hiroさんのクチコミ(8ページ)全489件
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四季折々の景観とあわせて江戸城址の建築遺構など写真撮影ポイントが多彩な都心のオアシスです!
投稿日 2021年04月29日
総合評価:4.0
『北の丸公園』は、「皇居」南東側に位置する「皇居前広場」を中心に旧皇室苑地の一部であった「皇居外苑地区」が1949年(昭和24年)に開園した「皇居外苑」に属する現在の環境省が管理する「国民公園」(皇居外苑・新宿御苑・京都御苑)として、明治時代に「皇居」警護のために配置されたのがはじまりとされる旧近衛連隊の跡地となる「皇居」北側に位置する「北の丸地区」に「昭和天皇」の還暦を記念して1969年(昭和44年)に開園した敷地面積193,297平方メートルの森林公園です。
公園の名称および町名でもある『北の丸公園』の由来は、室町幕府・第8代将軍「足利義政」の時代となる1457年(長禄元年)に「太田道灌」によって築城されたとされる「本丸」と「二の丸」で構成されていた小規模な「江戸城」を「徳川家康」が江戸に入府してから「三の丸」・「西の丸」・「吹上」・「北の丸」などを全国の諸大名によって増築・拡張工事が実施され大城郭に整備された「江戸城」の「本丸」と「吹上」に隣接する「北の丸」の地であり、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる江戸時代初期には、徳川将軍家・近親者となる「徳川忠長」(第2代将軍・徳川秀忠の三男)、「徳川綱重」(第3代将軍・徳川家光の三男)、「天樹院(千姫)」(第2代将軍・徳川秀忠の長女)、「春日局」(第3代将軍・徳川家光の乳母)など将軍に対する忠誠度の高い者の屋敷地となっています。
その後の徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」の時代となる江戸時代中期には、徳川将軍家より分立し徳川将軍家に後嗣がいない場合に将軍の後継者を提供する役割を担った大名家の「徳川御三卿」(田安家・清水家・一橋家)となる「田安家」と「清水家」の屋敷地となり、明治維新後に明治政府により近衛師団の兵営地が設置されていました。
現在の『北の丸公園』内には、公園として整備される以前からある緑葉樹林に野鳥が好む実のなる樹木のほか花木など種類豊富な落葉樹林や芝生広場とあわせて池や小川が整備されおり四季折々の里山の景観を満喫することができる都心のオアシスです。
また、『北の丸公園』北側出入口に通行可能な旧・「江戸城」最古の建築遺構であり1636年(寛永13年)に再建された城門とされる「田安門」、公園東側出入口となる1658年(万治元年)に再建された城門「清水門」から旧・「江戸城」敷地内の高低差部分を江戸時代に整備された階段状の坂道となる旧・「江戸城」に現存する唯一の「雁木坂」が残されています。
ちなみに「田安門」および「清水門」は、旧・「江戸城」の建築遺構として1961年(昭和36年)に国の「重要文化財(建造物)」に指定されています。
そのほか1964年(昭和39年)に「東京オリンピック・柔道競技会場」として竣工した「日本武道館」、同じく1964年(昭和39年)に開館した現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く国民に対して普及・啓発する目的で開館した博物館(科学館)である「科学技術館」、日本で最初の国立美術館として1952年(昭和27年)中央区京橋に開館したのち1969年(昭和44年)に現在地に移転した日本の20世紀初頭から現代まで多様なジャンルの近現代美術作品を随時コレクションする「東京国立近代美術館」などの文化施設が配置されています。
今回は、都営地下鉄・新宿線「九段下駅」から九段エリアを訪れ久しぶりに「田安門」から『北の丸公園』に立ち寄り「科学技術館」までのエリアを短時間でしたが散策しモクレンなどの樹木に癒されました。
『北の丸公園』は、種類豊富な樹木・水辺のある芝生広場など四季折々の里山の景観散策、「江戸城址」建築遺構の歴史探訪のほか文化施設の利用など多彩な楽しみ方ができるお薦めにエリアです。
機会があれば、「江戸城址」建築遺構とあわせて四季折々の景観など写真撮影ポイント多数あるのでゆっくりと時間をかけて公園内を散策したいと思います・・・- 旅行時期
- 2021年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 地下鉄・九段下駅または竹橋が最寄り駅です。敷地内に駐車場が完備されています。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の朝と昼頃に田安門から出入りしましたが、公園内ですれ違う人は数名いました。
- バリアフリー:
- 3.5
- 遊歩道は、舗装されているところが多く歩きやすいです。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 江戸城址の建築遺構として現存する最古の田安門のほか里山の樹木など写真撮影ポイントが多彩です。
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投稿日 2021年04月24日
総合評価:3.5
『元池袋史跡公園』は、「池袋」という地名の由来とされる現在の豊島区西池袋1丁目に袋型の通称「丸池」と呼ばれる池が存在していた「旧・元池袋公園」(現在:高級賃貸タワーマンション敷地内)が下水道工事に伴い涸れ池の状態で残されていた「丸池」が完全に埋め立てられたことを偲び、1998年(平成10年)に敷地東側に隣接する現在の地に地名発祥由来を後世に伝える目的で開園した新たな豊島区立の小さな遺跡公園(敷地面積:167.98平方メートル)です。
ちなみに「池袋」の地名は、室町幕府・第13代将軍「足利義輝」の時代である1559年(永禄2年)に相模国の戦国大名「北条氏康」が作らせたとされる古文書の分限帳(家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面)である「小田原衆所領役帳」の中に”太田新六郎 知行 三貫五百文 池袋”の記載があり、「池袋」周辺一帯が「太田道灌」の子孫である「太田新六郎(康資)」の所領であったことが確認されています。
かつての武蔵国豊嶋郡池袋村の一帯は、多数の池や川が存在する低湿地の湧き水が豊富な地域であり「丸池」から湧き出た水が当時の「雑司ヶ谷村」の農業用水として利用されるなど「弦巻川」として「雑司ヶ谷」から「護国寺」方面を流れ「江戸川橋」の西側で「神田川」に合流していましたが、1932年(昭和7年)になると暗渠化工事により「弦巻川」は消滅し、都市化が進む中で「丸池」の水も涸れはてて涸れ池となっていました。
『元池袋史跡公園』へのアクセスは、「池袋駅」各路線を東西方向に結ぶ3つある地下連絡通路(北通路・中央通路・南通路)の中で「南通路」西口方面にある「ルミネ池袋(メトロポリタンプラザ)」部分のガラス屋根の吹き抜け空間となっている「プリズムガーデン」のエスカレーターを昇り地上に出て正面にある「メトロポリタン通り」を左手方向(南側)に100メートル程度先の信号機のある交差点の一画となる「ホテル メトロポリタン」の向かいにある広場です。
『元池袋史跡公園』敷地内は、隣地境界取り合い部分の花壇の中に「池袋地名ゆかりの池」の石碑とベンチ、広場中央に池をイメージした舗装とともに夜間にライトアップされるフクロウが宿る雑木林をイメージしたステンレス柱のモニュメントがあるだけのシンプルな広場です。
「ホテル メトロポリタン」を利用する際などに『元池袋史跡公園』の前をよく通ったりしているので夜間にライトアップされる広場の存在を以前から知っていましたが、今回はじめて足を止めて広場内を見て廻り「池袋地名ゆかりの池」の石碑が存在することを知り「池袋」の地名に関する歴史を学ぶことができました。
機会があれば、夜間ライトアップされたモニュメントの写真撮影をしてみようと思います・・・- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- ホテル メトロポリタンの向かいにあります。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 敷地内に立ち止まる人は殆どいません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 敷地内に段差はありません。
- 見ごたえ:
- 3.0
- ”池袋地名ゆかりの池”の石碑があります。
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関東三大天神として受験生が合格祈願に訪れる都内有数の神社です!
投稿日 2021年04月17日
総合評価:4.0
『湯島天満宮』の創建は、社伝によると「第21代・雄略天皇」の勅命により458年(雄略天皇2年)に海や湿地に囲まれた台地であり島のように見える温泉の湯煙が立っていたとされる「湯島」(現在の文京区湯島3丁目)の頂に力の神・技芸の神と崇められる「天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)」を御祭神として祀ったのが始まりとされる歴史の古い神社(旧称:湯島神社)です。
南北朝時代である1355年(北朝:正平10年、南朝:文和4年)になると村人からの請願により平安時代前期の845年(承和12年)から903年(延喜3年)までの生涯を廷臣、学者、文人として「第60代・醍醐天皇」の時代に右大臣を務めた「菅原道真」を文道の大祖と崇め勧請し御祭神として奉祀されています。
その後に衰退していましたが、戦国時代初期の室町幕府・第9代将軍「足利義尚」の時代である1478年(文明10年)に江戸城を築城したことで知れわたる関東を代表する武将「太田道灌」により再興され、1487年(文明19年)に天台宗の学僧であり歌人の「堯恵法師」が諸国をめぐりまとめた紀行文「北国紀行」で豊島郡湯島郷とともに当時の風致が称えられています。
また、「徳川家康」が江戸に入府した翌年の1591年(天正19年)に徳川家の領地となった関東250万石の知行割により豊島郡湯島郷の5石が朱印地として『湯島神社(通称:湯島天神)』に寄進され、江戸時代の「林 羅山」、「松永尺五」、「堀 杏庵」、「新井白石」など学者・文人の参拝者も多くなる中で、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1812年(文化9年)になると現在の「宝くじ」に相当する「富くじ(富突き)」の興行が『湯島神社(旧称)』境内で徳川幕府に公認されるようになり、江戸庶民からも通称の『湯島天神』として親しまれる神社になっています。
ちなみに江戸府内で「富くじ」の興行が行われていた場所は、『湯島天神(通称)』のほかに「瀧泉寺(通称:目黒不動尊)」(現在の目黒区下目黒)と「感應寺(現在:天王寺)」(現在の台東区谷中)の3箇所であり「江戸の三富」と呼ばれています。
そのほか現在の『湯島天満宮』は、「亀戸天神社」(江東区亀戸)と「保谷天神」(国立市保谷)ともに「関東三大天神」に数えられ、学問の神様として受験シーズンには多くの受験生が合格祈願に訪れる都内有数の神社です。
今回は、平日の午後に「御茶ノ水」周辺を訪れた際に久しぶりに『湯島天満宮』まで足を延ばして南側の表鳥居から境内に入り本殿参拝に立ち寄りました。
『湯島天満宮』境内の見どころは、毎年テレビなどで報道されるおよそ300本(樹齢:70年から80年程度)にもおよぶ梅園のある「梅の名所」としても有名で受験シーズンと重なる2月ごろには「梅まつり」が開催され多くの参拝者で賑わうイメージですが、時期がずれていたのと天候も不安定であったため閑散としていました。
権現造りの本殿建物は、老朽化のため1995年(平成7年)に建て替えられた新しい建物となっており、境内の建造物としては南側に位置する表鳥居が最も古く徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代となる1667~8年(寛文7~8年)に寄進されたとされる鋳銅製の鳥居(総高4.95メートル、総幅6.81メートル、柱根元径0.39メートル)で1970年(昭和45年)に東京都の「有形文化財」に指定されています。
参拝に立ち寄った際に表鳥居をバックにウエディング用の記念写真撮影をするカップルがおり、表鳥居の写真撮影や細部を見て廻れませんでした・・・
機会があれば、表鳥居をゆっくりと見て廻ったり「梅まつり」の時期にあわせて立ち寄ってみたいと思います。- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 最寄り駅は、東京メトロ千代田線・湯島駅です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 受験シーズン外の平日は、閑散としていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 湯島駅方面の境内東側は、敷地に高低差(階段)があります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 梅園と境内南側の表鳥居(東京都指定有形文化財)がお勧めです。
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煉瓦主体の建物物として国内最大規模となる南北総延長335メートルの巨大駅舎です!
投稿日 2021年04月12日
総合評価:4.0
『東京駅 赤レンガ駅舎』建設までの経緯は、日本初の鉄道となる「新橋駅」を起点に「横浜駅(現・桜木町駅)」までの区間を1872年(明治5年)に「官設鉄道」(国鉄)が開業してから、1883年(明治16年)に日本初の私鉄「日本鉄道」が「上野駅」を起点に「熊谷駅」までの区間を開業するなど日本国内に鉄道網が整備されていく中で、東京市区改正計画の一環として1889年(明治22年)に官民それぞれの起点駅となる「新橋駅」と「上野駅」を結ぶ新たな高架鉄道建設計画が定められ、その翌年に途中駅として「中央停車場(現・東京駅)」を設置する訓令が発せられ、「日清戦争」終結後の1896年(明治29年)に「中央停車場(現・東京駅)」の建設費が国会(帝国会議)で可決されたことが始まりとなります。
その後の1904年(明治37年)から1905年(明治38年)に勃発した「日露戦争」に勝利したことも加わり”日本にふさわしい、世界があっと驚くような駅を”という要望の中で日本建築界の近代建築の巨匠と称される建築家「辰野金吾」の設計により1908年(明治41年)から「中央停車場」として駅舎建設が着工後、1914年(大正3年)に『東京駅 赤レンガ駅舎』として開業しています。
皇居に向かって西側を正面とする『東京駅 赤レンガ駅舎』開業当時の建物概要は、鉄骨煉瓦造・スレート葺(地上3階・一部地下1階建て)となる南北方向の総延長およそ335メートルにもおよぶ長大な建築物(建築面積7,821.39平方メートル)であり煉瓦を主体とする建築物としては国内最大規模となります。
その他に建物基礎部分には、約11,000本にもおよぶ松丸太杭(長さ5.5メートルから7.3メートル程度)を55センチメートルから66センチメートル間隔で蒸気杭打ち機械を用いて地中に打ち込み、その松丸太杭上部に2層のコンクリート基礎(延べ厚さ1.32メートル)さらに2層の花崗岩(延べ厚さ68センチメートル)を重ねた上に鉄骨柱を建てるなど建物各所に使用した鉄骨部材の総重量が約3,135トンとなる堅牢な建築物となっており、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」においても特に被害を受けることはありませんでした。
しかし、「太平洋戦争」末期となる1945年(昭和20年)5月25日の空襲による火災が原因で、コンクリート造の床とレンガ造の壁部分が残ったものの鉄骨造の屋根と3階部分さらに内装部分の大半が焼失し、終戦直後から「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」の要求など制限のある中で本格的に復旧計画が進められその年の年末から1947年(昭和22年)に復旧工事が実施され、開業当時と異なる意匠の2階建ての駅舎となったほか南北両側にあった丸形ドーム屋根も八角台形に変更されていますが、2003年(平成15年)になると意匠的・歴史的価値が高いと評価され国の「重要文化財」に指定されています。
その後の2007年(平成19年)から2012年(平成24年)にかけて大規模な復元工事により、開業当時の3階建ての建築物として南北両側の丸形ドーム屋根が復元されるとともに駅舎の免振化工事が実施されています。
今まで東京駅を利用しても足を止めてじっくりと『東京駅 赤レンガ駅舎』を見て廻ることがありませんでしたが、今回は大手町周辺を訪れた際に少し時間があったので皇居に通じる「行幸通り」や「東京駅丸の内駅前広場」に立ち寄り、復元工事完了後の『東京駅 赤レンガ駅舎』外観を見て廻り、改めて南北方向の総延長およそ335メートルの巨大駅舎に圧倒されました。
また、立ち寄ったのが平日の午後でしたが『東京駅 赤レンガ駅舎』周辺は観光と思われる方の写真撮影やウエディング用の記念写真撮影する方などを見かけ、開業当時から日本の首都東京を代表する建築物であることを実感しました。
今回は駅舎の内観まで見て廻れませんでしたが、駅舎内部はいつも人通りが多いので邪魔にならない程度で機会があれば駅舎の内観もゆっくりと見て廻りたいと思います。
その他に『東京駅 赤レンガ駅舎』内にある「東京ステーションホテル」も利用してみたいです・・・- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 東京駅の丸の内側(皇居側)の駅舎です。
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 常に人の出入りがあります。
- バリアフリー:
- 4.0
- 駅前広場に段差はありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 南北総延長335メートルの巨大駅舎です。
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投稿日 2021年04月10日
総合評価:4.0
『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』は、「新宿御苑」北側エリアの東側「大木戸門」から西側「旧新宿門」まで総延長およそ540メートルとなる区間を3工区に分割して、2009年度(平成21年度)に「大銀杏区間」(およそ240メートル)の整備を開始してから2010年度(平成22年度)に「大木戸区間」(およそ120メートル)さらに2011年度(平成23年度)に「旧新宿門区間」(およそ180メートル)までを3年間にわたり整備して、江戸時代にこの地を流れていた「玉川上水」の面影を次世代に継承することをコンセプトに再現した散策路です。
「玉川上水」は、江戸時代に大都市化する江戸府内の生活用水を確保するために多摩川上流の羽村(現在の羽村市)を「取水堰」として徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1653年(承応2年)に開削された水路であり、「四谷大木戸」(現在の四谷4丁目交差点付近)までの全長およそ42.7キロメートル(高低差およそ92.3メートル)区間の地上部分を開渠とした水路で生活用水となる上水を流し、「四谷大木戸」以降の区間は地中部分に樋(木樋、石樋)を用いた暗渠として当時の江戸府内に上水が供給されています。
「内藤新宿」については、「徳川家康」が江戸に入府した翌年となる1591年(天正19年)に徳川家の家臣で「徳川秀忠」(後の第2代将軍)の守役を務めた「内藤清成」の長年にわたる功績が認められ、現在の「四谷」から「代々木」までの東西区間と「千駄ヶ谷」から「大久保」までの南北区間におよぶ広大な敷地を「徳川家康」から賜り、その地名が「内藤町」と呼ばれるようになったことが始まりとされています。
その後の1604年(慶長9年)に「日本橋」を起点として定められ「五街道」のひとつに数えられるようになった「甲州街道」最初の宿場「高井戸宿」までの距離が「日本橋」から約4里であり、その他の「五街道」最初の宿場と比較するとその距離が約2倍と長かったため、徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1698年(元禄11年)に「日本橋」と「高井戸宿」の中間地点であり「甲州街道」から分岐する「成木街道(青梅街道)」の起点となる「新宿追分」付近の内藤家が賜わっていた広大な下屋敷の一部を徳川幕府に返還することにより、町屋や馬継ぎの施設を設けた新たな「甲州街道」最初の宿(新宿)が設置され「内藤新宿」と呼ばれるようになっています。
ちなみに現在の「新宿御苑」は、1691年(元禄4年)より幕末まで高遠藩(現在の長野県伊那市)の藩主を勤めた内藤家の「四谷荘」と呼ばれていた下屋敷跡であり、「新宿御苑」の『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』に再現された「玉川上水」は、散策路の地下部分を通る「甲州街道(国道20号)・新宿御苑トンネル」内の共同溝に湧出していた地下水を水源として活用するための約100トンの水を貯留できる地下水槽を設けてポンプアップ方式により地上部分の水路に循環させて流し、水路周辺を武蔵野の雑木林等に生育する草木類を主体に四季の変化が楽しめる多様な植栽が配置されており、2010年(平成22年)に「第26回 都市公園コンクール」(材料・工法・施設部門:大規模施設)において「国土交通大臣賞」を受賞しています。
今回は、「新宿御苑」周辺を訪れた際に『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』に立ち寄りました。
『玉川上水 内藤新宿分水散歩道』は、「新宿御苑」内の和洋式によるさまざまな庭園が整備されている有料エリアと異なり、誰でも気軽に立ち寄ることができる無料エリアとなっており、大銀杏などの樹木とあわせて水路周辺の草木類など多様な植栽で囲まれていて雑木林の中にいるような都会の中であることを感じさせない”やすらぎの空間”に癒されました。
機会があれば、「新宿御苑」エリアを訪れた際にまた立ち寄りと感じるお薦めの散歩道です。- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 東京メトロ・新宿御苑前駅の1番出入口から徒歩1分程度(約60メートル)です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後でしたが、数名の方を見かけるていどでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 散歩道に段差はありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 江戸時代の玉川上水をイメージして再現された水路周辺に草木類など多様な植栽で囲まれていている”やすらぎの空間”です。
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投稿日 2021年03月29日
総合評価:4.0
『法明寺』は、現在の豊島区南池袋3丁目に位置する山号を「威光山」と号する日蓮宗の寺院であり、もともとは真言宗の「威光寺」として平安時代初期となる第52代「嵯峨天皇」の時代にあたる810年(弘仁元年)に開創しています。
開創したのちの鎌倉時代後期である1312年(正和元年)になると、日蓮宗の宗祖である「日蓮聖人」の直弟子として中老僧のひとりに数えられる「日源上人」により日蓮宗に改宗された歴史ある寺院です。
ちなみに「日源上人」は、天台宗の「岩本實相寺」(駿河国)で学問をする僧たちの監督など学事に関することを統括する「学頭職」とされる学業の高い知徳の広い「智海法印」と称する名僧であり、「日蓮聖人」に帰依して「日源」の名を賜ったのちに中老僧のひとりとして『法明寺』改宗のほか各地を行脚して日蓮宗の布教活動を行っています。
『法明寺』本堂のある境内の建物は、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」および1945年(昭和20年)の「太平洋戦争」による被災を受けてすべて焼失しており、現在の『法明寺』本堂をはじめとした境内にある建物は、本堂が1959年(昭和34年)に再建、書院が1963年(昭和38年)に再建、山門ならびに鐘楼堂が1968年(昭和43年)に再建されたものです。
また、『法明寺』山門から約200メートルほど離れた現在の豊島区雑司ヶ谷3丁目にある「鬼子母神堂(きしもじんどう)」は『法明寺』の飛地境内であり、室町時代後期(戦国時代)の1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土したとされる「鬼子母神像」を祀る草堂が安土桃山時代である1578年(天正6年)に村人により建立されたと伝えられています。
現存する「鬼子母神堂」本殿部分は、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)に建立されたものであり、本殿とつながる拝殿と相の間(幣殿)部分は徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に増築された江戸時代の建造物であり、歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され2016年(平成28年)に国の「重要文化財」に指定されています。
今回は、東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から池袋方面に徒歩で向かう機会があり途中で『法明寺』飛地境内となる「鬼子母神堂」と『法明寺』山門から本堂と鐘楼堂に立ち寄ることにしました。
「雑司ヶ谷駅」1番出入口から「鬼子母神大門」を通り徒歩5分程度(およそ350メートル)の場所に位置する「鬼子母神堂」とさら徒歩3分程度(およそ200メートル)の場所に位置する『法明寺』の周辺は、JR山手線の内側に位置する「池袋駅」からも徒歩圏内のエリアですが、1956年(昭和31年)に東京都の「天然記念物」に指定されたほか2018年(平成29年)に豊島区の「景観重要樹木」第1号にも指定されている推定樹齢が600年以上とされる「雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ」が「鬼子母神堂」境内に存在するほか、1940年(昭和15年)に当時の東京府により「天然記念物」に指定された推定樹齢400年以上とされる東京都所有の「ケヤキ」とあわせて豊島区所有の「ケヤキ」の若木で構成されているおよそ100メートルにおよぶ「鬼子母神大門のケヤキ並木」、『法明寺』本堂のある境内も昭和の時代に再建された建物ですがサクラの木をはじめ建物と整備された植栽が調和のとれた空間となっており、多くの樹木に囲まれた都会のイメージとは程遠い静かな住宅地が広がる癒しのエリアとしてお勧めできるスポットです。
機会があれば、サクラの咲く春先の季節に『法明寺』本堂のある境内とあわせて飛地境内となる「鬼子母神堂」のエリアを散策してみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅の1番出入口から徒歩8分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後に立ち寄りましたが本殿のある境内に人はいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.5
- 山門部分に段差があります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 本堂などの建物は、昭和の時代に再建されたものですが、整備された植栽と調和のとれた空間となっています。
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投稿日 2021年03月23日
総合評価:3.5
『湯島聖堂 孔子銅像』は、1975年(昭和50年)に「中華民国台北ライオンズクラブ」から寄贈されたもので、文京区湯島1丁目に位置する『湯島聖堂』敷地内に設置されている世界最大の『孔子銅像』(丈高4.57メートル、重量約1.5トン)です。
「儒教」の創始者である『孔子』については、世界の偉大な思想家としてインドの「釈迦」・ユダヤの「イエス・キリスト」・古代ギリシアの「ソクラテス」とともに「四聖人」に数えられている人物であり、近隣諸国間での争いが盛んであった春秋時代末期となる紀元前552年(紀元前551年説もあり)に現在の「中華人民共和国(中国)」東部の黄海に面する「山東省」(当時の魯国・昌平郷)で生まれ、紀元前479年に逝去するまでの74年間にわたる生涯を全うしています。
ちなみに『孔子』が生存していた当時の日本国内は、縄文時代晩期から弥生時代早期となる「第2代・綏靖(すいぜい)天皇」から「第4代・懿徳(いとく)天皇」の時代となります。
思想家の『孔子』が自身の弟子たちと交わした問答については、『孔子』の死後およそ400年の歳月をかけて「論語」として編纂されており、その思想は戦国中期の「孟子」のほか戦国末期の「荀子」などにより継承され、2000年以上にわたり正統な思想として各地に浸透しています。
その『孔子』が唱えた「儒教」には、「五常」の徳目「仁・義・礼・智・信」を守ることで「五倫」とされる「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の関係を維持するなど武力による支配を批判し、上下の秩序を守り徳によって政治をおこなうといった思想があり、定かではありませんが日本国内には「仏教」よりも早く「第26代・継体(けいたい)天皇」の時代となる513年に伝来したとされ、その後に伝来した「仏教」の信仰とともに僧侶のたしなみとして「儒教」の思想が日本国内に浸透していきますが、江戸時代になると学問としての「儒学」として捉えられるようになり、1690年(元禄3年)に「儒学」の振興を図ることを目的とした徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」により、「湯島聖堂」が現在の地に創建されています。
徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)になると私塾の学問所であった「湯島聖堂」が徳川幕府直轄教学機関となる「昌平坂学問所(通称:昌平校)」となり、幕末後の1871年(明治4年)に「儒学」の学問所としての歴史に幕を閉じて文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策が講じられるようになっています。
さらに1922年(大正11年)になると「湯島聖堂」が国の「史跡」に指定されますが、翌年に発生した「関東大震災」により1799年(寛政11年)に改築された「湯島聖堂」敷地内に建つ各所施設の大部分が焼失し、現在の敷地内に建つ建物のほとんどが1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
今回は、お茶の水周辺を訪れた際に久しぶりに「湯島聖堂」に立ち寄りましたが、敷地内には世界最大の『孔子銅像』のそばに『孔子』の墓所(中国山東省・曲阜)に今も植えつがれている楷(かい)の木の子孫とされる大木があるほかに「湯島聖堂」のメインの建物となる「大成殿(孔子廟)」など『孔子』にまつわる見どころが多数あります。
「湯島聖堂」敷地内は、日本の神社・仏閣と異なる独特で神聖な異国の雰囲気が感じられる空間が広がりお薦めの観光スポットです。
なお「大成殿(孔子廟)」の内部には、『孔子像』をはじめに『孔子』の高弟とされる四賢像の「孟子像」、「顔子像」、「曾子像」、「子思像」などが祀られており、平日を除く土曜・日曜・祝日のみ「大成殿(孔子廟)」内部が公開されて拝覧可能となりますので土曜・日曜・祝日に立ち寄ることをお勧めします。(入場無料です)
今回は平日に立ち寄ったので「大成殿(孔子廟)」内部に入ることができませんでした。
機会があれは、土曜・日曜・祝日および「孔子祭」(4月第4日曜)などの行事が開催される日にあわせて立ち寄ってみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐの湯島聖堂敷地内にあります。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後でしたが、ほとんど人はいませんでした。
- バリアフリー:
- 2.5
- 敷地内は高低差があり石段があります。
-
投稿日 2021年03月21日
総合評価:4.0
『田安門』は、江戸時代初期である徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代に完成したとされる「江戸城」を囲むように整備された外濠および内濠の要所に設置された城門のひとつであり、その中でも「江戸城」と全国各地を結ぶ主要街道に通じる要衝の城門として「江戸五口」に数えられます。
ちなみに「江戸五口」に数えられている城門は、上州道に通じる『田安門』のほかに外郭の正門であった奥州道に通じる「常盤橋門」、将軍が菩提寺である「上野寛永寺」や「日光東照宮」に参詣する際に使用した「神田橋門(芝崎口)」、甲州道に通じる「半蔵門」、小田原道(東海道)に通じる「外桜田門」とされています。
この『田安門』は、「江戸城・北の丸」の北側(外側)に面する「高麗門」の内側に石垣で周囲を囲むよう桝形に積み上げた四角形の空間を配置した西側に「高麗門」と直交する「渡櫓門」が設けられている防御性の高い「枡形門」と呼ばれる二重城門で構成されています。
『田安門』の創建は定かではありませんが、徳川幕府第2代将軍「徳川秀忠」の時代である1607年(慶長12年)に焼失した記録が残されいるほか、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代である1629年(寛永6年)に越前福井藩主「松平忠昌」によって修覆された記録があり、「高麗門」の扉にある肘壷金具に刻銘されている年代から同じく徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代である1636年(寛永13年)に再建された建造物とされており、現存する旧・「江戸城」の建築遺構の中では徳川幕府第4代将軍「徳川家綱」の時代となる1657年(明暦3年)に発生した「江戸三大大火」に数えられる「明暦の大火(振袖火事)」以前に遡ることのできる唯一の文化遺産であり、1961年(昭和36年)に国の「重要文化財(建造物)」に指定されています。
『田安門』を含む旧・「江戸城・北の丸」エリアは、「日本武道館」・「科学技術館」・「国立近代美術館」などの文化施設を備えた敷地内を1969年(昭和44年)に昭和天皇の還暦を記念して里山の木々などを整備した森林公園となる「北の丸公園」として一般に公開され、『田安門』が「北の丸公園」の「靖国通り(都道302号)」からの北側出入口となっており、通行可能な旧・「江戸城」最古の現存する建築遺構として重厚な城門をいつでも間近で見ることができます。
『田安門』へのアクセスは、東京メトロ・東西線および半蔵門線、都営地下鉄・新宿線「九段下駅」2番出入口から徒歩3分程度(約200メートル)となります。
今回は、九段エリアを訪れた際に久しぶりに『田安門』から「北の丸公園」に立ち寄り、短時間でしたが「北の丸公園」内のモクレンなどの花木を見て廻り癒されました。
地下鉄「九段下駅」から『田安門』に向かう「靖国通り」(九段坂)沿いの「牛ヶ淵」から『田安門』の先に続く「千鳥ヶ淵」の外濠は、ソメイヨシノの花見の名所でもあり、サクラの咲く季節は花見とあわせてな旧・「江戸城」の歴史探訪にお薦めできます。
機会があれば、『田安門』とあわせて同じく「北の丸公園」にあるる旧・「江戸城」城門で国の「重要文化財(建造物)」に指定されている「清水門」にも足を運んでみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2021年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 地下鉄・九段下駅の2番出入口から徒歩3分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 常に人の通りがありますが、日本武道館でイベントが開催されるとき以外に込み合うことはありません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 段差はありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 現存する旧・江戸城最古となる建築遺構の城門で間近で手に触れてみることができる国指定の重要文化財です。
-
国内初の日本人建築家の設計による本格的西洋風石造建築物です!
投稿日 2021年03月15日
総合評価:4.0
『日本銀行』は、1882年(明治15年)に制定された「日本銀行条例」に基づき設立した中央銀行であり、日本で唯一の流通貨幣を発行する発券銀行として現在の中央区日本橋箱崎町に位置する「日本橋川」の終点で「隅田川」に合流する場所に架かる「豊海橋」の袂にあった「旧北海道開拓使物産売捌所」を明治政府から借用しての仮店舗として開業しています。
その後の1896年(明治29年)に当時の「大蔵省(現:財務省)」および「大蔵省紙幣寮(現:国立印刷局)」のほか金融機関が集中していた利便性のよい現在の中央区日本橋本石町に移転し、本店として現在では「旧館(本館・2号館・3号館)」、「新館」、「分館」の各建物で構成されています。
『日本銀行』本店において最も古い建築物となる「旧館(本館)」(地上3階・地下1階)は、現在の地に移転した当時の建築物であるとともに国内初の日本人建築家の設計による本格的西洋風石造建築となる国家的な建築プロジェクトとして竣工した日本建築史の中でとても重要な建築物です。
この「旧館(本館)」設計者は、明治期の近代建築の巨匠とされる建築家「辰野金吾」によるもので、建設当時としては最先端の設備となる水洗トイレ、エレベーター(国内での設置は「浅草凌雲閣」に次ぐ2例目)のほかにスチール製サッシ・シャッターなど外国製品が多数採用されています。
また、設計当初に総石造建築として工事着工してから約1年が経過した1891年(明治24年)に岐阜県で発生した日本史上最大の内陸地殻内地震とされる「濃尾地震」の教訓をもとに耐震性を高めるために建物上層階を軽量化する工法に設計変更され、地下から1階までが花崗岩による石造、2階部分をレンガ造・3階部分が穴あきレンガを用いて軽量化を図りながら、2階から上部のレンガ外壁面に安山岩の石板貼りとする工法が採用され建物外観に違和感を感じさせない総石造建築と変わらない重厚な意匠に仕上げ約5年5か月の工事期間を要した末に竣工しています。
竣工後の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」では、近隣で発生した火災の飛び火により建物中央部分のドーム屋根のほか内装の過半を焼失しましたが、地震の揺れによる大きな損傷はありませんでした。
その他に太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の「東京大空襲」などでも大きな損傷に見舞われることなく、1974年(昭和49年)になると国の「重要文化財」に指定されています。
今回は、大手町周辺を訪れた際に『日本銀行』前に立ち寄り「旧館(本館)」の外観を写真撮影しましたが、威厳のある重厚な外観は見ごたえがあります。
『日本銀行』本店では、事前予約制による「旧館(本館)」などの解説付き・見学ツアーが開催されているとのことなので、機会があれば見学ツアーに参加して「旧館(本館)」の建物内部や細部などを見て廻りたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ半蔵門線・三越前駅(B1出口)より徒歩1分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後でしたが、本館前を歩いている人はほとんどいませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 外観を見て廻るのに段差はありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 国の重要文化財に指定されています。
-
投稿日 2021年03月07日
総合評価:4.0
『東京都庁舎展望室』は、1898年(明治31年)から1965年(昭和40年)までの67年間にわたり「東京の近代水道発祥の地」として日本の首都である大都市東京に上水を供給し続けた「旧淀橋浄水場跡地」を含む西新宿エリアの約56ヘクタールにおよぶ広大な敷地に超高層ビル(高さ100メートル以上)群による商業施設などを集中させる「新宿副都心計画事業」により開発がスタートした「新宿副都心(現在の新宿新都心)再開発地域」の4号地となる西新宿2丁目に建設当時としては日本一高い建築物として1990年(平成2年)に竣工した『東京都庁・第一本庁舎』の地上33階部分から上部階が北棟と南棟に分かれている北棟と南棟のそれぞれ45階部分となる地上高さ202メートルの2か所に「北展望室」と「南展望室」として設置されています。
ちなみに『東京都庁舎』は、日本を代表する8社の設計事務所による「指名設計コンペ」が実施され1986年(昭和61年)に「丹下健三都市・建築設計研究所」の設計案が採用された建物であり、その建物概要は「再開発地域・4号地」に「第一本庁舎」(地上48階・地下3階建て、高さ243.4メートル)、「再開発地域・1号地」に「第二本庁舎」(地上34階・地下3階建て、高さ163.3メートル)、「再開発地域・5号地」に「都議会議事堂」(地上7階・地下1階建て、高さ41.0メートル)の3棟と「都民広場」(再開発地域・5号地)で構成され、現在も「新宿新都心」の超高層ビル群の中で一番高い建物となっています。
今回は、平日の午後に西新宿の超高層ビル群が建ち並ぶ「新宿新都心」エリアを散策して廻り久しぶりに『東京都庁舎展望室』(北展望室)に立ち寄りました。
『東京都庁舎展望室』へのアクセスは、「第一本庁舎」1階正面出入口の左右に設置されている直通の速度240メートル/分の「展望室専用エレベーター」に乗り約55秒で誰でも簡単に無料で展望室を利用することができます。
(「第一本庁舎」1階正面出入口から建物内に入り右手側が「北展望室専用エレベーター」、左手側が「南展望室専用エレベーター」となります。)
訪れた際は、新型コロナウイルス感染予防対策として「展望室専用エレベーター」に乗る前にマスク着用の確認と検温の実施とあわせて、テロ防止対策として手荷物検査がありましたが、展望室の利用者がほとんどいなかったため行列も出来ずスムーズに「展望室専用エレベーター」に乗り展望室まで行くことができました。
また、天気も良く地上202メートルとなる展望室からの「新宿新都心」の超高層ビル群および都心の眺望をゆっくりと堪能することができました。
『東京都庁舎展望室』は、天井高が高くフロア全体に間仕切り壁のないゆったりとした空間でベンチなども配置されており、くつろぎながら360度大きな窓から都心の眺望が楽しめる「新宿新都心」のお薦めの観光スポットです。
機会があれば、西新宿エリアを訪れた際にまた立ち寄りたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- JR新宿駅西口から徒歩10分程度です。(最最寄り駅:都営地下鉄大江戸線・都庁前駅)
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 北展望室には20名程度の人がいました(平日の午後)。
- バリアフリー:
- 4.0
- 庁舎なのでバリアフリー対策は、しっかりしています。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 新宿新都心・超高層ビル群および都心の眺望を360度堪能することができました。
-
投稿日 2021年02月28日
総合評価:4.0
『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』は、現在の豊島区雑司ヶ谷3丁目に位置する「鬼子母神像」を祀る「鬼子母神堂(きしもじんどう)」の境内(豊島区南池袋3丁目に位置する日蓮宗「威光山 法明寺」の飛地境内)に生育する推定樹齢が600年以上、樹高が約30メートル、幹周が約8メートルの巨大な樹木です。
東京都内に現存するイチョウの中では、港区元麻布1丁目に位置する「麻布山 善福寺」のイチョウに次ぐ巨木とされており、1956年(昭和31年)に東京都の「天然記念物」に指定されたほか、2018年(平成29年)に豊島区の「景観重要樹木」第1号にも指定されています。
ちなみに『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』が生育する「鬼子母神堂」は、室町時代後期(戦国時代)となる1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土した「鬼子母神像」を現在の「法明寺」内の一寺院であった「東陽坊」(後に「大行院」と改称)の一画に祀ったのがはじまりとされ、その後の安土桃山時代となる1578年(天正6年)に村人により草堂が建立されたと伝えられています。
『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』については、「鬼子母神堂」で祀られている「鬼子母神像」が出土される以前の室町時代前期となる室町幕府第3代将軍「足利義満」・第4代将軍「足利義持」・第5代将軍「足利義量」の時代となる「応永年間」(1394年から1428年)に僧侶によって植樹されられたと伝えられています。
また、江戸時代前期の徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)に現在の「鬼子母神堂」の本殿部分が建立され、徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に本殿とつながる拝殿と相の間(幣殿)が増築されており、「鬼子母神像」が「安産・子育の守り神」として江戸庶民から武家まで多くの信仰を集めるとともに「子授けイチョウ」として『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』に抱き着くと子宝に恵まれる「鬼子母神堂」の御神木とされたいました。
今回は、10月と11月の2回に渡り平日の午後に東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から池袋方面に徒歩で向かう機会があり、その途中で「鬼子母神堂」に立ち寄りました。
「雑司ヶ谷駅」1番出入口から「鬼子母神大門」を通り5分程度(およそ350メートル)の場所に位置する「鬼子母神堂」の周辺は、『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』のほかに「鬼子母神大門」から約100メートルの区間に推定樹齢が400年以上の樹木が含まれるケヤキ並木が続き1940年(昭和15年)に東京都の「天然記念物」に指定された「鬼子母神大門のケヤキ並木」など樹木に囲まれた静かな住宅街の中に広がる癒しのエリアとなっています。
現在の『雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ』周囲は、柵で囲われているため樹木に直接触れることがでませんが、太い幹が真っすぐ空に向かって伸びるその大きさには圧倒されます。
立ち寄った際は、紅葉のピーク前でしたがこのイチョウは雄株であり実をつけることがありませんので、銀杏の実特有の臭い匂いがありません。
境内はひっそりとしていましたが地元の人と思われる方々などの参拝者が入れ替わり訪れていました。また、樹木に囲まれているので夏場の夕涼み場所としても最適だと思います。
機会があれば、雑司ヶ谷周辺を訪れた際にまた立ち寄りたいと思います・・・
そのほかに本殿と拝殿・相の間(幣殿)とで異なる特徴を持つ江戸時代の建造物であることから歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され2016年(平成28年)に国の「重要文化財」に指定された「鬼子母神堂」は、見どころとしてお勧めできます。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅1番出入口から徒歩5分程度です。
- 景観:
- 4.0
- 東京都天然記念物および豊島区景観重要樹木(第1号)に指定されています。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 地元の方と思われる人方々の参拝者が入れ替わり訪れていました。
- バリアフリー:
- 4.0
- 境内は平坦ですが、鬼子母神堂に参拝する際は段差があります。
-
ガラス大屋根で覆われた130メートルを超える吹き抜けが特徴的な超高層ビルです!
投稿日 2021年02月21日
総合評価:4.0
『新宿NSビル』は、「旧・淀橋浄水場」のあった跡地を含む西新宿エリアの約56ヘクタールにおよぶ広大な敷地に超高層ビル(高さ100メートル以上)群による商業施設を集中させる「新宿副都心計画事業」により開発がスタートした西新宿2丁目の日本最大級となるオフィス街「新宿新都心」の一画に最初の超高層ビルとなる「京王プラザホテル」(地上47階、地下3階、高さ178メートル)が1971年(昭和46年)に竣工してから数えて10棟目の超高層ビルとして1982年(昭和57年)に竣工した複合商業ビル(地上30階、地下3階、高さ133メートル)となります。
ちなみに建物名称の”NS”とは、2社による共同事業として建設された建物であることから事業主である「日本生命」(建物持分比率:55%)および「住友不動産」(建物持分比率:45%)のそれぞれ社名であるアルファベットの頭文字が用いられています。
「新宿新都心」に建設されている高さ200メートル級の超高層ビルが建ち並ぶ中で高さ133メートルとこのエリアでは決して高いとはいえない『新宿NSビル』の外観形状は、平面および立面がともに四角形であり外装仕上げも目を見張る様な特徴も見られず地味な建物に感じますが、建物内部に入ると中央部分が1階から最上階屋上まで達する130メートル超えの吹き抜けアトリウム空間が構成されており、その屋根部分を鋼管立体トラス構造によるガラス大屋根で覆い自然採光を建物内に取り込むことによる照明負荷の低減など省エネルギー型ビルとして設計段階から環境に配慮した建物となっています。
また、建物外観と異なり建物内部の29階部分には吹き抜けアトリウム空間を横断する歩行用ブリッジが設置されいるほかに吹き抜けアトリウム空間の壁面に「ギネスブック」にも認定されている世界最大級の振り子時計「ユックリズム振り子時計」が設置されているなど特徴的な内部空間が構成されています。
そのほか『新宿NSビル』は、1982年度(昭和57年度)に日本国内で最も権威ある建築の賞となる「日本建築学会賞(作品)」を受賞したほか、1984年度(昭和59年度)に「第25回 BCS賞」を受賞(現在の「日本建設業連合会」が表彰する名誉ある賞、受賞した当時の団体名は「建築業協会(通称:BCS)」)、1985年度(昭和60年度)に現在の「サステナブル建築賞」の前身となる「第1回 建築省エネルギー賞・建設大臣賞」を受賞(現在の「建築環境・省エネルギー機構」、受賞した当時の団体名は「住宅・建築省エネルギー機構」)するなど各種業界団体によるさまざまな視点から評価されている建物です。
『新宿NSビル』には竣工して2年目くらいの時に訪れたことがありましたが、今回は西新宿の超高層ビル群が建ち並ぶ「新宿新都心」エリアを散策しながら現在の『新宿NSビル』がどのようになっているのか少し気になり立ち寄ってみることにしました。
平日のランチタイムが過ぎた午後でしたので、建物内のオフィスで勤務していると思われる方々が建物内を出入りする程度で1階アトリウムは閑散としていました。
以前訪れた際は、29階と30階が「スカイレストラン街」となっていましたが、「展望エレベーター」(29階・30階専用)を利用して最上階の30階にいくと30階部分が「スカイカンファレンス(会議室)」になっており「スカイレストラン街」は29階のみでした。
29階の「スカイレストラン街」も平日のランチタイムが過ぎた時間帯であったため営業している店舗も少なく閑散としおり寂しさを感じました。
また、休日ランチライムの時間帯がどのような状況であるのか気になりましたので、機会があれば、休日ランチライムの時間帯にあわせてどのような状況になっているか確認しに立ち寄ってみたいと思います・・- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 4.0
- 東京都庁・第二庁舎の東側に位置します。
- 雰囲気:
- 4.0
- 建物内部の1階から最上階屋上まで達する130メートル 超えの吹き抜けアトリウム空間は圧巻です。
- バリアフリー:
- 4.0
- 建物敷地と隣接する道路歩道部分に高低差がありますが、スロープが設置されています。
- 観光客向け度:
- 4.0
- スカイレストラン街(29階)に吹き抜けアトリウム空間を横断する歩行用ブリッジが設置されています。
-
投稿日 2021年02月14日
総合評価:3.5
『楠木正成銅像』は、皇居の前庭となる皇居前広場を中心に「国民公園」として1949年(昭和24年)に開放された「皇居外苑」南東側の一角に「二重橋」を正面に見据えるように設置されている銅像本体高さ約4メートル(台座を含めた高さ約8メートル)・銅像本体重量が約6.7トンの騎馬像です。
『楠木正成』の出自については不祥ですが、「河内国」(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)が生誕地とされ、鎌倉時代末期から南北朝時代の激動期に「後醍醐天皇」に奉じて鎌倉幕府討伐から南朝側の忠臣として貢献し、日本史上屈指の忠臣として名高い武将のひとりです。
「皇居外苑」に建つ騎馬像は、1331年(元弘元年)の「元弘の乱」で鎌倉幕府に大敗し日本海に浮かぶ「隠岐の国」(現在の島根県隠岐郡)に島流しとなっていた「後醍醐天皇」が1333年(元弘3年)に「隠岐の国」から脱出してきたところを兵庫の道筋でお迎えした『楠木正成』の勇姿をかたどったものとされています。
この『楠木正成銅像』の制作については、徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1690年(元禄3年)に現在の愛媛県新居浜市の南側に位置する赤石山系の旧・別子山村に良好な鉱脈があることわかり、その翌年に「住友財閥」の大躍進の礎となる「別子銅山」の採鉱を開始されてから開坑200年を迎えた1891年(明治23年)に住友家が記念事業として「東京美術学校」(現在の東京藝術大学)に依頼したもので、「別子銅山」で採鉱された銅を用いて10年の歳月を費やし1901年(明治33年)に完成したのち宮内庁へ献納されています。
ちなみに「別子銅山」は1973年(昭和48年)に閉山していますが、江戸時代から昭和の時代までの282年間に採鉱された銅の総重量が約65万トンといわれ、坑道の深さが日本国内では人間が到達した最深部とされる海抜マイナス1,000メートルに達しているほか坑道の総延長が約700キロメートルにもおよぶ世界でも有数の銅鉱山でした。
そのほか『楠木正成銅像』は、日本初の西洋式銅像として1893年(明治26年)に制作され「靖国神社」境内にある「大村益次郎銅像」ならびに1898年(明治31年)に制作され「上野恩賜公園」にある「西郷隆盛銅像」とともに「東京の三大銅像」と称されています。
今回は、平日に有楽町周辺を訪れた際の日没まもない夕方でしたが「皇居外苑」に立ち寄りました。
東京メトロ・千代田線「二重橋前駅」B6出入口のある「馬場先門交差点」から徒歩3分程度(およそ300メートル)に位置しますが、『楠木正成銅像』周辺を歩いている人はほとんどいませんでした。
10年の歳月を費やして制作された甲冑を纏い凛々しい表情の躍動感のある精密な騎馬像を目の当たりにするとその大きさに圧倒されました。
機会があれば、『楠木正成銅像』のほかにクロマツが点在し開放的な芝生が広がる「皇居外苑」を散策してみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ千代田線・二重橋前駅B6出入口から徒歩3分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の日没まもない夕方でしたが、ほとんど人はいませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 銅像の周囲は広く段差も無く、ぐるりと一周できます。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 高さ約4メートルの甲冑を纏い凛々しい表情の躍動感のある精密な騎馬像です。
-
都会の中に居ながら樹木に覆われて街中の雑踏を感じさせない公園です!
投稿日 2021年02月07日
総合評価:4.0
『東池袋中央公園』は、1978年(昭和53年)から段階的にオープンした複合商業施設「サンシャインシティ」北側の一画となる豊島区東池袋3丁目に位置する敷地面積が5,993.61平方メートルの国有地であり、豊島区が無償貸付を受けて1980年(昭和55年)に開園した区立公園です。
「サンシャインシティ」を含めた『東池袋中央公園』一帯の敷地は、1895年(明治28年)に現在の中央区佃島あった「石川島監獄」の移転により「巣鴨監獄(巣鴨刑務所)」が設立された場所であり、第二次世界大戦後となる1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間に渡り「連合国最高司令官総司令部(GHQ)」により接収され「巣鴨プリズン」として戦争犯罪容疑者が施設内の拘置所に収容されるとともにA級戦犯者7名およびBC級戦犯者52名の死刑が施設内の処刑場で執行されています。
1952年(昭和27年)に「サンフランシスコ講和条約」が発効されたことにより、再び日本に移管された「巣鴨刑務所」が「東京拘置所」となった後の1971年(昭和46年)に現在の葛飾区小菅への移転に伴い、「巣鴨プリズン・拘置所」跡地部分が民間活力による大規模再開発事業として国有地から民間の「新都市開発センター(現在:サンシャインシティ)」に払い下げられ、「巣鴨プリズン・処刑場」跡地部分が『東池袋中央公園』として整備されています。
今回は、平日の午後に東池袋エリアを訪れた際に久しぶりに数回(10月と11月)に渡って公園内に立ち寄りました。
『東池袋中央公園』の配置は、敷地の南西側に「サンシャイン60ビル」および南東側に「サンシャインシティプリンスホテル」と隣接しており、敷地の北西側と北東側の2方向が道路に面していますが、北西側の道路に面した公園正面となる出入口部分に北アメリカ原産の落葉樹「ラクウショウ」(和名:ヌマスギ)の計24本を幾何学的な列植(4列×6本)とした特徴のある植栽をはじめ敷地周囲をモッコクやヤマモモ、マテバシイなど高木の樹木で覆い都会の中に居ながら街中の雑踏を感じさせない公園中央に広がる広場とあわせて夏季限定で水の流れ落ちる滝のある池が広がる水景施設および敷地内各所にベンチが設置されているシンプルな造りの落ち着きのある静かな居心地のよい公園となっています。
また、『東池袋中央公園』の開園とあわせて1980年(昭和55年)に公園内の一画に戦争による悲劇を再びくりかえさないための「慰霊碑」が建立されています。
「慰霊碑」には、「永久平和を願って」と彫られており、戦争を知らずにあたりまえのように日々を過ごしていられることが幸せなことであると改めて実感しました。
東池袋エリアを訪れた際にまた立ち寄りたい公園のひとつであり、夏場の夕涼み場所としてお勧めできます!- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- サンシャイン60ビルとサンシャインシティプリンスホテルに隣接、最最寄り駅は東京メトロ有楽町線・東池袋駅となります。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後ですがベンチでくつろいでいる人が常にいます。
- バリアフリー:
- 4.5
- 身障者対応トイレが配置されています。(開放時間あり)
- 見ごたえ:
- 3.5
- 敷地周辺は樹木で覆われており、夏場の夕涼み場所としてお勧めできます。
-
最大天井高さ約25メートルのガラス大屋根で覆われた”三角広場”の大空間は圧巻です!
投稿日 2021年01月31日
総合評価:4.0
『新宿住友ビル(正式名称:新宿住友ビルディング)』は、超高層ビル(高さ100メートル以上)として日本国内初となる1968年(昭和43年)竣工の「霞が関ビルディング」(地上36階、地下3階、高さ147メートル)から1970年(昭和45年)竣工の「世界貿易センタービル」(地上40階、地下3階、高さ152メートル)、1971年(昭和46年)竣工の「京王プラザホテル」(地上47階、地下3階、高さ178メートル)に次ぐ4番目に建設されて1974年(昭和51年)に竣工した建物完成当時に日本国内で初めて高さ200メートルを超える210.3メートル(地上52階、地下4階)となるオフィスのほかに飲食物販・カルチャー・スポーツなどで構成される複合商業ビルです。
日本最大級のオフィス街となる「新宿新都心」西新宿2丁目の超高層ビル群の草分け的存在となる『新宿住友ビル』の建物形状は、建物中央部分に吹き抜け空間があり平面が正三角形の頂点を削った平行六角形となっていることから愛称が『住友三角ビル』として竣工当初から親しまれており、竣工後43年が経過した2017年(平成29年)9月から「国家戦略特区事業」として建物敷地の公開空地部分をガラスの大屋根で覆う日本最大級の「全天候型屋内アトリウム広場」およびその地下2階部分に「国際会議場施設」を整備する大規模リニューアル工事が実施され、新たなガラス大屋根の「全天候型屋内アトリウム広場」(最大天井高さ約25メートル)となる「三角広場」が2020年(令和2年)7月にオープンしています。
1年半ほど前に『新宿住友ビル』の展望レストラン街を利用した際は、大規模リニューアル工事中であっため工事完了後にどのような施設が完成するのかが気になっていました。
今回は、平日の午後に「新宿新都心」エリアを散策しながら以前より気になっていた『新宿住友ビル』敷地内に完成した新たな施設を見てみたいと思い「三角広場」に立ち寄りました。
『新宿住友ビル』1階フロアの周囲を取り囲むように建物北側エリアに”大型ビジョン(4K対応・564インチ)”が設置されている「三角広場」のメインイベントゾーン(床面積:約2,600平方メートル)と建物東側エリアのEASTイベントゾーン(床面積:約350平方メートル)、建物西側エリアのWESTイベントゾーン(床面積:約300平方メートル)が配置されており、”ショップ&レストラン”施設もリニューアルされていました。
『新宿住友ビル』の7階フロアレベルに達するのではと思われる最大天井高さ約25メートルのガラス大屋根で覆われている最大収容人数が約2,000人となる大空間の「三角広場」(メインイベントゾーン)は圧巻です!
『新宿住友ビル』に立ち寄った際は、「三角広場」でのイベント開催はありませんでしたが、機会があれば「三角広場」でイベントなどが開催される際にも立ち寄ってみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 都営大江戸線・都庁前駅に直結です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後でしたが、イベントも無く三角広場のイベントゾーンに立ち入ることはできませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 三角広場に段差はありません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 最大天井高さ約25メートルのガラス大屋根で覆われた大空間には、大型ビジョン(4K対応・564インチ)が設置されています。
-
投稿日 2021年01月24日
総合評価:4.0
『鬼子母神大門のケヤキ並木』は、東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」1番出入口または都電・荒川線「鬼子母神前駅」より「鬼子母神堂」に向かう「鬼子母神大門」から石畳が敷き詰められている参道の内、およそ100メートルの区間に渡って石畳みの参道の両脇に存在する日本の代表的な広葉樹の一つである『ケヤキ並木』です。
この『鬼子母神大門のケヤキ並木』の歴史は、江戸時代後期の徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1810年(文化7年)から1830年(天保元年)に地誌編纂事業の一環としてまとめられた「武蔵国」(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)についての近世後半期の地誌となる「新編武蔵風土記稿」を作成するための資料として当時の村役人が提出した「地誌取調書上」によると、安土桃山時代である天正年間(1573年から1593年)に当時の雑司谷村・住人「長島内匠」が土地とともに数十本のケヤキを「鬼子母神」に奉納のため寄植したものと伝えられており、江戸時代後期の1837年(天保8年)に「歌川広重」画による浮世絵「江戸高名会亭尽」でも当時の参道を行き交う江戸庶民とともに参道に面した料理茶屋および『ケヤキ並木』が描かれています。
1940年(昭和15年)になると樹齢400年以上と推定される18本の『ケヤキ並木』が当時の東京府の所有となり「天然記念物」に指定されています。
その後に参道の下水本管敷設工事および道路整備工事などに伴い伐採される樹木もあり東京都所有の『ケヤキ並木』も減ってきていますが、1940年(昭和15年)に地元有志の方々により発足した「鬼子母神 大門欅並木 保存会」の活動などにより豊島区の所有となる新たな若木の補植も実施されています。
現在では、豊島区所有の15本の若木と東京都が所有する樹齢400年以上と推定される「天然記念物」に指定の4本からなる新旧あわせて計19本が混在する『ケヤキ並木』として形成されています。
ちなみに「鬼子母神」は、室町時代後期(戦国時代)の1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土した「鬼子母神像」を祀るための草堂を安土桃山時代の1578年(天正6年)に村人が建立したのが始まりとされ、現在の「鬼子母神堂」の本殿部分が江戸時代初期の徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)に建立、本殿とつながる拝殿と相の間(幣殿)部分が徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に増築されたものと伝えられており、1960年(昭和35年)になると「東京都有形文化財」に指定されたほか、2016年(平成28年)に本殿部分と拝殿・相の間(幣殿)部分が異なる特徴を持つ江戸時代の建造物であることから歴史的・意匠的に価値が高いという点で評価され国の「重要文化財」に指定されています。
今回は、「鬼子母神堂」に立ち寄る際に東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から参道である『鬼子母神大門のケヤキ並木』を通りましたが、JR山手線の内側となる「池袋駅」からも徒歩15分程度(およそ1.1キロメートル)の都会に位置しながら、都会のイメージとは程遠い木々に囲まれた環境下の静かな住宅街であり癒しのエリアとしてお勧めできます。
機会があれば、雑司ヶ谷周辺を訪れた際にまた『鬼子母神大門のケヤキ並木』を通り「鬼子母神堂」境内に立ち寄りたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ・副都心線:雑司ヶ谷駅または都電・荒川線:鬼子母神前駅より鬼子母神堂に向かう参道の一画になります。
- 景観:
- 4.0
- 木々に囲まれた都会の癒しのエリアです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後に通りましたが、数名の方とすれ違い程度でした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 石畳みの舗装で段差はありません。
-
孔子とその高弟とされる四賢像を祀る江戸時代の儒学に関する学問所です!
投稿日 2021年01月17日
総合評価:4.0
『湯島聖堂』は、江戸時代初期の徳川幕府に仕えた朱子学派の儒学者である「林 羅山」が徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1630年(寛永7年)に上野忍岡(現:上野恩賜公園)の私邸内に開設した私塾の学問所および文庫とあわせて、儒教の創始者である「孔子」および儒教における先哲を先師・先聖として祀る「忍岡聖堂」と称する「孔子廟(先聖殿)」を1632年(寛永9年)に創建した施設に代わり、儒学を重んじていた徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」が更なる儒学の振興を図ることを目的に現在地となる神田湯島(現:文京区湯島1丁目)への移転を命じて、1690年(元禄3年)に新たに創建された「孔子廟(大成殿)」を中心とした関連施設の総称となります。
また『湯島聖堂』の地は、「孔子」の生誕地とされる「魯国昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名されています。
その後の『湯島聖堂』は、度重なる火災などに見舞われ荒廃が進む中で徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)になると林家の私塾としての学問所から徳川幕府直轄教学機関として「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が設立され、2年後の1799年(寛政11年)になると敷地を拡大しての大規模な改築が行われ「孔子廟(大成殿)」は創建時のおよそ2.5倍に拡張した規模の建物になっています。
明治維新後になると明治政府に引き継がれ官立の「昌平学校」となりますが、1871年(明治4年)に閉鎖となり儒学の学問所としての歴史に幕を閉じて文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策が講じられるようになっています。
1922年(大正11年)には、国の「史跡」に指定されたものの翌年に発生した「関東大震災」により1799年(寛政11年)に改築された「孔子廟(大成殿)」などほとんどの施設が焼失し、現在の建物は1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
今回は、お茶の水周辺を訪れた際に久しぶりに『湯島聖堂』に立ち寄りました。
『湯島聖堂』の正門から敷地内に入りましたが、メインの「孔子廟(大成殿)」までには順番に「仰高門」、「入徳門」、「杏壇門」の3つの門が存在し、特に「入徳門」は1704年(宝永元年)に建造されたものであり「水屋」とともに「関東大震災」の際に焼失を免れた建造物となります。
一番大きな「杏壇門」(間口20メートル、奥行4.7メートル)をくぐると正面に「孔子廟(大成殿)」(間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル)、その両側を「回廊」で囲んだ日本の寺院とは異なり独特な異国を感じさせる神聖な雰囲気が漂ってくる石畳の「前庭(広場)」空間となっています。
とても静寂な四方を「孔子廟(大成殿)」、「杏壇門」、「回廊」で囲まれ現代社会と切り離されたような誰もいない空間の中で時の経つのも忘れて立っていると時空を超えて雑念が洗い流されたような清々しい気分になりました。
今回は、平日でしたので「孔子廟(大成殿)」の内部に入ることができませんでしたが、土曜・日曜・祝日には「孔子廟(大成殿)」内部が公開されており、「孔子像」をはじめに「孔子」の高弟とされる四賢像の「孟子像」、「顔子像」、「曾子像」、「子思像」などを拝覧することが可能なので、土曜・日曜・祝日の立ち寄ることをお勧めします。
その他に『湯島聖堂』敷地内にある1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたとされる世界最大の「孔子銅像」(丈高4.57メートル、重量約1.5トン)も必見です。
機会があれは、土曜・日曜・祝日および「孔子祭」(4月第4日曜)などの行事が開催される日にあわせて立ち寄ってみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後でしたが、ほとんど人はいませんでした。
- バリアフリー:
- 2.0
- 敷地内は高低差があり石段があります。
- 見ごたえ:
- 4.5
- 日本の寺院と異なる独特な異国を感じさせる神聖な雰囲気が漂ってくる空間です。
-
”私利を追わず公益を図る”の信念を生涯貫いた大実業家の銅像です!
投稿日 2021年01月11日
総合評価:3.5
『渋沢栄一 銅像』は、幕末から明治・大正・昭和初期の1931年(昭和6年)までの近代日本の激動期となる91年の生涯の中で、500以上におよぶ多種多様な企業・団体の設立などに関与し、大実業家として「近代日本経済の父 」または「日本資本主義の父」などと称されている『渋沢栄一』(雅号:青淵(せいえん)ゆかりの地にさまざまな姿の像がいくつも存在する中のひとつとして、千代田区大手町エリアの「日本橋川」右岸側沿いの「常盤橋公園」の一画にあります。
「常盤橋公園」は、「江戸城」外郭の正門であり街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられていた「常盤橋門」跡であり、「常盤橋門跡」の石垣とともに「常盤橋門」につながる見附橋であった江戸時代の木製橋から1877年(明治10年)に架け替えられた西洋の近代的な意匠を取り入れた石造二連アーチ橋の「常磐橋」が1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により甚大な被害を受けた中で、1933年(昭和8年)に「渋沢青淵翁記念会(現:渋沢栄一記念財団)」が修復・復興するとともに”東洋のロダン”と称された「朝倉文夫」制作の『渋沢栄一銅像』を建立した公園として整備され開園しています。
その後の太平洋戦時下になると金属類回収令により『渋沢栄一 銅像』が撤去されますが、1955年(昭和30年)に再び「朝倉文夫」によって復元・制作され現在に至っています。
ちなみに『渋沢栄一』は、徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1840年(天保11年)に武蔵国血洗島(現:埼玉県深谷市)の農家に生まれ、幼少期より家業の藍染に使用する藍の葉の買い付けを手伝いながら学問に励み、1853年(嘉永6年)の「黒船来航」以降の幕末を向える混乱期の中での一橋家・家臣「平岡円四郎」との出会いがきっかけとなり、1864年(文久4年)に農民から「一橋慶喜」の家臣(武士)に取り立てられ、その2年後には才能が高く評価され26歳で一橋家「勘定組頭」となり、さらに翌年の1867年〈慶応2年)に「一橋慶喜」が徳川幕府第15代将軍「徳川慶喜」として将軍職を就任したことに伴い武士となりわずか3年で幕臣となっています。
また幕臣となった同年に「第2回 パリ万国博覧会」の徳川幕府・日本使節団の随行員に加わり御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)としてヨーロッパ各国を訪問しながら経済などの社会制度について見聞を広めることで実業家としての礎を築き、大政奉還後となる1868年(明治元年)に帰国しています。
1869年(明治2年)になると明治政府に招かれ官僚として民部省(現:財務省)で財務・経済政策に携わりますが1873年(明治6年)に退官し、実業家として”私利を追わず公益を図る”の信念を生涯貫き公益を優先し日本の発展に寄与した人物であると言えます。
今回は、大手町周辺に立ち寄った際に「常盤橋公園」の前を通り以前より気になる偉人のひとりである『渋沢栄一 銅像』の写真撮影をしましたが、2011年(平成23年)に発生した「東日本大震災」により落橋の危険が生じた「常盤橋」の大規模な復元工事とあわせた「常盤橋公園」整備工事のため工事用仮囲いで立ち入りができませんでした。
凛々しい表情の『渋沢栄一 銅像』を見て2024年(令和6年)に新一万円札の図柄として採用される『渋沢栄一』の生涯についてもっと知りたいと思いました。
『渋沢栄一』が主人公となる2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ(第60作)「青天を衝け」が楽しみです。
また『渋沢栄一』ゆかりの地なども散策してみたいほか、機会があれば「常盤橋公園」・「常磐橋公園」の工事完了後に『渋沢栄一 銅像』を見に立ち寄りたいと思います。- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 東京メトロ半蔵門線・三越前駅のB1出入口からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後で人通りは殆どありませんでした。
- バリアフリー:
- 3.5
- 銅像前に石段が数段あります。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 凛々しい表情の立像です。
-
江戸時代から昭和中期まで存在した京橋川を代表する橋梁(明治期)の遺構です!
投稿日 2021年01月04日
総合評価:3.5
『日比谷公園 京橋の欄干柱』は、現在の東京高速道路の「西銀座ジャンクション」付近(江戸城を囲む外濠)から「京橋ジャンクション」(八丁堀・桜川に合流)付近まで、延長およそ600メートルの区間を西側から東側に流れる江戸時代に開削された運河として存在した「京橋川」を跨いで北側「日本橋」を起点とする「日本橋」エリアと南側「銀座」エリアを南北に結ぶ「中央通り(国道15号線)」の橋梁として1875年(明治8年)に架橋(現在の「銀座通り口」交差点付近)された石造アーチ橋(橋長およそ19.8メートル、橋幅およそ14.4メートルの)である『京橋』の「欄干柱」部分で、1922年(大正11年)に照明設備付きの新たな「親柱」が設置された際に歴史を伝える遺物として、明治期の『京橋』の銘板が刻まれた「親柱」とあわせて「日比谷公園」に移設されています。
なお、明治期の「親柱」については、1934年(昭和9年)に『京橋』橋台などの整備にあわせて「日比谷公園」から再度『京橋』に移設されています。
その後に『京橋』は、東京高速道路の建設に伴い1959年(昭和34年)に「京橋川」の埋め立てとともに撤去され、『京橋』北橋詰跡東側「警察博物館」前と南橋詰跡西側「銀座1丁目交番」脇に1875年(明治8年)架橋の「親柱」が遺物として設置されています。
また『京橋』南橋詰跡東側には、大正期の照明設備付き「親柱」が設置されています。
そのほか『京橋』の歴史については、「日本橋」の架橋と同時期となる「徳川幕府」が誕生した1603年(慶長8年)に木造橋として架橋されたと伝わり、東海道の起点である「日本橋」から京へ上る最初の橋であったことから『京橋』の名が付けられたとされています。
江戸時代に『京橋』が描かれている浮世絵でも木造太鼓橋の「親柱」に「擬宝珠」が飾られていることが確認でき、江戸時代から重視されていた橋であることが伺えます。
ちなみに江戸府内で「擬宝珠」が飾られていた橋は、『京橋』のほかに「日本橋」と「新橋」のみで、徳川幕府による「御普請橋」として修復費などは徳川幕府が負担していました。
今回は、東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」からJR山手線「有楽町駅」方面に徒歩で向かう際に「日比谷公園」西側の「霞門」から北東側の「有楽門」まで公園敷地内を通り抜けする際に『日比谷公園 京橋の欄干柱』の前を通り写真撮影をしました。
「欄干柱」だけを見ても『京橋』の文字などが刻まれていないので『京橋』の遺構であることが分かりませんでしたが、脇にある「解説板」を読み「欄干柱」上部に「擬宝珠」を施したデザインとすることで江戸時代の木造太鼓橋であった『京橋』の面影を表現していると感じました。
「日比谷公園」の園内には、『日比谷公園 京橋の欄干柱』のほかにもさまざまな遺構・記念碑など点在しているので四季折々の草花や樹木などの植物で癒されながら江戸時代から明治・大正・昭和の近代史などの歴史探索で楽しめる公園です。
機会があれば、「日比谷公園」敷地内の各所や『京橋』跡の「銀座通り口」交差点周辺を廻りながら歴史探索をしてみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ:日比谷駅・霞ヶ関駅、都営地下鉄:日比谷駅、JR:有楽町駅から徒歩圏内です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 平日の午後でしたが、園内ベンチで休憩したり散策する人がまばらでにいる程度でした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 公園内の遊歩道から眺めるだけなので、遊歩道に段差はありません。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 欄干柱だけを見ても明治期の京橋の遺構であることが分かりません。
-
西洋の近代的な意匠を取り入れた現存する最古の石造アーチ橋です!
投稿日 2021年01月03日
総合評価:4.0
『常磐橋』は、河川延長がおよそ4.8キロメートルとなる荒川水系の一級河川「日本橋川」を挟んで千代田区大手町側(右岸)にある「常盤橋公園」と中央区日本橋本石町側(左岸)の「日本橋川」に沿って通る「外堀通り(都道405号)」をつなぐ西洋の近代的な意匠を取り入れた石造技術を基盤に橋長28.8メートル、橋幅12.6メートルの石造二連アーチ橋に大理石製の八角形の親柱や唐草模様のような鋳鉄製の手摺柵などを施した和洋折衷様式となる橋梁として、1877年(明治10年)に架橋されており、親柱にある銘板などには『常盤橋』ではなく『常磐橋』の文字が用いられています。
江戸時代の『常磐橋』は、「江戸城」外郭の正門として石垣で周囲を囲むよう桝形に積み上げた空間の外側に「高麗門」、内側に「渡櫓門」の二重構造からなる防御性の高い「枡形門」と呼ばれる城門のひとつとして奥州道に通じる「常盤橋門」に架かる木製橋でした。
ちなみに「常盤橋門」は、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1629年(寛永6年)に「枡形門」に修築され、上州道に通じる「田安門」、将軍が菩提寺である「上野寛永寺」や「日光東照宮」に参詣する際に使用した「神田橋門(芝崎口)」、甲州道に通じる「半蔵門」、小田原道(東海道)に通じる「外桜田門」とあわせて「江戸城」と街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられます。
明治時代になると文明開化の中で明治政府による東京の近代都市化が急速に進められ江戸時代の木製橋から西洋の近代的な意匠を取り入れた石橋への架け替えが複数箇所でおこなわれており、その中で『常磐橋』が現存する最古の橋梁となります。
明治時代に架橋された当初の『常磐橋』は、馬車と人力車が橋の中央部分を通り歩行者が橋の両端を通るように敷石の色分けがされていますが、橋幅が狭く大手町と日本橋本石町を結ぶための幹線の橋になっていなかったこととあわせて、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」による復興計画の一環として「関東大震災」の3年後に「震災復興橋梁」となる「日本橋川」の下流に「日本橋」北詰から大手町方面に向う通りの新たな車道橋となる橋長38.6メートル、橋幅27メートルの鉄筋コンクリートアーチ橋(石貼り仕上げ)の「常盤橋」が架橋、1928年(昭和3年)には「日本橋川」の上流に橋長39.3メートル、橋幅27メートルの単純鋼床版箱桁橋の「新常盤橋」が架橋されたことにより、もともとの石橋である『常磐橋』は歩行者専用の橋梁となっています。
1928年(昭和3年)になると「常盤橋公園」内に現存する「常盤橋門跡」の枡形石垣の一部とともに『常磐橋』(石造アーチ橋)が国の史跡に指定され、2007年(平成19年)には「常盤橋門跡」、『常磐橋』(石造アーチ橋)、「常盤橋」(鉄筋コンクリートアーチ橋)が「千代田区景観まちづくり重要物件」に指定されています。
その後の2011年(平成23年)に発生した「東日本大震災」によりアーチ輪石が変形したほか路面の陥没などもあり落橋の危険が生じ、大規模な復元工事が実施されています。
今回は、大手町周辺に立ち寄った際に「常盤橋」(鉄筋コンクリートアーチ橋)上から『常磐橋』(石造アーチ橋)を写真撮影をしました。
9年におよぶ『常磐橋』(石造アーチ橋)自体の復元工事は完了したばかりですが、あわせて実施されている「常盤橋公園」整備工事により工事用仮囲いで覆われており、すべての工事が完了するのが2021年(令和3年)3月ごろになるようです。
機会があればすべての工事完了後に復元された『常磐橋』(石造アーチ橋)の細部を見て廻りながら歴史を感じてみたいと思います・・・- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ半蔵門線・三越前駅のB1出入口からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 2021年(令和3年)3月まで復元工事中で立入できません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 2021年(令和3年)3月まで復元工事中で立入できません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 2021年(令和3年)3月まで復元工事中のため現在は日本橋川の下流の常盤橋上から眺めることができます。



































































































