漂泊の歌人 西行法師のルーツはここに
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- 旅行時期:2014/10(約11年前)
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by yoshimune-kunさん(男性)
岩出・紀の川 クチコミ:9件
西行法師の本名は「佐藤義清」と言います。
平安時代末期に裕福な武士の家系に生まれ、エリート武士の集団と言われる「北面武士(ほくめんのぶし)」に選ばれていることで分かるように、武芸全般に秀でているばかりか、容姿端麗、和歌や有職故実にも詳しい、という、まさに非の打ち所のない人物として将来を嘱望された若者だったようです。
ところが、23歳の時に、それまでの地位も名誉も全て捨てて、突然出家してしまうのです。その原因は友人の死であったとも、失恋であったとも言われますが、ともかくこれによって、全国を旅してまわり、各地で歌を詠むという「漂泊(ひょうはく)の歌人 西行」が誕生したのです。
西行の歌としては、
伊勢神宮を参拝したときに詠んだとされる
「何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
辞世の歌とされる(実際には生前に詠まれたものですが)
「願はくは 花のしたにて 春しなん その如月の 望月のころ」
などが有名です。
西行の生家である佐藤家は紀伊国田中庄(現在の紀の川市竹房周辺)の地主であり、出家前の西行はこの田中庄で生まれ、ここで荘園経営に携わっていたと言われています。
平治元年(1159年)には、西行の兄で田中庄の管理者であった藤原仲清が隣にある荒川庄との間で境界争いを起こしたとういう記録が残されていることから、西行が田中庄の管理者となっていた可能性もおおいにあったと思われます。
これを顕彰して、西行の生地に近い紀の川市竹房の国道424号線沿いには、「歌聖 西行法師」と刻まれた、高さ約2mの銅像が建立されています。
西行は、出家した後、全国を漂泊しながらも32歳の頃から約30年間は高野山を拠点として暮らしていました。つまり、西行は生まれてから50年以上を和歌山の地で過ごしていたことになるのです。
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
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- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
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クチコミ投稿日:2015/08/06
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