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2020年4月30日(木)、玉川堤の山吹を見に行く途中で京田辺の飯岡(いのおか)地区にある咋岡(くいおか)神社に立ち寄った。飯岡地区は木津川中流左岸、南山城平野の中央部にある一辺500mほどの方形台地、飯岡丘陵にある地区。この丘陵は木津川が北上する際、蛇行浸食していく過程で、周りを川の浸食により削りとられてできた丘陵の一種、平野部にあるものとしてはたいへん珍しいものらしい。<br /><br />古くは馬咋山(うまくひやま)あるいは馬咋岡と記され、万葉集に「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり(春草を馬が咋(は)んでいる山を通って越えて来る雁のように、気になる人からの使者が来て帰って行ったの意)」と云う柿本人麻呂の歌がある。それから「馬」が省略されて咋岡になり、さらに「く」が略されて「飯岡(ひおか/いおか)」になり、「飯岡(いのおか)」に転じたようだ。<br /><br />それとは別の昔話もある。8世紀、奈良時代中期、大雨の際に落雷で木津川上流の笠置渓谷の大きな岩が2つに割れ、一つは現在のJR関西本線加茂駅の対岸、当時恭仁京が置かれた加茂町の瓶原(みかのはら)に、もう一つがこの辺りまで流れ着いた。離れ離れになった大岩は互いに恋しがり、田辺の岩からは「いのか=山城弁で帰ろうかの意」と叫ぶ声が聞こえたそうだ。その岩が現在の飯岡丘陵で「いのか」と呼ばれるようになり、それが時代を経て、飯岡(いのおか)になったと云うもの。話としては面白い。<br /><br />飯岡丘陵には古墳時代に築造された飯岡古墳群(薬師山古墳、飯岡車塚古墳など)が残るように古くから人々が居住し開拓していた。また、東側の木津川には飯岡の渡し跡が、南西方には奈良時代から平安時代中期まで都と各地の国府を結ぶ道路に約16キロごとに設けられた駅家であった山本駅の跡があり、古くから開けた土地で、古代交通の要衝だったことが分かる。<br /><br />咋岡神社は飯岡丘陵の南東部、飯岡の渡し跡に近いところにある。創建・由緒の詳細は不明だが、かつては現在地の約1㎞北方、普賢寺川が木津川河川敷に流れ込む辺り、現在は草内宮ケ森と呼ばれるところに稲を司る神である宇賀乃御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る神社として置かれ、江戸時代中期の1695年の木津川の氾濫によりに現在地へ遷座し、菅原道真を新たに勧請して祀ったと伝えられる。なお、氾濫は15世紀前半、室町時代との説もある。遷座以降は天神、あるいは天神宮や天満宮と呼ばれていたが、明治6年(1873年)に村社となり、明治10年(1877年)に延喜式内咋岡神社と決定、今の社名に改められた。<br /><br />丘陵の南東部を南北に走る道の西側の低い石段を上がると鳥居があり、境内が広がる。境内の正面に間口五間・奥行二間と横長で瓦葺きの拝殿。南山城地方に多い中を通り抜ける割拝殿。拝殿内の軒下に、額の中に一升桝(一生益)と呼ばれる穀物を計量する舛を飾った絵馬が数多く奉納されているが、すべて米寿の人からの奉納。私たちは地の人間じゃないので詳しくは分からないが、この辺りの風習らしい。<br /><br />その奥に本殿が東面して鎮座。本殿は一間社流造、方一間で銅板葺。明治に至るまでに何度も改修が行われた記録(棟札)が残されており、当初の建築様式は留めていない。本殿の左右には伊勢社、八幡社、厳島社の3末社がある(下の写真1)。社務所は無人。<br /><br />境内石段の南には「京都の自然200選」に選定されているシイの巨木、スダジイがある(下の写真2)。また、かつてはこの丘陵地に「七井戸(飯岡七水)」があったと伝えられており、境内の北に大規模な井戸跡がある。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.3945485032188158&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上

京田辺 飯岡 咋岡神社(Kuioka Shrine, Inooka, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/04/30 - 2020/04/30

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年4月30日(木)、玉川堤の山吹を見に行く途中で京田辺の飯岡(いのおか)地区にある咋岡(くいおか)神社に立ち寄った。飯岡地区は木津川中流左岸、南山城平野の中央部にある一辺500mほどの方形台地、飯岡丘陵にある地区。この丘陵は木津川が北上する際、蛇行浸食していく過程で、周りを川の浸食により削りとられてできた丘陵の一種、平野部にあるものとしてはたいへん珍しいものらしい。

古くは馬咋山(うまくひやま)あるいは馬咋岡と記され、万葉集に「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり(春草を馬が咋(は)んでいる山を通って越えて来る雁のように、気になる人からの使者が来て帰って行ったの意)」と云う柿本人麻呂の歌がある。それから「馬」が省略されて咋岡になり、さらに「く」が略されて「飯岡(ひおか/いおか)」になり、「飯岡(いのおか)」に転じたようだ。

それとは別の昔話もある。8世紀、奈良時代中期、大雨の際に落雷で木津川上流の笠置渓谷の大きな岩が2つに割れ、一つは現在のJR関西本線加茂駅の対岸、当時恭仁京が置かれた加茂町の瓶原(みかのはら)に、もう一つがこの辺りまで流れ着いた。離れ離れになった大岩は互いに恋しがり、田辺の岩からは「いのか=山城弁で帰ろうかの意」と叫ぶ声が聞こえたそうだ。その岩が現在の飯岡丘陵で「いのか」と呼ばれるようになり、それが時代を経て、飯岡(いのおか)になったと云うもの。話としては面白い。

飯岡丘陵には古墳時代に築造された飯岡古墳群(薬師山古墳、飯岡車塚古墳など)が残るように古くから人々が居住し開拓していた。また、東側の木津川には飯岡の渡し跡が、南西方には奈良時代から平安時代中期まで都と各地の国府を結ぶ道路に約16キロごとに設けられた駅家であった山本駅の跡があり、古くから開けた土地で、古代交通の要衝だったことが分かる。

咋岡神社は飯岡丘陵の南東部、飯岡の渡し跡に近いところにある。創建・由緒の詳細は不明だが、かつては現在地の約1㎞北方、普賢寺川が木津川河川敷に流れ込む辺り、現在は草内宮ケ森と呼ばれるところに稲を司る神である宇賀乃御魂神(うかのみたまのかみ)を祀る神社として置かれ、江戸時代中期の1695年の木津川の氾濫によりに現在地へ遷座し、菅原道真を新たに勧請して祀ったと伝えられる。なお、氾濫は15世紀前半、室町時代との説もある。遷座以降は天神、あるいは天神宮や天満宮と呼ばれていたが、明治6年(1873年)に村社となり、明治10年(1877年)に延喜式内咋岡神社と決定、今の社名に改められた。

丘陵の南東部を南北に走る道の西側の低い石段を上がると鳥居があり、境内が広がる。境内の正面に間口五間・奥行二間と横長で瓦葺きの拝殿。南山城地方に多い中を通り抜ける割拝殿。拝殿内の軒下に、額の中に一升桝(一生益)と呼ばれる穀物を計量する舛を飾った絵馬が数多く奉納されているが、すべて米寿の人からの奉納。私たちは地の人間じゃないので詳しくは分からないが、この辺りの風習らしい。

その奥に本殿が東面して鎮座。本殿は一間社流造、方一間で銅板葺。明治に至るまでに何度も改修が行われた記録(棟札)が残されており、当初の建築様式は留めていない。本殿の左右には伊勢社、八幡社、厳島社の3末社がある(下の写真1)。社務所は無人。

境内石段の南には「京都の自然200選」に選定されているシイの巨木、スダジイがある(下の写真2)。また、かつてはこの丘陵地に「七井戸(飯岡七水)」があったと伝えられており、境内の北に大規模な井戸跡がある。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.3945485032188158&type=1&l=223fe1adec


以上

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