「畿内」の南端の地
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- 旅行時期:2014/11(約11年前)
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by yoshimune-kunさん(男性)
高野山周辺 クチコミ:12件
奈良に都があった頃、大和平野に住む人々は海を知らずに育ちました。今でも奈良県に住む人々は和歌山市へ海水浴に来ることが多いのですが、今よりもはるかに交通が不便だった飛鳥時代や奈良時代の頃には、広い海に明るい太陽が降りそそぐ和歌山の海の景観は多くの人の憧れの的であったことでしょう。
奈良から五條へ下り、紀の川沿いに和歌浦へと向かうルートは一般に「大和街道」と呼ばれますが、都に住む人々はこのルートを「紀州街道」と呼び習わしていました。この時代、多くの人々がこの紀の川の中州にある島(船岡山)と、その両岸にある小山(妹山・背山)に至ったときに大きな感慨を覚えたのですが、それには歴史の転換点に係わる重要な意味がありました。
「大化の改新」と言えば、誰でも名前を聞いたことのある歴史上の重大な出来事です。このとき初めて「大化」という元号が用いられ、「公地公民制」、「租庸調の税制」、「班田収授法」などの制度が定められました(近年の研究では異説もあるようですが)。
また、このとき初めて「畿内(きない)」という言葉も定められました。畿内とは、いわば朝廷の直轄地の範囲を指し示す言葉です。(現在良く使われる「近畿」という言葉は、「畿内とその近隣地域」という意味です)
このとき、畿内とは「東は名墾(名張)の横河、南は紀伊の兄山、西は赤石(明石)の櫛淵、北は近江の合坂山(逢坂山)」と定められたのです。
「紀伊の兄山」とは、船岡山の北側にある「背山」のことを指します。つまり、この場所は、ある意味で「異国」への出入り口だったのです。都から来た人々が背山を越えるときに、「いよいよ朝廷の勢力範囲を出て、異国へと入っていくのだ。帰りには、無事にここまで戻ってこられればよいが・・・。」という深い感慨に浸ったのも当然のことだったのでしょう。
こうしたことから、ここは古代の人々にとって特別な意味を持つ場所であると考えられており、万葉集には、この地を題材にした歌が15首取り上げられています。
和歌でしばしば取り上げられる場所のことを「歌枕(うたまくら)」と呼びますが、万葉集の歌枕としては、妹山・背山の15首は第2位の記録になります。ちなみに、1位は茨城県の筑波山で23首、3位が富士山で14首、次いで和歌の浦・玉津島13首、和歌山県の海南9首、真土(橋本・五條)8首、という順番だと言われています。
- 施設の満足度
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 約1Km東に「道の駅 紀の川万葉の里」があります
- 景観:
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- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
クチコミ投稿日:2015/08/06
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