2013/02/03 - 2013/02/07
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旅人のくまさんさん
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日本では、三島由紀夫の小説で有名な暁の寺(ワット・アルン)の紹介です。寺院のフルネームは、ワット・アルンラーチャワラーラームです。トンブリー王朝時代に王宮寺院となり、現在も代1級寺院に指定されています。(ウィキペディア、るるぶ・タイ)
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中央の肖像は、現在の第9代プミポン国王(のようです。右手にスナップ写真も飾られていました。(追記):プミポン国王(1927~2016年、在位:1946~2016年)が死去し、現在はその嫡男のラーマ10世が即位しました。前回旅行(2005年)の時に、プミポン国王後のタイ国の治世は危ういものになりそうなことを、現地でお聞きしていました。
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すれ違った船の舳先の飾りの光景です。プミポン国王があまりにも偉大だったこともありますが、その嫡男は、国民的人気がないこともお聞きしていました。ただし、タイ国の憲法には『不敬罪』があり、外国人にも適用されるので、決して人前では王室や国王の悪口は言わないように念を押されました。
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日本においては、旧刑法に始まり、1907年の刑法も定められていた『皇室ニ対スル罪』として『不敬罪』がありました。天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫、皇族ならびに神宮および皇陵に対する『不敬ノ行為』が処罰の対象とされていましたが、現行の日本国憲法の施行に伴い、1947年の刑法一部改正により廃止されました。
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チャオプラヤ川畔には、歴史的建築物や、ホテル等の高層ビルを多く見掛けますが、写真のような下町風景もあります。チャオプラヤ川から分岐した水路沿いなどでは、むしろ普通の光景のようです。『不敬罪』の話に少しだけ戻ります。日本では、不敬罪に該当する行為のうち、一般の名誉毀損罪((刑法 230条1項、232条) および礼拝所不敬罪 (188条1項) に当たる場合に限り処罰対象となります。
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現在では、法の下の平等や思想・良心の自由、表現の自由の観点から、君主制を採用している国であっても廃止している『不敬罪』ですが、サウジアラビア、イスラム諸国、それにタイ王国は、現在も『不敬罪』が存在する数少ない国です。タイ国では、1956年の制定当初は『7年以下の刑』でしたが、1978年の軍事クーデター後、より一層重罰化されました。
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タイ王国には、タイ国刑法第112条の『不敬罪』と呼ばれている法律があります。その内容は、『国王、王妃、王位継承者あるいは摂政に対して中傷する、侮辱する、あるいは敵意をあらわにする者は、何人も3年から15年の禁固刑に処するものとする』、いうものです。これで、『不敬罪』に関する説明はお終いです。
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『ワット・アルン(暁の寺)』に到着しました。入口で出迎えてくれたのは、赤い首飾りをした石造の鰐さんでした。ヒンドゥ教と仏教の融合した寺院ともいわれ、ガネーシャやガルーダなど色々な神様が仏様と同時に存在します。
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先ほどの鰐さんと一対になった鰐さんのズームアップ光景です。『アユタヤ時代に建立され、当時はワット・マコークという小さな寺院でしたが、1779年、トンブリー王朝のタークシン王がエメラルド仏を祀りワット・アルンと名付け、第一級王室寺院としました。(タイ国観光庁)』、と公式に紹介されていました。
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ワット・アルンの入口付近の光景です。花などの飾りの中に、帽子を被った像がありました。確認はできませんでしたが、トンブリー王朝時代の『タークシン王(1734~1832年)』の像かも知れません。華僑としてタイの君主となった人です。在位15年間の大半を戦争に費やしたタークシンを支えた将軍が チャックリー侯爵(後のラーマ1世)です。
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タークシン王は、文化の面で業績を残しました。アユタヤ王朝末期に散逸した文献の収集と整理にも力を入れ、タークシンの編纂した『ラーマキエン』は、多数ある中で最も優れた版本とされます。三島由紀夫の小説『暁の寺』で知られる『ワット・アルンラーチャワラーラーム』を修復するなど仏教も手厚く保護しました。しかし、タークシン王は自分が中国系でアユタヤ王朝の王家の血を引いていないことに強いコンプレックスがあり、精神錯乱をきたし、次第に民心が離れました。マハーカサット・スック公爵(後のラーマ1世)がカンボジア遠征から戻り、民衆の支持もえて国権を掌握しました。1782年、タークシンはスック侯爵によって処刑され、トンブリー王朝はタークシン一代で滅亡しました。以上の経緯がありますので、タークシン像ではなく、この寺院を菩提寺としたラーマ2世像の可能性が高いようです。
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『ワット・アルン』の中心的な大石塔の光景です。現在の10バーツ硬貨にも描かれ、高さは75メートルとされます。正式名は『ワット・アルンラーチャワラーラーム』です。その創建についての記録は見つかっていませんが、アユタヤ朝の『ペートラーチャー王(在位:1688~1703年)』の時代に、フランスの軍人によって描かれたチャオプラヤ川流域の地図にあることから、少なくともそれ以前に建てられていたことは確実です。当時の呼び名は、『ワット・マコーク』とされます。
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『ワット・マコーク』は、その後『ワット・マコークノーク』、『ワット・マコークナイ』と名を変えましたが、1767年のアユタヤ朝滅亡後、この地を掌握したタークシン王(在位:1767~1782年)』により修復され、名前を『ワット・ジェーン』とされ、1代限りだったトンブリー王朝の王宮寺院となりました。後のバンコク王朝(チャクリー王朝、現王朝)の創始者ラーマ1世は、トンブリー王朝時代の1779年にタークシン王の命を受け、ヴィエンチャン(現ラオス共和国)を攻略し、戦利品としてエメラルド仏を持ち帰り、この寺院内に安置されました。
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イチオシ
須弥山にも例えられるワット・アルンの大石塔の紹介が続きます。1782年にラーマ1世によるバンコク王朝ができ、エメラルド寺院が建立されると、エメラルド仏はイッサラスントーン親王(後のラーマ2世)によってエメラルド寺院と呼ばれる『ワット・プラケーオ』に迎えられました。こちらの寺院は、その後ラーマ2世により1820年ヒンドゥ教の暁神アルーナから現在の名称となりました。
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右手に見えるのは、大石塔の登り階段です。この日も途中まで登りました。最上部近くは、現在は登攀禁止になっているようでしたが、実に急峻な石段です。ワット・アルンは、ラーマ2世の個人的な保護を受け、ラーマ2世の菩提寺となりました。この寺院で最も特徴的なトウモロコシのような形をした大仏塔はバンコク様式と呼ばれます。高さは75m、台座の周囲は234mほど、中心の大塔を四つの小塔が取り囲み、須弥山を具現化しています。大塔の上方にはインドラ神が三つの頭を持つ象アイラヴァータ(タイ語でエラワン)の上に鎮座し、須弥山山頂の忉利天(とうりてん)を表しています。
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イチオシ
タイ国で生まれた美術様式は、スコータイ美術様式(13世紀末~15世紀)に始まり、ラーンナー美術様式(13世紀頃~20世紀)、アユタヤ美術様式(14~18世紀)、バンコク美術様式(18世紀末~20世紀初め)と変遷しました。ワット・アルンは、バンコク美術様式で、ラタナコーシン美術様式とも呼ばれ、アユタヤ美術様式の直系に当たります。また、スコータイ様式は『クメール様式』の影響が大きいようです。
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タイの美術様式に影響を与えた『クメール様式』の紹介です。6世紀からタイ北部に存在したクメール族は、ヒンドゥ教の宇宙観に従いアンコール・ワットを代表する建造物を生み出しました。プラーン型と呼ばれる縦のラインを強調した独創的な仏塔は、基段部、聖骨室部、頭部、頂部装飾に分かれます。さらに細分化すると33段となり、ヒンドゥ教の聖地メール山の宇宙観が持つ33のレベルに符合します。
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ヒンドゥ教の聖典のひとつである『ヴィシュヌ・プラーナ』によれば、世界の中心にはジャンブ・ドヴィーパ(ジャンブ洲)と呼ばれる円盤状の大陸があり、その中央にそびえる黄金の山が『メール山』です。日本ではサンスクリット語の音訳から、『須弥山(しゅみせん)』と呼ばれています。この聖山は、バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥ教にも共有されています。インドで形成された宗教のうち、ヒンドゥ教が伝播するのに伴い、仏教とともに中国や日本に、この世界観も伝播しました。(ウィキペディア)
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『須弥』は漢字による音訳と紹介しましたが、意訳は『妙高』とされます。仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの『金の山』と『鉄囲山(てっちさん)』があり、その間に八つの海があると教え、これを『九山八海』(ウィキペディア)、と呼んでいます。須弥山についての紹介はここまでです。写真は、石塔の精緻な手造りの飾りのズームアップ光景です。
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ワット・アルンから眺めた、チャオプラヤ川の光景です。アルンとは『暁(あかつき)』という意味で、三島由紀夫の小説『暁の寺』に描かれました。日本語では『暁』と『曙(あけぼの)』の意味合いが微妙ですが、個人的には、夜明け前のまだ暗い時間帯を『暁』、薄っすらと明るみ始めた時間帯を『曙』と理解しています。枕草子の『春はあけぼの』の一節に、明るみ始めた時間帯を連想します。
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途中まで登った、大石塔の中間地点の光景です。上に向かう石段のほか、周囲を巡ることが出来る通路もありました。これは、その週階通路の光景です。身近に石塔の装飾や群像などを眺めることが出来ました。左側には段差がありますので、柵代わりの転落防止用の施設がありました。右側に見えるのは、漆喰壁に描かれた花鳥風月風の絵のように見えました。
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13世紀末~15世紀、クメール族がタイから去ったのちにスコータイ様式が生まれました。クメール様式を踏襲しながらも、スリランカの影響を受けているのが特徴とされます。その特徴を引き継いだバンコク様式のように見えました。ピラミッド状の基礎の上に長く伸びた屋根の飾りは、ストゥパを連想させます。ストゥパは、もともと仏教の開祖の釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚のことです。
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ストゥパを連想させた屋根飾りのズームアップ光景です。ストゥパとよく似た表現にパゴダがあります。パゴダは、『仏塔(ストゥパ)を意味する英語であり、日本では多く、ミャンマー様式の仏塔のことを指す。東アジア諸国の仏塔と同様、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)または法舎利(仏舎利の代用としての経文)を安置するための宗教的建造物である。(ウィキペディア)』と解説されていました。本質的に、パゴダとストゥパに違いはないようです。
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更にズームアップした、ストゥパを連想させた屋根飾りの光景です。遠くから眺めた時の印象と比べ、実に細かな装飾が施されていました。石を積み上げた石塔では、韓国旅行時の『馬耳山(マイサン)』の『塔寺(タプサ)』が一番印象に残っています。ずいぶん昔のことになりました。スンマイサン(雄馬耳山)とアンマイサン(雌馬耳山)が並んだ姿が、馬の耳を連想させる山です。ビビンバが美味しい『全州(チョンジュ)』に位置します。
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逆光での撮影になりましたが、トウモロコシ型の石塔頭部のズームアップ光景です。アユタヤ美術様式(14~18世紀)の直系とされるバンコク美術様式(18世紀末~20世紀初め)ですが、仏塔の様式なども伝わったかもしれません。年代順に仏塔を検索するのは困難でしたが、無作為に検索した中に『ワット・プララーム(1369年着工~1434年完成)』や『ワット・ラーチャブーラナ(1424年完成)』の石塔がトウモロコシ型でした。また、現存はしていませんが古写真が残る『ワット・マハータート(1374年竣工:アユタヤ遺跡年代記)』の石塔もトウモロコシ型でした。今回も見学した木の根で覆われた仏頭で知られる仏教寺院跡です。
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『アユタヤ王朝(1351~1767年)』に先立つ『スコータイ王朝(1240頃~1438年)』時代の『ワット・シーサワーイ(13世紀にヒンドゥ教寺院として建立、15世紀に仏教寺院に改築)』、『ワット・プラパーイルワン(12世紀末)』なども、トウモロコシ型石塔の外観を持っていました。スコータイ王朝は、1238年にタイ族による最初の王朝ですが、クメール文明の影響を大きく受けていたようです。トウモロコシ型石塔のルーツは、アンコール遺跡群を残したクメール文化が原点のように感じました。
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両手を合わせて祈る姿の半人半鳥の乙女、キンリーのレリーフ像です。インド神話の中の神々が起源とされます。通路の脇に何体も刻まれていました。半人半鳥像は、男性の場合『ギンナリー』、女性の場合は『キンリー』と呼ばれているようです。インドの叙事詩の『ラーマヤナ』が元になった、タイの叙事詩の『ラーマキエン』に登場するようです。
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同じく、蓮の花らしいものを手にした、半人半鳥の乙女、キンリーのレリーフ像です。タイの叙事詩の『ラーマキエン』は、トンブリー王朝の時代にタークシン王が戯曲として編纂しはじめ、その後ラタナコーシン王朝時代にラーマ1世が引き継いで完成させました。さらに、ラーマ2世が上演用の戯曲として書き、ラーマ6世の時代に『ラーマキエン』と名付けられました。
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イチオシ
麓から見上げた関唐軍の光景です。巨大さから生じる迫力と、丁寧に造られた人間味あふれた装飾が相まって、見飽きることがありませんでした。想像に過ぎませんが、仕事に携わった人達のやる気が、今日まで現場に残されているように感じました。塔の表面は陶器の破片で飾られ、さらに基壇の部分にはラーマキエン物語に登場する鬼やガルーダ、ハヌマーンが飾り付けられています。このような陶器を用いた建築の装飾は中国美術の影響によるものです。
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最初に紹介した、門番の鰐さんと同じように、赤い首飾りをつけた馬さんの光景です。足の数が何本あるのか、よく分からない馬さんでした。高い台の上が怖いのか、短い脚を更に畳み込んでいました。陶器を用いた建築の装飾は、ラーマ3世時代に多く用いられたものです。塔は19世紀、ラーマ2世のころから建設がはじまり、ラーマ3世の時に完成し、現在みられる姿となりました。
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名前:『ブーゲンビリア』
分類:オシロイバナ科ブーゲンビリア属
分布:中央アメリカ及び南アメリカの熱帯雨林が原産。
その他:イカダカズラ(筏葛)、ココノエカズラ(九重葛)などの和名を持ちます。
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