”私利を追わず公益を図る”の信念を生涯貫いた大実業家の銅像です!
- 3.5
- 旅行時期:2020/12(約5年前)
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by hiroさん(男性)
丸の内・大手町・八重洲 クチコミ:9件
『渋沢栄一 銅像』は、幕末から明治・大正・昭和初期の1931年(昭和6年)までの近代日本の激動期となる91年の生涯の中で、500以上におよぶ多種多様な企業・団体の設立などに関与し、大実業家として「近代日本経済の父 」または「日本資本主義の父」などと称されている『渋沢栄一』(雅号:青淵(せいえん)ゆかりの地にさまざまな姿の像がいくつも存在する中のひとつとして、千代田区大手町エリアの「日本橋川」右岸側沿いの「常盤橋公園」の一画にあります。
「常盤橋公園」は、「江戸城」外郭の正門であり街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられていた「常盤橋門」跡であり、「常盤橋門跡」の石垣とともに「常盤橋門」につながる見附橋であった江戸時代の木製橋から1877年(明治10年)に架け替えられた西洋の近代的な意匠を取り入れた石造二連アーチ橋の「常磐橋」が1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により甚大な被害を受けた中で、1933年(昭和8年)に「渋沢青淵翁記念会(現:渋沢栄一記念財団)」が修復・復興するとともに”東洋のロダン”と称された「朝倉文夫」制作の『渋沢栄一銅像』を建立した公園として整備され開園しています。
その後の太平洋戦時下になると金属類回収令により『渋沢栄一 銅像』が撤去されますが、1955年(昭和30年)に再び「朝倉文夫」によって復元・制作され現在に至っています。
ちなみに『渋沢栄一』は、徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1840年(天保11年)に武蔵国血洗島(現:埼玉県深谷市)の農家に生まれ、幼少期より家業の藍染に使用する藍の葉の買い付けを手伝いながら学問に励み、1853年(嘉永6年)の「黒船来航」以降の幕末を向える混乱期の中での一橋家・家臣「平岡円四郎」との出会いがきっかけとなり、1864年(文久4年)に農民から「一橋慶喜」の家臣(武士)に取り立てられ、その2年後には才能が高く評価され26歳で一橋家「勘定組頭」となり、さらに翌年の1867年〈慶応2年)に「一橋慶喜」が徳川幕府第15代将軍「徳川慶喜」として将軍職を就任したことに伴い武士となりわずか3年で幕臣となっています。
また幕臣となった同年に「第2回 パリ万国博覧会」の徳川幕府・日本使節団の随行員に加わり御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)としてヨーロッパ各国を訪問しながら経済などの社会制度について見聞を広めることで実業家としての礎を築き、大政奉還後となる1868年(明治元年)に帰国しています。
1869年(明治2年)になると明治政府に招かれ官僚として民部省(現:財務省)で財務・経済政策に携わりますが1873年(明治6年)に退官し、実業家として”私利を追わず公益を図る”の信念を生涯貫き公益を優先し日本の発展に寄与した人物であると言えます。
今回は、大手町周辺に立ち寄った際に「常盤橋公園」の前を通り以前より気になる偉人のひとりである『渋沢栄一 銅像』の写真撮影をしましたが、2011年(平成23年)に発生した「東日本大震災」により落橋の危険が生じた「常盤橋」の大規模な復元工事とあわせた「常盤橋公園」整備工事のため工事用仮囲いで立ち入りができませんでした。
凛々しい表情の『渋沢栄一 銅像』を見て2024年(令和6年)に新一万円札の図柄として採用される『渋沢栄一』の生涯についてもっと知りたいと思いました。
『渋沢栄一』が主人公となる2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ(第60作)「青天を衝け」が楽しみです。
また『渋沢栄一』ゆかりの地なども散策してみたいほか、機会があれば「常盤橋公園」・「常磐橋公園」の工事完了後に『渋沢栄一 銅像』を見に立ち寄りたいと思います。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 東京メトロ半蔵門線・三越前駅のB1出入口からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の午後で人通りは殆どありませんでした。
- バリアフリー:
- 3.5
- 銅像前に石段が数段あります。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 凛々しい表情の立像です。
クチコミ投稿日:2021/01/11
いいね!:2票
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