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2020年11月1日(日)12時半過ぎ、特別公開されてた澤井家住宅の見学の後、月読神社に立ち寄る。澤井家住宅の西約1㎞。京田辺市の北部住民センター・大住中学校グランドと大住小学校との間にある。<br /><br />社伝によると、平安時代初期の809年に、社殿を平城京より平安京に遷した際、大住山において霊光を拝し、この地に社殿を建立したのを創建としている。859年には月読社と称する。<br /><br />鎌倉時代初めの1196年には、源頼朝から神馬の献上を受ける。中世にはたびたび兵乱、兵火を受けて、社殿の焼失と再興を繰り返した歴史があり、鎌倉時代末の笠置山の戦いでは後醍醐天皇の味方をして焼かれる。幕末の鳥羽伏見の戦いでは戦火を避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、御神宝が境内の薬師堂に安置された。<br /><br />月の神である月読尊と伊邪那岐(イザナギ)尊、伊邪那美(イザナミ)尊を祀っており、大社に位置づけられていた。月読尊は一般的にはツクヨミと呼ばれるが、伊勢神宮と月読神社ではツキヨミと呼ばれる。<br /><br />神宮寺として、宝生山福養寺が明治の初めごろまで存在し、奥ノ坊、新坊、中ノ坊、西ノ坊、北ノ坊、東ノ坊の六坊が備わっていたが、すべて廃寺となった。往事の社域は、大住小学校の北側あたりに北ノ坊の旧跡が調査で確認されており、かなり広大な社であったことがうかがえる。この神社と寺に奉納した能楽座を宝生座(外山座とも)と称した。<br /><br />毎年10月15日の例祭の宵宮(14日)には大住隼人舞が奉納され、無形民俗文化財に指定されている。隼人舞は岩戸神楽と共に日本民族芸能の二大源流とも云われる。奈良時代に九州南部から移住してきた大隅隼人が、郷土で行っていた舞を朝廷やこの神社に奉納して舞ったもので、この地が発祥地とされ一の鳥居の横に発祥之碑も建つ。また、この辺りの大住と云う地名も九州の大隅に由来と考えられている。<br /><br />一の鳥居は東向きに建っている。鳥居の先は石段で下る形になっており、いわゆる下り宮の格好となっている。石段を下りると右手に手水舎(下の写真1)。そこから小さな水路を渡ると二の鳥居。鳥居はいずれも石造り。<br /><br />鳥居の奥の拝殿は入母屋造・瓦葺きで1979年改築らしいが、拝殿の左には平成20年(2008年)改築記念の碑も建っている(下の写真2)。詳細不明。<br /><br />拝殿背後、玉垣に囲まれた区画が本殿域で、その中央に本殿が東面して鎮座する。一間社春日造・銅板葺(元は檜皮葺)の建物で、明治26年(1893年)に設計された。本殿を囲む玉垣の正面に鳥居を配置する珍しい構造だが、外からその鳥居は見えない。<br /><br />春日造は奈良の春日大社本殿の形式で、この様式は、奈良を中心に京都府南部、大阪府、和歌山県北部などに広く分布する。この辺り、大住地域の多くは、平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良興福寺の荘園であった。<br /><br />境内には境内社が6社鎮座する。いずれも鎮座由緒等は不明。一の鳥居の右側が金比羅神社。その向かいの小高い丘の上に稲荷神社。二の鳥居を抜けた先の右に天満宮。本殿域の左側の御霊神社は少し立派で、玉垣の中に一間社春日造・檜皮葺きの社殿が東面して鎮座。<br /><br />御霊神社の前には森の中に遠景の池があるが、その中島に辯才天社。この池の辺りは神宮寺の福養寺の奥ノ坊庭園の一部らしい。その庭園の出口辺りに西面して建つ小祠が足の神様。<br /><br />境内には遥拝所が5つもある。明治天皇御陵と伊勢神宮、八幡宮、神武天皇、愛宕社だが後の2つの写真はない。<br /><br />境内の一番奥、南西角付近に元薬師堂跡の碑が建つが、福養寺のお堂の一つがあったところ(下の写真3)。また、その近くに立つヤマモモは樹齢100年以上で、京田辺の未来に継ぐ古木・希木の一つに選ばれている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4873003439436308&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />大住車塚古墳に続く

京田辺 大住 月読神社(Tsukiyomi Shrine, Osumi, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2020/11/01 - 2020/11/01

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月1日(日)12時半過ぎ、特別公開されてた澤井家住宅の見学の後、月読神社に立ち寄る。澤井家住宅の西約1㎞。京田辺市の北部住民センター・大住中学校グランドと大住小学校との間にある。

社伝によると、平安時代初期の809年に、社殿を平城京より平安京に遷した際、大住山において霊光を拝し、この地に社殿を建立したのを創建としている。859年には月読社と称する。

鎌倉時代初めの1196年には、源頼朝から神馬の献上を受ける。中世にはたびたび兵乱、兵火を受けて、社殿の焼失と再興を繰り返した歴史があり、鎌倉時代末の笠置山の戦いでは後醍醐天皇の味方をして焼かれる。幕末の鳥羽伏見の戦いでは戦火を避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、御神宝が境内の薬師堂に安置された。

月の神である月読尊と伊邪那岐(イザナギ)尊、伊邪那美(イザナミ)尊を祀っており、大社に位置づけられていた。月読尊は一般的にはツクヨミと呼ばれるが、伊勢神宮と月読神社ではツキヨミと呼ばれる。

神宮寺として、宝生山福養寺が明治の初めごろまで存在し、奥ノ坊、新坊、中ノ坊、西ノ坊、北ノ坊、東ノ坊の六坊が備わっていたが、すべて廃寺となった。往事の社域は、大住小学校の北側あたりに北ノ坊の旧跡が調査で確認されており、かなり広大な社であったことがうかがえる。この神社と寺に奉納した能楽座を宝生座(外山座とも)と称した。

毎年10月15日の例祭の宵宮(14日)には大住隼人舞が奉納され、無形民俗文化財に指定されている。隼人舞は岩戸神楽と共に日本民族芸能の二大源流とも云われる。奈良時代に九州南部から移住してきた大隅隼人が、郷土で行っていた舞を朝廷やこの神社に奉納して舞ったもので、この地が発祥地とされ一の鳥居の横に発祥之碑も建つ。また、この辺りの大住と云う地名も九州の大隅に由来と考えられている。

一の鳥居は東向きに建っている。鳥居の先は石段で下る形になっており、いわゆる下り宮の格好となっている。石段を下りると右手に手水舎(下の写真1)。そこから小さな水路を渡ると二の鳥居。鳥居はいずれも石造り。

鳥居の奥の拝殿は入母屋造・瓦葺きで1979年改築らしいが、拝殿の左には平成20年(2008年)改築記念の碑も建っている(下の写真2)。詳細不明。

拝殿背後、玉垣に囲まれた区画が本殿域で、その中央に本殿が東面して鎮座する。一間社春日造・銅板葺(元は檜皮葺)の建物で、明治26年(1893年)に設計された。本殿を囲む玉垣の正面に鳥居を配置する珍しい構造だが、外からその鳥居は見えない。

春日造は奈良の春日大社本殿の形式で、この様式は、奈良を中心に京都府南部、大阪府、和歌山県北部などに広く分布する。この辺り、大住地域の多くは、平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良興福寺の荘園であった。

境内には境内社が6社鎮座する。いずれも鎮座由緒等は不明。一の鳥居の右側が金比羅神社。その向かいの小高い丘の上に稲荷神社。二の鳥居を抜けた先の右に天満宮。本殿域の左側の御霊神社は少し立派で、玉垣の中に一間社春日造・檜皮葺きの社殿が東面して鎮座。

御霊神社の前には森の中に遠景の池があるが、その中島に辯才天社。この池の辺りは神宮寺の福養寺の奥ノ坊庭園の一部らしい。その庭園の出口辺りに西面して建つ小祠が足の神様。

境内には遥拝所が5つもある。明治天皇御陵と伊勢神宮、八幡宮、神武天皇、愛宕社だが後の2つの写真はない。

境内の一番奥、南西角付近に元薬師堂跡の碑が建つが、福養寺のお堂の一つがあったところ(下の写真3)。また、その近くに立つヤマモモは樹齢100年以上で、京田辺の未来に継ぐ古木・希木の一つに選ばれている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4873003439436308&type=1&l=223fe1adec


大住車塚古墳に続く

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  • 写真1 手水舎

    写真1 手水舎

  • 写真2 拝殿改築記念碑

    写真2 拝殿改築記念碑

  • 写真3 元薬師堂跡

    写真3 元薬師堂跡

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