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西側方面のお濠の外から眺めた名古屋城の光景です。続いて、外濠の西南角を曲がって、南面のお濠の外からの名古屋城の紹介です。南面は、今はすべて空濠でした。

2015秋、お濠の外から眺めた名古屋城(2/3):天守閣、鵜の首、鵞鳥、彼岸花、名城南面

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2015/09/22 - 2015/09/22

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旅人のくまさん

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西側方面のお濠の外から眺めた名古屋城の光景です。続いて、外濠の西南角を曲がって、南面のお濠の外からの名古屋城の紹介です。南面は、今はすべて空濠でした。

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  • 名古屋城の縄張り構造は、典型的な梯郭式平城とされます。本丸を中心として南東を二之丸、南西を西之丸、北西を御深井丸が取り囲み、更に南から東にかけて三之丸が囲む構造です。この眺めは、南西を西之丸、北西を御深井丸が取り囲む光景です。

    名古屋城の縄張り構造は、典型的な梯郭式平城とされます。本丸を中心として南東を二之丸、南西を西之丸、北西を御深井丸が取り囲み、更に南から東にかけて三之丸が囲む構造です。この眺めは、南西を西之丸、北西を御深井丸が取り囲む光景です。

  • 『鵜の首』の少し南側から眺めた天守閣の光景です。大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられています。江戸時代に始まった伊勢音頭にも『伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ』と詠われています。

    『鵜の首』の少し南側から眺めた天守閣の光景です。大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられています。江戸時代に始まった伊勢音頭にも『伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ』と詠われています。

  • 『鵜の首』の少し南側から眺めた天守閣のズームアップ光景です。平成25年(2013年)1月、名古屋市は2013年度から、名古屋城の天守閣を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。工費は300〜400億円ほどと見積もられています。

    『鵜の首』の少し南側から眺めた天守閣のズームアップ光景です。平成25年(2013年)1月、名古屋市は2013年度から、名古屋城の天守閣を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。工費は300〜400億円ほどと見積もられています。

  • 『鵜の首』の上から顔を覗かせた『大天守』の光景です。大天守の屋根の上には、徳川家の威光を表す、金の板を貼り付けた『金鯱』が輝きます。天守閣(5層5階地下1階付)は、南側の小天守(2層2階地下1階付)と、それぞれの地階を橋台で結ぶ『連結式天守閣』の形式となっています。

    イチオシ

    『鵜の首』の上から顔を覗かせた『大天守』の光景です。大天守の屋根の上には、徳川家の威光を表す、金の板を貼り付けた『金鯱』が輝きます。天守閣(5層5階地下1階付)は、南側の小天守(2層2階地下1階付)と、それぞれの地階を橋台で結ぶ『連結式天守閣』の形式となっています。

  • 『鵜の首』と呼ばれる石垣構造の本丸の防衛施設と、その先に見える大天守の光景です。名古屋城天守閣は、桃山時代の天守閣とは異なる『層塔型』と呼ばれる新しい構造が採り入れられました。『層塔型』の天守は、藤堂高虎により慶長13年(1608年)築城された伊予今治城が最初とされます。

    『鵜の首』と呼ばれる石垣構造の本丸の防衛施設と、その先に見える大天守の光景です。名古屋城天守閣は、桃山時代の天守閣とは異なる『層塔型』と呼ばれる新しい構造が採り入れられました。『層塔型』の天守は、藤堂高虎により慶長13年(1608年)築城された伊予今治城が最初とされます。

  • 『鵜の首』付近の石垣光景です。名古屋城と同じ『層塔型』の天守には、松本城、会津若松城や、福山城があります。『層塔型』と並んで大別されるのが『望楼型』の天守です。こちらには、姫路城、松江城、岡山城や高知城があります。犬山城(1469年建設)も望楼型です。

    イチオシ

    『鵜の首』付近の石垣光景です。名古屋城と同じ『層塔型』の天守には、松本城、会津若松城や、福山城があります。『層塔型』と並んで大別されるのが『望楼型』の天守です。こちらには、姫路城、松江城、岡山城や高知城があります。犬山城(1469年建設)も望楼型です。

  • 同じく、少しズームアップした『鵜の首』付近の石垣光景です。天守台の石垣を担当した加藤清正は、積み始めから3ヶ月も経たない慶長15年(1610年)8月27日に完成させています。それに触発されたのか、他の大名の分担場所も順次完成し、12月には、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸のほとんどの石積みが完了しました。驚くべき速さでした。

    同じく、少しズームアップした『鵜の首』付近の石垣光景です。天守台の石垣を担当した加藤清正は、積み始めから3ヶ月も経たない慶長15年(1610年)8月27日に完成させています。それに触発されたのか、他の大名の分担場所も順次完成し、12月には、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸のほとんどの石積みが完了しました。驚くべき速さでした。

  • 名古屋城西面の石垣と、外濠の光景です。写真の左端付近に、かすかに西北隅櫓(清州櫓)が見えています。

    名古屋城西面の石垣と、外濠の光景です。写真の左端付近に、かすかに西北隅櫓(清州櫓)が見えています。

  • 名古屋城の外堀を棲家にしているガチョウ(鵞鳥)さん達です。家禽ですから、定期的に餌を貰っているようです。カモ科ガン亜科の鳥です。『ガン(雁)』を飼いならして家禽化したものです。白い姿はアヒルに似ていますが、別種です。

    名古屋城の外堀を棲家にしているガチョウ(鵞鳥)さん達です。家禽ですから、定期的に餌を貰っているようです。カモ科ガン亜科の鳥です。『ガン(雁)』を飼いならして家禽化したものです。白い姿はアヒルに似ていますが、別種です。

  • 人慣れした、ガチョウ(鵞鳥)さんのズームアップ光景です。家禽としてはニワトリに並ぶ歴史を持つようです。古代エジプトにおいて、すでに家禽化されていた記録があるようです。

    人慣れした、ガチョウ(鵞鳥)さんのズームアップ光景です。家禽としてはニワトリに並ぶ歴史を持つようです。古代エジプトにおいて、すでに家禽化されていた記録があるようです。

  • バチョウさん達がいる場所に群れていたお堀の錦鯉さん達です。ガチョウが貰う餌のお零れを頂戴しているのかもしれません。

    バチョウさん達がいる場所に群れていたお堀の錦鯉さん達です。ガチョウが貰う餌のお零れを頂戴しているのかもしれません。

  • 名古屋城の石垣の、南西門に光景です。石垣の西側は水を湛えたお濠ですが、お城の南側を東側に向かうお濠からは空濠になっていました。

    名古屋城の石垣の、南西門に光景です。石垣の西側は水を湛えたお濠ですが、お城の南側を東側に向かうお濠からは空濠になっていました。

  • 水を湛えた西側のお濠から、空濠に代わる南側のお濠のズームアップ光景です。低い石垣が積まれ、段差が設けてありました。

    水を湛えた西側のお濠から、空濠に代わる南側のお濠のズームアップ光景です。低い石垣が積まれ、段差が設けてありました。

  • 水を湛えた外濠の西南角付近にあった古木の光景です。樹種はよく分かりませんでしたが、『ナンキンハゼ(南京櫨)』当たりでしょうか。

    水を湛えた外濠の西南角付近にあった古木の光景です。樹種はよく分かりませんでしたが、『ナンキンハゼ(南京櫨)』当たりでしょうか。

  • 水を湛えた外濠の西南角付近にあった古木の根元の光景です。石積の花壇で保護されていましたが、少し窮屈そうでした。

    水を湛えた外濠の西南角付近にあった古木の根元の光景です。石積の花壇で保護されていましたが、少し窮屈そうでした。

  • 真っ赤な『ヒガンバナ(彼岸花)』の光景です。ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草で、クロンキスト体系ではユリ科に分類されます。『マンジュシャゲ(曼珠沙華)』の別名を持ちます。

    真っ赤な『ヒガンバナ(彼岸花)』の光景です。ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草で、クロンキスト体系ではユリ科に分類されます。『マンジュシャゲ(曼珠沙華)』の別名を持ちます。

  • かつての名古屋城の縄張りでは、『三の丸』の西北角付近の光景になるようです。右が『三の丸』、道を挟んだ左側が『西の丸』のエリアです。

    かつての名古屋城の縄張りでは、『三の丸』の西北角付近の光景になるようです。右が『三の丸』、道を挟んだ左側が『西の丸』のエリアです。

  • さらに近付いた、かつての名古屋城の縄張りの『三の丸』の西北角付近の光景です。傾斜が強い、登坂になっていました。道路が拡幅されて、石垣の位置は多少変更されたかもしれませんが、出入口門があったような地形でした。

    さらに近付いた、かつての名古屋城の縄張りの『三の丸』の西北角付近の光景です。傾斜が強い、登坂になっていました。道路が拡幅されて、石垣の位置は多少変更されたかもしれませんが、出入口門があったような地形でした。

  • 大きな石を割る時に、楔(くさび)を打込む時の、矢穴と呼ばれる細工です。石を割る必要がなくなったためか、浅い穴のままで残ったようです。

    大きな石を割る時に、楔(くさび)を打込む時の、矢穴と呼ばれる細工です。石を割る必要がなくなったためか、浅い穴のままで残ったようです。

  • 西国大名20家が普請に駆り出された名古屋城築城の大仕事です。運び込んだ石には、各藩の家紋や目印等が刻まれました。丸に一文字の目印です。

    西国大名20家が普請に駆り出された名古屋城築城の大仕事です。運び込んだ石には、各藩の家紋や目印等が刻まれました。丸に一文字の目印です。

  • 数字の『二』のような目印です。加藤清正は、美しく着飾った小姓とともに大石の上に乗り、綱引きの人々をはやし立て、見物人に酒を振る舞ったと伝えられ、『清正の石引き』として有名です。江戸時代の『尾張名所図会』にも残されています。これは、大阪城築城の際の秀吉の故事に倣ったと言われ、秀吉を慕う清正の思いが窺われるようです。

    数字の『二』のような目印です。加藤清正は、美しく着飾った小姓とともに大石の上に乗り、綱引きの人々をはやし立て、見物人に酒を振る舞ったと伝えられ、『清正の石引き』として有名です。江戸時代の『尾張名所図会』にも残されています。これは、大阪城築城の際の秀吉の故事に倣ったと言われ、秀吉を慕う清正の思いが窺われるようです。

  • 整った姿の算木積の石垣のコーナー部分です。今は紋はありませんが、かつての門跡の石垣のようです。西国諸大名の丁場割図も残っていますが、その中で池田輝政は羽柴三左衛門、福島正則は羽柴左衛門大夫、細川忠興は羽柴越中守と、羽柴姓を名乗っています。関が原合戦後に豊臣氏の力は衰えましたが、名古屋城築城の頃には、まだ外様大名の意地と力は残されていたようです。<br />

    整った姿の算木積の石垣のコーナー部分です。今は紋はありませんが、かつての門跡の石垣のようです。西国諸大名の丁場割図も残っていますが、その中で池田輝政は羽柴三左衛門、福島正則は羽柴左衛門大夫、細川忠興は羽柴越中守と、羽柴姓を名乗っています。関が原合戦後に豊臣氏の力は衰えましたが、名古屋城築城の頃には、まだ外様大名の意地と力は残されていたようです。

  • かつての名古屋城の縄張りの『三の丸』の西北角付近の石垣光景です。道路整備工事などで、積み直された石垣かも知れません。

    かつての名古屋城の縄張りの『三の丸』の西北角付近の石垣光景です。道路整備工事などで、積み直された石垣かも知れません。

  • 東西の道路を挟んで名古屋城の南に隣接する、名古屋能楽堂がある一角の光景です。平成9年(1997年)に建設されました。総木曾檜造りの能舞台を持ちます。

    東西の道路を挟んで名古屋城の南に隣接する、名古屋能楽堂がある一角の光景です。平成9年(1997年)に建設されました。総木曾檜造りの能舞台を持ちます。

  • 樹々の隙間から眺めた外濠の光景です。これまで紹介した、お城の西側にある水を湛えた外濠です。右が城内、左が城外側となります。

    樹々の隙間から眺めた外濠の光景です。これまで紹介した、お城の西側にある水を湛えた外濠です。右が城内、左が城外側となります。

  • 現在の名古屋城エリアの南端になる、東西の通りの光景です。通りの左側が『西の丸』エリア、右側がかつての『三の丸』エリアです。現在の三の丸エリアは、大部分が官庁街となっています。

    現在の名古屋城エリアの南端になる、東西の通りの光景です。通りの左側が『西の丸』エリア、右側がかつての『三の丸』エリアです。現在の三の丸エリアは、大部分が官庁街となっています。

  • かつての『三の丸』エリアの光景です。このエリアだけは『名城故ぷ円』として緑が残され、その一角に名古屋能楽堂の建物があります。その能楽堂の入口光景です。

    かつての『三の丸』エリアの光景です。このエリアだけは『名城故ぷ円』として緑が残され、その一角に名古屋能楽堂の建物があります。その能楽堂の入口光景です。

  • 東西の大通りから眺めた、北側方面の光景です。右前方に名古屋城正門が見えていました。今日は入場するのが目的ではありませんから、城外からだけの見学です。

    東西の大通りから眺めた、北側方面の光景です。右前方に名古屋城正門が見えていました。今日は入場するのが目的ではありませんから、城外からだけの見学です。

  • 『恩賜元離宮名古屋城』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。明治維新後、名古屋城は陸軍の管轄でしたが、明治26年(1872年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と呼ばれました。名古屋離宮は昭和5年(1930年)に廃止され、宮内省から名古屋市に下賜されました。その時の石碑のようです。

    『恩賜元離宮名古屋城』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。明治維新後、名古屋城は陸軍の管轄でしたが、明治26年(1872年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と呼ばれました。名古屋離宮は昭和5年(1930年)に廃止され、宮内省から名古屋市に下賜されました。その時の石碑のようです。

  • 名古屋城正門の光景です。明治43年(1910年)に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、第2次世界大戦で焼失したため、昭和34年(1959年)、天守閣と共に再建された門です。その経緯からか、『大手門』とは呼ばれずに『正門』と呼ばれています。

    イチオシ

    名古屋城正門の光景です。明治43年(1910年)に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、第2次世界大戦で焼失したため、昭和34年(1959年)、天守閣と共に再建された門です。その経緯からか、『大手門』とは呼ばれずに『正門』と呼ばれています。

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