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ゴンドラによる運河遊覧の後は、歩いてのヴェネチア本島の散策です。大運河(カナル・グランデ)は見応えがありました。ヴェネチアン・ガラス工場を見学した後で解散し、その後は自由行動になり、サン・マルコ寺院前が再集合場所でした。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

2013秋、イタリア旅行記2(43/53):10月1日(3):ヴェネチア(3):大運河、リアルト橋、サン・マルコ広場

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2013/09/24 - 2013/10/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

ゴンドラによる運河遊覧の後は、歩いてのヴェネチア本島の散策です。大運河(カナル・グランデ)は見応えがありました。ヴェネチアン・ガラス工場を見学した後で解散し、その後は自由行動になり、サン・マルコ寺院前が再集合場所でした。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

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  • ゴンドラによる小運河クルージングを終えて、元の場所に戻りましたので、もう一度観光スポットの『ため息橋』の紹介です。16世紀に架けられた『嘆きの橋』とも呼ばれる高架橋のズームアップ光景です。眺めている場所は、スキアヴォーニ河岸の西端に架かる『バリア橋』の上になります。『ため息橋』の中からの眺めは、投獄される囚人が見る、ヴェネチアの最後の景色でした。左の建物が、尋問室があるドゥカーレ宮殿、右の建物に牢獄がありました。(ウィキペディア)

    ゴンドラによる小運河クルージングを終えて、元の場所に戻りましたので、もう一度観光スポットの『ため息橋』の紹介です。16世紀に架けられた『嘆きの橋』とも呼ばれる高架橋のズームアップ光景です。眺めている場所は、スキアヴォーニ河岸の西端に架かる『バリア橋』の上になります。『ため息橋』の中からの眺めは、投獄される囚人が見る、ヴェネチアの最後の景色でした。左の建物が、尋問室があるドゥカーレ宮殿、右の建物に牢獄がありました。(ウィキペディア)

  • 同じく、『ため息橋』とその周りの光景です。19世紀にジョージ・バイロンが物語詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』の中で『Bridge of Sighs(ため息の橋)』と呼んだのが初めとされます。実際には、厳しい取調べや、略式の刑執行は橋が建設された頃には無くなっていました。また、独房は、専ら短期刑の囚人のものだったようです。(同上)

    同じく、『ため息橋』とその周りの光景です。19世紀にジョージ・バイロンが物語詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』の中で『Bridge of Sighs(ため息の橋)』と呼んだのが初めとされます。実際には、厳しい取調べや、略式の刑執行は橋が建設された頃には無くなっていました。また、独房は、専ら短期刑の囚人のものだったようです。(同上)

  • 以上の2枚の写真は、カメラでズームアップした光景ですが、スキアヴォーニ河岸の西端に架かる『バリア橋』の上からの肉眼での光景はこちらになります。先ほどのゴンドラ・クルージングでも通った『リオ』と呼ばれる小運河に架かる高架橋です。囚人の通り道の役割を終え、今では屈指の観光名所となっています。(同上)

    以上の2枚の写真は、カメラでズームアップした光景ですが、スキアヴォーニ河岸の西端に架かる『バリア橋』の上からの肉眼での光景はこちらになります。先ほどのゴンドラ・クルージングでも通った『リオ』と呼ばれる小運河に架かる高架橋です。囚人の通り道の役割を終え、今では屈指の観光名所となっています。(同上)

  • 同じく、スキアヴォーニ河岸の西端に架かる『バリア橋』の上からの『ため息橋』の光景です。現在は『ため息橋』の内部も、牢獄も一般公開されていますので、囚人の積りになって『ため息橋』の窓からの景色をじっくりと味わうこともできるようですが、私は、ゴンドラの上からの景色だけで十分です。(同上)

    同じく、スキアヴォーニ河岸の西端に架かる『バリア橋』の上からの『ため息橋』の光景です。現在は『ため息橋』の内部も、牢獄も一般公開されていますので、囚人の積りになって『ため息橋』の窓からの景色をじっくりと味わうこともできるようですが、私は、ゴンドラの上からの景色だけで十分です。(同上)

  • 少しだけ場所を変えて、サン・マルコ広場の散策です。その周りに建つ『ドゥカーレ宮』の建物光景です。すでに紹介した建物ですが、大理石造りのアーチが連なる華麗な回廊は、ゴシック建築の傑作と称されています。12~15世紀に現在の姿になったようです。(同上)

    少しだけ場所を変えて、サン・マルコ広場の散策です。その周りに建つ『ドゥカーレ宮』の建物光景です。すでに紹介した建物ですが、大理石造りのアーチが連なる華麗な回廊は、ゴシック建築の傑作と称されています。12~15世紀に現在の姿になったようです。(同上)

  • 高い石柱の上に飾られたブロンズ像の光景です。少しイメージが違っているお湯にも思えましたが、ヴェネチアの守護神の有翼のライオン像です。9世紀、ヴェネチア商人はアレクサンドリアにあった聖マルコの聖遺物をヴェネチアに持ち帰りました。それ以来、ヴェネチアの守護聖人は聖マルコとされ、聖マルコを表す『有翼の獅子』もまたヴェネチアを象徴するものになりました。(同上)

    高い石柱の上に飾られたブロンズ像の光景です。少しイメージが違っているお湯にも思えましたが、ヴェネチアの守護神の有翼のライオン像です。9世紀、ヴェネチア商人はアレクサンドリアにあった聖マルコの聖遺物をヴェネチアに持ち帰りました。それ以来、ヴェネチアの守護聖人は聖マルコとされ、聖マルコを表す『有翼の獅子』もまたヴェネチアを象徴するものになりました。(同上)

  • ズームアップした『有翼の獅子』の像の光景です。有翼の獅子像が設置されたのは、セバスティアーノ・ツィアニがヴェネチアのドージェを務めていた1172年から1177年の間か、もしくは1268年とされます。この『有翼の獅子像』は、紀元前300年頃に現在のトルコのキリキア地方のタルススにおいて神の像として作られていたようです。可愛らしい顔をしていました。(同上)

    ズームアップした『有翼の獅子』の像の光景です。有翼の獅子像が設置されたのは、セバスティアーノ・ツィアニがヴェネチアのドージェを務めていた1172年から1177年の間か、もしくは1268年とされます。この『有翼の獅子像』は、紀元前300年頃に現在のトルコのキリキア地方のタルススにおいて神の像として作られていたようです。可愛らしい顔をしていました。(同上)

  • サン・マルコ広場に建つ大鐘楼の光景です。『ヴェネチアの鐘楼』と呼ばれることが多く、ヴェネチア中でも特に有名な街のシンボル・タワーです。高さは98.6メートル、サン・マルコ寺院の前の角に単独で建っています。下半分はシンプルなレンガ造りになっており、その上部にアーチ型の鐘架があり、中に五つの鐘があります。鐘架の上には、ヴェネチアを象徴する歩行中のライオンと女性の姿が象ってあるレンガ造りの壁があり、さらのその上にピラミッド型の尖塔が乗っています。この尖塔の頂上にある金色の像は大天使ガブリエルです。(同上)

    イチオシ

    サン・マルコ広場に建つ大鐘楼の光景です。『ヴェネチアの鐘楼』と呼ばれることが多く、ヴェネチア中でも特に有名な街のシンボル・タワーです。高さは98.6メートル、サン・マルコ寺院の前の角に単独で建っています。下半分はシンプルなレンガ造りになっており、その上部にアーチ型の鐘架があり、中に五つの鐘があります。鐘架の上には、ヴェネチアを象徴する歩行中のライオンと女性の姿が象ってあるレンガ造りの壁があり、さらのその上にピラミッド型の尖塔が乗っています。この尖塔の頂上にある金色の像は大天使ガブリエルです。(同上)

  • 直下から見上げた『ヴェネツィアの鐘楼』の光景です。この大鐘楼は、1514年に現在の形で完成しましたが、1902年に崩壊しました。このため、現在サン・マルコ広場に建っているのは1912年に再建された鐘楼です。1902年7月の倒壊の原因は、鐘楼の北側に入ったひびの影響とされます。完全に崩壊し、隣接する兵舎やサンソヴィーノ図書館の一部も大損害を受けましたが、幸い死者は一人も出ず、サン・マルコ寺院も被害を免れました。議会はその日の晩までに50万リラをこの鐘楼の再建に充てることを決め、将来的に予測される再崩壊を防ぐために塔の内部が強化されました。この再建工事は1912年まで続き、4月25日のサン・マルコの日に新しく開業しました。(同上)

    直下から見上げた『ヴェネツィアの鐘楼』の光景です。この大鐘楼は、1514年に現在の形で完成しましたが、1902年に崩壊しました。このため、現在サン・マルコ広場に建っているのは1912年に再建された鐘楼です。1902年7月の倒壊の原因は、鐘楼の北側に入ったひびの影響とされます。完全に崩壊し、隣接する兵舎やサンソヴィーノ図書館の一部も大損害を受けましたが、幸い死者は一人も出ず、サン・マルコ寺院も被害を免れました。議会はその日の晩までに50万リラをこの鐘楼の再建に充てることを決め、将来的に予測される再崩壊を防ぐために塔の内部が強化されました。この再建工事は1912年まで続き、4月25日のサン・マルコの日に新しく開業しました。(同上)

  • 最初に鐘楼が建てられたのは9世紀の時でした。当時のヴェネツィア共和国総督のピエトロ・トリブーノが現在のサン・マルコ広場の位置にあったドックの見張り台として建設しようとしたものでした。建設は12世紀のドメニコ・モロシーニ総督時代に完了し下部はドゥカーレ宮殿の警護兵のための兵舎の一部としても使用されました。倒壊の原因になったヒビ割れは、過去の地震や火災の影響のようです。

    最初に鐘楼が建てられたのは9世紀の時でした。当時のヴェネツィア共和国総督のピエトロ・トリブーノが現在のサン・マルコ広場の位置にあったドックの見張り台として建設しようとしたものでした。建設は12世紀のドメニコ・モロシーニ総督時代に完了し下部はドゥカーレ宮殿の警護兵のための兵舎の一部としても使用されました。倒壊の原因になったヒビ割れは、過去の地震や火災の影響のようです。

  • 正面から眺めた『サン・マルコ寺院』の光景です。建物の一部が工事中でした。『サン・マルコ寺院』は、福音記者マルコにささげられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂です。ビザンティン建築を代表する記念建築物とされますが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用しています。

    正面から眺めた『サン・マルコ寺院』の光景です。建物の一部が工事中でした。『サン・マルコ寺院』は、福音記者マルコにささげられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂です。ビザンティン建築を代表する記念建築物とされますが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用しています。

  • こじんまりとした、屋外ステージの光景です。サン・マルコ広場と、サン・マルコ寺院にやって来ましたので、聖・マルコがヴェネツィアにやって来た時の様子を、塩野七生さんの小説から紹介しておきます。前にも引用した『海の都の物語・ヴェネツィア共和国の一千年・文庫本巻1』です。『年代記によれば、828年の出来事という』、の記述から始まっていました。(文庫本巻1)

    こじんまりとした、屋外ステージの光景です。サン・マルコ広場と、サン・マルコ寺院にやって来ましたので、聖・マルコがヴェネツィアにやって来た時の様子を、塩野七生さんの小説から紹介しておきます。前にも引用した『海の都の物語・ヴェネツィア共和国の一千年・文庫本巻1』です。『年代記によれば、828年の出来事という』、の記述から始まっていました。(文庫本巻1)

  • 『トリブーノとルスティコという名の2名のヴェネチア商人の船が、エジプトのアレクサンドリアの港に錨を降ろした。もちろん商売のためだった』、『当時は、イスラム教徒との交易は、ローマ法王によって禁止されていたから、二人のヴェネチア人は御禁制破りであった』、『彼らの見たアレクサンドリアの街は、ただならぬ騒ぎで騒然としていた』(同上)

    『トリブーノとルスティコという名の2名のヴェネチア商人の船が、エジプトのアレクサンドリアの港に錨を降ろした。もちろん商売のためだった』、『当時は、イスラム教徒との交易は、ローマ法王によって禁止されていたから、二人のヴェネチア人は御禁制破りであった』、『彼らの見たアレクサンドリアの街は、ただならぬ騒ぎで騒然としていた』(同上)

  • 『町に住むキリスト教徒たちは、家の中に潜んでいるのか、街には、口々にわめき武器を振り回すアラブ人の姿しか見えない』、『例によって、カリフが時たま起こす、反キリスト教の発作なのであった。これが起きると、黙認されているキリスト教の寺院も、暴徒の襲撃を受けて痛め付けられる』、『それでも慣れているヴェネチア商人は、品物を持ってある僧院の扉を押した』(同上)

    『町に住むキリスト教徒たちは、家の中に潜んでいるのか、街には、口々にわめき武器を振り回すアラブ人の姿しか見えない』、『例によって、カリフが時たま起こす、反キリスト教の発作なのであった。これが起きると、黙認されているキリスト教の寺院も、暴徒の襲撃を受けて痛め付けられる』、『それでも慣れているヴェネチア商人は、品物を持ってある僧院の扉を押した』(同上)

  • 『ある僧院とは、聖マルコの遺骨が祀ってある有名な僧院である。恐る恐る二人を中に入れてくれた僧は、すっかり怖気ついていた』、自分たちの僧院が攻撃目標になっていることを聞いていたためです。『聖マルコ様の御聖体に、もしものことがあったらどうしよう』、二人の商人は、『我々がヴェネツィアに移しましょう。あそこなら安全ですから』と申し出ました。(同上)

    『ある僧院とは、聖マルコの遺骨が祀ってある有名な僧院である。恐る恐る二人を中に入れてくれた僧は、すっかり怖気ついていた』、自分たちの僧院が攻撃目標になっていることを聞いていたためです。『聖マルコ様の御聖体に、もしものことがあったらどうしよう』、二人の商人は、『我々がヴェネツィアに移しましょう。あそこなら安全ですから』と申し出ました。(同上)

  • 最初は渋っていた僧院側でしたが、ますます僧院の周りの騒ぎが大きくなり、ヴェネチア商人側から、『遺骨を売ってほしい』との申し出になり、『しばらく迷った後、ついに僧たちは頭を縦に振った』、二人の商人は、すぐに外出し、『まもなく、豚肉のかたまりのいっぱい詰まった、パン入れの大きな籠を二つ乗せた手押し車を押して戻ってきた』(同上)

    最初は渋っていた僧院側でしたが、ますます僧院の周りの騒ぎが大きくなり、ヴェネチア商人側から、『遺骨を売ってほしい』との申し出になり、『しばらく迷った後、ついに僧たちは頭を縦に振った』、二人の商人は、すぐに外出し、『まもなく、豚肉のかたまりのいっぱい詰まった、パン入れの大きな籠を二つ乗せた手押し車を押して戻ってきた』(同上)

  • 二人のヴェネチア商人は、『カンヅィル!カンヅィル!』と叫びながら聖遺物が隠された豚肉は、ヴェネチア商人の船に運ばれました。最後の難関が、税関の役人の検査でしたが、豚肉のおかげで無事にクリアー出来ました。聖者の遺骨は、豚肉の同居から解放され、綺麗に洗われ、香料も使われました。ギリシャ沖の猛烈な時化の時も聖遺骨の奇跡により守られました。(以上)

    二人のヴェネチア商人は、『カンヅィル!カンヅィル!』と叫びながら聖遺物が隠された豚肉は、ヴェネチア商人の船に運ばれました。最後の難関が、税関の役人の検査でしたが、豚肉のおかげで無事にクリアー出来ました。聖者の遺骨は、豚肉の同居から解放され、綺麗に洗われ、香料も使われました。ギリシャ沖の猛烈な時化の時も聖遺骨の奇跡により守られました。(以上)

  • 二人の商人が持って帰った聖人の遺骨は、年代記によればこんな風に迎えられました。『町中が驚喜した。どの街角でも、人が寄るとさわると、聖人はヴェネチア国の繁栄と栄光を保障してくださる、と言い合うのでした』と紹介されていました。聖遺物のヴェネチア上陸は、元首以下、庶民の端々に至るまでが、讃美歌の中で出迎えました。以上で、サン・マルコの聖遺物の紹介はお終いです。(同上)

    二人の商人が持って帰った聖人の遺骨は、年代記によればこんな風に迎えられました。『町中が驚喜した。どの街角でも、人が寄るとさわると、聖人はヴェネチア国の繁栄と栄光を保障してくださる、と言い合うのでした』と紹介されていました。聖遺物のヴェネチア上陸は、元首以下、庶民の端々に至るまでが、讃美歌の中で出迎えました。以上で、サン・マルコの聖遺物の紹介はお終いです。(同上)

  • 水浸しになったレストランの店先光景です。推測ですが、これくらいの浸水ですと、何かと工夫して、お店は普段通りに営業されるようでした。ヴェネチアの潮位監視予報センターによれば、同センターが観測を開始した1923年以降で最も水位が上がったのは1966年で、1メートル94センチに達しています。記録によれば、サン・マルコ寺院は1200年の歴史の中で、6度の浸水被害を受けています。

    水浸しになったレストランの店先光景です。推測ですが、これくらいの浸水ですと、何かと工夫して、お店は普段通りに営業されるようでした。ヴェネチアの潮位監視予報センターによれば、同センターが観測を開始した1923年以降で最も水位が上がったのは1966年で、1メートル94センチに達しています。記録によれば、サン・マルコ寺院は1200年の歴史の中で、6度の浸水被害を受けています。

  • 水浸しになった広場の上で泳いでいた水鳥さんの光景です。泳ぐだけの深さはなかったようですから、足を延ばして立っているだけのようでした。日本でもよく見かける、カモメさんとよく似た『ウミネコ』さんのようでした。くちばしの先が赤く、少し眼つきが悪そうです。

    水浸しになった広場の上で泳いでいた水鳥さんの光景です。泳ぐだけの深さはなかったようですから、足を延ばして立っているだけのようでした。日本でもよく見かける、カモメさんとよく似た『ウミネコ』さんのようでした。くちばしの先が赤く、少し眼つきが悪そうです。

  • 全体が白っぽい写真になりましたが、ウミネコさんの後ろ姿になるようです。ウミネコの食性は雑食で、魚類、両生類、甲殻類、昆虫、動物の死骸などを食べます。他の鳥類が捕らえた獲物を奪う事もあるようです。前方に、横断歩道の線引きらしいものが見えていました。

    全体が白っぽい写真になりましたが、ウミネコさんの後ろ姿になるようです。ウミネコの食性は雑食で、魚類、両生類、甲殻類、昆虫、動物の死骸などを食べます。他の鳥類が捕らえた獲物を奪う事もあるようです。前方に、横断歩道の線引きらしいものが見えていました。

  • サン・マルコ広場北側に建つ、『ムーア人の時計塔』の光景です。 屋上に設置された2体のムーア人のブロンズ像が正午に鐘を鳴らします。1499年に建設されたこの時計塔により、古の船乗りたちは潮の満ち引きを知ったと言われています。 1858年には市内の時の基準となる公式時計に認定されました。ムーア人は、北西アフリカのイスラム教教徒の呼称で、主にベルベル人を指す時に用いられます。ローマ時代に北西アフリカの住民(ベルベル人)を、『マウハリム』と呼んだことに由来するようです。『マウハリム』は、フェニキア人の言葉で『西国の人』を意味するようです。フェニキア人は、地中海の交易で栄えたセム語系の諸族です。(ウィキペディア)

    サン・マルコ広場北側に建つ、『ムーア人の時計塔』の光景です。 屋上に設置された2体のムーア人のブロンズ像が正午に鐘を鳴らします。1499年に建設されたこの時計塔により、古の船乗りたちは潮の満ち引きを知ったと言われています。 1858年には市内の時の基準となる公式時計に認定されました。ムーア人は、北西アフリカのイスラム教教徒の呼称で、主にベルベル人を指す時に用いられます。ローマ時代に北西アフリカの住民(ベルベル人)を、『マウハリム』と呼んだことに由来するようです。『マウハリム』は、フェニキア人の言葉で『西国の人』を意味するようです。フェニキア人は、地中海の交易で栄えたセム語系の諸族です。(ウィキペディア)

  • サン・マルコ広場の周りの見学を終えて、次に向かったのは『ヴェネチアン・グラス』の製造販売工場です。現地ガイドさんの道案内で、歩いて向かいました。このあたりはまだ、サン・マルコ広場の近くだったようです。『ムラーノ島のガラス』とも呼ばれる、ヴェネチアで作られるガラス工芸品の地域ブランドです。(同上)

    サン・マルコ広場の周りの見学を終えて、次に向かったのは『ヴェネチアン・グラス』の製造販売工場です。現地ガイドさんの道案内で、歩いて向かいました。このあたりはまだ、サン・マルコ広場の近くだったようです。『ムラーノ島のガラス』とも呼ばれる、ヴェネチアで作られるガラス工芸品の地域ブランドです。(同上)

  • サン・マルコ広場から出発し、途中で『大運河(カナル・グランデ)』とその運河に抱える『リアルト橋』を見学することが出来ました。『ヴェネツィアン・グラス』について、少しだけ補足説明咲いておきます。高い装飾性も特徴とされ、基本的な製法はソーダガラスを使用した吹きガラスです。空中で吹くことにより極薄に吹き上げる技法や、グラスを細く引き伸ばし、そこに竜や花や鳥などをモチーフにした複雑な装飾を施すなど、『軽業師の妙技』と呼ばれる高度なテクニックが用いられます。ミレニアムの2000年の旅行の時にも見学しました。(同上)

    サン・マルコ広場から出発し、途中で『大運河(カナル・グランデ)』とその運河に抱える『リアルト橋』を見学することが出来ました。『ヴェネツィアン・グラス』について、少しだけ補足説明咲いておきます。高い装飾性も特徴とされ、基本的な製法はソーダガラスを使用した吹きガラスです。空中で吹くことにより極薄に吹き上げる技法や、グラスを細く引き伸ばし、そこに竜や花や鳥などをモチーフにした複雑な装飾を施すなど、『軽業師の妙技』と呼ばれる高度なテクニックが用いられます。ミレニアムの2000年の旅行の時にも見学しました。(同上)

  • 『大運河(カナル・グランデ)』とその周りの建物光景です。何度も紹介する『カナル・グランデ』は、ヴェネチア本島を二分する。逆S字型の大運河のことです。二分された地域が、それぞれ3区分され、『セスティエレ(六区制)』と呼ばれるようになりました。(ウィキペディア)

    『大運河(カナル・グランデ)』とその周りの建物光景です。何度も紹介する『カナル・グランデ』は、ヴェネチア本島を二分する。逆S字型の大運河のことです。二分された地域が、それぞれ3区分され、『セスティエレ(六区制)』と呼ばれるようになりました。(ウィキペディア)

  • 『カナル・グランデ』の中ほどにある『リアルト橋』の光景です。『カナル・グランデ』に架かる四つの橋の内の一つで、『白い巨象』とも呼ばれます。この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となりました。最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑わっていたため『富の橋』と呼ばれていました。(同上)

    イチオシ

    『カナル・グランデ』の中ほどにある『リアルト橋』の光景です。『カナル・グランデ』に架かる四つの橋の内の一つで、『白い巨象』とも呼ばれます。この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となりました。最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑わっていたため『富の橋』と呼ばれていました。(同上)

  • 『リアルト橋』の中心部分のズームアップ光景です。最初の橋は、パレードの見物人の重みで崩壊したり、火災に遭ったりしたため、石造りの橋に変えようと提言され、1557年、ヴェネチア共和国は橋の設計案を一般から募集しました。一般公募には『ミケランジェロ(1475~1564年)』も参加しましたが、採用されたのは『アントニオ・ダ・ポンテ(生没年不詳)』の案でした。この案は、橋の下を多くの船が通ることを考えた単一アーチで、反りの大きい太鼓橋でした。工事は軟弱な地盤や技術上の問題から困難とされましたが、4年後に長さ48m、幅22m、水面からの高さ7.5mの反りの大きい太鼓橋が完成しました。橋の上にはアーケードが作られ、商店が並んでいます。ヨーロッパの橋としては珍しく、カナル・グランデを見晴らす欄干と花瓶型の手摺がついています。(同上)

    『リアルト橋』の中心部分のズームアップ光景です。最初の橋は、パレードの見物人の重みで崩壊したり、火災に遭ったりしたため、石造りの橋に変えようと提言され、1557年、ヴェネチア共和国は橋の設計案を一般から募集しました。一般公募には『ミケランジェロ(1475~1564年)』も参加しましたが、採用されたのは『アントニオ・ダ・ポンテ(生没年不詳)』の案でした。この案は、橋の下を多くの船が通ることを考えた単一アーチで、反りの大きい太鼓橋でした。工事は軟弱な地盤や技術上の問題から困難とされましたが、4年後に長さ48m、幅22m、水面からの高さ7.5mの反りの大きい太鼓橋が完成しました。橋の上にはアーケードが作られ、商店が並んでいます。ヨーロッパの橋としては珍しく、カナル・グランデを見晴らす欄干と花瓶型の手摺がついています。(同上)

  • 小船が溢れた『カナル・グランデ』の光景です。ヴェネチア本島を北西から南東へ貫き、本島とジュデッカ島の間にあるジュデッカ運河と合流します。長さは約3.8キロ、運河幅は30mから90m、平均水深は5mとされます。『カナル・グランデ』には四つの橋が架かっていますが、最初に架かったのが、『カナルト橋』です。そのカナルト橋の上からの眺めです。(同上)

    小船が溢れた『カナル・グランデ』の光景です。ヴェネチア本島を北西から南東へ貫き、本島とジュデッカ島の間にあるジュデッカ運河と合流します。長さは約3.8キロ、運河幅は30mから90m、平均水深は5mとされます。『カナル・グランデ』には四つの橋が架かっていますが、最初に架かったのが、『カナルト橋』です。そのカナルト橋の上からの眺めです。(同上)

  • 『カナルト橋』の上から眺めた『カナル・グランデ』の光景が続きます。あとの三つの橋は、1930年代に相次いで建設された鉄道駅の近くのスカルツィ橋とアッカデーミア橋の二つと、そして駅前広場とローマ広場を結ぶ四つ目の橋、コスティトゥツィオーネ橋です。『ローマ広場歩道橋』とも呼ばれ、スペイン出身の建築家の『サンティアゴ・カラトラバ(1951~)』の設計により2008年に建設されました。(同上)

    イチオシ

    『カナルト橋』の上から眺めた『カナル・グランデ』の光景が続きます。あとの三つの橋は、1930年代に相次いで建設された鉄道駅の近くのスカルツィ橋とアッカデーミア橋の二つと、そして駅前広場とローマ広場を結ぶ四つ目の橋、コスティトゥツィオーネ橋です。『ローマ広場歩道橋』とも呼ばれ、スペイン出身の建築家の『サンティアゴ・カラトラバ(1951~)』の設計により2008年に建設されました。(同上)

  • 少しズームアップした、小舟がひしめき合う『カナル・グランデ』の光景です。コスティトゥツィオーネ橋を設計した、『サンティアゴ・カラトラバ』はスイスで学び、建築家だけでなく、構造エンジニア、彫刻家、画家としても知られています。有名な建築作品には、アテネのオリンピックスポーツ複合施設、ミルウォーキー美術館、スウェーデンのマルメのターニングトルソタワーなどがあります。(同上)

    少しズームアップした、小舟がひしめき合う『カナル・グランデ』の光景です。コスティトゥツィオーネ橋を設計した、『サンティアゴ・カラトラバ』はスイスで学び、建築家だけでなく、構造エンジニア、彫刻家、画家としても知られています。有名な建築作品には、アテネのオリンピックスポーツ複合施設、ミルウォーキー美術館、スウェーデンのマルメのターニングトルソタワーなどがあります。(同上)

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