那覇旅行記(ブログ) 一覧に戻る
第十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~対馬丸記念館・旭ヶ丘公園慰霊碑編~<br /> <br />那覇市若狭という〝街中〟に位置する〝対馬丸記念館〟へは、ここ数回の沖縄本島への旅路に於いて、訪問地としていつも候補に上がっていながら訪れる機会に恵まれなかった場所のひとつです。今回も糸満から那覇市街を北上する途中に渋滞に巻き込まれ、ふと目に入った〝対馬丸記念館こちら〟の標識、それに惹かれるようにやって来ました。行き当たりばったりで訪れた訳ですが、この対馬丸記念館には〝駐車場〟がありません。ホームページには〝市営松山駐車場〟に停めることが出来るようですが、行き当たりばったりで行くと、近くの〝コインパーキング〟しか見当たりません。200円という金額はいいのですが、〝民間のコインパーキング〟ではなく〝県公安委員会〟の設置、つまり時間の延長ができません。そのため1時間以上は〝駐車禁止〟扱いになってしまいます。民営の駐車場もあるようですが、それより探す〝時間〟の方がもったいないので、急いで回ろうとさっさと進みます。<br /><br />すぐ近くに〝波の上ビーチ〟や〝波上宮〟、そして慰霊碑がある〝旭ヶ丘公園〟等色々な〝観光地〟があるこの地に〝対馬丸記念館〟がオープンしたのは平成16(2004)年8月22日のことです。昭和19(1944)年8月22日に沖縄から本土疎開の1,788名(諸説あり)を乗せた〝対馬丸〟が鹿児島県悪石島沖でアメリカ海軍の潜水艦〝Bowfin(ボーフィン)〟号の雷撃を受けて沈没し、乗員乗客合わせて1,476名(氏名判明分)が犠牲となった〝対馬丸事件〟を取り上げた〝記念館〟として、事件後60年目の平成16(2004)年8月22日にオープンしました。<br /><br />〝記念館〟を見学し、〝小桜の塔〟をはじめとした〝慰霊碑〟を巡り、波上宮を回ってくるととても時間が足りません。言い方は悪いですが、この〝パーキングメーター〟は悪く解釈すればそれまでのもので、私より先に停めた車がコインすら入れず〝路上駐車〟をしていることが当たり前との〝解釈〟であれば改善の余地はないと思います。場所が場所ゆえ深く考えてしまった方が馬鹿を見るのであれば…。車を停めて58分で回ってきた結果、本当に後から思い返しても〝思い出せない〟ことが多かったことは、非常に残念に思いました。確かにビーチに泳ぎに行くための路駐は多かったようですが…。確かに〝公益財団法人対馬丸記念会〟という規模で運営されておられるので、公的施設とは違い、闇雲に経費を掛けられない背景はわかりますが、なにか改善できないものかとは思います。<br /> <br />小規模ながらここの展示物からは、〝対馬丸事件〟によって志半ばで犠牲となった〝子供たち〟の〝未来への夢〟を語ることにより、〝追悼と鎮魂〟、そして〝戦争〟が併せ持つ〝破壊と犠牲〟の〝負の無限連鎖〟に対する警鐘は、一部外者に過ぎない私にも伝わってきます。その点では〝価値〟を見出せるものの、全体ではなにかこう〝しっくりいかない〟ものも感じました。いつもならなにか〝違和感〟を感じた時は、帰宅してから資料などをひっくり返し、〝こうではないか?〟となる訳ですが、今回は展示されていたものから直接感じた〝なにか〟がありました。 <br /><br />対馬丸は昭和19(1944)年8月20日18:35に沖縄からの〝疎開者〟約1,700名を乗せ、僚船〝暁空丸(ぎょうくうまる)〟〝和浦丸(かずうらまる)〟とで構成された〝ナモ103船団〟として、駆逐艦〝蓮(はす)〟と砲艦〝宇治(うじ)〟の護衛を伴い、長崎へと出発します。対馬丸の乗客の多くは、〝軍隊輸送船〟として兵員収容区画へ改装されていた船倉に居住することとなりますがこの区画、〝階段一つと緊急用の縄梯子があるだけ〟の出入りも困難な状態であった場所だったとされています。台風の影響で海が時化ており、対馬丸に乗船した学童達の反応も様々だったようです。修学旅行に行くかのように甲板に出て船団最優秀船である〝和浦丸〟を眺めたり、内地での夢や期待を話す者、〝船酔い〟するもの一日で復活する者、一晩中寝ずに騒いだ者などがいたそうです。また手空きの乗組員も学童たちとつきあい、〝戦争の話や、前に遭難して助かった話〟など をしたという記録が残っています。<br /> <br />【資料用:ナモ103船団船舶概略】<br />対馬丸:総トン数(6,754t)・最高速力(13.9kt=25.8km/h)・乗船者数(約1,700名※諸説あり)<br />和浦丸:総トン数(6,804t)・最高速力(16.5kt=30.6km/h)・乗船者数(学童疎開者1,514名※諸説あり)<br />暁空丸:総トン数(6,854t)・最高速力(10.0kt=18.5km/h)・乗船者数(一般疎開者1,400名※諸説あり)<br /> <br />那覇を出発してから3回目の夜である昭和19(1944)年8月22日22:12、鹿児島県トカラ列島悪石島(あくせきじま)付近の海域で、米軍潜水艦〝ボーフィン(Bowfin)〟が放った魚雷が第一、第二、第七船倉左舷、そして間をおいて第五船倉右舷に命中し、魚雷命中による船倉へのおびただしい海水の流入で、緊急用縄梯子はほとんど流され、階段もすぐに海水につかって使えなくなりました。船倉に閉じ込められた者も多い中、衝撃とともに階段へ一早く登った者と、暑さに耐えられずに〝甲板〟に上がっていた者は船倉からは脱出できたものの、今度は恐怖から〝夜の時化た海〟に飛び込むことができず、結果退避が遅れることになりました。<br /><br />雷撃を受けて対馬丸の船長は〝総員退船〟命令を出します。この時を物語る話として、引率教員がなかなか起きない児童を〝蹴っ飛ばして〟起こしたこと、乗組員が〝恐怖〟のあまり〝ブルワーク(手すり)〟から手が離せない児童を海に放り投げたことなどがあります。しかし大人の努力も空しく魚雷命中から11分後の22:23頃〝対馬丸〟は大爆発を起こし沈没します。その爆風を受け救命ボートが転覆し、台風の影響で時化ている海に投げ出された生存者は〝筏〟で漂流しながら救助を待つことになります。生存者は比較的短時間のうち〝救助艇や漁船〟に救出されたものの他、〝トカラ列島の無人島〟に漂着したりして奄美の住人や漁船に助けられました。しかし中には実に10日もの間漂流された方もおられたそうです。その一方海流に乗って多くの犠牲者の遺体が〝奄美大島〟や〝宇検村(うげんむら:奄美大島東南部)〟へと漂着しています。その遺体は後日の収骨の際に〝わかりやすい〟ようにと一体ずつ丁寧に、地元の方々や奄美の大島防備隊員の手によって埋葬されたそうです。その遺体の漂着数が最も多かった宇検村の焼内湾は、その当時住民が〝肉の海〟と呼んでいたとの記録も残っています。<br /><br />疎開船としてこの〝ナモ103船団〟では、約5,000名を運んでいました。数字だけの話では済まない話ですが、対馬丸〝以外〟の船舶にもおおよそ3,300名が乗っていたとされています。対馬丸に雷撃を加えた〝ボーフィン(Bowfin)〟は、護衛の駆逐艦〝蓮〟に手持ちの魚雷全てを打ち込まれたにも拘らず、その海域にしばらく潜伏し続け、次のターゲットを探していたことがわかっています。駆逐艦〝蓮〟が行った〝浮上攻撃〟をしかけた〝潜水艦〟への魚雷攻撃は、〝重要な意味〟を成さないことだったかも知れません。しかし一旦船団から外れ、〝ボーフィン(Bowfin)〟を回り込むように航行して雷撃を加えたとの記録があることから、〝別の目的〟があったのではないかとも思います。〝ボーフィン(Bowfin)〟に雷撃を加えた後、船団の護衛へと戻り、〝対馬丸事件〟の〝そのとき〟に〝その場所〟にいた2隻の疎開船〝和浦丸〟と〝暁空丸〟と護衛の〝宇治〟とともにその海域を脱し、2隻に乗っていた〝疎開者〟3,300名の護衛を続け、2日後の8月24日に無事長崎へと到着し〝疎開船護衛〟の任務を果たします。<br /><br />館内の標記を見る限りこの〝護衛艦2隻〟の取った行動が、〝軍は見捨てた〟という意見に深く繋がっていることのようです。雷撃を加えただけで〝救助活動〟は等閑にして航行を続けた〝様子〟によってそのような〝解釈〟になっているものの、一方では〝擁護論〟もあり過去に起こった〝二次的被害〟による〝犠牲者〟を出さないようにするため〝やむをえない〟判断だったとされるもののようです。<br /><br />その事件とは〝対馬丸事件〟と程近い海域で9ヶ月前に起こった〝湖南丸事件〟の〝救助活動時の悲劇〟というものでした。〝湖南丸(2,627t)〟〝大信丸(1,306t)〟、那覇港外より〝延寿丸(5,374t)〟、それに名瀬港外で加わった〝慶山丸(2,116t)〟の加入輸送船4隻とで構成された〝沖903船団〟は、〝第二新東丸〟の護衛をつけ、昭和18(1943)年12月20日17:00頃奄美大島名瀬港を出港した後、警戒航行中の21日2:42、口永良部島西方18km付近の海域で、米軍潜水艦〝グレイバック(Grayback)〟の発した魚雷2発が左舷に命中した〝湖南丸〟が沈没します。その際名瀬港外より大島防備隊の〝柏丸(515t)〟が追加の船団護衛任務を帯びてついていました。この海域に於ける〝輸送船団〟の雷撃による沈没が多発したことも理由のひとつだとは思いますが、この〝湖南丸〟には、那覇から乙種予科練習生の二次試験受験者約200名、一般民間人、軍需工場へ向かう人たち、女子挺身隊志願者、満蒙開拓団等も乗船しており、総勢では約800名近い方々が乗船されていたようです。〝湖南丸〟の沈没には少しではあるものの〝時間的余裕〟があったとされているものがあり、被雷直後に階段に殺到し甲板まで出たものの、海に飛び込むことを怖がる女性や子供も多く、その方々を押しつつ海へ飛び込んだという逸話が残っています。護衛の〝第二新東丸〟は〝グレイバック(Grayback)〟に対し攻撃を仕掛ける一方、救命ボートや板切れ、筏にしがみついた乗客を〝柏丸〟が現場に残り救助しました。〝時化の漆黒の海〟での約3時間の懸命な活動の末、〝湖南丸〟の乗客400名が〝柏丸〟に救助されました。しかし南国とはいえ12月の海は冷たく、救助された後暖を取るため〝機関室〟にいたそうです。その〝柏丸〟にも〝グレイバック(Grayback)〟は雷撃を加えます。6:04発射された2本の魚雷は〝柏丸〟の機関室に命中し、それが搭載していた潜水艦攻撃用爆雷の誘爆を惹き起こし、同船は救助した400名の湖南丸の生存者もろとも轟沈しました。〝湖南丸〟の犠牲者は、船員69名、軍属3名、乗客576名の648名という記録があるものの、乗船名簿に名前のない犠牲者が約100名いたという証言もあり、実数は不明だとされています。この〝湖南丸〟が雷撃を受け沈没した際に、事前に受けていた命令通り〝護衛艦一隻〟つまり〝柏丸〟を救助に当てるものとして現場に残し、船団残りは鹿児島県の山川港へと退避しています。そこで起こった〝柏丸〟の撃沈事件にはなりますが、救助活動中の船舶に対する攻撃は〝モラル〟的なこととして語られていることなので、この場では触れませんが、〝雷撃を受けた船舶〟の乗客を〝救助〟していたことによって起こった〝二次的被害〟ということになります。その結果この〝湖南丸〟と〝柏丸〟の沈没によって800余名の犠牲者を出したというものです。<br /><br />ここで言われている〝救助〟や〝退避〟に関する〝命令〟というものが、〝雷撃を受けたる場合は、後続船一隻が救助に当たるもの〟とされ〝但し避難を命じたる際は、現場に留まることなくすぐに避難すべし〟というものでした。それゆえ〝柏丸〟を現場に残し、他の船舶は護衛艦に伴われ山川港へと避難しています。〝湖南丸事件〟の際には、湖南丸以外の乗船客数が書かれていないため、実際の数字はわかりません。しかし結果として無事に山川港へと辿り着いていることから、〝湖南丸〟と〝柏丸〟の撃沈により多くの犠牲者を出したものの、結果論として残りの乗船客は〝とりあえず〟は無事だったということになります。<br /><br />ここでいわれる〝救助命令〟が〝何を意味するのか〟は解釈の分かれるところではあります。しかし結果として〝二次的被害〟が出てしまった上に、これから南西諸島に於いて〝疎開命令〟を出す軍部によって〝緘口令〟が敷かれることとなり、結果この〝湖南丸事件〟の推移は疎開者には〝伝わっていなかった〟ことは想像できます。しかし運航に従事されていた疎開船の船員の方々や護衛艦の乗組員である〝軍人〟には〝知らなかった〟とは言えないこともあったのではないかと思います。〝情報〟としてこの〝湖南丸事件〟を知っていたとすると、同じような状況で目の前で〝対馬丸〟が雷撃されるのを見て〝護衛艦1隻〟を残して〝救助〟に充てられたかどうかを考えると、正直〝無理〟ではなかったか、そう考えます。<br /><br />ここで〝九死に一生〟を得た〝生存者〟の方々の〝証言(要約)〟を紹介します。<br /><br />①	 対馬丸砲兵隊(船舶砲兵第2連隊第1中隊所属)<br />3人の学童とともに救命筏にて漂流。悪石島に接近し海に飛び込みますが、学童の中に〝泳げない〟という子供が泣きだしたため置き去りに出来る筈もなく、泳いでの上陸を断念し筏に引き返します。救命筏の上に3人の子どもがいた。その後2名の学童が衰弱死して息を引き取るものの、海軍のしきたり通り〝水葬〟にする気が起らず〝筏〟に乗せたまま漂流を続けるが2日目夜に〝大波〟によって子供達の遺体は漆黒の海へと飲まれてしまう。漂流3日目の午後救助艇〝第一拓南丸〟に発見されるが、経験上大型船が小舟に気づく確率の低さを熟知していたため、手旗信号で見張兵と交信するまでは、「船が行ってしまっても、気を落としてはだめだよ」と、少年をぬか喜びさせまいとする配慮を忘れないでいた。その後少年共々救助される。同時に救助された学童とは鹿児島で別れるが、事件後33年経った昭和52年12月、約40時間にも渡って生死を共にした二人は、テレビ番組上で再開を果たしています。<br /><br />② 一般疎開者 14歳<br />「自分たちの筏には兵隊が2人乗っていて、よく私たちをはげましてくれた。眠くなると『ねむってはいかん、ねむると流されてしまうぞ』と時々びんたをはった」と証言し、彼らが怪我を気遣ったり、生のニンニクをくれたことも手記に書いています。<br /> <br />③ 一般疎開者 9歳<br />甲板でうとうとしていると突然〝ドカーン!〟というすごい音と衝撃を受けます。そのうちに船が傾いてきて〝高いところから滑り落ちるような感覚〟で気を失い、気が付くと海の上に浮かんでいました。誰かが筏に乗せてくれたようですが記憶にはありません。同じ筏には5人いましたが子供は私一人でした。漂流中はお腹が空かずただ〝寒くて眠い〟だけでした。しかしウトウトとすると誰かが〝ビンタ〟をします。〝寝てはいけない、流されるぞ〟と。そして数日後救助艇に引き上げられ、鹿児島へと向かいました。<br /><br />④ 学童疎開者 12歳<br />「やがて艇にぴったりと横づけにされると、縄はしごがおろされた。私はこのとき右足に痛みを感じてなにげなく見ると、肉がふわっともりあがって傷ついていた。それで縄はしごをあがろうとしても痛みで動けずにいると、それを見た兵隊さんが縄はしごを急いでおりてきて、背負ってくださった。そして艇にあがると、みんなが歓声をあげて迎えてくれて、あれこれとせわしく私たちの面倒をみてくださった。びしょぬれになった衣類は蒸気室で乾かされ、頭や顔の傷ついた人たちは手当てをうけた。私の足の傷にもていねいにヨーチンをぬって、繃帯(ホウタイ)をしてくださった」と、述べている。手記中、艇員達については常に敬語で記述しています。 <br /><br />⑤ 国民学校教師<br />爆破された船倉にはすさまじい勢いで水が流れ込んでおり、その中から「助けてくれ」という子ども達や教師の声が聞こえてきた。階段を駆け降りてみると、中はゴウゴウと流れ込んだ水が渦を巻き、その中から助けを求める声が聞こえるが、助けるすべもなかった。そのとき船は船尾から傾きバリバリと恐ろしい音をたてて甲板を崩しはじめた。私は急いで駆け上がったが沈没の渦に巻き込まれた。もうだめだ!まさに息が切れようとしたとき私の頭は水面に上がっていた。<br />4日目、一緒に筏に乗っていた老人が海に飛び込み鮫にかまれて出血多量で死亡。5日目には、自分自身も幻影が見えるようになる。幻影によっても多くの命が失われた。海に飛び込んだ老人も幻影を見たと思われる。<br />なんとか筏が流れ着いた〝右も左も断崖絶壁の島〟に漂着し、〝同じ筏〟で漂流してきた〝兵士〟と共にその断崖を這い上がり救助を求める。6年生の娘と母親は死亡したが、その後付近を漂流していた妻も救助されました。<br /><br />⑥ 一般疎開者 9歳<br />家族6人で乗船。雷撃によって対馬丸が沈没した際甲板から海へと落下。運良く沈没に巻き込まれなかった生存者同士の〝筏〟の奪い合いに遭遇。力のないものが、後からすがってくる力のあるものをを〝引きずり下ろす〟という修羅場の中、なんとか筏中央部によじ登った。そして目立たぬよう体をできるだけ小さく丸めてうつむいて押し黙っていた。何日目かの昼過ぎ、頭の上を日本の飛行機が飛んできて、みんないっせいに〝おーい助けてくれ!〟と手を振ったが飛行機はそれっきり姿を見せなかった。老女がひとことも言わず死んで流れて行き、おばさんもいなくなった。乳飲み子が母親の乳首にかみついて痛いと言っていたが,その子も母親の腕の中で息をひきとり、いつの間にか波にさらわれてしまった。体は陽に焼け皮膚は赤黒くただれ、頭髪はバサバサに縮れ、抜け毛も多くなった。他人が鮫に襲われていても、みんな一言も言わずだまっていた。うっすらと夜明けが近い頃、筏は島に向かって押し流されていた。漂流により足元がふらつき、四つん這いになって陸地へ向かった。暫く岸辺でうつぶせになっていたが、島へと向かう漁船の姿を見つけ、全員で手を振った。漁船に救助されたときは大人3人と子供は私1人であった。<br /><br />生存者の方々が語る貴重な〝証言〟ではありますが、実はある〝一定の傾向〟がありました。①は海軍の兵士の方、②③④⑥は漂流をされた〝子供〟、⑤は引率教師の方々のものになります。記述内にもある通り②③⑤の漂流をした〝筏〟には〝兵士〟が乗っていました。④は〝兵士〟が乗り組む救助艇に助けられています。海のことを知る〝兵士〟や〝船員〟がいたことによって、漂流者の〝生還率〟に大きな差が出ていることは多くの〝証言〟の中に見受けられることなので、ほぼ間違いはないことだと思います。また23日の救助に当たったのは〝漁船〟ですが、その漁船に〝救助依頼〟をしたのは、他ならぬ〝海軍機〟であったことも、漁船乗組員の証言から明らかになっていることでもあります。そして24日に救助に当たった〝第一拓南丸〟の乗組員もまた〝兵士と船員〟であったということになります。<br />証言内容から〝兵士〟が関わったとされることが多い中、終始〝兵士〟の関与を否定する証言があります。それがこの⑥の内容になりますが、生還を果たされた漂流者の方々のうち数少ない〝子ども〟のものであり〝兵士〟のことが書かれていないケースのものです。推論の域ではあるものの、悪石島近海で自身が乗る〝対馬丸〟が雷撃を受けて沈没し、多くの子供達が漆黒の海に投げ出された中、護衛艦2隻が救助活動をせずに現場海域を脱して行ったという〝目の前〟で起こった事実がまずありました。そして〝筏の取り合い〟に始まった〝時化の大海原〟を6日間に渡って漂流し、約130km離れた奄美群島の無人島である〝枝手久島(えだてくじま)〟に漂着し、そこに偶々やって来た地元の〝漁師〟に救助されました。自分は助かりましたが、一緒に漂流していた〝同世代の少女の死〟を〝目の当たり〟にしていれば、結果〝兵士(軍)は何もしてくれなかった〟との発言に〝ならない〟方が逆に不自然なようにも思えます。<br /><br />しかしひとつだけ〝辻褄のあわない証言〟があります。〝日本の飛行機〟に関する記述にあたるものがそれになりますが、ただこれも〝解釈〟の違いにより〝正反対〟の印象を与えてしまうところでもあります。〝何日目かの昼過ぎ、頭の上を日本の飛行機が飛んできて、みんないっせいに〝「おーい助けてくれ!」と手を振ったが飛行機はそれっきり姿を見せなかった。〟という一文、これを素直に捉えると〝飛行機もなにもしていない〟ように聞こえます。私もそう思った一人です。しかしこの表現は〝間違っていない〟ものでしょう。というのも〝海軍機〟が現場海域に到着したのは、事故後約14時間後であったとされています。ここで〝現場海域〟について考えないと間違いなく〝誤解〟を生んでしまいます。つまり〝漂流者発見〟の時刻には、〝漂流者の群れ〟以外の〝漂流者〟がいたという事実です。これは現場海域の天候や海流が影響しており、台風の影響があったとされていることも踏まえるとかなり〝さらに広域〟に渡って漂流者が広がっていたことになります。それが後々救助されずに奄美大島近くまで約130kmにも渡って漂流を余儀なくされた〝理由〟でもあります。つまり〝海軍機〟にはわからなかった、若しくは〝海軍機〟には〝発見〟されたが、救助に来た船舶に〝発見されなかった〟〝定員の問題〟の等の都合で救助されなかったことによって〝漂流〟を余儀なくされたことに繋がります。〝哨戒〟と〝救助(支援)〟の目的で〝海軍機〟が飛来したのは1度だったと記録にあります。事実を突き合わせると〝捉え方〟によっては〝その通り〟の表現ということになります。これはある意味〝先入観〟による〝誤解〟のように思えます。しかし同じように〝誤解が誤解を生む〟悪循環が続いた結果、真実とはなんなのか…という結論に至っているところは多々あるようにも思えてしまうところもあるのですが・・・どうなのでしょうか。<br /><br />琉球新報平成11(1999)年8月22日付の記事にこう記されていました。【記事をそのまま引用・名前のみ伏字】 <br />1944年8月22日、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した学童疎開船「対馬丸」の遭難時、上空から遭難を通信基地に通報、漁船を現場まで誘導した元海軍航空機の機長、Hさん(76)=愛知県津島市在=が対馬丸生存者で講演活動をするTさん(64)=喜如嘉在=あてに手紙を送り、犠牲者を悼む思いをつづった。22日は対馬丸遭難から55年目。「大変な命の恩人」とTさん。Hさんは「戦争が終わっても惨状は忘れない。一人でも二人でも生きて帰ってという願いだった」と胸の内を語る。<br /><br />そして同じく琉球新報平成11(1999)年12月22日付の記事には、1944年に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した悲劇の学童疎開船「対馬丸」生存者で、全国で平和講演活動を続けるTさん(65)=大宜味村=が21日、遭難時に上空から遭難を基地に通報、救助漁船を現場まで誘導した元海軍航空兵のHさん(76)=愛知県、Sさん(77)=鹿児島県=と念願の初対面を果たした。Tさんは「命を救われた多くの友人を代表してお礼が言え、感無量」と感謝を述べ、「あのような悲劇が二度と起こらないよう、力を合わせて戦争の悲惨さを語り継いでいきましょう」と話すHさん、Sさんと固く手を握り合った。<br /> Hさん、Sさんは当時、長崎県の航空隊に駐屯していた。沈没翌日の8月23日正午すぎ、同船先導のために航路向けに飛んでいたところ、悪石島沖で漂流する遭難者たちを発見。通報と同時に、「ガンバレ、救助手配ス」と記した通信筒を海面に落とした。Tさんは「友軍の飛行機と、励ましの書面に絶望のふちから救われる思いだった」と当時を振り返る。<br />  Hさんは退職教員機関誌の記事で、Tさんを知り、昨年8月に手紙を寄せて以来、書面の交流が続いていた。21日来県したHさんらは対馬丸慰霊碑「小桜の塔」を訪れ、平和への思いを新たにした。両氏は22日、本土に帰る。【記事をそのまま引用・名前のみ伏字】<br /><br />この二つの記事から、〝対馬丸事件〟の数少ない生存者のうちの一人が〝飛行機〟にて救助活動を支援した〝兵士〟のことを〝命の恩人〟と語っていることがわかります。〝軍はなにもしてくれなかった〟と著書の中で述べておられる方が、〝日の丸〟が描かれた飛行機に搭乗していた〝兵士〟は紛れもない〝軍人〟であったことを〝どのように解釈するのか〟。そこで必然的に生じてしまう〝矛盾点〟を〝どう説明するのか〟という疑問が出てきます。勿論〝全ての軍人〟がそうだったとしている訳ではないにしても、なにか深い理由があるように思えてなりません。<br /><br />先に紹介をした〝著書〟と〝新聞記事〟には、15年間という隔たりがあります。戦後同じ〝教育者〟としてご活躍されたお二人、そしてこの〝新聞記事〟となったきっかけは〝元兵士〟側からの〝手紙〟に起因しているということです。対馬丸事件遭難者救助に携わり、やむをえない理由で〝救助活動〟を見届けられなかった元兵士の方々の心には、戦争が終わってもその惨劇は忘れられないものとしてずっと頭から離れなかったそうです。ひとりでも多く助かって欲しい・・・、その想いは事件後54年が経過した平成11(1999)年12月21日に叶います。漂流者と2名の元兵士の3名ががっちり握手を交わしたことが記事に載っています。このときに漂流者が述べた〝友軍の飛行機と、励ましの書面に絶望のふちから救われる思いだった〟との言葉、〝軍は何もしてくれない〟という考えの持ち主だったとは到底思えません。また〝証言〟に書かれている〝日本の飛行機〟は〝なにもしていない〟はずではなかったのでしょうか。<br /><br />ここで〝時系列〟に基づいた〝仮説〟を立ててみます。〝対馬丸〟〝暁空丸(ぎょうくうまる)〟〝和浦丸(かずうらまる)〟の疎開船3隻は、〝ナモ103船団〟として那覇港を出発。港外で駆逐艦〝蓮〟と砲艦〝宇治〟の2隻の護衛艦が付き、5隻で一路長崎へと向けて出航します。途中ジグザグ航法を取ったりもしていましたが、船団に遅れをとるということで、ジャミング(妨害電波)を発したまま直進する形で現場海域に進入したところを米軍潜水艦〝ボーフィン〟による雷撃を受け沈没します。8月22日22:34のことでした。4本の魚雷を受けた〝対馬丸〟は僅か10分程で沈没します。護衛についていた2隻のうち駆逐艦〝蓮〟は、一旦船団を離脱し旋回して、魚雷の発射地点と思しき場所へ手持ちの魚雷を全て放った後に船団護衛の任務に戻ります。8月22日22:40、北緯29度32分、東経129度30分の場所から駆逐艦〝蓮〟により〝第四海上護衛隊本部〟へと〝22:23対馬丸、雷撃を受け沈没す。当船米潜水艦に雷撃を加えるも効果なし、船団護衛に戻る〟と無線連絡が入ります。<br />                                             <br />〝対馬丸沈没〟後6分でこの〝無線〟が送信されていることになりますが、何とか〝沈没〟に巻き込まれずに〝脱出〟し、海上で〝浮遊物〟を掴むことができていれば、その〝無線連絡時刻〟には、大勢の〝漂流者〟が水面に浮かんでいたことになります。それを無視して〝蓮〟が〝護衛任務〟に戻ったことが、〝軍は見捨てた〟論の根拠とされていることとは思うものの、それには〝理由〟があったのではと考えます。<br /><br />まず〝湖南丸事件〟の〝救助時に於ける被雷〟によって、一時的に救助された400名もが犠牲になってしまった〝事実〟。結果800余名の犠牲者を出すことになりましたが、その〝被雷時〟の救護活動については事前命令があり、現場に一隻が残って救助にあたり、他船は〝山川港(鹿児島県指宿市)〟へと退避することになっていました。しかしその命令を遵守した故に起こってしまった〝二次被害〟の事実、その教訓が〝対馬丸事件〟の際に〝全くない〟とは言い切れないと思います。また〝湖南丸〟と〝柏丸〟の乗員乗客は殆ど犠牲になってしまったものの、他船の乗員乗客は退避した鹿児島山川港に到着していることから、〝これ以上の犠牲〟を出さないようにする、いやしなければいけないといった〝義務感〟もあったのではないだろうか、そう思えるところもあります。それが船団構成の絡みであり、〝ナモ103船団〟の疎開船は3隻で総勢5,000名近い乗員・乗客を運んでおり、僚船である〝和浦丸〟〝暁空丸〟の2隻に3,300名程が乗っていました。護衛艦の役目はこの船団を無事届けること、攻撃のため一旦船団から離れた駆逐艦〝蓮〟もすぐに船団に追いつき、結果8月24日に無事目的地である長崎へと到着しています。<br /> <br />そして駆逐艦〝蓮〟による攻撃について、〝対馬丸〟が雷撃により沈没した際に船団から離れるように旋回し、手持ちの魚雷をすべて放っていますが、この時の各船の位置関係から見る限り米潜水艦〝ボーフィン(Bowfin)〟を回り込むように航行した後、〝ある程度の角度〟をつけて魚雷を放っています。〝ボーフィン〟は〝浮上攻撃〟をしているため、角度をつけて〝魚雷〟を放つことは、なんら〝意味のない〟ことのように思います。しかしこれには〝確固たる理由〟があるように思えてなりません。もし潜水艦に損害を与えるための雷撃であるならば、浮上攻撃を仕掛けたことを考えると〝水平〟に撃つしかありません。しかしその攻撃によって潜水艦の〝爆発〟が起ったならどうなるでしょうか。魚雷も燃料も積んでいる〝ボーフィン(Bowfin)〟が爆発…、つまり〝漂流者〟が2次被害を受ける可能性があるのではないでしょうか。そして今までの雷撃を受けた場合とは違い、〝対馬丸〟を撃沈させた〝ボーフィン(Bowfin)〟はすぐには逃げず、魚雷を再装填し〝次のターゲット〟を伺っています。その時間〝対馬丸〟攻撃後1時間以上だったとされています。その海域に残ることがいかに〝危険をはらむ〟ものなのかは〝蓮の乗組員〟もわかっており、〝威嚇〟として発射させたのではないかと思います。<br /> <br />最終的には〝蓮〟は現場海域を脱出し、護衛の任務へと戻ります。〝対馬丸撃沈〟という大きな犠牲は出しましたが、他の2隻に乗船した3,300名もの疎開者は無事目的地へとたどり着くことができました。<br /> <br />では〝残り2隻の護衛〟と割り切ったのかどうかというとそれも違うように思います。この〝対馬丸撃沈〟の報告を入れた際、〝漂流者多数につき救助要す〟ということも〝海上護衛総司令部〟隷下の〝第四海上護衛隊本部〟へと伝わっていました。この〝第四海上護衛隊〟こそが沖縄から南西諸島・九州間航路の〝護衛〟を専門としていたところです。日が変わった8月23日朝、第901海軍航空隊大村派遣隊の96式陸上攻撃機が、長崎県の大村飛行場を離陸します。この96式陸上攻撃機は〝対潜特別掃蕩隊〟として昭和19年4月21日に増備された〝陸攻電探磁探併装機〟を持つ文字通り〝対潜掃蕩〟専用の機になります。2名の搭乗員は〝昨日の無線〟の内容を頼りに、〝ナモ103船団〟の航路を辿って行きます。巡航している〝船団〟を確認し、昨晩からの航路を辿って行きます。そして12:00頃、〝対馬丸沈没〟周辺海域で多数の〝漂流者〟を発見します。<br /> <br />翼の〝日の丸〟が〝漂流者〟達にどう見えたのかはわかりませんが、飛行機から複数もの〝筒〟が落とされます。ひとつは〝ガンバレ、救助手配ス〟と書かれたメッセージが入っていた〝通信筒〟、そして〝赤飯〟の入った〝竹筒。万全の数があった訳ではないにしろ、〝漂流者〟にはその出来事を〝心強い〟と思われたところはあったのではないでしょうか。その後海軍機は飛行高度を利用し、周辺海域で2隻の〝漁船〟を見付け、直接〝通信筒〟を使って〝漂流者救助を依頼〟そして現場海域へと誘導しています。急遽操業を停止した〝2隻の漁船〟のうち鹿児島県山川の〝開洋丸〟は14:00頃、宮崎県油津の〝栄徳丸〟は15:30頃遭難海域に到着し、漂流者の救助に当たりました。漁船をここへと導いた〝海軍機〟は、救助活動の開始を確認し、搭載燃料の問題もあり現場を去ります。しかし〝漁船〟とはそれ程〝キャパシティー〟がある訳でもなく、5~60名を救助した後低気圧の接近もあり、救助活動をやめ鹿児島県山川港へと入港し〝遭難者〟を引き渡そうとするも、なかなか軍の許可が出ず、結局鹿児島港へと入港し111名の〝救助者〟を引き渡したとあります。<br /><br />そして8月23日には瀬相(せそう:奄美加計呂麻島)を出た救助艇〝第一拓南丸〟が〝対潜掃蕩(たいせんそうとう;潜水艦を駆逐すること)〟の後、天候の悪化により一旦瀬相へ戻り、翌8月24日15:00頃現場海域へと到着し遭難者91名を救助、8月26日に鹿児島港へ入港しています。<br />あと一隻大島防備隊所属の〝長水丸〟が遭難者救助に当たっており、8月26日に瀬相を出港し、本来なら名瀬へと〝遭難者〟を迎えに行くはずでしたが、奄美近郊まで漂流し救助された方がまだ到着しておらず、そのため〝遭難現場〟付近まで往復しています。その往復の航路の中で救助された方もおられたようです。8月26日に瀬相を出港し、8月28日18:30頃瀬相着、奄美まで流れ着いて助かった漂流者21名と、周辺海域で救助されたもの31名で合わせて52名がこのとき救助されました。<br /> <br />確固たる人数がわからないものの救助された生存者のうち〝鹿児島〟へと無事到着した約200名はそのまま〝疎開先〟へと向かったとされています。これが〝2隻の漁船〟と〝第一拓南丸〟に救助された方々ということになります。しかし奄美大島近辺で〝漂着〟もしくは〝救助〟されたものは、瀬相にいったん集められた後、奄美大島の古仁屋(今の大島郡瀬戸内町)に集められます。そして〝緘口令〟が敷かれた〝対馬丸事件〟について語ることができないように〝憲兵の監視〟の下、での生活を余儀なくされます。そして救助された児童は、厳重な護衛の下沖縄へと戻されます。この〝生存者の取扱い〟についても、これという決め手はないものの〝強制疎開〟が始まる前の〝縁故疎開〟の考えに基づいてとするものが少なくありません。元々本土で行われていた〝大都市〟に於ける〝疎開〟は〝縁故疎開〟といった〝個人〟の判断に基づいて行われていました。しかし大戦末期の戦況の悪化と共に行われた〝強制疎開〟のひとつである沖縄からの本土への〝学童疎開〟、その中で起こった〝対馬丸事件〟と言うことになります。当初はすべて〝九州〟へと送る予定だったとされていますが、現実にはこの〝対馬丸事件〟によって、〝引率教師〟〝保護者〟等大人が犠牲となり〝引き受け手〟がない〝子ども〟が出てきました。そこでその児童をはじめとした〝引き受け手〟のない〝生存者〟を一旦奄美の古仁屋に集めた後に〝強制疎開〟命令を緩和し、沖縄には〝引き受け先〟がある者に対しては〝箝口令〟の元厳重な護衛を付けて沖縄へと戻したのではないかという解釈が辻褄のあっていることのように思います。結局は〝縁故疎開〟と同じように扱われ、その扱いに漏れてしまった生存者を沖縄へと返した・・・。そして昭和19(1944)年10月10日の沖縄大空襲を経験することになってしまいます・・・。一度ならず二度までも〝生き地獄〟を体験することは、筆舌に尽くしがたいものであったに違いありません。<br /><br />もうひとつ〝生存者〟を含めた多くの方々の回想に多く書かれていることですが、〝乗船する〟若しくは〝護衛につく〟船舶をどこまで見ていたかということがあります。〝湖南丸〟を含む〝沖903船団〟には、〝延寿丸〟が5,000t超であった以外はそれ程〝大きい〟ものではなく(湖南丸は2,627t)、〝小船に乗って〟という表現もされていません。しかし〝対馬丸〟を含む〝ナモ103船団〟は疎開船3隻ともが6,000t超の船体です。そのため〝小船に乗って乗り移った〟という記述が多々見受けられます。つまり〝港の外〟に停泊していた〝疎開船〟へと〝乗り移った〟ということになります。この〝構成船舶の違い〟は〝学童疎開〟を強制するのにあたり、住人の要望である〝戦艦〟を用意できない〝軍〟の苦し紛れの配慮のように思います。それはさて置き船団に付く〝護衛艦〟はいつも〝港外待機〟をしていたことは、全ての立場の方が異口同音に言われることでもあります。これがなにを示すのか、〝ナモ103船団〟の場合、旧式ではあるものの駆逐艦と砲艦が付きましたが、〝沖903船団〟に至っては・・・。つまり港外に係留されているとは言われても、〝この護衛艦が私たちを○○(行き先)まで送り届ける〟と言ったものではなく、出航してしばらくすると〝おや?ついてくる船舶がある〟的なものではなかったかと思います。そのように〝乗船客〟に思わせるのであれば、〝護衛艦〟の乗組員が〝護衛船舶〟の〝乗船客〟まで把握していないことは当然だったことのように思います。これはある意味〝感情を持たさない〟ように護衛をさせていたのではないかと思います。言い方は非常に悪いですが、制海権を奪われつつある時代に続発している〝船舶被害〟、その犠牲者を〝ひとりでも多く〟救助しようと深追いした結果、二次被害を被って犠牲者を増やしてしまう・・・それを懸念したためのようにも思えます。後は〝風評〟・・・。護衛艦の乗組員も全てが任務の詳細までは〝知らされていない〟と解釈するのが間違いないように思います。勿論運航に携わっている〝兵士〟は、知っているでしょうが、末端の〝兵士〟まで伝わっていなかったとするのが自然な展開のように思えます。雷撃を加えられた船舶が沈没し、乗船客が海に漂う姿を目にします。しかし〝対馬丸〟と〝湖南丸〟いずれも〝漆黒の海〟の海面を見ても〝これ程多く〟の人間がいるとは思ってもいなかったのではないでしょうか。特に〝対馬丸事件〟の際は〝学童疎開〟ではなく〝輸送船〟の〝護衛任務〟だったと聞いていたという証言もあります。緘口令のもとすぐには〝事実〟がわからなかったことも不思議ではありませんでした。しかし事実が明るみになってから〝知った〟〝護衛艦の乗組員〟の方々の心境は穏やかなものではなかったと思います。しかしもし〝護衛艦の乗組員〟だということを口外しなければ必要以上に〝怪しまれる〟ことはなかったのではないでしょうか。それをあえて口外し小桜の塔を訪ねた・・・。そこで〝悪者のレッテル〟を貼られてしまい、自責の念に駆られるようになってしまった。遺族側からすると確かに救助活動をしなかった〝護衛艦〟の乗組員は〝悪〟の一文字なのかも知れません。しかしそれは〝軍〟を悪く言うのにその〝構成員〟だった〝兵士〟を十把一絡げにした〝風評〟ではないでしょうか。付け加えると〝対馬丸記念館〟の資料にあった〝暁空丸に乗っていた一人の子どもの手記〟として〝漂流している男の人〟を見つけ、兵隊さんに助けを求めましたが、ひと言「助けに行くことはできないよ」と言われたとの記述、これは〝対馬丸事件〟に巻き込まれ漂流を体験した後に救助された方の手記からの抜粋とのことでしたが、この証言は本当に〝暁空丸〟に乗っていた子供の〝証言〟だったのでしょうか。それはこの〝対馬丸事件〟に於いて〝対馬丸〟以外の船舶の乗船客だった方の〝証言〟〝そのもの〟がありません。それがこの〝一件〟だけというとあまりにも出来過ぎているように思えてなりません。かと言って否定するにも証拠がないのでこれ以上の追及はできませんが、この表現はどうも納得のいかないところがあります。特に〝ナモ103船団〟〝対馬丸〟以外の乗船客は無事目的地についており、〝損得勘定〟を弁えない子供の頃に聞いたことであればいざ知らす、大人になってからこの〝証言〟をすることはないように思えてなりません。<br /><br />仮説論であり事実ではない〝一連の流れ〟ではありますが、個々の〝出来事〟の〝辻褄〟を合わせると、実はこのように解釈するしかないところがあります。〝対馬丸〟の沈没時の各船舶の行動は説明した通りなのですが、もし〝第四海上護衛隊本部〟への〝対馬丸撃沈〟の事実、暗闇の中で確定論ではないにしろ〝漂流者多数〟あり〝救助〟の必要性、そして〝米潜水艦〟が現場海域に〝残存〟していることなど〝緊急を要する〟報告がしっかりとなされており、それが翌日の〝哨戒命令〟に繋がっていることは、容易に想像がつく話です。そして〝哨戒飛行中〟に行われた〝食料の投下〟、これを〝行き当たりバッタリ〟ではできないことのように思います。勿論詳細には〝どのような状況〟で 〝対馬丸〟の〝生存者〟が漂流しているかは、事件直後は〝闇の中〟だったこともあり〝予想だにしていなかった〟ことだったと思います。もし本当に〝救助第一〟の考えであれば、〝飛行艇〟を飛ばしての〝救助〟も考えられますが、あえて〝96式陸上攻撃機〟を使った・・・。これはやはり〝対潜掃蕩〟が当初の〝任務〟であり、漁船に〝救助依頼〟をしたのは、搭乗したパイロットの〝機転〟によるものだったと考えるのが正しいように思います。<br /> <br />2隻の漁船による〝救助活動〟は、〝海軍機〟によって作られた〝きっかけ〟によるものですが、その後の〝第一拓南丸〟に関しては、やはり〝対潜掃蕩〟が第一の任務だったと考えます。悪天候により一度は瀬相に戻って翌日改めて出発し、現場海域に到着しますが、潜水艦の陰は見当たらず〝遭難者救助〟に専念することになります。<br /> <br />この辺りの話として、8月25日には〝指宿〟〝鹿屋〟の各基地より〝飛行艇〟や〝戦闘機〟が、そして〝第三拓南丸〟が救助に向かったと記述しているものがあります。しかしいずれの海軍基地からも〝遭難救助〟や〝対潜掃蕩〟のため航空機の出撃という記録がありません。そして〝第三拓南丸〟はこの時期8月24日~26日は〝ナカ405船団〟の護衛で〝瀬相~鹿児島山川〟を航行しています。このルートは、トカラ列島を経由しながら行くこともあり、〝現場海域〟を通過する可能性は〝無くはない〟のかも知れません。しかし〝武器という武器〟も持たない状態で、任務以上のことを考えることがあるかどうか、そしてなにより〝海流に流される〟〝漂流者〟の位置的な事を考えると、〝救助〟にあたったかどうかは〝無かったこと〟のように考えます。<br /> <br />この仮定論の〝解釈〟の根拠は、〝ナモ103船団〟の護衛を担当した〝第四海上護衛隊〟の〝位置付け〟です。元々は佐世保鎮守府隷下だった海面防備部隊に編成されていた〝大島防備部隊〟と〝沖縄防備部隊〟を昭和19(1944)年4月10日、南西諸島方面の防備強化のために〝沖縄方面根拠地隊〟と〝第四海上護衛隊〟を新設し、従来から海上護衛を担当していた部署が〝第四海上護衛隊〟、それ以外は〝沖縄根拠地隊〟へと改編されました。また〝第四海上護衛隊〟の上位組織である〝海上護衛総司令部〟は、文字通り〝シーレーン〟の〝海上護衛専門〟の組織として設立された〝独立組織〟ですが、〝対馬丸事件〟があった頃は横須賀鎮守府長官であった〝野村直邦(のむら なおくに)海軍大将〟が〝海上護衛総司令部長官〟を兼務していました。そしてその隷下の航空隊として置かれたものが、〝901海軍航空隊〟となります。一時は〝第二海上護衛隊直属〟になっていましたが、サイパン島の陥落により〝第二海上護衛隊〟が解散し、元の〝海上護衛総司令部〟直属になっています。そして護衛専門の〝901海軍航空隊〟ですが、〝対馬丸事件〟当時、九州エリアでは長崎県の〝大村〟にしか〝派遣隊〟はありませんでした。〝96式陸攻〟と〝97式飛行艇〟各3機の所属機では、哨戒を伴う任務ならば、使用機材も決まってきます。<br /> <br />南方での敗戦が続く中、〝攻撃〟はともかく〝防備〟すらままならぬご時世に於いて、仮説の域ではあるもののここまでの〝連携〟がされていることは、強ち〝軍は見捨てた〟という〝既成概念〟を取り払うものになるのではないか、そう考えます。<br /> <br />漁船に救助された111名と救助艇に救助された91名の合わせて202名は鹿児島へと送られました。しかし奄美で救助された21名と長水丸が救助した31名の計52名は、瀬相に一度立ち寄ったあと奄美大島の古仁屋へと向かいました。<br /> <br />その後奄美の住人も本土への疎開対象として古仁屋(奄美大島瀬戸内町)へと集められ、旅館でその時期を待つことになります。緘口令が敷かれていたとされてはいますが、古仁屋にて滞在の間に〝対馬丸撃沈〟等の情報を知り得たとされています。これは〝対馬丸〟の生存者からの情報とされていますが、現実問題として〝対馬丸〟の情報をいくら〝緘口令〟により軍部が規制したとしても、〝無事到着〟していれば〝便り〟等〝知らせ〟が来て当然であることは〝一目瞭然〟であり、それを〝秘密〟にしたからとて、いつまでも隠し通せることではないと考えます。沖縄県民の〝本土疎開〟が本格化される中で、〝対馬丸事件〟をもみ消すかのように言われることもあるものの、現実的には〝事件をもみ消す〟ことな ど〝無理な話〟だとするのが適当ではないでしょうか。<br /> <br />一連の出来事を列挙して辻褄を合わせただけに過ぎませんが、この内容は〝軍〟が残した記録に基づいて記述しています。〝四海護日誌〟〝大防日誌〟がその抽出元ではありますが、〝四海護日誌〟つまり〝沖縄~九州航路〟の〝船団護衛〟を任務としていた専門部署〝第四海上護衛隊〟の記録と〝大防日誌〟すなわち〝第四海上護衛隊〟隷下の〝大島防備隊〟の記録を参考にしています。軍の記録なので、それ即ち〝軍を悪くは書かない〟と決め付けるとそれまでかも知れません。しかし〝生存者〟を含めた〝民間側〟の記録は、言い方はよくありませんが、感情による〝誇張〟と思われる記述も見受けられます。勿論〝生き地獄〟を見られた〝生存者〟の方の心中は、想像を絶するものだった、いや70年の月日が経った〝今もなお〟そうなのかも知れません。しかしそれは時として〝史実の歪曲〟ととられる可能性もあり、結果〝文献考察〟ごときにたたかれてしまうリスクもあると思います。その点軍の記録は、ただ〝船舶〟や〝飛行機〟、そして出航の目的が時系列で書かれている極めてシンプルなものです。シンプル過ぎるゆえ、ある一隻の船舶が、何の目的で出航し、どのようなことをして、帰ってきたかを〝表〟にでも書かないとわからないことも多々ありました。そのひとつひとつを〝時系列〟に並べたもの、それがこの仮定論の成り立ちになっています。<br /><br />また最近新たな発見もありました。昨年平成26(2014)年には、日本軍機から救助依頼を受けた漁船〝開洋丸〟の当時16歳だった甲板員の方が当時記された日記が発見され、対馬丸記念館へと寄贈されました。それを紹介します。<br /> 「当時小生は鹿児島県山川町の開発会社の開洋丸(鰹漁船)に甲板員として乗船同年8月23日午前9時頃、鹿児島県の七島の一ツで中之島(活大山通称ヤケ島と呼んでいる)附近で操業中日本機らしきが低空で飛来し本船上を旋回しながら通信筒を投下するも海面に落下し、小生早速海中にとび込み拾い上げて見ると、昨夜(8月22日夜の11時頃)悪石島二浬沖にて対馬丸が米潜水艦に魚雷攻撃を受け間もなく沈没。多数の遭難者がイカダにつかまり漂流しているので救助頼むとの事。早速操業を打ち切り附近で操業中の宮崎県の油津の鰹船にもそのむねを連絡し2隻が全速力で遭難現場に向いました。当着したのわ多分同日の午后2時頃だと思います、油津の漁船は途中エンジン故障で本船より約1時間半あまり遅れて遭難現場に当着しました。通信長と小生ははだかになりまずロープを腰にくくり海中にとび込み、遭難者に接近ロープをイカダにむすびつけ再三くり返しながら5、60人救助したのでわないかと思います。遭難以来約15時間近くもおよいでいる者、転覆している救命ボートの上で幾人か助けを求めている者、又救命胴衣着用したまゝボートの下敷になり浮上する事が出来ず死亡している方が多さんいました。四方八方でイカダの上で必死で助けを求めているものゝ、小生達の船はそれ以上の救助は無理で当時は低気圧接近にともない気象条件が悪くやむえず救助を打ち切り遭難現場をあとにしました。一旦、山川港に入港し遭難者の引渡し手続するも軍部の許可がなかなかおりず、軍部の指示にしたがい、鹿児島港へ廻航の上、救助者を全員引渡しました。<br />対馬丸沈没した付近に日本の駆逐艦がいて潜水艦攻撃のため、その附近一帯に爆雷を多数投下するも、すでに潜水艦はいずこかに去っておらず爆発により大勢の方が死亡したようすです。救助した中には頭を怪我されている者、又先生で腸が見えている重傷の方もいました。わりかし元気でした。今その方達の生死もわかりませんが、救助者全員の氏名すら一人として、わからぬまゝ別れました。<br />今その方達はどこでどうして生きているものか知りたいものです。【原文のまま】<br /><br />この記述は、〝救助〟に携わった側の記録として大変貴重なもののひとつです。事実この〝対馬丸事件〟は〝箝口令〟がひかれてしまったため、その当時は〝憶測〟でしか語られなかったものでした。ではなぜこの〝記録〟が今になって見つかったのかということになりますが、やはりこの当時16歳の少年が携わった〝救助活動〟は、想像を絶するものだったのではと考えます。〝口外禁止〟とは言われていたものもあったかと思いますが、それより〝口外したくない〟という気持ちが先に立った。そしてこの記録は〝愛用の机〟に仕舞われたまま長い年月を過ごします。平成4(1994)年に66歳で亡くなられますが、奥さんが〝愛用の机〟をそのままにしておかれたそうです。なにか因果めいたものもあったのでしょうか、その遺品整理をされている最中にこの〝手記〟を見つけられたそうです。〝そんな凄いもの〟が手元にあったとは誰も思わないでしょう。その〝手記に書かれてい〟情報〟を尋ねられた結果、〝対馬丸事件救助〟の手記であったことがわかり、記念館へと寄贈されます。事件後70年目の節目の年に記念館で展示されました。<br /><br />仮定論を述べるにあたり、ひとつだけ誤解のないようにしておきたいのですが、私自身〝対馬丸〟の犠牲者を冒涜するつもりもありません。また生存者の方々に対して意見をするつもりも毛頭ありません。対馬丸事件での生存者の方々が挙って言う事件のことを〝言わない〟のではなく〝言いたくない〟ということは、〝真の生き地獄〟を経験された方々の心中複雑な気持ちはあって当然だと思います。しかし残念に思うことは、その一方証言そのものが〝曲解〟されているようにも感じました。<br /><br />出来事に対する〝解釈〟というものは、十人十色、千差万別あるものなので〝これ〟という答えはありません。しかし〝事実〟はひとつです。理由があって〝事実〟を公に出来ない、またはしないのであれば、それは当事者がそう考えている以上はどうしようもないことだと思います。しかしこの〝対馬丸事件〟の場合、〝解釈〟がさも〝事実〟のように書かれているところが多々見受けられます。ある意味その〝証言〟を使われた生存者の方々は、〝被害者〟のなのかも知れません。<br /><br />そっとして欲しい…、それが答えなのかも知れません。しかし時系列の流れで〝記述されているもの〟を並べると、〝一貫した流れの答え〟がされていないこともあります。昨年平成26(2014)年天皇陛下が〝対馬丸記念館〟を訪れ、生存者の方々と交流されています。そこに列席した方々は挙って〝陛下の来沖を歓迎します〟とのコメントを出しておられます。そのなかでお一人〝陛下のお人柄〟は認めます、しかし〝天皇制〟は嫌いです。とのコメントを出されました。〝大人の遣り取り〟と解釈するものもあれど、そんな単純なものではないように思います。しかし〝公表されている〟〝意見〟が迷走していると、正直どの記述が〝本音に一番近いのか〟ということは考えてしまいます。<br /><br />以前にも書いたことなのですが、沖縄戦に於いてなぜあれ程の現地召集の学徒の犠牲者を出してしまったかという〝理由〟に〝指揮者の不在〟ということを挙げました。〝ナモ103船団〟のケースも同じことが言えるかも知れません。輸送指揮を取っていた〝少尉〟は、自決し対馬丸と運命をともにしました。駆逐艦〝蓮〟の艦長は〝大尉〟、砲艦〝宇治〟の艦長は〝中佐〟。本来ならこの〝船団輸送〟に関わる〝指揮官〟は最高階級である〝中佐〟がやるもののようには思うところもありますが、現実には〝少尉〟がやっていた・・・。確かに〝艦長〟と言うと〝自船〟の〝運航指揮者〟であり、〝自船災害時〟に於ける〝指揮系統〟はしっかりしているものの、やはり〝船団〟という〝集団〟の〝護衛〟としては、〝縦割り〟的な考えがあったようにも思えます。〝輸送指揮者〟と〝運航指揮者〟。素人目には似ているようで全く〝違う概念〟を持たねばならなかったのかも知れません。<br /><br />しっくりいかないまま記念館を後にし、隣の旭ヶ丘公園の慰霊塔を回って行くと、〝対馬丸記念館〟から一番遠い場所の沖縄護国寺手前に〝対馬丸遭難者慰霊塔〟である〝小桜の塔〟が建立されています。そして丘を一周するように回って行くと、記念館のすぐ隣には〝沖縄船舶遭難者〟を祀る〝海鳴りの像〟が建立されています。このふたつの慰霊碑は、〝ねじれ(垂直)〟に位置に建立されていることが、個々に祀られている〝犠牲者〟の立場の複雑さを物語っているように思えてなりませんでした。この両者の〝合同慰霊祭〟が催行されるだけでマスコミが大々的に報道をしています。この〝違和感〟がなにに起因するものなのか、何故〝海鳴りの像〟の碑文に〝対馬丸を除く25隻の船舶遭難者〟という〝書き方〟がされているのか・・・。戦時中に起こった〝船舶遭難事故〟は、終戦後70年経った今なお〝ベール〟に包まれており、解決に至っていない現実を語っているように思えてなりません。<br /><br />色々なことを考えさせられた〝対馬丸記念館〟に始まった〝旭ヶ丘公園慰霊碑巡り〟でした。<br /><br /><br /><br />長文にお付き合い頂きありがとうございました。これで〝第十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~対馬丸記念館・旭ヶ丘公園慰霊碑編~〟は終わります。

第十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~対馬丸記念館・旭ヶ丘公園慰霊碑編~

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2015/06/21 - 2015/06/24

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~対馬丸記念館・旭ヶ丘公園慰霊碑編~

那覇市若狭という〝街中〟に位置する〝対馬丸記念館〟へは、ここ数回の沖縄本島への旅路に於いて、訪問地としていつも候補に上がっていながら訪れる機会に恵まれなかった場所のひとつです。今回も糸満から那覇市街を北上する途中に渋滞に巻き込まれ、ふと目に入った〝対馬丸記念館こちら〟の標識、それに惹かれるようにやって来ました。行き当たりばったりで訪れた訳ですが、この対馬丸記念館には〝駐車場〟がありません。ホームページには〝市営松山駐車場〟に停めることが出来るようですが、行き当たりばったりで行くと、近くの〝コインパーキング〟しか見当たりません。200円という金額はいいのですが、〝民間のコインパーキング〟ではなく〝県公安委員会〟の設置、つまり時間の延長ができません。そのため1時間以上は〝駐車禁止〟扱いになってしまいます。民営の駐車場もあるようですが、それより探す〝時間〟の方がもったいないので、急いで回ろうとさっさと進みます。

すぐ近くに〝波の上ビーチ〟や〝波上宮〟、そして慰霊碑がある〝旭ヶ丘公園〟等色々な〝観光地〟があるこの地に〝対馬丸記念館〟がオープンしたのは平成16(2004)年8月22日のことです。昭和19(1944)年8月22日に沖縄から本土疎開の1,788名(諸説あり)を乗せた〝対馬丸〟が鹿児島県悪石島沖でアメリカ海軍の潜水艦〝Bowfin(ボーフィン)〟号の雷撃を受けて沈没し、乗員乗客合わせて1,476名(氏名判明分)が犠牲となった〝対馬丸事件〟を取り上げた〝記念館〟として、事件後60年目の平成16(2004)年8月22日にオープンしました。

〝記念館〟を見学し、〝小桜の塔〟をはじめとした〝慰霊碑〟を巡り、波上宮を回ってくるととても時間が足りません。言い方は悪いですが、この〝パーキングメーター〟は悪く解釈すればそれまでのもので、私より先に停めた車がコインすら入れず〝路上駐車〟をしていることが当たり前との〝解釈〟であれば改善の余地はないと思います。場所が場所ゆえ深く考えてしまった方が馬鹿を見るのであれば…。車を停めて58分で回ってきた結果、本当に後から思い返しても〝思い出せない〟ことが多かったことは、非常に残念に思いました。確かにビーチに泳ぎに行くための路駐は多かったようですが…。確かに〝公益財団法人対馬丸記念会〟という規模で運営されておられるので、公的施設とは違い、闇雲に経費を掛けられない背景はわかりますが、なにか改善できないものかとは思います。

小規模ながらここの展示物からは、〝対馬丸事件〟によって志半ばで犠牲となった〝子供たち〟の〝未来への夢〟を語ることにより、〝追悼と鎮魂〟、そして〝戦争〟が併せ持つ〝破壊と犠牲〟の〝負の無限連鎖〟に対する警鐘は、一部外者に過ぎない私にも伝わってきます。その点では〝価値〟を見出せるものの、全体ではなにかこう〝しっくりいかない〟ものも感じました。いつもならなにか〝違和感〟を感じた時は、帰宅してから資料などをひっくり返し、〝こうではないか?〟となる訳ですが、今回は展示されていたものから直接感じた〝なにか〟がありました。

対馬丸は昭和19(1944)年8月20日18:35に沖縄からの〝疎開者〟約1,700名を乗せ、僚船〝暁空丸(ぎょうくうまる)〟〝和浦丸(かずうらまる)〟とで構成された〝ナモ103船団〟として、駆逐艦〝蓮(はす)〟と砲艦〝宇治(うじ)〟の護衛を伴い、長崎へと出発します。対馬丸の乗客の多くは、〝軍隊輸送船〟として兵員収容区画へ改装されていた船倉に居住することとなりますがこの区画、〝階段一つと緊急用の縄梯子があるだけ〟の出入りも困難な状態であった場所だったとされています。台風の影響で海が時化ており、対馬丸に乗船した学童達の反応も様々だったようです。修学旅行に行くかのように甲板に出て船団最優秀船である〝和浦丸〟を眺めたり、内地での夢や期待を話す者、〝船酔い〟するもの一日で復活する者、一晩中寝ずに騒いだ者などがいたそうです。また手空きの乗組員も学童たちとつきあい、〝戦争の話や、前に遭難して助かった話〟など をしたという記録が残っています。

【資料用:ナモ103船団船舶概略】
対馬丸:総トン数(6,754t)・最高速力(13.9kt=25.8km/h)・乗船者数(約1,700名※諸説あり)
和浦丸:総トン数(6,804t)・最高速力(16.5kt=30.6km/h)・乗船者数(学童疎開者1,514名※諸説あり)
暁空丸:総トン数(6,854t)・最高速力(10.0kt=18.5km/h)・乗船者数(一般疎開者1,400名※諸説あり)

那覇を出発してから3回目の夜である昭和19(1944)年8月22日22:12、鹿児島県トカラ列島悪石島(あくせきじま)付近の海域で、米軍潜水艦〝ボーフィン(Bowfin)〟が放った魚雷が第一、第二、第七船倉左舷、そして間をおいて第五船倉右舷に命中し、魚雷命中による船倉へのおびただしい海水の流入で、緊急用縄梯子はほとんど流され、階段もすぐに海水につかって使えなくなりました。船倉に閉じ込められた者も多い中、衝撃とともに階段へ一早く登った者と、暑さに耐えられずに〝甲板〟に上がっていた者は船倉からは脱出できたものの、今度は恐怖から〝夜の時化た海〟に飛び込むことができず、結果退避が遅れることになりました。

雷撃を受けて対馬丸の船長は〝総員退船〟命令を出します。この時を物語る話として、引率教員がなかなか起きない児童を〝蹴っ飛ばして〟起こしたこと、乗組員が〝恐怖〟のあまり〝ブルワーク(手すり)〟から手が離せない児童を海に放り投げたことなどがあります。しかし大人の努力も空しく魚雷命中から11分後の22:23頃〝対馬丸〟は大爆発を起こし沈没します。その爆風を受け救命ボートが転覆し、台風の影響で時化ている海に投げ出された生存者は〝筏〟で漂流しながら救助を待つことになります。生存者は比較的短時間のうち〝救助艇や漁船〟に救出されたものの他、〝トカラ列島の無人島〟に漂着したりして奄美の住人や漁船に助けられました。しかし中には実に10日もの間漂流された方もおられたそうです。その一方海流に乗って多くの犠牲者の遺体が〝奄美大島〟や〝宇検村(うげんむら:奄美大島東南部)〟へと漂着しています。その遺体は後日の収骨の際に〝わかりやすい〟ようにと一体ずつ丁寧に、地元の方々や奄美の大島防備隊員の手によって埋葬されたそうです。その遺体の漂着数が最も多かった宇検村の焼内湾は、その当時住民が〝肉の海〟と呼んでいたとの記録も残っています。

疎開船としてこの〝ナモ103船団〟では、約5,000名を運んでいました。数字だけの話では済まない話ですが、対馬丸〝以外〟の船舶にもおおよそ3,300名が乗っていたとされています。対馬丸に雷撃を加えた〝ボーフィン(Bowfin)〟は、護衛の駆逐艦〝蓮〟に手持ちの魚雷全てを打ち込まれたにも拘らず、その海域にしばらく潜伏し続け、次のターゲットを探していたことがわかっています。駆逐艦〝蓮〟が行った〝浮上攻撃〟をしかけた〝潜水艦〟への魚雷攻撃は、〝重要な意味〟を成さないことだったかも知れません。しかし一旦船団から外れ、〝ボーフィン(Bowfin)〟を回り込むように航行して雷撃を加えたとの記録があることから、〝別の目的〟があったのではないかとも思います。〝ボーフィン(Bowfin)〟に雷撃を加えた後、船団の護衛へと戻り、〝対馬丸事件〟の〝そのとき〟に〝その場所〟にいた2隻の疎開船〝和浦丸〟と〝暁空丸〟と護衛の〝宇治〟とともにその海域を脱し、2隻に乗っていた〝疎開者〟3,300名の護衛を続け、2日後の8月24日に無事長崎へと到着し〝疎開船護衛〟の任務を果たします。

館内の標記を見る限りこの〝護衛艦2隻〟の取った行動が、〝軍は見捨てた〟という意見に深く繋がっていることのようです。雷撃を加えただけで〝救助活動〟は等閑にして航行を続けた〝様子〟によってそのような〝解釈〟になっているものの、一方では〝擁護論〟もあり過去に起こった〝二次的被害〟による〝犠牲者〟を出さないようにするため〝やむをえない〟判断だったとされるもののようです。

その事件とは〝対馬丸事件〟と程近い海域で9ヶ月前に起こった〝湖南丸事件〟の〝救助活動時の悲劇〟というものでした。〝湖南丸(2,627t)〟〝大信丸(1,306t)〟、那覇港外より〝延寿丸(5,374t)〟、それに名瀬港外で加わった〝慶山丸(2,116t)〟の加入輸送船4隻とで構成された〝沖903船団〟は、〝第二新東丸〟の護衛をつけ、昭和18(1943)年12月20日17:00頃奄美大島名瀬港を出港した後、警戒航行中の21日2:42、口永良部島西方18km付近の海域で、米軍潜水艦〝グレイバック(Grayback)〟の発した魚雷2発が左舷に命中した〝湖南丸〟が沈没します。その際名瀬港外より大島防備隊の〝柏丸(515t)〟が追加の船団護衛任務を帯びてついていました。この海域に於ける〝輸送船団〟の雷撃による沈没が多発したことも理由のひとつだとは思いますが、この〝湖南丸〟には、那覇から乙種予科練習生の二次試験受験者約200名、一般民間人、軍需工場へ向かう人たち、女子挺身隊志願者、満蒙開拓団等も乗船しており、総勢では約800名近い方々が乗船されていたようです。〝湖南丸〟の沈没には少しではあるものの〝時間的余裕〟があったとされているものがあり、被雷直後に階段に殺到し甲板まで出たものの、海に飛び込むことを怖がる女性や子供も多く、その方々を押しつつ海へ飛び込んだという逸話が残っています。護衛の〝第二新東丸〟は〝グレイバック(Grayback)〟に対し攻撃を仕掛ける一方、救命ボートや板切れ、筏にしがみついた乗客を〝柏丸〟が現場に残り救助しました。〝時化の漆黒の海〟での約3時間の懸命な活動の末、〝湖南丸〟の乗客400名が〝柏丸〟に救助されました。しかし南国とはいえ12月の海は冷たく、救助された後暖を取るため〝機関室〟にいたそうです。その〝柏丸〟にも〝グレイバック(Grayback)〟は雷撃を加えます。6:04発射された2本の魚雷は〝柏丸〟の機関室に命中し、それが搭載していた潜水艦攻撃用爆雷の誘爆を惹き起こし、同船は救助した400名の湖南丸の生存者もろとも轟沈しました。〝湖南丸〟の犠牲者は、船員69名、軍属3名、乗客576名の648名という記録があるものの、乗船名簿に名前のない犠牲者が約100名いたという証言もあり、実数は不明だとされています。この〝湖南丸〟が雷撃を受け沈没した際に、事前に受けていた命令通り〝護衛艦一隻〟つまり〝柏丸〟を救助に当てるものとして現場に残し、船団残りは鹿児島県の山川港へと退避しています。そこで起こった〝柏丸〟の撃沈事件にはなりますが、救助活動中の船舶に対する攻撃は〝モラル〟的なこととして語られていることなので、この場では触れませんが、〝雷撃を受けた船舶〟の乗客を〝救助〟していたことによって起こった〝二次的被害〟ということになります。その結果この〝湖南丸〟と〝柏丸〟の沈没によって800余名の犠牲者を出したというものです。

ここで言われている〝救助〟や〝退避〟に関する〝命令〟というものが、〝雷撃を受けたる場合は、後続船一隻が救助に当たるもの〟とされ〝但し避難を命じたる際は、現場に留まることなくすぐに避難すべし〟というものでした。それゆえ〝柏丸〟を現場に残し、他の船舶は護衛艦に伴われ山川港へと避難しています。〝湖南丸事件〟の際には、湖南丸以外の乗船客数が書かれていないため、実際の数字はわかりません。しかし結果として無事に山川港へと辿り着いていることから、〝湖南丸〟と〝柏丸〟の撃沈により多くの犠牲者を出したものの、結果論として残りの乗船客は〝とりあえず〟は無事だったということになります。

ここでいわれる〝救助命令〟が〝何を意味するのか〟は解釈の分かれるところではあります。しかし結果として〝二次的被害〟が出てしまった上に、これから南西諸島に於いて〝疎開命令〟を出す軍部によって〝緘口令〟が敷かれることとなり、結果この〝湖南丸事件〟の推移は疎開者には〝伝わっていなかった〟ことは想像できます。しかし運航に従事されていた疎開船の船員の方々や護衛艦の乗組員である〝軍人〟には〝知らなかった〟とは言えないこともあったのではないかと思います。〝情報〟としてこの〝湖南丸事件〟を知っていたとすると、同じような状況で目の前で〝対馬丸〟が雷撃されるのを見て〝護衛艦1隻〟を残して〝救助〟に充てられたかどうかを考えると、正直〝無理〟ではなかったか、そう考えます。

ここで〝九死に一生〟を得た〝生存者〟の方々の〝証言(要約)〟を紹介します。

①  対馬丸砲兵隊(船舶砲兵第2連隊第1中隊所属)
3人の学童とともに救命筏にて漂流。悪石島に接近し海に飛び込みますが、学童の中に〝泳げない〟という子供が泣きだしたため置き去りに出来る筈もなく、泳いでの上陸を断念し筏に引き返します。救命筏の上に3人の子どもがいた。その後2名の学童が衰弱死して息を引き取るものの、海軍のしきたり通り〝水葬〟にする気が起らず〝筏〟に乗せたまま漂流を続けるが2日目夜に〝大波〟によって子供達の遺体は漆黒の海へと飲まれてしまう。漂流3日目の午後救助艇〝第一拓南丸〟に発見されるが、経験上大型船が小舟に気づく確率の低さを熟知していたため、手旗信号で見張兵と交信するまでは、「船が行ってしまっても、気を落としてはだめだよ」と、少年をぬか喜びさせまいとする配慮を忘れないでいた。その後少年共々救助される。同時に救助された学童とは鹿児島で別れるが、事件後33年経った昭和52年12月、約40時間にも渡って生死を共にした二人は、テレビ番組上で再開を果たしています。

② 一般疎開者 14歳
「自分たちの筏には兵隊が2人乗っていて、よく私たちをはげましてくれた。眠くなると『ねむってはいかん、ねむると流されてしまうぞ』と時々びんたをはった」と証言し、彼らが怪我を気遣ったり、生のニンニクをくれたことも手記に書いています。

③ 一般疎開者 9歳
甲板でうとうとしていると突然〝ドカーン!〟というすごい音と衝撃を受けます。そのうちに船が傾いてきて〝高いところから滑り落ちるような感覚〟で気を失い、気が付くと海の上に浮かんでいました。誰かが筏に乗せてくれたようですが記憶にはありません。同じ筏には5人いましたが子供は私一人でした。漂流中はお腹が空かずただ〝寒くて眠い〟だけでした。しかしウトウトとすると誰かが〝ビンタ〟をします。〝寝てはいけない、流されるぞ〟と。そして数日後救助艇に引き上げられ、鹿児島へと向かいました。

④ 学童疎開者 12歳
「やがて艇にぴったりと横づけにされると、縄はしごがおろされた。私はこのとき右足に痛みを感じてなにげなく見ると、肉がふわっともりあがって傷ついていた。それで縄はしごをあがろうとしても痛みで動けずにいると、それを見た兵隊さんが縄はしごを急いでおりてきて、背負ってくださった。そして艇にあがると、みんなが歓声をあげて迎えてくれて、あれこれとせわしく私たちの面倒をみてくださった。びしょぬれになった衣類は蒸気室で乾かされ、頭や顔の傷ついた人たちは手当てをうけた。私の足の傷にもていねいにヨーチンをぬって、繃帯(ホウタイ)をしてくださった」と、述べている。手記中、艇員達については常に敬語で記述しています。

⑤ 国民学校教師
爆破された船倉にはすさまじい勢いで水が流れ込んでおり、その中から「助けてくれ」という子ども達や教師の声が聞こえてきた。階段を駆け降りてみると、中はゴウゴウと流れ込んだ水が渦を巻き、その中から助けを求める声が聞こえるが、助けるすべもなかった。そのとき船は船尾から傾きバリバリと恐ろしい音をたてて甲板を崩しはじめた。私は急いで駆け上がったが沈没の渦に巻き込まれた。もうだめだ!まさに息が切れようとしたとき私の頭は水面に上がっていた。
4日目、一緒に筏に乗っていた老人が海に飛び込み鮫にかまれて出血多量で死亡。5日目には、自分自身も幻影が見えるようになる。幻影によっても多くの命が失われた。海に飛び込んだ老人も幻影を見たと思われる。
なんとか筏が流れ着いた〝右も左も断崖絶壁の島〟に漂着し、〝同じ筏〟で漂流してきた〝兵士〟と共にその断崖を這い上がり救助を求める。6年生の娘と母親は死亡したが、その後付近を漂流していた妻も救助されました。

⑥ 一般疎開者 9歳
家族6人で乗船。雷撃によって対馬丸が沈没した際甲板から海へと落下。運良く沈没に巻き込まれなかった生存者同士の〝筏〟の奪い合いに遭遇。力のないものが、後からすがってくる力のあるものをを〝引きずり下ろす〟という修羅場の中、なんとか筏中央部によじ登った。そして目立たぬよう体をできるだけ小さく丸めてうつむいて押し黙っていた。何日目かの昼過ぎ、頭の上を日本の飛行機が飛んできて、みんないっせいに〝おーい助けてくれ!〟と手を振ったが飛行機はそれっきり姿を見せなかった。老女がひとことも言わず死んで流れて行き、おばさんもいなくなった。乳飲み子が母親の乳首にかみついて痛いと言っていたが,その子も母親の腕の中で息をひきとり、いつの間にか波にさらわれてしまった。体は陽に焼け皮膚は赤黒くただれ、頭髪はバサバサに縮れ、抜け毛も多くなった。他人が鮫に襲われていても、みんな一言も言わずだまっていた。うっすらと夜明けが近い頃、筏は島に向かって押し流されていた。漂流により足元がふらつき、四つん這いになって陸地へ向かった。暫く岸辺でうつぶせになっていたが、島へと向かう漁船の姿を見つけ、全員で手を振った。漁船に救助されたときは大人3人と子供は私1人であった。

生存者の方々が語る貴重な〝証言〟ではありますが、実はある〝一定の傾向〟がありました。①は海軍の兵士の方、②③④⑥は漂流をされた〝子供〟、⑤は引率教師の方々のものになります。記述内にもある通り②③⑤の漂流をした〝筏〟には〝兵士〟が乗っていました。④は〝兵士〟が乗り組む救助艇に助けられています。海のことを知る〝兵士〟や〝船員〟がいたことによって、漂流者の〝生還率〟に大きな差が出ていることは多くの〝証言〟の中に見受けられることなので、ほぼ間違いはないことだと思います。また23日の救助に当たったのは〝漁船〟ですが、その漁船に〝救助依頼〟をしたのは、他ならぬ〝海軍機〟であったことも、漁船乗組員の証言から明らかになっていることでもあります。そして24日に救助に当たった〝第一拓南丸〟の乗組員もまた〝兵士と船員〟であったということになります。
証言内容から〝兵士〟が関わったとされることが多い中、終始〝兵士〟の関与を否定する証言があります。それがこの⑥の内容になりますが、生還を果たされた漂流者の方々のうち数少ない〝子ども〟のものであり〝兵士〟のことが書かれていないケースのものです。推論の域ではあるものの、悪石島近海で自身が乗る〝対馬丸〟が雷撃を受けて沈没し、多くの子供達が漆黒の海に投げ出された中、護衛艦2隻が救助活動をせずに現場海域を脱して行ったという〝目の前〟で起こった事実がまずありました。そして〝筏の取り合い〟に始まった〝時化の大海原〟を6日間に渡って漂流し、約130km離れた奄美群島の無人島である〝枝手久島(えだてくじま)〟に漂着し、そこに偶々やって来た地元の〝漁師〟に救助されました。自分は助かりましたが、一緒に漂流していた〝同世代の少女の死〟を〝目の当たり〟にしていれば、結果〝兵士(軍)は何もしてくれなかった〟との発言に〝ならない〟方が逆に不自然なようにも思えます。

しかしひとつだけ〝辻褄のあわない証言〟があります。〝日本の飛行機〟に関する記述にあたるものがそれになりますが、ただこれも〝解釈〟の違いにより〝正反対〟の印象を与えてしまうところでもあります。〝何日目かの昼過ぎ、頭の上を日本の飛行機が飛んできて、みんないっせいに〝「おーい助けてくれ!」と手を振ったが飛行機はそれっきり姿を見せなかった。〟という一文、これを素直に捉えると〝飛行機もなにもしていない〟ように聞こえます。私もそう思った一人です。しかしこの表現は〝間違っていない〟ものでしょう。というのも〝海軍機〟が現場海域に到着したのは、事故後約14時間後であったとされています。ここで〝現場海域〟について考えないと間違いなく〝誤解〟を生んでしまいます。つまり〝漂流者発見〟の時刻には、〝漂流者の群れ〟以外の〝漂流者〟がいたという事実です。これは現場海域の天候や海流が影響しており、台風の影響があったとされていることも踏まえるとかなり〝さらに広域〟に渡って漂流者が広がっていたことになります。それが後々救助されずに奄美大島近くまで約130kmにも渡って漂流を余儀なくされた〝理由〟でもあります。つまり〝海軍機〟にはわからなかった、若しくは〝海軍機〟には〝発見〟されたが、救助に来た船舶に〝発見されなかった〟〝定員の問題〟の等の都合で救助されなかったことによって〝漂流〟を余儀なくされたことに繋がります。〝哨戒〟と〝救助(支援)〟の目的で〝海軍機〟が飛来したのは1度だったと記録にあります。事実を突き合わせると〝捉え方〟によっては〝その通り〟の表現ということになります。これはある意味〝先入観〟による〝誤解〟のように思えます。しかし同じように〝誤解が誤解を生む〟悪循環が続いた結果、真実とはなんなのか…という結論に至っているところは多々あるようにも思えてしまうところもあるのですが・・・どうなのでしょうか。

琉球新報平成11(1999)年8月22日付の記事にこう記されていました。【記事をそのまま引用・名前のみ伏字】
1944年8月22日、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した学童疎開船「対馬丸」の遭難時、上空から遭難を通信基地に通報、漁船を現場まで誘導した元海軍航空機の機長、Hさん(76)=愛知県津島市在=が対馬丸生存者で講演活動をするTさん(64)=喜如嘉在=あてに手紙を送り、犠牲者を悼む思いをつづった。22日は対馬丸遭難から55年目。「大変な命の恩人」とTさん。Hさんは「戦争が終わっても惨状は忘れない。一人でも二人でも生きて帰ってという願いだった」と胸の内を語る。

そして同じく琉球新報平成11(1999)年12月22日付の記事には、1944年に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した悲劇の学童疎開船「対馬丸」生存者で、全国で平和講演活動を続けるTさん(65)=大宜味村=が21日、遭難時に上空から遭難を基地に通報、救助漁船を現場まで誘導した元海軍航空兵のHさん(76)=愛知県、Sさん(77)=鹿児島県=と念願の初対面を果たした。Tさんは「命を救われた多くの友人を代表してお礼が言え、感無量」と感謝を述べ、「あのような悲劇が二度と起こらないよう、力を合わせて戦争の悲惨さを語り継いでいきましょう」と話すHさん、Sさんと固く手を握り合った。
Hさん、Sさんは当時、長崎県の航空隊に駐屯していた。沈没翌日の8月23日正午すぎ、同船先導のために航路向けに飛んでいたところ、悪石島沖で漂流する遭難者たちを発見。通報と同時に、「ガンバレ、救助手配ス」と記した通信筒を海面に落とした。Tさんは「友軍の飛行機と、励ましの書面に絶望のふちから救われる思いだった」と当時を振り返る。
Hさんは退職教員機関誌の記事で、Tさんを知り、昨年8月に手紙を寄せて以来、書面の交流が続いていた。21日来県したHさんらは対馬丸慰霊碑「小桜の塔」を訪れ、平和への思いを新たにした。両氏は22日、本土に帰る。【記事をそのまま引用・名前のみ伏字】

この二つの記事から、〝対馬丸事件〟の数少ない生存者のうちの一人が〝飛行機〟にて救助活動を支援した〝兵士〟のことを〝命の恩人〟と語っていることがわかります。〝軍はなにもしてくれなかった〟と著書の中で述べておられる方が、〝日の丸〟が描かれた飛行機に搭乗していた〝兵士〟は紛れもない〝軍人〟であったことを〝どのように解釈するのか〟。そこで必然的に生じてしまう〝矛盾点〟を〝どう説明するのか〟という疑問が出てきます。勿論〝全ての軍人〟がそうだったとしている訳ではないにしても、なにか深い理由があるように思えてなりません。

先に紹介をした〝著書〟と〝新聞記事〟には、15年間という隔たりがあります。戦後同じ〝教育者〟としてご活躍されたお二人、そしてこの〝新聞記事〟となったきっかけは〝元兵士〟側からの〝手紙〟に起因しているということです。対馬丸事件遭難者救助に携わり、やむをえない理由で〝救助活動〟を見届けられなかった元兵士の方々の心には、戦争が終わってもその惨劇は忘れられないものとしてずっと頭から離れなかったそうです。ひとりでも多く助かって欲しい・・・、その想いは事件後54年が経過した平成11(1999)年12月21日に叶います。漂流者と2名の元兵士の3名ががっちり握手を交わしたことが記事に載っています。このときに漂流者が述べた〝友軍の飛行機と、励ましの書面に絶望のふちから救われる思いだった〟との言葉、〝軍は何もしてくれない〟という考えの持ち主だったとは到底思えません。また〝証言〟に書かれている〝日本の飛行機〟は〝なにもしていない〟はずではなかったのでしょうか。

ここで〝時系列〟に基づいた〝仮説〟を立ててみます。〝対馬丸〟〝暁空丸(ぎょうくうまる)〟〝和浦丸(かずうらまる)〟の疎開船3隻は、〝ナモ103船団〟として那覇港を出発。港外で駆逐艦〝蓮〟と砲艦〝宇治〟の2隻の護衛艦が付き、5隻で一路長崎へと向けて出航します。途中ジグザグ航法を取ったりもしていましたが、船団に遅れをとるということで、ジャミング(妨害電波)を発したまま直進する形で現場海域に進入したところを米軍潜水艦〝ボーフィン〟による雷撃を受け沈没します。8月22日22:34のことでした。4本の魚雷を受けた〝対馬丸〟は僅か10分程で沈没します。護衛についていた2隻のうち駆逐艦〝蓮〟は、一旦船団を離脱し旋回して、魚雷の発射地点と思しき場所へ手持ちの魚雷を全て放った後に船団護衛の任務に戻ります。8月22日22:40、北緯29度32分、東経129度30分の場所から駆逐艦〝蓮〟により〝第四海上護衛隊本部〟へと〝22:23対馬丸、雷撃を受け沈没す。当船米潜水艦に雷撃を加えるも効果なし、船団護衛に戻る〟と無線連絡が入ります。

〝対馬丸沈没〟後6分でこの〝無線〟が送信されていることになりますが、何とか〝沈没〟に巻き込まれずに〝脱出〟し、海上で〝浮遊物〟を掴むことができていれば、その〝無線連絡時刻〟には、大勢の〝漂流者〟が水面に浮かんでいたことになります。それを無視して〝蓮〟が〝護衛任務〟に戻ったことが、〝軍は見捨てた〟論の根拠とされていることとは思うものの、それには〝理由〟があったのではと考えます。

まず〝湖南丸事件〟の〝救助時に於ける被雷〟によって、一時的に救助された400名もが犠牲になってしまった〝事実〟。結果800余名の犠牲者を出すことになりましたが、その〝被雷時〟の救護活動については事前命令があり、現場に一隻が残って救助にあたり、他船は〝山川港(鹿児島県指宿市)〟へと退避することになっていました。しかしその命令を遵守した故に起こってしまった〝二次被害〟の事実、その教訓が〝対馬丸事件〟の際に〝全くない〟とは言い切れないと思います。また〝湖南丸〟と〝柏丸〟の乗員乗客は殆ど犠牲になってしまったものの、他船の乗員乗客は退避した鹿児島山川港に到着していることから、〝これ以上の犠牲〟を出さないようにする、いやしなければいけないといった〝義務感〟もあったのではないだろうか、そう思えるところもあります。それが船団構成の絡みであり、〝ナモ103船団〟の疎開船は3隻で総勢5,000名近い乗員・乗客を運んでおり、僚船である〝和浦丸〟〝暁空丸〟の2隻に3,300名程が乗っていました。護衛艦の役目はこの船団を無事届けること、攻撃のため一旦船団から離れた駆逐艦〝蓮〟もすぐに船団に追いつき、結果8月24日に無事目的地である長崎へと到着しています。

そして駆逐艦〝蓮〟による攻撃について、〝対馬丸〟が雷撃により沈没した際に船団から離れるように旋回し、手持ちの魚雷をすべて放っていますが、この時の各船の位置関係から見る限り米潜水艦〝ボーフィン(Bowfin)〟を回り込むように航行した後、〝ある程度の角度〟をつけて魚雷を放っています。〝ボーフィン〟は〝浮上攻撃〟をしているため、角度をつけて〝魚雷〟を放つことは、なんら〝意味のない〟ことのように思います。しかしこれには〝確固たる理由〟があるように思えてなりません。もし潜水艦に損害を与えるための雷撃であるならば、浮上攻撃を仕掛けたことを考えると〝水平〟に撃つしかありません。しかしその攻撃によって潜水艦の〝爆発〟が起ったならどうなるでしょうか。魚雷も燃料も積んでいる〝ボーフィン(Bowfin)〟が爆発…、つまり〝漂流者〟が2次被害を受ける可能性があるのではないでしょうか。そして今までの雷撃を受けた場合とは違い、〝対馬丸〟を撃沈させた〝ボーフィン(Bowfin)〟はすぐには逃げず、魚雷を再装填し〝次のターゲット〟を伺っています。その時間〝対馬丸〟攻撃後1時間以上だったとされています。その海域に残ることがいかに〝危険をはらむ〟ものなのかは〝蓮の乗組員〟もわかっており、〝威嚇〟として発射させたのではないかと思います。

最終的には〝蓮〟は現場海域を脱出し、護衛の任務へと戻ります。〝対馬丸撃沈〟という大きな犠牲は出しましたが、他の2隻に乗船した3,300名もの疎開者は無事目的地へとたどり着くことができました。

では〝残り2隻の護衛〟と割り切ったのかどうかというとそれも違うように思います。この〝対馬丸撃沈〟の報告を入れた際、〝漂流者多数につき救助要す〟ということも〝海上護衛総司令部〟隷下の〝第四海上護衛隊本部〟へと伝わっていました。この〝第四海上護衛隊〟こそが沖縄から南西諸島・九州間航路の〝護衛〟を専門としていたところです。日が変わった8月23日朝、第901海軍航空隊大村派遣隊の96式陸上攻撃機が、長崎県の大村飛行場を離陸します。この96式陸上攻撃機は〝対潜特別掃蕩隊〟として昭和19年4月21日に増備された〝陸攻電探磁探併装機〟を持つ文字通り〝対潜掃蕩〟専用の機になります。2名の搭乗員は〝昨日の無線〟の内容を頼りに、〝ナモ103船団〟の航路を辿って行きます。巡航している〝船団〟を確認し、昨晩からの航路を辿って行きます。そして12:00頃、〝対馬丸沈没〟周辺海域で多数の〝漂流者〟を発見します。

翼の〝日の丸〟が〝漂流者〟達にどう見えたのかはわかりませんが、飛行機から複数もの〝筒〟が落とされます。ひとつは〝ガンバレ、救助手配ス〟と書かれたメッセージが入っていた〝通信筒〟、そして〝赤飯〟の入った〝竹筒。万全の数があった訳ではないにしろ、〝漂流者〟にはその出来事を〝心強い〟と思われたところはあったのではないでしょうか。その後海軍機は飛行高度を利用し、周辺海域で2隻の〝漁船〟を見付け、直接〝通信筒〟を使って〝漂流者救助を依頼〟そして現場海域へと誘導しています。急遽操業を停止した〝2隻の漁船〟のうち鹿児島県山川の〝開洋丸〟は14:00頃、宮崎県油津の〝栄徳丸〟は15:30頃遭難海域に到着し、漂流者の救助に当たりました。漁船をここへと導いた〝海軍機〟は、救助活動の開始を確認し、搭載燃料の問題もあり現場を去ります。しかし〝漁船〟とはそれ程〝キャパシティー〟がある訳でもなく、5~60名を救助した後低気圧の接近もあり、救助活動をやめ鹿児島県山川港へと入港し〝遭難者〟を引き渡そうとするも、なかなか軍の許可が出ず、結局鹿児島港へと入港し111名の〝救助者〟を引き渡したとあります。

そして8月23日には瀬相(せそう:奄美加計呂麻島)を出た救助艇〝第一拓南丸〟が〝対潜掃蕩(たいせんそうとう;潜水艦を駆逐すること)〟の後、天候の悪化により一旦瀬相へ戻り、翌8月24日15:00頃現場海域へと到着し遭難者91名を救助、8月26日に鹿児島港へ入港しています。
あと一隻大島防備隊所属の〝長水丸〟が遭難者救助に当たっており、8月26日に瀬相を出港し、本来なら名瀬へと〝遭難者〟を迎えに行くはずでしたが、奄美近郊まで漂流し救助された方がまだ到着しておらず、そのため〝遭難現場〟付近まで往復しています。その往復の航路の中で救助された方もおられたようです。8月26日に瀬相を出港し、8月28日18:30頃瀬相着、奄美まで流れ着いて助かった漂流者21名と、周辺海域で救助されたもの31名で合わせて52名がこのとき救助されました。

確固たる人数がわからないものの救助された生存者のうち〝鹿児島〟へと無事到着した約200名はそのまま〝疎開先〟へと向かったとされています。これが〝2隻の漁船〟と〝第一拓南丸〟に救助された方々ということになります。しかし奄美大島近辺で〝漂着〟もしくは〝救助〟されたものは、瀬相にいったん集められた後、奄美大島の古仁屋(今の大島郡瀬戸内町)に集められます。そして〝緘口令〟が敷かれた〝対馬丸事件〟について語ることができないように〝憲兵の監視〟の下、での生活を余儀なくされます。そして救助された児童は、厳重な護衛の下沖縄へと戻されます。この〝生存者の取扱い〟についても、これという決め手はないものの〝強制疎開〟が始まる前の〝縁故疎開〟の考えに基づいてとするものが少なくありません。元々本土で行われていた〝大都市〟に於ける〝疎開〟は〝縁故疎開〟といった〝個人〟の判断に基づいて行われていました。しかし大戦末期の戦況の悪化と共に行われた〝強制疎開〟のひとつである沖縄からの本土への〝学童疎開〟、その中で起こった〝対馬丸事件〟と言うことになります。当初はすべて〝九州〟へと送る予定だったとされていますが、現実にはこの〝対馬丸事件〟によって、〝引率教師〟〝保護者〟等大人が犠牲となり〝引き受け手〟がない〝子ども〟が出てきました。そこでその児童をはじめとした〝引き受け手〟のない〝生存者〟を一旦奄美の古仁屋に集めた後に〝強制疎開〟命令を緩和し、沖縄には〝引き受け先〟がある者に対しては〝箝口令〟の元厳重な護衛を付けて沖縄へと戻したのではないかという解釈が辻褄のあっていることのように思います。結局は〝縁故疎開〟と同じように扱われ、その扱いに漏れてしまった生存者を沖縄へと返した・・・。そして昭和19(1944)年10月10日の沖縄大空襲を経験することになってしまいます・・・。一度ならず二度までも〝生き地獄〟を体験することは、筆舌に尽くしがたいものであったに違いありません。

もうひとつ〝生存者〟を含めた多くの方々の回想に多く書かれていることですが、〝乗船する〟若しくは〝護衛につく〟船舶をどこまで見ていたかということがあります。〝湖南丸〟を含む〝沖903船団〟には、〝延寿丸〟が5,000t超であった以外はそれ程〝大きい〟ものではなく(湖南丸は2,627t)、〝小船に乗って〟という表現もされていません。しかし〝対馬丸〟を含む〝ナモ103船団〟は疎開船3隻ともが6,000t超の船体です。そのため〝小船に乗って乗り移った〟という記述が多々見受けられます。つまり〝港の外〟に停泊していた〝疎開船〟へと〝乗り移った〟ということになります。この〝構成船舶の違い〟は〝学童疎開〟を強制するのにあたり、住人の要望である〝戦艦〟を用意できない〝軍〟の苦し紛れの配慮のように思います。それはさて置き船団に付く〝護衛艦〟はいつも〝港外待機〟をしていたことは、全ての立場の方が異口同音に言われることでもあります。これがなにを示すのか、〝ナモ103船団〟の場合、旧式ではあるものの駆逐艦と砲艦が付きましたが、〝沖903船団〟に至っては・・・。つまり港外に係留されているとは言われても、〝この護衛艦が私たちを○○(行き先)まで送り届ける〟と言ったものではなく、出航してしばらくすると〝おや?ついてくる船舶がある〟的なものではなかったかと思います。そのように〝乗船客〟に思わせるのであれば、〝護衛艦〟の乗組員が〝護衛船舶〟の〝乗船客〟まで把握していないことは当然だったことのように思います。これはある意味〝感情を持たさない〟ように護衛をさせていたのではないかと思います。言い方は非常に悪いですが、制海権を奪われつつある時代に続発している〝船舶被害〟、その犠牲者を〝ひとりでも多く〟救助しようと深追いした結果、二次被害を被って犠牲者を増やしてしまう・・・それを懸念したためのようにも思えます。後は〝風評〟・・・。護衛艦の乗組員も全てが任務の詳細までは〝知らされていない〟と解釈するのが間違いないように思います。勿論運航に携わっている〝兵士〟は、知っているでしょうが、末端の〝兵士〟まで伝わっていなかったとするのが自然な展開のように思えます。雷撃を加えられた船舶が沈没し、乗船客が海に漂う姿を目にします。しかし〝対馬丸〟と〝湖南丸〟いずれも〝漆黒の海〟の海面を見ても〝これ程多く〟の人間がいるとは思ってもいなかったのではないでしょうか。特に〝対馬丸事件〟の際は〝学童疎開〟ではなく〝輸送船〟の〝護衛任務〟だったと聞いていたという証言もあります。緘口令のもとすぐには〝事実〟がわからなかったことも不思議ではありませんでした。しかし事実が明るみになってから〝知った〟〝護衛艦の乗組員〟の方々の心境は穏やかなものではなかったと思います。しかしもし〝護衛艦の乗組員〟だということを口外しなければ必要以上に〝怪しまれる〟ことはなかったのではないでしょうか。それをあえて口外し小桜の塔を訪ねた・・・。そこで〝悪者のレッテル〟を貼られてしまい、自責の念に駆られるようになってしまった。遺族側からすると確かに救助活動をしなかった〝護衛艦〟の乗組員は〝悪〟の一文字なのかも知れません。しかしそれは〝軍〟を悪く言うのにその〝構成員〟だった〝兵士〟を十把一絡げにした〝風評〟ではないでしょうか。付け加えると〝対馬丸記念館〟の資料にあった〝暁空丸に乗っていた一人の子どもの手記〟として〝漂流している男の人〟を見つけ、兵隊さんに助けを求めましたが、ひと言「助けに行くことはできないよ」と言われたとの記述、これは〝対馬丸事件〟に巻き込まれ漂流を体験した後に救助された方の手記からの抜粋とのことでしたが、この証言は本当に〝暁空丸〟に乗っていた子供の〝証言〟だったのでしょうか。それはこの〝対馬丸事件〟に於いて〝対馬丸〟以外の船舶の乗船客だった方の〝証言〟〝そのもの〟がありません。それがこの〝一件〟だけというとあまりにも出来過ぎているように思えてなりません。かと言って否定するにも証拠がないのでこれ以上の追及はできませんが、この表現はどうも納得のいかないところがあります。特に〝ナモ103船団〟〝対馬丸〟以外の乗船客は無事目的地についており、〝損得勘定〟を弁えない子供の頃に聞いたことであればいざ知らす、大人になってからこの〝証言〟をすることはないように思えてなりません。

仮説論であり事実ではない〝一連の流れ〟ではありますが、個々の〝出来事〟の〝辻褄〟を合わせると、実はこのように解釈するしかないところがあります。〝対馬丸〟の沈没時の各船舶の行動は説明した通りなのですが、もし〝第四海上護衛隊本部〟への〝対馬丸撃沈〟の事実、暗闇の中で確定論ではないにしろ〝漂流者多数〟あり〝救助〟の必要性、そして〝米潜水艦〟が現場海域に〝残存〟していることなど〝緊急を要する〟報告がしっかりとなされており、それが翌日の〝哨戒命令〟に繋がっていることは、容易に想像がつく話です。そして〝哨戒飛行中〟に行われた〝食料の投下〟、これを〝行き当たりバッタリ〟ではできないことのように思います。勿論詳細には〝どのような状況〟で 〝対馬丸〟の〝生存者〟が漂流しているかは、事件直後は〝闇の中〟だったこともあり〝予想だにしていなかった〟ことだったと思います。もし本当に〝救助第一〟の考えであれば、〝飛行艇〟を飛ばしての〝救助〟も考えられますが、あえて〝96式陸上攻撃機〟を使った・・・。これはやはり〝対潜掃蕩〟が当初の〝任務〟であり、漁船に〝救助依頼〟をしたのは、搭乗したパイロットの〝機転〟によるものだったと考えるのが正しいように思います。

2隻の漁船による〝救助活動〟は、〝海軍機〟によって作られた〝きっかけ〟によるものですが、その後の〝第一拓南丸〟に関しては、やはり〝対潜掃蕩〟が第一の任務だったと考えます。悪天候により一度は瀬相に戻って翌日改めて出発し、現場海域に到着しますが、潜水艦の陰は見当たらず〝遭難者救助〟に専念することになります。

この辺りの話として、8月25日には〝指宿〟〝鹿屋〟の各基地より〝飛行艇〟や〝戦闘機〟が、そして〝第三拓南丸〟が救助に向かったと記述しているものがあります。しかしいずれの海軍基地からも〝遭難救助〟や〝対潜掃蕩〟のため航空機の出撃という記録がありません。そして〝第三拓南丸〟はこの時期8月24日~26日は〝ナカ405船団〟の護衛で〝瀬相~鹿児島山川〟を航行しています。このルートは、トカラ列島を経由しながら行くこともあり、〝現場海域〟を通過する可能性は〝無くはない〟のかも知れません。しかし〝武器という武器〟も持たない状態で、任務以上のことを考えることがあるかどうか、そしてなにより〝海流に流される〟〝漂流者〟の位置的な事を考えると、〝救助〟にあたったかどうかは〝無かったこと〟のように考えます。

この仮定論の〝解釈〟の根拠は、〝ナモ103船団〟の護衛を担当した〝第四海上護衛隊〟の〝位置付け〟です。元々は佐世保鎮守府隷下だった海面防備部隊に編成されていた〝大島防備部隊〟と〝沖縄防備部隊〟を昭和19(1944)年4月10日、南西諸島方面の防備強化のために〝沖縄方面根拠地隊〟と〝第四海上護衛隊〟を新設し、従来から海上護衛を担当していた部署が〝第四海上護衛隊〟、それ以外は〝沖縄根拠地隊〟へと改編されました。また〝第四海上護衛隊〟の上位組織である〝海上護衛総司令部〟は、文字通り〝シーレーン〟の〝海上護衛専門〟の組織として設立された〝独立組織〟ですが、〝対馬丸事件〟があった頃は横須賀鎮守府長官であった〝野村直邦(のむら なおくに)海軍大将〟が〝海上護衛総司令部長官〟を兼務していました。そしてその隷下の航空隊として置かれたものが、〝901海軍航空隊〟となります。一時は〝第二海上護衛隊直属〟になっていましたが、サイパン島の陥落により〝第二海上護衛隊〟が解散し、元の〝海上護衛総司令部〟直属になっています。そして護衛専門の〝901海軍航空隊〟ですが、〝対馬丸事件〟当時、九州エリアでは長崎県の〝大村〟にしか〝派遣隊〟はありませんでした。〝96式陸攻〟と〝97式飛行艇〟各3機の所属機では、哨戒を伴う任務ならば、使用機材も決まってきます。

南方での敗戦が続く中、〝攻撃〟はともかく〝防備〟すらままならぬご時世に於いて、仮説の域ではあるもののここまでの〝連携〟がされていることは、強ち〝軍は見捨てた〟という〝既成概念〟を取り払うものになるのではないか、そう考えます。

漁船に救助された111名と救助艇に救助された91名の合わせて202名は鹿児島へと送られました。しかし奄美で救助された21名と長水丸が救助した31名の計52名は、瀬相に一度立ち寄ったあと奄美大島の古仁屋へと向かいました。

その後奄美の住人も本土への疎開対象として古仁屋(奄美大島瀬戸内町)へと集められ、旅館でその時期を待つことになります。緘口令が敷かれていたとされてはいますが、古仁屋にて滞在の間に〝対馬丸撃沈〟等の情報を知り得たとされています。これは〝対馬丸〟の生存者からの情報とされていますが、現実問題として〝対馬丸〟の情報をいくら〝緘口令〟により軍部が規制したとしても、〝無事到着〟していれば〝便り〟等〝知らせ〟が来て当然であることは〝一目瞭然〟であり、それを〝秘密〟にしたからとて、いつまでも隠し通せることではないと考えます。沖縄県民の〝本土疎開〟が本格化される中で、〝対馬丸事件〟をもみ消すかのように言われることもあるものの、現実的には〝事件をもみ消す〟ことな ど〝無理な話〟だとするのが適当ではないでしょうか。

一連の出来事を列挙して辻褄を合わせただけに過ぎませんが、この内容は〝軍〟が残した記録に基づいて記述しています。〝四海護日誌〟〝大防日誌〟がその抽出元ではありますが、〝四海護日誌〟つまり〝沖縄~九州航路〟の〝船団護衛〟を任務としていた専門部署〝第四海上護衛隊〟の記録と〝大防日誌〟すなわち〝第四海上護衛隊〟隷下の〝大島防備隊〟の記録を参考にしています。軍の記録なので、それ即ち〝軍を悪くは書かない〟と決め付けるとそれまでかも知れません。しかし〝生存者〟を含めた〝民間側〟の記録は、言い方はよくありませんが、感情による〝誇張〟と思われる記述も見受けられます。勿論〝生き地獄〟を見られた〝生存者〟の方の心中は、想像を絶するものだった、いや70年の月日が経った〝今もなお〟そうなのかも知れません。しかしそれは時として〝史実の歪曲〟ととられる可能性もあり、結果〝文献考察〟ごときにたたかれてしまうリスクもあると思います。その点軍の記録は、ただ〝船舶〟や〝飛行機〟、そして出航の目的が時系列で書かれている極めてシンプルなものです。シンプル過ぎるゆえ、ある一隻の船舶が、何の目的で出航し、どのようなことをして、帰ってきたかを〝表〟にでも書かないとわからないことも多々ありました。そのひとつひとつを〝時系列〟に並べたもの、それがこの仮定論の成り立ちになっています。

また最近新たな発見もありました。昨年平成26(2014)年には、日本軍機から救助依頼を受けた漁船〝開洋丸〟の当時16歳だった甲板員の方が当時記された日記が発見され、対馬丸記念館へと寄贈されました。それを紹介します。
「当時小生は鹿児島県山川町の開発会社の開洋丸(鰹漁船)に甲板員として乗船同年8月23日午前9時頃、鹿児島県の七島の一ツで中之島(活大山通称ヤケ島と呼んでいる)附近で操業中日本機らしきが低空で飛来し本船上を旋回しながら通信筒を投下するも海面に落下し、小生早速海中にとび込み拾い上げて見ると、昨夜(8月22日夜の11時頃)悪石島二浬沖にて対馬丸が米潜水艦に魚雷攻撃を受け間もなく沈没。多数の遭難者がイカダにつかまり漂流しているので救助頼むとの事。早速操業を打ち切り附近で操業中の宮崎県の油津の鰹船にもそのむねを連絡し2隻が全速力で遭難現場に向いました。当着したのわ多分同日の午后2時頃だと思います、油津の漁船は途中エンジン故障で本船より約1時間半あまり遅れて遭難現場に当着しました。通信長と小生ははだかになりまずロープを腰にくくり海中にとび込み、遭難者に接近ロープをイカダにむすびつけ再三くり返しながら5、60人救助したのでわないかと思います。遭難以来約15時間近くもおよいでいる者、転覆している救命ボートの上で幾人か助けを求めている者、又救命胴衣着用したまゝボートの下敷になり浮上する事が出来ず死亡している方が多さんいました。四方八方でイカダの上で必死で助けを求めているものゝ、小生達の船はそれ以上の救助は無理で当時は低気圧接近にともない気象条件が悪くやむえず救助を打ち切り遭難現場をあとにしました。一旦、山川港に入港し遭難者の引渡し手続するも軍部の許可がなかなかおりず、軍部の指示にしたがい、鹿児島港へ廻航の上、救助者を全員引渡しました。
対馬丸沈没した付近に日本の駆逐艦がいて潜水艦攻撃のため、その附近一帯に爆雷を多数投下するも、すでに潜水艦はいずこかに去っておらず爆発により大勢の方が死亡したようすです。救助した中には頭を怪我されている者、又先生で腸が見えている重傷の方もいました。わりかし元気でした。今その方達の生死もわかりませんが、救助者全員の氏名すら一人として、わからぬまゝ別れました。
今その方達はどこでどうして生きているものか知りたいものです。【原文のまま】

この記述は、〝救助〟に携わった側の記録として大変貴重なもののひとつです。事実この〝対馬丸事件〟は〝箝口令〟がひかれてしまったため、その当時は〝憶測〟でしか語られなかったものでした。ではなぜこの〝記録〟が今になって見つかったのかということになりますが、やはりこの当時16歳の少年が携わった〝救助活動〟は、想像を絶するものだったのではと考えます。〝口外禁止〟とは言われていたものもあったかと思いますが、それより〝口外したくない〟という気持ちが先に立った。そしてこの記録は〝愛用の机〟に仕舞われたまま長い年月を過ごします。平成4(1994)年に66歳で亡くなられますが、奥さんが〝愛用の机〟をそのままにしておかれたそうです。なにか因果めいたものもあったのでしょうか、その遺品整理をされている最中にこの〝手記〟を見つけられたそうです。〝そんな凄いもの〟が手元にあったとは誰も思わないでしょう。その〝手記に書かれてい〟情報〟を尋ねられた結果、〝対馬丸事件救助〟の手記であったことがわかり、記念館へと寄贈されます。事件後70年目の節目の年に記念館で展示されました。

仮定論を述べるにあたり、ひとつだけ誤解のないようにしておきたいのですが、私自身〝対馬丸〟の犠牲者を冒涜するつもりもありません。また生存者の方々に対して意見をするつもりも毛頭ありません。対馬丸事件での生存者の方々が挙って言う事件のことを〝言わない〟のではなく〝言いたくない〟ということは、〝真の生き地獄〟を経験された方々の心中複雑な気持ちはあって当然だと思います。しかし残念に思うことは、その一方証言そのものが〝曲解〟されているようにも感じました。

出来事に対する〝解釈〟というものは、十人十色、千差万別あるものなので〝これ〟という答えはありません。しかし〝事実〟はひとつです。理由があって〝事実〟を公に出来ない、またはしないのであれば、それは当事者がそう考えている以上はどうしようもないことだと思います。しかしこの〝対馬丸事件〟の場合、〝解釈〟がさも〝事実〟のように書かれているところが多々見受けられます。ある意味その〝証言〟を使われた生存者の方々は、〝被害者〟のなのかも知れません。

そっとして欲しい…、それが答えなのかも知れません。しかし時系列の流れで〝記述されているもの〟を並べると、〝一貫した流れの答え〟がされていないこともあります。昨年平成26(2014)年天皇陛下が〝対馬丸記念館〟を訪れ、生存者の方々と交流されています。そこに列席した方々は挙って〝陛下の来沖を歓迎します〟とのコメントを出しておられます。そのなかでお一人〝陛下のお人柄〟は認めます、しかし〝天皇制〟は嫌いです。とのコメントを出されました。〝大人の遣り取り〟と解釈するものもあれど、そんな単純なものではないように思います。しかし〝公表されている〟〝意見〟が迷走していると、正直どの記述が〝本音に一番近いのか〟ということは考えてしまいます。

以前にも書いたことなのですが、沖縄戦に於いてなぜあれ程の現地召集の学徒の犠牲者を出してしまったかという〝理由〟に〝指揮者の不在〟ということを挙げました。〝ナモ103船団〟のケースも同じことが言えるかも知れません。輸送指揮を取っていた〝少尉〟は、自決し対馬丸と運命をともにしました。駆逐艦〝蓮〟の艦長は〝大尉〟、砲艦〝宇治〟の艦長は〝中佐〟。本来ならこの〝船団輸送〟に関わる〝指揮官〟は最高階級である〝中佐〟がやるもののようには思うところもありますが、現実には〝少尉〟がやっていた・・・。確かに〝艦長〟と言うと〝自船〟の〝運航指揮者〟であり、〝自船災害時〟に於ける〝指揮系統〟はしっかりしているものの、やはり〝船団〟という〝集団〟の〝護衛〟としては、〝縦割り〟的な考えがあったようにも思えます。〝輸送指揮者〟と〝運航指揮者〟。素人目には似ているようで全く〝違う概念〟を持たねばならなかったのかも知れません。

しっくりいかないまま記念館を後にし、隣の旭ヶ丘公園の慰霊塔を回って行くと、〝対馬丸記念館〟から一番遠い場所の沖縄護国寺手前に〝対馬丸遭難者慰霊塔〟である〝小桜の塔〟が建立されています。そして丘を一周するように回って行くと、記念館のすぐ隣には〝沖縄船舶遭難者〟を祀る〝海鳴りの像〟が建立されています。このふたつの慰霊碑は、〝ねじれ(垂直)〟に位置に建立されていることが、個々に祀られている〝犠牲者〟の立場の複雑さを物語っているように思えてなりませんでした。この両者の〝合同慰霊祭〟が催行されるだけでマスコミが大々的に報道をしています。この〝違和感〟がなにに起因するものなのか、何故〝海鳴りの像〟の碑文に〝対馬丸を除く25隻の船舶遭難者〟という〝書き方〟がされているのか・・・。戦時中に起こった〝船舶遭難事故〟は、終戦後70年経った今なお〝ベール〟に包まれており、解決に至っていない現実を語っているように思えてなりません。

色々なことを考えさせられた〝対馬丸記念館〟に始まった〝旭ヶ丘公園慰霊碑巡り〟でした。



長文にお付き合い頂きありがとうございました。これで〝第十二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅沖縄~対馬丸記念館・旭ヶ丘公園慰霊碑編~〟は終わります。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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