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名古屋駅近くにある真宗大谷派の専修山・称名寺の紹介です。1340年(興国元年)創立の碧南市大浜の称名寺の支院として刈谷市東境に設立され、明治時代に現在地に移転し、宗派も時宗から浄土真宗に転派しました。

2015秋、桂芳院と称名寺(7/19):専修山・称名寺、鐘楼門、石段、本堂、庫裏、石灯篭

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2015/09/26 - 2015/10/09

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旅人のくまさん

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名古屋駅近くにある真宗大谷派の専修山・称名寺の紹介です。1340年(興国元年)創立の碧南市大浜の称名寺の支院として刈谷市東境に設立され、明治時代に現在地に移転し、宗派も時宗から浄土真宗に転派しました。

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 名古屋駅近くにある真宗大谷派のお寺、専修山・称名寺の山門光景です。同寺のHPには、『1340年(興国元年)創立の碧南市大浜の称名寺(徳川家康の幼名、竹千代命名の寺)の支院として刈谷市東境に設立されましたが、明治時代に現在地に移転し、宗派も時宗から浄土真宗へと転派しました』と沿革が紹介されていました。 <br />

    イチオシ

    名古屋駅近くにある真宗大谷派のお寺、専修山・称名寺の山門光景です。同寺のHPには、『1340年(興国元年)創立の碧南市大浜の称名寺(徳川家康の幼名、竹千代命名の寺)の支院として刈谷市東境に設立されましたが、明治時代に現在地に移転し、宗派も時宗から浄土真宗へと転派しました』と沿革が紹介されていました。

  • 専修山・称名寺の山門のズームアップ光景です。二階建ての上階に梵鐘が設けられた、鐘楼門の形式でした。その二階には、望楼も廻らされていました。先程の碧南市大浜の称名寺は、三河松平家(徳川家)と関わりが深い時宗の檀林寺院です。聖観音菩薩(県文化財)は松平信忠公の息女の御持仏であり、徳川家康公の幼名・竹千代は、十五世一天和尚が命名したことがHPで紹介されていました。

    専修山・称名寺の山門のズームアップ光景です。二階建ての上階に梵鐘が設けられた、鐘楼門の形式でした。その二階には、望楼も廻らされていました。先程の碧南市大浜の称名寺は、三河松平家(徳川家)と関わりが深い時宗の檀林寺院です。聖観音菩薩(県文化財)は松平信忠公の息女の御持仏であり、徳川家康公の幼名・竹千代は、十五世一天和尚が命名したことがHPで紹介されていました。

  • 『真宗大谷派・専修山・称名寺』の文字が刻まれた、大きな表札の光景です。現在の本堂、鐘楼門は、太平洋戦争の戦火を免れ、2003年(平成15年)10月に平成の大修復が行なわれました。

    『真宗大谷派・専修山・称名寺』の文字が刻まれた、大きな表札の光景です。現在の本堂、鐘楼門は、太平洋戦争の戦火を免れ、2003年(平成15年)10月に平成の大修復が行なわれました。

  • 左手前が鐘楼門、その奥に見えていた本堂の光景です。どちらも第二次大戦の戦火を免れたようですから、明治時代に現在地に移転した時の建物が、2003年(平成15年)10月に平成の大修復をされた建物のようです。

    左手前が鐘楼門、その奥に見えていた本堂の光景です。どちらも第二次大戦の戦火を免れたようですから、明治時代に現在地に移転した時の建物が、2003年(平成15年)10月に平成の大修復をされた建物のようです。

  • 鐘楼門の正面に向かって、右側にあった建物の光景です。生活臭がある庫裏のようでした。鬼瓦が頭を覗かせていましたが、石壁風に仕上げられた近代工法の壁面光景でした。

    鐘楼門の正面に向かって、右側にあった建物の光景です。生活臭がある庫裏のようでした。鬼瓦が頭を覗かせていましたが、石壁風に仕上げられた近代工法の壁面光景でした。

  • 本堂の正面になる南面のズームアップ光景です。2003年(平成15年)10月に平成の大修復が行なわれたとされる跡が、白い壁やリフレッシュされた柱などに残されていました。

    本堂の正面になる南面のズームアップ光景です。2003年(平成15年)10月に平成の大修復が行なわれたとされる跡が、白い壁やリフレッシュされた柱などに残されていました。

  • 浄土真宗の宗祖・親鸞が選定した七高僧(しちこうそう)の紹介です。①インド(天竺)の龍樹と天親、②中国(震旦)の曇鸞、道綽と善導、③日本(和朝)の源信と源空の7人の高僧です。源信(942~1017年)は、恵心僧都と尊称される天台宗の僧、源空(1133~1212年)は、法然上人とも呼ばれる浄土宗の開祖です。

    浄土真宗の宗祖・親鸞が選定した七高僧(しちこうそう)の紹介です。①インド(天竺)の龍樹と天親、②中国(震旦)の曇鸞、道綽と善導、③日本(和朝)の源信と源空の7人の高僧です。源信(942~1017年)は、恵心僧都と尊称される天台宗の僧、源空(1133~1212年)は、法然上人とも呼ばれる浄土宗の開祖です。

  • 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と呼んでいます。また、親鸞を宗祖とする浄土真宗の各派は、親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させたものです。親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとしたとされます。

    浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と呼んでいます。また、親鸞を宗祖とする浄土真宗の各派は、親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させたものです。親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとしたとされます。

  • 鐘楼門の二階部分に設けられた望楼のズームアップ光景です。その下に見える本瓦を載せた建造物は、鐘楼門の左右に連なる門の一部が残されたもののようでした。

    鐘楼門の二階部分に設けられた望楼のズームアップ光景です。その下に見える本瓦を載せた建造物は、鐘楼門の左右に連なる門の一部が残されたもののようでした。

  • 鐘楼門の二階部分のズームアップ光景です。現役で使われているらしい梵鐘が吊り下げられていました。江戸時代には、名古屋城の守りとしての役割を担ったお寺の雰囲気が残っていました。

    鐘楼門の二階部分のズームアップ光景です。現役で使われているらしい梵鐘が吊り下げられていました。江戸時代には、名古屋城の守りとしての役割を担ったお寺の雰囲気が残っていました。

  • 鐘楼門の1階部分のズームアップ光景です。武家門を連想させる、堅固で武骨な門に見えます。

    鐘楼門の1階部分のズームアップ光景です。武家門を連想させる、堅固で武骨な門に見えます。

  • 手書きで記されていた法然上人の『月影の至らぬところはなけれども ながむる人の心にぞすむ』の和歌です。『御仏の救いの手(月影)は普く伸べられているけれども、それをじっくり見つめる人にこそ、その御手が届く』の意味のようです。

    手書きで記されていた法然上人の『月影の至らぬところはなけれども ながむる人の心にぞすむ』の和歌です。『御仏の救いの手(月影)は普く伸べられているけれども、それをじっくり見つめる人にこそ、その御手が届く』の意味のようです。

  • 四方を木の柵で囲われた石灯篭の光景です。標準的な春日灯篭の様式のようでした。子供さん達が昇らないようにした危険防止と、大規模地震時の災害対策もある程度兼ねているようでした。

    四方を木の柵で囲われた石灯篭の光景です。標準的な春日灯篭の様式のようでした。子供さん達が昇らないようにした危険防止と、大規模地震時の災害対策もある程度兼ねているようでした。

  • 歩道ではなく、稱名寺の敷地内に植栽された青々とした樹木の光景です。ユズリハ(楪)当たりのようです。その足元には、同じく常緑樹のヒイラギナンテン(柊南天)が植栽されていました。これで、尾張徳川家との縁が深かった専修山・称名寺の紹介はおしまいです。

    歩道ではなく、稱名寺の敷地内に植栽された青々とした樹木の光景です。ユズリハ(楪)当たりのようです。その足元には、同じく常緑樹のヒイラギナンテン(柊南天)が植栽されていました。これで、尾張徳川家との縁が深かった専修山・称名寺の紹介はおしまいです。

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