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2020年10月28日(水)午後3時前、この日の目的地であった無鄰菴(むりんあん)に到着。ここで海外協力隊の同期隊員と久々の再会。この隊員の方は、中米のコスタリカ(Costa Rica)派遣で、派遣期間中に私が任国外旅行で中米を訪れた時に、首都のサンホセ(San Jose)でもう一人の同期隊員の方とお逢いして以来なので、ほぼ1年振り。今回は、東京からお母様と2人の京都観光で上洛されたので、観光をお邪魔しないように、ここで一緒にお茶を戴くことにした。<br /><br />無鄰菴は琵琶湖疏水、鴨東(おうとう)運河の南禅寺舟溜と仁王門通を挟んで南側にある(下の写真1)。高杉晋作の松下村塾出身で2度首相を務めた山縣有朋が1896年(明治29年)に完成させた別宅。この無鄰菴と云う名前は、そもそもは彼の出身地、長州(山口県)の下関(彼自身は現在の萩市出身)に建てた草菴に付けたもの。この菴には隣家がなかったことから付けたとも、論語の「徳不孤必有鄰(徳のある者は孤立することがなく、理解し助力する人が現れるの意)」から取ったものと云われる。<br /><br />山縣はこの名前を気に入ったようで、1891年(明治24年)に造った邸宅にも同じ名前を付けている。この第二無鄰菴と称される邸宅は、木屋町二条にあり、現在は日本食のがんこ高瀬川二条苑になっており、一度行ったことがあるが、ここの庭も素晴らしい。<br /><br />現在の無鄰菴は三角形の形状の敷地で、広さは約3100平方mあり、数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館および広い日本庭園からなっている。庭園は七代目植治(小川治兵衛)の作庭で、1951年に国の名勝に指定されている。第二無鄰菴が完成した直後の1892年頃から準備が始まり、1894年に造営着手し2年後に完成した。1941年に寄贈されて現在は京都市が管理している。<br /><br />この地に邸宅を築いた背景には、以下のような動きがあった。明治初期の廃仏毀釈で、この一帯の広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺も寺領の上知を命ぜられ、その土地はやがて民間に払い下げられた。また1890年には、琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水の第一期工事が竣工したこともあり、府や市は、この地区を風致地区として将来の別荘地とする方針を打ち出した。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在だった。現在、その邸宅群で唯一通年公開されている。<br /><br />西側の通りの入口から敷地内に入ると玄関と受付がある(下の写真2)。ここで無事待ち合わせのお二人と合流。早速菴内に入るが、コロナ以降は9時から17時までの1時間おきの事前予約制になっていて、各時間帯は20名までに制限されていた。事前に3時からの喫茶付き入場券をウェブ予約してくださってたので、すんなりと入場。ちなみに入場料は600円で、喫茶付は1600円だったが、この日、28日は35歳以下は入場料無料の日で、再会した同期隊員の方はラッキーだった。<br /><br />敷地の北西部に建つ母屋の玄関から入場。母屋は簡素な木造平屋の桟瓦葺(一部は二階建、銅板葺)。1895年に建築され、1898年および大正期に改造された。1階に坪庭を囲んで次の間付10畳の客座敷と次の間付8畳の座敷があり、それぞれ「会室の間」「居間兼客座敷」と呼ばれていた。山縣有朋は、別荘の主体は庭園としており、座敷から庭を鑑賞することに重点を置いていたため、簡素な造りになっている。<br /><br />毎時05分、30分に無料ガイドがあるので、まずは南側の8畳間で説明を聞く。座椅子や座布団が離れて置かれ、密にならないように工夫されている。10分余り説明を聞いて、そのまま座敷からお庭に降りる。この座敷からお庭に出たところがお庭を撮るベストポジションとのこと。約1000坪の、別荘としては小ぶりな敷地に東山を借景とし、明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込んだ浅い流れを配した池泉廻遊式庭園が広がっている。色づき始めている木もあり、残念ながら曇ってはいたが、素晴らしい眺めだった。<br /><br />橋でなく飛び石で流れを越え、庭を奥に進むと道沿いに黄色い実を付けた低木が植わっているが、これはクサボケ(草木瓜)。ボケの野生種で、山縣有朋の故郷、山口県の里山にも自生しており、彼の意図でここに植えられたそうだ。果実酒の材料として人気があるそうだが、飲んだことない。振り返ると母屋と洋館を見下ろせる。結構高低差がある。<br /><br />庭の中央部に進むと、下の母屋からは見えなかった池が見えるが、琵琶湖を再現している。この池は、上部の池に続き、二つ合わせてひょうたん池とも呼ばれる。流れてる水は琵琶湖から流れ出したもので、その取入れ口が一番奥にある三段の滝で、ここで琵琶湖疏水を引き込んでいる。右、左、中央と三段の滝にすることにより滝に幅を持たせている。ここから見える母屋は実際より遠く見える。<br /><br />戻り、途中から来た道を逸れて左手に進むと茶室がある。三畳台目の主座、二畳中板敷、三畳の3つの間と水屋を一つの建物に収めたもので、1895年頃に外部から移築されたもの(下の写真3)。<br /><br />茶室の先、敷地の南西角に建つのは煉瓦造2階建の洋館。設計は新家孝正で1898年に竣工したもの。2階の間ではしばしば要人との会見が行われたが、中でも有名なのは日露戦争開戦前の1903年に元老であった山縣有朋と伊藤博文政友会総裁、桂太郎総理大臣、小村寿太郎外務大臣とで行われた会議で、無鄰菴会議と呼ばれる。この会議で、満韓交換論とも云われる対露方針が同意された(下の写真4)。<br /><br />3時45分頃、洋館を出て、いったん玄関前のたたきに出て、母屋の奥の10畳間に戻り、庭を眺めながらお茶とお菓子を戴く。抹茶、コーヒー、クラフトビール、ほうじ茶のいずれかと無鄰菴オリジナルどら焼き、村上開新堂のロシアケーキ、ピスタチオ、お干菓子二種のいずれかを戴くことが出来、私は抹茶と干菓子を戴く(下の写真5)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4797363310333655&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />3時、入れ替え制なので、無鄰菴を出、その後30分余り蹴上インクラインを歩きながら、もう少し昔話などして、私は京都地下鉄東西線の蹴上駅から帰路に就いた。東西線は京都地下鉄の2番目の路線として、1997年に醍醐・二条間が開業。この時、この蹴上駅も開業した。東西線はその後、2004年に六地蔵まで、2008年に太秦天神川まで延伸されている。御陵(みささぎ)から太秦天神川までは京阪京津(けいしん)線が乗り入れている。<br /><br />京阪京津線は1912年(大正元年)に一部開通、1925年に三条から浜大津までが全線開通した路線で、東西線への乗り入れに際して、三条・御陵間が廃止された。三条から蹴上までは路面を走っていたのが懐かしい。また、蹴上から先、山科の日ノ岡までの区間はその頃は3車線で、通常は日ノ岡方面行が2車線だが、夕方の2時間のみ蹴上方面行が2車線となる中央線変移が行われていたのも懐かしい。私は京都の交通管制は担当じゃなかったが、同僚が関わってたなあ。なお、現在は京津線の専用軌道が道路化され、常時片道2車線となっている。<br /><br /><br />以上

京都 岡崎 無鄰菴(Murinan, Okazaki, Kyoto, JP)

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2020/10/28 - 2020/10/28

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年10月28日(水)午後3時前、この日の目的地であった無鄰菴(むりんあん)に到着。ここで海外協力隊の同期隊員と久々の再会。この隊員の方は、中米のコスタリカ(Costa Rica)派遣で、派遣期間中に私が任国外旅行で中米を訪れた時に、首都のサンホセ(San Jose)でもう一人の同期隊員の方とお逢いして以来なので、ほぼ1年振り。今回は、東京からお母様と2人の京都観光で上洛されたので、観光をお邪魔しないように、ここで一緒にお茶を戴くことにした。

無鄰菴は琵琶湖疏水、鴨東(おうとう)運河の南禅寺舟溜と仁王門通を挟んで南側にある(下の写真1)。高杉晋作の松下村塾出身で2度首相を務めた山縣有朋が1896年(明治29年)に完成させた別宅。この無鄰菴と云う名前は、そもそもは彼の出身地、長州(山口県)の下関(彼自身は現在の萩市出身)に建てた草菴に付けたもの。この菴には隣家がなかったことから付けたとも、論語の「徳不孤必有鄰(徳のある者は孤立することがなく、理解し助力する人が現れるの意)」から取ったものと云われる。

山縣はこの名前を気に入ったようで、1891年(明治24年)に造った邸宅にも同じ名前を付けている。この第二無鄰菴と称される邸宅は、木屋町二条にあり、現在は日本食のがんこ高瀬川二条苑になっており、一度行ったことがあるが、ここの庭も素晴らしい。

現在の無鄰菴は三角形の形状の敷地で、広さは約3100平方mあり、数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館および広い日本庭園からなっている。庭園は七代目植治(小川治兵衛)の作庭で、1951年に国の名勝に指定されている。第二無鄰菴が完成した直後の1892年頃から準備が始まり、1894年に造営着手し2年後に完成した。1941年に寄贈されて現在は京都市が管理している。

この地に邸宅を築いた背景には、以下のような動きがあった。明治初期の廃仏毀釈で、この一帯の広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺も寺領の上知を命ぜられ、その土地はやがて民間に払い下げられた。また1890年には、琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水の第一期工事が竣工したこともあり、府や市は、この地区を風致地区として将来の別荘地とする方針を打ち出した。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在だった。現在、その邸宅群で唯一通年公開されている。

西側の通りの入口から敷地内に入ると玄関と受付がある(下の写真2)。ここで無事待ち合わせのお二人と合流。早速菴内に入るが、コロナ以降は9時から17時までの1時間おきの事前予約制になっていて、各時間帯は20名までに制限されていた。事前に3時からの喫茶付き入場券をウェブ予約してくださってたので、すんなりと入場。ちなみに入場料は600円で、喫茶付は1600円だったが、この日、28日は35歳以下は入場料無料の日で、再会した同期隊員の方はラッキーだった。

敷地の北西部に建つ母屋の玄関から入場。母屋は簡素な木造平屋の桟瓦葺(一部は二階建、銅板葺)。1895年に建築され、1898年および大正期に改造された。1階に坪庭を囲んで次の間付10畳の客座敷と次の間付8畳の座敷があり、それぞれ「会室の間」「居間兼客座敷」と呼ばれていた。山縣有朋は、別荘の主体は庭園としており、座敷から庭を鑑賞することに重点を置いていたため、簡素な造りになっている。

毎時05分、30分に無料ガイドがあるので、まずは南側の8畳間で説明を聞く。座椅子や座布団が離れて置かれ、密にならないように工夫されている。10分余り説明を聞いて、そのまま座敷からお庭に降りる。この座敷からお庭に出たところがお庭を撮るベストポジションとのこと。約1000坪の、別荘としては小ぶりな敷地に東山を借景とし、明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込んだ浅い流れを配した池泉廻遊式庭園が広がっている。色づき始めている木もあり、残念ながら曇ってはいたが、素晴らしい眺めだった。

橋でなく飛び石で流れを越え、庭を奥に進むと道沿いに黄色い実を付けた低木が植わっているが、これはクサボケ(草木瓜)。ボケの野生種で、山縣有朋の故郷、山口県の里山にも自生しており、彼の意図でここに植えられたそうだ。果実酒の材料として人気があるそうだが、飲んだことない。振り返ると母屋と洋館を見下ろせる。結構高低差がある。

庭の中央部に進むと、下の母屋からは見えなかった池が見えるが、琵琶湖を再現している。この池は、上部の池に続き、二つ合わせてひょうたん池とも呼ばれる。流れてる水は琵琶湖から流れ出したもので、その取入れ口が一番奥にある三段の滝で、ここで琵琶湖疏水を引き込んでいる。右、左、中央と三段の滝にすることにより滝に幅を持たせている。ここから見える母屋は実際より遠く見える。

戻り、途中から来た道を逸れて左手に進むと茶室がある。三畳台目の主座、二畳中板敷、三畳の3つの間と水屋を一つの建物に収めたもので、1895年頃に外部から移築されたもの(下の写真3)。

茶室の先、敷地の南西角に建つのは煉瓦造2階建の洋館。設計は新家孝正で1898年に竣工したもの。2階の間ではしばしば要人との会見が行われたが、中でも有名なのは日露戦争開戦前の1903年に元老であった山縣有朋と伊藤博文政友会総裁、桂太郎総理大臣、小村寿太郎外務大臣とで行われた会議で、無鄰菴会議と呼ばれる。この会議で、満韓交換論とも云われる対露方針が同意された(下の写真4)。

3時45分頃、洋館を出て、いったん玄関前のたたきに出て、母屋の奥の10畳間に戻り、庭を眺めながらお茶とお菓子を戴く。抹茶、コーヒー、クラフトビール、ほうじ茶のいずれかと無鄰菴オリジナルどら焼き、村上開新堂のロシアケーキ、ピスタチオ、お干菓子二種のいずれかを戴くことが出来、私は抹茶と干菓子を戴く(下の写真5)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4797363310333655&type=1&l=223fe1adec

3時、入れ替え制なので、無鄰菴を出、その後30分余り蹴上インクラインを歩きながら、もう少し昔話などして、私は京都地下鉄東西線の蹴上駅から帰路に就いた。東西線は京都地下鉄の2番目の路線として、1997年に醍醐・二条間が開業。この時、この蹴上駅も開業した。東西線はその後、2004年に六地蔵まで、2008年に太秦天神川まで延伸されている。御陵(みささぎ)から太秦天神川までは京阪京津(けいしん)線が乗り入れている。

京阪京津線は1912年(大正元年)に一部開通、1925年に三条から浜大津までが全線開通した路線で、東西線への乗り入れに際して、三条・御陵間が廃止された。三条から蹴上までは路面を走っていたのが懐かしい。また、蹴上から先、山科の日ノ岡までの区間はその頃は3車線で、通常は日ノ岡方面行が2車線だが、夕方の2時間のみ蹴上方面行が2車線となる中央線変移が行われていたのも懐かしい。私は京都の交通管制は担当じゃなかったが、同僚が関わってたなあ。なお、現在は京津線の専用軌道が道路化され、常時片道2車線となっている。


以上

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  • 写真1 仁王門通の無鄰菴の案内

    写真1 仁王門通の無鄰菴の案内

  • 写真2 玄関前

    写真2 玄関前

  • 写真3 茶室

    写真3 茶室

  • 写真4 洋館2階

    写真4 洋館2階

  • 写真5 オリジナルどら焼き

    写真5 オリジナルどら焼き

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