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2020年11月1日(日)のお昼、京田辺市の北部、京奈和自動車道田辺北ICに近い大住地区の澤井家住宅から月読神社を訪ねた前後にこの地区の他のポイントもいくつか回った。月読神社の説明でも書いたが、地名の大住は約1300年前に九州南部の薩摩・大隅地方からこの地に移住した大隅隼人が、故郷を懐かしんで同じ読みに名付けたものが、時代を経て大住と云う漢字になったと考えられる。<br /><br />現在の京田辺市の北部を東西に走るJR学研都市線(片町線)と手原川より北側が1951年(昭和26年)に田辺町に編入されるまでがほぼ大住村だったようで、さらに云えば、1889年(明治22年)までは西半分は松井村だった。澤井家住宅がある大住岡村地区は、元々の大住村のほぼ中央に位置し、月読神社はそこから1㎞ほど西で、昔からの大住村の南西部に位置する。<br /><br />現在はJRの南側に大住ケ丘とか松井ケ丘とか大きなニュータウンが広がるが、これらは1970年代以降に開発されたところで、当時は山だった。ちなみに片町線は1898年(明治31年)にこの区間が関西鉄道として開通しているが、大住駅が出来たのは田辺町になった翌年の1952年。<br /><br />澤井家住宅から250mほど北西にあるのが大住車塚古墳。古墳時代中期、5世紀初期の築造と考えられる前方後方墳、智光寺(ちこんじ)山古墳とも呼ばれる。全長66mで、前方部は幅18m、高さ1.5m、後方部は一辺の長さ36m、高さ4.5m。古墳の周りには長方形の周濠の痕跡が残り、全長は約100mある。1974年に国の史跡に指定されている。<br /><br />棺が納められていた主体部は竪穴式石室か粘土槨であったと推測される。副葬品は不明。被葬者は6世紀初頭の第26代天皇の継体天皇の第8皇子と云われているが、この皇子は実在しなかったものと今は考えられている。まあ、時代があってないよな。<br /><br />南西側に並ぶ大住南塚古墳もほぼ同じ形・同じ大きさで、全長71mと少し大きい。こちらは発掘調査で4世紀終わり頃の築造とされている。被葬者は不明。こちらの周濠の一部は池として残っている。周濠をもつ前方後方墳が二基並ぶのは全国でも珍しい。どちらからも葺石と埴輪が発見されている。<br /><br />澤井家住宅のある大住岡村地区は古くから家が集まっていたようで、狭い区域に多くの寺社仏閣がある。澤井家住宅の南、直線距離だと100mほどのところにあるのは西光山円照寺。浄土真宗本願寺派のお寺と云うこと以外は不明。<br /><br />その向かいが法華寺。こちらは総本山身延山久遠寺の日蓮宗のお寺。山号は瑞應山。このお寺は由緒が分かっており、開創は室町時代で、大日堂盛行庵と称する醍醐三宝院の流派に属する真言密教の精舎として大住にその名を印していた。当時の本尊は雷除けの大日如来で、地域の信仰を集めていた。<br /><br />江戸初期の1638年、澤井家の縁を引く京都本國寺の名僧、喜見院日便上人が、その出身地に洛中の名刹曇華院宮や、三宝院門跡から寺領の分与を受け、六条本國寺第17世・鷲峰院日桓大僧正直筆の御本尊を頂き改宗、日蓮宗法華寺を建立。江戸中期の1799年の鐘楼堂再建の棟札には、曇華院宮・三宝院宮・旗本天野氏・澤井氏はじめ、村内外の氏名が連なっている。<br /><br />明治維新の鳥羽伏見の戦いの際には、曇華院宮が澤井家に避難されたが、このお寺に宮方の霊牌を安置して日々供養され、曇華院宮仮菩提所としてその所領を下賜されたが、大戦中の弱体化や戦後の農地解放に伴い、縮小を余儀なくされた。<br /><br />近年、1991年に開山日便上人第350遠忌を迎え本堂庫裡を新築。その後は京田辺市を中心に宇治市・城陽市・久御山町・八幡市・精華町・木津川市・枚方市と教線を拡大、また、青年信行組織「法華寺菩薩団」を結成し、宗教活動のみならず文化講座や芸術講演、コンサート、盂蘭盆の竹灯籠会などの地域社会に貢献すべく活動を展開している。<br /><br />本堂には法華経の救済世界を示した仏像の勧請、法華経守護の諸天善神が各種安置されている。題目宝塔を中心に釈迦如来・多宝如来が二仏並座し、上行・無遍行・浄行・安立行の四菩薩が左右に立ち添い、宗祖奠定の日蓮聖人大曼荼羅御本尊が背後に奉安されている。御本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏。永遠の昔から未来までずっとこの世に存在しているお釈迦様の意味で、それは実際に歴史上存在したお釈迦様を意味するのではなく、この世に存在する法華経の教えの原理そのものを意味する仏様だそうだ。<br /><br />山門は1990年に新築された薬医門。薬医門は2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門で、平屋建ての門の中で最も格式が高い門。その名は矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来たとも、かつて医者の門として使われたことからとも云われる。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたと云われるが、必ずしもこの構造である必要はないそうだ(下の写真1)。<br /><br />法華寺の東にあるのは来迎寺。浄土宗知恩院派で、山号は不動山。室町末期の1565年に道誉上人により開山され、江戸時代に京都・称名寺の浄西善廊によって再興されたと伝えられる。<br /><br />本堂は寄棟造。江戸時代初期の1679年に大阪平野町の井上庄三郎氏の寄進によるもので、1997年に改装された。ご本尊は木彫りの阿弥陀如来坐像で鎌倉中期の作。また昔から雨乞祈願の信仰があるというくり伽羅不動尊や、ニ五菩薩像、千体仏、脇侍観音勢至像も安置されている。<br /><br />境内には、本堂のほかに観音堂、地蔵堂、鐘楼、庫裡がある。観音堂に安置されている木造聖観音坐像は平安時代前期の作で、2014年に京田辺市指定文化財に指定されている。高さ93.2㎝で、針葉樹の一木造り。<br /><br />来迎寺の北隣りの天津神社は、平安中期の天禄年間(970~972年)の創祀と伝えられるが詳細は不明。もとは若宮社また若宮八幡とも呼ばれていた。江戸初期の元和3年(1617年)に社殿を修造したという棟札が残っており、それ以前の創祀であることは明らか。本殿は様式からすると江戸時代末期の一間社流造。桧皮葺の屋根は小屋組みがほとんどなく、平らな姿になっているのが特徴的(下の写真2)。<br /><br />天津神社と澤井家の間には大住岡村地蔵尊があるが、由緒等は不明。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4873012472768738&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />1時前、大住観光を終了して、来た時と同じ京阪バスで戻った。<br /><br /><br />以上

京田辺大住車塚古墳他(Kurumazuka Tumulus and others, Osumi, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/11/01 - 2020/11/01

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月1日(日)のお昼、京田辺市の北部、京奈和自動車道田辺北ICに近い大住地区の澤井家住宅から月読神社を訪ねた前後にこの地区の他のポイントもいくつか回った。月読神社の説明でも書いたが、地名の大住は約1300年前に九州南部の薩摩・大隅地方からこの地に移住した大隅隼人が、故郷を懐かしんで同じ読みに名付けたものが、時代を経て大住と云う漢字になったと考えられる。

現在の京田辺市の北部を東西に走るJR学研都市線(片町線)と手原川より北側が1951年(昭和26年)に田辺町に編入されるまでがほぼ大住村だったようで、さらに云えば、1889年(明治22年)までは西半分は松井村だった。澤井家住宅がある大住岡村地区は、元々の大住村のほぼ中央に位置し、月読神社はそこから1㎞ほど西で、昔からの大住村の南西部に位置する。

現在はJRの南側に大住ケ丘とか松井ケ丘とか大きなニュータウンが広がるが、これらは1970年代以降に開発されたところで、当時は山だった。ちなみに片町線は1898年(明治31年)にこの区間が関西鉄道として開通しているが、大住駅が出来たのは田辺町になった翌年の1952年。

澤井家住宅から250mほど北西にあるのが大住車塚古墳。古墳時代中期、5世紀初期の築造と考えられる前方後方墳、智光寺(ちこんじ)山古墳とも呼ばれる。全長66mで、前方部は幅18m、高さ1.5m、後方部は一辺の長さ36m、高さ4.5m。古墳の周りには長方形の周濠の痕跡が残り、全長は約100mある。1974年に国の史跡に指定されている。

棺が納められていた主体部は竪穴式石室か粘土槨であったと推測される。副葬品は不明。被葬者は6世紀初頭の第26代天皇の継体天皇の第8皇子と云われているが、この皇子は実在しなかったものと今は考えられている。まあ、時代があってないよな。

南西側に並ぶ大住南塚古墳もほぼ同じ形・同じ大きさで、全長71mと少し大きい。こちらは発掘調査で4世紀終わり頃の築造とされている。被葬者は不明。こちらの周濠の一部は池として残っている。周濠をもつ前方後方墳が二基並ぶのは全国でも珍しい。どちらからも葺石と埴輪が発見されている。

澤井家住宅のある大住岡村地区は古くから家が集まっていたようで、狭い区域に多くの寺社仏閣がある。澤井家住宅の南、直線距離だと100mほどのところにあるのは西光山円照寺。浄土真宗本願寺派のお寺と云うこと以外は不明。

その向かいが法華寺。こちらは総本山身延山久遠寺の日蓮宗のお寺。山号は瑞應山。このお寺は由緒が分かっており、開創は室町時代で、大日堂盛行庵と称する醍醐三宝院の流派に属する真言密教の精舎として大住にその名を印していた。当時の本尊は雷除けの大日如来で、地域の信仰を集めていた。

江戸初期の1638年、澤井家の縁を引く京都本國寺の名僧、喜見院日便上人が、その出身地に洛中の名刹曇華院宮や、三宝院門跡から寺領の分与を受け、六条本國寺第17世・鷲峰院日桓大僧正直筆の御本尊を頂き改宗、日蓮宗法華寺を建立。江戸中期の1799年の鐘楼堂再建の棟札には、曇華院宮・三宝院宮・旗本天野氏・澤井氏はじめ、村内外の氏名が連なっている。

明治維新の鳥羽伏見の戦いの際には、曇華院宮が澤井家に避難されたが、このお寺に宮方の霊牌を安置して日々供養され、曇華院宮仮菩提所としてその所領を下賜されたが、大戦中の弱体化や戦後の農地解放に伴い、縮小を余儀なくされた。

近年、1991年に開山日便上人第350遠忌を迎え本堂庫裡を新築。その後は京田辺市を中心に宇治市・城陽市・久御山町・八幡市・精華町・木津川市・枚方市と教線を拡大、また、青年信行組織「法華寺菩薩団」を結成し、宗教活動のみならず文化講座や芸術講演、コンサート、盂蘭盆の竹灯籠会などの地域社会に貢献すべく活動を展開している。

本堂には法華経の救済世界を示した仏像の勧請、法華経守護の諸天善神が各種安置されている。題目宝塔を中心に釈迦如来・多宝如来が二仏並座し、上行・無遍行・浄行・安立行の四菩薩が左右に立ち添い、宗祖奠定の日蓮聖人大曼荼羅御本尊が背後に奉安されている。御本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏。永遠の昔から未来までずっとこの世に存在しているお釈迦様の意味で、それは実際に歴史上存在したお釈迦様を意味するのではなく、この世に存在する法華経の教えの原理そのものを意味する仏様だそうだ。

山門は1990年に新築された薬医門。薬医門は2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門で、平屋建ての門の中で最も格式が高い門。その名は矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来たとも、かつて医者の門として使われたことからとも云われる。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたと云われるが、必ずしもこの構造である必要はないそうだ(下の写真1)。

法華寺の東にあるのは来迎寺。浄土宗知恩院派で、山号は不動山。室町末期の1565年に道誉上人により開山され、江戸時代に京都・称名寺の浄西善廊によって再興されたと伝えられる。

本堂は寄棟造。江戸時代初期の1679年に大阪平野町の井上庄三郎氏の寄進によるもので、1997年に改装された。ご本尊は木彫りの阿弥陀如来坐像で鎌倉中期の作。また昔から雨乞祈願の信仰があるというくり伽羅不動尊や、ニ五菩薩像、千体仏、脇侍観音勢至像も安置されている。

境内には、本堂のほかに観音堂、地蔵堂、鐘楼、庫裡がある。観音堂に安置されている木造聖観音坐像は平安時代前期の作で、2014年に京田辺市指定文化財に指定されている。高さ93.2㎝で、針葉樹の一木造り。

来迎寺の北隣りの天津神社は、平安中期の天禄年間(970~972年)の創祀と伝えられるが詳細は不明。もとは若宮社また若宮八幡とも呼ばれていた。江戸初期の元和3年(1617年)に社殿を修造したという棟札が残っており、それ以前の創祀であることは明らか。本殿は様式からすると江戸時代末期の一間社流造。桧皮葺の屋根は小屋組みがほとんどなく、平らな姿になっているのが特徴的(下の写真2)。

天津神社と澤井家の間には大住岡村地蔵尊があるが、由緒等は不明。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4873012472768738&type=1&l=223fe1adec

1時前、大住観光を終了して、来た時と同じ京阪バスで戻った。


以上

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  • 写真1 法華寺山門

    写真1 法華寺山門

  • 写真2 天津神社鳥居

    写真2 天津神社鳥居

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