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2020年11月13日(金)2時15分頃、びわ湖疏水船は諸羽トンネルを抜ける。出口前は少し広い新諸羽船溜となっているが、水路変更前にあった1888年(明治21年)完成の諸羽船溜の一部。船溜はこのトンネル出口から南に延びていた諸羽トンネルが開削される以前の旧水路に掛けてあった。現在は旧水路は遊歩道となり、船溜があったところは東山自然緑地となっている。諸羽トンネル東口の四ノ宮船溜に比べると広く、四ノ宮船溜は主に旅客の乗り降りに使われ、ここは物資の上げ下ろしと船頭の休憩所に使われていた。ここでもアオサギが迎えてくれた(下の写真1)。<br /><br />現在の疏水は諸羽トンネルを抜けると右手(北側)に向かうが、ここから疏水船の京都側の発着点である蹴上船溜までの間は山科運河とも呼ばれる。水路はすぐに再び西に方向を変える。この辺りの両岸は普通の住宅街(下の写真2)。<br /><br />左手へのカーブを進むと見えてくるのが安朱橋。第3号橋は流路変更でなくなったので、これが第4号橋。第2号橋と同じ1889年の竣工。1928年と2000年に改修が行われて現在の姿となった。この橋を北に渡って10分ほど歩くと枝垂桜が有名な毘沙門堂門跡があるため、毘沙門堂橋とも呼ばれていた。橋の名の安朱はこの辺りの地名だが、安祥寺と朱雀と云うもともとあった2つの地名が合成されたもの。<br /><br />その少し西の明治中期の建造の第5号橋を過ぎると安祥寺川の上を越えるが、船に乗ってるとよく分からない(下の写真3)。左へのカーブを曲がると洛東橋。洛東高校に渡る橋。そのままの名前やね。府立洛東高校では俳優の近藤正臣さん、小林薫さんや元オセロの中島知子さんらが学んだ。私の知り合いにも卒業生いるわ。1954年創立だが、最初は京都市内の大将軍にあり、この場所に移転したのは1955年とのこと。<br /><br />再び水路は右にカーブするが、この辺りはJRと京阪の山科駅のちょうど真北になる。曲がり切って西方向になったところで、安祥寺橋を潜る。第6号橋で、これも1889年に架けられた。高野山真言宗の吉祥山安祥寺に通じる橋。平安時代848年に創建された朝廷縁の定額寺。江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂があるが、非公開。<br /><br />安祥寺橋の先で再び左にカーブすると水路幅が広くなる。1953年から63年まで小学校の夏休みの水泳場として利用されていた安祥寺水泳場で、元々はここも船溜だった。表紙写真にもあるが、結構距離が長いので、水泳場に向いてたように思える。<br /><br />この部分、安祥寺山が南に張り出しているので、疏水はその山裾にそって南から東、そして再び北(正確には北西)に進むが、この回り込む辺りにある展望広場からは、JR東海道線の山科カーブが見渡せ、鉄ちゃんには絶好の撮影スポットになっている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4905231396213512&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />U字カーブを回り切り、ちょうど安祥寺水泳場と山を挟むくらいの位置まで進むと妙応寺橋。1889年に架けられた第7号橋。橋の名前はすぐ南西に位置する飛鳥時代の天智天皇を祀った天智天皇ノ社の神宮寺だったと云う妙応寺から。<br /><br />妙応寺橋を過ぎてさらに北に進むと左手に広がるのが天智天皇陵。大化の改新で有名な中大兄皇子のお墓。667年に大津宮に遷都した後、672年に亡くなられたが、山科の郷に遠乗りに出かけ行方不明となったと云う説がある。で、この稜の辺りで沓が見つかったそうだ。<br /><br />水路が西方向に向きを変えると明治中期の建造とされる第8号橋を潜る。その先に見えてくる赤い橋が本圀寺正嫡橋。これは新しい橋で1983年竣工。橋の先にある本圀寺は鎌倉時代の1253年に日蓮が鎌倉に建立した法華堂が起源。室町時代に入り、1345年に京都の六条堀川に移転。室町幕府第15代将軍足利義昭が三好三人衆により襲撃された1569年の本圀寺の変の舞台となった。1971年に現在地へ移転。経蔵は国の重文に指定されている。<br /><br />正嫡橋で方向を北西方向に変えると潜るのは大岩橋。1924年(大正13年)に架けられた第9号橋。この橋を過ぎるとしばらく行くと再び水路は西に曲がるが、この辺りの紅葉はなかなかのもの。水路からは見えないが、この赤く色付いた紅葉の裏側辺りには栗原邸がある。染色家で京都高等工芸学校(現在の京都工繊大学)校長であった鶴巻鶴一氏の邸宅として1929年(昭和4年)に建築家の本野精吾が設計したもので、関西モダニズム建築の代表的な建物と云われる。<br /><br />カーブを曲がると山ノ谷橋。現在の橋は1903年(明治36年)7月に架橋された鉄筋コンクリート橋の第11号橋の建設データをもとに翌年に改修された日本最初のアーチ型鉄筋コンクリート橋。山ノ谷は地名から来ているが、同じく地名から封山(ふうじやま)橋とも黒岩橋とも、またその形から太鼓橋とも称される。元になった山ノ谷橋も日本で最初の鉄筋コンクリート橋梁と云われているが、その3ヶ月前に長崎に本河内底部ダム放水路橋が完成しているそうだ(23/10/15修正)。<br /><br />無量山永興寺の参道。永興寺は鎌倉時代の1254年に日本の曹洞宗の開祖・道元を偲んで弟子が結んだ永興庵が始まりで、1919年(大正8年)になってその霊場再興のために鹿ケ谷にあった自炊林を永平寺別院としてこの地に移築し、1984年に無量山永興寺になった。<br /><br />山ノ谷橋のすぐ西で第二トンネルに入る。第二トンネルは1887年(明治20年)に完成したもので、124mと短い。南に迂回してもさほどの大回りじゃない距離。船の水路にもなるので、直線で結んだようだ。<br /><br />このトンネルの両側にも扁額。東口洞門には「仁以山悦智為水歓(仁は山を以って悦び、智は水の為に歓ぶ)」。揮毫者は初代外務大臣を務めた井上馨。論語の言葉で「仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする」と云う意味。<br /><br />トンネルを抜けた西口洞門は西郷隆盛の弟で、初代海軍大臣を務めた西郷従道(つぐみち)の揮毫の「隨山到水源(山に隨(したが)い水源に到る)」。「山にそって行くと水源にたどりつく」の意味。この西口洞門は煉瓦造りの立派な門で、2018年3月から11月の京都創生PRポスター第30弾、明治150年にも使われている。<br /><br />第二トンネルを抜けるとすぐに日ノ岡取水池橋を潜る。橋の北西は元々は日ノ岡船溜だったところで、1970年に運転を開始した約4㎞南の山科勧修寺にある新山科浄水場の取水池になっている(下の写真1)。ここで第1疏水から水道水の原料となる原水を取り入れ、砂のような浮遊物を沈めたり、藻・木片のような大きなゴミを機械で取り除いた後、導水トンネルを通して浄水場に送られている。ちなみに日ノ岡とは、南北と西の三方が山に囲まれ、東だけが開けるこの地は、「日の出と共に日が当たる岡」と云う事から付けられたと云う説がある。<br /><br />その取水池の西端に架かるのが第11号橋。1903年(明治36年)に日本初の鉄筋コンクリート橋として試造された。この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されている。鉄筋コンクリートの技術は、のちに第2疏水の土木工事などに生かされた。橋の傍らには「本邦最初鐵筋混凝土橋」という文字が刻まれている碑がある(下の写真5)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4905242856212366&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />すぐに第三トンネルに入るが、続く

京都 琵琶湖疏水 山科運河 (Yamashina Canal, Biwako Canal, Kyoto, JP)

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2020/11/13 - 2020/11/13

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月13日(金)2時15分頃、びわ湖疏水船は諸羽トンネルを抜ける。出口前は少し広い新諸羽船溜となっているが、水路変更前にあった1888年(明治21年)完成の諸羽船溜の一部。船溜はこのトンネル出口から南に延びていた諸羽トンネルが開削される以前の旧水路に掛けてあった。現在は旧水路は遊歩道となり、船溜があったところは東山自然緑地となっている。諸羽トンネル東口の四ノ宮船溜に比べると広く、四ノ宮船溜は主に旅客の乗り降りに使われ、ここは物資の上げ下ろしと船頭の休憩所に使われていた。ここでもアオサギが迎えてくれた(下の写真1)。

現在の疏水は諸羽トンネルを抜けると右手(北側)に向かうが、ここから疏水船の京都側の発着点である蹴上船溜までの間は山科運河とも呼ばれる。水路はすぐに再び西に方向を変える。この辺りの両岸は普通の住宅街(下の写真2)。

左手へのカーブを進むと見えてくるのが安朱橋。第3号橋は流路変更でなくなったので、これが第4号橋。第2号橋と同じ1889年の竣工。1928年と2000年に改修が行われて現在の姿となった。この橋を北に渡って10分ほど歩くと枝垂桜が有名な毘沙門堂門跡があるため、毘沙門堂橋とも呼ばれていた。橋の名の安朱はこの辺りの地名だが、安祥寺と朱雀と云うもともとあった2つの地名が合成されたもの。

その少し西の明治中期の建造の第5号橋を過ぎると安祥寺川の上を越えるが、船に乗ってるとよく分からない(下の写真3)。左へのカーブを曲がると洛東橋。洛東高校に渡る橋。そのままの名前やね。府立洛東高校では俳優の近藤正臣さん、小林薫さんや元オセロの中島知子さんらが学んだ。私の知り合いにも卒業生いるわ。1954年創立だが、最初は京都市内の大将軍にあり、この場所に移転したのは1955年とのこと。

再び水路は右にカーブするが、この辺りはJRと京阪の山科駅のちょうど真北になる。曲がり切って西方向になったところで、安祥寺橋を潜る。第6号橋で、これも1889年に架けられた。高野山真言宗の吉祥山安祥寺に通じる橋。平安時代848年に創建された朝廷縁の定額寺。江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂があるが、非公開。

安祥寺橋の先で再び左にカーブすると水路幅が広くなる。1953年から63年まで小学校の夏休みの水泳場として利用されていた安祥寺水泳場で、元々はここも船溜だった。表紙写真にもあるが、結構距離が長いので、水泳場に向いてたように思える。

この部分、安祥寺山が南に張り出しているので、疏水はその山裾にそって南から東、そして再び北(正確には北西)に進むが、この回り込む辺りにある展望広場からは、JR東海道線の山科カーブが見渡せ、鉄ちゃんには絶好の撮影スポットになっている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4905231396213512&type=1&l=223fe1adec

U字カーブを回り切り、ちょうど安祥寺水泳場と山を挟むくらいの位置まで進むと妙応寺橋。1889年に架けられた第7号橋。橋の名前はすぐ南西に位置する飛鳥時代の天智天皇を祀った天智天皇ノ社の神宮寺だったと云う妙応寺から。

妙応寺橋を過ぎてさらに北に進むと左手に広がるのが天智天皇陵。大化の改新で有名な中大兄皇子のお墓。667年に大津宮に遷都した後、672年に亡くなられたが、山科の郷に遠乗りに出かけ行方不明となったと云う説がある。で、この稜の辺りで沓が見つかったそうだ。

水路が西方向に向きを変えると明治中期の建造とされる第8号橋を潜る。その先に見えてくる赤い橋が本圀寺正嫡橋。これは新しい橋で1983年竣工。橋の先にある本圀寺は鎌倉時代の1253年に日蓮が鎌倉に建立した法華堂が起源。室町時代に入り、1345年に京都の六条堀川に移転。室町幕府第15代将軍足利義昭が三好三人衆により襲撃された1569年の本圀寺の変の舞台となった。1971年に現在地へ移転。経蔵は国の重文に指定されている。

正嫡橋で方向を北西方向に変えると潜るのは大岩橋。1924年(大正13年)に架けられた第9号橋。この橋を過ぎるとしばらく行くと再び水路は西に曲がるが、この辺りの紅葉はなかなかのもの。水路からは見えないが、この赤く色付いた紅葉の裏側辺りには栗原邸がある。染色家で京都高等工芸学校(現在の京都工繊大学)校長であった鶴巻鶴一氏の邸宅として1929年(昭和4年)に建築家の本野精吾が設計したもので、関西モダニズム建築の代表的な建物と云われる。

カーブを曲がると山ノ谷橋。現在の橋は1903年(明治36年)7月に架橋された鉄筋コンクリート橋の第11号橋の建設データをもとに翌年に改修された日本最初のアーチ型鉄筋コンクリート橋。山ノ谷は地名から来ているが、同じく地名から封山(ふうじやま)橋とも黒岩橋とも、またその形から太鼓橋とも称される。元になった山ノ谷橋も日本で最初の鉄筋コンクリート橋梁と云われているが、その3ヶ月前に長崎に本河内底部ダム放水路橋が完成しているそうだ(23/10/15修正)。

無量山永興寺の参道。永興寺は鎌倉時代の1254年に日本の曹洞宗の開祖・道元を偲んで弟子が結んだ永興庵が始まりで、1919年(大正8年)になってその霊場再興のために鹿ケ谷にあった自炊林を永平寺別院としてこの地に移築し、1984年に無量山永興寺になった。

山ノ谷橋のすぐ西で第二トンネルに入る。第二トンネルは1887年(明治20年)に完成したもので、124mと短い。南に迂回してもさほどの大回りじゃない距離。船の水路にもなるので、直線で結んだようだ。

このトンネルの両側にも扁額。東口洞門には「仁以山悦智為水歓(仁は山を以って悦び、智は水の為に歓ぶ)」。揮毫者は初代外務大臣を務めた井上馨。論語の言葉で「仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする」と云う意味。

トンネルを抜けた西口洞門は西郷隆盛の弟で、初代海軍大臣を務めた西郷従道(つぐみち)の揮毫の「隨山到水源(山に隨(したが)い水源に到る)」。「山にそって行くと水源にたどりつく」の意味。この西口洞門は煉瓦造りの立派な門で、2018年3月から11月の京都創生PRポスター第30弾、明治150年にも使われている。

第二トンネルを抜けるとすぐに日ノ岡取水池橋を潜る。橋の北西は元々は日ノ岡船溜だったところで、1970年に運転を開始した約4㎞南の山科勧修寺にある新山科浄水場の取水池になっている(下の写真1)。ここで第1疏水から水道水の原料となる原水を取り入れ、砂のような浮遊物を沈めたり、藻・木片のような大きなゴミを機械で取り除いた後、導水トンネルを通して浄水場に送られている。ちなみに日ノ岡とは、南北と西の三方が山に囲まれ、東だけが開けるこの地は、「日の出と共に日が当たる岡」と云う事から付けられたと云う説がある。

その取水池の西端に架かるのが第11号橋。1903年(明治36年)に日本初の鉄筋コンクリート橋として試造された。この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されている。鉄筋コンクリートの技術は、のちに第2疏水の土木工事などに生かされた。橋の傍らには「本邦最初鐵筋混凝土橋」という文字が刻まれている碑がある(下の写真5)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4905242856212366&type=1&l=223fe1adec


すぐに第三トンネルに入るが、続く

  • 写真1 新諸羽船溜

    写真1 新諸羽船溜

  • 写真2 諸羽トンネル西口・安朱橋間

    写真2 諸羽トンネル西口・安朱橋間

  • 写真3 安祥寺川水路橋

    写真3 安祥寺川水路橋

  • 写真4 日ノ岡取水池

    写真4 日ノ岡取水池

  • 写真5 日本初の鉄筋コンクリート橋の碑

    写真5 日本初の鉄筋コンクリート橋の碑

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