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京田辺には神功皇后伝説にまつわる場所が多く残っている。以前酒屋神社に関する話を書いた(https://4travel.jp/travelogue/11622713 )が、鉾立の松と鉾立の杉、さらにその間にある不違(たがわず)の池も神功皇后の三韓征伐に関する伝説の場所。<br /><br />田辺公園の東、国道307号線と府道との交差点の南西角にあるのが鉾立の松で、JR片町線同志社前駅と府道を挟んだ向かい、よつ葉CAFEの南にあるのが鉾立の杉。古事記と日本書紀に神功皇后の軍勢がここを通る時にこの松と杉の間に整列したとあり、行列の先頭と最後の鉾を立てかけた木とされる。鉾立の松は「はらまつ」と呼ばれていたが、昭和20年代に枯死し、新たに植えられたもの。鉾立の杉も古くは松だったが、いつの頃からか杉に変わり、村人たちは注連縄を巡らし大切にしてきたと云われる。現在は三代目の杉が植えられている。若くてしょぼい。<br /><br />2つの木の間は約1.1㎞あり、地名にも北鉾立、南鉾立として残っている。鉾立の杉が先頭で、鉾立の松が行列の最後と書かれているサイトがいくつかあるが、三韓征伐に向かう時の話と考えられるので、反対と考えた方がリーズナブルではないかな。大和の国が出発地であり、この奈良街道とも呼ばれた道は、古代には太宰府に通じる山陽道で、木津川沿いから生駒山地を回り込んで難波(大阪)方向に続いていた。<br /><br />この2つの木はそれぞれ興戸と田辺の境、興戸と高木の境にあり、間には奈良時代(8世紀)の役所であった郡衙(ぐんが)跡と考えれる興戸遺跡があることから、これらは境界を示す木であった可能性が高く、伝説に後付けされたとも云われている。また、なんらかの祭祀が行われていた場所ではとの説もある。いずれにせよ、遥か昔の街道沿いに高くそびえるこれらの木は格好の目印になっていただろう。<br /><br />不違の池は同じく三韓征伐に向かう皇后が髪を洗い清めて信託を受け、帰りにも必ず立ち寄ることを約束し、その約束を守ったので、「たがわずの池」と呼ばれるようになった。石碑の横にある巨石は、皇后が座った石で、御床の石、通称「とこいし」と呼ばれる。今の池は正直、全然きれいじゃないので、髪は洗わないよな。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4091419527594707&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />さて、三韓征伐は古事記、日本書紀に記載されている2世紀末の西暦200年に神功皇后が当時、朝鮮半島にあった新羅・高句麗・百済の3国に侵攻した事件。この侵攻に関しては朝鮮の史書や碑文などにも記されており、時期については諸説あるが、決してフィクションではないようだ。<br /><br />男装した神功皇后が自ら将軍となり軍を率いて渡海するのだが、風の神、波の神、そして大小の魚が寄り集まって船の進行を助け、帆船は舵や櫂を労せずたちまち到着、新羅の王は、この勢いに圧倒され、戦わずして降参。さらに神功皇后は百済、高句麗も帰順させ、三韓征伐を成し遂げるというお話。京田辺に残る神功皇后伝説は、この戦いに大和の国から向かう時のものが多い。<br /><br />この三韓征伐だが、朝廷によって計画的に行われたものではない。神功皇后の夫、日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2子であった第14代仲哀天皇が朝廷に抵抗する九州の熊襲(くまそ)討伐に出掛けた時に、神と交感する能力を持っていた皇后に「熊襲より朝鮮の新羅を帰服させよ」との神託が降りる。しかし、仲哀天皇はこれに従わず、熊襲征討を続けるが失敗、帰還後に52歳で崩御する。皇后はその死を秘し、神の信託に従い行ったのがこの征伐だった。<br /><br />この三韓征伐には、もうひとつ神功皇后のすごさを物語る逸話がある。実は皇后、崩御した天皇の御子(のちの第15代応神天皇)を宿したまま朝鮮へと出向いており、臨月を迎えた時には、腹に月延石(つきのべのいし)や鎮懐石(ちんかいせき)と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされている。そして、帰還した後、筑紫の地(今の福岡県)で応神天皇を出産したそうだ。現在、この石は、京都の月読神社、福岡県糸島の鎮懐石八幡宮、そして壱岐の本宮八幡神社に祀られている。<br /><br />神功皇后はその後、大和でその御子を皇太子に立てて後見し、反乱の企てを制圧しながら大和王権を確立していったと伝わるが、その支配は100歳で亡くなるまで69年間に及んだそうだ。<br /><br />明治14年(1881年)、日本で本格的な肖像入りの紙幣が登場した際、それに使われた最初の人物が神功皇后。明治から太平洋戦争敗戦までは教科書にも掲載され、実在の人物として教えられていた。しかし、多くの神がかった逸話は事実とは考えにくいとして、現在では神功皇后の存在自体も実在説と非実在説が並存している状態。<br /><br />神功皇后の通過伝説は、京田辺から相楽郡にかけて多いのだが、これはこの辺りを古くから支配していた豪族の息長氏(おきながうじ)によって伝承されて来たものと考えられている。息長氏は現在の米原辺りに本拠を置いていたが、それ以前に南山城で勢力を持っていた。7世紀後半に創建されたと伝えられる国宝の十一面観音立像が残る大御堂観音寺の山号は息長山であり、4世紀に創建されたと云う京田辺市南西部にある天王区の朱智神社は息長氏の祖神を祀っている。そして、神功皇后の父が、息長氏の息長宿禰王(おきながすくねおう)。<br /><br />神功皇后の逸話が多く残っているのは古事記と日本書紀で、記紀と呼ばれる古代日本の二大歴史書。古事記が712年成立で、日本書紀が720年成立。編纂を命じたのはともに天武天皇。記紀は主となる資料が同じであり、重複する内容も多々あるが、その性格には少し違いがある。<br /><br />主に国内向けに天皇家を中心とする国家統一の正当性を訴えるために作られたのが古事記で、国外に国家としての日本をアピールする目的で、帝紀や旧辞だけでなく豪族の墓記や政府の公的記録、個人の手記や覚書、海外(主に百済)の文献など、その他多くの資料を参考に作られたのが日本書紀。そのため、古事記は物語風でどちらかと言うとドラマチックな書き方がされており、一方の日本書紀は「日本の正史」という扱いで淡々と記されている。と書いているが、読んだことないよねえ・・・<br /><br /><br />以上

京田辺 神功皇后伝説(Legend of Empress Jingu, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/06/03 - 2020/06/03

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ちふゆ

ちふゆさん

京田辺には神功皇后伝説にまつわる場所が多く残っている。以前酒屋神社に関する話を書いた(https://4travel.jp/travelogue/11622713 )が、鉾立の松と鉾立の杉、さらにその間にある不違(たがわず)の池も神功皇后の三韓征伐に関する伝説の場所。

田辺公園の東、国道307号線と府道との交差点の南西角にあるのが鉾立の松で、JR片町線同志社前駅と府道を挟んだ向かい、よつ葉CAFEの南にあるのが鉾立の杉。古事記と日本書紀に神功皇后の軍勢がここを通る時にこの松と杉の間に整列したとあり、行列の先頭と最後の鉾を立てかけた木とされる。鉾立の松は「はらまつ」と呼ばれていたが、昭和20年代に枯死し、新たに植えられたもの。鉾立の杉も古くは松だったが、いつの頃からか杉に変わり、村人たちは注連縄を巡らし大切にしてきたと云われる。現在は三代目の杉が植えられている。若くてしょぼい。

2つの木の間は約1.1㎞あり、地名にも北鉾立、南鉾立として残っている。鉾立の杉が先頭で、鉾立の松が行列の最後と書かれているサイトがいくつかあるが、三韓征伐に向かう時の話と考えられるので、反対と考えた方がリーズナブルではないかな。大和の国が出発地であり、この奈良街道とも呼ばれた道は、古代には太宰府に通じる山陽道で、木津川沿いから生駒山地を回り込んで難波(大阪)方向に続いていた。

この2つの木はそれぞれ興戸と田辺の境、興戸と高木の境にあり、間には奈良時代(8世紀)の役所であった郡衙(ぐんが)跡と考えれる興戸遺跡があることから、これらは境界を示す木であった可能性が高く、伝説に後付けされたとも云われている。また、なんらかの祭祀が行われていた場所ではとの説もある。いずれにせよ、遥か昔の街道沿いに高くそびえるこれらの木は格好の目印になっていただろう。

不違の池は同じく三韓征伐に向かう皇后が髪を洗い清めて信託を受け、帰りにも必ず立ち寄ることを約束し、その約束を守ったので、「たがわずの池」と呼ばれるようになった。石碑の横にある巨石は、皇后が座った石で、御床の石、通称「とこいし」と呼ばれる。今の池は正直、全然きれいじゃないので、髪は洗わないよな。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4091419527594707&type=1&l=223fe1adec


さて、三韓征伐は古事記、日本書紀に記載されている2世紀末の西暦200年に神功皇后が当時、朝鮮半島にあった新羅・高句麗・百済の3国に侵攻した事件。この侵攻に関しては朝鮮の史書や碑文などにも記されており、時期については諸説あるが、決してフィクションではないようだ。

男装した神功皇后が自ら将軍となり軍を率いて渡海するのだが、風の神、波の神、そして大小の魚が寄り集まって船の進行を助け、帆船は舵や櫂を労せずたちまち到着、新羅の王は、この勢いに圧倒され、戦わずして降参。さらに神功皇后は百済、高句麗も帰順させ、三韓征伐を成し遂げるというお話。京田辺に残る神功皇后伝説は、この戦いに大和の国から向かう時のものが多い。

この三韓征伐だが、朝廷によって計画的に行われたものではない。神功皇后の夫、日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2子であった第14代仲哀天皇が朝廷に抵抗する九州の熊襲(くまそ)討伐に出掛けた時に、神と交感する能力を持っていた皇后に「熊襲より朝鮮の新羅を帰服させよ」との神託が降りる。しかし、仲哀天皇はこれに従わず、熊襲征討を続けるが失敗、帰還後に52歳で崩御する。皇后はその死を秘し、神の信託に従い行ったのがこの征伐だった。

この三韓征伐には、もうひとつ神功皇后のすごさを物語る逸話がある。実は皇后、崩御した天皇の御子(のちの第15代応神天皇)を宿したまま朝鮮へと出向いており、臨月を迎えた時には、腹に月延石(つきのべのいし)や鎮懐石(ちんかいせき)と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされている。そして、帰還した後、筑紫の地(今の福岡県)で応神天皇を出産したそうだ。現在、この石は、京都の月読神社、福岡県糸島の鎮懐石八幡宮、そして壱岐の本宮八幡神社に祀られている。

神功皇后はその後、大和でその御子を皇太子に立てて後見し、反乱の企てを制圧しながら大和王権を確立していったと伝わるが、その支配は100歳で亡くなるまで69年間に及んだそうだ。

明治14年(1881年)、日本で本格的な肖像入りの紙幣が登場した際、それに使われた最初の人物が神功皇后。明治から太平洋戦争敗戦までは教科書にも掲載され、実在の人物として教えられていた。しかし、多くの神がかった逸話は事実とは考えにくいとして、現在では神功皇后の存在自体も実在説と非実在説が並存している状態。

神功皇后の通過伝説は、京田辺から相楽郡にかけて多いのだが、これはこの辺りを古くから支配していた豪族の息長氏(おきながうじ)によって伝承されて来たものと考えられている。息長氏は現在の米原辺りに本拠を置いていたが、それ以前に南山城で勢力を持っていた。7世紀後半に創建されたと伝えられる国宝の十一面観音立像が残る大御堂観音寺の山号は息長山であり、4世紀に創建されたと云う京田辺市南西部にある天王区の朱智神社は息長氏の祖神を祀っている。そして、神功皇后の父が、息長氏の息長宿禰王(おきながすくねおう)。

神功皇后の逸話が多く残っているのは古事記と日本書紀で、記紀と呼ばれる古代日本の二大歴史書。古事記が712年成立で、日本書紀が720年成立。編纂を命じたのはともに天武天皇。記紀は主となる資料が同じであり、重複する内容も多々あるが、その性格には少し違いがある。

主に国内向けに天皇家を中心とする国家統一の正当性を訴えるために作られたのが古事記で、国外に国家としての日本をアピールする目的で、帝紀や旧辞だけでなく豪族の墓記や政府の公的記録、個人の手記や覚書、海外(主に百済)の文献など、その他多くの資料を参考に作られたのが日本書紀。そのため、古事記は物語風でどちらかと言うとドラマチックな書き方がされており、一方の日本書紀は「日本の正史」という扱いで淡々と記されている。と書いているが、読んだことないよねえ・・・


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