2025/05/24 - 2025/05/24
5位(同エリア24件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1747冊
- クチコミ1204件
- Q&A回答73件
- 3,429,167アクセス
- フォロワー170人
「ワイト島」2日目はホテルに荷物を預けて、「ライド」からバスに乗って「ニューポート」を目指します。島内のバス路線はとてもシンプルなので始めてきても迷うことはありません。時刻表もしっかりしているし、ほぼほぼ時間どおりに運行しているので日本と同じ感覚で旅できます。30分ほどで「ニューポート」に到着しバス会社のインフォメーションで「カリスブルック城/Carisbrooke Castle」への行き方を尋ねると、「歩いても簡単に行けるわよ。でも7番のバスに乗っても近くまで行けるけど30分くらい待たないと。」というノリだったので歩くことにしました。ところがこれがかなりの道のりで、最後は丘を登る様なルートです。3週間の旅の終盤でお疲れ気味の妻は坂を上るのがしんどそうです。手を引いて励ましていると1台の自家用車が脇に停まり、運転席の窓が開きました。おばあさんが「あなたたちカリスブルック城に行くんでしょ。まだ坂道が続くから後ろに乗りなさい。」と声を掛けてくれました。これにはとても助かりました。これまでも海外の旅で何度か車に乗せてもらったことがありますが、いつも誰かに見守られているような感じがします。親切にしてくれた人たちの顔は今でも思い出すことが出来ます。おばあさんは我々を降ろすとあっという間に走り去ってしまいました。「カリスブルック城」は昨日のオズボーン・ハウス」と共に「ワイト島」では絶対に行きたい場所の1つでした。ここも今回旅したいくつかの城や城館と同じイングリッシュ・ヘリテッジ( English Heritage)というイングランドの歴史的建造物を保護する目的で英国政府により設立された組織が管理しています。以前に「ロンドン」を旅していて知ったチャールズ1世の斬首はよく覚えていましたが、彼が裁判の前に幽閉されていたのがこの「カリスブルック城」でした。そんな歴史を頭に置きながら城内を見学しました。プラスアルファでしたが城で飼われているロバたちに出会えたのも楽しい経験でした。帰りは坂道を降りたところにあるバス停から「ニューポート」へ戻り、乗り換えたバスで「ライド」方面へ戻りながら途中にある「クオーアーアビー/Quarr Abbey」に立ち寄ります。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー ヒッチハイク 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「ワイト島」の「ライド」での夜が明けました。この日は珍しく快晴という天気ではありませんでした。まずは1階のダイニングで朝食にします。今日はフル・イングリッシュ・ブレックファストではなくフライドエッグにハムとパンにしました。
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昨夜の中華レストランでいただいたフォーチュンクッキーです。ここまでの占い4回に引き続き、書かれているのは妻の方が良いことでした。このまま一緒にいると自分の運を全部持っていかれるような気がしてきました。
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午前9時過ぎにチェックアウトしてフロントで荷物を預かってもらいます。
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立地的にも便利で朝食も美味しかったし、快適なホテルでした。朝食付きで1泊22,000円くらいでしたので高いとは思えませんでした。
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御膳9時45分発の「ニューポート」行きのバスに乗り込みます。「ワイト島」のバス路線はシンプルなので観光客でも利用するのは非常に便利です。
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今日も英国国教会「All Saints’ Church」の前も通過しましたが、昨日のような青空ではありません。
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ロータリーで「ライド」へ向かう回送バスとすれ違いました。この島のバスはどれも新しくてきれいです。
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5月8日は第2次世界大戦でのナチス・ドイツへの勝利記念日でした。もう2週間以上経っていますがリメンブランス・ポピーがまだ残っています。「ヤーンボーミング」は糸爆弾という意味で、カラフルな編み物やかぎ針編みを使ったストリートアートのことです。
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バスは昨日の「イースト・カウズ/East Cowes」へのロータリーを曲がらずに、直進して進みます。
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終点の「ニューポート/Newport」の町が見えてきました。「ニューポート」一帯にはローマ時代の定住地があったようで、当時はメディナと呼ばれていたようです。現在の「ニューポート」は「ワイト島」第一の町で、島内の全ての主要な町と交通網で繋がれています。メディナという名前のせいか何となく「マルタ島」や「ゴゾ島」を思い出します。
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小さな停留所でバスを降りて、近くにある観光案内所で「カリスブルック城/Carisbrooke Castle」への行き方を尋ねると、「歩いても簡単に行けるわよ。でも7番のバスに乗っても近くまで行けるけど30分くらい待たないと。」というノリだったので歩くことにしました。
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小さい街の割には大きなショッピングセンターがありましたが、近くにあったトイレに寄ってから歩いてお城に向かうことにします。
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町の中心地はあまり大きくないのですぐに住宅地へと風景は変わって行きます。
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住宅街の路地からクラシックなダブルデッカーが現れました。これはサザン・ベクティスという会社のイベント用のバスで、これからウェディング・パーティがあるようです。慌ててカメラを向けるとドライバーさんが笑いながら手を振ってくれました。
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「マルタ島」へは2回旅をしていますが、クラシックな路線バスがたくさん走っている時代に行けて良かったと思います。あの古いベッドフォードやレイランドのバスたちはどうしているのでしょう。
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城の名前の付いた道なので間違えてはいませんが、インフォメーションのお姉さんの雰囲気とは違って、歩いても歩いても城には着きません。
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そのうちに住宅街も途切れてきました。これで7番のバスが通り過ぎたら悲しいのですが、それも無いので先へ進むしかありません。妻がだんだん無口になってきたのでヤバいなと感じます。
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グーグルマップで確認しながらバス通りから左へ曲がると坂道になってきて、妻の手を引いて昇っていると1台の車が横に停まりました運転席の窓が開いておばあさんが「あなたたちカリスブルック城に行くんでしょ。まだ坂道が続くから後ろに乗りなさい。」と声を掛けてくれました。
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乗せていただいた後もかなりの坂道を登り、お城の駐車場で我々を降ろして車は先へと進んでいきます。お礼は言えたけどおばあさんに感謝です。これまで何度か旅先で車に乗せていただいたことはありますがどれも良い思い出です。
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帰りは絶対にバスで戻ると言っていますが、登ってきた坂道を下らないとバス停はありません。
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イングリッシュ・ヘリテッジ( English Heritage)はイングランドの歴史的建造物を保護する目的で英国政府により設立された組織で、この「カリスブルック城」も登録されていますし、昨日行った「オズボーン・ハウス」、クルーズ中にエクスカーションで立ち寄った「ポートランド・キャッスル/Portland Castle」や「カルゼアン城/Culzean Castle」も同様です。
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城の始まりは古代ローマ時代に遡りますが、1100年から城はリチャード・ド・レッドバースの家族の所有であり、その後の2世紀にわたって彼の子孫は石の壁や塔など城を改築しました。
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1293年にレッドバースの最後の居住者であるイザベラ・ド・フォルティバス伯爵夫人が城をエドワード1世に売却しました。城郭はヘンリー1世の治世に城に追加され、エリザベス1世の治世にはスペインの無敵艦隊が予想され、1583年にワイト島の総督に任命されたジョージ・キャリー卿によってさらに要塞によって囲まれました。「ポーツマス」から「ワイト島」に渡る船上からもいくつもの海上要塞や城砦を見ると、スペインやフランスへの防備の最前線だったのだろうと感じます。
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この城を有名にした最大の事例はロンドンのホワイトホールで斬首された国王チャールズ1世が1647年から1648年の間に投獄されていたということです。7年間の戦いの後でも国王の処刑は国民に衝撃を与えたようです。国王の処刑を命じる令状のコピーには左下にオリバー・クロムウェルの署名があります。
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1649年1月27日に裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告されました。1月30日に自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズ1世は斬首されました。彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ」だったそうです。
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この「礼拝堂」は正門から入った右側にあります。1904年に城内の「聖ニコラス礼拝堂」が再建され、チャールズ1世の記念碑として再奉献されました。礼拝堂を見学しながらチャールズ1世の人生を振り返ってみます。
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1625年にチャールズ1世は父王のジェームス6世の崩御にともなって即位します。
チャールズは戴冠した年にフランス=ブルボン家のヘンリエッタ( Henrietta Maria of France )と結婚します。ヘンリエッタはカトリック教徒だったたので「カトリック信仰を続けられること」を条件として結婚に同意しました。プロテスタント勢力が優勢のイングランドにおいてヘンリエッタは非常に不人気だったようです。 -
チャールズ1世の宗教観はカトリック寄りと見なされ、議会のピューリタン(イングランド国教会の改革を主張したプロテスタント)から協力を得られませんでした。議会はむしろ国王大権を抑制しようとし、耐えかねたチャールズ1世は議会を解散して以後の11年間は議会を招集しませんでした。
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チャールズは「王権神授説( Divine Right of Kings )」を信じ、己の良心のみに従った統治を進めました。国民の多くはこれを「専制君主」であると認識し、不法に課される税金などに大いに不満を募らせました。
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チャールズ1世はイングランド国教会(英国国教会)を支持しており、スコットランド教会をこれに同化させようと試みたことで激しい抵抗を受けました。チャールズ1世による宗教統一に猛反発したスコットランド人らは「国民盟約(National Covenant)」に署名して団結しました。
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チャールズ1世が差し向けた主教は盟約派によってスコットランドから追放されました。チャールズ1世はこれを反乱ととらえて鎮圧するための兵を挙げます。この戦いは「主教戦争( Bishops’ Wars )」や「スコットランドの反乱」として知られています。
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この戦いの軍資金が必要になったチャールズ1世は、やむを得ずイングランド議会を招集しますが、議会は軍資金の徴収を認めませんでした。資金を得られなかったチャールズ1世はスコットランド国民盟約派軍に破れてしまいます。
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さらにはイングランド議会によって「国王大権への制限」を設けられ、憤慨したチャールズ1世は議員の逮捕を試みますが失敗し、暴動が起きてロンドンを追われたために兵を挙げて鎮圧にかかります。議会もまた兵を挙げて応戦しましたが、これが「ピューリタン革命 」、イングランド内戦(Civil war)」に発展していきます。この時とばかりアイルランドでもイングランド支配に対する反乱が勃発しました。
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イングランド議会派はスコットランド盟約派と同盟を結び、チャールズは第1次内戦に破れます。このときはあえてスコットランド盟約派軍にだけ降伏しました。敵の同盟を破綻させる狙いがあったからですが、盟約派にも複雑な事情がありました。そのためチャールズ1世の身柄はあえなくイングランド議会に引き渡されてしまいました。
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イングランド議会はチャールズ1世に「立憲君主制( Constitutional Monarchy )」の受け入れを要求しますが、チャールズ1世はこれを拒んで逆転の機会をうかがいました。
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チャールズ1世は一度は脱走に成功しますがあえなく捕まり、「ワイト島」で再投獄されます。チャールズ1世はスコットランド盟約派の一部を味方につけ、獄中から第2次イングランド内戦を展開しますがこちらも敗戦しました。
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その時に幽閉されたのがこの「カリスブルック城」というわけです。チャールズ1世は1649年に処刑されるまで14か月間ここに投獄され、その後は彼の2人の子供は城に閉じ込められ、エリザベス王女はそこで亡くなりました。
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国王の処分についてはイングランド議会派のなかでも意見が分かれ、強硬派とニューモデル軍( New Model Army )の一部は裁判と処刑を望み、国王との和解を求める長老派議員を議会から追放しました。
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チャールズ1世は裁判にかけられて有罪判決を下されて1649年に処刑されました。
この後イングランド、国王のいない共和国( Commonwealth of England )として宣言され、1660年に「王政復古」がなされるまで国王不在の期間が続きます。 -
広場の先にある小屋の案内板を見て昨日の「オズボーン・ハウス」にあったロバを紹介の意味が分かりました。「カリスブルック城」は丘の上にあるので水源の確保が必要だったようで、そのための深い井戸が掘られました。その水汲みのために巨大はホイールを造り、その中をロバに歩かせることでロープを巻き上げて水を汲んだようです。
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その実演が見られるのですが、まだ時間があったので奥にあるロバの小屋を見に行くことにします。
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ロバの耳というとギリシャ神話のミダス王の物語を思い出します。贅沢を嫌うミダス王は田舎に住み、自然と芸術や音楽を愛し、心豊かに穏やかな生活を送っています。ある日のこと笛を吹くパーン神の音色にすっかり心を打たれ、ミダス王が賛辞を贈ると、パーン神は自分は世界一の音を出すと自信満々に答えます。それを聞いていた立琴の名手であるアポロンが異議を唱え、どちらの音色が優れているかと争いになります。山の神たちはアポロンの方が上手いと審査をしますが、ミダス王だけはパーン神の方ほうが上手いと言います。すると怒ったアポロンは「そんなバカ耳はロバの耳になってしまえ」とミダス王の耳をロバの耳にしてしまい、「王さまの耳はロバの耳」の話しはここから始まります。
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ロバと馬は気質に違いがあると言わ、馬は好奇心が強く社会性があり、繊細であると言われ、反してロバは新しい物事を嫌い、駆け引き下手で図太い性格と言われます。実際にロバのコミュニケーションは馬と比較して淡白であり、多頭曳きの馬車を引いたり、馬術のように乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手なようです。
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小屋の壁には「幸せなロバのためのレシピ」が掲げられていました。
①餌と運動のための乾草が供給されたパドック。
②日差しや雨や虫から身を守るシェルター(この厩舎は1998年に建てられました。
③飲料水は井戸水ではなく水道水を使用しています。
④健康的な食事として、夏は良質な大麦藁と補助的な乾草を与えます。
冬は大麦藁以外に低カロリー高繊維の飼料とビタミンミネラルのサプリメント。
⑤井戸小屋でのデモンストレーションとして有益な雇用管理。 -
記録によると少なくとも17世紀からロバを使った井戸の水汲みが行われていました。19世紀になるとロバの水汲みは一般公開され、20世紀になって水道管が施設されても観光用として残されました。
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ロバたちは日中は城内の厩舎と城外にある大きな牧草地で過ごすようです。ロバは2頭1組で育てられ、1組は午前中、1組は午後に牧草地で過ごします。その間に何度か井戸のホイールを回す仕事があります。
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ロバは訪問者に人気があるだけでなく訓練も安易で50年近くも生きます。1921年に井戸小屋の管理人だったトム・マグロッティはロバに代わってシェトランドポニーを水車の中で働かせる訓練を試みましたが失敗したようです。1日に数分だけ働き、引退した後はワイト島ロバ保護区かデボン州にあるロバ保護区へ送られます。
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井戸の車輪は円周15メートルです。ロバはバケツを引き上げるために車輪を17回まわさなければならないようです。これには5分ほどかかります。
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同じような仕組みのホイールを「モンサンミッシェル」でも見たことがありました。これはさらに大きいものでしたが人力で回転させていたようです。ギリシャの「メテオラ」の修道院の物はもっとコンパクトでした。
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いよいよ井戸小屋の中でロバの実演が始まります。まずはトレーナーのおばさんが説明をしてくれますが、この話がなかなか長いです。内容は案内板に書かれてあるのとほぼ同じことです。
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ロバはおばさんに体当たりしたり、早くやらせろみたいな態度です。なるほどロバは頭がいいんだなと思わせます。
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そのうち痺れを切らせて自らホイールそばに行ってスタンバイしてしまいます。その動きが何ともかわいらしく、これまでのロバに対してのイメージが大きく変わりました。モロッコやチュニジアを旅すると荷車を牽く動力としてのロバを見ることが多く、休んでいるときは前脚2本にロープをかけられるだけで歩けない姿を見ました。
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ようやく実演が始まりました。ロバにとってもこれは楽しいアトラクションのように感じます。
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最後に井戸を覗いてみましたが、その深さのせいで底は見えません。係りのおばさんが小石を落としましたが、「ポチャン!」と音がするまでかなりの秒数がありました。帰国後に気が付きましたが、子供の頃に学校の図書館で借りて読んだ「ムーンフリートの秘宝」の中に登場するモフネダイヤモンドの隠れ場所だと知りました。
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今回の旅を通してアーサー王について考えてみたり、古代ローマの遺跡を見たり、英国の歴史を学び直し、タイタニック号を想い、子供の頃に読んだ本を思い出しているとテリー・ギリアム監督の映画「バンデッドQ」の主人公になったようなモンティ・パイソン「モンティ・パイソン」など昔のイギリスのコメディーとか面白かったことを思い出します。
https://www.youtube.com/watch?v=2AxiATxLofk
https://www.youtube.com/watch?v=tLmxmeX9wHs -
この城は1896年から1944年までワイト島の総督としてヴィクトリア女王の娘ベアトリス王女の家でした。また、チャールズ1世の娘のエリザベス・スチュアートは14歳でこの城で亡くなっています。彼女は近くのニューポートにある「セント・トーマス教会」に埋葬され、墓石にはエリザベス・スチュアートのイニシャル「ES」のみが刻まれていたそうです。200年後に「オズボーン・ハウス」に定住していたヴィクトリア女王は不憫に思ったのか彫刻家のカルロ・マロケッティにエリザベスの白い大理石の彫刻を作らせました。
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クリス・ビアードショーが設計したこの美しいエドワード朝様式の庭園はヴィクトリア女王の娘のオリジナルの庭園に基づいています。植物はベアトリス王女の青、赤、金の紋章を反映するように選ばれているようです。1913年よりベアトリスはこの城を別荘として使用していました。
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ベアトリスは幼少の時にはナポレオン3世の皇太子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ(ナポレオン4世)との結婚話もあがっていたが、ルイは戦死したために実現しませんでした。
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その後に姪の結婚式で新郎の弟であるバッテンベルク公子ハインリヒ・モーリッツを見初めて結婚しました。
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母であるヴィクトリア女王の生前は秘書の役割をしており、後に母の日記を編纂しました。秘書役に重宝がられたのが災いして婚期が遅れた面もあるようです。
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ヴィクトリアは末娘をそばに置いておきたかったため、結婚相手のハインリヒは三男で領地も肩書きもなく、女王には好都合の婿だったようです。
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ベアトリスの娘にはヴィクトリア・ユージェニー・ジュリア・エナがおり、スペイン王アルフォンソ13世の妃となります。彼女はフアン・カルロス1世の祖母にあたります。
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妻はここまで来るのに疲れてしまったようで、のんびり庭園を眺めています。
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入口の看板にチョークで案内されていたサルビア・ネモローサ「五月の夜/May Night Sage」です。
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先ほど見学した「聖ニコラス礼拝堂」に隣接する庭園は、元々は墓地があった場所のようです。
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素朴な石積みのこの城には自然なままのイングリッシュガーデンがよく似合う気がします。
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イチジクが小さな実をつけていました。子供の頃に実家の前の家イチジクの木があり、実が生るとその家のおばあさんが届けてくれました。小さい実だったので美味しく感じられませんでしたが、その木のことを思い出しました。幼稚園の庭にあった枇杷は甘くなく、線路向こうの友人の家の石榴も渋かった記憶しかありません。ろくな思い出ではありません。
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朝一番で来た観光客は博物館の見学も終えたようなのでそろそろ移動しましょう。
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妻も少し休憩して元気になったようです。この後博物館を見学した後は城壁を1周するつもりですが、妻は絶対に歩かないだろうなと確信しました。
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1940年代までワイト島の総督の公邸として使用された城館は良好な状態が残っています。絵に描いたようなイギリスの城といった風格を感じます。
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14世紀の「カリスブルック城」を再現した模型があります。現在の姿と比べてもあまり変わらないような気がします。
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ジョージ・ケアリーの印章(石膏模型)です。彼の父親はイギリスのエリザベス1世のいとこでした。彼はスペイン無敵艦隊の脅威の間、ワイト島の防衛の司令官でした。彼の印章には海に浮かぶ3本マストの軍艦やテューダー朝の旗など貴族的な経歴と商業的関心を表す図像が描かれています。
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テューダー朝時代には子供たちに英語の基礎を教えるためにこのようなホーンブック(Hornbook)が使われました。通常は木製のホルダーに英文の書かれた羊皮紙や紙を入れていました。このホーンブックは革製のホルダーで出来ており、ジョージ1世の娘のエリザベスが使ったものと考えられます。
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バートマンジャグ(Bartmann jug)はビールジョッキとして使われ、ドイツ語で髭を生やした男を意味するバーとマンと呼ばれました。描かれた顔は神話上の野人のものです。1634年以降このジョッキは不人気だった枢機卿ロバート・ベラルミーノを揶揄して「ベラルミーノ」と呼ばれました。大山崎山荘美術館に同じようなものがいくつもあった記憶があります。アサヒビールの美術館ですから。
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チャールズ1世は当初は島の議会は総督であるロバート・ハモンドによって名誉ある客人として扱われ、家具や数十人の使用人がハンプトン・コートからやってきました。しかし、1647年のクリスマスに議会の合意努力を拒否し、スコットランド人との条約を求めたことから客人としてではなく囚人とされました。
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当初のチャールズ1世は囚人でありながら丁重な扱いを受け、大広間で20品のコースディナーを食べ、使用人の給仕を受けていました。彼のためにボウリング場まで造られました。部屋ではプライバシーを保ちながら読書や執筆を行い、脱獄も計画しました。彼はこの城から2回の脱獄を試みます。1回目は寝室から窓の鉄格子が抜けられずに断念し、2回目は賄賂を渡した警備員が脱獄前にハモンド大佐に自白したために失敗に終わりました。
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1648年9月になるとチャールズ1世は仮釈放され、近くの「ニューポート」に連行され、そこで議会の代表たちと会議を行いました。議題は誰が軍隊を統制するか、教会をどう統治するかという難しい問題を合意しようとしましたが10週間後に失敗に終わります。11月30日に国王は兵士が部屋のドアをノックする音で起こされます。朝食を摂ることもなく馬車に乗せられ、船でハースト城に連れていかれ、裁判のためにロンドンへ向かいました。
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国王の処刑から僅か10日後にはチャールズのものとされる精神的な自伝「Eikon Basilike」が出版されます。これは王党派のプロパガンダとして絶大な人気を博し、何度も再販されました。王党派はチャールズにまつわる品々を大切にし、彼を記念する記念品も作られました。人々は長年に渡りチャールズの物語に魅了され続け、特にヴィクトリア朝時代の人々は彼の生と死の悲劇を楽しみ、ヴィクトリア女王自身も彼にまつわる品々を収集していて、その一部がここに展示されています。
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「エリザベス王女の記念碑の模型」カルロ・マケロッティ
この石膏模型はヴィクトリア女王の承認を受けるために献上され、「オズボーン・ハウス」に保管されました。エリザベスのモデルは写真家の先駆者ジュリア・マーガレット・キャメロンの姪のジュリア・ジャクソンでした。 -
「トレビュシェット(trebuchet)」は中世の攻城兵器の一種で、重りの位置エネルギーを利用して石などの投射物を飛ばす投石機を指します。このゲーム機はその機能を利用してコインを飛ばすというものです。どんなコインでも利用ができ、そのコインはこの博物館への寄付となります。
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「カリスブルック城のフェットにおける女王」コンスタンス・ビトケアン
1899年8月にニューポートの「セント・トーマス教会」の修復資金を集めるためのグラン・フェットがこの城で開催されました。フランス語の「fête」は祭りやパーティーなどを意味します。催し物には「ジプシーの野営地」「ダンスコンサート」「自転車ジムカーナ」などがありました。 -
ヴィクトリア女王が総督邸宅(この博物館)の外に停まった馬車に孫のヴィクトリア王女とバッテンベルク公レオポルドと共に座っています。娘のベアトリス王女は黒い服を着て馬車の脇に立っています。
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一瞬チャールズ1世の使ったベッドかと思いましたが違いました。オリジナルのテューダー様式の彫刻を組み込んだヴィクトリア時代の複製だそうです。精巧な装飾には人物や顔、様式化された植物や幾何学模様が描かれています。
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ベッドヘッドにはラテン語で「イエスよ、私たちは死後の世界を望みます。」と書かれてあります。また、ベッドの足元には「神を敬い、女王を敬いなさい。」と刻まれており、聖書からの引用と女王はエリザベス1世を表しているようです。
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この城にあったチャールズ1世のベットについては処刑から1年後に作られた目録の中に記述が残っているそうです。そこには「真紅のベルベットで覆われ、金と銀のレースで縁取られた直立式のベッド、ダマスク織りカーテン、羽毛布団と枕、ペルシャ絨毯、タペストリー」とあり、「真紅のベルベットで作られた必需品のスツール」、つまりトイレもあったようです。
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警備兵の監視をすり抜けてチャールズに手紙の受け渡しを手伝ったのは廷臣だけではありませんでした。一般の人々も国王を助けるために逮捕される危険を冒しました。城の洗濯助手のメアリーは日中に誰もいない寝室に出入りすることが出来ました。彼女は手紙をカーペットの下に隠したり、密かに持ち出すことが出来ました。しかし、議会派は国王が外部の情報を得ていることを察知してメアリーを監視します。無能な使者が彼女の名前を呼んだことから解雇されてしまいます。
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これまでハプスブルグ家に関わる国々を多く旅してきて、その家系の複雑さを面白いと思ってきましたが、もっと早くにギリス王室について学べばよかったと思います。
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階段を上がった上には島の歴史を伝える博物館になっています。ベアトリス王女が1898年にこの博物館を設立した際に島の歴史を示す品々の宝庫となることを望んでいました。それから100年の間にコレクションは発展し、35,000点にも及ぶ品々を収集しています。
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「願いの井戸/Wishing Well」は上部のスロットルに少額コインを投入すると赤い本体の上部に落ちて、コインが回転しながらジージーと音を立てながら回転していきます。音はだんだんと小刻みになり、最終的には下へ落ちる仕組みで、コインはこの博物館への寄付になります。結構真面目に何度もやっていたらネパール系の女の子2人がじっと見ています。彼女たちにもコインを渡して3人で遊んでいたらお父さんにお礼を言われました。
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この2階の博物館は元々天井の高い中世のグレートホールを16世紀末にジョージ・ケアリー卿の時代に2階建てに分割しました。登ってきたクラシックな階段は1世紀以上後の1690年に造られました。ベアトリス王女が住んでいた時代は寝室として使われ、一番奥の部屋はチャールズ1世の娘のエリザベス王女が拘留された際に使われ、彼女は14歳の時にここで亡くなりました。
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博物館のおもちゃとゲームのコレクションは600点にもおよび、ほとんどが19世紀半ばから20世紀にかけてのものです。もっとも古いものは12世紀の彫刻が施されたものだそうです。
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「ジグル・ジョグル/Jiggle-Joggle」の「jiggle」と「joggle」はどちらも「軽く揺れる」「軽く揺らす」といった意味を持つ動詞ですが 「jiggle」はより速く、強く、不規則な動きを指し、「joggle」はより遅く、穏やかで、規則的な動きを指すというニュアンスの違いがあります。これはヴィクトリア時代のカエルのゲームです。
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片方を固定した紐に厚紙製のカエルを通し、紐を動かすことで手前に移動させてレースをするものです。
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この木馬は蹄の中にタイヤが組み込まれ、跨って遊ぶことが出来たようです。1960年代の自分の子供の頃もこんな木馬がありました。
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このテラコッタ像は建築用のテラコッタを制作していた職人によって造られたものですが、ヒトラーの顔をした鷲がポーランドを擬人化した女性を掴んでいます。これは第2次世界大戦中のナチス・ドイツのポーランド侵攻に対する政治的なコメントになっているようです。
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ジョージ王朝時代になると蒸留中産階級の人々が貴族に加わり、娯楽のために旅行をするようになりました。フランスでの戦争が続いていたのでヨーロッパの旅行は制限され、イギリス人は国内を探求し始めます。ワイト島は航海や田園地帯の村々の魅力、砂浜や海水浴、そしてミネラルウォーターを飲むなどワイト島は魅力にあふれていました。
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さらにヴィクトリア時代になると蒸気機関が発明され、1820年には外輪船が航行し、1862年には「ニューポート」と「カウズ」を結ぶ鉄道も敷かれます。さらに20世紀になると社会発展に伴いより多くの人が急かで「ワイト島」を訪れるようになります。
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ヴィクトリア時代にはアラム湾の崖の21色の砂を使った砂絵などが人気になったようです。貝殻で作ったオブジェなどは昭和の時代の日本でも海水浴場の人気のお土産でした。
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「Bee Skep」は藁で作るハチの巣のことです。何百年使われてきたハチの巣は小規模農家ではハチミツと蜜蝋を採取するために使われてきました。現在ではこのタイプの物は使われておらず、一部の国では使用禁止だそうです。病害虫の確認が出来ずに不衛生であることと、この巣ごと万力にかけないとハチミツを搾ることが出来ないからだそうです。
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昭和の人間だと国が違っても何のための道具だか大体分かってしまうところが面白いです。
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博物館を詳しく見ていたらかなり時間を押してしまったので、城壁の見学に移ることにします。妻はロバの厩舎の奥にあるカフェにいるというのでしばらくお別れです。
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巨大な城の壁を急な階段を登り、古代の砦からの鳥瞰図を楽しむことにします。城壁と砦の建設は「ワイト島」全体がデ・レッドバース家に与えられた1100年頃に始まりました。
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砦はヘンリー1世の治世になるとさらに追加され、エリザベス1世の治世にはスペインの無敵艦隊が予想されていたために1583年に任命されたジョージ・キャリー卿によってさらに強固なものにされました。
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城壁の通路から周囲を眺めると360度に丘陵地帯が広がり、その美しさに驚かされます。
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先程見学してきた庭園には人の姿はありません。その横の芝生の広場では子供たちが遊んでいます。
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チャールズ1世の処刑から250周年を記念して1904年に建てられた「聖ニコラス礼拝堂」が美しい屋根を見せてくれています。ベアトリス王女は第1次世界大戦の際にベルギーの「イーペル」で末息子のモーリスが亡くなった後に礼拝堂の祭壇画を依頼しました。
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1900年代に入り、勢力均衡の欧州の中で中立を表明していたベルギーはイギリスとの条約で保証されていました。しかし1914年第1次世界大戦が始まると、ドイツ軍がベルギー北部からフランスに侵攻するシュリーフェン・プランに基づき、ベルギー領内に侵入してきます。イギリスは条約に基づき戦争に参加しましたが、ドイツ軍は都市を包囲と占領する作戦によって、瞬く間にベルギー北部の諸都市を占領していき、「イーペル」も占領されました。
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現在は猫祭りで有名な「イーペル」ですが、近郊ではマスタードガスが戦闘に使用されました。この毒ガスが使用されたのも人類史上初めてで、町の名前をとってイペリットとも呼ばれるようになりました。
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一度城壁の裏側に出て、その強固な石積みの壁に驚きます。
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再び城内に戻って一番高い砦の石段を登ってみます。
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そこからはバスで到着した「ニューポート」の町が見えました。ここから眺めるとそれほど離れていないようですが歩くと遠かったです。
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「ウインチェスター」のアーサー王の円卓から始まった今回の旅も最期を迎えつつあり、アーサー王が死後に赴いたとされる伝説の極楽島「アヴァロン」はこんなところだろうかと思います。ロキシー・ミュージックの古い曲が頭に浮かんできます。
https://www.youtube.com/watch?v=bpA_5a0miWk&list=RDbpA_5a0miWk&start_radio=1 -
誰もいない城壁を1周して妻の所へ向かいます。
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ちょうど午前中の仕事を終えたロバたちが城外の広場へ散歩に出掛けていきました。
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玄関塔は1464年に当時の城の領主であったスケールズ卿によって建てられました。絵に描いたようなイギリスの要塞といった面構えです。
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帰りは坂を下り、グーグルマップで確認してあったバス停から「ニューポート」に戻りました。少し街歩きをしようかとも考えましたが、夕方には「ポーツマス」に戻らなければならないので「ライド」行きのバスに乗りながら次の目的地の「クオーアーアビー/Quarr Abbey」に向かいます。
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