2022/06/01 - 2022/06/01
77位(同エリア174件中)
kojikojiさん
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この旅行記スケジュールを元に
夜半から降った雨は朝には止んでいました。豊富温泉の湯を最後に楽しんで、出発の準備をしてから朝ご飯をいただきました。このホテルの朝食もどこでも食べられるようなものばかりでちょっとがっかりです。この辺りは牛乳の産地なのでこれだけは美味しかったです。午前8時過ぎにお迎えのバスに乗りますが、この日は新千歳空港から旭川と翌日の旭川から稚内までのバスなので、懐かしいバスガイドさんとドライバーさんと再会です。豊富温泉からはサロベツ原野を戻って、「稚咲内漁港」の信号を左折して海岸線の「オロロンライン」をひたすら南下します。途中「北緯45度通過点 モニュメント」の大きなNの文字も見えます。「オトンルイ風力発電所」がこの日最初の立ち寄り場所でした。巨大な風車が目の前でグオングオンと音を立てて回っています。今までいろいろなところで巨大な風車を見てきましたが、こんなに近い位置で見ることはありませんでした。しばらくは牧場の景色が車窓を流れ、大きなオロロン鳥のオブジェが見えると羽幌の町に入りました。午前10時過ぎに「道の駅サンセット・プラザ」でトイレ休憩になりました。この辺りが甘えびの産地だとガイドさんに聞いていたのですが、お土産に出来るようなものが無くてちょっとがっかりです。町の出口にもオロロン鳥のオブジェがありましたが、これはバブルの頃に総理大臣だった竹下登氏全国の市町村に1億円を交付し、地方創生に役立ててもらう通称「ふるさと創生一億円事業」で1体1700万円かけて5体製作したそうです。オロロン鳥も絶滅危惧種ですが、5体の鳥も老築化で2体しか残っていないそうです。オロロン鳥の生息する焼尻島にはサフォーク種の羊が飼育され、そのことでも有名だそうです。羽幌を出て30分ほどでバスは「道の駅 おびら鰊番屋」に到着します。ここでお昼を兼ねた休憩時間になります。皆さんが食事に行かれたので「旧花田家番屋」の見学に進みます。ここは重要文化財になった昔の鰊番屋で、大きな建物の右半分がヤン衆の住居で左半分が親方の家という造りでした。鰊御殿は小樽で見たことがありましたが、作業場所でもある番屋を見たのは初めてだったのでとても勉強になりました。勉強の後はご褒美のお昼ご飯ですが、事前にネットで調べてあったにしんそばでも食べようかと考えていました。ところが「甘エビ丼」の文字と「うに丼」の文字を見たら券売機のボタンを押していました。羽幌で甘えびについて知り、前日の稚内のうに丼の味が忘れられません。ウニも美味しかったですが、食べても食べても下から出てくる甘エビ丼は最高の経験でした。昨日は妻に「うに丼を食べる人を初めて見た。」と言いましたが、今日は「2日連続でうに丼を食べる人を初めて見た。」と言いました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 観光バス 船 JALグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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昨晩は早くに寝てしまったので朝早く目が覚めました。表はまだ小雨が降っています。
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この石油臭い湯に浸かれるのもこれが最後です。
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到着時には並んでなかった車がたくさん駐車しています。個人の観光客の車というよりは商業車や工事用の車が多かったので、仕事で来ている方も多いようです。
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一度朝食のレストランに向かいましたが、満席で並んでいたので30分ほど時間をずらしました。
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このホテルの朝食はセットになっていて、とてもシンプルなものでした。牛乳とヨーグルトは豊富の物のようです。
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アクリルの仕切り越しに朝ご飯をいただきます。雨は上がったようなので良かったです。
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食事が終わるころには誰もいなくなっていました。周囲は森なので癒される空間でコーヒーもいただきました。
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午前8時に出発です。迎えに来たバスは最初に新千歳空港から旭川を経由して稚内まで2日間一緒だったバスです。4日振りのドライバーさんとガイドさんと再会です。
豊富温泉 ホテル豊富 宿・ホテル
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これから札幌に向かうのにライラックもこれが見納めになるとは思いませんでした。
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ホテルの前の通りはこんな雰囲気なので、散歩してみようとも思いませんでした。熊とか出てきたら怖いですからね。
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豊富の牛乳を飲んだ後だと乳牛もいとおしく思えてきます。乳牛は人間より体温が2℃ほど高く、食べた飼料や牧草は体内で醗酵するので涼しい土地でないと乳の出が悪いそうです。
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昔は円筒形の建物のサイロで醗酵させた牧草は、現在ではこのようなラッピングされたロールベールで醗酵させることが多いようです。費用的にも安く済むということは昨年の道東の旅でバスガイドさんから詳しく教えてもらいました。
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今回の旅の最初と最後の3日間一緒だったこのバスガイドさんも話が面白くて、いろいろ勉強させてもらいました。
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バスはサロベツ原野の中に入りました。昨日と同じルートで海岸線に戻るのだと分かります。
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「サロベツ湿原センター」を通過した後に、ガイドさんから「ここが以前の湿原センターです。」と教えられました。現在の位置より数キロ離れた場所でした。
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湿原に道路を造る場合は溝を掘って水を抜くそうで、何年も経って湿地が普通の土壌になると笹が生え始めるそうです。笹に覆われてしまった湿原に花は咲かないので移設されたようです。
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それでもこのように道路は陥没してしまうようです。
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サロベツ川を通過するとサロベツ湿原も終わりです。サロベツはアイヌ語の「サ・オペッ」もしくは「サ・オマペッ」、「サ・ペッ」に由来し、いずれも「芦原・にある・川」の意味だそうです。
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稚咲内漁港に出る手前に小さな池がありました。ここにはコウホネが自生しています。スイレン科の水草で「コウホネ (河骨)」の名の由来は、底泥中を這う白い地下茎が骨のように見えるためとされるそうです。この地下茎を乾燥させたものは川骨(せんこつ)と呼ばれ生薬になるようです。
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再び「日本海オロロンライン」に出ました。昨日からバスの最後尾の席に座っているので、リアガラス越しに写真を撮っていました。この辺りは電柱の1本も立っていないところです。
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この日は利尻島の姿は全く見えなくなっていました。「ひょっこりひょうたん島」のようにどこかへ流れて行ったのかは定かではありません。子供の頃はただ人形劇として楽しんで観ていましたが、サンデー先生と5人の子供たちは最初にひょうたん島に遠足に行った時点で火山の噴火に巻き込まれて死んだ設定になっている「死者の物語」でもあります。頭の中に前川陽子の唄がリフレインします。
https://www.youtube.com/watch?v=lDlh3D7xMPs -
昨日「サロベツ湿原センター」で見た地層の断面図のような泥炭層が見えました。
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ホテルを出て50分ほどで「オトンルイ風力発電所」に到着しました。小さな駐車場とトイレがありました。
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高さおよそ100メートルの風車が3.1キロに渡って一直線に連なっている景色は圧巻です。
20年近く経った風車は経年劣化があるようで、2023年から撤去と更新を始めるそうです。 by kojikojiさんオトンルイ風力発電所 名所・史跡
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この発電所は幌延町の風力発電プロジェクトにより、新たなエネルギーのひとつとして平成15年の2003年から本格的に稼動しているそうです。「オトンルイ」とはアイヌ語で「浜にある道」という意味で、浜の風を受けながら28基の風車が回転しています。
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最大出力は21,000キロワットで、1年間で一般家庭が消費する電力の約12,000世帯分に相当し、火力発電所で発電した場合と比べて二酸化炭素の排出量で約35,000トンの削減になるそうです。
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20年近く経った風車は経年劣化があるようで2023年から撤去と更新を始めるそうです。
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風が強くて目が明けられないほどです。その強い風を期待して風車を設置しているのですから。
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この姿も来年からはしばらく見られなくなるのかもしれません。
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天塩川を通過する際に何やら川の中に施設が見えました。千歳川ではインディアン水車で鮭を捕獲しますが、ウライというアイヌの方の漁法かと思いました。
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使われなくなったトーチカのようなサイロがありました。後ろにはロールベールが見えるので使われなくなっていると感じます。
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オロロンラインを走っていると廃線になった国鉄羽幌線の遺構がちょこちょこ見られます。羽幌線は留萠駅で留萠本線から分岐して日本海に沿って北上し、幌延駅で宗谷本線に接続していました。国鉄分割民営化を2日後に控えた1987年3月30日に全線が廃止されました。
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バスの車窓に2つの島が見えてきました。焼尻島と天売島です。ガイドさんによると焼尻島には世界で通用すると絶賛される食材があるそうで、サフォーク種の羊が飼育されているそうです。サフォーク種の羊は見た目は羊のショーンを想像すれば間違いないです。飼育環境を考えるとモン・サン・ミッシェルで有名な地域のプレ・サレ種の羊が頭に浮かび、その味が思い出されます。
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天売島に住むオロロン鳥の巨大なレプリカが見えると羽幌町に入ったことが分かります。高さ7.5メートルのこのオブジェはバブルの頃に総理大臣だった竹下登(DAIGOの祖父)が全国の市町村にばら撒いたふるさと創生資金で作られた1700万円するものです。
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当時5体も造られましたが、在は2体しか残っていないようです。本物のオロロン鳥と同様にこちらも絶滅の危機に瀕しているようです。オロロン鳥はペンギンではなくウミガラスというカモメに近い種の海鳥で飛ぶこともできます。名前の由来は鳴き声が“オロロン”と聞こえることからだそうです。
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ホテルを出発して2時間後の午前10時過ぎに「サンセット・プラザ・ハボロ」で休憩になりました。ここは未知の駅でありながらホテルの中にあります。
はぼろ温泉 サンセットプラザ 宿・ホテル
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バスガイドさんから車内で羽幌の甘えびが美味しい話をずっと聞かされていました。沖合の2つの島の先にある武蔵堆でかご漁で獲るそうです。道の駅であれば何か買えると思ったのですが、こんなホワイトボードがあるだけでした。
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羽幌町や焼尻島と天売島のパンフレットを貰って15分ほどで出発しました。
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5日振りにセブンイレブンを見掛けました。最北端のセブンイレブンは内陸の美深町にあるようなので、最北端の店では無いようです。
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オロロン鳥が見送って羽幌町とはお別れです。
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「とままえ夕陽ケ丘ホワイトビーチ」を通過しました。この辺りにはいくつか海水浴場がありますが、ここのビーチは特別です。石が置かれたブルーのビニールシートの下には中国の海南島の白砂が敷いてあるそうです。その費用1000万円!シーズンオフの期間はシートで保護してあるそうです。グーグルマップで確認すると笑えます。
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「苫前町役場」の前には「とままえだベアー」が鎮座しています。クラウドファンディングで修理費用をねん出しようとしていましたが、きれいになっていたのでお金が集まったのでしょう。この熊には背中は無く、どちらから見ても正面になっています。
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「とままえだベアー」は大正4年の1915年の三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)の舞台となった苫前町三渓があるからのようです。日本史上最悪の熊害と評され、 体重340キロ、体長2.7メートルのエゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、7名が亡くなり3名が負傷しています。吉村昭の「羆嵐(くまあらし)」の舞台はここだったのかと思いました。
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町役場から20分も走ると「旧花田家番屋」のある「道の駅おびら鰊番屋」着きました。まずは「道の駅おびら鰊番屋」のレジで番屋の入場券を購入します。1人250円でした。
北海道でどこか1か所の鰊御殿を見るとしたらここが1番だと思います。 by kojikojiさん旧花田家番屋 名所・史跡
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「旧花田家番屋」は1905年頃に建築された鰊御殿で、地元の網元であった花田家によって建てられた2階建ての家屋です。花田家の一族と漁師たちのほか、船大工や鍛冶職人、屋根職人などが居住しており、200人ほどが住むことができたそうです。
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建物の中央にある玄関から中に入ると右側が使用人の作業と住居エリアになっています。驚くことに使用人のエリアは1階建てで、窓際だけが2段になっているだけです。
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窓際の寝台の下階の寝台部分が博物館のようになって、ニシン漁の説明があるので見学を進めます。ニシン漁は3月になるとヤン衆(季節労働者)によって雪が割られ、舟倉から三半船が出され、網打ちと網造り作業が進められます。砂浜には焚火がたかれ、船澗修理や矢らい作りで海にも入ったようです。
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積まれた網の上には角網の見取り図が置かれてありました。ニシン漁は定置網漁とは知っていましたが、こんな姿だとは初めて知りました。
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枠船と枠網の図です。網起しによって追い詰められたニシンを枠船に取り付けてある枠網(袋網)の中へ落とし入れます。ニシンが枠網の中でいっぱいになると枠船は枠網を着けたまま陸の方へ川崎船などによって引っ張られて行きます。
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ニシン場のヤン衆は職業や年齢や出身地も生活習慣も異なる者たちの寄り合い集団です。また海上で危険で過酷な労働にも従事します。そのヤン衆の相互理解と協調性と仲間意識を養うために「落ち着き」とか「あご(網子)あわせ」という宴を開くそうです。
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漁期が終わって切り上げが近い頃になると、その年の漁と漁夫への感謝の意を持って「あご(網子)別れの酒宴が催されました。この日はヤン衆の働きに応じて「九一金(手当)」が配分されました。
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「九一(くいち)金」とは全漁獲の十分の一を漁夫の手当金として配分して、十分の九を親方のものとすることです。
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2階建てになった寝台の下を「裏寝台」と呼び、漁夫の数が少ない年は塩や糠や鯨肉の塩漬けなどを保管しました。ここは味噌樽を並べた味噌部屋で、おここ(漬物)部屋などもあり、四斗樽二斗樽に詰められた味噌やニシン漬けやたくあん漬けの樽が積み上げられました。
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鰊釜で炊かれたニシンはこの締胴(角胴)で鰊粕と魚油に分離されます。鰊粕は魚肥として田畑の肥料とされ、魚は灯油として利用されました。江戸時代の本州の農家では販売目的で生産される綿花や藍や菜種の生産が発展すると農村は豊かになり、肥料をお金で買うようになります。
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お金で買う「金肥(きんぴ)」は肥料としての効果が高く、利用は進みます。代表的な金肥だった九十九里の干鰯(ほしか)は慢性的に不足していたため、19世紀になると北海道の鰊粕が安価で人気を博します。
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陸揚げされたニシンは「モッコ背負い」によって「納坪(なつぼ)」や「廊下」と呼ばれる処理作業場に集積されます。陸揚げ後に2日から3日放置するとカズノコが固まり作業がしやすくなり、「鰊つぶし」が始まります。エラを切り内臓を取り、白子やカズノコは「テッコ」という木の容器に入れます。
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ニシンはエラから口にかけて「つなぎわら」で結んで納屋で干し上げます。そしてこの「サバサキリ」という小刀で切り分けて、2週間ほど乾燥させると「身欠(みがき)」になります。
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口縁(子縁)から海水が入るほどニシンを摘んだ汲舟が渚につけられると陸からトドマツの大きな歩み板が渡されて「モッコ背負い」が始まります。女、子供、老人を問わず腰に漁場の焼印を押した鑑札を下げ行列を成して汲舟と廊下を往復します。働いた賃金はニシンで払われたそうです。この畚(もっこ)には約20キロのニシンが入り、畚背負いは主に女性の仕事でした。
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畚背負いはまず鑑札の木札を受け取り登録し、労賃を受け取るために使われました。この写真は「万棒」で運んだニシンの数量を確認するのに使われました。
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一般的に鰊漁場で働いた出稼漁夫を「ヤン衆」と呼びました。鰊漁が盛んであった当時「ヤン衆」は蔑称として用いられました。現在のように「ヤン衆」が一般的になったのは昭和歌謡の影響が強いようです。
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「ヤン衆」の語源は諸説あるようですが、「雇い衆」から訛ったと言われます。鰊場で使われた漁夫を指す呼称は他にもありました。
「若い衆(わげしゅ)」や「トアタリ」という初めて鰊場に来た新米漁夫、「ヤトイ」という卑下した呼び方、「ジャゴ/ジャゴシカ」という渡り漁夫です。「ヤン衆」にはよそ者という意味もあったようです。 -
この家には2つの台所があり、こちらはヤン衆などが使ったところです。生活雑器が納められていますが、雇い人の中でも上下関係があったのではないかと思えました。
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鍋などの大きさや数からも200人分の食事が賄えたのだろうかと考えてしまいます。実際はもっとたくさんの調理道具などがあったのでしょう。
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この「棚部屋」の床下には12俵入りの米びつがあるそうです。米1俵は四斗入りで重さ60キロですから720キロの米が入っていたことになります。鰊漁の最盛期にはこの番屋では漁夫が150人、そのほかに多数の手間取りと呼ばれる近隣から稼ぎに来る日雇い人が畚背負いや加工に従事していたので米びつは3日で底をついたそうです。
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左側の親方の住居部分に移ります。今までの板の間から畳敷きに代わります。囲炉裏の自在鉤は松竹梅をあしらった洒落たデザインです。
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部屋ごとに障子や襖で仕切られているので防音効果も高かったのでしょう。雇い人との仕切りの障子は座った時の目線の高さがガラス張りになっていて様子がうかがえるようです。この部屋は奥の台所と呼ばれる茶の間です。隣は親方の部屋で、玄関側に帳場が続きます。
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隣の親方の部屋です。特に家具類は置かれずにオープンな空間です。唯一囲炉裏だけが親方のいる場所を感じます。風が強いせいか炉には灰を敷くのではなく小石が敷かれてあります。
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帳場も昔のままの姿が残されているようです。
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雨風に晒された花田家の印半纏が掛けられたままです。番頭さんは帳場を放ってどこへ行ってしまったのでしょう。
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この家ではかなり早い時代に電話も敷かれていたようです。この家が解体修理した話やこの電話を見ていたら祖父が生まれ母が育った京都の二条陣屋のことを思い出しました。この建物も2009年から3年ほどかけて解体修理しました。現在は失われていますが、昔は家の中に電話室がありました。
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離れと呼ばれる奥の部屋は漁夫のいる板の間からは全く見えません。板敷の立派な廊下に襖が入れられ、立派な欄間もはめ込まれています。
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親方の家の奥の流しと呼ばれる台所です。塗り物は木製の箱に納められて、普段使うお膳などが並んでいます。
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並んでいる鉢などは印判手のあまり高価でないもののようです。現在もヤフオクの画面で見掛けるようなものを見ていると、逆に画面に並んだ陶器や漆器の辿った歴史を感じてしまいます。
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親方の台所では女中たちが家族や客人の食事を作っていたそうで、親方一家の使う膳や椀、お櫃は輪島塗で、食器は九谷焼だったそうです。ここに並んでいる物とは違う物が使われていたようです。木箱を読むと40人揃いの内の5人前の箱なので、同じような木箱が8つづつあったはずです。
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離れの一番奥の部屋は12畳で、天井高も3メートルほどある立派なものです。書院造の立派な内装は京都辺りから職人を呼んだのか、本州で加工されたものを組み立てたのかだろうと思われます。
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襖の細工や欄間彫刻などを見ていると富山県の井波辺りで造らせたのかもしれないと思いました。輪島の漆器や九谷焼の食器など日本海側の北前船の航路が頭に浮かんできます。
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立派な付け書院です。よほど贅を尽くして木材なども選別して使ったのでしょう。
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足元には書院柱を支えるこんな木像がありました。仁王像のようでもありますが、詳しいことは分かりません。
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親方家族と来客のみが使うことのできたトイレも残されています。便器は有田焼の豪華なもので男子用便器は当時のまま破損することもなく残っています。扉の中には2つの和便器がありました。
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離れの廊下は2段になっていますが何か理由があるのでしょうか。冬を乗り切るためにどのような対処をしたのかも気になります。
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この家の当主だった花田作三氏の生前の話によれば、明治29年頃に近くの山林を入手伐採し、この頃から製材等に着手したそうです。この番屋で使われた木材は全て地元「大椴」の山から切りだし、三半船で海上を運び、木挽の手によって製材されたものです。
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小平町では昭和46年に重要文化財の指定とともにこれを買収し、3年の年月と約1億9千万円の費用を投じて解体修復したもので、すでに稀有となった古民家建築物鰊番屋の代表的遺構とされます。
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明治38年に建てられてニシンが前浜から姿を消したあとも、昭和46年まで花田家の人々は当時のままの番屋を守り、ここで暮らし続けていたそうです。
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見た瞬間にびっくりしました。これは金唐和紙というもので、和紙に金属箔(金箔・銀箔・錫箔等)を貼り、版木に当てて凹凸文様を打ち出し、彩色をほどこし、全てを手作りで製作する高級壁紙だからです。元々は江戸時代前期の17世紀半ばに、オランダ経由でスペイン製の「金唐革」が輸入されましたが、鎖国を行っていたためにこれは極めて貴重で入手困難な品物でした。そこで和紙を素材とした代用品の製作が国内で行われた結果、1684年に伊勢で完成した製品が「金唐革紙」の始まりです。上野にある旧岩崎邸の部屋の壁がこれを使っていたので調べたことがありました。
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この耐火金庫は解体修理を終えて仮オープンした昭和51年の1976年に花田家から寄贈されたそうです。長い間開かれることが無かったそうですが、平成18年になって明治38年に作られた「開閉説明書」が見つかり、開けることが出来たそうです。
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仏間には大きな仏壇と共に神棚も設けられています。鰊漁は歳によって当たり外れも大きく博打のようだったと聞くので、神頼みの部分が大きかったのでしょう。
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奥の間の欄間も面白いデザインです。透かし彫りの技術やデザインは稚拙な感じがするのでこの家の人が考えて作ったのかもしれません。
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笹に雀だったり鷹と松、竹と虎を描いているのだということは感じられます。
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鰊漁の最盛期には漁師達が草鞋を抜かずにたったままでも飯を食べられるよう、土間には飯台が並べられたようです。短時間で大勢の男達が食事をし、効率よく漁を行える仕組みが工夫されています。
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漁夫の居間である台所に戻ってきました。美しく磨き上げられた板の間が輝いています。夏の暑い日にここで昼寝したら気持ちよいだろうなと思います。
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鰊御殿の囲炉裏の上の火棚は格子状で板が張られていません。通常は板状で煙を拡散する役目を持っています。上階には養蚕の場もなく、一部に2階がある程度なので、上階への熱や煙の拡散を重視していなかったようです。
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逆に草鞋(わらじ)などを乾かすには良かったのだと思います。ここに吊られたものは「爪子(つまご)」というもので、草鞋の先や全体につける藁(わら)製の覆いです。北海道ではその当時米はとれなかったので草鞋は高価なものだったようです。
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中2階になった漁夫の寝床に上がってみます。ここには布団が用意されていました。
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更にもう1段上に上がれるようになっています。ここで150人が一緒に寝るのかと思うとすごい世界だと思います。
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2階から囲炉裏を見下ろすと天井の小屋組みが目に入ってきます。
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煙を抜く開口は明り取りに役目もあるのでしょうか。大きな梁の渡し方はかなり強度を考えられていると分かります。そしてその上の屋根を支える小屋組みも美しいです。
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この板張りの居間と土間に並んだ飯台の高さは同じです。漁の最中は船の上で食事を摂ることがほとんどでしたが、時化で海に出られない時などは番屋で食事を摂りました。150人の漁夫で飯台が溢れるとお膳を居間の縁に行き、椅子を並べて食べたそうです。
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入るときは二宮金次郎のようにしか見えなかった銅像も、いろいろ学んでくるとちゃんと「畚(もっこ)背負い」の女性に見えました。
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「道の駅おびら鰊番屋」に戻ってお昼を食べることにしました。ここでお昼を食べることはツアーの予定表から分かっていたのでネットでメニューなど調べてありました。鰊の三平汁とか鰊の親子丼とか鰊そばでも食べようと考えていました。鰊番屋を見学した後ですから。
シーズンにもよるが5月末の甘エビ丼とうに丼は美味しかった。 by kojikojiさん道の駅 おびら鰊番屋 道の駅
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ところが、毎日ホテルの夕食でうにを食べて、昨日のお昼もうに丼を食べたにもかかわらず2日連続のうに丼です。
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この店のうに丼は2200円でしたが、思わず安いと思ってしまいました。今までうに丼なんて食べたことなかったのに感覚が狂ってしまいました。
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そして羽幌で見る事の無かった甘えびがたっぷり乗った甘エビ丼です。この太い甘えびが甘くておいしいです。
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食べても食べても下から甘えびが出てきます。これは背徳のお昼ご飯でした。友人からLINEで「今日はウニ食べてないよね。」と確認の連絡が入っていたのですが。
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「道の駅おびら鰊番屋」の建物は番屋のデザインに倣って建てられています。隣に並んでいても違和感がないほどです。
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「旧花田家番屋」の建築の巨大さが分かります。子供の頃に通った小学校の校舎のように見えました。
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小樽の鰊御殿は見に行ったことがありますが、番屋を見るのは初めてだったのでとても勉強になりました。まだまだ知らないことはたくさんあります。
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今回この旅を通じて「石狩挽歌」のなかにし礼の歌詞を理解できたような気がしました。彼の兄は両親の家を担保に増毛(ましけ)のニシン網の権利を3日間買い、見事に大漁の網を曳きます。さらに一攫千金を夢見て、そのニシンを本州へ運ぶことにしますが、その途中で船が沈んで大量の借金が残り、一家離散の憂き目にあいます。
https://www.youtube.com/watch?v=Gq5e9H6SS4I -
「にしん文化歴史公園」には「三船遭難慰霊之碑」もありました。これは、終戦直後の昭和20年8月22日に留萌沖で樺太からの婦女子を中心とする引き揚げ者を乗せた引き上げ船「小笠原丸」(逓信省の海底ケーブル敷設船)、特設砲艦「第二号新興丸」、貨物船「泰東丸」の3隻が相次いでソ連潜水艦の砲雷撃を受け小笠原丸と泰東丸が沈没して1700人ほどが亡くなった痛ましい事件を慰霊する碑です。
「泰東丸」は戦時国際法に則り白旗を上げて航行しましたが、これを無視し砲撃するというソ連海軍の非道な歴史を今に伝えています。「小笠原丸」は明治43年に長崎県池島付近で遭難したロシア船を救助し、シャム王族一行および乗員100名を救出するという歴史を有していて、ロシア船を救助してソ連船に沈められるという皮肉で理不尽な運命となっています。稚内の「稚内港北防波堤ドーム」の近くにあった「大鵬幸喜上陸の地記念碑」の通り、大鵬親子も稚内で「小笠原丸」を下船しないで小樽に向かっていたら助からなかったのだと思います。 -
現在のロシアがやっていることを考えると、国家の体制が変わっても国民性や資質その当時と変わらないのかも知れません。「石狩挽歌」の歌詞にある「笠戸丸」はソ連参戦の昭和20年8月9日にカムチャツカ半島西岸の日魯漁業ウトカ工場沖に停泊中のところをソ連軍に接収されて爆沈しています。
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北加伊道(のちの北海道)という名前を考案した幕末の探検家の松浦武四郎は蝦夷地を探査し、「名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里」と詠んの歌碑もありました。松浦武四郎は鬼鹿には4度足を運んでいるそうです。
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「NHK歴史発掘ミステリー」の番組では、松浦武四郎が北海道の地名9,000をインタビューによって収集したこと、10,000キロを踏破したこと、その歩行は通常の倍の踏破力であり、独特の疲れにくい古武術の「神足歩行術」という歩行術を会得していたと説明していました。
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旅行記グループ 2022利尻島・礼文島・稚内の旅
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