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hiroさんのクチコミ(8ページ)全476件

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  • 都会の中に居ながら樹木に覆われて街中の雑踏を感じさせない公園です!

    投稿日 2021年02月07日

    東池袋中央公園 池袋

    総合評価:4.0

    『東池袋中央公園』は、1978年(昭和53年)から段階的にオープンした複合商業施設「サンシャインシティ」北側の一画となる豊島区東池袋3丁目に位置する敷地面積が5,993.61平方メートルの国有地であり、豊島区が無償貸付を受けて1980年(昭和55年)に開園した区立公園です。
    「サンシャインシティ」を含めた『東池袋中央公園』一帯の敷地は、1895年(明治28年)に現在の中央区佃島あった「石川島監獄」の移転により「巣鴨監獄(巣鴨刑務所)」が設立された場所であり、第二次世界大戦後となる1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間に渡り「連合国最高司令官総司令部(GHQ)」により接収され「巣鴨プリズン」として戦争犯罪容疑者が施設内の拘置所に収容されるとともにA級戦犯者7名およびBC級戦犯者52名の死刑が施設内の処刑場で執行されています。
    1952年(昭和27年)に「サンフランシスコ講和条約」が発効されたことにより、再び日本に移管された「巣鴨刑務所」が「東京拘置所」となった後の1971年(昭和46年)に現在の葛飾区小菅への移転に伴い、「巣鴨プリズン・拘置所」跡地部分が民間活力による大規模再開発事業として国有地から民間の「新都市開発センター(現在:サンシャインシティ)」に払い下げられ、「巣鴨プリズン・処刑場」跡地部分が『東池袋中央公園』として整備されています。
    今回は、平日の午後に東池袋エリアを訪れた際に久しぶりに数回(10月と11月)に渡って公園内に立ち寄りました。
    『東池袋中央公園』の配置は、敷地の南西側に「サンシャイン60ビル」および南東側に「サンシャインシティプリンスホテル」と隣接しており、敷地の北西側と北東側の2方向が道路に面していますが、北西側の道路に面した公園正面となる出入口部分に北アメリカ原産の落葉樹「ラクウショウ」(和名:ヌマスギ)の計24本を幾何学的な列植(4列×6本)とした特徴のある植栽をはじめ敷地周囲をモッコクやヤマモモ、マテバシイなど高木の樹木で覆い都会の中に居ながら街中の雑踏を感じさせない公園中央に広がる広場とあわせて夏季限定で水の流れ落ちる滝のある池が広がる水景施設および敷地内各所にベンチが設置されているシンプルな造りの落ち着きのある静かな居心地のよい公園となっています。
    また、『東池袋中央公園』の開園とあわせて1980年(昭和55年)に公園内の一画に戦争による悲劇を再びくりかえさないための「慰霊碑」が建立されています。
    「慰霊碑」には、「永久平和を願って」と彫られており、戦争を知らずにあたりまえのように日々を過ごしていられることが幸せなことであると改めて実感しました。
    東池袋エリアを訪れた際にまた立ち寄りたい公園のひとつであり、夏場の夕涼み場所としてお勧めできます!

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    サンシャイン60ビルとサンシャインシティプリンスホテルに隣接、最最寄り駅は東京メトロ有楽町線・東池袋駅となります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後ですがベンチでくつろいでいる人が常にいます。
    バリアフリー:
    4.5
    身障者対応トイレが配置されています。(開放時間あり)
    見ごたえ:
    3.5
    敷地周辺は樹木で覆われており、夏場の夕涼み場所としてお勧めできます。

  • 最大天井高さ約25メートルのガラス大屋根で覆われた”三角広場”の大空間は圧巻です!

    投稿日 2021年01月31日

    新宿住友ビル 新宿

    総合評価:4.0

    『新宿住友ビル(正式名称:新宿住友ビルディング)』は、超高層ビル(高さ100メートル以上)として日本国内初となる1968年(昭和43年)竣工の「霞が関ビルディング」(地上36階、地下3階、高さ147メートル)から1970年(昭和45年)竣工の「世界貿易センタービル」(地上40階、地下3階、高さ152メートル)、1971年(昭和46年)竣工の「京王プラザホテル」(地上47階、地下3階、高さ178メートル)に次ぐ4番目に建設されて1974年(昭和51年)に竣工した建物完成当時に日本国内で初めて高さ200メートルを超える210.3メートル(地上52階、地下4階)となるオフィスのほかに飲食物販・カルチャー・スポーツなどで構成される複合商業ビルです。
    日本最大級のオフィス街となる「新宿新都心」西新宿2丁目の超高層ビル群の草分け的存在となる『新宿住友ビル』の建物形状は、建物中央部分に吹き抜け空間があり平面が正三角形の頂点を削った平行六角形となっていることから愛称が『住友三角ビル』として竣工当初から親しまれており、竣工後43年が経過した2017年(平成29年)9月から「国家戦略特区事業」として建物敷地の公開空地部分をガラスの大屋根で覆う日本最大級の「全天候型屋内アトリウム広場」およびその地下2階部分に「国際会議場施設」を整備する大規模リニューアル工事が実施され、新たなガラス大屋根の「全天候型屋内アトリウム広場」(最大天井高さ約25メートル)となる「三角広場」が2020年(令和2年)7月にオープンしています。
    1年半ほど前に『新宿住友ビル』の展望レストラン街を利用した際は、大規模リニューアル工事中であっため工事完了後にどのような施設が完成するのかが気になっていました。
    今回は、平日の午後に「新宿新都心」エリアを散策しながら以前より気になっていた『新宿住友ビル』敷地内に完成した新たな施設を見てみたいと思い「三角広場」に立ち寄りました。
    『新宿住友ビル』1階フロアの周囲を取り囲むように建物北側エリアに”大型ビジョン(4K対応・564インチ)”が設置されている「三角広場」のメインイベントゾーン(床面積:約2,600平方メートル)と建物東側エリアのEASTイベントゾーン(床面積:約350平方メートル)、建物西側エリアのWESTイベントゾーン(床面積:約300平方メートル)が配置されており、”ショップ&レストラン”施設もリニューアルされていました。
    『新宿住友ビル』の7階フロアレベルに達するのではと思われる最大天井高さ約25メートルのガラス大屋根で覆われている最大収容人数が約2,000人となる大空間の「三角広場」(メインイベントゾーン)は圧巻です!
    『新宿住友ビル』に立ち寄った際は、「三角広場」でのイベント開催はありませんでしたが、機会があれば「三角広場」でイベントなどが開催される際にも立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    都営大江戸線・都庁前駅に直結です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、イベントも無く三角広場のイベントゾーンに立ち入ることはできませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    三角広場に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    最大天井高さ約25メートルのガラス大屋根で覆われた大空間には、大型ビジョン(4K対応・564インチ)が設置されています。

  • 木々に囲まれた都会の中の癒しエリアです!

    投稿日 2021年01月24日

    鬼子母神大門のケヤキ並木 目白

    総合評価:4.0

    『鬼子母神大門のケヤキ並木』は、東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」1番出入口または都電・荒川線「鬼子母神前駅」より「鬼子母神堂」に向かう「鬼子母神大門」から石畳が敷き詰められている参道の内、およそ100メートルの区間に渡って石畳みの参道の両脇に存在する日本の代表的な広葉樹の一つである『ケヤキ並木』です。
    この『鬼子母神大門のケヤキ並木』の歴史は、江戸時代後期の徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1810年(文化7年)から1830年(天保元年)に地誌編纂事業の一環としてまとめられた「武蔵国」(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)についての近世後半期の地誌となる「新編武蔵風土記稿」を作成するための資料として当時の村役人が提出した「地誌取調書上」によると、安土桃山時代である天正年間(1573年から1593年)に当時の雑司谷村・住人「長島内匠」が土地とともに数十本のケヤキを「鬼子母神」に奉納のため寄植したものと伝えられており、江戸時代後期の1837年(天保8年)に「歌川広重」画による浮世絵「江戸高名会亭尽」でも当時の参道を行き交う江戸庶民とともに参道に面した料理茶屋および『ケヤキ並木』が描かれています。
    1940年(昭和15年)になると樹齢400年以上と推定される18本の『ケヤキ並木』が当時の東京府の所有となり「天然記念物」に指定されています。
    その後に参道の下水本管敷設工事および道路整備工事などに伴い伐採される樹木もあり東京都所有の『ケヤキ並木』も減ってきていますが、1940年(昭和15年)に地元有志の方々により発足した「鬼子母神 大門欅並木 保存会」の活動などにより豊島区の所有となる新たな若木の補植も実施されています。
    現在では、豊島区所有の15本の若木と東京都が所有する樹齢400年以上と推定される「天然記念物」に指定の4本からなる新旧あわせて計19本が混在する『ケヤキ並木』として形成されています。
    ちなみに「鬼子母神」は、室町時代後期(戦国時代)の1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土した「鬼子母神像」を祀るための草堂を安土桃山時代の1578年(天正6年)に村人が建立したのが始まりとされ、現在の「鬼子母神堂」の本殿部分が江戸時代初期の徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)に建立、本殿とつながる拝殿と相の間(幣殿)部分が徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に増築されたものと伝えられており、1960年(昭和35年)になると「東京都有形文化財」に指定されたほか、2016年(平成28年)に本殿部分と拝殿・相の間(幣殿)部分が異なる特徴を持つ江戸時代の建造物であることから歴史的・意匠的に価値が高いという点で評価され国の「重要文化財」に指定されています。
    今回は、「鬼子母神堂」に立ち寄る際に東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から参道である『鬼子母神大門のケヤキ並木』を通りましたが、JR山手線の内側となる「池袋駅」からも徒歩15分程度(およそ1.1キロメートル)の都会に位置しながら、都会のイメージとは程遠い木々に囲まれた環境下の静かな住宅街であり癒しのエリアとしてお勧めできます。
    機会があれば、雑司ヶ谷周辺を訪れた際にまた『鬼子母神大門のケヤキ並木』を通り「鬼子母神堂」境内に立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ・副都心線:雑司ヶ谷駅または都電・荒川線:鬼子母神前駅より鬼子母神堂に向かう参道の一画になります。
    景観:
    4.0
    木々に囲まれた都会の癒しのエリアです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に通りましたが、数名の方とすれ違い程度でした。
    バリアフリー:
    4.0
    石畳みの舗装で段差はありません。

  • 孔子とその高弟とされる四賢像を祀る江戸時代の儒学に関する学問所です!

    投稿日 2021年01月17日

    湯島聖堂 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『湯島聖堂』は、江戸時代初期の徳川幕府に仕えた朱子学派の儒学者である「林 羅山」が徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1630年(寛永7年)に上野忍岡(現:上野恩賜公園)の私邸内に開設した私塾の学問所および文庫とあわせて、儒教の創始者である「孔子」および儒教における先哲を先師・先聖として祀る「忍岡聖堂」と称する「孔子廟(先聖殿)」を1632年(寛永9年)に創建した施設に代わり、儒学を重んじていた徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」が更なる儒学の振興を図ることを目的に現在地となる神田湯島(現:文京区湯島1丁目)への移転を命じて、1690年(元禄3年)に新たに創建された「孔子廟(大成殿)」を中心とした関連施設の総称となります。
    また『湯島聖堂』の地は、「孔子」の生誕地とされる「魯国昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名されています。
    その後の『湯島聖堂』は、度重なる火災などに見舞われ荒廃が進む中で徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)になると林家の私塾としての学問所から徳川幕府直轄教学機関として「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が設立され、2年後の1799年(寛政11年)になると敷地を拡大しての大規模な改築が行われ「孔子廟(大成殿)」は創建時のおよそ2.5倍に拡張した規模の建物になっています。
    明治維新後になると明治政府に引き継がれ官立の「昌平学校」となりますが、1871年(明治4年)に閉鎖となり儒学の学問所としての歴史に幕を閉じて文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策が講じられるようになっています。
    1922年(大正11年)には、国の「史跡」に指定されたものの翌年に発生した「関東大震災」により1799年(寛政11年)に改築された「孔子廟(大成殿)」などほとんどの施設が焼失し、現在の建物は1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
    今回は、お茶の水周辺を訪れた際に久しぶりに『湯島聖堂』に立ち寄りました。
    『湯島聖堂』の正門から敷地内に入りましたが、メインの「孔子廟(大成殿)」までには順番に「仰高門」、「入徳門」、「杏壇門」の3つの門が存在し、特に「入徳門」は1704年(宝永元年)に建造されたものであり「水屋」とともに「関東大震災」の際に焼失を免れた建造物となります。
    一番大きな「杏壇門」(間口20メートル、奥行4.7メートル)をくぐると正面に「孔子廟(大成殿)」(間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル)、その両側を「回廊」で囲んだ日本の寺院とは異なり独特な異国を感じさせる神聖な雰囲気が漂ってくる石畳の「前庭(広場)」空間となっています。
    とても静寂な四方を「孔子廟(大成殿)」、「杏壇門」、「回廊」で囲まれ現代社会と切り離されたような誰もいない空間の中で時の経つのも忘れて立っていると時空を超えて雑念が洗い流されたような清々しい気分になりました。
    今回は、平日でしたので「孔子廟(大成殿)」の内部に入ることができませんでしたが、土曜・日曜・祝日には「孔子廟(大成殿)」内部が公開されており、「孔子像」をはじめに「孔子」の高弟とされる四賢像の「孟子像」、「顔子像」、「曾子像」、「子思像」などを拝覧することが可能なので、土曜・日曜・祝日の立ち寄ることをお勧めします。
    その他に『湯島聖堂』敷地内にある1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたとされる世界最大の「孔子銅像」(丈高4.57メートル、重量約1.5トン)も必見です。
    機会があれは、土曜・日曜・祝日および「孔子祭」(4月第4日曜)などの行事が開催される日にあわせて立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、ほとんど人はいませんでした。
    バリアフリー:
    2.0
    敷地内は高低差があり石段があります。
    見ごたえ:
    4.5
    日本の寺院と異なる独特な異国を感じさせる神聖な雰囲気が漂ってくる空間です。

  • ”私利を追わず公益を図る”の信念を生涯貫いた大実業家の銅像です!

    投稿日 2021年01月11日

    渋沢栄一銅像 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:3.5

    『渋沢栄一 銅像』は、幕末から明治・大正・昭和初期の1931年(昭和6年)までの近代日本の激動期となる91年の生涯の中で、500以上におよぶ多種多様な企業・団体の設立などに関与し、大実業家として「近代日本経済の父 」または「日本資本主義の父」などと称されている『渋沢栄一』(雅号:青淵(せいえん)ゆかりの地にさまざまな姿の像がいくつも存在する中のひとつとして、千代田区大手町エリアの「日本橋川」右岸側沿いの「常盤橋公園」の一画にあります。
    「常盤橋公園」は、「江戸城」外郭の正門であり街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられていた「常盤橋門」跡であり、「常盤橋門跡」の石垣とともに「常盤橋門」につながる見附橋であった江戸時代の木製橋から1877年(明治10年)に架け替えられた西洋の近代的な意匠を取り入れた石造二連アーチ橋の「常磐橋」が1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により甚大な被害を受けた中で、1933年(昭和8年)に「渋沢青淵翁記念会(現:渋沢栄一記念財団)」が修復・復興するとともに”東洋のロダン”と称された「朝倉文夫」制作の『渋沢栄一銅像』を建立した公園として整備され開園しています。
    その後の太平洋戦時下になると金属類回収令により『渋沢栄一 銅像』が撤去されますが、1955年(昭和30年)に再び「朝倉文夫」によって復元・制作され現在に至っています。
    ちなみに『渋沢栄一』は、徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1840年(天保11年)に武蔵国血洗島(現:埼玉県深谷市)の農家に生まれ、幼少期より家業の藍染に使用する藍の葉の買い付けを手伝いながら学問に励み、1853年(嘉永6年)の「黒船来航」以降の幕末を向える混乱期の中での一橋家・家臣「平岡円四郎」との出会いがきっかけとなり、1864年(文久4年)に農民から「一橋慶喜」の家臣(武士)に取り立てられ、その2年後には才能が高く評価され26歳で一橋家「勘定組頭」となり、さらに翌年の1867年〈慶応2年)に「一橋慶喜」が徳川幕府第15代将軍「徳川慶喜」として将軍職を就任したことに伴い武士となりわずか3年で幕臣となっています。
    また幕臣となった同年に「第2回 パリ万国博覧会」の徳川幕府・日本使節団の随行員に加わり御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)としてヨーロッパ各国を訪問しながら経済などの社会制度について見聞を広めることで実業家としての礎を築き、大政奉還後となる1868年(明治元年)に帰国しています。
    1869年(明治2年)になると明治政府に招かれ官僚として民部省(現:財務省)で財務・経済政策に携わりますが1873年(明治6年)に退官し、実業家として”私利を追わず公益を図る”の信念を生涯貫き公益を優先し日本の発展に寄与した人物であると言えます。
    今回は、大手町周辺に立ち寄った際に「常盤橋公園」の前を通り以前より気になる偉人のひとりである『渋沢栄一 銅像』の写真撮影をしましたが、2011年(平成23年)に発生した「東日本大震災」により落橋の危険が生じた「常盤橋」の大規模な復元工事とあわせた「常盤橋公園」整備工事のため工事用仮囲いで立ち入りができませんでした。
    凛々しい表情の『渋沢栄一 銅像』を見て2024年(令和6年)に新一万円札の図柄として採用される『渋沢栄一』の生涯についてもっと知りたいと思いました。
    『渋沢栄一』が主人公となる2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ(第60作)「青天を衝け」が楽しみです。
    また『渋沢栄一』ゆかりの地なども散策してみたいほか、機会があれば「常盤橋公園」・「常磐橋公園」の工事完了後に『渋沢栄一 銅像』を見に立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ半蔵門線・三越前駅のB1出入口からすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後で人通りは殆どありませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    銅像前に石段が数段あります。
    見ごたえ:
    3.5
    凛々しい表情の立像です。

  • 江戸時代から昭和中期まで存在した京橋川を代表する橋梁(明治期)の遺構です!

    投稿日 2021年01月04日

    日比谷公園 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    『日比谷公園 京橋の欄干柱』は、現在の東京高速道路の「西銀座ジャンクション」付近(江戸城を囲む外濠)から「京橋ジャンクション」(八丁堀・桜川に合流)付近まで、延長およそ600メートルの区間を西側から東側に流れる江戸時代に開削された運河として存在した「京橋川」を跨いで北側「日本橋」を起点とする「日本橋」エリアと南側「銀座」エリアを南北に結ぶ「中央通り(国道15号線)」の橋梁として1875年(明治8年)に架橋(現在の「銀座通り口」交差点付近)された石造アーチ橋(橋長およそ19.8メートル、橋幅およそ14.4メートルの)である『京橋』の「欄干柱」部分で、1922年(大正11年)に照明設備付きの新たな「親柱」が設置された際に歴史を伝える遺物として、明治期の『京橋』の銘板が刻まれた「親柱」とあわせて「日比谷公園」に移設されています。
    なお、明治期の「親柱」については、1934年(昭和9年)に『京橋』橋台などの整備にあわせて「日比谷公園」から再度『京橋』に移設されています。
    その後に『京橋』は、東京高速道路の建設に伴い1959年(昭和34年)に「京橋川」の埋め立てとともに撤去され、『京橋』北橋詰跡東側「警察博物館」前と南橋詰跡西側「銀座1丁目交番」脇に1875年(明治8年)架橋の「親柱」が遺物として設置されています。
    また『京橋』南橋詰跡東側には、大正期の照明設備付き「親柱」が設置されています。
    そのほか『京橋』の歴史については、「日本橋」の架橋と同時期となる「徳川幕府」が誕生した1603年(慶長8年)に木造橋として架橋されたと伝わり、東海道の起点である「日本橋」から京へ上る最初の橋であったことから『京橋』の名が付けられたとされています。
    江戸時代に『京橋』が描かれている浮世絵でも木造太鼓橋の「親柱」に「擬宝珠」が飾られていることが確認でき、江戸時代から重視されていた橋であることが伺えます。
    ちなみに江戸府内で「擬宝珠」が飾られていた橋は、『京橋』のほかに「日本橋」と「新橋」のみで、徳川幕府による「御普請橋」として修復費などは徳川幕府が負担していました。
    今回は、東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」からJR山手線「有楽町駅」方面に徒歩で向かう際に「日比谷公園」西側の「霞門」から北東側の「有楽門」まで公園敷地内を通り抜けする際に『日比谷公園 京橋の欄干柱』の前を通り写真撮影をしました。
    「欄干柱」だけを見ても『京橋』の文字などが刻まれていないので『京橋』の遺構であることが分かりませんでしたが、脇にある「解説板」を読み「欄干柱」上部に「擬宝珠」を施したデザインとすることで江戸時代の木造太鼓橋であった『京橋』の面影を表現していると感じました。
    「日比谷公園」の園内には、『日比谷公園 京橋の欄干柱』のほかにもさまざまな遺構・記念碑など点在しているので四季折々の草花や樹木などの植物で癒されながら江戸時代から明治・大正・昭和の近代史などの歴史探索で楽しめる公園です。
    機会があれば、「日比谷公園」敷地内の各所や『京橋』跡の「銀座通り口」交差点周辺を廻りながら歴史探索をしてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ:日比谷駅・霞ヶ関駅、都営地下鉄:日比谷駅、JR:有楽町駅から徒歩圏内です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、園内ベンチで休憩したり散策する人がまばらでにいる程度でした。
    バリアフリー:
    4.0
    公園内の遊歩道から眺めるだけなので、遊歩道に段差はありません。
    見ごたえ:
    3.0
    欄干柱だけを見ても明治期の京橋の遺構であることが分かりません。

  • 西洋の近代的な意匠を取り入れた現存する最古の石造アーチ橋です!

    投稿日 2021年01月03日

    常盤橋 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:4.0

    『常磐橋』は、河川延長がおよそ4.8キロメートルとなる荒川水系の一級河川「日本橋川」を挟んで千代田区大手町側(右岸)にある「常盤橋公園」と中央区日本橋本石町側(左岸)の「日本橋川」に沿って通る「外堀通り(都道405号)」をつなぐ西洋の近代的な意匠を取り入れた石造技術を基盤に橋長28.8メートル、橋幅12.6メートルの石造二連アーチ橋に大理石製の八角形の親柱や唐草模様のような鋳鉄製の手摺柵などを施した和洋折衷様式となる橋梁として、1877年(明治10年)に架橋されており、親柱にある銘板などには『常盤橋』ではなく『常磐橋』の文字が用いられています。
    江戸時代の『常磐橋』は、「江戸城」外郭の正門として石垣で周囲を囲むよう桝形に積み上げた空間の外側に「高麗門」、内側に「渡櫓門」の二重構造からなる防御性の高い「枡形門」と呼ばれる城門のひとつとして奥州道に通じる「常盤橋門」に架かる木製橋でした。
    ちなみに「常盤橋門」は、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1629年(寛永6年)に「枡形門」に修築され、上州道に通じる「田安門」、将軍が菩提寺である「上野寛永寺」や「日光東照宮」に参詣する際に使用した「神田橋門(芝崎口)」、甲州道に通じる「半蔵門」、小田原道(東海道)に通じる「外桜田門」とあわせて「江戸城」と街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられます。
    明治時代になると文明開化の中で明治政府による東京の近代都市化が急速に進められ江戸時代の木製橋から西洋の近代的な意匠を取り入れた石橋への架け替えが複数箇所でおこなわれており、その中で『常磐橋』が現存する最古の橋梁となります。
    明治時代に架橋された当初の『常磐橋』は、馬車と人力車が橋の中央部分を通り歩行者が橋の両端を通るように敷石の色分けがされていますが、橋幅が狭く大手町と日本橋本石町を結ぶための幹線の橋になっていなかったこととあわせて、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」による復興計画の一環として「関東大震災」の3年後に「震災復興橋梁」となる「日本橋川」の下流に「日本橋」北詰から大手町方面に向う通りの新たな車道橋となる橋長38.6メートル、橋幅27メートルの鉄筋コンクリートアーチ橋(石貼り仕上げ)の「常盤橋」が架橋、1928年(昭和3年)には「日本橋川」の上流に橋長39.3メートル、橋幅27メートルの単純鋼床版箱桁橋の「新常盤橋」が架橋されたことにより、もともとの石橋である『常磐橋』は歩行者専用の橋梁となっています。
    1928年(昭和3年)になると「常盤橋公園」内に現存する「常盤橋門跡」の枡形石垣の一部とともに『常磐橋』(石造アーチ橋)が国の史跡に指定され、2007年(平成19年)には「常盤橋門跡」、『常磐橋』(石造アーチ橋)、「常盤橋」(鉄筋コンクリートアーチ橋)が「千代田区景観まちづくり重要物件」に指定されています。
    その後の2011年(平成23年)に発生した「東日本大震災」によりアーチ輪石が変形したほか路面の陥没などもあり落橋の危険が生じ、大規模な復元工事が実施されています。
    今回は、大手町周辺に立ち寄った際に「常盤橋」(鉄筋コンクリートアーチ橋)上から『常磐橋』(石造アーチ橋)を写真撮影をしました。
    9年におよぶ『常磐橋』(石造アーチ橋)自体の復元工事は完了したばかりですが、あわせて実施されている「常盤橋公園」整備工事により工事用仮囲いで覆われており、すべての工事が完了するのが2021年(令和3年)3月ごろになるようです。
    機会があればすべての工事完了後に復元された『常磐橋』(石造アーチ橋)の細部を見て廻りながら歴史を感じてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ半蔵門線・三越前駅のB1出入口からすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    2021年(令和3年)3月まで復元工事中で立入できません。
    バリアフリー:
    4.0
    2021年(令和3年)3月まで復元工事中で立入できません。
    見ごたえ:
    4.0
    2021年(令和3年)3月まで復元工事中のため現在は日本橋川の下流の常盤橋上から眺めることができます。

  • 芸事・ヒット祈願など多くの芸能関係者が参拝や玉垣奉納に訪れています!

    投稿日 2020年12月31日

    芸能浅間神社 新宿

    総合評価:4.0

    『芸能浅間神社』は、新宿の総鎮守として江戸時代より多くの人々の信仰を集め現在の新宿区新宿5丁目に鎮座する「花園神社」の摂社として、1928年(昭和3年)に「花園神社」境内に芸能の女神として御祭神である「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」を創祀したのが始まりとされ、1965年(昭和40年)に現在の明治通り側となる境内北東部分に位置する一画に遷御(神様の場所を移すこと)しています。
    ちなみに「花園神社」は、「徳川家康」が江戸に入府した1590年(天正18年)以前に「大和吉野山」より総本社が「伏見稲荷大社」である稲荷神の穀物の神とされる「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」を勧請(神様の分霊を迎え祀ること)されたのが始まりとされ、社名の由来は「尾張徳川家」下屋敷の庭の一部で多くの花が咲き乱れていた美しい花園の跡(現在の境内)に遷座(神様の場所を移すこと)したことによるとされいます。
    また「花園神社」と芸能にまつわる縁は、徳川幕府第10代将軍「徳川家治」の時代である1780年(安永9年)および第11代将軍「徳川家斉」の時代である1811年(文化8年)に発生した江戸府内の大火により「花園神社」社殿が焼失した際に神社境内に見世物小屋を設けて芝居や踊りなど社殿再建のために行われた興行が好評を博したことが始まりとされています。
    近年では、1967年(昭和42年)に劇作家「唐 十郎」氏が率いる劇団により「花園神社」境内に紅テントを設置して公演が行われ話題となるなど現在もさまざまな公演活動が「花園神社」境内で行われており、芸能にまつわる縁の深さを感じます。
    今回は、「花園神社」を参拝した際に芸事・ヒット祈願など多くの芸能関係者が参拝や玉垣奉納に訪れている『芸能浅間神社』にも立ち寄りました。
    社の周囲には芸能関係者による玉垣がずらりと並んでおり奉納者の名前を見て廻り楽しむことができました。
    また、1969年(昭和44年)に「新宿の女」で歌手デビューし、2曲目の「女のブルース」、3曲目の「圭子の夢は夜ひらく」と立て続けにヒット曲を出して1970年(昭和45年)に「第1回 日本歌謡大賞」で大賞を受賞した新宿の地に縁が深い「藤 圭子」さんの”圭子の夢は夜ひらく”歌碑が建立されているので必見です。
    そのほかに「尾張徳川家」によって祀られたと伝わる「花園神社」境内に末社として鎮座していた「大鳥神社」(御祭神:戦勝の神である「日本武尊(やまとたけるのみこと)」)により明治時代から「花園神社」境内にて「酉の市」が始まり現在では、「鷲神社(東京都台東区)」、「大國魂神社(東京都府中市)」とともに「関東三大酉の市」のひとつとに数えられ毎年大勢の参拝者で賑わいます。
    ちなみに「大鳥神社」は、1965年(昭和40年)に「花園神社」と合祀し本殿に祀られています。
    また「酉の市」は、江戸時代から続く年中行事として関東地方を中心に「日本武尊」の命日とされる11月の酉の日に執り行われている例祭です。
    機会があれば「酉の市」にあわせて参拝してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・新宿三丁目駅E2出入口を出たところです。歌舞伎町からも徒歩圏内です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、自分のほかに1名の方とすれ違いました。
    バリアフリー:
    4.0
    段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    ”圭子の夢は夜ひらく”歌碑があり、玉垣奉納者の名前を見て廻り楽しめます。

  • 御茶ノ水のシンボル的な橋梁です!

    投稿日 2020年12月30日

    聖橋 神田・神保町

    総合評価:4.0

    『聖橋(ひじりばし)』は、JR中央本線・総武本線「御茶ノ水駅・ホーム」と「神田川」および「外堀通り(都道405号)」の上空を跨ぎ、千代田区駿河台4丁目(南側)と文京区湯島1丁目(北側)を南北に結ぶ「本郷通り(都道403号)」の橋梁(橋長:79.3メートル、幅員:22メートル)であり、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」の翌年に始動された政府主導の「震災復興計画」を基に「震災復興橋梁」として1927年(昭和2年)に架橋され、現在も「御茶ノ水」のシンボル的な橋梁となっています。
    『聖橋』の特徴は、橋長およそ79.3メートルのうち、「神田川」上空部分のおよそ36.3メートルの区間が放物線を描くコンクリートアーチの内部に鉄骨(メラン材)を用いた「メラン工法」が採用されており、建設当時としては国内最大級となる「鉄骨コンクリートアーチ橋」であるとともにアーチ部分の上部に設けた柱で桁部分を支える「開腹アーチ」とすることで橋梁の側面部分が「神田川」水面からの景観を最も美しく橋梁の存在感を高めるデザインとなっています。
    2017年度(平成29年度)には、「土木学会」による土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的として2000年度(平成12年度)より認定制度が始まった「土木学会選奨土木遺産」に認定されています。
    また橋名の由来は、南側橋詰方向に位置する「東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)」と北側橋詰方向に位置する「湯島聖堂」を結ぶ橋梁であることから当時の「東京市」による一般公募により『聖橋』と命名されています。
    ちなみに「東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)」は、1891年(明治24年)に当時の国内最規模となる本格的な高さおよそ35メートルのドーム屋根が特徴的なビザンティン様式教会として竣工し、1962年(昭和37年)に国の「重要文化財」に指定されています。
    「湯島聖堂」については、徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」により1690年(元禄3年)に儒学の振興を図るための「孔子廟」として創建され、徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)に幕府直轄学校である「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が開設されています。
    1922年(大正11年)には、「湯島聖堂」として国の「史跡」に指定されたものの翌年に発生した「関東大震災」により焼失し現在の建物は、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたものです。
    『聖橋』周辺の谷のようになっている「神田川」の地形は、江戸時代初期に「江戸城」周辺の洪水対策として放水路とするために徳川幕府が仙台藩初代藩主「伊達政宗」に命じて台地を開削して人工的に整備されたことから「仙台堀」とも呼ばれるもので「神田川」水面から『聖橋』路面部分までの高低差ある風景は、『聖橋』をさまざまな角度からの写真撮影などで楽しめます。(但し現在は、「JR・御茶ノ水駅改良工事」のため『聖橋』西側の「神田川」上部に工事用仮設構台が設置されています。)
    今回は、お茶の水周辺に立ち寄った際に「外堀通り(都道405号)」から、2018年(平成30年)に完了した「聖橋長寿命化工事」によって補修された『聖橋』アーチ部分のコンクリート表層がつやのある奇麗な仕上がりになっていたので『聖橋』東側部分を写真撮影をしましてみました。
    そのほかに『聖橋』の東側は、JR・中央本線および総武本線とあわせて東京メトロ・丸の内線が「神田川」部分で地上を通過して3路線を同時に撮影できる撮影スポットでもありお薦めできます。
    機会があれば、「JR・御茶ノ水駅改良工事」が完了し「神田川」上部の工事用仮設構台が撤去されたのちに『聖橋』とともに改良工事後のJR「御茶ノ水駅」の風景を写真撮影して楽しみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    JR御茶ノ水駅・聖橋口改札または東京メトロ・新御茶ノ水駅B1・B2出口からすぐです。
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    4.0
    本郷通り(都道403号)に架かる橋梁で段差は本郷通りに段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    1927年(昭和2年)に架橋された関東大震災後の震災復興橋梁です。

  • 歌舞伎座の”懐かしい歴史を思い返す”展示エリアです!

    投稿日 2020年12月26日

    歌舞伎座 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:4.0

    『四階回廊 (歌舞伎座) 』は、1889年(明治22年)に当時の最新技術である電灯設備を導入し国内最大規模の歌舞伎専用劇場として第1期「歌舞伎座」が開場してから1923年(大正12年)に発生した関東大震災や太平洋戦争末期となる1945年(昭和20年)の東京大空襲などの幾多の困難に見舞われながら建替え工事・改修復興工事を繰り返し、2010年(平成22年)になると建物の老朽化とあわせて耐震化対策ならびにバリアフリー対策の解消に伴う建替え計画により閉場した第4期「歌舞伎座」までの”懐かしい歴史を思い返す”展示エリアとして、2013年(平成25年)に竣工した第5期「歌舞伎座」と「オフィス施設」からなる超高層複合商業施設「歌舞伎座タワー」(高さ145メートル、地上29階、地下4階)の「歌舞伎座」4階客席となる「一幕見席」(椅子席約90名、立見約60名)につながる通路部分に配置されています。
    ちなみに『四階回廊』とつながる「歌舞伎座」4階客席は、1階正面玄関から入場する通常の指定席チケットによる1階から3階までの客席と異なり、気軽に好きな一幕だけから鑑賞できるように先着順で当日販売の自由席チケット専用の「一幕見席」による鑑賞エリアとなっています。
    今回は、「歌舞伎座」夜の部公演の観劇で16時開場に合わせて「歌舞伎座」前で待ち合わせをしていましたが、予定の2時間前に到着したので、初めて「歌舞伎座タワー」5階にある歌舞伎の世界を実際に体験しながら楽しめる「歌舞伎座ギャラリー」(有料エリア)と回遊式の和風庭園となる「屋上庭園」(無料エリア)から「歌舞伎座」の大屋根三州瓦を間近で望める屋外鉄骨階段の「五右衛門階段」を4階に降りて『四階回廊』(無料エリア)に立ち寄りました。
    「五右衛門階段」から4階建物内に入ると右手側に「歌舞伎座」4階客席となる「一幕見席」ロビーにつながる通路となっており、左手側が『四階回廊』エリアとして壁面に”想い出の歌舞伎俳優”として往年の名俳優の顔写真がずらりと掲示されています。
    さらに奥に進むと第1期「歌舞伎座」から第4期「歌舞伎座」までの建物模型が展示されています。
    この「歌舞伎座タワー」4階・5階エリアは、アミューズメント空間として施設名称が「歌舞伎座 ギャラリー回廊」となっており、気軽に歌舞伎を体感できて楽しむことができました。
    そのほかに5階エリアの「屋上庭園」に隣接して落ち着いた雰囲気のある1854年(安政元年)創業の老舗「丸山海苔店」が経営する日本茶の美しさを世界に伝えるために始めた日本茶専門店の甘味処「寿月堂」とあわせてお土産処「楽座」もあり、くつろぐこともできるのでお勧めできます。
    『四階回廊』へのアクセスは、「東銀座駅」(東京メトロ・日比谷線、都営地下鉄・浅草線)3番出口に直結している「歌舞伎座タワー」地下2階の建物内「木挽町広場」左側奥にあるエレベーターホールから専用エレベーター(一番手前のエレベーター)で5階に上がり「屋上庭園」から「五右衛門階段」を降りて4階建物内に入ります。
    地上からのアクセスの場合は、「晴海通り(都道304号)」と「昭和通り(都道316号)」の交差する「三原橋」交差点の「昭和通り」に面している「歌舞伎座タワー」西側の「昭和通り口」から建物内に入りエレベーターで4階に上がります。
    機会があれば、また『四階回廊』のある「歌舞伎座 ギャラリー回廊」に立ち寄って各エリアを廻りくつろぎながら楽しみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年02月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    歌舞伎座タワー4階です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、自分のほか2名の方とすれ違いました。
    バリアフリー:
    4.0
    展示エリアに段差はありません。
    見ごたえ:
    3.5
    第1期から第4期 歌舞伎座・建物模型の展示と往年の歌舞伎俳優の写真パネルが掲示されています。

  • ”クリスマスイルミネーション”は、静粛なムードを味わうことができます!

    投稿日 2020年12月20日

    立教大学 池袋

    総合評価:4.0

    『立教大学』の歴史は、米国聖公会(英国国教会起源の会派)の宣教師”チャニング・ウィリアムズ”主教が1874年(明治7年)に聖書と洋学を教育する私塾として築地の外国人居留地に開かれた「立教学校」が始まりとされ、1907年(明治40年)には専門学校令の制定に基づき「立教大学」に改称されています。
    その後に学生数の増加に伴い敷地・校舎の狭隘化などから1918年(大正7年)に現在の「池袋キャンパス」のある豊島区西池袋3丁目に移転し、1922年(大正11年)になると大学令に基づく「立教大学」が設立されています。
    ちなみにキリスト教系私立大学(ミッションスクール)としての認可は、京都市上京区にある「同志社大学」に次いで2番目となります。
    『立教大学』(池袋キャンパス)へのアクセスは、「池袋駅・西口」を要町方面に「西口五差路」交差点を渡り「池袋二又交番前」交差点まで「都道441号」を約350メートル進んだところで「池袋二又交番前」交差点を左折して「立教通り」(区道)をおよそ300メートル進むと左手に正門があります。「池袋駅・西口」から『立教大学』正門まで徒歩8分程度(およそ650メートル)となります。
    『立教大学』正門の正面奥には、1919年(大正8年)竣工で現在も教室として使用されている2階建て(地下1階)・レンガ造(フランス積み)の「立教大学本館(1号館)」が配置されており、米国聖公会宣教師”アーサー・ラザフォード・モリス”氏の寄付によって建てられたことから「モリス館」とも呼ばれ、池袋キャンパスのシンボル的な存在となっています。
    「立教大学本館」とあわせて同じ年代に建設された左手側に配置の「立教大学図書館旧館」(2階建て・レンガ造)、右手側に配置の「立教学院諸聖徒礼拝堂」(平屋建て一部3階建て・レンガ造一部鉄骨造)の3棟の建物が、1999年(平成11年)に東京都景観条例に基づく「東京都選定歴史的建造物」として選定されています。
    また「立教大学本館」前には、1920年(大正9年)ごろに植林されたとされる円錐形に美しく剪定された高さ約25メートルの2本の「ヒマラヤ杉」があり、「立教大学本館」赤レンガの外壁を覆うツタとあわせて落ち着きのあるレトロな空間となっています。
    この2本の「ヒマラヤ杉」は、「学生キリスト教団体」の学生で結成された「クリスマス実行委員会」によりクリスマス期間限定で、”クリスマスイルミネーション”が実施されています。
    ミッションスクールらしい神聖な雰囲気が漂うレトロな空間にマッチする色とりどりの白熱灯で飾り付けられたシンプルなイルミネーションですが静粛なムードを味わうことができます。
    イルミネーションは、1949年(昭和24年)ごろから始まり毎年開催される伝統ある行事であり、「池袋西口」を訪れた際によく「立教通り」の正門前に立ち寄りますが、写真撮影などお薦めできます。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    池袋駅・西口から正門まで徒歩8分程度(およそ650メートル)です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    イルミネーション時期は、正門前に写真撮影をする方が数名います。
    バリアフリー:
    4.0
    正門前に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    ”クリスマスイルミネーション”は、静粛なムードを味わうことができます。

  • 地上10階部分に里山の自然をビオトープにより再現した屋上庭園です!

    投稿日 2020年12月13日

    豊島区役所 豊島の森 池袋

    総合評価:4.0

    『豊島区役所 豊島の森』は、豊島区が掲げる「環境都市づくり」の象徴として、かつての豊島区内に自生した植物、昆虫、鳥類などと共存する里山の自然をビオトープにより再現し、植生や生態など自然のしくみを学びながら憩える場として、2015年(平成27年)に竣工した「としまエコミューゼタウン」(地上49階建て・地下3階、高さ189メートル)10階南側屋上部分に整備された豊島区の施設です。
    ちなみに「としまエコミューゼタウン」は、日本初となる本庁舎施設と超高層マンションを組み合わせた官民一体型の建物として、「旧・豊島区立 日野出小学校」および「旧・南池袋児童館」の跡地を含む敷地面積が8,324.91平方メートルの南池袋2丁目エリア(南池袋二丁目A地区)を都市再開発法に基づく市街地再開発事業により整備され、東京メトロ・有楽町線「東池袋駅」の地下連絡通路1番出入口と直結しています。
    建物館内の構成は、地下2階に「地下鉄連絡通路」、地下2階から地下1階に「駐車場施設」、1階から2階に「商業施設」、1階一部と3階から9階に「豊島区役所」、10階に「中間免震階」を挟み、11階から49階の高層部分が「マンション施設」となっています。
    建物名称として用いられている”エコミューゼ”とは、”エコロジー(生態学)”と”ミュージアム(博物館)”を組み合わせた造語であり、10階南側屋上部分の『豊島の森』から低層部分の4階までのエリアに階段状の立体的な垂直屋上庭園となる「グリーンテラス」を配置し、さらに1階の敷地南側部分に整備されている人工地盤からなる「けやき広場」までのエリアに雨水再生利用水を循環させながら流すことにより自然と建物の共存をはかり、9階までの建物低層部分外壁全面に壁面緑化パネル、太陽光発電パネル、リサイクル木材を用いたルーバーを組み合わせた外装パネルを配置して建物コンセプトである「樹木のような建築」が表現されおり、建物竣工後の2015年(平成27年)には「グッドデザイン賞 街区・地域開発および地域・コミュニティづくり/社会貢献活動」(日本デザイン振興会)、2016年(平成28年)には「第15回 屋上・壁面・特殊緑化技術コンクール 環境大臣賞/屋上緑化部門および日本経済新聞社賞/壁面・特殊緑化部門」(都市緑化機構)、2017年(平成29年)には「日本都市計画学会計画設計賞」(日本都市計画学会)、2018年(平成30年)には「第58回 BCS賞」(日本建設業連合会)を受賞するなど各種業界団体によるさまざまな視点から評価されています。
    今回は、「としまエコミューゼタウン」に移転した「豊島区役所」に初めて訪れて10階屋上庭園の『豊島の森』に立ち寄りました。
    コンパクトですが、ビオトープにより里山の自然が再現され小川が流れる水と緑に囲まれた癒しの空間となっており、地上およそ50メートルから都心の眺望も楽しめます。
    また、10階『豊島の森』から屋外階段を利用して壁面緑化パネルなどの外装パネルで囲まれた垂直屋上庭園となる「グリーンテラス」を通りながら4階までを下り、植生の緑とともに10階から1階までを循環している雨水再生利用水が流れ落ちる水の音を聴きながら建物コンセプトである「樹木のような建築」を体感し、最近の気候変動などの地球環境保全の取り組みについて今後の都市における自然とのかかわりに関する考え方を学べたような気がしました。
    「としまエコミューゼタウン」の建物コンセプトである「樹木のような建築」の中核となる建物南側の10階屋上『豊島の森』から低層部分「グリーンテラス」4階までの空間は、まさに”エコロジー ミュージアム”です。

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・東池袋駅の地下連絡通路1番出入口と直結しています。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、小さな子連れの方が1組いました。
    バリアフリー:
    4.0
    屋上庭園は、ウッドデッキが整備されています。
    見ごたえ:
    4.0
    屋上庭園とともに地上10階からの眺望も楽しめます。

  • 歴史・文化を受け継ぎながらの再開発で評価されている超高層複合施設です!

    投稿日 2020年11月29日

    日本橋三井タワー 日本橋

    総合評価:4.0

    『日本橋三井タワー』は、”残しながら 蘇らせながら 創っていく”をコンセプトに歴史・文化を受け継ぎながら日本橋地区の再開発を両立させるために同一街区内の南側に位置する1929年(昭和4年)に竣工した「三井本館」(地上7階・地下2階建て)と西側に位置する1985年(昭和60年)に竣工した「三井二号館」(地上11階・地下3階建て)の既存建物を保存しながらそのまま一体化した建物とすることにより既存建物部分の床面積相当分を割増容積として活用する開発手法を取り入れ東京都が制定した「重要文化財特別型特定街区制」の適用第1号となる地上39階・地下4階、高さ194.69メートルの超高層複合施設として2005年(平成17年)にグランドオープンしています。
    ちなみに「三井本館」は、関東大震災で被災した「旧三井本館」の建て替え事業により1929年(昭和4年)に竣工しており、意匠的に優秀で完成度も高く昭和初期の日本を代表する本格的業務用ビルの初期となる建築物のひとつとして貴重であることから1998年(平成10年)に国の「重要文化財」に指定された重厚な洋風建築物です。
    『日本橋三井タワー』館内施設については、地下3階から地下2階に”駐車場施設”、地下1階から2階に”ショップ&レストラン施設”、3階(大宴会場など)および30階から38階(客室およびレストランなど)に”ラグジュアリーホテル施設(マンダリン オリエンタル 東京)”、5階から28階が”オフィスフロア施設”で構成されており、建物竣工後の2005年(平成17年)には「第11回 ステンレス協会賞 優秀賞」(ステンレス協会)を受賞したほか、「第40回 SDA賞 商業サイン部門入賞」(日本サインデザイン協会)、「照明普及賞 優秀施設賞」(照明学会)、2006年(平成18年)には「グッドデザイン賞 建築・環境デザイン部門」(日本デザイン振興会)、2007年(平成19年)には「第48回 BCS賞」(日本建設業連合会・受賞当時は建築業協会)、「第17回 AACA賞 特別賞」(日本建築美術工芸協会)を受賞するなど各種業界団体によるさまざまな視点から評価されている建物です。
    今回は、休日のランチ目的で東京メトロ・銀座線「三越前駅」三越方面改札口または中央改札口の目の前となる地下連絡通路と直結しているA7出入口またはA8出入口から『日本橋三井タワー』地下1階に入ってすぐの”ショップ&レストラン施設”にある「シンガポール大使館」御用達のシンガポール料理レストラン「シンガポール 海南鶏飯(ハイナンチーファン)」に初めて立ち寄りましたが、建物地下1階”ショップ&レストラン施設”の通路部分と店舗の境に間仕切り壁が存在しない開放的な空間となっており、とても明るい雰囲気で初めて訪れても利用しやすいレストランです。
    ランチ以外でも居酒屋・ダイニングバーとしてアルコール類も充実した品揃えとなっているので、宴会などでシンガポール料理とともにタイガービールをはじめとした普段飲む機会のないアルコール類などで東南アジアの雰囲気を味わい・浸りながら利用してみたいと感じるレストランとしてお薦めできます。
    機会があれば、高層階の「マンダリン オリエンタル 東京」のダイニング施設も利用してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2019年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ銀座線・三越前駅の三越方面改札口または中央改札口の目の前となる地下連絡通路A7出口・A8出口に直結しています。
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    4.0
    見ごたえ:
    4.0
    各種業界団体によるさまざまな視点から評価されている建物です。

  • 地方自治体の中で最大規模となる庁舎です!

    投稿日 2020年11月23日

    東京都庁 新宿

    総合評価:4.0

    『東京都庁』は、超高層ビル群が建ち並ぶ「新宿新都心」となる新宿区西新宿2丁目に位置する「旧淀橋浄水場跡地」再開発地域であった1号地・4号地・5号地エリアに新たな新庁舎を建設して1991年(平成3年)に旧庁舎のあった千代田区丸ノ内3丁目から移転し新たに開庁した地方自治体の中で最大規模となる庁舎です。
    『東京都庁』の誕生から新宿移転までの経緯は、前進となる「東京府庁」が1868年(明治元年)に「大和郡山藩」上屋敷を接収して現在の千代田区内幸町1丁目に開庁されたことが始まりとされ、1894年(明治27年)になると現在の「東京国際フォーラム」がある千代田区丸ノ内3丁目に赤レンガ造2階建ての新たな府庁舎を建設し移転しています。
    1943年(昭和18年)には、東京都制施行により東京都が発足し「東京府庁」がそのまま『東京都庁』となったものの太平洋戦争により赤レンガ造の都庁舎は焼失し、高度経済成長期の1957年(昭和32年)になると赤レンガ造の都庁舎跡地には、新たな地上8階・地下2階建て、高さ43.0メートルとなるメインの都庁舎(第一庁舎)が建設されています。
    1970年代ごろになると都庁舎のスペースが手狭となり山手線の線路をまたいで庁舎を分散化するなどの対策が取られていましたが、業務効率の悪化に加えて建物の老朽化・OA化対策などの課題が浮上する状況の中で、1985年(昭和60年)の「東京都議会」により当時の「新宿副都心」へ移転する計画が決定しています。
    『東京都庁』の新宿庁舎建設については、新宿移転が決定後に指名設計コンペが実施され日本を代表する8社の設計事務所の中から1986年(昭和61年)に「丹下健三都市・建築設計研究所」の設計案が採用されています。
    その建物概要は、「第一本庁舎」(地上48階・地下3階建て、高さ243.4メートル)・「第二本庁舎」(地上34階・地下3階建て、高さ163.3メートル)・「都議会議事堂」(地上7階・地下1階建て、高さ41.0メートル)の3棟と「都民広場」で構成されおり、1988年(昭和63年)から新都庁舎建設工事を着工したのちの1990年(平成2年)に当時としては日本一高い建築物として竣工し、1991年(平成3年)に新宿移転が完了したことにより「東京府庁」時代からおよそ97年間におよぶ千代田区丸ノ内3丁目エリアでの府政・都政に幕を降ろしています。
    今回は、西新宿の超高層ビル群が建ち並ぶ「新宿新都心」エリアを散策して廻り久しぶりに『東京都庁』の「第一本庁舎」45階の北展望室に立ち寄りました。
    「第一本庁舎」は、地上33階部分から上部階が北棟と南棟に分かれ北棟と南棟のそれぞれ45階に展望室が設置されおり、どちらの展望室も1階から「展望室専用エレベーター」で誰でも無料で展望室を利用することができます。
    (「展望室専用エレベーター」に乗る前に新型コロナウイルス感染予防対策としてマスク着用の確認と検温の実施と合わせて手荷物検査がありました。)
    訪れた日は、平日の午後で「展望室専用エレベーター」に乗る際も行列も無くスムーズに展望室まで行くことができました。また、天気も良く地上202メートルとなる展望室からの都心の眺望をゆっくりと堪能することができました。
    『東京都庁』の展望室は、天井高が高くフロア全体に間仕切り壁のないゆったりとした空間でベンチなども配置されており、くつろぎながら都心の眺望が楽しめるのでお勧めできます。

    旅行時期
    2020年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    JR新宿駅西口から徒歩10分程度です。(最最寄り駅:都営地下鉄大江戸線・都庁前駅)
    人混みの少なさ:
    4.0
    北展望室には20名程度の人がいました(平日の午後)。
    バリアフリー:
    4.0
    庁舎なのでバリアフリー対策は、しっかりしています。
    見ごたえ:
    4.0
    都心の眺望を堪能することができました。

  • 巨大な螺旋状の5本のリング(パーゴラ)が目を引くハイテク野外劇場公園です!

    投稿日 2020年11月18日

    池袋西口公園 池袋

    総合評価:4.0

    『池袋西口公園』は、1909年(明治42年)に「東京府豊島師範学校」が開校した後の1951年(昭和26年)になると「東京学芸大学附属豊島小学校」が開校した地域でしたが、昭和30年代ごろからの高度経済成長期に池袋駅西口周辺の区画整理問題とあわせて1964年(昭和39年)に「東京学芸大学附属豊島小学校」が閉校したことにより、翌年の1970年(昭和45年)に「東京学芸大学附属豊島小学校」跡地の一部となる現在の「池袋駅西口バスターミナル」と「東京芸術劇場」に隣接する西池袋1丁目の一画に位置する豊島区の公園(敷地面積:3,123.19平方メートル)として開園しています。
    『池袋西口公園』が開園してからしばらくの期間は、夜間になると閉鎖的で薄暗く雰囲気の良くない公園となっていましたが、1990年(平成2年)に『池袋西口公園』と隣接する東京都の総合芸術文化施設「東京芸術劇場」のオープンにあわせて「東京芸術劇場」と一体感のある開放的で明るく人が集う野外ステージ・噴水・彫刻などを配置した公園にリニューアルされています。
    さらに2016年(平成28年)に豊島区が掲げた「国際アート・カルチャー都市構想実現戦略」に基づき、2019年(令和元年)に池袋西口から世界に向けて文化芸術・地域の賑わい・情報発信拠点となる新たなランドマークとしてグレードアップした野外劇場公園に生まれ変わっています。
    新たな野外劇場公園には、公園のシンボルであり公園の愛称にもなっている6本の支柱で支えられ空中に浮かんでいるような直径およそ35メートルの巨大な螺旋状の5本のリング(パーゴラ)が目を引く”GLOBAL RING(グローバルリング)”が設置されています。
    「グローバルリング」の下部空間には、各種イベントなどが開催される多目的広場があり、広場の南側スペースに演劇・ダンスなどのほかオーケストラによる本格的なクラシックコンサートにも対応可能な野外劇場施設「グローバルリング シアター」が配置されています。
    この「グローバルリング シアター」は、多彩な演出に対応できるように舞台床が2層構造となるスーテジが整備されているほかにステージ上部に大型フルカラーLEDビジョン(横10.8メートル、縦2.88メートル)が設置されています。
    また、本格的な劇場音響計画のもと舞台の壁面・天井面に残響音の確保と初期反射音を補強する2種類の機能を備えた反射板とあわせて「グローバルリング」を支える6本の支柱に設置したサラウンドスピーカーによる8chサウンドシステムを採用した音響設備が施されている贅沢なこだわりのある空間となっています。
    そのほか大型ビジョン・音響設備と「グローバルリング」に設置されている1万球以上のLEDライトとあわせて広場中央の舗装部分に設置されている噴水が連動して幻想的な演出が定期的に行われるハイテク公園となっています。
    『池袋西口公園』には、以前より池袋駅西口に用事があった際に公園敷地内を通り抜けなどでよく立ち寄りますが、広場中央部分に設置されている噴水の演出や冬季の期間限定イルミネーションは心が癒されお薦めできます。
    機会があれば、クラシックコンサートなどのイベントが開催される際にこだわりのある音響空間を体感してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    池袋駅西口のバスターミナルと東京芸術劇場に隣接する公園です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    公園(広場)を通り抜けする人やベンチでくつろぐ人が常にいます。
    バリアフリー:
    4.5
    公園内の敷地に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.5
    直径およそ35メートルの巨大な螺旋状の5本のリング(パーゴラ)が目を引きます。

  • ”東京の近代水道発祥の地”として大都市東京を支えていた設備です!

    投稿日 2020年11月14日

    旧淀橋浄水場蝶型弁 新宿

    総合評価:3.5

    『旧淀橋浄水場蝶型弁』は、現在の日本最大級のオフィス街として超高層ビル群が建ち並ぶ「新宿副都心計画事業」がスタートする以前に約34ヘクタールの土地に整備されていた首都である大都市東京に生活用水を供給するための”東京の近代水道発祥の地”とされる重要な施設「淀橋浄水場」で使用されていた配水バルブです。
    蝶型弁(バタフライ弁)とは、管路内部に設置されている円板が回転し管路内部の断面積を変化させることにより水流量や水圧を調節する構造のバルブになります。
    ちなみに「淀橋浄水場」は、江戸時代より江戸府内に生活用水を供給するため整備されていた「玉川上水」を明治維新後にさらに発展する大都市東京を支える近代水道整備が急務となり、「玉川上水」によって導かれた多摩川の水を当時としては画期的な規模の”沈でん・ろ過”施設として1898年(明治31年)に完成したのち1965年(昭和40年)に「東村山浄水場」へ機能移転するまでの明治・大正・昭和期の67年間にわたり大都市東京に上水を供給し続けた施設です。
    『旧淀橋浄水場蝶型弁』の展示場所は、西新宿1丁目の「新宿住友ビル」が竣工した1974年(昭和51年)から敷地内の外庭の一画にありましたが、現在は2017年(平成29年)から大規模改修工事が実施され2020年(令和2年)7月にグランドオープンした全天候型屋内イベント会場となる「新宿住友ビル 三角広場」西側の一画にあります。
    展示されている『旧淀橋浄水場蝶型弁』は、製造年が1937年(昭和12年)と刻印されている管路内径が1メートルの規模であり、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」で被災した「淀橋浄水場」の「玉川新水路」に替わり甲州街道の下部に導水暗渠を通水する改良工事の一環として1937年(昭和12年)に設置されたものと推定されています。
    また『旧淀橋浄水場蝶型弁』は、2013年(平成25年)になると「新宿区地域文化財」(都市・産業分野)に認定されています。
    今回は、西新宿を訪れた際にグランドオープンしたばかりの「新宿住友ビル 三角広場」に立ち寄り『旧淀橋浄水場蝶型弁』が展示されていることを知り、管路内径が1メートルもの大型な『旧淀橋浄水場蝶型弁』を見ながら、改めて”東京の近代水道発祥の地”である「淀橋浄水場」に関する近代史を学ぶことができて楽しめました。
    機会があれば、『旧淀橋浄水場蝶型弁』のほかに「淀橋浄水場」貯水池の高低差を活かして開発が進められた「新宿新都心」の超高層ビル群を歩いて廻り高低差を体感しながら「淀橋浄水場」のついてもう少し調べてみたいと思います。

    旅行時期
    2020年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    新宿住友ビル 三角広場の一画に展示されています。
    人混みの少なさ:
    4.0
    特に立ち止まって見ている人はいませんでした。
    バリアフリー:
    4.5
    展示場所に段差はありません。
    見ごたえ:
    3.5
    淀橋浄水場で実際に使用されていた昭和12年製造のバルブです。

  • 昭和初期から44年間に渡り日本道路網の起点として日本橋の中央に設置されていました!

    投稿日 2020年11月11日

    東京市道路元標 日本橋

    総合評価:4.0

    『東京市道路元標』は、1928年(昭和3年)に当時の東京市内に整備されていた路面電車である「東京市電」の架線を懸架する支柱と街灯を兼ねた日本道路網の起点となるシンボル的な存在の「道路元標」として、1911年(明治44年)に竣工し現在も現役の橋梁である「日本橋」(橋長49.5メートル・橋幅27.5メートル・アーチ径間21メートル)の中央部分に設置されていました。
    ちなみに「道路元標」は、道路の起点と終点となるポイントを示す標識として1919年(大正8年)に制定された法令に基づき各市町村役場を中心部に設置されるようになりましたが、東京市については江戸時代の徳川幕府により江戸府内と全国各地を結ぶ重要街道となる「五街道」(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点を当時の木造太鼓橋であった「日本橋」に定めていた名残りもあり、『東京市道路元標』も「日本橋」の中央部分に設置することと定められていました。
    1943年(昭和18年)になると東京都制施行に伴い路面電車は、「東京市電」から「東京都電」に改称されたものの『東京市道路元標』は設置されたまま残されており、その後の1972年(昭和47年)に「日本橋」を走っていた「東京都電」の廃止に伴う道路改修により、『東京市道路元標』は「日本橋」中央部分から「日本橋」北西側となる橋詰め部分(現在の「元標の広場」)に移設されています。
    また、『東京市道路元標』の移設に伴い「日本橋」中央部分の道路中央センターラインに当時の内閣総理大臣「佐藤栄作」氏による『日本国道路元標』の文字が刻まれた一辺が50センチメートル四方のブロンズ製プレートが現在も埋め込まれており、そのレプリカが『東京市道路元標』とともに「元標の広場」に設置されています。
    1999年(平成11年)には、デザイン的・技術的に優れた明治期を代表する重厚な和漢洋折衷の鋳銅製装飾(麒麟像・獅子像)が施された照明灯が設置されているルネッサンス様式の石造二連アーチ橋の「日本橋」とともに『東京市道路元標』が国の重要文化財に指定されています。
    今回は、日本橋付近で待ち合わせをした際に少し時間があったので「日本橋」橋詰にある4か所の広場(元標の広場・乙姫広場・花の広場・滝の広場)を短時間でしたが散策しながら『東京市道路元標』などを見て廻り江戸時代から明治・大正・昭和初期までの活気のあった「日本橋」について改めて歴史を学び楽しむことができました。

    旅行時期
    2019年12月
    アクセス:
    4.0
    日本橋・北西側橋詰め部分となる「元標の広場」に移設されています。
    人混みの少なさ:
    4.0
    「元標の広場」の前で立ち止まる人が数名います。
    バリアフリー:
    4.0
    見ごたえ:
    4.0
    日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。

  • 2016年(平成28年)に国の重要文化財に指定されています!

    投稿日 2020年11月08日

    鬼子母神堂 目白

    総合評価:4.0

    『鬼子母神堂(きしもじんどう)』は、豊島区南池袋3丁目にある山号を「威光山」と号する日蓮宗の「法明寺」山門から約200メートルほど離れた「法明寺」飛地境内となる豊島区雑司ヶ谷3丁目にある『鬼子母神像』を祀る本殿に拝殿と相の間(幣殿)が一体となった「権現造り」の御堂です。
    ちなみに「法明寺」は、平安時代初期となる810年(弘仁元年)に真言宗の「威光寺」として開創した後の鎌倉時代後期となる1312年(正和元年)になると日蓮宗に改宗し山号を「威光山」と号する「法明寺」に改称しています。
    また『鬼子母神堂』については、尾張国の「織田信長」が駿河国の「今川義元」を討ち取った「桶狭間の戦い」の翌年となる室町時代後期(戦国時代)の1561年(永禄4年)に現在の文京区目白台付近の畑(清土の地)から出土した『鬼子母神像』を現在の「法明寺」内の一寺院であった「東陽坊」(後に「大行院」と改称)の一画に祀ったのがはじまりとされ、その後の安土桃山時代となる1578年(天正6年)になると村人により草堂が建立されたと伝えられています。
    現在の『鬼子母神堂』建立時期は、本殿部分が屋根裏の束に書かれた墨書から江戸時代の徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1625年(寛永2年)とされ、本殿とつながる拝殿と相の間(幣殿)は徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1700年(元禄13年)に広島藩2代目藩主「浅野光晟」の正室「満姫」の寄進による建築と伝えられており、台東区下谷の「仏立山 真源寺」(別称:入谷鬼子母神)と千葉県市川市の「正中山 法華経寺」(別称:中山法華経寺)とともに安産・子育の守り神の「江戸三大鬼子母神」として江戸庶民から武家まで多くの信仰を集めたほか徳川将軍家の御成りもあったとされています。
    1960年(昭和35年)になると「東京都有形文化財」に指定されたほかに1976年(昭和51年)から1979年(昭和54年)にかけて実施された解体復元の大修理を経て、2016年(平成28年)に本殿と拝殿・相の間(幣殿)とで異なる特徴を持つ江戸時代の建造物であることから歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され国の「重要文化財」に指定されています。
    今回は、平日の午後に東京メトロ・副都心線「雑司ヶ谷駅」から池袋方面に徒歩で向かう途中で『鬼子母神堂』に立ち寄ることにしました。
    『鬼子母神堂』へは、「雑司ヶ谷駅」1番出入口から「鬼子母神表参道」を通り5分程度(およそ350メートル)の静かな住宅街に囲まれた中に位置し、境内はひっそりとしていましたが七五三のほか地元の方と思われる人達の参拝者が入れ替わり訪れていました。
    境内には、『鬼子母神堂』のほかに「金剛不動尊」を安置した「法不動堂(のりふどうどう)」や「倉稲魂命(うけみたまのみこと)」を祀った「古社武芳稲荷」、1956年(昭和31年)に東京都の「天然記念物」に指定されている「鬼子母神の公孫樹(いちょう)」(樹齢600年以上、樹高30メートル以上、幹周8メートル)、徳川幕府第10代将軍「徳川家治」の時代となる1781年(天明元年)創業の日本最古の駄菓子屋といわれている「上川口屋」などがあり、住宅地の憩いの場といったイメージで落ち着きのある癒しの空間となっています。
    また、「鬼子母神表参道」には1940年(昭和15年)に東京都の「天然記念物」に指定された約100メートルの区間に渡り推定樹齢600年を超える古木が含まれるケヤキ並木が続く「鬼子母神大門ケヤキ並木」も見どころのひとつです。
    機会があれば、雑司ヶ谷周辺を訪れた際にまた立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ副都心線・雑司ヶ谷駅1番出入口から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    地元の方と思われる人達の参拝社が入れ替わり訪れていました。
    バリアフリー:
    3.0
    参拝をする際に段差があります。
    見ごたえ:
    4.0
    江戸時代の建造物として歴史的・意匠的に価値が高いとして国の重要文化財に指定されています。

  • 老舗高級料亭の創業者が考案した”松花堂弁当”をいただけます!

    投稿日 2020年10月31日

    東京吉兆 歌舞伎座店 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:4.0

    『東京吉兆 歌舞伎座店』は、1991年 (平成3年)に高級料亭『吉兆』が創業者の親族間で”のれん分け”する形で『吉兆グループ』としてグループ会社制に移行したことにより設立された『東京吉兆』が経営する店舗として、2013年(平成25年)に第五期「歌舞伎座」としてリニューアルオープンした「歌舞伎座」場内3階(舞台上手側)にある食事処であり、「歌舞伎座」場内の店舗のため「歌舞伎座」公演の際に「歌舞伎座」場内の入場者を対象に歌舞伎演目の幕間となる時間に合わせて完全予約制により「松花堂弁当」を提供する施設となります。
    『吉兆』の歴史は、1930年(昭和5年)に大阪市西区新町で食後に茶の湯でお茶を点てて”おもてなし”をする茶懐石の日本料理店『御鯛茶處 吉兆』として創業し、太平洋戦争終戦後となる1945年(昭和20年)以降から多店舗展開を進めており、1961年(昭和36年)には東京・銀座に『吉兆 東京店』(現在の『東京吉兆 本店』)を出店するとともに1978年(昭和53年)に開催された「東京サミット」では「赤坂離宮迎賓館」での晩餐会でサミット史上初となる日本料理を提供するなど「世界之名物 日本料理」をキャッチフレーズに高級料亭としての地位を築き上げている老舗です。
    今回は、「二月大歌舞伎・夜の部」公演の観劇での夕食の場として『東京吉兆 歌舞伎座店』を利用しましたが、歌舞伎演目の幕間に毎年恒例の年中行事として出演中の歌舞伎役者による「節分祭追儺式・豆まき」の開催日でもあり、「歌舞伎座」特製の大入袋に入った豆を舞台上から客席に向かって行われる豆まき行事で大入袋に入った豆をゲットしてから食事に向かいました。
    舞台上手側(舞台に向って右手側)のエスカレーターで3階に上がったところにある店内は、ホール席3ブース、ロングカウンター席8席、小個室1部屋(別途個室使用料)からなる全66席のゆったりとした落ち着いた雰囲気の空間となっており、幕間の時間に合わせて待ち時間なく支度されている見た目も美しく上品な「松花堂弁当」をホール席で美味しくいただきました。
    ちなみに「松花堂弁当」は、江戸時代初期の僧侶であり文化人でもある「松花堂 昭乗(しょうかどう しょうじょう)」が愛用した道具箱(絵具箱)として用いた小物入れにヒントを得て『吉兆』創業者が考案した縁の高い四つ切り箱を用いて刺身、焼き物、煮物、飯などを見栄え良く配置した弁当です。
    機会があれば、また利用してみたい食事処です・・・

    旅行時期
    2020年02月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    一人当たり予算
    7,500円未満
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    4.5
    歌舞伎座場内3階(舞台上手側)にある食事処です。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    サービス:
    4.0
    歌舞伎演目の幕間となる時間に合わせて食事の支度がされており待ち時間はありません。
    雰囲気:
    4.0
    ゆったりとした落ち着いた雰囲気の空間です。
    料理・味:
    4.0
    創業者が考案した見た目も美しく上品な”松花堂弁当”をいただけます。
    バリアフリー:
    4.5
    店内は、通路も広く段差はありません。
    観光客向け度:
    4.0
    歌舞伎座場内の入場者を対象にした完全予約制の食事処です。

  • 新宿歌舞伎町から徒歩圏内のパワースポット神社です!

    投稿日 2020年10月25日

    花園神社 新宿

    総合評価:4.0

    『花園神社』は、創建時期が不詳ですが「徳川家康」が江戸に入府した1590年(天正18年)以前に「大和吉野山」より総本社が「伏見稲荷大社」である稲荷神の穀物の神とされる「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」が現在の新宿3丁目「新宿伊勢丹」付近に勧請(神様の分霊を迎え祀ること)され、新宿の総鎮守として信仰を集めていたと伝えられています。
    徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代である寛永年間(1624年から1645年)になると神社境内であった場所の周囲を取り囲むように旗本「朝倉宣正」の下屋敷が徳川幕府より拝領されたため、神社境内を「尾張徳川家」下屋敷の庭の一部で多くの花が咲き乱れていた現在の場所(新宿5丁目)に遷座(神様の場所を移すこと)することになり、その場所が美しい花園の跡であったことから『花園稲荷神社』と呼ばれるようになったことが社名の由来とされていますが、当時は「三光院稲荷」または「四谷追分稲荷」とも呼ばれており、1916年(大正5年)になると正式に社名が『花園稲荷神社』となっています。
    その後1928年(昭和3年)には現在の新宿4丁目にあった「雷電稲荷神社」(御祭神:穀物・農業を司る女神である「受持神(うけもちのかみ)」)が合祀され、1965年(昭和40年)には現在の鉄筋コンクリート造による本殿の建て替えに合わせて神社境内に末社として鎮座していた「尾張徳川家」によって祀られたと伝わる「大鳥神社」(御祭神:戦勝の神である「日本武尊(やまとたけるのみこと)」)を合祀し、社名も現在の『花園神社』に改められています。
    今回は、10月後半の平日に『花園神社』を参拝しましたが、11月の「酉の市」準備のために神社境内に仮設足場を組み立てて提灯の取り付け作業が行われていました。
    「酉の市」は、江戸時代から続く年中行事として関東地方を中心に「日本武尊」の命日とされる11月の酉の日に執り行われている例祭であり、『花園神社』では明治時代から「酉の市」が始まり、現在では「鷲神社(東京都台東区)」、「大國魂神社(東京都府中市)」とともに「関東三大酉の市」のひとつとに数えられ毎年大勢の参拝者で賑わいます。
    今までにも『花園神社』を数回にわたり参拝していますが、「酉の市」の際に参拝したことがないので、機会があれば「酉の市」にあわせて参拝してみたいと思います。
    そのほか徳川幕府第10代将軍「徳川家治」の時代である1780年(安永9年)、および第11代将軍「徳川家斉」の時代である1811年(文化8年)に発生した大火により焼失した社殿再建のため神社境内に見世物小屋を設けて芝居や踊りなどの興行をするなどの芸能との関りが始まったとされています。
    1928年(昭和3年)になると神社境内に摂社となる「芸能浅間神社」(御祭神:芸能の女神として「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」)を創祀、1965年(昭和40年)に現在の明治通り側となる境内北東部分に位置する一画に遷御しています。
    この「芸能浅間神社」には、芸事・ヒット祈願など多くの芸能関係者が参拝や奉納に訪れており、1970年(昭和45年)に「第1回 日本歌謡大賞」で大賞を受賞した「藤 圭子」さんのヒット曲「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑が建立されています。
    また「芸能浅間神社」と同じく神社境内に摂社として1928年(昭和3年)に創祀されたとされる奉納された朱色の鳥居が連なる「威徳稲荷神社」(戦災で資料焼失のため詳細不明)は、恋愛成就・夫婦和合・子授け・縁結びなどのご利益があるとされています。
    『花園神社』は、新宿歌舞伎町からも徒歩圏内であり新宿の総鎮守として商売繁盛・開運出世・家内安全・才能開花・芸事成就・縁結び・子授け・夫婦和合などのご利益があるお勧めのパワースポット神社です。
    また境内にはサクラの木もありお花見スポットとしてもお薦めできます。

    旅行時期
    2020年10月
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・新宿三丁目駅E2出入口を出たところです。歌舞伎町からも徒歩圏内です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    参拝者が絶えることがあるませんが、企業の安全祈願などがある場合を除き込み合うことはありません。
    バリアフリー:
    2.5
    本殿を参拝するには、階段を昇ります。
    見ごたえ:
    4.0
    サクラの花見スポットとしてお勧めできます。”圭子の夢は夜ひらく”歌碑があります。

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