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日本の中世はここで終焉を迎えた

  • 5.0
  • 旅行時期:2015/05(約11年前)
yoshimune-kunさん

by yoshimune-kunさん(男性)

和歌山市 クチコミ:65件

ここは、戦国時代の末期、雑賀衆の一部である「太田党」の本拠であった太田城の本丸があった場所であると伝えられています。

太田城は、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めによって陥落しますが、その際の「水攻め」は、備中高松城、武州忍城と並び「日本三大水攻め」と呼ばれます。

この「太田城の戦い」には、日本の歴史上特筆すべきいくつかの特徴があります。
その一つが、指導者として53人もの処刑が行われたことです。
普通は、指導者は「城主」あるいは「領主」一人であり、秀吉はその指導者を処刑すればよかったのですが、太田城についてはいわば53人の「指導者」がいたと考えられるのです。
一説には、初期の戦いで太田勢に討ち取られた秀吉軍の死者の数に合わせたとも言われますが、もう一つの見方として、太田城には「一人の絶対的なリーダー」はいなかったとする説もあります。

当時の太田城主は太田左近という人物ですが、この人物はいわば「連合自治会長」のような立場であって、この他に50人ほどのいわば「単位自治会長」のような存在が居て、戦の指揮もこれらの指導者の合議により決定されていたというのです。
だから、誰か一人の首をはねてもこの「合議体」が無くならない限り指導体制には大きな影響を与えることができないと考えられるのです。

これはつまり、現在の形に非常に近い「自治制度」が和歌山には定着していたということであり、他の地域で主流となっていた「封建領主による支配」とは全く違った形の地域運営が行われていたと言えるのです。

もう一つが、太田城陥落の直後、秀吉は籠城していた太田一族の兵に対して「在々百姓ら、自今以後、弓箭・槍・鉄砲・腰刀等停止せしめ訖(おわん)ぬ」との文書を発していることです。
この意味は、「戦いに参加した農民は、これ以後、弓、槍、鉄砲、刀等の武器を持つことを禁止する」というものです。秀吉は、続けて「鋤(すき)・鍬(くわ)等農具を嗜(たしな)み、耕作を専らにすべき」と書いて、農民は農業に専念せよと命じています。

歴史の教科書でも取り上げられている秀吉の「刀狩り」に関する通達(刀狩令)は天正16年(1588年)に発出されていますが、太田城の残党に対して上記の文書が出されたのはそれより3年も前のことであり、これをモデルとして刀狩令が作成されたと考えられています。このため、研究者によっては、この太田城への文書を「原刀狩令」と呼ぶこともあるそうです。

こうした一連の流れを指して、和歌山大学の海津(かいづ)教授は、「太田城水攻めは、中世自治のシンボルであった紀州惣国一揆が終焉を迎え、時代が中世から近世へ、一揆の地域自治から天下人の天下統一へと移り変わる、歴史の大きな節目となる事件であった」と述べています。

和歌山駅のすぐそばで、住民自治から封建社会へ、時代が中世から近世へ、と移り変わる歴史上のドラマがあったということは、もっとよく知られるべきことだと思います。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
JR和歌山駅から徒歩5分
人混みの少なさ:
5.0
バリアフリー:
3.0
見ごたえ:
3.5

クチコミ投稿日:2015/07/28

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