昭和57年、和歌山市善明寺の高台に近畿大学附属和歌山高等学校を建設することになり、これに先だって遺跡の発掘調査を行ったとこ...
続きを読むろ、非常に多くの柱跡と思われる遺構が発見されました。
調査の結果、この遺構は7棟からなる高床式の建物跡で、1棟の平均床面積が約65平米、総床面積約450平米という非常に大規模な倉庫群であったことがわかりました。これは、5世紀前半という古い時代の大規模な倉庫群としては我が国最初の発見例で、その後に発見されたものを含めても難波宮跡(大阪市法円坂)、蛍池東遺跡(豊中市)、南郷遺跡群(奈良県御所市)、布留遺跡(奈良県天理市)と近畿地区に5例しかないものです。
古墳時代、大和朝廷と朝鮮半島との交易のルートとして早くから開けたのが太平洋から紀伊水道を経由して紀の川河口部に到るルートでした。発掘調査結果を考えると、ここに荷揚げされた朝鮮半島からの交易品はこの地の支配者であった紀氏が倉庫に保管して管理し、ここから川船に積みかえて紀の川を遡上し、奈良県へ入ってからは御所市周辺を本拠とする葛城氏に引継いだうえで、最終的に「ヤマト政権の武器庫」とも呼ばれる石上神宮がある天理市付近まで運び込まれ、ここで宝物として管理された、というようなストーリーが描けます。
紀の川河口部と並ぶもう一つの物流拠点として考えられているのは難波津(なにわつ、現在の大阪市中央区高麗橋あたりと推定されています)ですが、先に挙げた難波宮跡で発掘された大規模倉庫群は善明寺のものと比べるとやや建築時期が遅い(新しい)と考えられているため、紀の川ルートよりも少し遅れて、北九州から瀬戸内海を通るルートが開拓されるに従って難波津が物流拠点として発達してきたようです。
こうしたことを考えると、トラックや鉄道など影も形もなかった太古の時代であっても、意外に人や物が国境を越えてダイナミックに動いていたのだなあとあらためて感心してしまいます。
善明寺で発見された大規模倉庫群の遺構は、「鳴滝遺跡」と呼ばれて古代の物流ルートを考えるうえで非常に重要な資料となっています。遺跡そのものは調査後に埋め戻されて現在は近畿大学附属和歌山高等学校のテニスコートになっているとのことですが、復元された倉庫群の模型は紀伊風土記の丘で見学することができます。
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投稿日:2015/09/16