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2020年9月18日(金)のお昼前、8月の初めに歩いた(その時の話は下記のリンク)京田辺の南部の三山木(みやまき)地区の南側を歩いた。<br />https://4travel.jp/travelogue/11638345<br /><br />前回はJRと近鉄の三山木駅の主に東側を歩いたが、今回は駅から府道22号八幡木津線を渡り、府道の西側に少し入ったところを南側に進む。最初の目的地は三寳(宝)寺。浄土宗のお寺で正式には山崎神護山三寶寺。山崎はこの辺りの地名。寺の由緒や建物の由来は全く不明。小さなお寺で、山門を抜けると小さな境内があり、正面に本堂、左手にお堂がある。まあ、何と云うことのないお寺。<br /><br />その南隣にあるのが山崎神社でこちらは由緒ある神社。明確な記録は残ってないが、古墳の上に建立されていることから、古墳を神格化したものとされる。また、現存する石灯籠の銘文から、八王子宮と山神宮と称した2社があったことが分かっている。八王子宮は八皇子社とも呼ばれ、明治以前からこの地にあった。山神宮は子授けの神として近隣の信仰を集めていたと云われ、明治20年(1887年)に社殿が現在の場所に整備された。<br /><br />この時、もとあった東側の小高い場所を掘り下げたところ7世紀前半の金環、須恵器高杯、瓦器椀、皿などと遺骨が出土し、また、発見された縄文中期の祭祀に使用された石棒がご神体として安置されている。この古墳は伝承ではあるが、6世紀の第26代継体天皇第8皇子・菟皇子の墓と云われる。日本書紀によると、この菟皇子は「酒人公の祖」とされており、酒人の地である京田辺にマッチしている。<br /><br />ご祭神は二柱あり、額田大中彦命と大友皇子。額田大中彦命は古墳時代3世紀の第15代応神天皇の皇子。母は皇后の姉であった高木之人日賣命(日本書紀では高城入姫)で、この高木も付近の地名として残っている。大友皇子(第39代弘文天皇)は7世紀の第38代天智天皇の皇子。672年の壬申の乱で叔父の大海人皇子(後の第40代天武天皇)に敗れ、山前(やまさきと読み、山崎とも書かれる)で自害したと日本書紀にあり、その地がここ山崎だという説があり、境内整備の際に祭神の変更があったと推定される。<br /><br />境内に置かれた巨石は横穴式石室の玄室天井石で、1887年の社殿整備の際に発見されたもの。この石室内部に出土品が収められていた。平安時代にも再利用されたらしい(下の写真1)。また、拝殿前の石段上部玉垣の寄進者名に新国劇の島田正吾の名前がある。彼は大阪の明星商業(現在の明星中学・高校)の出身だが、この神社との関係は不明。<br /><br />山崎神社は古墳の上に立てられていると書いたが、この山崎の丘陵には古墳が3基あり、山崎古墳群と呼ばれている。山崎神社があるのは山崎2号墳と呼ばれる。山崎1号墳は現在の山崎公民館付近にあり、多くの勾玉が見つかっている。山崎3号墳は2号墳の西南約55mにあり、権現塚と呼ばれる。長い間禁足地だったが、しばしば盗掘され石片が残るだけ。山崎神社の祭神となっている額田大中彦の墓で、奈良時代末期の宝亀年間(770-780年頃)に2号墳に遷したとの伝承が残る。また、継体天皇御陵であるとの伝承もある。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4606125889457399&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />次は山崎神社の南500m足らずのところにある念仏寺へ。南山城三十三所観音霊場の一つで通称いぼ観音。南山城三十三所観音霊場は江戸時代の中期に始まった。その後、時代とともに次第に廃れたが、江戸時代末期の1835年に復興された。明治になり、神仏分離からの廃仏毀釈と寺院の統廃合により、約半数の寺院が廃寺となったが、現在も観音本尊は別寺に移り、巡拝の方を見守っており、その20番本尊がこの念仏寺にある。<br /><br />このお寺は詳細は不明だが、敷地も建物も新しい。敷地は一段高い場所にあり、下の道から見上げると白黒の壁が見える。これは渋墨塗と云い、柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐効果があり、節目が時間がたつにつれて光沢が出ると云われ、建物の化粧として用いられている日本古来の伝統技術。また、壁の一部に白黒の絵も描かれているが何とも云えない絵(下の写真2)。境内には碾子之庭と云うきれいに整備されたお庭があり、鐘楼から見える三山木の町もいい。壁の内側の絵も面白い。<br /><br />念仏寺の壁の下の道を上がって行くと奥にあるのが芝山神社。竹藪と雑木林に囲まれて東面して鳥居が立つ。鳥居を抜けると奥に横向きに社殿が建ち、左(南)に回り込んだ処、南側の崖に向かって切妻造・平入り横長の割拝殿が建つ。拝殿の奥、ブロック塀に囲まれた中に、二間社流造・亙葺きの本殿。本殿の左に赤い鳥居をもつ小祠が南面して鎮座するが、社名・祭神名等は不明(下の写真3)。芝山神社に関しては創建由緒・時期等は全く分からない。祭神は山の神である大山津見神(大山祇神;オオヤマツミのかみ)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4606200112783310&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />三山木地区から宮津地区に続く

京都 京田辺 三山木地区南(Miyamaki South, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/09/18 - 2020/09/18

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年9月18日(金)のお昼前、8月の初めに歩いた(その時の話は下記のリンク)京田辺の南部の三山木(みやまき)地区の南側を歩いた。
https://4travel.jp/travelogue/11638345

前回はJRと近鉄の三山木駅の主に東側を歩いたが、今回は駅から府道22号八幡木津線を渡り、府道の西側に少し入ったところを南側に進む。最初の目的地は三寳(宝)寺。浄土宗のお寺で正式には山崎神護山三寶寺。山崎はこの辺りの地名。寺の由緒や建物の由来は全く不明。小さなお寺で、山門を抜けると小さな境内があり、正面に本堂、左手にお堂がある。まあ、何と云うことのないお寺。

その南隣にあるのが山崎神社でこちらは由緒ある神社。明確な記録は残ってないが、古墳の上に建立されていることから、古墳を神格化したものとされる。また、現存する石灯籠の銘文から、八王子宮と山神宮と称した2社があったことが分かっている。八王子宮は八皇子社とも呼ばれ、明治以前からこの地にあった。山神宮は子授けの神として近隣の信仰を集めていたと云われ、明治20年(1887年)に社殿が現在の場所に整備された。

この時、もとあった東側の小高い場所を掘り下げたところ7世紀前半の金環、須恵器高杯、瓦器椀、皿などと遺骨が出土し、また、発見された縄文中期の祭祀に使用された石棒がご神体として安置されている。この古墳は伝承ではあるが、6世紀の第26代継体天皇第8皇子・菟皇子の墓と云われる。日本書紀によると、この菟皇子は「酒人公の祖」とされており、酒人の地である京田辺にマッチしている。

ご祭神は二柱あり、額田大中彦命と大友皇子。額田大中彦命は古墳時代3世紀の第15代応神天皇の皇子。母は皇后の姉であった高木之人日賣命(日本書紀では高城入姫)で、この高木も付近の地名として残っている。大友皇子(第39代弘文天皇)は7世紀の第38代天智天皇の皇子。672年の壬申の乱で叔父の大海人皇子(後の第40代天武天皇)に敗れ、山前(やまさきと読み、山崎とも書かれる)で自害したと日本書紀にあり、その地がここ山崎だという説があり、境内整備の際に祭神の変更があったと推定される。

境内に置かれた巨石は横穴式石室の玄室天井石で、1887年の社殿整備の際に発見されたもの。この石室内部に出土品が収められていた。平安時代にも再利用されたらしい(下の写真1)。また、拝殿前の石段上部玉垣の寄進者名に新国劇の島田正吾の名前がある。彼は大阪の明星商業(現在の明星中学・高校)の出身だが、この神社との関係は不明。

山崎神社は古墳の上に立てられていると書いたが、この山崎の丘陵には古墳が3基あり、山崎古墳群と呼ばれている。山崎神社があるのは山崎2号墳と呼ばれる。山崎1号墳は現在の山崎公民館付近にあり、多くの勾玉が見つかっている。山崎3号墳は2号墳の西南約55mにあり、権現塚と呼ばれる。長い間禁足地だったが、しばしば盗掘され石片が残るだけ。山崎神社の祭神となっている額田大中彦の墓で、奈良時代末期の宝亀年間(770-780年頃)に2号墳に遷したとの伝承が残る。また、継体天皇御陵であるとの伝承もある。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4606125889457399&type=1&l=223fe1adec

次は山崎神社の南500m足らずのところにある念仏寺へ。南山城三十三所観音霊場の一つで通称いぼ観音。南山城三十三所観音霊場は江戸時代の中期に始まった。その後、時代とともに次第に廃れたが、江戸時代末期の1835年に復興された。明治になり、神仏分離からの廃仏毀釈と寺院の統廃合により、約半数の寺院が廃寺となったが、現在も観音本尊は別寺に移り、巡拝の方を見守っており、その20番本尊がこの念仏寺にある。

このお寺は詳細は不明だが、敷地も建物も新しい。敷地は一段高い場所にあり、下の道から見上げると白黒の壁が見える。これは渋墨塗と云い、柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐効果があり、節目が時間がたつにつれて光沢が出ると云われ、建物の化粧として用いられている日本古来の伝統技術。また、壁の一部に白黒の絵も描かれているが何とも云えない絵(下の写真2)。境内には碾子之庭と云うきれいに整備されたお庭があり、鐘楼から見える三山木の町もいい。壁の内側の絵も面白い。

念仏寺の壁の下の道を上がって行くと奥にあるのが芝山神社。竹藪と雑木林に囲まれて東面して鳥居が立つ。鳥居を抜けると奥に横向きに社殿が建ち、左(南)に回り込んだ処、南側の崖に向かって切妻造・平入り横長の割拝殿が建つ。拝殿の奥、ブロック塀に囲まれた中に、二間社流造・亙葺きの本殿。本殿の左に赤い鳥居をもつ小祠が南面して鎮座するが、社名・祭神名等は不明(下の写真3)。芝山神社に関しては創建由緒・時期等は全く分からない。祭神は山の神である大山津見神(大山祇神;オオヤマツミのかみ)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4606200112783310&type=1&l=223fe1adec


三山木地区から宮津地区に続く

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  • 写真1 山崎神社横穴式石室玄室天井石

    写真1 山崎神社横穴式石室玄室天井石

  • 写真2 念仏寺の壁画

    写真2 念仏寺の壁画

  • 写真3 芝山神社本殿横祠

    写真3 芝山神社本殿横祠

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