2015/09/18 - 2015/09/22
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旅人のくまさんさん
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東本願寺の『東別院』に対し、『西別院』と呼ばれている西本願寺・名古屋別院の紹介です。創建は、明応年間(1492~1500年)とされる古刹です。古代印度中天竺様式とされる本堂は、昭和47年(1972年)に再建されました。
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国道19号線の西大須交差点の東南角にある、名古屋スポーツセンターの建物光景です。安藤美姫や浅田真央など、世界的なフィギュアスケート選手を多数輩出した施設です。これから向かう、西本願寺・名古屋別院の北隣に位置しています。
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名古屋スポーツセンターの建物にお前から眺めた、西本願寺・名古屋別院の西参道の入口付近の光景です。『西本願寺別院』の文字が記された大きな看板が見えました。間口の狭い入口でした。
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先程の看板があった場所を左に曲がった場所から眺めた、『西本願寺別院』の建物光景です。石段を登った、一段高くなった場所に建っていました。
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入口にあった大きな石標の光景です。この石標には、『本願寺名古屋別院・西山門入口』の文字がありました。看板や石標がなければ、見落としてしまいそうな場所です。『西本願寺・名古屋別院』の起源は、伊勢国桑名郡長島にあった浄土真宗のお寺、『願証寺(がんしょうじ)』に始まります。本願寺8世蓮如の6男『蓮淳(1464~1550年)により、遅くとも明応10年(1492年)までに、香取庄中郷杉江の地に創建されたお寺とされます。蓮淳の入寺は、明応6年(1497年)の説もあります。
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イチオシ
『古代印度中天竺様式』とされる本堂の屋根飾りのズームアップ光景です。しばらく、『西本願寺・名古屋別院』の歴史の紹介を続けます。蓮淳は、本願寺9世実如・10世証如に近侍し、長島への常住ができなかったため、永正8年(1511年)9月頃までには、蓮淳の次男・実恵が常住するようになったようです。天文3年(1534年)までは伊勢国、以降は美濃国・尾張国を加えた東海三箇国の本願寺門末を支配するようになりました。
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『西本願寺・名古屋別院』の本堂の側面光景です。蓮淳は10世証如の外祖父でもあったことから、本願寺教団中枢においても重きをなしました。長嶋の『願正寺』の大きな出来事が、『長島一向一揆』です。1570年頃から1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島を中心とした地域で、本願寺門徒らが蜂起した一向一揆です。織田信長(1534~1582年)との間で、大きく分けて三度に亘る激しい合戦が起きました。
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イチオシ
『西本願寺・名古屋別院』の南に位置する山門の光景です。長島付近は、願証寺をはじめ数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持った、一種の自治勢力でした。永禄10年(1567年)8月、信長は稲葉山城を落として美濃国を平定しましたが、敗れた斎藤龍興(1548~1573年)は『河内長島』へ逃げ込んだとされます(信長公記)。
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南側の山門から眺めた南側方面の光景です。元亀元年(1570年)9月、本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴い、当時の願証寺住持証意の檄文などにより、長島でも門徒が一斉蜂起しました。下間頼旦(生年不詳~1573年)らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主の長島城を攻め落とし、続けて11月には信長の弟・織田信興の守る小木江城を攻め信興を自害させ、更に桑名城の滝川一益を敗走させました。
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山門の外側から眺めた、境内光景です。最後となった第三次の長島の戦いは、天正2年(574年)、織田領の全域から兵を集め、7月に陸と海からの長島への侵攻作戦が開始されました。信長は、最後に残った残る屋長島・中江の2城を幾重にも柵で囲み、火攻めにしました。城中の2万の男女が焼け死んだとされます。
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古木の姿もあった境内光景です。伊勢国長島杉江に創建された願証寺が断絶した後、本願寺第11世宗主の顕如が織田信雄(1558~1630年)に願い出て、清須の地に願証寺を再興しました。その後江戸時代(1603~1868年)に入り、名古屋城築城による慶長14年(1609年)の清洲越しにより、現在地へ移転しました。
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自由奔放に枝を伸ばした境内の庭木の光景です。『西本願寺・名古屋別院』のHPからの紹介です。清州越しにより、『名古屋願証寺』となった時の境内地は9085坪でした。その後、正徳5年(1715年)、桑名願証寺が真宗高田派への転派のため、享保3年(1718年)2月、名古屋願証寺は本山の坊舎となり、『名古屋御坊』となりました。明治9年(1876年)6月、名古屋御坊から『本願寺名古屋別院』と改称され、境内建物も逐次整備されました。しかし、第2次世界大戦の末期の昭和20年(1945年)5月17日の空襲に遭い、鐘楼等の一部の建物を残して焼失しました。
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第二次大戦中の名古屋空襲で焼失を免れた鐘楼の光景です。もう一つ焼失を免れた建物が、先に紹介した南山門です。
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第二次大戦中の名古屋空襲で焼失を免れた鐘楼のズームアップ光景です。焼失を免れてから、既に70年が経過していますから、補修工事が行われているようでした。
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梵鐘と真新しい撞木のズームアップ光景です。梵鐘の正面には、『南無阿弥陀仏』の文字が鋳込まれていました。この梵鐘は、『真宗大谷派名古屋別院梵鐘』として、平成16年(2004年)に名古屋市の指定文化財に登録されています。江戸前期(元禄5年:1692年)の梵鐘です。
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梵鐘のズームアップ光景です。『響流十方』と、その左側に『本願寺・名古屋別院』の文字が鋳込まれていました。
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鐘楼の脇にあった高木の光景です。傍らにあった標識に、『保存樹・センダン』の文字が記されていました。『栴檀は双葉より芳し』のことわざでよく知られますが、これはセンダンではなく『ビャクダン(白檀)』を指します。お香の中でも、一番好きなのが、白檀です。英名は、サンダル・ウッドです。
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名古屋市指定の『保存樹・センダン』の文字が記された木標の光景です。『センダン(栴檀)』は、センダン科センダン属の落葉高木です。
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秋のお彼岸に近いこの日ですが、境内の樹木の中には、新緑を思わせるような嫩葉色の樹木の姿がありました。鐘楼の下から眺めた光景です。
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東南側から眺めた本堂の建物光景です。この後、本堂の中の見学もすることが出来ました。東側正面の石段を登った正面が主祭壇があった大広間でした。
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東南側から眺めた本堂の建物のズームアップ光景です。玄関上部には、西本願寺大谷家の『西六条藤紋』と呼ばれる、下り藤の金色の紋がありました。
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尾張藩3代藩主・徳川綱誠(1652~1699年)側室、梅昌院の墓碑とその周りの光景です。梅昌院は、本願寺との寺縁深く、名古屋御坊の存立と興隆に大きな庇護となり、寛政4年(1792年)のに17間四面の本堂の建立に功績があった人です。綱誠(つなのぶ)公の父は、第2代藩主・徳川光義(のち光友)、母は、第3代将軍の徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)でした。
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自然石を播割にして繰り抜いたような姿の手水鉢の光景です。梅昌院の墓碑の横に置かれていました。綱誠公の側室之一人、梅小路(梅昌院)は、酒井氏の出身の人です。
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樹木の幹の大きさから言って、名古屋市保存樹の『センダン(栴檀)』と同様に、第二次大戦中の名古屋空襲を耐え忍んだ樹木のようです。
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名古屋市の指定文化財の梵鐘が吊り下げられた鐘楼の光景です。第二次大戦の戦災に遭う前には、堂宇が立ち並んでいた境内のようですが、今は、広々とした境内の光景です。
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白い花を咲かせた、『タマスダレ(玉簾)』の光景です。ヒガンバナ科(クロンキスト体系ではユリ科)タマスダレ属の球根草です。クロンキスト体系は、1980年代にアーサー・クロンキスト が提唱した、被子植物の分類体系です。1990年代にAPG体系が登場するまでは最新の分類体系でしたが、21世紀の現在では旧分類になります。
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矢や黄色を帯びた白い『ヒガンバナ(彼岸花)』の光景です。ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草です。クロンキスト体系ではユリ科でした。
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境内の東側から眺めた、『西本願寺・名古屋別院』の本堂光景です。『古代印度中天竺様式』とされる建物は、東京の築地本願寺にも採用されています。京都市にある西本願寺の直轄寺院です。当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞師と親交のあった、東京帝国大学工学部教授の伊東忠太による設計です。
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西別院の境内の一角に置かれた、『西別院幼稚園』の方面の光景です。葉桜になった、桜並木の光景がありました。
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若かりし頃の親鸞像の光景です。承安3年(1173年)4月、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)で、皇太后宮大進の日野有範の長男として誕生しました。母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の『貴光女』とする説があります。
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若かりし頃の親鸞像のズームアップ光景です。裸足で立った、合掌姿の像でした。伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の親鸞(当時・範宴)が、『明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは』と詠んだと伝わります。
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庭木の中に半ば隠れるように置かれていた灯籠の光景です。全体が丸みを帯びた、癒し系の姿をした石灯篭でした。最下部の柱の部分は、卵型でした。
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同じく西別院の境内にあった石灯篭の光景です。こちらは、春日灯篭と類似のタイプの姿をしていました。三段の基壇の上に乗せられた、堂々とした石灯篭でした。柱の部分に刻まれた文字は、『本願寺別院』でした。
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境内の一角にあった『西別院幼稚園』の光景です。昭和3年(1928年)、名古屋別院の教化活動の一環として開設された『本派幼稚園』が始まりとされます。
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西別院の境内光景です。この方角には堂宇の姿はなく、自由に枝を伸ばした庭木の光景だけでした。
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自由に枝を伸ばした庭木のズームアップ光景です。鐘楼よりも、はるかに高く育った常緑樹のようでした。
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紫色の花を咲かせた、『フイリヤブラン(斑入り藪蘭)』の光景です。ラン科ではなくユリ科の常緑の植物です。
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本堂側面のガラス窓の光景です。中央に、二重の八弁の花の紋章がありました。菊の花をデフォルメした紋様のようでした。
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本堂2階のガラス窓越しに眺めた、名古屋市街の光景です。寺院というより、ホテルなどのロビー光景の印象でした。
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イチオシ
大講堂の室内光景です。昭和47(1972年)4月に再建された本堂は、平成14年(2002年)に改修工事が行われています。その工事内容は、エレベーター設置などのバリアフリー化工事、本堂イス席化などと、同寺のHPに紹介されていました。
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『不退轉(転)』の金文字が記された扁額のようです。『光照』の落款がありました。『不退轉』は、信念を持ち、何事にも屈しないことを意味します。
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本堂内に設置してあった、『2015年度・昼の講座』のタイトルがあった案内パネルの光景です。『視聴覚伝道講座』の副題が記してありました。
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本堂の石段上から眺めた、東側方面の光景です。表参道は、こちら側の東門(正門)側になります。
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イチオシ
少し離れた場所から眺めた、鐘楼の光景です。梵鐘は名古屋市の文化財(工芸品)に登録されていましたが、鐘楼は指定文化財(建築)のリストに見当たりませんでした。
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南山門から眺めた本堂の建物の側面光景です。寺院の建物とは、およそかけ離れたイメージの建築物でした。
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南山門から眺めた境内の光景です。西山門から入場しましたが、帰りには南山門を通りました。鐘楼とともに、名古屋空襲での焼失を免れた建造物です。南山門も、名古屋市の指定文化財(建築)のリストに見当たりませんでした。
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『道石本堂・前塚町通』の文字が記された古い石標の光景です。『本堂』は、『御坊』とも呼ばれた、『西本願寺・名古屋別院』のことを指しているようでした。
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振り返って眺めた、南山門の光景です。西別院のHPには、愛知県・三重県の一般寺院を統括する東海教務所としての機能のほか、中京都市圏において、浄土真宗本願寺派の中心道場・教化の中心と紹介されていました。
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秋バラというより、咲き残った『バラ(薔薇)』の花の光景です。『バラ』は、バラ科バラ属の植物の総称です。西別院の境内で咲いていた、薄い黄色の花です。
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同じく薔薇の花ですが、こちらのバラは西別院の近くでの撮影です。一見、白色にも見える、薄いピンクの花の色です。
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こちらのバラの花も、西別院の近くでの撮影です。オレンジ色の花でした。蕾の姿もありました。多くの歴史の変遷を内に秘めた西本願寺の名古屋別院の見学でした。
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旅行記グループ 2015年、尾張の寺社巡り(その3)
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