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2020年9月18日(金)のお昼前、京田辺市の東南部、三山木地区から宮津地区に入る。宮津地区は1888年(明治21年)に制定された町村制により三山木(みやまき)村に吸収されるまでは宮津村だった。宮津村は1876年(明治9年)に宮口村と江津村が合併して誕生した村で、それぞれの村の1字ずつを取って命名されたようだ。宮ノ口と江津は今でも近鉄宮津駅に近い府道のバス停の名に残る。なお、三山木村は1951年(昭和26年)に田辺町(現京田辺市)に編入された。<br /><br />宮津地区には近鉄宮津駅があるが、この駅は1993年に輸送力強化のために開設された宮津車庫に隣接しており、当時の田辺町の要望により地域住民の利便性向上のために車庫開設の半年後に開業した。その際、京都府北西部の宮津市にある京都丹後鉄道(当時は北近畿タンゴ鉄道)の宮津駅(元々は国鉄宮津線の駅として1924年(大正13年)開業)との混同を避けるために近鉄の冠称が付けられた。午前中に近鉄京都駅から宮津行の急行が数本あり、20年ほど前京田辺に引っ越した時に、どうやって日本海側まで行くのか不思議に思ったものだ。<br /><br />三山木地区の芝山神社、念佛寺から東南東に進むと、遠藤川沿いの道に出るが、この道は三山木の府道22号八幡木津線と同志社山手の山手幹線をつなぐ道で、近年整備された新しい道。この道と府道に囲まれたところに京田辺市立の三山木小学校がある。明治6年(1873年)に山本小学校として開校した現在の京田辺市で一番古い3つの小学校の一つ。私の出た広島の小学校はその1年前に開校してるので、勝った(?)。2017年に大規模改修工事が終了し、現在は校舎の大部分が新しくなっている。<br /><br />府道を南に進み、小学校の前を過ぎると立派な石の鳥居がある。佐牙(さが)神社の一の鳥居。神社名の佐牙はかつては佐牙乃とも書かれ、「さがの、さかの、さけの、さめの」とも読まれた。また「さか、なさ」とも称され、田辺町史所載の近世古絵図には佐賀天神宮とある(注記で東朱智社ともある)。江戸時代には産土神として天神宮又は吉田明神と称され、斎主神(いわいぬしのかみ)を祀る若松明神とも称されていた。<br /><br />社伝によると飛鳥時代の573年に第30代敏達天皇の勅により咋岡(くいおか)ノ山本に創建。三山木駅の東、玉水橋の手前北側の畑の中に大神宮跡の案内板があり、ここが旧跡と説明されている。現在地に移転したのは、平安京のスタートの年794年とも、室町時代の永享年間(1429年から1441年)とも云われる。その後、1509年に土地争いの兵火により本殿を焼失し、1514年に再建されるが、安土桃山時代の1576年に再び焼失。1585年に再建された。<br /><br />現在は北殿に佐牙(佐賀)弥豆(彌豆)男神(さがみづをのかみ)、南殿に佐牙弥豆女神(さがみづめのかみ)と天津神吉田大明神を祀っている。古事記に大陸からの渡来人兄弟が酒造りを行ったとあり、それに関連して佐牙弥豆男神と佐牙弥豆女神がこの神社に祀られ、造酒の神として、毎年、大内造酒司の官人が幣帛を捧る神社となったようだ。佐牙は「さけ」と読み、酒を意味するとも云う。<br /><br />傍らに「式内佐牙神社」の石標が立つ一の鳥居を抜けて西に進むと、朱塗りの二の鳥居が立ち、やや急な石段に続く。石段は大きく2つに別れ、中間にちょっとした平場があるが、ここに明治元年(1868年)に出された神仏分離令後の廃仏毀釈により廃寺となった神宮寺の恵日寺(えにちじ)があった(下の写真1)。<br /><br />恵日寺のご本尊の南北朝時代の不動明王像や平安時代の五大明王脇立の降三世明王と金剛夜叉明王、観音堂にあった千手観音立像に大般若経300巻は三山木駅の東にある寿宝寺に移された。ここは私たちもこの8月に行ったところ( https://4travel.jp/travelogue/11638345 )。大般若経は600巻あったものの半分で、残りは後に寄る正福寺に移されたそうだが、ご本尊と大威徳明王像・軍茶利(ぐんだり)明王像も正福寺に移されたとしているサイトもある。<br /><br />石段を登り切ると広い境内に出る。正面に切妻造瓦葺で、間口七間、奥行二間の拝殿があり、その奥に国の重文の本殿(元は国宝だった)。1585年の再建時に建てられたもので、白壁に囲まれた神域内に朱色が鮮やか左右ニ殿からなり、ともに一間社春日造り桧皮葺で、間口六尺、奥行五尺。ただし、向拝は1786年の後補。<br /><br />身舎(もや)三方にとりつけた6個の蟇股の輪郭は鎌倉風で、室町時代初期作とみられ、旧建物の再利用と推定されている。内部の彫刻も左右対称的なデザインからなり、特に向かって右殿正面の柏の葉とふくろうは鎌倉風の秀逸。昭和8年(1933年)に解体修理され、再建当初の姿に復元された。2002年には屋根の葺き替えとあわせて鮮やかな丹塗りが蘇った。<br /><br />本殿の左右には一間社流造銅板葺きの境内社2社が鎮座する 本殿左の太神宮は天照皇大神を祀る1786年に寄進されたもの。本殿右の蛭子神社は事代主命を祀る1796年に寄進で再建されたもの。<br /><br />本殿左側を奥に進むと神社の裏側に出る(下の写真2)。そのままさらに山の奥に進むと三山木廃寺跡の碑。三山木廃寺は飛鳥時代、7世紀末に成立したとみられ、普賢寺(現在の観音寺の前身)と同笵の素弁文の軒丸瓦、奈良時代後半の軒瓦が出土しており、かなりの大寺院と考えられている。この寺独特の宝相華文で飾られた瓦も発掘されている。寺の名前が分からないので、地名から三山木廃寺と呼ばれている。<br /><br />山の中の道をぐるっと回り込んで、ちょうど佐牙神社の南になるところにあるのが正福寺。浄土宗西山禅林寺派で1800年頃の創建。ご本尊は阿弥陀如来。恵日寺にあった大般若経の半分、300巻が移されたお寺。山門に続く参道の雰囲気はなかなかいい(下の写真3)。立派なお庭にはサルスベリがきれいに咲いていた。樹齢250年以上のカイズカイブキが建つ本堂前の広場には子供達が遊べるように遊具が設置されていたが、この日は誰もいなかった(下の写真4)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4606215596115095&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上

京都 京田辺 宮津(Miyazu, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/09/18 - 2020/09/18

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年9月18日(金)のお昼前、京田辺市の東南部、三山木地区から宮津地区に入る。宮津地区は1888年(明治21年)に制定された町村制により三山木(みやまき)村に吸収されるまでは宮津村だった。宮津村は1876年(明治9年)に宮口村と江津村が合併して誕生した村で、それぞれの村の1字ずつを取って命名されたようだ。宮ノ口と江津は今でも近鉄宮津駅に近い府道のバス停の名に残る。なお、三山木村は1951年(昭和26年)に田辺町(現京田辺市)に編入された。

宮津地区には近鉄宮津駅があるが、この駅は1993年に輸送力強化のために開設された宮津車庫に隣接しており、当時の田辺町の要望により地域住民の利便性向上のために車庫開設の半年後に開業した。その際、京都府北西部の宮津市にある京都丹後鉄道(当時は北近畿タンゴ鉄道)の宮津駅(元々は国鉄宮津線の駅として1924年(大正13年)開業)との混同を避けるために近鉄の冠称が付けられた。午前中に近鉄京都駅から宮津行の急行が数本あり、20年ほど前京田辺に引っ越した時に、どうやって日本海側まで行くのか不思議に思ったものだ。

三山木地区の芝山神社、念佛寺から東南東に進むと、遠藤川沿いの道に出るが、この道は三山木の府道22号八幡木津線と同志社山手の山手幹線をつなぐ道で、近年整備された新しい道。この道と府道に囲まれたところに京田辺市立の三山木小学校がある。明治6年(1873年)に山本小学校として開校した現在の京田辺市で一番古い3つの小学校の一つ。私の出た広島の小学校はその1年前に開校してるので、勝った(?)。2017年に大規模改修工事が終了し、現在は校舎の大部分が新しくなっている。

府道を南に進み、小学校の前を過ぎると立派な石の鳥居がある。佐牙(さが)神社の一の鳥居。神社名の佐牙はかつては佐牙乃とも書かれ、「さがの、さかの、さけの、さめの」とも読まれた。また「さか、なさ」とも称され、田辺町史所載の近世古絵図には佐賀天神宮とある(注記で東朱智社ともある)。江戸時代には産土神として天神宮又は吉田明神と称され、斎主神(いわいぬしのかみ)を祀る若松明神とも称されていた。

社伝によると飛鳥時代の573年に第30代敏達天皇の勅により咋岡(くいおか)ノ山本に創建。三山木駅の東、玉水橋の手前北側の畑の中に大神宮跡の案内板があり、ここが旧跡と説明されている。現在地に移転したのは、平安京のスタートの年794年とも、室町時代の永享年間(1429年から1441年)とも云われる。その後、1509年に土地争いの兵火により本殿を焼失し、1514年に再建されるが、安土桃山時代の1576年に再び焼失。1585年に再建された。

現在は北殿に佐牙(佐賀)弥豆(彌豆)男神(さがみづをのかみ)、南殿に佐牙弥豆女神(さがみづめのかみ)と天津神吉田大明神を祀っている。古事記に大陸からの渡来人兄弟が酒造りを行ったとあり、それに関連して佐牙弥豆男神と佐牙弥豆女神がこの神社に祀られ、造酒の神として、毎年、大内造酒司の官人が幣帛を捧る神社となったようだ。佐牙は「さけ」と読み、酒を意味するとも云う。

傍らに「式内佐牙神社」の石標が立つ一の鳥居を抜けて西に進むと、朱塗りの二の鳥居が立ち、やや急な石段に続く。石段は大きく2つに別れ、中間にちょっとした平場があるが、ここに明治元年(1868年)に出された神仏分離令後の廃仏毀釈により廃寺となった神宮寺の恵日寺(えにちじ)があった(下の写真1)。

恵日寺のご本尊の南北朝時代の不動明王像や平安時代の五大明王脇立の降三世明王と金剛夜叉明王、観音堂にあった千手観音立像に大般若経300巻は三山木駅の東にある寿宝寺に移された。ここは私たちもこの8月に行ったところ( https://4travel.jp/travelogue/11638345 )。大般若経は600巻あったものの半分で、残りは後に寄る正福寺に移されたそうだが、ご本尊と大威徳明王像・軍茶利(ぐんだり)明王像も正福寺に移されたとしているサイトもある。

石段を登り切ると広い境内に出る。正面に切妻造瓦葺で、間口七間、奥行二間の拝殿があり、その奥に国の重文の本殿(元は国宝だった)。1585年の再建時に建てられたもので、白壁に囲まれた神域内に朱色が鮮やか左右ニ殿からなり、ともに一間社春日造り桧皮葺で、間口六尺、奥行五尺。ただし、向拝は1786年の後補。

身舎(もや)三方にとりつけた6個の蟇股の輪郭は鎌倉風で、室町時代初期作とみられ、旧建物の再利用と推定されている。内部の彫刻も左右対称的なデザインからなり、特に向かって右殿正面の柏の葉とふくろうは鎌倉風の秀逸。昭和8年(1933年)に解体修理され、再建当初の姿に復元された。2002年には屋根の葺き替えとあわせて鮮やかな丹塗りが蘇った。

本殿の左右には一間社流造銅板葺きの境内社2社が鎮座する 本殿左の太神宮は天照皇大神を祀る1786年に寄進されたもの。本殿右の蛭子神社は事代主命を祀る1796年に寄進で再建されたもの。

本殿左側を奥に進むと神社の裏側に出る(下の写真2)。そのままさらに山の奥に進むと三山木廃寺跡の碑。三山木廃寺は飛鳥時代、7世紀末に成立したとみられ、普賢寺(現在の観音寺の前身)と同笵の素弁文の軒丸瓦、奈良時代後半の軒瓦が出土しており、かなりの大寺院と考えられている。この寺独特の宝相華文で飾られた瓦も発掘されている。寺の名前が分からないので、地名から三山木廃寺と呼ばれている。

山の中の道をぐるっと回り込んで、ちょうど佐牙神社の南になるところにあるのが正福寺。浄土宗西山禅林寺派で1800年頃の創建。ご本尊は阿弥陀如来。恵日寺にあった大般若経の半分、300巻が移されたお寺。山門に続く参道の雰囲気はなかなかいい(下の写真3)。立派なお庭にはサルスベリがきれいに咲いていた。樹齢250年以上のカイズカイブキが建つ本堂前の広場には子供達が遊べるように遊具が設置されていたが、この日は誰もいなかった(下の写真4)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4606215596115095&type=1&l=223fe1adec


以上

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  • 写真1 恵日寺跡

    写真1 恵日寺跡

  • 写真2 佐牙神社裏参道

    写真2 佐牙神社裏参道

  • 正福寺山門へ続く道

    正福寺山門へ続く道

  • 写真4 正福寺本堂と広場

    写真4 正福寺本堂と広場

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