないかという説が濃厚のようです。ウランの核分裂による『莫大なエネルギー』の放出が原子爆弾の開発に繋がり、ベルギー領コンゴで採れる良質の『ウラン』がドイツの核開発利用される危惧をアメリカに伝える意図があったとされています。ただ漠然とそのようなことを言った訳ではなく、ウラン核分裂時の膨大なエネルギー放出が『ひとつの都市を吹っ飛ばせる爆弾となりうる』という発表を公表されてしまったことにもよるとされています。公表されてしまった以上利用する国は出てくるわけで、その第一候補に挙げられていた国がナチスドイツだったという事が理由に挙げられています。ただ知名度を利用してアインシュタインの名前も入れて届けられたルーズベルトへの手紙は、ヨーロッパでの開戦後の昭和14(1939)年10月になったとされています。しかしアメリカ政府の動きは遅く、再びアインシュタインに手紙を頼んだ結果僅かな研究費を手にすることはできたそうです。しかしイギリスのモード委員会の報告がアメリカに伝わると扱いは急転し、1942年6月に陸軍管理下で『マンハッタン計画』が開始されることになります。しかし軍との対立が表面化する中で『核開発問題の遅れ』をナチスドイツに負けると例え続けたシラードはその時既に危険分子扱いされていました。計画からは隔離されもいていましたが、原爆が使用されなければ原爆を管理する国際的合意に至らないかも知れないなどという『戦後の核兵器の取扱い』について述べていた記録も残っています。そして1945年3月の連合国軍のストラスブール占領によってもはやナチスドイツの核兵器保持がなくなった上で、米軍による日本の都市の焼夷弾による戦略爆撃が続く中で、原爆使用が日本になるとの懸念を持ちます。そこでルーズベルトに再びアインシュタインの手を借りて手紙を書き、戦後の核開発競争を避けるために科学者との協議をするという約束を取り付けるものの、その前にルーズベルトの急死によって実現しませんでした。そしてトルーマン新大統領に接触を試み、国務長官であるバーンズに『日本に原爆投下すればソ連に核兵器の情報が洩れて数年で開発にこぎつけるに違いない。また核開発の競合は両国を破滅に導くだろう』と警鐘を鳴らしますが、バーンズは理解せず逆に『開発につぎ込んだ大金を米国民にどう説明するか?』と言い切られています。その後も原爆の『政治的影響』を記した『フランクリンメモ』等も提出されますが、結果として『決まっていた』日本への原爆投下を止めることはできませんでした。その後人道的見地を根拠に『日本への原爆使用に対し反対する嘆願書』を作るものの、スティムソン陸軍長官はポツダム会談のためトルーマンとともに海外におり、結果としてその嘆願書が原爆投下前に目にされることはありませんでした。

結局広島と長崎には原爆が落とされ、多くの犠牲者を出しました。そして日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をします。ここで戦後における核開発に対するシラードの憂いが現実のものとなります。危惧したアメリカとソ連の核開発競争は東西冷戦の中で現実のものとなって行きます。1949年のソ連の原爆実験成功に対し、翌年にはアメリカが水素爆弾開発に着手します。これに対して水素爆弾開発反対の立場を取り続けるシラードは、究極の核兵器『コバルト爆弾』の案を提出するに至ります。使ってしまえば最後『占領』も『被占領』もできないものとして…。

その一方ルーズベルトへの手紙にサインをしたアインシュタインには、『確かにその手紙には署名している』と暴露めいた記述が見られます。ただ時期的にナチスが政権を取ってドイツに敵視される状態であったことから、ナチスドイツが核兵器開発を手掛けており、それに対抗して…というところではシラードの考えと被るところは確かにあるかも知れません。アインシュタインは大量殺戮兵器である『核兵器』の開発には、その後反対の立場を取り続けているのは事実です。しかしアメリカ国籍取得後いっときは海軍省兵器局顧問に就任しており魚雷の起爆装置の開発に携わっています。魚雷が『人殺し』の兵器ではないという認識はなかったはずです。それではなぜなのか…という疑問も残ります。ただ魚雷の開発に携わることで、軍部主導で行われていた『核兵器』の開発の『情報』が得られないようにされていたという説があります。過去の平和主義を含めた政治的傾向から判断して『機密を守れない可能性があった』との証言も残っており、敢えて『おとり』的に武器開発をさせて、秘密裏に進められている『マンハッタン計画』にアインシュタインが入って来れば、結果すら変わってしまうという危惧がされていたこともほぼ事実のようです。科学研究開発局の局長であった『ヴァネヴァー・ブッシュ』がアメリカ国防研究委員会(NDRC)を設立させ、第一次世界大戦の折に科学者と軍の関係が協力的でなかったことを教訓に一定の基準で『科学者』を排除し、戦時中の科学研究の調整・制御役を演じてきました。その結果1945年7月16日に行われた人類初の核実験である『トリニティー実験』は、8月6日の広島原爆投下後に公表されており、当日のアラモゴード航空基地は「遠隔地の火薬庫が爆発したが、死者・負傷者は出なかった。」との発表がされています。一定の基準内だったシラードと基準外だったアインシュタイン。その二人の違いは日本への原爆投下の『可能性』を知っていたか・知らなかったか?という事ではなかったかと思います。親日家で知られるアインシュタインにとって日本への原爆投下は、自分自身を引き裂かれる思いだったと思います。広島の原爆投下を知り発した『O weh!』のひとことがその断腸の思いを語っています。戦勝に湧くアメリカで『我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない』と演説したことからもその気持ちが伝わります。

トリニティ実験によって始まった戦後核の取扱いについて、アインシュタインをはじめとした物理学者の多くは、何某らの形で『核開発』に携わってきたことを悔いていたといっても過言ではありません。レオ・シラードもアルベルト・アインシュタインも…。特にアインシュタインは広島・長崎に投下された原子爆弾の犠牲者に『取り返しのつかないことをした』と広島の平和活動家谷本清牧師や湯川秀樹博士に涙ながらに詫びたとされており、後にアインシュタインがイギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴えるといった内容の『ラッセル=アインシュタイン宣言』に署名しています。その呼び掛けに応じて集まった科学者達による全ての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える国際会議『パグウォッシュ会議』の開催へと繋がります。しかしその活動の中で『東西冷戦』の影響を受けていたことも確かで、日本の学者たちの声明が、宣言署名者によって握りつぶされたこともありました。また学者間でも『核開発』に対し考え方の相違もあり、バートランド・ラッセルのように『核兵器廃絶』を唱えるもの、レオ・シラードのように『核抑止論』を唱える者との対立が鮮明化し、現在では『核抑止論』がパグオッシュ会議に於ける『多数論』として定着し、現在に至っています。

核兵器の廃絶と言っても、既に開発された核兵器を廃棄することを国家が行うかどうかは正直疑問に思います。発電設備等の『平和のための原子力』の提供から、核兵器が開発された事実もある訳ですから…。日本は『非核三原則』の下で核兵器を『もたず・つくらず・もちこませず』を制定当時の国是としていました。加えて昭和43(1968)年には『核エネルギーの平和利用』が表明されました。原子力発電所も平和利用のひとつではありますが、チェルノブイリや東電福島原発のような事故が起こるとやはり『核兵器化』してしまうリスクは勿論ある訳であって、一歩間違うとヒロシマの二の前になる可能性は否定できません。そして『平和利用』のために提供された技術が国家によって『核兵器化』され、人々の生活に不安を与えていることは、誰もが知っている事実です。

某国では核兵器の実験が未だ行われており、その度に平和記念資料館に置かれている『世界平和監視時計』の『最後の核実験からの日数』がリセットされています。制裁決議がどれ程の効果があることは私にはわかりません。しかし世界初の核兵器が投下された広島と長崎では今なお被爆による『後遺症』に悩む方々が多くいらっしゃいます。アインシュタインや湯川秀樹博士等の『物理学者』は、その核兵器のメカニズムがわかるために自分の研究や発見が『核兵器開発』に繋がってしまったことを悔いておられる方が多いと知りました。素人にはビジュアルでの『インパクト』によってしかその『悲惨さ』がわかりませんが、愚かな自己顕示欲に駆られた時代遅れの『核開発』を止める手段が出てこないことに歯痒さを感じます。今後どのような流れになるのかはわかりませんが、改めて『核』のない平和な時は、普遍的なものとして続いて行って欲しいと改めて思いました。

広島平和記念資料館の展示に戻りますが、現在本館が改修工事をしているために東館のみの開設になっていますが、一部本館の展示が『特設展』という形で見学することができます。被爆して熔けた三輪車や被爆死した少年少女の衣服、熔けたガラスや焼け焦げた弁当箱等は見たことはあれど、やはり実物を見るのとではインパクトも変わります。そしてなにより私が魅かれたのは『佐々木偵子さんの折り鶴』でした。言わずと知れた『原爆の子の像』のモデルになった少女のことですが、オバマ大統領の広島訪問によって特にクローズアップされたところも、よく知られる理由にはなったことは間違いありません。2歳で被爆するも症状が出ず、すくすくと育った彼女の夢は『学校の先生』だったそうです。しかし10年経って原因不明の『しこり』ができたことによって余命僅かな『白血病』を患っていることが判明します。入院しながら薬包紙等を使って1,300羽もの千羽鶴を折りました。その背景には1,000羽の折り鶴を折ると『退院できる』と聞いていたからだそうです。しかし願いは叶わず僅か12歳という短い生涯を偵子さんは終えました。

以前の広島平和記念資料館では展示品の多さから『時間配分』の難しさが指摘されていました。団体旅行ではそれが顕著で最初の方からゆっくり見て行くと、最後の方では時間がなくなり、駆け足で見るとかスルーしなければならないために展示物の意図が伝わらないことが言われていました。私自身も確かにそう思ってはいたのですが、この偵子さんの千羽鶴が何処にあったのかを思い出すことができませんでした。そのため今回初めて見たことになりますが、ここで出てきたdéjà-vu。以前に見た記憶があるような不思議感が出てきます。理由はわかりませんが飾られている千羽鶴が目に見えない力で私に訴えを投げかけています。そのため目を背けそうにもなりましたが堪えて見続けました。被爆死者の遺物はご遺族が惨劇を後世に伝えるために展示資料として提供されたものであり、やはり『私物』として見るのであれば写真は控えた方が良いとの考えからほとんど撮ってはいませんが、この千羽鶴だけはどうしても保存したいと思って撮影しました。

私の気持ちはどうでもいいことですが、偵子さんの『想い』が少しでも多くの人に届けば…という気持ちを込めて眺めながらカメラに収めました。

広島平和記念資料館の適正滞在時間は何時間?ということがHP上でも論議されていますが、やはりこれは人によってかなりの開きがあることに間違いはありません。まぁそんな論議はどうでもいいことですが、訪れた日はまだ本館の改修工事が終わっていないため、東館と一部本館展示品による『特設展』だけでいえば効率良く回れるように思います。今回の滞在時間は約1時間でしたが、見て得たものには満足しています。ただこの1時間は8月の開館時間が19:00までとなっているためにでき得たことであり、通常はできませんのでひとこと断りを入れておきます。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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あみんちゅ戦争を学ぶ旅

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