増毛・雨竜旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「道の駅 おびら鰊番屋」でうに丼と甘エビ丼をいただいた後はさらにオロロンラインを南下します。留萌港を抜けると「黄金岬」に到着しました。南下したせいか天気はどんどん良くなり、海の青さが素晴らしいです。本当は鰊の鱗が夕日に輝いたことから「黄金岬」の名前が付いたそうですが、そんな時間にここを通過することは出来ません。岬の先には暑寒別岳の山並みが見え、少しですが雪も残っていました。当初の予定では「黄金岬」に来る予定はなかったのですが、予定表にあった「雄冬岬展望台」は足場が悪いとかマムシが出たとかで変更になりました。その分「増毛」の町の滞在時間が長くなったので結果的には良かったと思います。「旧増毛駅」は廃線になったJR留萌本線の終着駅ですが、高倉健の映画「駅STATION」のロケ地にもなった場所です。駅舎をはじめ、高倉健が扮する刑事の実家「風待食堂」が今も残っていました。増毛での観光のポイントは「旧商家丸一本間家」でこの屋敷も見ごたえがありました。そして「国稀酒造」で試飲と買い物を楽しみました。倉庫に置かれてあった鰊漁で使う船の実物も迫力があり、増毛の町はいつか時間をかけて旅してみたいと思いました。最後の立ち寄り先「道の駅石狩あいろーど厚田」では展望台から石狩湾越しに小樽の町がうっすらと見えました。どうしようか迷っていた札幌と小樽の旅は東京に戻ったら予約を初めて6月中に再び北海道に来ようと決めました。ラストスパートをかけて札幌市内には午後6時前に到着して、ホテルに着くと宗谷バスとはお別れです。そしてチェックインが済んでしまうと添乗員さんともお別れです。楽しかったツアーのことを思い出しながら妻と2人で最後の札幌の夜が始まります。<br />

トラピックス 利尻島・礼文島と宗谷岬7日間の旅(12)増毛の丸一本間家を見学し、国稀酒造でほろ酔いで高倉健の気分で札幌を目指す。

5いいね!

2022/06/01 - 2022/06/01

163位(同エリア192件中)

kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

「道の駅 おびら鰊番屋」でうに丼と甘エビ丼をいただいた後はさらにオロロンラインを南下します。留萌港を抜けると「黄金岬」に到着しました。南下したせいか天気はどんどん良くなり、海の青さが素晴らしいです。本当は鰊の鱗が夕日に輝いたことから「黄金岬」の名前が付いたそうですが、そんな時間にここを通過することは出来ません。岬の先には暑寒別岳の山並みが見え、少しですが雪も残っていました。当初の予定では「黄金岬」に来る予定はなかったのですが、予定表にあった「雄冬岬展望台」は足場が悪いとかマムシが出たとかで変更になりました。その分「増毛」の町の滞在時間が長くなったので結果的には良かったと思います。「旧増毛駅」は廃線になったJR留萌本線の終着駅ですが、高倉健の映画「駅STATION」のロケ地にもなった場所です。駅舎をはじめ、高倉健が扮する刑事の実家「風待食堂」が今も残っていました。増毛での観光のポイントは「旧商家丸一本間家」でこの屋敷も見ごたえがありました。そして「国稀酒造」で試飲と買い物を楽しみました。倉庫に置かれてあった鰊漁で使う船の実物も迫力があり、増毛の町はいつか時間をかけて旅してみたいと思いました。最後の立ち寄り先「道の駅石狩あいろーど厚田」では展望台から石狩湾越しに小樽の町がうっすらと見えました。どうしようか迷っていた札幌と小樽の旅は東京に戻ったら予約を初めて6月中に再び北海道に来ようと決めました。ラストスパートをかけて札幌市内には午後6時前に到着して、ホテルに着くと宗谷バスとはお別れです。そしてチェックインが済んでしまうと添乗員さんともお別れです。楽しかったツアーのことを思い出しながら妻と2人で最後の札幌の夜が始まります。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
観光バス JALグループ 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • 「旧花田家番屋」を昼過ぎに出て、バスは海岸線のオロロンラインをどんどん南下します。気のせいか季節も少し進んだようで温かくなってきました。

    「旧花田家番屋」を昼過ぎに出て、バスは海岸線のオロロンラインをどんどん南下します。気のせいか季節も少し進んだようで温かくなってきました。

  • 「サロベツ原野」では見る事の出来なかったエゾカンゾウの花もたくさん見ることが出来ました。

    「サロベツ原野」では見る事の出来なかったエゾカンゾウの花もたくさん見ることが出来ました。

  • 海岸線の民家の海側にはこのような木製の柵が設けられ、冬の雪と風の強さを感じさせました。

    海岸線の民家の海側にはこのような木製の柵が設けられ、冬の雪と風の強さを感じさせました。

  • バスは留萌港に差し掛かりました。港の奥に巨大なテトラポットが見えました。留萌港は世界三大波浪地として打ち寄せる荒波は有名で、この荒波から防波堤や海岸を守っているのが俗に「波殺」と呼ばれるテトラポットです。

    バスは留萌港に差し掛かりました。港の奥に巨大なテトラポットが見えました。留萌港は世界三大波浪地として打ち寄せる荒波は有名で、この荒波から防波堤や海岸を守っているのが俗に「波殺」と呼ばれるテトラポットです。

  • 留萌駅から港へ延びていた貨物線跡が見えました。鉄橋共々朽ち果てているようです。

    留萌駅から港へ延びていた貨物線跡が見えました。鉄橋共々朽ち果てているようです。

  • 留萌港のテトラポットは高さ5メートルもあるとバスガイドさんが説明してくれました。

    留萌港のテトラポットは高さ5メートルもあるとバスガイドさんが説明してくれました。

  • 当初の予定では「雄冬岬展望台」に行くスケジュールでしたが、足元が悪いのとマムシが出たとかで「黄金岬」に変更になりました。<br />

    当初の予定では「雄冬岬展望台」に行くスケジュールでしたが、足元が悪いのとマムシが出たとかで「黄金岬」に変更になりました。

  • 南に下るほど天気も良くなり海の色もきれいです。ここで20分ほどの休憩になりました。

    南に下るほど天気も良くなり海の色もきれいです。ここで20分ほどの休憩になりました。

    黄金岬 (留萌) 自然・景勝地

  • 「黄金岬」は留萌港近くにある岬で、日本海に落ちる夕日のビューポイントです。ここは、かつてニシンの千石場所といわれていた頃、ニシンの大群が水平線から押し寄せ、背びれが夕映えに染まって海面が黄金色に見えたことから、黄金岬と呼ばれるようになったそうです。

    「黄金岬」は留萌港近くにある岬で、日本海に落ちる夕日のビューポイントです。ここは、かつてニシンの千石場所といわれていた頃、ニシンの大群が水平線から押し寄せ、背びれが夕映えに染まって海面が黄金色に見えたことから、黄金岬と呼ばれるようになったそうです。

  • ここではハマナスの花がきれいに咲いていました。ツアーの2日目にオホーツク海側の「日の出岬」でもハマナスの花を見ることが出来ましたが、もう遠い昔のようです。

    ここではハマナスの花がきれいに咲いていました。ツアーの2日目にオホーツク海側の「日の出岬」でもハマナスの花を見ることが出来ましたが、もう遠い昔のようです。

  • 昨年行った帯広の近くの「六花の森」では一面のハマナスを見ることが出来て、花も実も美しかったのを覚えています。

    昨年行った帯広の近くの「六花の森」では一面のハマナスを見ることが出来て、花も実も美しかったのを覚えています。

  • ニシン全盛期にはこの岬に見張り台があり、水辺線にニシンの群れを見つけた見張り番が「ニシンが群来(くき)たぞー!」と叫んだ場所です。<br />

    ニシン全盛期にはこの岬に見張り台があり、水辺線にニシンの群れを見つけた見張り番が「ニシンが群来(くき)たぞー!」と叫んだ場所です。

  • 地質的には400万年前に噴出した溶岩である玄武岩の柱状節理が観察できる場所でもあるそうです。

    地質的には400万年前に噴出した溶岩である玄武岩の柱状節理が観察できる場所でもあるそうです。

  • 汗ばむほどの陽気なので海に入ってみたくなるほどでした。

    汗ばむほどの陽気なので海に入ってみたくなるほどでした。

  • ここからは暑寒別(しょかんべつ)の山並みを眺目ることが出来ますが、こちらにはまだ雪が残っています。

    ここからは暑寒別(しょかんべつ)の山並みを眺目ることが出来ますが、こちらにはまだ雪が残っています。

  • 増毛町にある潤澄寺では藤の花がきれいに咲いていました。関東地方と比べると1が月ほど遅いと感じました。

    増毛町にある潤澄寺では藤の花がきれいに咲いていました。関東地方と比べると1が月ほど遅いと感じました。

  • 「旧増毛駅」の前でバスを降りて1時間10分ほどの観光になります。この辺りで高倉健がギャランΣのCMを撮ったと思います。

    「旧増毛駅」の前でバスを降りて1時間10分ほどの観光になります。この辺りで高倉健がギャランΣのCMを撮ったと思います。

    増毛駅

    高倉健が主演した映画「駅 STATION」の舞台となった場所を訪ねる。 by kojikojiさん
  • 駅舎とその周辺は高倉健が主演した映画「駅 STATION」の舞台となったことで有名なのでその程度の知識を持ってはいましたが、観光してみるとここで1泊したいと思えるような魅力ある町でした。

    駅舎とその周辺は高倉健が主演した映画「駅 STATION」の舞台となったことで有名なのでその程度の知識を持ってはいましたが、観光してみるとここで1泊したいと思えるような魅力ある町でした。

  • 留萌本船の終点だった増毛は鰊場で栄えた最盛期には人や貨物の輸送の拠点としてにぎわったそうですが今は閑散としています。我々以外にツアーのバスも無く、観光客の姿もまばらです。

    留萌本船の終点だった増毛は鰊場で栄えた最盛期には人や貨物の輸送の拠点としてにぎわったそうですが今は閑散としています。我々以外にツアーのバスも無く、観光客の姿もまばらです。

  • 平成28年の2016年12月に留萌市と増毛町をつなぐJR留萌本線が廃線となっています。大正10年の1921年に開業した増毛駅は、昭和59年の1984年の無人化により駅舎を半分の大きさに縮小したそうです。廃線から約1年半を迎え観光施設として開業時の大きさを取り戻し、駅周辺の歴史的建造物と調和するよう板張りの外観へ戻されていました。

    平成28年の2016年12月に留萌市と増毛町をつなぐJR留萌本線が廃線となっています。大正10年の1921年に開業した増毛駅は、昭和59年の1984年の無人化により駅舎を半分の大きさに縮小したそうです。廃線から約1年半を迎え観光施設として開業時の大きさを取り戻し、駅周辺の歴史的建造物と調和するよう板張りの外観へ戻されていました。

  • 駅舎の内部にはあまり趣きは感じられず、お土産物屋さんといった感じでしょうか。

    駅舎の内部にはあまり趣きは感じられず、お土産物屋さんといった感じでしょうか。

  • 駅舎を出たところからタイムスリップしたような風景が始まりました。増毛の町の観光時には天気も良くなり、日差しも強くなってきました。

    駅舎を出たところからタイムスリップしたような風景が始まりました。増毛の町の観光時には天気も良くなり、日差しも強くなってきました。

  • 緒形拳主演の映画「魚影の群れ」のロケにも使用された「旧富田屋旅館」が目の前にありました。青森県のマグロ漁師役の緒形拳が、北海道の港町で偶然別れた妻役の十朱幸代を見つけるシーンの建物です。土砂降りの雨の中で緒形拳が十朱幸代を追いかけるシーンは全編増毛の町で撮影されているそうです。この建物は現在修復中のようでした。<br />修復の様子はhttps://furusato-mashike.jp/use/article_1457402775.html

    緒形拳主演の映画「魚影の群れ」のロケにも使用された「旧富田屋旅館」が目の前にありました。青森県のマグロ漁師役の緒形拳が、北海道の港町で偶然別れた妻役の十朱幸代を見つけるシーンの建物です。土砂降りの雨の中で緒形拳が十朱幸代を追いかけるシーンは全編増毛の町で撮影されているそうです。この建物は現在修復中のようでした。
    修復の様子はhttps://furusato-mashike.jp/use/article_1457402775.html

    旧旅館富田屋 名所・史跡

    緒形拳主演の映画「魚影の群れ」のロケにも使用された「旧富田屋旅館」 by kojikojiさん
  • そしてその横には「風待食堂」がありました。元々は大正2年の1913年創業の雑貨屋でしたが、昭和56年の1981年に公開された映画「駅 STATION」のロケ場所として使われ、看板など撮影したそのままの姿を残して観光案内所になっていました。

    そしてその横には「風待食堂」がありました。元々は大正2年の1913年創業の雑貨屋でしたが、昭和56年の1981年に公開された映画「駅 STATION」のロケ場所として使われ、看板など撮影したそのままの姿を残して観光案内所になっていました。

    風待食堂 名所・史跡

    映画「駅 STATION」で烏丸せつこ演じるすず子が働いていた「風待食堂」 by kojikojiさん
  • 内部を見学したいところですが、ツアーの列からあまり離れられないので先を急ぎます。映画「駅 STATION」で烏丸せつこ演じるすず子が働いていた「風待食堂」の建物の前で記念写真。

    内部を見学したいところですが、ツアーの列からあまり離れられないので先を急ぎます。映画「駅 STATION」で烏丸せつこ演じるすず子が働いていた「風待食堂」の建物の前で記念写真。

  • この通りが観光のメインストリートなのだと思いますが、完全に昭和の時代にタイムスリップしています。まだまだ知らない魅力のある街があるのだなと感心します。

    この通りが観光のメインストリートなのだと思いますが、完全に昭和の時代にタイムスリップしています。まだまだ知らない魅力のある街があるのだなと感心します。

  • 「増毛館」は1932年に建てられた駅前旅館だったそうです。その老舗旅館が平成10年まで営業していましたが廃業が決まり、取り壊しするところを現在のオーナーが引き継いでドミトリー形式の宿として復活させたそうです。

    「増毛館」は1932年に建てられた駅前旅館だったそうです。その老舗旅館が平成10年まで営業していましたが廃業が決まり、取り壊しするところを現在のオーナーが引き継いでドミトリー形式の宿として復活させたそうです。

  • 隣には昭和8年に建てられた「増毛第一号農業倉庫」の建物がありますが利用されていないようです。こういった潜在的な建物が残されているので今後が期待されます。明治初期に建築されたいくつかの歴史的建造物には決まって、開拓使がシンボルマークとした赤い星「五稜星」が付けられていますが、これもその流れを汲むのだと感じました。

    隣には昭和8年に建てられた「増毛第一号農業倉庫」の建物がありますが利用されていないようです。こういった潜在的な建物が残されているので今後が期待されます。明治初期に建築されたいくつかの歴史的建造物には決まって、開拓使がシンボルマークとした赤い星「五稜星」が付けられていますが、これもその流れを汲むのだと感じました。

  • ツアーの見学ルートは「旧商家丸一本間家」の見学でした。ここの見学はツアーに含まれているようで、案内人の方がついての見学になりました。<br />

    ツアーの見学ルートは「旧商家丸一本間家」の見学でした。ここの見学はツアーに含まれているようで、案内人の方がついての見学になりました。

    旧商家丸一本間家 名所・史跡

    増毛町で一番の町の歴史を感じることが出来る観光ポイント。 by kojikojiさん
  • 明治14年から建設を始め明治35年に落成した町屋造りを基本とした建物は最盛期には9棟にも及んだそうです。印半纏を着た案内人の方の話しでは初代当主の本間泰蔵は嘉永2年の1849年の生まれで、元々は新潟県の佐渡ヶ島出身だそうです。明治2年の1869年に20歳で小樽へ渡り、現在の滋賀県近江出身の呉服商の松居政助の下で番頭を勤めた後の26歳の時に増毛に移り住み、さまざまな商いを手がけました。

    明治14年から建設を始め明治35年に落成した町屋造りを基本とした建物は最盛期には9棟にも及んだそうです。印半纏を着た案内人の方の話しでは初代当主の本間泰蔵は嘉永2年の1849年の生まれで、元々は新潟県の佐渡ヶ島出身だそうです。明治2年の1869年に20歳で小樽へ渡り、現在の滋賀県近江出身の呉服商の松居政助の下で番頭を勤めた後の26歳の時に増毛に移り住み、さまざまな商いを手がけました。

  • 明治維新からの10年間に東北や北陸の日本海側からは、北海道への移民が北前船に大挙して乗り込みました。新天地の開拓吏や屯田兵、石炭を運ぶ沖仲士、さらには彼らの生活物資の商人など、一攫千金を夢見る移民が混沌とし、港町の函館や小樽は人種の坩堝と化していきました。

    明治維新からの10年間に東北や北陸の日本海側からは、北海道への移民が北前船に大挙して乗り込みました。新天地の開拓吏や屯田兵、石炭を運ぶ沖仲士、さらには彼らの生活物資の商人など、一攫千金を夢見る移民が混沌とし、港町の函館や小樽は人種の坩堝と化していきました。

  • ほとんどの移民たちは質素な衣服しか纏えず、京都や大坂の古着が北海道へ大量に送られました。泰蔵は北前船の寄港地だった佐渡ヶ島で古着の山を目の当たりにし、呉服商としての成功を予見したようです。機を見るに敏な才覚で小樽へ渡ったのではないでしょうか。たった5年ほどで泰蔵は松居政助呉服店の番頭を任されています。

    ほとんどの移民たちは質素な衣服しか纏えず、京都や大坂の古着が北海道へ大量に送られました。泰蔵は北前船の寄港地だった佐渡ヶ島で古着の山を目の当たりにし、呉服商としての成功を予見したようです。機を見るに敏な才覚で小樽へ渡ったのではないでしょうか。たった5年ほどで泰蔵は松居政助呉服店の番頭を任されています。

  • 明治8年の1875年に松居商店が閉店になり、泰蔵はつまずきますが店の在庫商品を参百円で買い取って行商を始めます。翌年には増毛の弁天町に店を構えて長期滞在しますが、この時に目をかけてくれた金融業者との出会いが人生の明暗を分けることになります。

    明治8年の1875年に松居商店が閉店になり、泰蔵はつまずきますが店の在庫商品を参百円で買い取って行商を始めます。翌年には増毛の弁天町に店を構えて長期滞在しますが、この時に目をかけてくれた金融業者との出会いが人生の明暗を分けることになります。

  • 着物を売り歩く泰蔵に目をかけてくれた高利貸しの女傑がいたそうで、その女性は呉服店舗を泰蔵へ提供し、なにくれとなく援助しました。明治13年の1880年には、増毛の大火によって店舗を失いますが、さらにこの女性は泰蔵へ投資してくれたようです。

    着物を売り歩く泰蔵に目をかけてくれた高利貸しの女傑がいたそうで、その女性は呉服店舗を泰蔵へ提供し、なにくれとなく援助しました。明治13年の1880年には、増毛の大火によって店舗を失いますが、さらにこの女性は泰蔵へ投資してくれたようです。

  • 火事の教訓から耐火性の強い石造りの店舗を完成させ「丸一本間」の商標を掲げると、荒物雑貨を道北で販売を始めます。さらに増毛でのニシン漁、廻船業にも手を広げ、明治17年の1884年には故郷の佐渡から妻のチエを迎えて、長男の泰輔も誕生します。

    火事の教訓から耐火性の強い石造りの店舗を完成させ「丸一本間」の商標を掲げると、荒物雑貨を道北で販売を始めます。さらに増毛でのニシン漁、廻船業にも手を広げ、明治17年の1884年には故郷の佐渡から妻のチエを迎えて、長男の泰輔も誕生します。

  • 一代にして大店に上り詰めた丸一本間合資会社ですが、後継者については不幸がつきまとったそうです。嫡男の泰輔は病に臥せりがちで、嫁を娶ってからも子どもがなく、娘の千代に男子を授かりますが、翌年の大正5年に千代は急逝しました。さらに千代の産んだ一夫は、5歳で脳膜炎によって失明します。泰蔵の妻のキミも明治41年に52歳の若さで他界していました。重なる不幸に泰蔵は悩みますが、これを支えたのが長男の泰輔の嫁となった本間キミでした。旧松前藩の家老だった下国 濱三郎の次女で、泰蔵は松前藩きっての武家の娘を嫁に娶ったわけです。不幸とはいえ本間一夫は日本点字図書館の創立者になります。

    一代にして大店に上り詰めた丸一本間合資会社ですが、後継者については不幸がつきまとったそうです。嫡男の泰輔は病に臥せりがちで、嫁を娶ってからも子どもがなく、娘の千代に男子を授かりますが、翌年の大正5年に千代は急逝しました。さらに千代の産んだ一夫は、5歳で脳膜炎によって失明します。泰蔵の妻のキミも明治41年に52歳の若さで他界していました。重なる不幸に泰蔵は悩みますが、これを支えたのが長男の泰輔の嫁となった本間キミでした。旧松前藩の家老だった下国 濱三郎の次女で、泰蔵は松前藩きっての武家の娘を嫁に娶ったわけです。不幸とはいえ本間一夫は日本点字図書館の創立者になります。

  • 嫡男の泰輔は泰蔵が大正14年に75歳で隠居すると社長に就任します。しかし昭和2年に泰蔵が逝去し、後を追うかのように翌年には泰輔までも早逝します。多角的な社業と子育てと看護の難題がキミの両肩にのしかかりました。

    嫡男の泰輔は泰蔵が大正14年に75歳で隠居すると社長に就任します。しかし昭和2年に泰蔵が逝去し、後を追うかのように翌年には泰輔までも早逝します。多角的な社業と子育てと看護の難題がキミの両肩にのしかかりました。

  • 時代は満州事変の勃発などで軍国化の靴音が聞こえ、酒造業には原料米の翳りが見えていました。海外からの輸出や輸入の制限、本土産業の低迷から海運業も沈滞していきます。火急の状況下にキミと力を合わせた義弟の泰一も昭和12年に逝去します。キミは暖簾を守るために、事業の縮小と存続を図り、呉服業、海運業、牧場を廃業し、戦中から戦後にかけては企業統制の波をかわしながら、酒造業を核として女手一つで乗り越えたわけです。

    時代は満州事変の勃発などで軍国化の靴音が聞こえ、酒造業には原料米の翳りが見えていました。海外からの輸出や輸入の制限、本土産業の低迷から海運業も沈滞していきます。火急の状況下にキミと力を合わせた義弟の泰一も昭和12年に逝去します。キミは暖簾を守るために、事業の縮小と存続を図り、呉服業、海運業、牧場を廃業し、戦中から戦後にかけては企業統制の波をかわしながら、酒造業を核として女手一つで乗り越えたわけです。

  • キミは昭和43年の1968年に引退するまで、酒造業と増毛の漁業と水産加工業を維持し、3代目の泰治へ代表社員を引き継ぎました。泰治は後に増毛町町長を務めた人物だそうです。ここでようやく案内人さんの店頭での説明が終わりました。その後は奥の住居の見学に移りますが、狭い廊下を大勢で歩くのは嫌なので少し離れて見学しました。

    キミは昭和43年の1968年に引退するまで、酒造業と増毛の漁業と水産加工業を維持し、3代目の泰治へ代表社員を引き継ぎました。泰治は後に増毛町町長を務めた人物だそうです。ここでようやく案内人さんの店頭での説明が終わりました。その後は奥の住居の見学に移りますが、狭い廊下を大勢で歩くのは嫌なので少し離れて見学しました。

  • 社屋である奥帳場の天井はこのように折り上げられていました。屋根には大きな窓があり、西日を受けた夕暮れでも部屋に光が入りやすいような工夫が施されているようです。

    社屋である奥帳場の天井はこのように折り上げられていました。屋根には大きな窓があり、西日を受けた夕暮れでも部屋に光が入りやすいような工夫が施されているようです。

  • 佐渡出身の泰蔵はわざわざ故郷の新潟県から宮大工を呼び寄せて、店舗と住まい造りを任せまたそうです。往時には、呉服蔵から梲(うだつ)壁の間に雑貨店舗、丸一本間合名会社社屋、文書蔵(廻船部事務所)が並び、居宅の奧には文庫蔵も存在していたそうです。

    佐渡出身の泰蔵はわざわざ故郷の新潟県から宮大工を呼び寄せて、店舗と住まい造りを任せまたそうです。往時には、呉服蔵から梲(うだつ)壁の間に雑貨店舗、丸一本間合名会社社屋、文書蔵(廻船部事務所)が並び、居宅の奧には文庫蔵も存在していたそうです。

  • 館内にはこのようなマップがありますが、案内人の方の話しはさらに詳しいので、聞いておいて損はないと思いました。中庭に面した7部屋が住宅と事務所になっています。中庭に面して全面ガラスの引き戸があるので部屋うちはとても明るいです。

    館内にはこのようなマップがありますが、案内人の方の話しはさらに詳しいので、聞いておいて損はないと思いました。中庭に面した7部屋が住宅と事務所になっています。中庭に面して全面ガラスの引き戸があるので部屋うちはとても明るいです。

  • 仏間にある遺影は右側から初代の本間泰造と妻のチエ、左側が長男の泰輔と妻のキミです。

    仏間にある遺影は右側から初代の本間泰造と妻のチエ、左側が長男の泰輔と妻のキミです。

  • 奥の間は泰造が晩年に隠居部屋として使用していたそうです。襖に書かれた漢詩は明治の三筆として名高い書家の巌谷一六(いわやいちろく)によるもので、本間家の建築が整った明治35年に招かれ揮毫しました。題材は仲長統(ちゅうちょうとう)による「楽志論」と蘇軾(そしょく)による「後赤壁賦(のちのせきへきふ)」からの引用です。中央に「歳在壬寅(みずのえとら)秋八月於北海道萬壽湾客舎一六居士臨書」と書かれているのが読み取れました。<br />

    奥の間は泰造が晩年に隠居部屋として使用していたそうです。襖に書かれた漢詩は明治の三筆として名高い書家の巌谷一六(いわやいちろく)によるもので、本間家の建築が整った明治35年に招かれ揮毫しました。題材は仲長統(ちゅうちょうとう)による「楽志論」と蘇軾(そしょく)による「後赤壁賦(のちのせきへきふ)」からの引用です。中央に「歳在壬寅(みずのえとら)秋八月於北海道萬壽湾客舎一六居士臨書」と書かれているのが読み取れました。

  • 中庭をコの字に囲むことにより海からの風を防いだのだと分かります。コの字の開かれた方角が南なので採光もよく考えられています。ただ冬場の雪対策はどのようにしていたのでしょうか。ガラスの引き戸以外に敷居などは見当たりません。

    中庭をコの字に囲むことにより海からの風を防いだのだと分かります。コの字の開かれた方角が南なので採光もよく考えられています。ただ冬場の雪対策はどのようにしていたのでしょうか。ガラスの引き戸以外に敷居などは見当たりません。

  • 茶の間の襖絵は昭和初期の日本画家の仙田菱畝(せんだりょうほ)によるもので、昭和9年頃に本間泰蔵の次男泰一に招かれて増毛に来町した際に直接描いており、それ以降も書簡などを通じて本間家と彼の交流は長く続いていました。

    茶の間の襖絵は昭和初期の日本画家の仙田菱畝(せんだりょうほ)によるもので、昭和9年頃に本間泰蔵の次男泰一に招かれて増毛に来町した際に直接描いており、それ以降も書簡などを通じて本間家と彼の交流は長く続いていました。

  • 奥帳場の明り取りの形状がよく分かります。往時は庭にもお金をかけていたのではないかと思われます。

    奥帳場の明り取りの形状がよく分かります。往時は庭にもお金をかけていたのではないかと思われます。

  • 客間は天井が少し高く3メートル30センチあります。襖には奥の間と同じく巌谷一六による監視が揮毫されています。内容は蘇軾による「赤壁賦」からの引用です。

    客間は天井が少し高く3メートル30センチあります。襖には奥の間と同じく巌谷一六による監視が揮毫されています。内容は蘇軾による「赤壁賦」からの引用です。

  • 欄間額には「長楽萬年」とありました。本間家のどなたかが比田井天来に揮毫を頼まれたようです。長楽には“長く楽しむこと”、“楽しみが続くこと”という意味があります。長楽万年という言葉には“楽しいことが長くずっと続く”、“新年から良いことが起こる”という願いが込められています。

    欄間額には「長楽萬年」とありました。本間家のどなたかが比田井天来に揮毫を頼まれたようです。長楽には“長く楽しむこと”、“楽しみが続くこと”という意味があります。長楽万年という言葉には“楽しいことが長くずっと続く”、“新年から良いことが起こる”という願いが込められています。

  • 客間と次の間の前の廊下部分のみ、板の角が面取りされて丸くなっています。客人を通すことを考えて、足元にも気を使っていたようです。

    客間と次の間の前の廊下部分のみ、板の角が面取りされて丸くなっています。客人を通すことを考えて、足元にも気を使っていたようです。

  • 上勝手の囲炉裏はニシン番屋と同じく灰ではなくて小石が敷き詰められていました。真鍮製の自在鉤はキセルや小槌や鍵のデザインがあしらわれています。季節の姿からなのか京都の河井寛次郎記念館の囲炉裏を思い出しました。

    上勝手の囲炉裏はニシン番屋と同じく灰ではなくて小石が敷き詰められていました。真鍮製の自在鉤はキセルや小槌や鍵のデザインがあしらわれています。季節の姿からなのか京都の河井寛次郎記念館の囲炉裏を思い出しました。

  • 高橋由一の描いた鮭のような寒風に晒して乾燥させた鮭が吊られていました。

    高橋由一の描いた鮭のような寒風に晒して乾燥させた鮭が吊られていました。

  • 住居と作業場の間には軟石を敷き詰めた通庭があります。ここにも古い電話室がありました。たぶん増毛では電話番号が1番とか2番だったのではないでしょうか。京都の祖父の家にも同じような電話室があり、京都市内でも若い電話番号だったと聞いたことがあります。

    住居と作業場の間には軟石を敷き詰めた通庭があります。ここにも古い電話室がありました。たぶん増毛では電話番号が1番とか2番だったのではないでしょうか。京都の祖父の家にも同じような電話室があり、京都市内でも若い電話番号だったと聞いたことがあります。

  • 組子細工の障子が嵌められた襖のデザインが洒落ています。

    組子細工の障子が嵌められた襖のデザインが洒落ています。

  • 上勝手は家人が食事などをする部屋として使用され、創建時は囲炉裏が切られて自在鉤が吊られていました。この家では平成9年まで実際に住居として使われていて、その頃は部屋の中央に掘りごたつが設けられていたようです。

    上勝手は家人が食事などをする部屋として使用され、創建時は囲炉裏が切られて自在鉤が吊られていました。この家では平成9年まで実際に住居として使われていて、その頃は部屋の中央に掘りごたつが設けられていたようです。

  • 窓ガラスと障子の2重サッシュになっていますが、冬場は寒かったと思います。

    窓ガラスと障子の2重サッシュになっていますが、冬場は寒かったと思います。

  • 古い藍染の暖簾が時代を感じさせます。

    古い藍染の暖簾が時代を感じさせます。

  • 通り庭の天井は無く梁には碍子が取り付けられ、電線が建物の中に渡されています。明り取りの窓には魔除けの天狗の面が掛けられています。

    通り庭の天井は無く梁には碍子が取り付けられ、電線が建物の中に渡されています。明り取りの窓には魔除けの天狗の面が掛けられています。

  • 今回の旅で鰊番屋を見学して、過去に見学した鰊御殿のことも思い出しますが、鰊漁で使われた舟を見ていないことに気が付きます。

    今回の旅で鰊番屋を見学して、過去に見学した鰊御殿のことも思い出しますが、鰊漁で使われた舟を見ていないことに気が付きます。

  • 和船の名称などはなかなか調べることも出来ないので写真に撮っておきました。

    和船の名称などはなかなか調べることも出来ないので写真に撮っておきました。

  • 増毛の船には工夫があって、「ダルマハギ」と呼ばれる船縁の加工によって水の抵抗が軽減されてスピードが出たようです。こんな知識はどこで役に立つのだろうと思いましたが、意外に早くやってきました。

    増毛の船には工夫があって、「ダルマハギ」と呼ばれる船縁の加工によって水の抵抗が軽減されてスピードが出たようです。こんな知識はどこで役に立つのだろうと思いましたが、意外に早くやってきました。

  • 銅板を貼った流し台まで当時のまま残されているとは驚きです。

    銅板を貼った流し台まで当時のまま残されているとは驚きです。

  • 付属屋の上は女中部屋などがありましたが、その一部は3階建てになっています。こちら側も採光などを考慮した造りになっています。

    付属屋の上は女中部屋などがありましたが、その一部は3階建てになっています。こちら側も採光などを考慮した造りになっています。

  • 映画「駅 STATION」の1シーンはこの部屋で撮られたことが分かります。ローアングルの茶の間のシーンは小津安二郎の映画を思い出させます。

    映画「駅 STATION」の1シーンはこの部屋で撮られたことが分かります。ローアングルの茶の間のシーンは小津安二郎の映画を思い出させます。

  • 同じアングルで確認することが出来ます。

    同じアングルで確認することが出来ます。

  • 茶の間の大きな神棚は権現造りと呼ばれる伝統的な神社の建築様式を取り入れています。

    茶の間の大きな神棚は権現造りと呼ばれる伝統的な神社の建築様式を取り入れています。

  • 見学を終えて表に出る際に呉服蔵の壁を見ると見事な黒漆喰で塗られていました。これは非常に技術を要するもので、黒色は菜種油の油煙で奈良で造られています。素材的には墨と同じです。その油煙を石灰と混ぜ合わせ、布で丁寧に漉(こ)し、「黒のろ」を作ります。黒のろは厚く塗るとひび割れするので紙一枚と言われるほど薄く塗ります。黒のろが固って鏝(こて)が使えなくなると、今度は絹で表面を磨きます。最後は素手で磨き上げると鏡のように輝きます。肝心な写真を撮り忘れました。

    見学を終えて表に出る際に呉服蔵の壁を見ると見事な黒漆喰で塗られていました。これは非常に技術を要するもので、黒色は菜種油の油煙で奈良で造られています。素材的には墨と同じです。その油煙を石灰と混ぜ合わせ、布で丁寧に漉(こ)し、「黒のろ」を作ります。黒のろは厚く塗るとひび割れするので紙一枚と言われるほど薄く塗ります。黒のろが固って鏝(こて)が使えなくなると、今度は絹で表面を磨きます。最後は素手で磨き上げると鏡のように輝きます。肝心な写真を撮り忘れました。

  • 南砺も魅力的な建物です。日本にはまだ知らないことが多いと痛感します。

    南砺も魅力的な建物です。日本にはまだ知らないことが多いと痛感します。

  • 「旧商家丸一本間家」の角を曲がると視界が開け、巌谷一六が萬壽湾と呼んだ海が見えます。

    「旧商家丸一本間家」の角を曲がると視界が開け、巌谷一六が萬壽湾と呼んだ海が見えます。

  • 北海道遺産に登録された「駅前の歴史的建物群と増毛小学校」に含まれなくても魅力ある建物が多い街です。リシン吹付のようなローマ風の建築の歴史を知りたくなります。ここは「志満川食堂」の側面にあたります。

    北海道遺産に登録された「駅前の歴史的建物群と増毛小学校」に含まれなくても魅力ある建物が多い街です。リシン吹付のようなローマ風の建築の歴史を知りたくなります。ここは「志満川食堂」の側面にあたります。

  • その奥にある「國稀千石蔵」にも立ち寄りました。本間家の裏手の辺りに石造りの倉庫があります。國稀の蔵で中には鰊船が展示してあります。当時の船がこんなにも完全な形で残っているのは珍しく、鰊漁に沸いたヤン衆達の息吹が聞こえてきそうです。

    その奥にある「國稀千石蔵」にも立ち寄りました。本間家の裏手の辺りに石造りの倉庫があります。國稀の蔵で中には鰊船が展示してあります。当時の船がこんなにも完全な形で残っているのは珍しく、鰊漁に沸いたヤン衆達の息吹が聞こえてきそうです。

    千石蔵 美術館・博物館

  • 先ほど学んで来た「ダルマハギ」の知識が役に立ちそうです。というかその船体の大きさには驚きました。

    先ほど学んで来た「ダルマハギ」の知識が役に立ちそうです。というかその船体の大きさには驚きました。

  • 北海道の奥地への鰊出稼ぎが進出するにつれ、従来の刺し網漁から大網を使用するようになり、船の大型化が進んでいくことになったようです。そして江戸後期には船の幅によって船の名称が決まっていきます。

    北海道の奥地への鰊出稼ぎが進出するにつれ、従来の刺し網漁から大網を使用するようになり、船の大型化が進んでいくことになったようです。そして江戸後期には船の幅によって船の名称が決まっていきます。

  • 磯船(いそぶね) 3尺まで(約91cmまで)<br />保津知船(ほっちせん) 4尺3寸まで(約1m30cmまで)<br />三半船(さんぱせん) 5尺3寸まで(約1m61cmまで)<br />乗替船(のりかえせん) 6尺まで(約1m83cmまで)<br />図合船(ずあいせん) 7尺まで(約2m12cmまで)<br />中遣船(なかやりせん) 8尺5寸まで(約2m58cmまで)<br />大中遣船(おおなかやりせん) 9尺5寸まで(約2m88cmまで)

    磯船(いそぶね) 3尺まで(約91cmまで)
    保津知船(ほっちせん) 4尺3寸まで(約1m30cmまで)
    三半船(さんぱせん) 5尺3寸まで(約1m61cmまで)
    乗替船(のりかえせん) 6尺まで(約1m83cmまで)
    図合船(ずあいせん) 7尺まで(約2m12cmまで)
    中遣船(なかやりせん) 8尺5寸まで(約2m58cmまで)
    大中遣船(おおなかやりせん) 9尺5寸まで(約2m88cmまで)

  • このうち漁船といわれるものは「図合船(ずあいせん)」までで、「中遣船」以上は主に物資の輸送や出稼ぎ漁場への往返に使用されました。明治から大正にかけては用途により「三半船」の枠船、「起船」、「汲船」が主役でしたがこれらほとんど「保津船」に替わっていきます。

    このうち漁船といわれるものは「図合船(ずあいせん)」までで、「中遣船」以上は主に物資の輸送や出稼ぎ漁場への往返に使用されました。明治から大正にかけては用途により「三半船」の枠船、「起船」、「汲船」が主役でしたがこれらほとんど「保津船」に替わっていきます。

  • 船体に隠れるように「駅STATION」の描割がありました。高倉健と倍賞千恵子の気分で写真を撮っていただきました。

    船体に隠れるように「駅STATION」の描割がありました。高倉健と倍賞千恵子の気分で写真を撮っていただきました。

  • 増毛の最後の立ち寄り先は「国稀酒造」です。蔵元の門前に湧く井戸は「国稀」を醸す伏流水にもなっています。

    増毛の最後の立ち寄り先は「国稀酒造」です。蔵元の門前に湧く井戸は「国稀」を醸す伏流水にもなっています。

  • 明治期後半の丸一本間合名会社の人気の酒銘は「長久」「松月」「國の誉」などだったそうです。明治37年の1904年から翌年にかけての日露戦争では、旅順侵攻作戦で多くの戦死者を出し、増毛町からも若い命が殉じました。終戦後に増毛町では慰霊碑建立が計画され、本間泰蔵はその発起人となります。そして戦勝の英傑である乃木希典大将の東京の自宅を訪ね、碑文の揮毫を願い出たそうです。

    明治期後半の丸一本間合名会社の人気の酒銘は「長久」「松月」「國の誉」などだったそうです。明治37年の1904年から翌年にかけての日露戦争では、旅順侵攻作戦で多くの戦死者を出し、増毛町からも若い命が殉じました。終戦後に増毛町では慰霊碑建立が計画され、本間泰蔵はその発起人となります。そして戦勝の英傑である乃木希典大将の東京の自宅を訪ね、碑文の揮毫を願い出たそうです。

    国稀酒造 専門店

    北海道の歴史を感じる酒蔵で試飲をして買い物も楽しめる。 by kojikojiさん
  • 乃木大将自らが面会し、国に命を捧げた若者への哀悼を示すと、泰蔵は感激して増毛へ戻ると乃木希典の「希」を拝して「國の誉」を「国稀」に改名します。乃木大将の名前をそのまま使うのは不遜でおこがましいと考えて「稀」の字とし、国に稀なる美酒という意味も併せまたそうです。

    乃木大将自らが面会し、国に命を捧げた若者への哀悼を示すと、泰蔵は感激して増毛へ戻ると乃木希典の「希」を拝して「國の誉」を「国稀」に改名します。乃木大将の名前をそのまま使うのは不遜でおこがましいと考えて「稀」の字とし、国に稀なる美酒という意味も併せまたそうです。

  • 同じ経営だっただけあって「旧商家丸一本間家」の造りを思い出させるような建築です。

    同じ経営だっただけあって「旧商家丸一本間家」の造りを思い出させるような建築です。

  • 国稀の一斗樽と記念写真です。

    国稀の一斗樽と記念写真です。

  • 手前に並んだのがミニチュア瓶のようですが、これが一升瓶です。奥に並んだ4本は一斗瓶で18リットルで、一升瓶10本分の巨大なものです。

    手前に並んだのがミニチュア瓶のようですが、これが一升瓶です。奥に並んだ4本は一斗瓶で18リットルで、一升瓶10本分の巨大なものです。

  • 蔵元の一部は博物館のようになっていました。昔の角樽や国稀のロゴの入った徳利やぐい飲みなどのノベルティが飾られていました。

    蔵元の一部は博物館のようになっていました。昔の角樽や国稀のロゴの入った徳利やぐい飲みなどのノベルティが飾られていました。

  • 「旧商家丸一本間家」だけではなく、この「国稀酒蔵」でも「駅STATION」のロケが行われたようです。

    「旧商家丸一本間家」だけではなく、この「国稀酒蔵」でも「駅STATION」のロケが行われたようです。

  • 東京へ帰ったら「北のカナリアたち」と「駅STATION」はDVDを借りて観てみようと思いました。そして今度は冬の増毛にも来てみたいと思います。

    東京へ帰ったら「北のカナリアたち」と「駅STATION」はDVDを借りて観てみようと思いました。そして今度は冬の増毛にも来てみたいと思います。

  • 増毛の観光を終えるとバスは札幌を目指してラストスパートです。

    増毛の観光を終えるとバスは札幌を目指してラストスパートです。

  • バスはオロロンラインを南に向かって海岸線を走ります。

    バスはオロロンラインを南に向かって海岸線を走ります。

  • 「雄冬岬の滝 」を通過しました。バスガイドさんが「左手に!」と言ってもすでに通過しています。最後尾に座っていたのでリアウインドウから姿を見ることが出来ました。

    「雄冬岬の滝 」を通過しました。バスガイドさんが「左手に!」と言ってもすでに通過しています。最後尾に座っていたのでリアウインドウから姿を見ることが出来ました。

  • 午後3時半に最後の休憩地である「道の駅石狩あいろーど厚田」に到着しました。石狩市を縦断する国道231号線であるオロロンライン沿いの夕日の絶景ポイントでもあるそうです。

    午後3時半に最後の休憩地である「道の駅石狩あいろーど厚田」に到着しました。石狩市を縦断する国道231号線であるオロロンライン沿いの夕日の絶景ポイントでもあるそうです。

    道の駅 石狩あいろーど厚田 道の駅

    美味しい地元産のジェラートを食べながら、美しい石狩湾の絶景を見ることが出来る。 by kojikojiさん
  • 2階の「GELATO LicoLico 厚田店」で休憩しました。白いのが浜益にあるきむら果樹園の100年以上生きている木に実ったリンゴで、オレンジが厚田の夕日をイメージした厚田店限定ジェラートのマンゴーとラズベリーが絶妙に合わさったものです。ここのジェラート美味しいです。

    2階の「GELATO LicoLico 厚田店」で休憩しました。白いのが浜益にあるきむら果樹園の100年以上生きている木に実ったリンゴで、オレンジが厚田の夕日をイメージした厚田店限定ジェラートのマンゴーとラズベリーが絶妙に合わさったものです。ここのジェラート美味しいです。

  • 第43代横綱の吉葉山潤之輔は厚田の出身だと知りました。裕福だった網元の家に三男として生まれ、幼少期から身体が大きくて網元を営んでいたことから家族全員が怪力だったそうです。やがて不漁が3年続いた末に家業が倒産してしまったことで、高等小学校卒業後は北海道製糖へ就職します。一念発起して単身で上京しましたが、夜行列車で上野駅へ到着すると2人の若い力士が迎えに来ており、なぜか高島部屋へ連れて行かれました。部屋に到着してから人違いだったことが判明しましたが、おかみさんから熱心に説得され、そのまま入門したそうです。四股名は就職予定だった北海道製糖に因み「北糖山」でしたが、その後盲腸炎になり生命の危機に晒されましたが、当時の名医の吉葉庄作による大手術で全快したことで、恩に報いるべく四股名を「吉葉山」に改名したというエピソードを知りました。

    第43代横綱の吉葉山潤之輔は厚田の出身だと知りました。裕福だった網元の家に三男として生まれ、幼少期から身体が大きくて網元を営んでいたことから家族全員が怪力だったそうです。やがて不漁が3年続いた末に家業が倒産してしまったことで、高等小学校卒業後は北海道製糖へ就職します。一念発起して単身で上京しましたが、夜行列車で上野駅へ到着すると2人の若い力士が迎えに来ており、なぜか高島部屋へ連れて行かれました。部屋に到着してから人違いだったことが判明しましたが、おかみさんから熱心に説得され、そのまま入門したそうです。四股名は就職予定だった北海道製糖に因み「北糖山」でしたが、その後盲腸炎になり生命の危機に晒されましたが、当時の名医の吉葉庄作による大手術で全快したことで、恩に報いるべく四股名を「吉葉山」に改名したというエピソードを知りました。

  • 夕日の名所ですが午後4時前では対岸に見える小樽を探すくらいしかできません。

    夕日の名所ですが午後4時前では対岸に見える小樽を探すくらいしかできません。

  • 石狩湾もこれが見納めです。翌日東京に戻るだけですが、次の旅行も北海道を考えていました。厚田で小樽や積丹半島を眺めていたら行きたい気持ちが強くなったきました。それだけ今回の旅で出会った自然が素晴らしかったのかもしれません。妻はまたうに丼が食べられると思っていることでしょう。

    石狩湾もこれが見納めです。翌日東京に戻るだけですが、次の旅行も北海道を考えていました。厚田で小樽や積丹半島を眺めていたら行きたい気持ちが強くなったきました。それだけ今回の旅で出会った自然が素晴らしかったのかもしれません。妻はまたうに丼が食べられると思っていることでしょう。

  • 古い牧場の建物が残っていました。廃業しているのかと思いましたが、周囲の牧草地ではロールベールが見えたので牧草は収穫しているようです。

    古い牧場の建物が残っていました。廃業しているのかと思いましたが、周囲の牧草地ではロールベールが見えたので牧草は収穫しているようです。

  • ツアーの初日と2日目に何度も渡った石狩川と再会です。この辺りが最も海に近い河口になります。

    ツアーの初日と2日目に何度も渡った石狩川と再会です。この辺りが最も海に近い河口になります。

  • 石狩川に架かる橋を渡れば市内ももうすぐです。

    石狩川に架かる橋を渡れば市内ももうすぐです。

  • 市内の北側から創成川に沿って南に向かうと札幌駅のビルが見えてきました。JRタワー最上階の展望室T38も景色が良いそうです。バスガイドさんがスカイリゾートスパ「プラウブラン」というJR札幌駅南口の地下より湧き出した天然温泉に行ったそうですが、ガラガラだったという話を聞きました。若い頃に札幌にスキーに来ると夜はジャスマックプラザの温泉に行ったものでしたが時代は変わりました。

    市内の北側から創成川に沿って南に向かうと札幌駅のビルが見えてきました。JRタワー最上階の展望室T38も景色が良いそうです。バスガイドさんがスカイリゾートスパ「プラウブラン」というJR札幌駅南口の地下より湧き出した天然温泉に行ったそうですが、ガラガラだったという話を聞きました。若い頃に札幌にスキーに来ると夜はジャスマックプラザの温泉に行ったものでしたが時代は変わりました。

  • 時計塔から大通公園に入るとこの日泊まる「ラ・ジェント・ステイ札幌大通」はもうすぐです。長い6日間のツアーが終わりました。後は最後の札幌の夜が残るだけです。<br />

    時計塔から大通公園に入るとこの日泊まる「ラ・ジェント・ステイ札幌大通」はもうすぐです。長い6日間のツアーが終わりました。後は最後の札幌の夜が残るだけです。

    さっぽろテレビ塔 名所・史跡

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