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2020年5月8日(金)、ゴールデンウイーク休み明けに棚倉孫神社を訪問。まあ、隠居生活の私には日常の散歩の一環ではあるが。<br /><br />JR片町線(学研都市線)京田辺駅の西1㎞もないところ、府道22号線が天井川の天津神川(あまつがみがわ)をくぐる手前(南側)から川の堤防に登って越えたところにある。天津神川はここより少し南から流れ出し、木津川に近鉄京都線鉄橋の少し下流で合流する全長約2㎞の短い川で、ほぼ全体が天井川になっている。この府道22号線の他にもJR片町線と市道薪新田辺線、さらには防賀川が下をくぐっている。川が川の上を流れるのは珍しいのでは?<br /><br />坂を上って(下の写真1)天井川を越え(下の写真2)、階段をいったん降りた先に神社があるという変わった造り。棚倉孫神社は社伝によると推古天皇の時代、623年に勧請されたとされる。平安時代の927年にまとめられた「延喜式神名帳」に式内社として列格されている。江戸時代には天神社、天満宮とも呼ばれていた。戦前の近代社格制度では郷社。<br /><br />棚倉とは穀物を収蔵するための床を設けた倉庫のことで、養蚕にも用いられた。この辺りは古来から渡来人による養蚕の盛んな地域であり、その蚕は貴重で「天の虫」とも云われ、蚕が棲む倉を崇め神格化して祀ったのが神社としての興りではないかとも考察されている。 <br /><br />御祭神は天香古山命(あめのかごやまのみこと)。高倉下命(たかくらじのみこと)、手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも云い、天照大御神の曾孫で、天神(あまつかみ)の直系。古事記や日本書紀に登場している。神社前を流れる天津神川の名前はここから来ているようだ。棚倉孫の「ひこ」は手栗彦彦命から来ているとも云われる。ご利益は、天下平定、災難除け、健康長寿。<br /><br />入口の鳥居は江戸時代の1702年に淀藩の4代目藩主石川主殿頭憲之が奉納したもの。鳥居を抜けると入母屋造りの拝殿。前後に軒唐破風を設けた桧皮葺の江戸時代中期を代表する建築。1768年(明和5年)の再造。屋根は1980年に檜皮葺きから銅板葺きに葺き替えられた。<br /><br />その奥、京都府登録文化財の本殿は1606年に建てられたもので、一間社流造、檜皮葺。右手にある石灯篭には天正二年(1574年)の銘が入る。本殿右手の五社殿は2005年に改築されたが。1839年(天保10年)の絵馬に祠が記されており、五社殿の原型だと思われる。正一位寶蓮稲荷大明神、紅梅殿・老松殿、春日大明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩、多賀神社、稲荷神社の8社を祀る。<br /><br />反対側、本殿左手には絵馬殿(下の写真3)。建築年代は不明だが、1840年に奉納された角力図(アルバムの絵)にはすでに建物がある。1998年の台風9号により破損し、2000年に修理された。角力図の他、江戸時代後期の画家から奉納された絵馬が飾られている(一部レプリカ)(下の写真4)。<br /><br />絵馬殿の手前の建物には京田辺市無形文化財の瑞饋(ずいき)神輿が置かれている。高さ3m、1.5m四方で重さ約1トン。瑞饋は里芋の茎のこと(いもずいき)。2年に一度、10月に行われる例祭に合わせて寄進される30種以上の穀物、野菜、花などにより飾りつけられる。屋根に赤瑞饋、鳥居に青瑞饋、壁に大豆、三度豆、玄米、小豆、頂上の鳳凰には南瓜や百日紅の花、他にも赤、青の唐辛子、赤なす、たかのつめ、菊の花など。<br /><br />五穀豊穣を祈願して氏子区域を巡行する。神輿の起源は明確でないが、北野天満宮の瑞饋神輿を手本とし、江戸時代初期の1607年頃に制作したと云う説がある。例祭は明治中期から行われていたが、1929年に中断し、1976年に47年ぶりに復活した。1978年に瑞饋神輿保存会が結成され、同年10月に京田辺市市文化財2号に指定された。子供神輿は毎年飾り付けられる(下の写真5)。<br /><br />鳥居の横手にある春日造の金比羅社は金山比古命・金山比売命を祀っており、幕末の1851年の境内配置図にある。現在の社は1988年に本殿修理の際の仮本殿として建替えられたもの。鳥居手前左手の社務所は元の神宮司であった旧松寿院で、1844年建立で、現存する江戸末期の貴重な建物。1858年より1871年までは寺子屋として使われていた。庭先には立派なこいのぼりが泳いでいた。境内奥には天神森と云われる鎮守の森が広がっており、クスノキやシイの常緑広葉樹が繁茂しており、文化財環境保全地区となっている。<br /><br />いや、なかなかいい神社だった。儲けもの!<br /><br />ついでに府道を200mほど南に行ったところにある西念寺。1595年の創建と伝えられ、1821年に焼失したが、翌年再建された。明治に入り、1882年に信行寺を吸収合併、1884年に念仏寺を吸収合併し現在に至っている。 正面の本堂は閉ざされているが、安置されている寄木造りの阿弥陀如来立像は鎌倉時代後期のもので、京田辺市指定文化財に指定されている。脇陣にも2体の阿弥陀如来像があるが、これは合併された2寺の旧本尊らしい。こちらは置かれているのが外から見える。<br /><br />もうひとつついでに、天津神川の少し上流にある松代稲荷社。小さな小さな社で、歴史的な背景は全く分からない。ごく普通のお稲荷さんだった。<br />https://www.facebook.com/media/set?set=a.3975531845850143&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上

京田辺 棚倉孫神社(Tanakurahiko Shrine, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/05/08 - 2020/05/08

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年5月8日(金)、ゴールデンウイーク休み明けに棚倉孫神社を訪問。まあ、隠居生活の私には日常の散歩の一環ではあるが。

JR片町線(学研都市線)京田辺駅の西1㎞もないところ、府道22号線が天井川の天津神川(あまつがみがわ)をくぐる手前(南側)から川の堤防に登って越えたところにある。天津神川はここより少し南から流れ出し、木津川に近鉄京都線鉄橋の少し下流で合流する全長約2㎞の短い川で、ほぼ全体が天井川になっている。この府道22号線の他にもJR片町線と市道薪新田辺線、さらには防賀川が下をくぐっている。川が川の上を流れるのは珍しいのでは?

坂を上って(下の写真1)天井川を越え(下の写真2)、階段をいったん降りた先に神社があるという変わった造り。棚倉孫神社は社伝によると推古天皇の時代、623年に勧請されたとされる。平安時代の927年にまとめられた「延喜式神名帳」に式内社として列格されている。江戸時代には天神社、天満宮とも呼ばれていた。戦前の近代社格制度では郷社。

棚倉とは穀物を収蔵するための床を設けた倉庫のことで、養蚕にも用いられた。この辺りは古来から渡来人による養蚕の盛んな地域であり、その蚕は貴重で「天の虫」とも云われ、蚕が棲む倉を崇め神格化して祀ったのが神社としての興りではないかとも考察されている。

御祭神は天香古山命(あめのかごやまのみこと)。高倉下命(たかくらじのみこと)、手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも云い、天照大御神の曾孫で、天神(あまつかみ)の直系。古事記や日本書紀に登場している。神社前を流れる天津神川の名前はここから来ているようだ。棚倉孫の「ひこ」は手栗彦彦命から来ているとも云われる。ご利益は、天下平定、災難除け、健康長寿。

入口の鳥居は江戸時代の1702年に淀藩の4代目藩主石川主殿頭憲之が奉納したもの。鳥居を抜けると入母屋造りの拝殿。前後に軒唐破風を設けた桧皮葺の江戸時代中期を代表する建築。1768年(明和5年)の再造。屋根は1980年に檜皮葺きから銅板葺きに葺き替えられた。

その奥、京都府登録文化財の本殿は1606年に建てられたもので、一間社流造、檜皮葺。右手にある石灯篭には天正二年(1574年)の銘が入る。本殿右手の五社殿は2005年に改築されたが。1839年(天保10年)の絵馬に祠が記されており、五社殿の原型だと思われる。正一位寶蓮稲荷大明神、紅梅殿・老松殿、春日大明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩、多賀神社、稲荷神社の8社を祀る。

反対側、本殿左手には絵馬殿(下の写真3)。建築年代は不明だが、1840年に奉納された角力図(アルバムの絵)にはすでに建物がある。1998年の台風9号により破損し、2000年に修理された。角力図の他、江戸時代後期の画家から奉納された絵馬が飾られている(一部レプリカ)(下の写真4)。

絵馬殿の手前の建物には京田辺市無形文化財の瑞饋(ずいき)神輿が置かれている。高さ3m、1.5m四方で重さ約1トン。瑞饋は里芋の茎のこと(いもずいき)。2年に一度、10月に行われる例祭に合わせて寄進される30種以上の穀物、野菜、花などにより飾りつけられる。屋根に赤瑞饋、鳥居に青瑞饋、壁に大豆、三度豆、玄米、小豆、頂上の鳳凰には南瓜や百日紅の花、他にも赤、青の唐辛子、赤なす、たかのつめ、菊の花など。

五穀豊穣を祈願して氏子区域を巡行する。神輿の起源は明確でないが、北野天満宮の瑞饋神輿を手本とし、江戸時代初期の1607年頃に制作したと云う説がある。例祭は明治中期から行われていたが、1929年に中断し、1976年に47年ぶりに復活した。1978年に瑞饋神輿保存会が結成され、同年10月に京田辺市市文化財2号に指定された。子供神輿は毎年飾り付けられる(下の写真5)。

鳥居の横手にある春日造の金比羅社は金山比古命・金山比売命を祀っており、幕末の1851年の境内配置図にある。現在の社は1988年に本殿修理の際の仮本殿として建替えられたもの。鳥居手前左手の社務所は元の神宮司であった旧松寿院で、1844年建立で、現存する江戸末期の貴重な建物。1858年より1871年までは寺子屋として使われていた。庭先には立派なこいのぼりが泳いでいた。境内奥には天神森と云われる鎮守の森が広がっており、クスノキやシイの常緑広葉樹が繁茂しており、文化財環境保全地区となっている。

いや、なかなかいい神社だった。儲けもの!

ついでに府道を200mほど南に行ったところにある西念寺。1595年の創建と伝えられ、1821年に焼失したが、翌年再建された。明治に入り、1882年に信行寺を吸収合併、1884年に念仏寺を吸収合併し現在に至っている。 正面の本堂は閉ざされているが、安置されている寄木造りの阿弥陀如来立像は鎌倉時代後期のもので、京田辺市指定文化財に指定されている。脇陣にも2体の阿弥陀如来像があるが、これは合併された2寺の旧本尊らしい。こちらは置かれているのが外から見える。

もうひとつついでに、天津神川の少し上流にある松代稲荷社。小さな小さな社で、歴史的な背景は全く分からない。ごく普通のお稲荷さんだった。
https://www.facebook.com/media/set?set=a.3975531845850143&type=1&l=223fe1adec


以上

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  • 写真1 天津神川堤防への坂道

    写真1 天津神川堤防への坂道

  • 写真2 府道22号線を越える天津神川

    写真2 府道22号線を越える天津神川

  • 写真3 絵馬殿

    写真3 絵馬殿

  • 写真4 奉納された絵

    写真4 奉納された絵

  • 写真5 子供神輿

    写真5 子供神輿

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