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梅雨も明け、8月に入り、蒸すような暑さがやって来たが、京田辺の南部の三山木(みやまき)辺りを散策。三山木は近鉄京都線、JR片町線の駅名にもなっている地名で、駅周辺は旧三山木村だった。明治22年(1889年)に町村制の施行により三山木村と宮津村が合併して発足した村だったが、1951年(昭和26年)に旧田辺町に編入されてなくなり、現在は字として残る。元々の三山木村の成立の詳細は不明だが、山本、山崎、南山に高木と云う集落が集まってできた村のようで、最初の3つの集落に共通する「山」と高木の「木」を併せて三山木となったらしい。嘘のような話やね。<br /><br />近鉄とJRの駅がある辺り、最近は両線が高架化され、新しいマンションがどんどんと建って発展しているが、この辺りは平城京の時代から交通の要所だった。ちなみに鉄道はJRの方が全然早く、1898年(明治31年)に関西鉄道として開通したが、ここに駅はなかった。駅としては近鉄の駅の方が先で、1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道として開通し、同時に三山木駅も開業した。JRの駅が出来たのは戦後で、1952年(昭和27年)に国鉄の上田辺駅として開業、1997年にJR三山木駅に改称した。2002年にJRが高架化され、2005年に近鉄の高架化が終了。私が田辺に引っ越したのは2001年なので、高架化前の踏切を車で通っていたことはよく覚えている。<br /><br />その高架化されたWの三山木駅の北側を走る府道65号生駒井出線を300mほど東の玉水橋方向へ進むと草内に向かう道との三差路の北東部にあるのが寿宝寺。高野山真言宗金剛峯寺派の寺院で、号は開運山。同じ田辺にある一休寺、観音寺、旧山城町の蟹満寺、神童寺、宇治田原の禅定寺と共にかくれ古寺南山城六山めぐりを構成している。また、さらに旧加茂町の海住山寺、現光寺、浄瑠璃寺、岩船寺に笠置町の笠置寺と山城国分寺・恭仁京跡を加えて12ヶ所の南山城古寺巡礼も構成している。私は半分くらいしか行ったことがないなあ・・・<br /><br />創建、変遷の詳細は不明だが、寺伝では奈良時代より前の704年の創建と伝えられている。今は小さなお寺だが、かつては山本の大寺と呼ばれ七堂伽藍が建ち並んでいた。その頃は現在地より東方300m余りの木津川沿いにあったそうで、度重なる洪水により移転を繰り返したと寺伝にある。<br /><br />現在地の東にある鶴沢公園の場所には、1984年までは鶴沢の池と呼ばれる大池があった。鶴の飛来地であったことからこの名が付けられ、京都・大沢の池、奈良・猿沢の池と並び三沢の池と呼ばれ、近くの飯岡(いのおか)山と共に、仲秋の名月の名所でもあった。室町時代、この池の南東に寺は移されていた。一仏成就寺観音(一佛寺)と云う名前になっていたが、1428年(正長元年)に大洪水で流水。その後、寿宝寺として江戸時代中期の1732年、現在地に再建された。<br /><br />明治維新に際しては、近隣の寺々を合併した。1997年に平成の大造営を行い、206年ぶりの改築で、堂宇の大改築が行われた。境内には鶏霊碑があり、かつては毎年4月酉の日に鶏霊祭が行われていた。地蔵堂は江戸時代の1789年再建(下の写真1)。また、江戸時代初期の、慶長年間(1596年~1615年)の銘がある舟形光背面沈刻浮彫五輪塔も立つ。<br /><br />2020年8月現在はコロナ禍で拝観(事前予約要)は停止されているが、1967年に建てられた収蔵庫にご本尊で国の重文の十一面千手千眼観世音菩薩立像が安置されている。平安時代後期の作で、藤原時代中期の様式をそなえた端正典雅な立像。大阪・葛井寺(藤井寺)、奈良・唐招提寺のものと共に実際に千本の手を持つ千手観音三大名作(三大傑作)とされている。<br /><br />一佛寺が流水した後、1431年にお隣宮津の佐牙(さが)神社の神宮寺の法楽寺に遷されたが、明治初年の神仏分離令により法楽寺が廃寺になり、寿宝寺に戻されたと云う。ただし、佐牙神社西の丘陵地に飛鳥時代からあった大寺院(名前が文献にないため、三山木廃寺と呼ばれる)の像であった可能性も考えられている。<br /><br />その他、廃仏毀釈により、周辺の廃寺になった神宮寺から数多くの仏像がこの寺に遷され安置されている。聖徳太子立像は鎌倉時代、京の仏師・尾の道浄信師作で、太子16歳の像と云う。飛鳥時代、父の第31代用明天皇の病気平癒のために、香炉を捧げて祈願した孝養像。1875年に廃寺になった飯岡の蓮華寺より大般若経600巻、弘法大師像と共に遷された。<br /><br />同じく1868年に廃寺となった佐牙神社神宮寺の恵日寺(えにちじ)から移されたご本尊の不動明王尊像や平安時代作の五大明王脇立の降三世明王と金剛夜叉明王、それに経本300巻(残り300巻は佐牙神社南の正福寺にある)も安置されている。さらに、本堂に、近代までのご本尊だった大日如来も安置されている。<br /><br />山門の左側は佐牙神社の御旅所で、毎年10月17日の秋祭りでは山本地区と宮津の江津地区の2基の御輿が渡御し、百味(様々な美味、珍味)が供えられ、夜に巫女さんが釜に沸かした湯を撒き、御神楽を舞う湯立て神楽が行われる(下の写真2)。<br /><br />お寺の山門に入る手前、東側に山本駅旧跡の碑が建つ。奈良時代の710年に大宝律令が成立すると、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7つの官通が整備され主要街道には駅を設置、駅馬・伝馬を置くことが定められた。翌711年、この辺りに山背(やましろ)国綴喜(つづき)郡山本駅が置かれた。平城京に通じた軍事的な意味を持つ駅制の都亭駅。<br /><br />この地は平城京と太宰府を結ぶ山陽道の宿所として、また淀を経て丹波路へと続く山陰道の要所であり、西へは普賢寺谷より河内国へ、東へは木津川を経て古北陸道に通じる要衝地でもあった。官吏の往来のための駅舎があり、駅は築地で囲まれ、駅長(豪族)、駅子、駅馬、舟を備えた。駅門、宿舎、厩舎、倉庫、水飲み場、控室、休憩室などの建物があった。ただ、場所は特定されていない。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4373523582717632&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />寿宝寺から府道を越え南に進み、東西に続く2本目の道を少し東に進むと古代山本里ならびに山本駅遺跡之碑がある。三山木の名前の由来の一つとなる山本地区では、縄文時代後期の石棒や石冠が発見され,また弥生時代前期の田中遺跡・宮ノ下遺跡や後期の天神山遺跡・飯丘遺跡などもあり、木津川水系に恵まれた初期の水稲耕作地帯であった。日本書紀にある「置山背國。今畝原・山村高麗人之先祖也。」と云う記述があり、この山村がこの山本郷を示す。<br /><br />飛鳥時代、645年から始まった大化の改新により、班田収授之法が実施され、土地区画の条里制が敷かれ、この付近に綴喜郡第四條山本里が置かれた。この碑が建つ一角は中世の環濠集落趾である山本集落で、集落の北側に環濠跡とおぼしき狭い水路が残っている。<br /><br />この碑から三山木駅に向かうと、左手に竹取翁博物館と云う建物がある。竹取物語の最後に「造麻呂が家は山本近かなり」と云う文章があり、この地こそその山本だと云う。同じく竹取物語の発祥の地を名乗る向日市に実家のある私としては、素直に同意できないけどね。考えてみると向日市に住んでたより、長く京田辺市に住んでるのに・・・<br /><br />この博物館では物語絵巻襖絵をはじめ、物語に関連の地域資料を展示公開しており、別館の古民家かぐや姫では、物語の襖絵や屏風絵、ピアノコンサートやサミット等を開催している。2013年オープンで、予約制で見学できるそうだが、正直入りたい雰囲気ではないなあ・・・<br /><br />JRの三山木駅から府道を北に渡ったところに立派な赤い鳥居があったので、大きな神社かと思ったら、天地の大神大親教会って。新興宗教か・・・<br /><br />そう云えば、ここに限らないけど、この季節は百日紅(さるすべり)が綺麗。この山本で咲いてた花は白だったが、濃いピンクや淡ピンク、赤、紫などいろいろな色があり楽しめる。近鉄新田辺駅の西側のロータリーの濃いピンクの花も綺麗だった(下の写真3)。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4373529142717076&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上

京田辺 三山木(Miyamaki, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/08/04 - 2020/08/04

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ちふゆ

ちふゆさん

梅雨も明け、8月に入り、蒸すような暑さがやって来たが、京田辺の南部の三山木(みやまき)辺りを散策。三山木は近鉄京都線、JR片町線の駅名にもなっている地名で、駅周辺は旧三山木村だった。明治22年(1889年)に町村制の施行により三山木村と宮津村が合併して発足した村だったが、1951年(昭和26年)に旧田辺町に編入されてなくなり、現在は字として残る。元々の三山木村の成立の詳細は不明だが、山本、山崎、南山に高木と云う集落が集まってできた村のようで、最初の3つの集落に共通する「山」と高木の「木」を併せて三山木となったらしい。嘘のような話やね。

近鉄とJRの駅がある辺り、最近は両線が高架化され、新しいマンションがどんどんと建って発展しているが、この辺りは平城京の時代から交通の要所だった。ちなみに鉄道はJRの方が全然早く、1898年(明治31年)に関西鉄道として開通したが、ここに駅はなかった。駅としては近鉄の駅の方が先で、1928年(昭和3年)に奈良電気鉄道として開通し、同時に三山木駅も開業した。JRの駅が出来たのは戦後で、1952年(昭和27年)に国鉄の上田辺駅として開業、1997年にJR三山木駅に改称した。2002年にJRが高架化され、2005年に近鉄の高架化が終了。私が田辺に引っ越したのは2001年なので、高架化前の踏切を車で通っていたことはよく覚えている。

その高架化されたWの三山木駅の北側を走る府道65号生駒井出線を300mほど東の玉水橋方向へ進むと草内に向かう道との三差路の北東部にあるのが寿宝寺。高野山真言宗金剛峯寺派の寺院で、号は開運山。同じ田辺にある一休寺、観音寺、旧山城町の蟹満寺、神童寺、宇治田原の禅定寺と共にかくれ古寺南山城六山めぐりを構成している。また、さらに旧加茂町の海住山寺、現光寺、浄瑠璃寺、岩船寺に笠置町の笠置寺と山城国分寺・恭仁京跡を加えて12ヶ所の南山城古寺巡礼も構成している。私は半分くらいしか行ったことがないなあ・・・

創建、変遷の詳細は不明だが、寺伝では奈良時代より前の704年の創建と伝えられている。今は小さなお寺だが、かつては山本の大寺と呼ばれ七堂伽藍が建ち並んでいた。その頃は現在地より東方300m余りの木津川沿いにあったそうで、度重なる洪水により移転を繰り返したと寺伝にある。

現在地の東にある鶴沢公園の場所には、1984年までは鶴沢の池と呼ばれる大池があった。鶴の飛来地であったことからこの名が付けられ、京都・大沢の池、奈良・猿沢の池と並び三沢の池と呼ばれ、近くの飯岡(いのおか)山と共に、仲秋の名月の名所でもあった。室町時代、この池の南東に寺は移されていた。一仏成就寺観音(一佛寺)と云う名前になっていたが、1428年(正長元年)に大洪水で流水。その後、寿宝寺として江戸時代中期の1732年、現在地に再建された。

明治維新に際しては、近隣の寺々を合併した。1997年に平成の大造営を行い、206年ぶりの改築で、堂宇の大改築が行われた。境内には鶏霊碑があり、かつては毎年4月酉の日に鶏霊祭が行われていた。地蔵堂は江戸時代の1789年再建(下の写真1)。また、江戸時代初期の、慶長年間(1596年~1615年)の銘がある舟形光背面沈刻浮彫五輪塔も立つ。

2020年8月現在はコロナ禍で拝観(事前予約要)は停止されているが、1967年に建てられた収蔵庫にご本尊で国の重文の十一面千手千眼観世音菩薩立像が安置されている。平安時代後期の作で、藤原時代中期の様式をそなえた端正典雅な立像。大阪・葛井寺(藤井寺)、奈良・唐招提寺のものと共に実際に千本の手を持つ千手観音三大名作(三大傑作)とされている。

一佛寺が流水した後、1431年にお隣宮津の佐牙(さが)神社の神宮寺の法楽寺に遷されたが、明治初年の神仏分離令により法楽寺が廃寺になり、寿宝寺に戻されたと云う。ただし、佐牙神社西の丘陵地に飛鳥時代からあった大寺院(名前が文献にないため、三山木廃寺と呼ばれる)の像であった可能性も考えられている。

その他、廃仏毀釈により、周辺の廃寺になった神宮寺から数多くの仏像がこの寺に遷され安置されている。聖徳太子立像は鎌倉時代、京の仏師・尾の道浄信師作で、太子16歳の像と云う。飛鳥時代、父の第31代用明天皇の病気平癒のために、香炉を捧げて祈願した孝養像。1875年に廃寺になった飯岡の蓮華寺より大般若経600巻、弘法大師像と共に遷された。

同じく1868年に廃寺となった佐牙神社神宮寺の恵日寺(えにちじ)から移されたご本尊の不動明王尊像や平安時代作の五大明王脇立の降三世明王と金剛夜叉明王、それに経本300巻(残り300巻は佐牙神社南の正福寺にある)も安置されている。さらに、本堂に、近代までのご本尊だった大日如来も安置されている。

山門の左側は佐牙神社の御旅所で、毎年10月17日の秋祭りでは山本地区と宮津の江津地区の2基の御輿が渡御し、百味(様々な美味、珍味)が供えられ、夜に巫女さんが釜に沸かした湯を撒き、御神楽を舞う湯立て神楽が行われる(下の写真2)。

お寺の山門に入る手前、東側に山本駅旧跡の碑が建つ。奈良時代の710年に大宝律令が成立すると、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7つの官通が整備され主要街道には駅を設置、駅馬・伝馬を置くことが定められた。翌711年、この辺りに山背(やましろ)国綴喜(つづき)郡山本駅が置かれた。平城京に通じた軍事的な意味を持つ駅制の都亭駅。

この地は平城京と太宰府を結ぶ山陽道の宿所として、また淀を経て丹波路へと続く山陰道の要所であり、西へは普賢寺谷より河内国へ、東へは木津川を経て古北陸道に通じる要衝地でもあった。官吏の往来のための駅舎があり、駅は築地で囲まれ、駅長(豪族)、駅子、駅馬、舟を備えた。駅門、宿舎、厩舎、倉庫、水飲み場、控室、休憩室などの建物があった。ただ、場所は特定されていない。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4373523582717632&type=1&l=223fe1adec

寿宝寺から府道を越え南に進み、東西に続く2本目の道を少し東に進むと古代山本里ならびに山本駅遺跡之碑がある。三山木の名前の由来の一つとなる山本地区では、縄文時代後期の石棒や石冠が発見され,また弥生時代前期の田中遺跡・宮ノ下遺跡や後期の天神山遺跡・飯丘遺跡などもあり、木津川水系に恵まれた初期の水稲耕作地帯であった。日本書紀にある「置山背國。今畝原・山村高麗人之先祖也。」と云う記述があり、この山村がこの山本郷を示す。

飛鳥時代、645年から始まった大化の改新により、班田収授之法が実施され、土地区画の条里制が敷かれ、この付近に綴喜郡第四條山本里が置かれた。この碑が建つ一角は中世の環濠集落趾である山本集落で、集落の北側に環濠跡とおぼしき狭い水路が残っている。

この碑から三山木駅に向かうと、左手に竹取翁博物館と云う建物がある。竹取物語の最後に「造麻呂が家は山本近かなり」と云う文章があり、この地こそその山本だと云う。同じく竹取物語の発祥の地を名乗る向日市に実家のある私としては、素直に同意できないけどね。考えてみると向日市に住んでたより、長く京田辺市に住んでるのに・・・

この博物館では物語絵巻襖絵をはじめ、物語に関連の地域資料を展示公開しており、別館の古民家かぐや姫では、物語の襖絵や屏風絵、ピアノコンサートやサミット等を開催している。2013年オープンで、予約制で見学できるそうだが、正直入りたい雰囲気ではないなあ・・・

JRの三山木駅から府道を北に渡ったところに立派な赤い鳥居があったので、大きな神社かと思ったら、天地の大神大親教会って。新興宗教か・・・

そう云えば、ここに限らないけど、この季節は百日紅(さるすべり)が綺麗。この山本で咲いてた花は白だったが、濃いピンクや淡ピンク、赤、紫などいろいろな色があり楽しめる。近鉄新田辺駅の西側のロータリーの濃いピンクの花も綺麗だった(下の写真3)。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4373529142717076&type=1&l=223fe1adec


以上

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  • 写真1 寿宝寺地蔵堂?

    写真1 寿宝寺地蔵堂?

  • 写真2 山本の百味と湯立

    写真2 山本の百味と湯立

  • 写真3 近鉄新田辺駅西側ロータリーの百日紅

    写真3 近鉄新田辺駅西側ロータリーの百日紅

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