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昼食の後、サファヴィー朝の第6代シャーのアッバース二世が17世紀に建造した、ハージュ橋を見学しました。2層のテラスがあり、装飾が施された建物では、アッバース二世が宴を催していたとされます。長さは133メートル、幅が12メートルの規模の橋です。(ウィキペディア)

2012秋、イラン旅行記(39/56):11月21日(5):イスファハン(8):昼食、ハージュ橋、サファヴィー朝の盛衰

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2012/11/16 - 2012/11/23

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旅行記グループ 2012秋、イラン旅行記(下巻)

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旅人のくまさん

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昼食の後、サファヴィー朝の第6代シャーのアッバース二世が17世紀に建造した、ハージュ橋を見学しました。2層のテラスがあり、装飾が施された建物では、アッバース二世が宴を催していたとされます。長さは133メートル、幅が12メートルの規模の橋です。(ウィキペディア)

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  • この日の昼食です。飲み物は、紅茶だったようですが、味についての記憶はありません。砂糖が用意されていても、使うことはありません。コーヒーも紅茶も、砂糖なしの習慣が長くなりました。(同上)

    この日の昼食です。飲み物は、紅茶だったようですが、味についての記憶はありません。砂糖が用意されていても、使うことはありません。コーヒーも紅茶も、砂糖なしの習慣が長くなりました。(同上)

  • ご飯が主食で、おかずもレモンの1切れも一緒に皿に盛られていました。黄色い部分は、サフランで色付されていました。野菜は残さず戴きましたが、完食は出来なかったかも知れません。(同上)

    イチオシ

    ご飯が主食で、おかずもレモンの1切れも一緒に皿に盛られていました。黄色い部分は、サフランで色付されていました。野菜は残さず戴きましたが、完食は出来なかったかも知れません。(同上)

  • 歩道のグリーンベルトのような場所の光景です。沢山の写真と鼻が飾られていました。イラン・イラク戦争に関わるものかどうかは、判断付きませんでした。(同上)

    歩道のグリーンベルトのような場所の光景です。沢山の写真と鼻が飾られていました。イラン・イラク戦争に関わるものかどうかは、判断付きませんでした。(同上)

  • 最初に、この橋が築かれたサファヴィー朝時代について紹介します。『サファヴィー朝(150~1736年)は、16世紀から18世紀前半にかけて現在のイランを中心としたイスラーム王朝です。現在のイラン東部のホラーサーンから、西は現在のイラクのメソポタミアに至る、歴史的ペルシャ地域を支配しました。初代シャーは、イスマーイール1世(1487~1524年)でした。(同上)

    最初に、この橋が築かれたサファヴィー朝時代について紹介します。『サファヴィー朝(150~1736年)は、16世紀から18世紀前半にかけて現在のイランを中心としたイスラーム王朝です。現在のイラン東部のホラーサーンから、西は現在のイラクのメソポタミアに至る、歴史的ペルシャ地域を支配しました。初代シャーは、イスマーイール1世(1487~1524年)でした。(同上)

  • 写真は、ハージュ橋の袂にある名物の獅子像です。しばらく、サファヴィー朝について紹介します。イスマーイール1世(在位:1501~1524年)の治世から、現在に至るイラン・イスラム共和国と周辺地域(アゼルバイジャン共和国とイラク共和国の一部)にシーア派の信仰が根付き始めたとされます。『ハターイー(罪人の意)』の筆名で多くの詩を作ったことでも有名です。(同上)

    写真は、ハージュ橋の袂にある名物の獅子像です。しばらく、サファヴィー朝について紹介します。イスマーイール1世(在位:1501~1524年)の治世から、現在に至るイラン・イスラム共和国と周辺地域(アゼルバイジャン共和国とイラク共和国の一部)にシーア派の信仰が根付き始めたとされます。『ハターイー(罪人の意)』の筆名で多くの詩を作ったことでも有名です。(同上)

  • イスマーイール1世は、イランの北西部のアルダビールで、神秘主義教団の一つであるサファヴィー教団の教主シャイフ・ハイダルと、白羊朝の君主ウズン・ハサンの娘アーラム・シャオの間に生まれました。『白羊(はくよう)朝(1378~1508)』は、東部アナトリアからイラン西部を支配したテュルク系のイスラーム王朝です。写真は、獅子像の口の中に刻まれた顔です。(同上)

    イスマーイール1世は、イランの北西部のアルダビールで、神秘主義教団の一つであるサファヴィー教団の教主シャイフ・ハイダルと、白羊朝の君主ウズン・ハサンの娘アーラム・シャオの間に生まれました。『白羊(はくよう)朝(1378~1508)』は、東部アナトリアからイラン西部を支配したテュルク系のイスラーム王朝です。写真は、獅子像の口の中に刻まれた顔です。(同上)

  • イスマーイールの祖父のシャイフ・ジュナイドが教主を務めていた時代、サファヴィー教団は世俗の勢力にかわって政治権力を獲得する志向を有するようになりました。15世紀にアゼルバイジャンを支配していた白羊朝は、婚姻関係によってサファヴィー教団と同盟を結ぼうとしました。写真は、ハージュ橋の袂の光景です。(同上)

    イスマーイールの祖父のシャイフ・ジュナイドが教主を務めていた時代、サファヴィー教団は世俗の勢力にかわって政治権力を獲得する志向を有するようになりました。15世紀にアゼルバイジャンを支配していた白羊朝は、婚姻関係によってサファヴィー教団と同盟を結ぼうとしました。写真は、ハージュ橋の袂の光景です。(同上)

  • イスマーイールの祖父・ジュナイドと白羊朝の君主・ウズン・ハサンの妹、イスマーイール1世の父・ハイダルとウズン・ハサンの娘・アーラム・シャオとの婚姻が成立しました。しかし、白羊朝はサファヴィー教団の社会的影響力を恐れて教団を攻撃し、祖父ジュナイド、父ハイダル、兄シャイフ・アリーは白羊朝との戦いで落命しました。写真は、少しズームアップした橋の袂です。(同上)

    イスマーイールの祖父・ジュナイドと白羊朝の君主・ウズン・ハサンの妹、イスマーイール1世の父・ハイダルとウズン・ハサンの娘・アーラム・シャオとの婚姻が成立しました。しかし、白羊朝はサファヴィー教団の社会的影響力を恐れて教団を攻撃し、祖父ジュナイド、父ハイダル、兄シャイフ・アリーは白羊朝との戦いで落命しました。写真は、少しズームアップした橋の袂です。(同上)

  • 1494年に兄・シャイフ・アリーが獄死し、イスマーイールが教主の地位に就き、カスピ海南岸のギーラーン地方に潜伏しました。12歳までの間、イスマーイールはギーラーン地方のラーヒージャーンで現地の有力者の保護を受け、白羊朝が政治的に安定を失った1499年にイスマーイールは潜伏地のラシュト(ギーラーン地方の中心都市)を出発しました。彼はアナトリア半島各地のキジルバシ(トルコ系遊牧民のサファヴィー教信徒)に決起を促し、集合地とされたエルズィンジャンには7000人のキジルバシが集まり増した。彼らは『無謬の救世主』であるイスマーイールに無私の忠誠を誓いました。イスマーイールはキジルバシを率いて東に進み、各地で白羊朝の軍隊に勝利しました。キジルバシは、サファヴィー教団の信徒の多数を占めるアナトリア高原に居住するトルコ系遊牧民です。(同上)

    1494年に兄・シャイフ・アリーが獄死し、イスマーイールが教主の地位に就き、カスピ海南岸のギーラーン地方に潜伏しました。12歳までの間、イスマーイールはギーラーン地方のラーヒージャーンで現地の有力者の保護を受け、白羊朝が政治的に安定を失った1499年にイスマーイールは潜伏地のラシュト(ギーラーン地方の中心都市)を出発しました。彼はアナトリア半島各地のキジルバシ(トルコ系遊牧民のサファヴィー教信徒)に決起を促し、集合地とされたエルズィンジャンには7000人のキジルバシが集まり増した。彼らは『無謬の救世主』であるイスマーイールに無私の忠誠を誓いました。イスマーイールはキジルバシを率いて東に進み、各地で白羊朝の軍隊に勝利しました。キジルバシは、サファヴィー教団の信徒の多数を占めるアナトリア高原に居住するトルコ系遊牧民です。(同上)

  • 写真は、橋の袂から眺めたザーヤンデ川の左岸の街並み光景です。泊まったホテルは、写真より少し川下の右手方面になります。1501年の秋にサファヴィー教団は白羊朝の首都のタブリーズに入城し、イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言しました。タブリーズへの入城をもってサファヴィー朝が成立しました。(同上)

    写真は、橋の袂から眺めたザーヤンデ川の左岸の街並み光景です。泊まったホテルは、写真より少し川下の右手方面になります。1501年の秋にサファヴィー教団は白羊朝の首都のタブリーズに入城し、イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言しました。タブリーズへの入城をもってサファヴィー朝が成立しました。(同上)

  • 同じく、ザーヤンデ川の左岸の光景です。朝の散策の時に目にした光景です。初代君主のイスマーイール1世は祖母をテュルク系王朝白羊朝の英主ウズン・ハサンの妹、母をウズン・ハサンの娘とする極めてテュルク系の血筋の濃い人です。ソ連解体後に独立したアゼルバイジャン共和国では、『サファヴィー朝は、イランを征服したアゼルバイジャン王朝』とみているようです。(同上)

    同じく、ザーヤンデ川の左岸の光景です。朝の散策の時に目にした光景です。初代君主のイスマーイール1世は祖母をテュルク系王朝白羊朝の英主ウズン・ハサンの妹、母をウズン・ハサンの娘とする極めてテュルク系の血筋の濃い人です。ソ連解体後に独立したアゼルバイジャン共和国では、『サファヴィー朝は、イランを征服したアゼルバイジャン王朝』とみているようです。(同上)

  • 写真は、橋の下を横断する通路の光景です。水の無い、野原の光景です。サファヴィー朝が系統的にいずれの民族に属しているかは、この王朝の性格を考える上で、はっきりと規定することは難しいようです。(同上)

    写真は、橋の下を横断する通路の光景です。水の無い、野原の光景です。サファヴィー朝が系統的にいずれの民族に属しているかは、この王朝の性格を考える上で、はっきりと規定することは難しいようです。(同上)

  • カラータイルで装飾された、橋の上の建物の光景です。立入ることは出来ませんでしたが、立派な扉も付いていました。サファヴィー朝が、十二イマーム派を採用したことでイラン、アゼルバイジャンなどにシーア派が根付き、これらの地域が他の地域から政治的・文化的に分かれた地域として、イラン国家、アゼルバイジャン国家に繋がる民族意識の基礎が築かれました。十二イマーム派は、シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派です。十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れたことに因みます。661年に亡くなった初代アリー以降、十二代目までムハンマドの子孫によって継承されました。この派では、最後の審判の日にイマームは再臨すると信じられています。キリスト教などとも共通する教義です。(同上)

    カラータイルで装飾された、橋の上の建物の光景です。立入ることは出来ませんでしたが、立派な扉も付いていました。サファヴィー朝が、十二イマーム派を採用したことでイラン、アゼルバイジャンなどにシーア派が根付き、これらの地域が他の地域から政治的・文化的に分かれた地域として、イラン国家、アゼルバイジャン国家に繋がる民族意識の基礎が築かれました。十二イマーム派は、シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派です。十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れたことに因みます。661年に亡くなった初代アリー以降、十二代目までムハンマドの子孫によって継承されました。この派では、最後の審判の日にイマームは再臨すると信じられています。キリスト教などとも共通する教義です。(同上)

  • 写真は、橋の上から眺めた周辺の光景です。十二イマーム派の『イマームは再臨すると信じている法学派(マズハブ)』は、『ジャアファル法学派』と呼ばれています。また、十二イマーム派に特徴的な政治思想に、『イマーム再臨までの間、不在のイマームの代理としてイスラーム法学者が信者を指導できる』とする思想があります。(同上)

    写真は、橋の上から眺めた周辺の光景です。十二イマーム派の『イマームは再臨すると信じている法学派(マズハブ)』は、『ジャアファル法学派』と呼ばれています。また、十二イマーム派に特徴的な政治思想に、『イマーム再臨までの間、不在のイマームの代理としてイスラーム法学者が信者を指導できる』とする思想があります。(同上)

  • 20世紀にホメイニー師が提唱した『法学者の統治論』と、それに基づくイラン・イスラーム革命では、『イマームの代理としてイスラーム法学者』の役割があるとする思想が、精神的支柱となりました。(同上)

    20世紀にホメイニー師が提唱した『法学者の統治論』と、それに基づくイラン・イスラーム革命では、『イマームの代理としてイスラーム法学者』の役割があるとする思想が、精神的支柱となりました。(同上)

  • 写真は、橋の上から河原に下りることが出来る階段の光景です。時代を遡ります。血縁関係を重視する結果から、預言者ムハンマドの娘ファーティマの子が2代目3代目を継ぎましたが、次第に血統が途絶えるなどして、シーア派の分派が起こりました。ザイド派は第五代、イスマーイール派は第七代のイマームを誰にあてるかで分派しました。(同上)

    写真は、橋の上から河原に下りることが出来る階段の光景です。時代を遡ります。血縁関係を重視する結果から、預言者ムハンマドの娘ファーティマの子が2代目3代目を継ぎましたが、次第に血統が途絶えるなどして、シーア派の分派が起こりました。ザイド派は第五代、イスマーイール派は第七代のイマームを誰にあてるかで分派しました。(同上)

  • 写真は、スタートした左岸に対し、対岸となる右岸付近の光景です。十二イマーム派の内部の学派には、18世紀にシャイフ・アフマド・アフサーイーが説いたシャイヒー派があり、19世紀にはバーブ教、バハーイー教が生まれています。宗教の世界ではよくある出来事の一つかも知れません。(同上)

    写真は、スタートした左岸に対し、対岸となる右岸付近の光景です。十二イマーム派の内部の学派には、18世紀にシャイフ・アフマド・アフサーイーが説いたシャイヒー派があり、19世紀にはバーブ教、バハーイー教が生まれています。宗教の世界ではよくある出来事の一つかも知れません。(同上)

  • 長い間、水が流れていないようにも見える、荒涼とした河原の光景です。シーア派の説明から、サファヴィー朝の話しに戻します。サファヴィー朝は、順調に勢力を伸ばしましたが、サファヴィー朝の成功は、オスマン帝国の支配下での出来事であり、オスマン帝国の不安も生み出しました。その状況で起きたのが、アナトリア東部での『チャルディランの戦い』です。(同上)

    長い間、水が流れていないようにも見える、荒涼とした河原の光景です。シーア派の説明から、サファヴィー朝の話しに戻します。サファヴィー朝は、順調に勢力を伸ばしましたが、サファヴィー朝の成功は、オスマン帝国の支配下での出来事であり、オスマン帝国の不安も生み出しました。その状況で起きたのが、アナトリア東部での『チャルディランの戦い』です。(同上)

  • ハージュ橋を渡って対岸に到着しました。写真は、対岸にあった獅子像の光景です。1514年、オスマン帝国スルタンのセリム1世は、アナトリア東部のチャルディランでサファヴィー朝軍と会戦しました。イスマーイール1世は、これまでの遊牧民同士の戦いと同じ戦法で決戦に臨みましたが、よく組織された歩兵と大量の火砲を装備したオスマン軍の前に惨敗しました。(同上)

    ハージュ橋を渡って対岸に到着しました。写真は、対岸にあった獅子像の光景です。1514年、オスマン帝国スルタンのセリム1世は、アナトリア東部のチャルディランでサファヴィー朝軍と会戦しました。イスマーイール1世は、これまでの遊牧民同士の戦いと同じ戦法で決戦に臨みましたが、よく組織された歩兵と大量の火砲を装備したオスマン軍の前に惨敗しました。(同上)

  • 同じく、対岸の橋の袂付近から眺めた、橋の側面の光景です。サファヴィー朝の中興は、第5代のアッバース1世(在位:1588~1629年)の時でした。アッバース大王とも称されます。1587年、ヘラートにいたムハンマドの王子アッバース(1世)は、ムルシド・クリー・ハーン・ウスタージャルーに擁立されて兵をあげ、首都ガズヴィーンを占領して父から王位を譲り受けました。(同上)

    同じく、対岸の橋の袂付近から眺めた、橋の側面の光景です。サファヴィー朝の中興は、第5代のアッバース1世(在位:1588~1629年)の時でした。アッバース大王とも称されます。1587年、ヘラートにいたムハンマドの王子アッバース(1世)は、ムルシド・クリー・ハーン・ウスタージャルーに擁立されて兵をあげ、首都ガズヴィーンを占領して父から王位を譲り受けました。(同上)

  • 対岸の橋の袂付近から眺めた、橋の上の光景です。チャルディランの戦いの敗戦により、サファヴィー朝は多くの将兵を失い、宗教的情熱に支えられた軍事拡大の時代は終わりを迎えました。イスマーイール1世は、失意の中で1524年に37歳で亡くなりました。次代のシャーの息子のタフマースブ1世は、わずか10歳でした。サファヴィー朝は王朝最初の危機を迎えました。

    対岸の橋の袂付近から眺めた、橋の上の光景です。チャルディランの戦いの敗戦により、サファヴィー朝は多くの将兵を失い、宗教的情熱に支えられた軍事拡大の時代は終わりを迎えました。イスマーイール1世は、失意の中で1524年に37歳で亡くなりました。次代のシャーの息子のタフマースブ1世は、わずか10歳でした。サファヴィー朝は王朝最初の危機を迎えました。

  • 王位に就いた翌1588年、17歳のアッバース1世は、キジルバシを抑えて実権を掌握し、1590年にオスマン帝国及びシャイバーニー朝と和平を結んで軍事活動を中断しました。アッバース1世は、キジルバシに頼った軍事制度を改め、オスマンにも対抗できる軍隊を目指しました。キジルバシから選出されたコルチ軍団と、グルジア系、アルメニア系出身の奴隷からなるグラーム軍団の二つからなる常備騎兵軍を組織すると共に、ペルシャ系定住民出身者を中心とする銃兵軍団、砲兵軍団を創設しました。1597年、アッバース1世は、ガズヴィーンからペルシャ中部のイスファハン(エスファハーン)に遷都しました。写真は、橋の下を横断する通路の光景です。出入口にカラータイルのアラベスク装飾がありました。(同上)

    王位に就いた翌1588年、17歳のアッバース1世は、キジルバシを抑えて実権を掌握し、1590年にオスマン帝国及びシャイバーニー朝と和平を結んで軍事活動を中断しました。アッバース1世は、キジルバシに頼った軍事制度を改め、オスマンにも対抗できる軍隊を目指しました。キジルバシから選出されたコルチ軍団と、グルジア系、アルメニア系出身の奴隷からなるグラーム軍団の二つからなる常備騎兵軍を組織すると共に、ペルシャ系定住民出身者を中心とする銃兵軍団、砲兵軍団を創設しました。1597年、アッバース1世は、ガズヴィーンからペルシャ中部のイスファハン(エスファハーン)に遷都しました。写真は、橋の下を横断する通路の光景です。出入口にカラータイルのアラベスク装飾がありました。(同上)

  • 写真は、夏になると、八角形のテラスで、アッバース2世が涼をとりながら宴会を開いたという建物の光景です。アッバース1世は、イスファハン旧市街の郊外に王宮を中心に庭園に囲まれた新都が造営しました。新都と旧市街の中間に『王の広場』を中心に『王のモスク(現イマーム・モスク)』などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設され、ペルシャ系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着き、イスファハンの人口は50万人に達しました。アッバース1世は、盛んな軍事行動や建設事業の財源としてそれまでキジルバシの部族が支配していた土地を没収して王領地に収め、君主権力を拡大しました。(同上)

    写真は、夏になると、八角形のテラスで、アッバース2世が涼をとりながら宴会を開いたという建物の光景です。アッバース1世は、イスファハン旧市街の郊外に王宮を中心に庭園に囲まれた新都が造営しました。新都と旧市街の中間に『王の広場』を中心に『王のモスク(現イマーム・モスク)』などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設され、ペルシャ系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着き、イスファハンの人口は50万人に達しました。アッバース1世は、盛んな軍事行動や建設事業の財源としてそれまでキジルバシの部族が支配していた土地を没収して王領地に収め、君主権力を拡大しました。(同上)

  • 写真は、アッバース2世が涼をとりながら宴会を開いたとされる建物のズームアップ光景です。サファヴィー朝は、アッバース1世の時代にそれまでの遊牧国家型の分権的な体制を抜け出し、ライバルであったオスマン帝国と同じように、君主の絶対権力のもとで君主の信任によってのみ権力を保障されるエリートたちが統治を担う専制国家へとさらなる転身を遂げました。1598年、攻勢に出たアッバース1世は、シャイバーニー朝を破ってホラーサーンを回復し、1632年のオスマン・サファヴィー戦争では、アゼルバイジャンを回復しました。アッバース1世の軍事的成功には、彼個人の才能と同時に、同時期に西欧諸国との同盟関係も大きいようです。特に17世紀に全盛期を迎えたネーデルラント連邦共和国(オランダ)との同盟はサファヴィー朝の強化に貢献しました。(同上)

    イチオシ

    写真は、アッバース2世が涼をとりながら宴会を開いたとされる建物のズームアップ光景です。サファヴィー朝は、アッバース1世の時代にそれまでの遊牧国家型の分権的な体制を抜け出し、ライバルであったオスマン帝国と同じように、君主の絶対権力のもとで君主の信任によってのみ権力を保障されるエリートたちが統治を担う専制国家へとさらなる転身を遂げました。1598年、攻勢に出たアッバース1世は、シャイバーニー朝を破ってホラーサーンを回復し、1632年のオスマン・サファヴィー戦争では、アゼルバイジャンを回復しました。アッバース1世の軍事的成功には、彼個人の才能と同時に、同時期に西欧諸国との同盟関係も大きいようです。特に17世紀に全盛期を迎えたネーデルラント連邦共和国(オランダ)との同盟はサファヴィー朝の強化に貢献しました。(同上)

  • 西欧との同盟関係は、オスマン帝国との政治的な問題でもありました。西欧は、ヨーロッパに食い込むオスマンを駆逐するために、オスマンの背後にいるサファヴィー朝との関係を重視しました。オスマン帝国の弱体化は双方にとって有益であり、サファヴィー朝にとってもヨーロッパの先進的な軍事力は、国力強化や中央集権化など、国益に繋がるものでした。(同上)

    西欧との同盟関係は、オスマン帝国との政治的な問題でもありました。西欧は、ヨーロッパに食い込むオスマンを駆逐するために、オスマンの背後にいるサファヴィー朝との関係を重視しました。オスマン帝国の弱体化は双方にとって有益であり、サファヴィー朝にとってもヨーロッパの先進的な軍事力は、国力強化や中央集権化など、国益に繋がるものでした。(同上)

  • 写真は、側面から見たハージュ橋の光景です。イングランド王国とも重要な関係を築き、1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれました。この時期、ロバート・シャーリー(1581年頃~1628年)に率いられたイングランド人冒険者の一団は、ペルシャ軍の近代化に重要な役割を果たしました。(同上)

    イチオシ

    写真は、側面から見たハージュ橋の光景です。イングランド王国とも重要な関係を築き、1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれました。この時期、ロバート・シャーリー(1581年頃~1628年)に率いられたイングランド人冒険者の一団は、ペルシャ軍の近代化に重要な役割を果たしました。(同上)

  • 1624年には、100年ぶりにバグダードを再征服して創建当時のサファヴィー朝の領域を取り戻し、サファヴィー朝はアッバース1世のもとで最盛期を迎えました。1629年にアッバース1世が亡くなり、孫のサフィー1世が即位しました。1638年、反撃に出たオスマン帝国によりイラクを失い、衰亡の兆しとなりました。写真は、カラータイルで装飾されたハージュ橋の光景です。(同上)

    1624年には、100年ぶりにバグダードを再征服して創建当時のサファヴィー朝の領域を取り戻し、サファヴィー朝はアッバース1世のもとで最盛期を迎えました。1629年にアッバース1世が亡くなり、孫のサフィー1世が即位しました。1638年、反撃に出たオスマン帝国によりイラクを失い、衰亡の兆しとなりました。写真は、カラータイルで装飾されたハージュ橋の光景です。(同上)

  • 1642年、第7代シャー(在位:1642~1666年)のアッバース2世が10歳で即位すると、大宰相サルー・タキが実権を掌握しましたが、1645年に政敵に暗殺されました。アッバース2世は親政を開始し、1648年にはムガル帝国からカンダハールを奪還しました。 写真は、アッバース2世が涼をとりながら宴会を開いたとされるハージュ橋です。(同上)

    1642年、第7代シャー(在位:1642~1666年)のアッバース2世が10歳で即位すると、大宰相サルー・タキが実権を掌握しましたが、1645年に政敵に暗殺されました。アッバース2世は親政を開始し、1648年にはムガル帝国からカンダハールを奪還しました。 写真は、アッバース2世が涼をとりながら宴会を開いたとされるハージュ橋です。(同上)

  • 写真は、橋の袂に群生していた白い葉の宿物です。日本でも見かける『シロタエギク(白妙菊)』に似ていました。アッバース2世は庶民の動向に気を配り、裁判に介入して役人から農民を保護しました。また、カンダハール奪還でサファヴィー朝の衰退に歯止めをかけましたが、深酒が祟り急死したと伝わります。(同上)

    写真は、橋の袂に群生していた白い葉の宿物です。日本でも見かける『シロタエギク(白妙菊)』に似ていました。アッバース2世は庶民の動向に気を配り、裁判に介入して役人から農民を保護しました。また、カンダハール奪還でサファヴィー朝の衰退に歯止めをかけましたが、深酒が祟り急死したと伝わります。(同上)

  • アッバース2世の跡を継いだ、第8代シャーのサフィー2世スライマーン(1647~1694年)が幼少で後宮に入り浸ったため、後宮が政治に介入する腐敗政治となり、サファヴィー朝は滅亡に向かいました。アッバース2世の治世で芸術・建築がヨーロッパ文化の流入で花開き、チェヘル・ソトゥーン宮とハージュ橋は、サファヴィー建築の代表するものとして現存しています。(同上)

    アッバース2世の跡を継いだ、第8代シャーのサフィー2世スライマーン(1647~1694年)が幼少で後宮に入り浸ったため、後宮が政治に介入する腐敗政治となり、サファヴィー朝は滅亡に向かいました。アッバース2世の治世で芸術・建築がヨーロッパ文化の流入で花開き、チェヘル・ソトゥーン宮とハージュ橋は、サファヴィー建築の代表するものとして現存しています。(同上)

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2012秋、イラン旅行記(下巻)

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