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2016年秋、羽田からスカンディナヴィア航空でコペンハーゲン経由オスロに到着し、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、デンマークとヨーロッパ7カ国を訪問し、コペンハーゲンから羽田に帰って来ました。今回も絵画鑑賞が主な目的の再訪です。<br /><br />旅程の概略です。<br />★ 9月20日 羽田からスカンディナヴィア航空でコペンハーゲン経由でオスロへ。オスロ泊。<br />★ 9月21~22日 オスロ泊。<br />★ 9月23~24日 ベルゲン泊。<br />★ 9月25日 フロム泊。<br />★ 9月26日 ベルゲン泊。<br />★ 9月27~28日 ストックホルム泊。<br />★ 9月29日 船中泊。<br />★ 9月30日~10月1日 ヘルシンキ泊。<br />★ 10月2~4日 タリン泊。<br />★ 10月5~7日 リガ泊。<br />★ 10月8~10日 ヴィルニュス泊。<br />★ 10月11~12日 コペンハーゲン泊。<br />★ 10月13日 コペンハーゲン空港からスカンディナヴィア航空で羽田へ。<br /><br />この17回目の旅行記は、エストニアのタリンで最後に聖ニコラス教会美術館を訪れた後ラトヴィアのリガに移動し早速リガ証券取引所美術館を訪れた記録です。

シニア夫婦2回目の北欧、バルト7カ国ゆっくり旅行25日 (17)エストニアのタリンからラトヴィアのリガに移動します(10月5日)

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2016/09/20 - 2016/10/14

302位(同エリア783件中)

さわ子さん

2016年秋、羽田からスカンディナヴィア航空でコペンハーゲン経由オスロに到着し、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、デンマークとヨーロッパ7カ国を訪問し、コペンハーゲンから羽田に帰って来ました。今回も絵画鑑賞が主な目的の再訪です。

旅程の概略です。
★ 9月20日 羽田からスカンディナヴィア航空でコペンハーゲン経由でオスロへ。オスロ泊。
★ 9月21~22日 オスロ泊。
★ 9月23~24日 ベルゲン泊。
★ 9月25日 フロム泊。
★ 9月26日 ベルゲン泊。
★ 9月27~28日 ストックホルム泊。
★ 9月29日 船中泊。
★ 9月30日~10月1日 ヘルシンキ泊。
★ 10月2~4日 タリン泊。
★ 10月5~7日 リガ泊。
★ 10月8~10日 ヴィルニュス泊。
★ 10月11~12日 コペンハーゲン泊。
★ 10月13日 コペンハーゲン空港からスカンディナヴィア航空で羽田へ。

この17回目の旅行記は、エストニアのタリンで最後に聖ニコラス教会美術館を訪れた後ラトヴィアのリガに移動し早速リガ証券取引所美術館を訪れた記録です。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配

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  • 朝9時です。朝食も済ませ、荷造りも終わりました。これから最後に残った訪問先の聖ニコラス教会に行きます。開館は10時なのでまだ時間に余裕がありますが、ぶらぶら出かける事にしました。

    朝9時です。朝食も済ませ、荷造りも終わりました。これから最後に残った訪問先の聖ニコラス教会に行きます。開館は10時なのでまだ時間に余裕がありますが、ぶらぶら出かける事にしました。

  • 途中にあったお菓子も売っているパン屋さんで買い物をしました。今日は11時15分発のバスに乗り4時間半を掛けてラトヴィアのリガに移動します。そのため車中で食べる食料です。美味しそうな菓子パン類を調達しました。

    途中にあったお菓子も売っているパン屋さんで買い物をしました。今日は11時15分発のバスに乗り4時間半を掛けてラトヴィアのリガに移動します。そのため車中で食べる食料です。美味しそうな菓子パン類を調達しました。

  • 昨日災難にあったリュヒケ.ヤルク通りに立ち寄りました。昨日より少し早い時間ですが、人通りはありません。彼らが活躍できる状態ではありません。

    昨日災難にあったリュヒケ.ヤルク通りに立ち寄りました。昨日より少し早い時間ですが、人通りはありません。彼らが活躍できる状態ではありません。

  • 階段の下方です。まだ店も開いていません。

    階段の下方です。まだ店も開いていません。

  • 通りには、壁をくり貫いて聖母子の像が設置してありました。

    通りには、壁をくり貫いて聖母子の像が設置してありました。

  • 10時になり教会に入りました。ファサード側から内陣を望んでいます。聖ニコラス教会は、中世のタリンにある二つの教区教会の一つであり、町で最も裕福な教会の1つでした。 商人や船員の守護聖人である聖ニコラスに奉献され、13世紀半ばに建設されたと考えられています。そして1944年に空襲で徹底的に破壊され、後に現在の姿に再建されました。

    10時になり教会に入りました。ファサード側から内陣を望んでいます。聖ニコラス教会は、中世のタリンにある二つの教区教会の一つであり、町で最も裕福な教会の1つでした。 商人や船員の守護聖人である聖ニコラスに奉献され、13世紀半ばに建設されたと考えられています。そして1944年に空襲で徹底的に破壊され、後に現在の姿に再建されました。

  • 教会内に掲示してあった写真です。上の2枚は19世紀末の様子で、下の2枚は再建された2002年の内部の写真です。内陣と身廊が比較されています。

    教会内に掲示してあった写真です。上の2枚は19世紀末の様子で、下の2枚は再建された2002年の内部の写真です。内陣と身廊が比較されています。

  • こちらも上の2枚は19世紀末の写真で、下の2枚は再建された2002年の内部の写真です。内陣からファサード方向への身廊の眺めです。立派な説教壇やオルガン演奏席が失われています。

    こちらも上の2枚は19世紀末の写真で、下の2枚は再建された2002年の内部の写真です。内陣からファサード方向への身廊の眺めです。立派な説教壇やオルガン演奏席が失われています。

  • 戦災を受けて失われた19世紀のルネッサンス様式の会衆席です。繊細な彫刻が施されています。

    戦災を受けて失われた19世紀のルネッサンス様式の会衆席です。繊細な彫刻が施されています。

  • 教会の主祭壇です。1478-1481年にドイツ.リューベックのヘルマン.ローデ工房が製作しました。これは折り畳める祭壇画ですが、この展示は&quot;半開き&quot;の状態だそうで、更に真ん中の両開きのパネルが開きます。最下段の細いパネルも両開きで開きます。この状態の4枚のパネルで聖ニコラスの生涯が描かれているそうです。

    教会の主祭壇です。1478-1481年にドイツ.リューベックのヘルマン.ローデ工房が製作しました。これは折り畳める祭壇画ですが、この展示は"半開き"の状態だそうで、更に真ん中の両開きのパネルが開きます。最下段の細いパネルも両開きで開きます。この状態の4枚のパネルで聖ニコラスの生涯が描かれているそうです。

  • 左から2番目のパネルを拡大しました。

    左から2番目のパネルを拡大しました。

  • 情熱の祭壇画です。北方ルネサンス初期のベルギー.ブルージュの画家アードリアン.イーゼンブラント(Adriaen Isenbrandt:1490-1551)の工房の1515-20年頃の作品です。この写真は3連祭壇画の中央パネルです。

    情熱の祭壇画です。北方ルネサンス初期のベルギー.ブルージュの画家アードリアン.イーゼンブラント(Adriaen Isenbrandt:1490-1551)の工房の1515-20年頃の作品です。この写真は3連祭壇画の中央パネルです。

  • バルト.ドイツ人のフランツ.ホッペンシュテット(Franz Hoppenstätt:1600-1657)が1655年に製作したローゼン礼拝堂の装飾壁です。下の列の絵は、3つの主要なキリスト教の教えを表しています。左から子供への愛(カリタス)、本/信仰のための聖書(フィデス)、希望の鳥(スペス)、そして剣と秤を持った正義(ジャスティス)です。

    バルト.ドイツ人のフランツ.ホッペンシュテット(Franz Hoppenstätt:1600-1657)が1655年に製作したローゼン礼拝堂の装飾壁です。下の列の絵は、3つの主要なキリスト教の教えを表しています。左から子供への愛(カリタス)、本/信仰のための聖書(フィデス)、希望の鳥(スペス)、そして剣と秤を持った正義(ジャスティス)です。

  • 右下の「正義」を拡大しました。

    右下の「正義」を拡大しました。

  • こちらはエストニアの木工のトビアス.ハインツェ(Tobias Heintze:1593頃-1653)が1624年に製作した「聖クリストフォロ」の木像です。説教壇を支えるために彫られました。聖クリストフォロは、危険な急流を渡ろうとしていた人々を助けていた人物です。ある日、小さな男の子が川を渡りたいと彼に言いました。この子が余りに小さかったのでお安い御用と引き受けましたが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、彼は倒れんばかりになりました。余りの重さに男の子がただものでないことに気づき丁重にその名前をたずねました。男の子は自らがイエス.キリストであると明かしました。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのです。川を渡りきったところでイエスは彼を祝福し、今後は「キリストを背負った者」という意味の「クリストフォロ」と名乗るよう告げました。

    こちらはエストニアの木工のトビアス.ハインツェ(Tobias Heintze:1593頃-1653)が1624年に製作した「聖クリストフォロ」の木像です。説教壇を支えるために彫られました。聖クリストフォロは、危険な急流を渡ろうとしていた人々を助けていた人物です。ある日、小さな男の子が川を渡りたいと彼に言いました。この子が余りに小さかったのでお安い御用と引き受けましたが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、彼は倒れんばかりになりました。余りの重さに男の子がただものでないことに気づき丁重にその名前をたずねました。男の子は自らがイエス.キリストであると明かしました。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのです。川を渡りきったところでイエスは彼を祝福し、今後は「キリストを背負った者」という意味の「クリストフォロ」と名乗るよう告げました。

  • 1600年頃にブリュッセルで制作され、もともとタリンの市庁舎にあった聖なる親族の祭壇です。聖なる親族(The Holy Kinship)は、特に15世紀後半から16世紀初頭にかけて、ドイツやネーデルラントで人気のある宗教芸術のテーマでした。聖なる親族は、母方の祖母である聖アンナの子孫であるイエスの拡大家族でした。この伝統によれば、聖母マリアの母である聖アンナは、イエスだけでなく、福音記者ヨハネ、大ヤコブ、小ヤコブ、サイモン、ジュードの5人の使徒の祖母でした。これらの使徒たちは、洗礼者ヨハネと共に、すべてイエスの従兄弟でした。

    1600年頃にブリュッセルで制作され、もともとタリンの市庁舎にあった聖なる親族の祭壇です。聖なる親族(The Holy Kinship)は、特に15世紀後半から16世紀初頭にかけて、ドイツやネーデルラントで人気のある宗教芸術のテーマでした。聖なる親族は、母方の祖母である聖アンナの子孫であるイエスの拡大家族でした。この伝統によれば、聖母マリアの母である聖アンナは、イエスだけでなく、福音記者ヨハネ、大ヤコブ、小ヤコブ、サイモン、ジュードの5人の使徒の祖母でした。これらの使徒たちは、洗礼者ヨハネと共に、すべてイエスの従兄弟でした。

  • 中央の木彫り部分を拡大しました。この祭壇は、上記の聖クリストフォロの製作者トビアス.ハインツェにより改造されているそうです。

    中央の木彫り部分を拡大しました。この祭壇は、上記の聖クリストフォロの製作者トビアス.ハインツェにより改造されているそうです。

  • 作者は特定できませんでしたがイタリアの画家のような風情の磔刑図です。

    作者は特定できませんでしたがイタリアの画家のような風情の磔刑図です。

  • ディートリヒ.メラーの追悼碑です。

    ディートリヒ.メラーの追悼碑です。

  • 板絵を拡大しました。右上のキリストの磔刑の他に、新旧聖書の色々な場面が描かれています。左側のアダムとイーヴ、中央のリンボーに下る復活の旗を持つキリスト等が分かります。

    板絵を拡大しました。右上のキリストの磔刑の他に、新旧聖書の色々な場面が描かれています。左側のアダムとイーヴ、中央のリンボーに下る復活の旗を持つキリスト等が分かります。

  • この教会美術館のハイライトは北ヨーロッパ、特にバルト海沿いの国家で活躍したベルント.ノトケ(Bernt Notke:1440頃 - 1509)作の「死の舞踏」です。ベルント.ノトケは、この作品の製作前1463年頃に、リューベックのサンタ.マリア教会のために、縦2m、横27mのタペストリーで「死の舞踏」を制作していますが、その作品は1942年に空襲で失われました。タリンの作品は、縦1.5m、横7.5mでカンバスに描かれています。またベルント.ノトケは、ストックホルム大聖堂にある主にオーク材で作られた「セント.ジョージの竜征伐」の像も製作しています。

    この教会美術館のハイライトは北ヨーロッパ、特にバルト海沿いの国家で活躍したベルント.ノトケ(Bernt Notke:1440頃 - 1509)作の「死の舞踏」です。ベルント.ノトケは、この作品の製作前1463年頃に、リューベックのサンタ.マリア教会のために、縦2m、横27mのタペストリーで「死の舞踏」を制作していますが、その作品は1942年に空襲で失われました。タリンの作品は、縦1.5m、横7.5mでカンバスに描かれています。またベルント.ノトケは、ストックホルム大聖堂にある主にオーク材で作られた「セント.ジョージの竜征伐」の像も製作しています。

  • この横7.5mの絵画を画像が良くありませんが以下3枚に分けて撮影しました。左端は、説教壇の説教者の姿から始まります。説教壇の隣には、バグ.パイプを演奏する骸骨の人物が座っています。踊りの行列の最初は、肩に木材を担いだ骸骨の人物で、もう1人の骸骨の人物と共に挟まれた教皇を死の舞踏に誘っています。

    この横7.5mの絵画を画像が良くありませんが以下3枚に分けて撮影しました。左端は、説教壇の説教者の姿から始まります。説教壇の隣には、バグ.パイプを演奏する骸骨の人物が座っています。踊りの行列の最初は、肩に木材を担いだ骸骨の人物で、もう1人の骸骨の人物と共に挟まれた教皇を死の舞踏に誘っています。

  • 中央では、骸骨の人物が皇帝、皇后の両陛下と枢機卿を死の舞踏に誘っています。

    中央では、骸骨の人物が皇帝、皇后の両陛下と枢機卿を死の舞踏に誘っています。

  • 右端では、最後に骸骨の人物達が王を死の舞踏に誘っています。この王とその左の骸骨の人物との画面の繋ぎが不自然です。また、画面の下に書かれている低地ドイツ語のテキストでは右端の骸骨の人物の隣に司教が呼び込まれると書いてあるので、この7.5mの絵画は、本来の絵画の全てではないと推測されているそうです。

    右端では、最後に骸骨の人物達が王を死の舞踏に誘っています。この王とその左の骸骨の人物との画面の繋ぎが不自然です。また、画面の下に書かれている低地ドイツ語のテキストでは右端の骸骨の人物の隣に司教が呼び込まれると書いてあるので、この7.5mの絵画は、本来の絵画の全てではないと推測されているそうです。

  • アントニウス.フォン.デア.ブッシュの追悼碑です。この1608年に制作された作品は、エストニアで最も重要なルネッサンスの石工であるオランダ生まれのアレント.パッセル(Arent Passer:1560頃-1637)の最高の作品の1つです。 アレント.パッセルは、ブラックヘッドギルドの会館のファサードの設計にも携わっています。この追悼碑は、磔刑のキリストの下でフォン.デル.ブッシュの家族が跪いている光景を彫り込んでいます。

    アントニウス.フォン.デア.ブッシュの追悼碑です。この1608年に制作された作品は、エストニアで最も重要なルネッサンスの石工であるオランダ生まれのアレント.パッセル(Arent Passer:1560頃-1637)の最高の作品の1つです。 アレント.パッセルは、ブラックヘッドギルドの会館のファサードの設計にも携わっています。この追悼碑は、磔刑のキリストの下でフォン.デル.ブッシュの家族が跪いている光景を彫り込んでいます。

  • アイザック.ハッセルブラッティの追悼碑です。こちらも家族らしい人々が磔刑のキリストの周りに集まっています。

    アイザック.ハッセルブラッティの追悼碑です。こちらも家族らしい人々が磔刑のキリストの周りに集まっています。

  • 四つの追悼碑が綺麗に並べられています。追悼碑はエストニア語のエピターフ(Epitaaf)の訳で、教会の部屋、教会の外壁、または教会のすぐ近くに亡くなった人を追悼して建てられた記念の盾です。上はウエクスキュル(Uexkülli epitaaf)、下はアドルフ.エバーシルト(Adolf Eberschildti epitaaf)、右はハインリッヒ.フォン.ノリング(Heinrich von Knorringi epitaaf)、左はアントン.フィリップ.フォン.サルツァ(Anton Philipp von Saltza epitaaf)の追悼碑です。

    四つの追悼碑が綺麗に並べられています。追悼碑はエストニア語のエピターフ(Epitaaf)の訳で、教会の部屋、教会の外壁、または教会のすぐ近くに亡くなった人を追悼して建てられた記念の盾です。上はウエクスキュル(Uexkülli epitaaf)、下はアドルフ.エバーシルト(Adolf Eberschildti epitaaf)、右はハインリッヒ.フォン.ノリング(Heinrich von Knorringi epitaaf)、左はアントン.フィリップ.フォン.サルツァ(Anton Philipp von Saltza epitaaf)の追悼碑です。

  • 聖ニコラス教会を出てホテルに戻り、荷物を持ってタクシーでバス.ターミナルに行きました。当初は市電で行こうと考えていましたが、この路線の市電は、タトラ製の高床式車両で、地上からスーツケースを持ち上げて乗車するのが大変だと思いタクシーにしました。バス.ターミナルの平面図です。リガへのバスはレーン8から11時15分に発車します。

    聖ニコラス教会を出てホテルに戻り、荷物を持ってタクシーでバス.ターミナルに行きました。当初は市電で行こうと考えていましたが、この路線の市電は、タトラ製の高床式車両で、地上からスーツケースを持ち上げて乗車するのが大変だと思いタクシーにしました。バス.ターミナルの平面図です。リガへのバスはレーン8から11時15分に発車します。

  • この黒い色のスウェーデンの大型車両メーカーであるスカニア製のバスに乗ります。タリンーリガの表示も確認します。バス会社は&quot;Lux Express&quot;です。

    この黒い色のスウェーデンの大型車両メーカーであるスカニア製のバスに乗ります。タリンーリガの表示も確認します。バス会社は"Lux Express"です。

  • これから4時間半の乗車です。最前席はダメだとの事で、その後ろに座りました。空いているので好きな席に座れます。ムーミンのバケツも忘れずに持ち込みました。

    これから4時間半の乗車です。最前席はダメだとの事で、その後ろに座りました。空いているので好きな席に座れます。ムーミンのバケツも忘れずに持ち込みました。

  • そして定時に発車です。

    そして定時に発車です。

  • 狭い国土ですが殆ど平地なので直線の道路が続きます。

    狭い国土ですが殆ど平地なので直線の道路が続きます。

  • 運転手さんもハンドルから手を放して書類のチェックをしていました。

    運転手さんもハンドルから手を放して書類のチェックをしていました。

  • この座席は&quot;Lux Express Relax seat&quot;とよばれ、十分な前後の間隔がとられているので、背当てもこんなに倒せます。

    この座席は"Lux Express Relax seat"とよばれ、十分な前後の間隔がとられているので、背当てもこんなに倒せます。

  • 市街地に入ると日本のようなガード付き歩道が現れます。

    市街地に入ると日本のようなガード付き歩道が現れます。

  • タリンを出発して2時間弱、エストニアの&quot;夏の首都&quot;と言われるパヌルの街をすぎるとリガまでリガ湾の沿岸を走って行きます。

    タリンを出発して2時間弱、エストニアの"夏の首都"と言われるパヌルの街をすぎるとリガまでリガ湾の沿岸を走って行きます。

  • 空は雲が少なくなり晴天になりました。

    空は雲が少なくなり晴天になりました。

  • 午後2時近くです。エストニアとラトヴィア間の国境施設が見えてきました。両国ともEU圏でシェンゲン協定にも加入しているので検問はありません。

    午後2時近くです。エストニアとラトヴィア間の国境施設が見えてきました。両国ともEU圏でシェンゲン協定にも加入しているので検問はありません。

  • 特別の事情がない限り、すべての車両は検問所横の直通道路を走り抜けます。トイレ停車もありませんでした。

    特別の事情がない限り、すべての車両は検問所横の直通道路を走り抜けます。トイレ停車もありませんでした。

  • この先4枚は2003年春の旅でリガからタリンに行った途中で国境を越えた写真です。ラトヴィアの検問所を過ぎてエストニア領に入り検問所の手前で係官の乗車を待ちます。当時は両国共にシェンゲン協定に加入していなかったので出入国に際しパスポート検査がありました。

    この先4枚は2003年春の旅でリガからタリンに行った途中で国境を越えた写真です。ラトヴィアの検問所を過ぎてエストニア領に入り検問所の手前で係官の乗車を待ちます。当時は両国共にシェンゲン協定に加入していなかったので出入国に際しパスポート検査がありました。

  • 2003年の旅では、バルト3国間をこのユーロ.ラインのバスで移動しました。

    2003年の旅では、バルト3国間をこのユーロ.ラインのバスで移動しました。

  • 入国審査が終わり検問所を通って駐車場に入りました。タリンの方向です。ラトヴィア側と比べてかなり広い駐車場が用意してあります。

    入国審査が終わり検問所を通って駐車場に入りました。タリンの方向です。ラトヴィア側と比べてかなり広い駐車場が用意してあります。

  • ラトヴィアの方向に振り返っています。ここでトイレ休憩でした。

    ラトヴィアの方向に振り返っています。ここでトイレ休憩でした。

  • 2016年の旅に戻ります。大きな農場の建物が見えます。リガ湾の沿岸を走っている筈ですが、道路が少し内陸側にあるので海は殆ど見えません。

    2016年の旅に戻ります。大きな農場の建物が見えます。リガ湾の沿岸を走っている筈ですが、道路が少し内陸側にあるので海は殆ど見えません。

  • バルト3国で最大の都市であるリガの郊外に入りました。大きなショッピング.センターが目立ちます。

    バルト3国で最大の都市であるリガの郊外に入りました。大きなショッピング.センターが目立ちます。

  • バス専用レーンを走っていますが前方が1車線になるので混雑しています。

    バス専用レーンを走っていますが前方が1車線になるので混雑しています。

  • カルチャー.センターと呼ばれる区域の魅力ある建物の並び2枚です。

    カルチャー.センターと呼ばれる区域の魅力ある建物の並び2枚です。

  • 市街に入ってきました。よくみると、前の車は先ほど渋滞待ちで前にいた車です。

    市街に入ってきました。よくみると、前の車は先ほど渋滞待ちで前にいた車です。

  • リガの新市街の建物は、程度の差はあるものの、ユーゲント.シュティール.デザインの趣きを持っています。

    リガの新市街の建物は、程度の差はあるものの、ユーゲント.シュティール.デザインの趣きを持っています。

  • このビルも外壁を洗浄すると魅力ある外観になるのでしょうが。

    このビルも外壁を洗浄すると魅力ある外観になるのでしょうが。

  • 新市街と旧市街を隔てる城壁の遺跡近くになりました。左の建物はホテル.オペラ&スパです。右側で写真の外にリガ鉄道駅があります。

    新市街と旧市街を隔てる城壁の遺跡近くになりました。左の建物はホテル.オペラ&スパです。右側で写真の外にリガ鉄道駅があります。

  • ダウガヴァ川の手前で右に写る鉄道線路を潜り、写真の右側にあるバス.ターミナルに着きます。ここからタクシーでホテル.ネイブルクスへ向かいます。

    ダウガヴァ川の手前で右に写る鉄道線路を潜り、写真の右側にあるバス.ターミナルに着きます。ここからタクシーでホテル.ネイブルクスへ向かいます。

  • 2003年春の写真3枚です。この旅では、ヴィリニュスからリガに来たので、ダウガヴァ川を渡りバス.ターミナルに着きました。鉄道橋の南にある橋を渡っています。写真左手奥に鉄道橋、中央遠くに旧市街の聖ペトロ教会の尖塔、その左に大聖堂の鐘楼が見えています。

    2003年春の写真3枚です。この旅では、ヴィリニュスからリガに来たので、ダウガヴァ川を渡りバス.ターミナルに着きました。鉄道橋の南にある橋を渡っています。写真左手奥に鉄道橋、中央遠くに旧市街の聖ペトロ教会の尖塔、その左に大聖堂の鐘楼が見えています。

  • バス.ターミナルは鉄道線路に接しています。鉄道橋手前の高架をソ連邦時代の電車が走って来ました。

    バス.ターミナルは鉄道線路に接しています。鉄道橋手前の高架をソ連邦時代の電車が走って来ました。

  • バス.ターミナルは、北側を鉄道線路、南側をかっての城壁を囲む水堀の一部であった運河に挟まれています。その運河の対面に、5棟の中央市場のカマボコ形の建物があります。

    バス.ターミナルは、北側を鉄道線路、南側をかっての城壁を囲む水堀の一部であった運河に挟まれています。その運河の対面に、5棟の中央市場のカマボコ形の建物があります。

  • 大聖堂のすぐ近くにあるホテル.ネイブルクスに着きました。早速ユーゲント.シュティール.デザインのラヴ.チェアーを見つけました。

    大聖堂のすぐ近くにあるホテル.ネイブルクスに着きました。早速ユーゲント.シュティール.デザインのラヴ.チェアーを見つけました。

  • 全55室のホテルの5階の部屋です。今回も北側の角部屋になりました。

    全55室のホテルの5階の部屋です。今回も北側の角部屋になりました。

  • 中央奥の木製の扉が入り口です。

    中央奥の木製の扉が入り口です。

  • 右側奥のガラス戸はバスルームの入り口です。

    右側奥のガラス戸はバスルームの入り口です。

  • 正面に寛げるソファーとテーブルがあります。

    正面に寛げるソファーとテーブルがあります。

  • ソファー側から眺めています。右正面にバスルーム、左側奥に簡単なキッチンがあります。

    ソファー側から眺めています。右正面にバスルーム、左側奥に簡単なキッチンがあります。

  • バスルームを入り口から覗きます。

    バスルームを入り口から覗きます。

  • バスタブです。

    バスタブです。

  • 洗面台です。

    洗面台です。

  • 部屋の窓から南東の方向を望んでいます。中央遠くに聖ペトロ教会の尖塔で。右端の近代的な建物は、戦災で外壁を残しただけで全壊していた市庁舎の裏側になります。正面からは見えませんが、屋上にガラス張りカマボコ型の構造物が付け加えられています。市庁舎のこちら側手前にもモダンなデザインの建物が建てられています。その他は赤瓦屋根の中世の建物です。

    部屋の窓から南東の方向を望んでいます。中央遠くに聖ペトロ教会の尖塔で。右端の近代的な建物は、戦災で外壁を残しただけで全壊していた市庁舎の裏側になります。正面からは見えませんが、屋上にガラス張りカマボコ型の構造物が付け加えられています。市庁舎のこちら側手前にもモダンなデザインの建物が建てられています。その他は赤瓦屋根の中世の建物です。

  • 4時半ですが、近くの証券取引所美術館に行きます。この建物はホテルの正面右にある&quot;1221レストラン&quot;です。

    4時半ですが、近くの証券取引所美術館に行きます。この建物はホテルの正面右にある"1221レストラン"です。

  • 同じ建物の2003年の様子です。当時は&quot;アルペンローズ&quot;と云う名のレストランで、我々はここで昼食をとりました。

    同じ建物の2003年の様子です。当時は"アルペンローズ"と云う名のレストランで、我々はここで昼食をとりました。

  • 大聖堂東側横を通ってホテルの北側にあるドゥァマ広場に来ました。その広場の更に北側にある、この証券取引所美術館にこれから入ります。後方の尖塔は聖ヤコブ聖堂です。尖塔に取り付けられた&quot;哀れな罪人の鐘&quot;が小さく見えています。この鐘は市庁舎広場で罪人の処罰が行われた際に鳴らされたそうです。証券取引所の建物は1856年にベネチアン.ルネッサンスの宮殿スタイルで完成しました。証券取引所の開所式には、ロシア皇帝アレクサンドル2世が参列したそうです。

    大聖堂東側横を通ってホテルの北側にあるドゥァマ広場に来ました。その広場の更に北側にある、この証券取引所美術館にこれから入ります。後方の尖塔は聖ヤコブ聖堂です。尖塔に取り付けられた"哀れな罪人の鐘"が小さく見えています。この鐘は市庁舎広場で罪人の処罰が行われた際に鳴らされたそうです。証券取引所の建物は1856年にベネチアン.ルネッサンスの宮殿スタイルで完成しました。証券取引所の開所式には、ロシア皇帝アレクサンドル2世が参列したそうです。

  • こちらは2003年の証券取引所ですが、赤茶の単色ではなく、このような洒落たツートン.カラーでした。これは、ラトヴィアがソ連邦の一部となり、建物が「科学技術宣伝の家」になった機会に塗り直されたものです。そして1980年の火災で損壊し放置されていましたが、2008年から美術館として改修工事が始まり2011年に完成しました。

    こちらは2003年の証券取引所ですが、赤茶の単色ではなく、このような洒落たツートン.カラーでした。これは、ラトヴィアがソ連邦の一部となり、建物が「科学技術宣伝の家」になった機会に塗り直されたものです。そして1980年の火災で損壊し放置されていましたが、2008年から美術館として改修工事が始まり2011年に完成しました。

  • このドゥァマ広場から旧市街内を電気自動車に乗って回る観光ツアーの出発場所になっています。これはその案内板です。

    このドゥァマ広場から旧市街内を電気自動車に乗って回る観光ツアーの出発場所になっています。これはその案内板です。

  • 証券取引所美術館の東側に駐車しているこちらの車が観光ツアーに使われるようです。

    証券取引所美術館の東側に駐車しているこちらの車が観光ツアーに使われるようです。

  • ドゥァマ広場の北側で、証券取引所美術館の東側にあるラトヴィア.ラジオ放送局の大きな建物です。元々商業銀行としてネオクラシック.スタイルで建てられました。

    ドゥァマ広場の北側で、証券取引所美術館の東側にあるラトヴィア.ラジオ放送局の大きな建物です。元々商業銀行としてネオクラシック.スタイルで建てられました。

  • ドゥァマ広場から西北西の方向に延びるピルス通りを覗いています。通りの突き当たりに悲しみの聖母教会が見えています。右端の、赤茶色の外壁の建物は証券取引所美術館です。

    ドゥァマ広場から西北西の方向に延びるピルス通りを覗いています。通りの突き当たりに悲しみの聖母教会が見えています。右端の、赤茶色の外壁の建物は証券取引所美術館です。

  • 広場から南東方向に遠く、聖ペトロ教会の尖塔が見えます。その手前に、建物の壁面に描かれた絵が見えます。多分手前で隣り合った建物が無くなり、残った建物の窓なし壁を利用して描いたのでしょう。

    広場から南東方向に遠く、聖ペトロ教会の尖塔が見えます。その手前に、建物の壁面に描かれた絵が見えます。多分手前で隣り合った建物が無くなり、残った建物の窓なし壁を利用して描いたのでしょう。

  • 証券取引所の建物の壁面装飾を拡大しました。

    証券取引所の建物の壁面装飾を拡大しました。

  • リガ証券取引所美術館に入りました。建物の中央のコート.ヤードにはガラスの屋根が付けられています。このコート.ヤードに展示されているのは、著名なロシアの芸術家ドミトリー.グトフがヴェネツィアの本物のゴンドラを使って製作した作品だそうです。<br />

    リガ証券取引所美術館に入りました。建物の中央のコート.ヤードにはガラスの屋根が付けられています。このコート.ヤードに展示されているのは、著名なロシアの芸術家ドミトリー.グトフがヴェネツィアの本物のゴンドラを使って製作した作品だそうです。

  • コート.ヤードのタイル張りの綺麗な床です。

    コート.ヤードのタイル張りの綺麗な床です。

  • このっコート.ヤード内にエレベーターが設置してあります。

    このっコート.ヤード内にエレベーターが設置してあります。

  • 3階まで上がります。エレベーター内からドミトリー.グトフの作品を見ています。何を言わんとしているのか分かりませんが、ソ連邦が崩壊したと言いたいのでしょうか?

    3階まで上がります。エレベーター内からドミトリー.グトフの作品を見ています。何を言わんとしているのか分かりませんが、ソ連邦が崩壊したと言いたいのでしょうか?

  • ここから展示室です。ここは、外国の画家の作品を展示する美術館と呼ばれています。<br />歴史画や風景画で知られたオランダの画家アブラハム.ブルーマールト(Abraham Bloemaert:1566-1651)の1590年頃の作品で「エジプトへの逃避の途中の休息」です。珍しく同伴する聖ヨセフが描かれていません。<br />

    ここから展示室です。ここは、外国の画家の作品を展示する美術館と呼ばれています。
    歴史画や風景画で知られたオランダの画家アブラハム.ブルーマールト(Abraham Bloemaert:1566-1651)の1590年頃の作品で「エジプトへの逃避の途中の休息」です。珍しく同伴する聖ヨセフが描かれていません。

  • オランダ黄金時代の画家アドリアエン.ピーテルツ.ファン.デ.ヴェンネ(Adriaen Pietersz van de Venne:1589-1662)作の「エステル、ハマン、ハシュエロス」です。旧約聖書のエステル記は、妻のエステルがユダヤ人であることを知らずに、部下のハマンの助言に従い、王国のすべてのユダヤ人に死を命じるペルシャの王アハシュエロスについて記述しています。エステルは王の前に現れ、彼女の民のために命令を撤回するように懇願します。絵画の右端に居るのがハマンのようです。

    オランダ黄金時代の画家アドリアエン.ピーテルツ.ファン.デ.ヴェンネ(Adriaen Pietersz van de Venne:1589-1662)作の「エステル、ハマン、ハシュエロス」です。旧約聖書のエステル記は、妻のエステルがユダヤ人であることを知らずに、部下のハマンの助言に従い、王国のすべてのユダヤ人に死を命じるペルシャの王アハシュエロスについて記述しています。エステルは王の前に現れ、彼女の民のために命令を撤回するように懇願します。絵画の右端に居るのがハマンのようです。

  • 水辺の風景画を多く残したオランダの画家サロモン.ファン.ロイスダール(Salomon van Ruysdael:1602-1670)の1642年の作品「川の風景」です。この画家の甥、兄、子供も画家でした。この絵画では、夏の夕陽で銀灰色に輝く曇り空と、草木が生い茂った土手の影が穏やかな川面に映っています。

    水辺の風景画を多く残したオランダの画家サロモン.ファン.ロイスダール(Salomon van Ruysdael:1602-1670)の1642年の作品「川の風景」です。この画家の甥、兄、子供も画家でした。この絵画では、夏の夕陽で銀灰色に輝く曇り空と、草木が生い茂った土手の影が穏やかな川面に映っています。

  • 拡大してみました。左に帆を張った漁船、右にはアヒルが周りに集まった小舟が見えます。

    拡大してみました。左に帆を張った漁船、右にはアヒルが周りに集まった小舟が見えます。

  • ハーレムとアムステルダムで活躍した風景画を得意とするオランダの黄金時代の風景画家ニコラース.モーレナール(Nicolaes Molenaer:1630-1676)作の「冬の風景」です。氷結した運河でしょうか、人々がスケートを楽しんでいます。

    ハーレムとアムステルダムで活躍した風景画を得意とするオランダの黄金時代の風景画家ニコラース.モーレナール(Nicolaes Molenaer:1630-1676)作の「冬の風景」です。氷結した運河でしょうか、人々がスケートを楽しんでいます。

  • オランダ黄金時代の画家イサーク.ファン.ニッケレン(Isaak van Nickelen:1632-1703)作の「ハーレムの聖バーヴォ教会の内部」です。この画家は、ハーレムで活躍し、聖バーヴォ教会の内部を何枚も描いています。内部は信者がミサや祈りで座る会衆席の椅子が無くガランとしています。

    オランダ黄金時代の画家イサーク.ファン.ニッケレン(Isaak van Nickelen:1632-1703)作の「ハーレムの聖バーヴォ教会の内部」です。この画家は、ハーレムで活躍し、聖バーヴォ教会の内部を何枚も描いています。内部は信者がミサや祈りで座る会衆席の椅子が無くガランとしています。

  • 広々としているので犬もリード無しで走り回っています。

    広々としているので犬もリード無しで走り回っています。

  • オランダのバロック様式の画家クイリーン.ファン.ブレケレンカム(Quirijn van Brekelenkam:1622-1668)の1667年の作品「患者」です。この画家の絵画では、通常複数の人々が描かれており、それぞれが独自の個性を持っています。この絵では、患者の疲れた顔は従順であり、医師は深刻な態度で診察し、使用人の女の子は同情的であり、男の子の表情は自己意識的です。

    オランダのバロック様式の画家クイリーン.ファン.ブレケレンカム(Quirijn van Brekelenkam:1622-1668)の1667年の作品「患者」です。この画家の絵画では、通常複数の人々が描かれており、それぞれが独自の個性を持っています。この絵では、患者の疲れた顔は従順であり、医師は深刻な態度で診察し、使用人の女の子は同情的であり、男の子の表情は自己意識的です。

  • 静物画や庶民の屋内での生活を多く描いたオランダの画家ヒューバート.ファン.ラーヴェス(Hubert van Ravesteyn:1638-1691)作の「居酒屋」です。<br />

    静物画や庶民の屋内での生活を多く描いたオランダの画家ヒューバート.ファン.ラーヴェス(Hubert van Ravesteyn:1638-1691)作の「居酒屋」です。

  • オランダのハーレム生まれの画家コルネリス.デザルト(Cornelis Dusart:1660-1704)作の「居酒屋の庭で」です。この画家も庶民の生活を描いた絵を多く残しています。

    オランダのハーレム生まれの画家コルネリス.デザルト(Cornelis Dusart:1660-1704)作の「居酒屋の庭で」です。この画家も庶民の生活を描いた絵を多く残しています。

  • 陶磁器製の人物像も展示してありました。

    陶磁器製の人物像も展示してありました。

  • 絵画と陶磁器の展示室です。

    絵画と陶磁器の展示室です。

  • 3階南東角部屋のベランダからの眺めです。正面遠くに聖ペトロ教会の尖塔が見えています。

    3階南東角部屋のベランダからの眺めです。正面遠くに聖ペトロ教会の尖塔が見えています。

  • ルネサンス期のフランドルの画家ヤン.マサイス(Jan Massijs:1509-1575)派の不明の画家の作品で「サン.ジロラモ」です。ジロラモは、キリスト教の聖職者で神学者であり、しばしば髑髏と共に描かれます。

    ルネサンス期のフランドルの画家ヤン.マサイス(Jan Massijs:1509-1575)派の不明の画家の作品で「サン.ジロラモ」です。ジロラモは、キリスト教の聖職者で神学者であり、しばしば髑髏と共に描かれます。

  • バロック期のフランドルの画家アンソニー.ヴァン.ダイク(Anthonis van Dyck:1599-1641)の工房の1632年の作品「ウィレム2世 (オラニエ公)の肖像」です。この肖像画は、ウィレム2世(1626-1650)の5~6歳王子時代です。 彼のポーズはフォーマルで、頭と肘を曲げた腕のわずかな曲がりが優雅さを表現し、少年が貴族の起源を持つ事を示しています。

    バロック期のフランドルの画家アンソニー.ヴァン.ダイク(Anthonis van Dyck:1599-1641)の工房の1632年の作品「ウィレム2世 (オラニエ公)の肖像」です。この肖像画は、ウィレム2世(1626-1650)の5~6歳王子時代です。 彼のポーズはフォーマルで、頭と肘を曲げた腕のわずかな曲がりが優雅さを表現し、少年が貴族の起源を持つ事を示しています。

  • フランドルの風景画家ヨース.デ.モンペル2世(Joos de Momper:II:1564-1635)作の「川の風景」です。この絵は三分割法の構図の原則に従っています。 川の谷のパノラマ.ビュー、リアルで正確に描かれた建物、人間と動物の姿は、作者が周囲を注意深く観察したことを示しています。 地平線は比較的高く描かれています。

    フランドルの風景画家ヨース.デ.モンペル2世(Joos de Momper:II:1564-1635)作の「川の風景」です。この絵は三分割法の構図の原則に従っています。 川の谷のパノラマ.ビュー、リアルで正確に描かれた建物、人間と動物の姿は、作者が周囲を注意深く観察したことを示しています。 地平線は比較的高く描かれています。

  • 右下隅を拡大しました。上流社会の人々らしいグループです。

    右下隅を拡大しました。上流社会の人々らしいグループです。

  • こちらは渡し船を拡大しました。

    こちらは渡し船を拡大しました。

  • 木々が繁る風景を多く手がけたフランドル.バロック様式の風景画家アントン.ミロウ(Anton Mirou:1578-1661)作の「夏の景色」です。

    木々が繁る風景を多く手がけたフランドル.バロック様式の風景画家アントン.ミロウ(Anton Mirou:1578-1661)作の「夏の景色」です。

  • ベルギーのロマン主義の美術で重要な画家ニケーズ.ド.ケイゼル(Nicaise de Keyser:1813-1887)の 1844年の作品で「フランスのフランソワ1世(1494-1547)と姉のマルグリット.ド.ナヴァル(1492-1549)」です。両者は共にフランス.ルネサンス期の芸術と文芸の庇護者として知られています。特にフランソワ1世は、晩年のレオナルド.ダ.ヴィンチをフランスに移住させた事で有名です。その時ダヴィンチは、有名なモナ.リザの絵を持参しています。

    ベルギーのロマン主義の美術で重要な画家ニケーズ.ド.ケイゼル(Nicaise de Keyser:1813-1887)の 1844年の作品で「フランスのフランソワ1世(1494-1547)と姉のマルグリット.ド.ナヴァル(1492-1549)」です。両者は共にフランス.ルネサンス期の芸術と文芸の庇護者として知られています。特にフランソワ1世は、晩年のレオナルド.ダ.ヴィンチをフランスに移住させた事で有名です。その時ダヴィンチは、有名なモナ.リザの絵を持参しています。

  • オランダかフランドルの画家のようですが、画家が特定出来ませんでした。青果市場の様子でしょうか。

    オランダかフランドルの画家のようですが、画家が特定出来ませんでした。青果市場の様子でしょうか。

  • 内装も綺麗な絵画の展示室です。

    内装も綺麗な絵画の展示室です。

  • この絵は作者が特定できませんでしたが、印象的だったので掲載します。右側の2艘の船は漁船でしょうか、貨物船でしょうか?遠くに霞んで大きな帆船も見えます。

    この絵は作者が特定できませんでしたが、印象的だったので掲載します。右側の2艘の船は漁船でしょうか、貨物船でしょうか?遠くに霞んで大きな帆船も見えます。

  • ロマン派のドイツ人画家ルートヴィヒ.リヒター(Ludwig Richter:1803-1884)の1835年の作品の「アクア.アセトーサ近くのテヴェレ川の堤」です。人物を取り入れた風景画を多く手がけています。アクア.アセトーサはローマの北にある地区です。<br />

    ロマン派のドイツ人画家ルートヴィヒ.リヒター(Ludwig Richter:1803-1884)の1835年の作品の「アクア.アセトーサ近くのテヴェレ川の堤」です。人物を取り入れた風景画を多く手がけています。アクア.アセトーサはローマの北にある地区です。

  • 堤に集まる人々を拡大しました。

    堤に集まる人々を拡大しました。

  • ドイツ人の画家ルドウィック.オーガスト.モースト(Ludwig August Most:1807-1883)の1831年の作品「魚売り」です。この画家は、肖像画や風俗画に加えて、風景画の画家としても活動しました。

    ドイツ人の画家ルドウィック.オーガスト.モースト(Ludwig August Most:1807-1883)の1831年の作品「魚売り」です。この画家は、肖像画や風俗画に加えて、風景画の画家としても活動しました。

  • 左側の母子を拡大しました。

    左側の母子を拡大しました。

  • デュッセルドルフ派のドイツ人画家カール.フリードリヒ.レッシング(Karl Friedrich Lessing:1808-1880)の1839年の作品「コンスタンツ公会議で非難されているヤン.フス」です。ヤン.フス(Jan Hus:1369-1415)はチェコ出身の宗教改革者で、プロテスタント運動の先駆者となりました。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議で有罪とし火刑に処せられました。

    デュッセルドルフ派のドイツ人画家カール.フリードリヒ.レッシング(Karl Friedrich Lessing:1808-1880)の1839年の作品「コンスタンツ公会議で非難されているヤン.フス」です。ヤン.フス(Jan Hus:1369-1415)はチェコ出身の宗教改革者で、プロテスタント運動の先駆者となりました。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議で有罪とし火刑に処せられました。

  • ドイツ人の画家カール.シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg:1808-1885)の1860年頃の作品「古い要塞の司令官」です。古い要塞のロマンチックな風景の中で、司令官は犬と一緒に座ってパイプを吸い、昔を思い出しています。

    ドイツ人の画家カール.シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg:1808-1885)の1860年頃の作品「古い要塞の司令官」です。古い要塞のロマンチックな風景の中で、司令官は犬と一緒に座ってパイプを吸い、昔を思い出しています。

  • 思いに耽る老人の司令官を拡大しました。

    思いに耽る老人の司令官を拡大しました。

  • こちらもカール.シュピッツヴェークの1880年の作品「隠者」です。修道士らしき衣装の人物がヴァイオリンを奏でています。

    こちらもカール.シュピッツヴェークの1880年の作品「隠者」です。修道士らしき衣装の人物がヴァイオリンを奏でています。

  • ドイツの風景画家フランツ.エイミーレ.ヘルマン.クラウゼ(Franz Emile Herman Krause:1836-1900)の作品「オランダの冬景色」です。

    ドイツの風景画家フランツ.エイミーレ.ヘルマン.クラウゼ(Franz Emile Herman Krause:1836-1900)の作品「オランダの冬景色」です。

  • ミュンヘンに生まれ、子供達の絵を多く描いたドイツの画家ヘルマン.フォン.カウルバッハ(Hermann Kaulbach:1846 - 1909)の1872年頃の作品で「魔女の家のヘンゼルとグレーテル」です。「ヘンゼルとグレーテル」 は、グリム童話に収録されている作品で、長く続いた飢饉で困った親が口減らしのために子捨てをする話です。

    ミュンヘンに生まれ、子供達の絵を多く描いたドイツの画家ヘルマン.フォン.カウルバッハ(Hermann Kaulbach:1846 - 1909)の1872年頃の作品で「魔女の家のヘンゼルとグレーテル」です。「ヘンゼルとグレーテル」 は、グリム童話に収録されている作品で、長く続いた飢饉で困った親が口減らしのために子捨てをする話です。

  • ドイツの風景画家カール.モルゲンシュテルン(Carl Morgenstern:1847-1928)の1843年の作品「マルセーユ港に入る」です。カールの祖父は肖像画家、父は風景画家でバイエルン王国のルートヴィヒ1世の宮廷画家でした。

    ドイツの風景画家カール.モルゲンシュテルン(Carl Morgenstern:1847-1928)の1843年の作品「マルセーユ港に入る」です。カールの祖父は肖像画家、父は風景画家でバイエルン王国のルートヴィヒ1世の宮廷画家でした。

  • 拡大しました。要塞で守られた港口の手前で漁師が網の手入れをしているようです。

    拡大しました。要塞で守られた港口の手前で漁師が網の手入れをしているようです。

  • 大きな網のようで7人がかりで作業しています。

    大きな網のようで7人がかりで作業しています。

  • 「画家の王」と呼ばれた19世紀後半のウィーン美術界を代表するオーストリアの画家ハンス.マカート(Hans Makart:1840 - 1884)の1883年の作品「フンディングの館のジークムンドとジークリンデ」です。シーンは、リヒャルト.ワーグナーが1856年に作曲し、1870年に初演した楽劇『ワルキューレ』の第1幕、第1場から取られています。戦いに傷つき嵐の中を逃れてきたジークムントは館にたどり着きます。フンディングの妻ジークリンデはジークムントに水を与え、二人は強く引かれ合います。

    「画家の王」と呼ばれた19世紀後半のウィーン美術界を代表するオーストリアの画家ハンス.マカート(Hans Makart:1840 - 1884)の1883年の作品「フンディングの館のジークムンドとジークリンデ」です。シーンは、リヒャルト.ワーグナーが1856年に作曲し、1870年に初演した楽劇『ワルキューレ』の第1幕、第1場から取られています。戦いに傷つき嵐の中を逃れてきたジークムントは館にたどり着きます。フンディングの妻ジークリンデはジークムントに水を与え、二人は強く引かれ合います。

  • こちらもハンス.マカートが楽劇『ワルキューレ』の第2幕、第5場から取った作品で「ブリュンヒルデはジークリンデを安全な場所に連れていく」です。

    こちらもハンス.マカートが楽劇『ワルキューレ』の第2幕、第5場から取った作品で「ブリュンヒルデはジークリンデを安全な場所に連れていく」です。

  • 同じハンス.マカート作の「ラピテースとケンタウロスの戦い」です。ラピテース族の王ペイリトオスの結婚式の日に、招待されていたケンタウロス達は酒の勢いで花嫁のヒッポダメイアを誘拐しようとして戦いになりました。ケンタウロスは、ギリシア神話に登場する半人半獣の種族の名前です。馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしています。

    同じハンス.マカート作の「ラピテースとケンタウロスの戦い」です。ラピテース族の王ペイリトオスの結婚式の日に、招待されていたケンタウロス達は酒の勢いで花嫁のヒッポダメイアを誘拐しようとして戦いになりました。ケンタウロスは、ギリシア神話に登場する半人半獣の種族の名前です。馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしています。

  • バロック後期のイタリア人画家ルカ.ジョルダーノ(Luca Giordano:1634-1705)作の「偽りの神々に祈るソロモン」です。ソロモンは、旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代の王です。

    バロック後期のイタリア人画家ルカ.ジョルダーノ(Luca Giordano:1634-1705)作の「偽りの神々に祈るソロモン」です。ソロモンは、旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代の王です。

  • イタリアの古典主義の画家ベネデット.ルティ(Benedetto Lutti:1666-1724)作の「少女の肖像」です。この画家は女性の肖像画を多く手がけています。

    イタリアの古典主義の画家ベネデット.ルティ(Benedetto Lutti:1666-1724)作の「少女の肖像」です。この画家は女性の肖像画を多く手がけています。

  • バロック期のイタリア人の画家ミケーレ.ロッカ(Michele Rocca:1671-1751)作の「スキピオ.アフリカヌスの寛大さ」です。スキピオは、紀元前の共和政ローマの政治家であり軍人です。彼は第二次ポエニ戦争中に、若い女性捕虜を寛大にもフィアンセの元に戻します。

    バロック期のイタリア人の画家ミケーレ.ロッカ(Michele Rocca:1671-1751)作の「スキピオ.アフリカヌスの寛大さ」です。スキピオは、紀元前の共和政ローマの政治家であり軍人です。彼は第二次ポエニ戦争中に、若い女性捕虜を寛大にもフィアンセの元に戻します。

  • 新古典主義様式のイタリアの彫刻家ピエトロ.テネラニ(Pietro Tenerani:1789-1869)が大理石を彫って作った「プシュケ」です。テネラニは、プシュケを岩の上に座っている翼のある若い女の子として表しています。テネラニは、この姿のプシュケ像を何体か製作しています。

    新古典主義様式のイタリアの彫刻家ピエトロ.テネラニ(Pietro Tenerani:1789-1869)が大理石を彫って作った「プシュケ」です。テネラニは、プシュケを岩の上に座っている翼のある若い女の子として表しています。テネラニは、この姿のプシュケ像を何体か製作しています。

  • ロマン派のノルウェーの画家ヨハン.クリスチャン.ダール(Johan Christian Claussen Dahl:1788-1857)の1832年の作品の「難破船」です。この画家の絵画は何枚もオスロの国立美術館やベルゲンの美術館で鑑賞して来ました。難破船の題材も数枚描いているようです。<br />

    ロマン派のノルウェーの画家ヨハン.クリスチャン.ダール(Johan Christian Claussen Dahl:1788-1857)の1832年の作品の「難破船」です。この画家の絵画は何枚もオスロの国立美術館やベルゲンの美術館で鑑賞して来ました。難破船の題材も数枚描いているようです。

  • 主に海岸の風景を描いたフランスの画家ウジェーヌ.イザベイ(Eugene Isabey:1803-1886)の1850年の作品「漁師の少女」です。絵の中の女の子は、フランス.ノルマンディーの漁師の特徴的な衣服を着ています。それは、白い色のブラウスと暗い色のスカートです。手前の砂の上には魚、陶器の水差し、網が入った籠は、静物画を思い起こさせます。背景には、働く女性の姿が船の輪郭に溶け込んでいます。

    主に海岸の風景を描いたフランスの画家ウジェーヌ.イザベイ(Eugene Isabey:1803-1886)の1850年の作品「漁師の少女」です。絵の中の女の子は、フランス.ノルマンディーの漁師の特徴的な衣服を着ています。それは、白い色のブラウスと暗い色のスカートです。手前の砂の上には魚、陶器の水差し、網が入った籠は、静物画を思い起こさせます。背景には、働く女性の姿が船の輪郭に溶け込んでいます。

  • 動物や騎馬戦闘シーンを描いたイギリスの画家エイブラハム.クーパー(Abraham Cooper:1787-1868)の1829年の作品「放牧馬」です。右隅の男性を見つめる犬達が可愛いです。

    動物や騎馬戦闘シーンを描いたイギリスの画家エイブラハム.クーパー(Abraham Cooper:1787-1868)の1829年の作品「放牧馬」です。右隅の男性を見つめる犬達が可愛いです。

  • スコットランドに生まれ、ジョージ4世の宮廷画家を務めた画家デイヴィッド.ウィルキー(David Wilkie:1785-1841)作の「秘密のアイルランドの蒸留所」です。

    スコットランドに生まれ、ジョージ4世の宮廷画家を務めた画家デイヴィッド.ウィルキー(David Wilkie:1785-1841)作の「秘密のアイルランドの蒸留所」です。

  • 彫刻作品を展示する部屋です。

    彫刻作品を展示する部屋です。

  • 絵画の展示室です。

    絵画の展示室です。

  • 綺麗に装飾された回廊のように見える部分を拡大しました。

    綺麗に装飾された回廊のように見える部分を拡大しました。

  • もうすぐ6時になります。見学を終え階段で階下に下りて行きます。

    もうすぐ6時になります。見学を終え階段で階下に下りて行きます。

  • 証券取引所の隣対面にあるラトヴィア.ラジオの建物の角ですが、デザインが全く異なる建物が隣接しています。

    証券取引所の隣対面にあるラトヴィア.ラジオの建物の角ですが、デザインが全く異なる建物が隣接しています。

  • 左の証券取引所と右のラトヴィア.ラジオの建物の間にある北の方向に延びたジェーシンカバ通りです。

    左の証券取引所と右のラトヴィア.ラジオの建物の間にある北の方向に延びたジェーシンカバ通りです。

  • ドゥァマ広場の南にある大聖堂です。

    ドゥァマ広場の南にある大聖堂です。

  • ホテル.ネイブルクスに戻ってきました。ここが5階の我々の部屋です。

    ホテル.ネイブルクスに戻ってきました。ここが5階の我々の部屋です。

  • ホテルのレセプションです。感じの良い方でした。

    ホテルのレセプションです。感じの良い方でした。

  • 部屋に帰ってきました。これは小さなキッチン.セットです。食卓もあります。

    部屋に帰ってきました。これは小さなキッチン.セットです。食卓もあります。

  • 持参の食品でノンビリと夕食です。ここでも少し寒かったので、暖房器具を頼んだら持ってきてくれました。

    持参の食品でノンビリと夕食です。ここでも少し寒かったので、暖房器具を頼んだら持ってきてくれました。

  • 窓からの夜景と昼間の景色との対比をします。大聖堂はライト.アップされています。

    窓からの夜景と昼間の景色との対比をします。大聖堂はライト.アップされています。

  • 夕方の景色です。

    夕方の景色です。

  • ホテル前のレストラン1221です。店は1階だけ開いているようです。

    ホテル前のレストラン1221です。店は1階だけ開いているようです。

  • 夕方の写真ですが、屋上にもテーブルが並べてあります。

    夕方の写真ですが、屋上にもテーブルが並べてあります。

  • これから先9枚は、2003年春の旅で聖ペトロ強化の尖塔に上がって旧市街を展望した写真です。<br />北西の方向を望んでいます。中央左寄りに大聖堂、中央右寄りに農林省の高層建物です。その手前に聖ヤコブ教会の緑青の尖塔が見えています。更にその手前には、ドゥァマ広場です。そして我々だ宿泊するホテル.ネイブルクスの小さな塔も大聖堂の鐘楼の手前に見えます。

    これから先9枚は、2003年春の旅で聖ペトロ強化の尖塔に上がって旧市街を展望した写真です。
    北西の方向を望んでいます。中央左寄りに大聖堂、中央右寄りに農林省の高層建物です。その手前に聖ヤコブ教会の緑青の尖塔が見えています。更にその手前には、ドゥァマ広場です。そして我々だ宿泊するホテル.ネイブルクスの小さな塔も大聖堂の鐘楼の手前に見えます。

  • 上掲写真の右側を拡大しました。左端に聖ヤコブ教会の緑青の尖塔で、その中程に&quot;哀れな罪人の鐘&quot;が見えます。写真中央に教会のような白い建物はアヴェ.ソル.コンサート.ホール(Ave Sol Concert Hall)です。元々1785年にリガ城塞内に建てられた聖ピエトロとパヴェル教会でした。1940年のソ連邦への組み込み時に教会としての役割は終了しました。

    上掲写真の右側を拡大しました。左端に聖ヤコブ教会の緑青の尖塔で、その中程に"哀れな罪人の鐘"が見えます。写真中央に教会のような白い建物はアヴェ.ソル.コンサート.ホール(Ave Sol Concert Hall)です。元々1785年にリガ城塞内に建てられた聖ピエトロとパヴェル教会でした。1940年のソ連邦への組み込み時に教会としての役割は終了しました。

  • 大聖堂の鐘楼を拡大しました。左端の小さな尖塔はリガ英国国教会です。大聖堂の鐘楼の右横に悲しみの聖母教会の緑青色の小さな尖塔も見えます。その後ろにあるのはリガ城です。

    大聖堂の鐘楼を拡大しました。左端の小さな尖塔はリガ英国国教会です。大聖堂の鐘楼の右横に悲しみの聖母教会の緑青色の小さな尖塔も見えます。その後ろにあるのはリガ城です。

  • こちらは北北東の方向を望んでします。右側遠くに背が高いラディソン.ブルー.ラトヴィア.ホテルが見え、その手前に自由記念碑も見えています。左側中程に火薬塔が、その手間の肌色の壁の猫の家が、更にその右手前にリーヴ広場が見えます。

    こちらは北北東の方向を望んでします。右側遠くに背が高いラディソン.ブルー.ラトヴィア.ホテルが見え、その手前に自由記念碑も見えています。左側中程に火薬塔が、その手間の肌色の壁の猫の家が、更にその右手前にリーヴ広場が見えます。

  • 火薬等と猫の家を拡大しました。猫の家で、左端の円錐形屋根の頂部に猫がいます。この猫は、もう1匹が右上に極小さく写っています。

    火薬等と猫の家を拡大しました。猫の家で、左端の円錐形屋根の頂部に猫がいます。この猫は、もう1匹が右上に極小さく写っています。

  • 聖ペトロ教会の尖塔展望台の北東側直下です。中央の建物は元々カトリック教会でしたが、現在は工芸とデザインの博物館になっているセント.ジョージ教会です。右端に聖ヨハネ教会が一部見え、小道を挟んでその左にエッケ修道院も見えます。

    聖ペトロ教会の尖塔展望台の北東側直下です。中央の建物は元々カトリック教会でしたが、現在は工芸とデザインの博物館になっているセント.ジョージ教会です。右端に聖ヨハネ教会が一部見え、小道を挟んでその左にエッケ修道院も見えます。

  • 上掲の写真の少し上側を拡大しました。2003年春の旅で宿泊したホテルのコンヴェンタ.セータの回廊が見えています。それは中程に見える城壁の遺跡を活用したものです。右下隅に聖ヨハネ教会のファサードも見えます。

    上掲の写真の少し上側を拡大しました。2003年春の旅で宿泊したホテルのコンヴェンタ.セータの回廊が見えています。それは中程に見える城壁の遺跡を活用したものです。右下隅に聖ヨハネ教会のファサードも見えます。

  • 南東の方向です。中央左寄りにラトヴィア科学アカデミーのスターリン様式の建物、中央中程に中央市場のかまぼこ型の建物5棟が見えます。左端の1棟は向きが他の4棟と異なっています。左端中程で建設中の建物はデパートのストックマンが入る駅前ビルです。

    南東の方向です。中央左寄りにラトヴィア科学アカデミーのスターリン様式の建物、中央中程に中央市場のかまぼこ型の建物5棟が見えます。左端の1棟は向きが他の4棟と異なっています。左端中程で建設中の建物はデパートのストックマンが入る駅前ビルです。

  • 中央市場の右側3棟を拡大しました。中央市場の手前に市電が走り、その手前に運河があり、更に手前にバス.ターミナルと高架の鉄道線路です。カマボコ型の中央市場の建物は、ラトヴィア領内にあった飛行船格納庫だったそうです。

    中央市場の右側3棟を拡大しました。中央市場の手前に市電が走り、その手前に運河があり、更に手前にバス.ターミナルと高架の鉄道線路です。カマボコ型の中央市場の建物は、ラトヴィア領内にあった飛行船格納庫だったそうです。

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