「川合小梅」という人物は、文化元年(1804年)に紀州藩士川合鼎、妻辰子との間に生まれた女性で、16歳の時に祖父の養子とな...
続きを読むった梅本修(川合梅所)と結婚、紀州藩お抱え絵師に師事して文人画を学び、明治4年(1871年)に夫が亡くなってからは川合家の事実上の当主として家計を切り盛りし、息子を教師に育て上げた後、明治22年(1889年)に86歳で亡くなっています。
歴史に何事かをなしとげた人物というわけではなく、有名な事件に直接関わりのあった人物でもありません。しかし、この「小梅さん」に関しては実に多くの事柄が詳しく判っているのです。
それはなぜか?
実は、小梅さんは16歳で結婚してから86歳で亡くなるまで70年間にわたって毎日のように日記を綴っており、現在もその約3分の1が残されているのです。日記には、家族のこと、料理や洗濯などの家事のこと、お客様を迎えたり遊びに行ったりしたこと、などの日常的なことから、黒船来航、安政の大地震など全国的なニュースに関することまで、様々な出来事が生活者の視点で描かれており、「日本最古の主婦日記」とも言われます。小梅さんはお酒が好きだったようで、5歳の息子に間違って酒を呑ませて12日間も看病をしたことや、夫の同僚らと紀ノ川へ花見に出かけて酒を呑みすぎ、家へ帰ってから夫に介抱された、というようなことも描かれています。
また、安政6年(1859年)8月23日の項には「朝 するがや(駿河屋)に饅頭数二百とりにやる」との記述が見え、この時代でも駿河屋が菓子処として名声を得ていたことを感じさせる記述があります。これを受けて、駿河屋さんでは紅白の梅の形をした小さな落雁(らくがん)を「小梅日記」と名付けて販売しています。
この筆塚は、小梅さんが聖天宮法輪寺の歓喜天を生涯にわたって篤く信仰していたということで、この寺の境内に建立されたものだそうです。
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投稿日:2015/09/30