2013/02/03 - 2013/02/07
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旅人のくまさんさん
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内部見学が可能な王宮でも、室内での撮影は禁止されていましたので、外観だけの紹介になります。王宮の見学の後、隣接する王宮寺院の『ワット・ポー(涅槃寺)』を見学しました。巨大な黄金の『涅槃仏(ねはんぶつ)』で有名なお寺です。(ウィキペディア、るるぶ・タイ)
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『チャクリーマハープラーサート宮殿』の建物光景です。この宮殿はラーマ5世が外遊から帰国して新しく建てられた宮殿です。建物の構造は、チャックリー王朝の歴代の王の骨壷が置かれ、国王が外国の賓客を迎えるのに使われた応接用の部屋や、図書室などが設けられています。年に何回かは内部が一般に公開されるようです。
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近くまで移動して撮影した、『チャクリーマハープラーサート宮殿』の光景です。現在のラーマ9世は、この宮殿には居住されていないようです。(追記):ラーマ9世、通称プミポン国王は、 2016年10月13日に逝去されました。その跡を継がれたラーマ10世も、この宮殿は使用されていません。
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イチオシ
『チャクリーマハープラーサート宮殿』の建物正面光景です。屋根などの上部はタイの伝統的な建築様式、下部はビクトリア様式を採り入れている宮殿です。現在は、1階部分は武器博物館として公開され、王家の納骨道としての機能が主要となり、宮殿としての機能は終了しているようです。
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綺麗に刈り込まれた庭木を手前に入れての、『チャクリーマハープラーサート宮殿』の光景です。1876年5月7日着工、1882年に完成しました。設計・現場監督は、シンガポールの建築家だったジョン・クラニッチで、助手はヘンリー・クラニッチ・ロスでした。当初は完全な洋風建築を目指しましたが、途中で屋根の部分をタイ風建築にしました。
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イチオシ
同じく、綺麗に刈り込まれた庭木を手前に入れての、『チャクリーマハープラーサート宮殿』の光景です。宮殿としての機能は、今はないようですが、その外観は、依然としてタイ王国の王宮を代表しているようでした。刈り込んだ庭木が、王宮の建物によくマッチしていました。
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中央奥が『チャックリーマハープラーサート宮殿』です。その建物の西端付近の光景になります。その手前に見えるタイ様式の少し小ぶりな建物が、『アーポン・ピモーク館』です。南側になるその背後に四層の屋根を持つ、『デュシット宮殿』の姿も見えています。ラーマ1世時代の1789年に建設された建物です。王の死去の際、一時的に遺体が安置される場所とされます。
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タイ王国の宮殿群は、概ね次の三つに分類されるようです。
〇プラマハーモンティエンの建造物群:1785年にラーマ1世により建てられ、現存する建造物の中でも古い部類に入る建物群です、
〇チャックリーマハープラーサート宮殿群:先ほど中心施設を紹介しました。
〇ドゥシットマハープラーサート宮殿群およびその他。 -
王宮の建物の一部のようですが、施設名は分かりませんでした。ネット情報で散見するのも、『名前不明の建物』でした。王宮施設としては、新しい部類のようでしたが、尖塔などを用いて、権力を象徴するような造りではないようです。タイ様式の面影のない西洋建築のイメージです。推定ですが、ラーマ5世以降の建造のようです。
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王宮敷地内を移動中の光景です。左向きの矢印で、出口(EXIT)の表示がありました。その先に見えるのが、『ワット・プラケオ博物館』の屋根の光景です。この後は、『デュシット宮殿』を見学の後、王宮の南に隣接する王宮寺院の『ワット・ポー』に向かう予定です。
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『ワット・プラ・ケオ博物館』の前に置かれていた石像だったようです。通りすがりに撮影しました。かつての中国との関係を現わすような、道教の神様風の石造でした。立派なひげを蓄えていました。
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『ワット・プラ・ケオ博物館』の前に置かれていた石像だったようです。こちらも立派なひげを蓄えていました。入場見学はしていませんが、『ワット・プラ・ケオ博物館』の紹介です。尖塔や彫像など、寺院や宮殿を飾る装飾品の原型や、陶磁器、ガラス細工などが展示されているようでした。
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門の外から眺めた、『デュシット宮殿』の境内光景です。左手に見える真っ白な尖塔が、『アタウィチャーン・サーラー』です。タイ語の『サーラー』を和訳しますと、『東屋(あずまや)』、あるいは『休憩所』になるようです。切妻屋根で壁はなく、床は地上より高くし、風通しをよくしてあります。休息する場所というだけでなく、仏像が祀られていたり、壁画が描かれているサーラーもあるようです。エメラルド仏寺院の周りにあった建物群も、サーラーと呼ばれる建物だったようです。
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左側に見える白壁の建物が、四層の屋根を持つ、『デュシット宮殿』になります。右手前の門が、『デュシット宮殿』への入口門になるようでした。『ラーマ1世(在位:1782~1809年)』によって建てられました。 トンブリー朝のタークシン王の後を受けてタイ国王に推挙されると、新都をトンブリー対岸のクルンテープ(バンコク)に移しました。
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名前:『ウナズキヒメフヨウ(首肯き姫芙蓉)』
分類:フヨウ科ヒメフヨウ属
分布:メキシコ、コロンビア原産。
その他:花は下向きにうなづいたように咲き、十分に開かずに終わります。桃色と白色の花もあるようです。地元の東山植物園の温室でも見掛けます。 -
名前:『プルメリア』
分類:キョウチクトウ科インドソケイ属
分布:中南米、カリブ海諸国の原産。
その他:芳香を持つ花木で、寺院に好まれて植栽されます。 -
名前:『プルメリア』
分類:キョウチクトウ科インドソケイ属
分布:中南米、カリブ海諸国の原産。
その他:「チャンパー」の名前もあり、ラオスとニカラグアの国花です。 -
右手奥に見えているのが、先に紹介した、真っ白な尖塔の『アタウィチャーン・サーラー』と呼ばれる『東屋』になるようです。既にこの辺りは『デュシット宮殿』の敷地内になるようでした。まだ王宮内の敷地の一部になります。
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この辺りの建物は、王宮敷地内にはなりますが、観光の見学対象のエリアとはなっていないようでした。建物自体は新しいようですが、王宮内の周りの景観に配慮し、2階建てに高さを制限しているように見えました。芝生広場を取り囲むような建物配置でした。
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『デュシット宮殿』を創建した『ラーマ1世』についての紹介です。幼名は『トーン・ドゥアン』です。アユタヤ王家の血を引いていてアユタヤ時代の士官、コーサー侯パーンの子孫と言われます。母親は中国人とされます。アユタヤ王朝末期に、すでに官吏として仕官していて、『ルワンヨック・クラバット』の爵位も持っていました。(ウィキペディア)
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『ラーマ1世』についての紹介の続きです。『ルアンヨック・クラバット』ことラーマ1世は、アユタヤ王国を占領したビルマを駆逐して、トンブリー王朝を興したタークシン国王に仕え、多くの武勇を挙げ、伯爵、侯爵から侯爵まで上り詰めました。その後、タークシン国王が精神錯乱状態をきたした時、カンボジア遠征から戻り、タークシン国王を処刑し、王位に就きました。(同上)
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武器を手にした少し偉そうな姿の立像です。推測ですが、三国志時代の英雄の一人のようです。五虎大将軍の起源は、3世紀に書かれた歴史書『三国志(正史)』に遡りますが、五虎を冠した称号は、15世紀にまとめられた小説『三国志演義』においては、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の5名です。中でもその筆頭の関羽は、道教の神様にまで祀り上げられました。蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は、敵の曹操や多くの同時代人から称賛されました。
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関羽は、見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)を蓄えていたため、諸葛亮からは『髯(ひげ)』殿と呼ばれ、『三国志演義』などでは『美髯公(びぜんこう)』などとも呼ばれています。孫権との戦いに敗れ、斬首された関羽の最後です。関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬りました『呉歴』。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬りました『関羽伝』。
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こちらの石像も、『美髯公』と呼んでおかしくない、立派なあご髭とほほ髭を持った武人で武器を手にしています。判断が付きませんので、こちらも別の石像作者による関羽像と紹介しておきます。三国志を纏めた鎮守の人物評です。『(関羽・張飛の2人は、1人で万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣「勇猛な家臣」であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。しかし、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である』、と述べています。
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推測になりますが、右手の建物が『ワット・プラ・ケオ博物館』あたりになるようです。建物脇に石像がありました。博物館を見学する時間はありませんでしたが、『ワット・プラケオの修復時や、再建時に不要になった装飾品などを展示してあります。王宮で使われていた食器や、エメラルド仏陀の着替えの衣装もイミテーションのエメラルド仏陀とともに見ることができます。(タビナカ・マガジン)』、と紹介されていました。
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名前:『ラン(蘭):デンファーレ』
分類:ラン科デンドロビュウム属
分布:デンドロビウムのファレノプシスとビギバムが交配原種。
その他:デンファレは、デンドロビウム・ファレノプシスの略です。 -
次は、王宮の南側に隣接する王宮寺院の『ワット・ポー』の見学です。黄色の制服姿の地元の生徒さん達も同じ方角に向かっているようでした。あるいは、先にワット・ポーの見学を終えて、王宮に向かうのかも知れません。因みにタイ王国の国民の7歳~12歳が日本の小学校に相当する『初等教育』、13歳~15歳が中学校に相当する『前期中等教育』として、ここまでが義務教育とされています。
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『ワット・プラチェートゥポン(ワット・ポー)・ツーリスト・マップ』のタイトルがあった平面図です。『ワット・プラチェートゥポン』が、寺院の正式名になります。2番の番号が付された、右下に位置する青い屋根の大きな建物が、涅槃仏が置かれている場所であることが記されていました。北の方角は下向きの地図です。
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イチオシ
『ワット・ポー』は、『菩提樹の寺』の意味があり、アユタヤ朝時代の14世紀に創建されました。その後、チャクリー王朝のラーマ1世とラーマ3世により大改修されました。全長46メートル、高さ15メートルの大きさとされる黄金の涅槃像の光景です。ラーマ3世の治世には戦乱が少なくなり、世の中の安定によってインフラの整備を精力的に行うことができました。そのためラーマ3世までは『チャクリー王朝の建設期』と呼ばれています。(ウィキペディア)
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角度を変えて眺めた、黄金の涅槃仏の光景です。ラーマ3世は、信心深い王として知られます。仏日には功徳のため貧困層の人民に食料を配給したり、動物を人間の手から解放したりしました。これは、タイでよく行われる功徳とされます。また50以上の寺院を建立・修繕しました。(同上)
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ラーマ3世は、父王ラーマ2世譲りの詩人で文人としても有名であり、ラーマ2世らとともに叙事詩『クン・チャーン=クン・ペーン』などの著作も行っています。この物語は、地方の口承物語として発達した長編叙事詩です。容姿端麗だが貧しいクンペーンと、裕福だが太って醜いクンチャーンという2人の男性が、美女ワントーンを巡って争う物語です。
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