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来迎寺

寺・神社・教会

和歌山市

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来迎寺 https://4travel.jp/dm_shisetsu/11555726

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施設情報

施設名
来迎寺
住所
  • 和歌山県和歌山市太田2-3-7
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 寺・神社・教会
登録者
yoshimune-kun さん

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

クチコミ(6件)

和歌山市 観光 満足度ランキング 110位
3.14
アクセス:
4.50
JR和歌山駅から徒歩5分 by yoshimune-kunさん
人混みの少なさ:
5.00
バリアフリー:
3.25
見ごたえ:
3.75
  • 太田城ゆかりのお寺です

    • 4.0
    • 旅行時期:2022/06(約2年前)
    • 0

    こちらに来る前に、城主太田左近などの首が埋葬されている小山塚をお参りしました。悲劇の歴史を知ったあと、こちらの来迎寺に来た...  続きを読むところ、こちらに太田城址碑がありました。つまり、このお寺も秀吉の水攻めにあった場所で悲劇の舞台です。神聖な気持ちになりました。  閉じる

    投稿日:2023/03/12

  • 来迎寺 太田城跡

    • 2.5
    • 旅行時期:2022/04(約2年前)
    • 0

    来迎寺はかつては、太田城の 本丸に当たる部分とされ ここを中心に東西南北に200メートル近い城郭が張り巡らされていたと言う...  続きを読む。 今では 宅地化され周りは住宅地となり 城とは全く縁もゆかりもない状況である。 戦国時代 豊臣秀吉による 水攻めにより この太田城は 攻め落ちた。 現在でも 水攻めによる堤が一部残されている。  閉じる

    投稿日:2022/04/28

  • 太田城跡をたずねて

    • 2.0
    • 旅行時期:2021/10(約3年前)
    • 0

    和歌山駅から500メートル程で近いので訪れました。普通の住宅地の中にある浄土宗のお寺さんです。
    戦国時代、こちらに太田城...  続きを読むがあったとされ、境内には太田城の城碑や、紀州征伐で命を落とした戦没者慰霊碑、太田党を率いた太田左近の妻の墓と伝えられる小さな墓がありますが、規模の大きな寺社ではありませんので、観光地目的で訪れるようなお寺ではないかと思います。

      閉じる

    投稿日:2021/10/30

  • 和歌山駅東口より徒歩5分程。
    ひっそりとした住宅街の中にある来迎寺は平城であった太田城本丸跡にあたる。境内には太田城址碑...  続きを読むが建ち、境内の裏手には太田城水攻遺構の小山塚がある。
    住宅街にあり城跡の痕跡すらない場所で戦国時代の悲劇を忍ぶことができる。

    太田城は、1585年(天正13年)天下統一をめざす羽柴秀吉の水攻め「太田城の戦い」により落城。
    太田城の水攻めは備中高松城・武蔵忍城ととも日本三大水攻めのひとつ。
    小山塚は、秀吉の水攻めによる降伏の時城主の太田左近以下53名が自害。自害した者を3箇所に分けて埋葬したそのひとつ。
      閉じる

    投稿日:2021/08/01

  • 来迎寺♪

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/02(約7年前)
    • 0

    和歌山に行った時に駅から徒歩圏内にあったため、向かいました。住宅街のなかにあるお寺です。和歌山城が有名のため、しりませんで...  続きを読むしたが、こちらには太田城があったようです。残念ながら城跡とはなってしまいますが、良い勉強となりました。  閉じる

    投稿日:2017/02/19

  • 日本の中世はここで終焉を迎えた

    • 5.0
    • 旅行時期:2015/05(約9年前)
    • 0

    ここは、戦国時代の末期、雑賀衆の一部である「太田党」の本拠であった太田城の本丸があった場所であると伝えられています。

    ...  続きを読む
    太田城は、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めによって陥落しますが、その際の「水攻め」は、備中高松城、武州忍城と並び「日本三大水攻め」と呼ばれます。

    この「太田城の戦い」には、日本の歴史上特筆すべきいくつかの特徴があります。
    その一つが、指導者として53人もの処刑が行われたことです。
    普通は、指導者は「城主」あるいは「領主」一人であり、秀吉はその指導者を処刑すればよかったのですが、太田城についてはいわば53人の「指導者」がいたと考えられるのです。
    一説には、初期の戦いで太田勢に討ち取られた秀吉軍の死者の数に合わせたとも言われますが、もう一つの見方として、太田城には「一人の絶対的なリーダー」はいなかったとする説もあります。

    当時の太田城主は太田左近という人物ですが、この人物はいわば「連合自治会長」のような立場であって、この他に50人ほどのいわば「単位自治会長」のような存在が居て、戦の指揮もこれらの指導者の合議により決定されていたというのです。
    だから、誰か一人の首をはねてもこの「合議体」が無くならない限り指導体制には大きな影響を与えることができないと考えられるのです。

    これはつまり、現在の形に非常に近い「自治制度」が和歌山には定着していたということであり、他の地域で主流となっていた「封建領主による支配」とは全く違った形の地域運営が行われていたと言えるのです。

    もう一つが、太田城陥落の直後、秀吉は籠城していた太田一族の兵に対して「在々百姓ら、自今以後、弓箭・槍・鉄砲・腰刀等停止せしめ訖(おわん)ぬ」との文書を発していることです。
    この意味は、「戦いに参加した農民は、これ以後、弓、槍、鉄砲、刀等の武器を持つことを禁止する」というものです。秀吉は、続けて「鋤(すき)・鍬(くわ)等農具を嗜(たしな)み、耕作を専らにすべき」と書いて、農民は農業に専念せよと命じています。

    歴史の教科書でも取り上げられている秀吉の「刀狩り」に関する通達(刀狩令)は天正16年(1588年)に発出されていますが、太田城の残党に対して上記の文書が出されたのはそれより3年も前のことであり、これをモデルとして刀狩令が作成されたと考えられています。このため、研究者によっては、この太田城への文書を「原刀狩令」と呼ぶこともあるそうです。

    こうした一連の流れを指して、和歌山大学の海津(かいづ)教授は、「太田城水攻めは、中世自治のシンボルであった紀州惣国一揆が終焉を迎え、時代が中世から近世へ、一揆の地域自治から天下人の天下統一へと移り変わる、歴史の大きな節目となる事件であった」と述べています。

    和歌山駅のすぐそばで、住民自治から封建社会へ、時代が中世から近世へ、と移り変わる歴史上のドラマがあったということは、もっとよく知られるべきことだと思います。  閉じる

    投稿日:2015/07/28

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