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2020年10月31日(土)のお昼過ぎ、市が、市内を走るバスはコロナ感染防止対策が徹底されていること、また新しい生活様式に即したバスの利用の実感のために実施した「京田辺市内路線バス無料の日」を利用してお出かけ。<br /><br />1時前、近鉄新田辺駅の西側大通りで開かれてた市民文化祭のにぎわいイベントのテント(下の写真1)で、食べるものを買って松井山手駅行の京阪バスに乗車。このバスは、新田辺駅から西の国道307号線を進み、大阪府枚方市に入ってから、再び京田辺市に戻って府境沿いを南に進んで天王地区に寄り、折り返して枚方市に戻り、北東に進んで、第二京阪を枚方東IC南で横切り、JR学研都市線(片町線)の長尾駅を経由してから、1時間ほど掛けて最後に京田辺市に戻る路線。<br /><br />15分ほどで、京田辺の天王地区に到着。京田辺市広報にあったバス無料乗車券を見せて降りようとすると枚方を通って来たので使えないと云われるが、このトラブルを予期されていたのか市役所の方が同乗されており、使えますと云ってくださる。「バス無料の日」の案内に推奨されてるところだし、ちゃんとバス会社に徹底させておいて下さいよね、市役所さん。他にも同じ券で降りられた方が2組ほどおられた(下の写真2)。<br /><br />天王地区は京田辺市の一番南の端に近い位置、生駒山地北部の山麓にある地区で、大阪府と奈良県との三国境もある。天王とは神のことで、これからお参りする朱智神社の主神である迦爾米雷(かにめいかづち)命を朱智天王と呼び、称え奉ったことから、天王の地名が生まれたと考えられている。迦爾米雷命は神功皇后の祖父といわれ、その子孫は息長氏(おきながうじ)と称していた。<br /><br />バス停から西、民家の中に続く結構急な坂道を15分ほど登って行くと立派な石垣のお宅があるが、これが神主さんのお宅らしい(下の写真3)。古そうな石灯篭が立つカーブを右に曲がると突き当りに朱智神社。一の鳥居に上がる階段の右手には樹齢200年以上のエノキが立つ。2013年に京田辺の未来に継ぐ古木・希木に選定されている。<br /><br />朱智神社は社伝によると仁徳天皇時代の381年に現在の地より西方の西峰山頂に朱智天王として創建され、535年にここ高ヶ峰と云う山の中腹に移された。701年に素盞嗚尊(スサノヲ)の神託があり、時の郡司の息長兼理が、近くの山城・大和・河内境の山(三国嶽)の頂上に宮殿を建て、それを三国天王あるいは大宝天王と称した。<br /><br />平安遷都の前年の793年に大宝天王を朱智天王と同殿で祀るようになり、その後弘法大師が来錫し、素盞嗚尊を牛頭(ごず)天王に配したので、以降牛頭天王と称するようになるが、明治維新の神仏分離で古名である朱智神社に復した。<br /><br />なお、平安中期の869年に牛頭天王を祇園の八坂郷感神院(八坂神社の前身)に遷したと云う説があり、元祇園社とも呼ばれる。八坂神社の祇園祭には、かつては7月13日に天王村の牛頭天王の氏子が奉じた榊を祇園天王社に届ける榊遷しという行事があり、その榊を受けてはじめて祇園祭の山鉾巡行が始まっていたが、今は行われていない。<br /><br />この地を根拠地としていた古代豪族の息長氏の祖神を祀る。祭神は迦爾米雷王命、素盞嗚尊命と天照國照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)命。なお、前に行ったが、ここから下に降りた東にある国宝の十一面観音立像がある観音寺の山号は息長山と云う。<br /><br />十数段の階段を上がったところに建つ一の鳥居は新しく1983年に建てられたもの。鳥居の右手に建つ明治三七三八年戦役記念碑は日露戦争の戦没者供養の碑。正面奥の朱智神社と刻まれた石は明治25年(1892年)の銘がある。<br /><br />一の鳥居を抜けて左側の、途中に朱塗りの二の鳥居が建つ長い階段を上がる。二の鳥居が建てられた年は不明だが、参道に並ぶ石灯篭に江戸時代中期の宝暦、明和、天明の銘があり、同時期に建てられたものと推測できる。<br /><br />階段を上がった手水舎や牛頭天王に因む神牛がある平場には昔は拝殿があったそうで、1963年に書かれた絵図には記されている。そこからさらに階段を上がったところが本殿。記録によると1181年に焼失し1256年に再建、1352年にも焼失し1394年再建、さらに1521年の再建のあと、現在の社殿が江戸時代初めの1612年に建てられた。2002年から04年に1年半掛けて屋根の葺き替えと彩色復元の修復事業が行われた。<br /><br />本殿は一間社流造 屋根は桧皮葺で、向拝の木鼻の表には牡丹、裏には狐を彫り出し、正面蟇股には唐獅子や牡丹など桃山様式の華麗な彫刻が多く見られる。京都府登録文化財に指定されている。これは本当に素晴らしい。なお、本殿内には、京都府指定文化財の牛頭天王の神像が安置されている。頭上に牛頭をいただき、忿怒の表情をもつ三面の顔を持つ唐様装束の一木造の像で、藤原時代後期の作と称され、類例の少ないもの。<br /><br />社殿の左右に末社13社の小祠が並ぶ。向かって左側が朱塗りでやや大きい住吉神社から奥に大高神社、三社神社、朝日神社、大土神社、白山神社、稲生神社と並ぶ。右側がやや大きい天津神社から奥に皇大神宮、春日神社、鎮火神社、祈雨神社、金神社。いずれも、その鎮座由緒・年代などは不明。<br /><br />1時半を過ぎて遅くなったが、本殿横の元は参向殿であった社務所の縁側で駅前で買ってきた巻寿司や唐揚げ、コロッケの昼食(下の写真4)。<br /><br />戻り道、バス停と神社の間にあった極楽寺に立ち寄る。浄土宗知恩院派の寺院で、号は天王山。鎌倉時代の、快慶の弟子、行快作と云われる阿弥陀如来像をご本尊とする。鎌倉時代の嘉暦年間(1326~1328年)に仏念和尚によって開山、江戸時代初期の1641年に第一代生誉上人が中興。<br /><br />中には入ってないが、本堂は元々は江戸時代に修復された茅葺、平屋建の建物であったが老朽化のため、2006年に新築された。本堂前にある石造塔婆は表面上部に阿弥陀三尊の種子を表し、鎌倉時代の正中2年(1325年)の年号が刻まれている。また、国の重要美術文化財に指定された九重石塔もある。高さ3.3mで花崗岩で作られている。室町時代中期の寛正5年(1464年)の造立銘が残っているが、一番上の石は後年に付けられたもの。<br /><br />お寺の前からは木津川を挟んだ井手町の玉水辺りがよく見える。天王から新田辺に戻るバスはもうないので、そのまま下の水取まで歩いて降りる。古い記録に日本神話に登場する饒速日(にぎはやひ)命の六世の孫の古代日本の豪族・物部氏の祖、伊香我色乎(いかがしこお)命の子孫である左京神別水取連(もいとりのむらじ)がここに居住し、昔からこの辺り水は上質で、その水を管理する水取司の任にあたったことが記されており、水取の地名もここから生まれたと考えられている。1889年(明治22年)まで水取村で、町村制の施行により普賢寺村となった(その後1951年に田辺町に編入され消滅した)。<br /><br />30分も掛からずに水取集落に到着。集落の手前に夢告地蔵尊があったが、詳細は不明。水取のバス停の近くに水取司遺跡の碑がある。また、近くの普賢寺小学校は小規模特認校制度を採用しており、小規模で自然に恵まれた環境の中で教育活動が営まれている。市内のどこからでも入学・転校出来、人気だそうで、うちの近所のお子さんも通われてた(下の写真5)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4863876520349000&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />3時前、帰りも「バス無料の日」を利用して、今度は奈良交通のバスに乗り、三山木駅で1本乗り継いで帰宅。<br /><br /><br />以上

京田辺 天王 朱智神社(Shuchi-jinja Shrine, Tenno, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/10/31 - 2020/10/31

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年10月31日(土)のお昼過ぎ、市が、市内を走るバスはコロナ感染防止対策が徹底されていること、また新しい生活様式に即したバスの利用の実感のために実施した「京田辺市内路線バス無料の日」を利用してお出かけ。

1時前、近鉄新田辺駅の西側大通りで開かれてた市民文化祭のにぎわいイベントのテント(下の写真1)で、食べるものを買って松井山手駅行の京阪バスに乗車。このバスは、新田辺駅から西の国道307号線を進み、大阪府枚方市に入ってから、再び京田辺市に戻って府境沿いを南に進んで天王地区に寄り、折り返して枚方市に戻り、北東に進んで、第二京阪を枚方東IC南で横切り、JR学研都市線(片町線)の長尾駅を経由してから、1時間ほど掛けて最後に京田辺市に戻る路線。

15分ほどで、京田辺の天王地区に到着。京田辺市広報にあったバス無料乗車券を見せて降りようとすると枚方を通って来たので使えないと云われるが、このトラブルを予期されていたのか市役所の方が同乗されており、使えますと云ってくださる。「バス無料の日」の案内に推奨されてるところだし、ちゃんとバス会社に徹底させておいて下さいよね、市役所さん。他にも同じ券で降りられた方が2組ほどおられた(下の写真2)。

天王地区は京田辺市の一番南の端に近い位置、生駒山地北部の山麓にある地区で、大阪府と奈良県との三国境もある。天王とは神のことで、これからお参りする朱智神社の主神である迦爾米雷(かにめいかづち)命を朱智天王と呼び、称え奉ったことから、天王の地名が生まれたと考えられている。迦爾米雷命は神功皇后の祖父といわれ、その子孫は息長氏(おきながうじ)と称していた。

バス停から西、民家の中に続く結構急な坂道を15分ほど登って行くと立派な石垣のお宅があるが、これが神主さんのお宅らしい(下の写真3)。古そうな石灯篭が立つカーブを右に曲がると突き当りに朱智神社。一の鳥居に上がる階段の右手には樹齢200年以上のエノキが立つ。2013年に京田辺の未来に継ぐ古木・希木に選定されている。

朱智神社は社伝によると仁徳天皇時代の381年に現在の地より西方の西峰山頂に朱智天王として創建され、535年にここ高ヶ峰と云う山の中腹に移された。701年に素盞嗚尊(スサノヲ)の神託があり、時の郡司の息長兼理が、近くの山城・大和・河内境の山(三国嶽)の頂上に宮殿を建て、それを三国天王あるいは大宝天王と称した。

平安遷都の前年の793年に大宝天王を朱智天王と同殿で祀るようになり、その後弘法大師が来錫し、素盞嗚尊を牛頭(ごず)天王に配したので、以降牛頭天王と称するようになるが、明治維新の神仏分離で古名である朱智神社に復した。

なお、平安中期の869年に牛頭天王を祇園の八坂郷感神院(八坂神社の前身)に遷したと云う説があり、元祇園社とも呼ばれる。八坂神社の祇園祭には、かつては7月13日に天王村の牛頭天王の氏子が奉じた榊を祇園天王社に届ける榊遷しという行事があり、その榊を受けてはじめて祇園祭の山鉾巡行が始まっていたが、今は行われていない。

この地を根拠地としていた古代豪族の息長氏の祖神を祀る。祭神は迦爾米雷王命、素盞嗚尊命と天照國照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)命。なお、前に行ったが、ここから下に降りた東にある国宝の十一面観音立像がある観音寺の山号は息長山と云う。

十数段の階段を上がったところに建つ一の鳥居は新しく1983年に建てられたもの。鳥居の右手に建つ明治三七三八年戦役記念碑は日露戦争の戦没者供養の碑。正面奥の朱智神社と刻まれた石は明治25年(1892年)の銘がある。

一の鳥居を抜けて左側の、途中に朱塗りの二の鳥居が建つ長い階段を上がる。二の鳥居が建てられた年は不明だが、参道に並ぶ石灯篭に江戸時代中期の宝暦、明和、天明の銘があり、同時期に建てられたものと推測できる。

階段を上がった手水舎や牛頭天王に因む神牛がある平場には昔は拝殿があったそうで、1963年に書かれた絵図には記されている。そこからさらに階段を上がったところが本殿。記録によると1181年に焼失し1256年に再建、1352年にも焼失し1394年再建、さらに1521年の再建のあと、現在の社殿が江戸時代初めの1612年に建てられた。2002年から04年に1年半掛けて屋根の葺き替えと彩色復元の修復事業が行われた。

本殿は一間社流造 屋根は桧皮葺で、向拝の木鼻の表には牡丹、裏には狐を彫り出し、正面蟇股には唐獅子や牡丹など桃山様式の華麗な彫刻が多く見られる。京都府登録文化財に指定されている。これは本当に素晴らしい。なお、本殿内には、京都府指定文化財の牛頭天王の神像が安置されている。頭上に牛頭をいただき、忿怒の表情をもつ三面の顔を持つ唐様装束の一木造の像で、藤原時代後期の作と称され、類例の少ないもの。

社殿の左右に末社13社の小祠が並ぶ。向かって左側が朱塗りでやや大きい住吉神社から奥に大高神社、三社神社、朝日神社、大土神社、白山神社、稲生神社と並ぶ。右側がやや大きい天津神社から奥に皇大神宮、春日神社、鎮火神社、祈雨神社、金神社。いずれも、その鎮座由緒・年代などは不明。

1時半を過ぎて遅くなったが、本殿横の元は参向殿であった社務所の縁側で駅前で買ってきた巻寿司や唐揚げ、コロッケの昼食(下の写真4)。

戻り道、バス停と神社の間にあった極楽寺に立ち寄る。浄土宗知恩院派の寺院で、号は天王山。鎌倉時代の、快慶の弟子、行快作と云われる阿弥陀如来像をご本尊とする。鎌倉時代の嘉暦年間(1326~1328年)に仏念和尚によって開山、江戸時代初期の1641年に第一代生誉上人が中興。

中には入ってないが、本堂は元々は江戸時代に修復された茅葺、平屋建の建物であったが老朽化のため、2006年に新築された。本堂前にある石造塔婆は表面上部に阿弥陀三尊の種子を表し、鎌倉時代の正中2年(1325年)の年号が刻まれている。また、国の重要美術文化財に指定された九重石塔もある。高さ3.3mで花崗岩で作られている。室町時代中期の寛正5年(1464年)の造立銘が残っているが、一番上の石は後年に付けられたもの。

お寺の前からは木津川を挟んだ井手町の玉水辺りがよく見える。天王から新田辺に戻るバスはもうないので、そのまま下の水取まで歩いて降りる。古い記録に日本神話に登場する饒速日(にぎはやひ)命の六世の孫の古代日本の豪族・物部氏の祖、伊香我色乎(いかがしこお)命の子孫である左京神別水取連(もいとりのむらじ)がここに居住し、昔からこの辺り水は上質で、その水を管理する水取司の任にあたったことが記されており、水取の地名もここから生まれたと考えられている。1889年(明治22年)まで水取村で、町村制の施行により普賢寺村となった(その後1951年に田辺町に編入され消滅した)。

30分も掛からずに水取集落に到着。集落の手前に夢告地蔵尊があったが、詳細は不明。水取のバス停の近くに水取司遺跡の碑がある。また、近くの普賢寺小学校は小規模特認校制度を採用しており、小規模で自然に恵まれた環境の中で教育活動が営まれている。市内のどこからでも入学・転校出来、人気だそうで、うちの近所のお子さんも通われてた(下の写真5)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4863876520349000&type=1&l=223fe1adec

3時前、帰りも「バス無料の日」を利用して、今度は奈良交通のバスに乗り、三山木駅で1本乗り継いで帰宅。


以上

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  • 写真1 市民文化祭にぎわいイベント

    写真1 市民文化祭にぎわいイベント

  • 写真2 天王バス停

    写真2 天王バス停

  • 写真3 朱智神社の神主さんのお宅

    写真3 朱智神社の神主さんのお宅

  • 写真4 朱智神社での昼食

    写真4 朱智神社での昼食

  • 写真5 普賢寺小学校

    写真5 普賢寺小学校

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