2025/05/22 - 2025/05/22
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kojikojiさん
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「HMSビクトリー」の見学が終わり、最後の「メアリーローズ博物館/The Mary Rose Museum」に移ります。最後といっても他にも博物館はあるので1日かけても全部を見学することは出来ないと思いました。「メアリーローズ博物館」はヘンリー8世時代のイングランド王国で用いられていた軍艦(キャラック船)で、その33年間の戦歴でフランス、スコットランド、ブルターニュに対する戦争に従軍し、1545年7月19日のソレント海峡において沈没したメアリーローズ号が展示してある博物館です。沈没場所は以前より分かっていたようですが、引き上げる方法が確立された1982年に行われました。発掘と引き上げ事業は海洋考古学の分野における画期的な出来事であり、その作業の困難さとかかった費用は1961年に行われた17世紀のスウェーデン軍艦「ヴァーサ/Vasa」の引き上げに匹敵するようです。ストックホルムまで行きながらフェリー出港迄時間が無くて「ヴァ―サ号博物館」に行けなかったのは今でも残念に思っていることの1つでもあります。回収された船体の現存部分と何千もの遺物は、テューダー朝期を知る非常に価値ある考古史料となっており、発見された遺物には武器、帆走装備、海軍の備品、および乗組員が使用したであろう様々な物品が含まれています。それらを1つ1つ見学しながら巨大なガラス張りの窓の外にある巨大なメアリー・ローズも見ていきます。保護のためにかなり暗いのと海中に眠る姿を感じさせるための青いライトのために船体の細部を肉眼で確認するのはかなり困難です。ただ、今まで映画の中でしか知らなかった巨大帆船の大きさを実感するには十分な展示でした。何とか予定していたものを見終わると博物館の閉館時間で、脇にある海軍の施設からも帰宅する人がたくさん見えました。ホテルがすぐ近くなのは良い選択で、5分で戻ることが出来ました。部屋の準備も出来ていたので預けてあったトランクを持って上のフロアへ移ります。夕食は近くの中華料理も考えましたが、1階のレストランは「うまい寿司」という日本料理も提供していたのでここで食事することにしました。中国系の女性が給仕してくれ、経営には日本人は関わっていませんが料理はとても美味しかったです。翌日は「ポーツマス」から「ワイト島」へ移動するのですが、そのための船の乗り場が分からずにいました。駅の脇には対岸へ渡る渡船の乗り場はありますが、他にそれらしい船も停泊していません。駅の反対側には商業施設と「スピンネーカー・タワー/Spinnaker Tower」という巨大なタワーが見えるので散歩がてらに出掛けてみました。もちろん妻は部屋でゆっくりするということです。駅の反対側は再開発されていて巨大なアウトレットになっていてびっくりです。さすがに午後9時前では飲食店以外は閉店していましたが面白そうなので「ワイト島」から戻ってきた際には買い物に行こうと思いました。「スピンネーカー・タワー」まで行ってみましたが、ここも夕方で営業終了していたので登ることは出来ませんでした。結局船の乗り場は分からず仕舞いでしたが、翌日は時間があるので尋ねれば何とかなるだろうと思いホテルに戻ります。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー ヒッチハイク 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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最後の「メアリーローズ博物館/The Mary Rose Museum」はこのような帆船の船体のようなデザインです。あと1時間で閉館になるので先を急がなければなりません。
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薄暗い通路を進むとテューダー朝時代のイングランド王ヘンリー8世が出迎えてくれます。この衣装は1545年に沈没した「メアリーローズ」から引き揚げられた遺物を元に再現されています。
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この博物館は16世紀のチューダー朝海軍の軍艦メアリーローズと船の活躍した歴史的背景に捧げられています。博物館は1984年に開館して専用のホールに船体が展示され、その周囲のフロアには船内から引き揚げられた遺物も展示されています。
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新しい「メアリーローズ博物館」は建築家のウィルキンソンエア、パーキンス+ウィルによって設計され、建設会社ウォーリングスによって建設されました。博物館は指定記念碑であるドライドックに置かれた船の上に建てられたため、建設は困難だったようです。
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「メアリー・ローズ(Mary Rose)」はヘンリー8世時代のイングランド王国で用いられていたキャラック船という軍艦で、その33年間の戦歴でフランス、スコットランド、ブルターニュに対する戦争に従軍しました。1545年7月19日にソレント海峡において沈没しました。
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1971年に海中の残骸が発見され、1982年10月11日にメアリー・ローズ・トラストによって引き揚げられました。発掘と引揚げ事業は海洋考古学の分野における画期的な出来事で、その作業の困難さとかかった費用は1961年に行われた17世紀のスウェーデン軍艦ヴァーサ号の引き揚げに匹敵するそうです。
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発見された遺物には武器や帆走装備、海軍の備品、および乗組員が使用したであろう様々な物品が含まれています。ここでしか発見されていない遺物もあり、海戦から楽器の歴史まで様々な分野を知ることが出来ます。
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まずは最上階まで上がり、ガラス張りの吹き抜けホールの中に置かれたメアリー・ローズの全容を目の当たりにします。全体の何割しか残されてはいませんが、往時のキャラック船の雄姿を想像することは出来ます。
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さすがに1日歩きっぱなしだったので妻は疲れ果ててしまいました。玉座に座って一休みです。そもそも妻にとってはイギリス海軍の展示などそれほど興味が無かったのだと思います。
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船内を見学することの出来た「HMSヴィクトリー/HMS Victory」を見学した後なので余計にリアルに感じられます。この日の見学の順番で正しかったなと思います。
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実際の船体はかなり破損していますが、このようなイラストがあるのでその姿を想像することは安易です。まずは砲が置かれたガンデッキにあった引揚げ品を見ていきます。
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18世紀後半のフランス革命に起因して勃発したナポレオン戦争の頃の「球形弾」は主に鋳鉄製でした。初期の大砲では石の砲弾も使われましたが効果が低いため、ナポレオン戦争期にはほとんど使われなくなりました。
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1545年7月19日のソレント海峡において沈没したメアリーローズ号の時代においては石と鉄球の「球形弾」が使用されました。砲の重さは最大2.5トンで、これらは正面から装弾されるマズルローダーと呼ばれるタイプのものです。これらの砲は鉄の砲弾を1マイル以上発射できましたが精度ははるかに近い距離でのみ有効でした。当時の製造技術では完全な球体を作ることが困難だったため、重心のずれや球面の崩れにより、砲弾がまっすぐに飛ばないことがあったようです。
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「球形弾」は実体弾なので標的に直接命中することで被害を与えました。大きな砲弾ほど速度が速く威力も強かったようです。金属製の砲身はともかく、木製の架台が残っていることが不思議です。
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「メアリーローズ」は海底に沈んでいた状態を表現するかのように薄暗く青いライトに包まれたり、時折に安くするために明るくなったりとその姿を変化させています。
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「船首像」についての説明がありました。「メアリーローズ」の船首像は船名を表すイギリス最初の実例であったようです。花弁の外側が赤色、内側が白色のバラで、ランカスター家とヨーク家の融合を表す「テューダーローズ」がデザインされています。
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かなり劣化していますが1本のオーク材から彫られた紋章は表面にバラが彫られていました。薔薇戦争(Wars of the Roses)は百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であり、実状としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものです。ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をバッジ(記章)としていたので薔薇戦争と呼ばれます。両家の争いを収めたテューダー朝の紋章「テューダーローズ」です。
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船に乗り込んでいた棟梁の船室にあったものが並べられています。バラバラになった船内の中からよく誰の持ち物か判明したものだと感心します。
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船尾近くのメインデッキに船室があったということはかなり優遇されていたのだと思います。個人の持ち物の箱の中には数百点の大工道具の他にもピューター製の皿やタンガードや水差しもありました。持ち物からも彼が熟練した職人というだけではなく、教養があり、信心深かったことなどが分かったようです。
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船で飼われていた犬はハッチ(Hatch)という名前で、棟梁の部屋の入り口で発見されました。生後18か月のこの犬は現在のテリア種、グレイハウンド・ボーダーコリーに近い犬種だったようです。船内で犬が飼われた理由の1つは船内にはびこるネズミが大きく猫には不向きでした。第2に教皇インノケンティウス8世は1484年に猫を不浄であると宣言し、魔女の仲間としたため猫を飼うことは一般的に不吉であると考えられていました。
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DNA分析によりオスで茶色の毛色で、尿酸値を上げる可能性のある遺伝子も持っていたようです。遺伝的にはジャックラッセルテリアに近く、これらの情報は犬種や病気の真価を把握するのの役立つようです。
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続いてマスター・ガンナー(The Master Gunner)のコーナーです。砲手長は30代後半で身長1.63メートルで、火薬瓶とコール(ホイッスル)を持ち、聖ジョージの十字架が書かれた上着を着た状態で発見されました。
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彼の首の骨は退化して背骨の付け根は圧縮されていました。おそらく長年に渡って銃を運んだり、火薬箱を運んでいたのだと考えられます。彼のチェストには銀貨や銀の指輪が2個あったことからも裕福だったことが分かります。
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棟梁の部屋では珍しい柄の付いた「鐙鉈(あぶみなた)」という道具が見つかっています。この特殊な鉈は16世紀のスペインで使われていたことから、船大工の中にスペイン人がいたのかもしれません。
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当時の木造船では船底の木材の継ぎ目からの水の侵入を防ぐ「コーキング」が重要でした。これにはタールを浸したロープなどの繊維を隙間に木槌で打ち込み、防水樹脂であるピッチで密閉しました。
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船には6種類の異なるサイズの錬鉄製の法が54門搭載されていました。そのうちの27門が改修されています。そのうちの12門はほぼ完ぺきな形で残っています。
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ここで手筒花火のような円筒形の砲の使い方が分かりました。前方から火薬や砲弾を装填するのではなく、このイラストのように後方に火薬と砲弾を込めた短い筒をつないで発射するようです。
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船に向けて発射する場合は「球形弾」を装填し、人や帆を狙う場合は木製の容器に鋭利な石や鉄の破片を詰めたものを装填しました。
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すべての砲は装飾されており、一部にはメーカーの名前が刻まれていました。またライオンの頭、イルカ、人魚の形をしたリフティングリングも付けられていました。これらの銃は製造に非常に高価で、ヘンリー8世のものであることを示すために装飾されていました。
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当初のメアリーローズ号の役目は兵員輸送船でした。就航時の台車に乗せる大砲は5門しかありませんでした。その後の海鮮の戦術の変化により火力が重視され、船体もそれに合わせて改造されていきました。
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診断と治療について、16世紀のイギリスでは病気についての理解はほとんどありませんdした。病気は人体を構成する4つの体液(物質)、血液と粘液、黒胆汁と黄胆汁のバランスが崩れることによって引き起こされると考えていました。診断は尿の色とにおい、味に寄る診断が一般的でした。
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外科医の道具も発見されています。ランセットは患者の静脈を切って出血させるために使用されました。片頭痛や発作を治すためには穿頭用のドリルで頭蓋骨に穴を開けました。切開用のメスやナイフが見ているだけで痛々しいです。
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いくつかの治療法は他の治療法よりも悪く、「水銀」を患者に注射することによって治療されました。治療が効かなかっただけでなく水銀は患者を狂わせました。
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船体の脇に設けられたガラス張りの展示室を移動しながら見学を続けるので、いろいろな角度からメアリーローズ号を眺めることが出来ます。
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ここまでヴィクトリ―号などの内部も見学してきたので、部分しか残されていないメアリーローズ号でも往時の姿を想像することは安易にできるようになりました。
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旅の初めの「ウインチェスター」の博物館ではローマ時代の兵士の革靴を見ましたが、ここでは16世紀の船員の革靴を見ることになりました。
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失われてしまった部分は白い木で再現されていますが、現在とそれほど変わらない道具が使われていたのだと感じます。
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クラークス社の代表的なワラビーに似たようなシューズがありました。
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熟練した職人がつい先ほどまで使っていたと言われても信じてしまうほど16世紀の沈没時から時間が止まってしまったような気がしてきます。
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この当時はこのような木製のチェストを持ち込んでそれぞれの仕事に励んだのだと思います。船内でのセキュリティを考えても鍵のかかるチェストは便利だったのではないでしょうか。
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以前に「三内丸山遺跡」から出土した編んだ籠に驚いたことがありますが、こんなものが400年以上改定で朽ち果てなかったことにも驚きます。
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フロアを移動するにつれて船体の見え方も変わってきます。
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料理人と厨房についての展示です。料理人は船上では重要な人物で、棟梁や砲手長と同じ月給10シリングを受け取っていました。400人以上の船員に食事を提供し、士官たちのためには手の込んだ食事を提供する責任がありました。
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調理人の職場である厨房は戦争の中央の船の最も低い場所にありました。近くには何百もの皿やボウルや調理器具があり、オーブン用の白樺の薪ここと甲板に保管されていました。
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料理人は2つのオーブンを並べて調理をしていました。それぞれ1000個以上のレンガが並べて造られていました。なるほどその重さを考えるとバラストとしての役割もあって船倉にあったのだと納得します。オーブンには大きな真鍮製の大鍋が組み込まれ、その1つだけでも船上の全員の料理を賄えるほどでした。
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オーブンの周りにはさらにレンガを敷いたエリアがあり、これはオーブンから飛び散る燃えさしが火災を起こさないための防火設備でした。
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船倉の厨房で少なくとも3人の男性が発見されています。1人の男性は少量の硬貨、櫛、短剣、ナイフ、スプーンを持って発見されました。彼の年齢は26歳から35歳で、身長は約1.68メートルでした。
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「メアリーローズ」は沈没時におそらく2週間分の食材を積んでいたと考えられます。これは膨大な量で牛肉1,800キロ、豚肉900キロ、魚750匹、硬くて無糖のビスケット3,150キロ、ビールが31,500リットル含まれていました。1545年当時イギリス軍は陸海合わせて14万人の兵士を抱えていました。これは当時のロンドンの人工の2倍でした。
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艦隊への食糧と飲料の供給は国王の船を管理する上で最大の問題でした。追加の物資を調達できる陸軍と違って歓待はいったん海に出ると何を積んでいるかの酔って行動が左右されました。干し鱈は現在でもよく食べられる食材ですが、塩漬けにされた保存のきく食材としてこの当時も重宝されたのでしょう。400年以上も魚の骨が残っているのには驚きます。
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それにしても柱が1本も無い巨大な建屋には驚きます。
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てゅーだー時代の船乗りの食事が再現されています。船員は主に塩漬けの牛肉や塩漬けの魚、そしてビスケットで生活していました。樽に保管されていた牛の骨と豚の骨が発見されています。プラムの種、胡椒の実、リンゴの種も見つかっているようです。ビールを入れていた木製のタンガード(ビアマグ)も多く残されていました。
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在りし日の「メアリーローズ」の大きな模型が吹き抜けの空間に吊られていました。
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模型でその全景は再現されていますが、実際はどのような姿をしていたかは残された船体が一部しか現存していないことから定かではないようです。16世紀のガレオン船の姿を模したようです。ガレオン船は遠洋航海術が発達した大航海時代のスペインで開発され、3本または4本マストの大型帆船は大西洋航海に用いられていました。
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船の中央のメインデッキで発見された彼の横には壊れた長弓があり、ヘンリー8世とアラゴンのキャサリンのバッジが付いた革製のリストガードが彼の下腕に置かれていました。彼はロイヤルアーチャーだったのではないかと考えられています。
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20代前半の彼は身長は1.79メートルで、他の人よりも背が高かったようです。彼は体格が良く、特に強い脚を持っていました。背骨の中心はねじれており、これは射手によく見られる特徴です。右手の指の骨に溝ができたのは長弓を繰り返し引いた結果かもしれません。
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ロングボウと呼ばれる長弓は多くの場合はイチイの木で造られ、中央から両端に向かって細くなっていました。両先端には角材が取り付けられ、弦を通すための溝が刻まれています。
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この砲は船の最も広い部分である後部城郭の近くで発見されました。長距離の射程を持つカルバリン砲で船首楼を越えるように斜めに発射されました。砲にはテューダーローズの紋章とラテン語の碑文があり、ヘンリー8世がこの砲を個人的に所有していたことと彼の多くの称号が列挙されています。
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船上では錨上げなどのチームワークを必要とする重労働の際のリズムや勤務時間外の娯楽として音楽が演奏されていました。楽器にはラッパや太鼓があり、これらは1人の男性が演奏しました。片手でラッパを吹き、片方の手で肩や腰に下げた太鼓をたたいていました。16世紀のバイオリンは3本しか現存しておらず、そのうちの2本は「メアリーローズ」で発見されました。
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銀や金製の品物を所有していたのはごく一部の裕福な人だけでした。代用品としては少量の銀と銅とアンチモンの合金であるピューターが使われましたが、安価ではありませんでした。「メアリーローズ」で発見されたピューター製品は王立艦隊の副提督のジョージ・カル―卿のものでした。
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スタイリッシュなブーツは最高級の革で作られ、快適さのために靴底には藁が詰められていました。これらは日常的な着用ではなく、富の象徴としてデザインされていました。
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櫛は髪のスタイリング以外にもノミの卵の除去としても使われました。材質は日本と同じように黄楊が一般的だったようです。ほとんどの船員は食事や戦場での日常的な作業のためにナイフを持っていました。
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午後5時の閉館前に何とか目的の博物館の見学が終えられました。
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隻眼のネルソン提督の船首像と最後の記念写真です。ネルソンの被っている三角帽子(Tricorn)と妻の被っている防止のつばの形が似ていたからですが、本人は気が付いていません。
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この像は「フィールド・ガン・コンペディション」といわれる大砲を分解してコースを走り、再び組み立ててから砲を発射するまでの時間を競う競技で車輪を運んでいる人物です。1907年に始まったこの競技は毎年開催され、1999年まで続けられました。
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「ポーツマス・ヒストリック・ドックヤード/Portsmouth Historic Dockyard」の閉館時間は奥にある海軍の施設の職員の帰宅時間と重なり、尾内出口から流れに任せて退館しました。
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そんな職員を目当てなのか何軒ものパブが並んでいますが、まずはホテルに戻ってチャックインすることにします。
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「サウザンプトン」からの移動と1日「ヒストリック・ドックヤード」の見学に着き合わせてしまい、妻はかなりお疲れのようです。
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「ケッペルズ・ヘッド・ホテル/Keppels Head Hotel」までは5分ほどで戻ることが出来ました。預けてあった荷物を受け取り部屋の鍵を受け取ります。
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今回のイギリス旅行では各地の歴史あるホテルを予約していましたが、「ポーツマス」ではそれにも増して立地が大切でした。鉄道駅とワイト島へのフェリー乗り場、そして「ヒストリック・ドックヤード」に近いということでした。
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この日に1泊とワイト島から戻ってきた後も1泊することにしています。1泊朝食付きで22,660円という値段でした。
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大きなバスタブ付きのバスルームはありがたいです。それに比べて洗面台はどこも小さなものばかりでした。
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このタイプのバスルームのヒーターは家にも欲しいものの1つです。バスルームのヒーターであり、タオルもすぐに乾いてしまいます。
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夕食はホテルの並びにあった中華料理店にしようと思っていましたが、疲れたことと1階のレストランが日本食も提供しているので予定変更です。
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朝食もこのレストランでいただけます。夜はイギリス料理と日本食のレストランですが、シーズンオフなのかお客さんは全くいません。
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店の名前は「うまいSUSHI」です。中国系のおばさんが注文を取ってくれましたが、調理をしているのはまたお国の違った東南アジア系の男性のようです。
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まずは冷たい生ビールで乾杯です。今回の旅ではクルーズ中はワインを飲んでいましたが、それ以外は各地のビールを飲んでいました。
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最初に出てきたのは完璧なタコ焼きと餃子でした。多分冷凍のものですが、逆に日本で食べるものと変わらない味がいただけました。
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妻はソース味に飢えているようで焼うどんを注文しました。
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醤油や出汁の味に飢えていたのでかつ丼を注文しました。
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お味噌汁もありがたいです。もちろんシェアしていただきました。これで45ポンドなので約9,000円でした。特に節約していたわけではありませんが、他のヨーロッパの国に比べてポルトガルとイギリスはそれほど物価が高くないような気がしました。
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BGMにイーグルスの「ホテル・カルフォルニア」など70年代の曲が続くと何だか涙が出そうになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=09839DpTctU -
食事の後は妻は部屋に戻って休んでいましたが、少し街歩きをすることにしました。その理由はこの時点でまだワイト島行きのフェリー乗り場の場所が分かっていませんでした。
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「ヒストリック・ドックヤード」で最初に見学した「ウォーリア号/HMS Warrior」も夜になると静まり返っています。
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ずっと気になっている「スピンネーカー・タワー/Spinnaker Tower」は駅の向こう側なのですが、その行き方も良く分かりません。
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この時も見落としているのですが、ワイト島行きのフェリー乗り場と軒先にちゃんと書かれています。双胴船の乗り場はここですが、同じフェリー会社でも車を乗せるフェリーは別の乗り場がありますし、ホバークラフトはまた乗り場は違います。
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「ポーツマス・ハーバー駅」の脇には対岸への渡し船の乗り場もあります。
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鉄道駅の前には新しいバスターミナルもあります。頻繁に各地へ向かうバスが発着していました。旅の後半はグレート・イースタン鉄道(Great Eastan Railway)での移動を考えていたのでバス移動は考えませんでした。
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線路の下のトンネルを抜けると駅の反対側のへ行けることが分かりました。再開発された「ガンワーフ・キーズ/Gunwharf Quays」という商業施設があるようです。
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遅い時間なのでショップの多くは閉店していましたが、巨大なアウトレットモールだということが分かりました。ワイト島から戻った夜にもう一度妻を連れてこようと思います。
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「スピンネーカー・タワー/Spinnaker Tower」はミレニアムプロジェクト(2000年記念事業)の一環として建設を計画され、当時の呼称はポーツマス・ミレニアム・タワーでしたが、建設に遅れが生じたために2001年内には完成しませんでした。うねった船の帆に似せたその明快な形状に由来して、名称を「スピンネーカー・タワー」に変更したそうです。
-
ワイト島へのフェリー乗り場を探してまだこの辺りを歩き回りまし分かっていません。いません。
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20世紀末における東西冷戦の終結やEUの統合などにより、1980年代半ばには「ポーツマス」の軍港としての存在意義は失われ、海運業についても「サウサンプトン」が主要な街となっていました。
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歴史的な海軍の造船所や船、信号所などかつての港町としてのたたずまいを残しながら、ポーツマス・ハーバー駅の南側のドックを中心にアウトレット・ショッピングセンターの「ガンウォーフ・キー」を含む複合商業エリア、ポーツマス・ハーバー・ルネサンスを完成させました。
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「サウザンプトン」を出港したリーガル・プリンセスのデッキから見えたのはこの塔だったのかと分かりました。塔は午後6時には閉館しているので外観を眺めるだけです。
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飲食店はまだ賑わっていますが、食事も終わってるのでホテルへ戻ることにします。
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この歴史的なホテルは1779年に建てられ、海軍兵に人気があり、1803年に火災が発生したときには士官や士官候補生が再建費用を負担するほどだったようです。ホテルの名前はイギリス海軍の士官兼政治家であったアウグストゥス・ケッペル提督に由来しています。
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明日からのワイト島の旅に必要な2日間の荷物の準備をして早めに休むことにします。
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