小田原旅行記(ブログ) 一覧に戻る
日本100名城巡り<br />☆28城目☆小田原城(No.23)<br /><br />神奈川県の100名城は、<br />小田原城(小田原市)の1城。<br /><br />今回で関東地方の100名城は制覇です。<br />・水戸城(茨城県)(No.14)<br />・足利氏館(栃木県)(No.15)<br />・箕輪城(群馬県)(No.16)<br />・金山城(群馬県)(No.17)<br />・鉢形城(埼玉県)(No.18)<br />・川越城(埼玉県)(No.19)<br />・佐倉城(千葉県)(No.20)<br />・江戸城(東京都)(No.21)<br />・八王子城(東京都)(No.22)<br />・小田原城(神奈川県)(No.23)

小田原城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻

44いいね!

2019/03/27 - 2019/03/27

345位(同エリア1805件中)

ケー

ケーさん

日本100名城巡り
☆28城目☆小田原城(No.23)

神奈川県の100名城は、
小田原城(小田原市)の1城。

今回で関東地方の100名城は制覇です。
・水戸城(茨城県)(No.14)
・足利氏館(栃木県)(No.15)
・箕輪城(群馬県)(No.16)
・金山城(群馬県)(No.17)
・鉢形城(埼玉県)(No.18)
・川越城(埼玉県)(No.19)
・佐倉城(千葉県)(No.20)
・江戸城(東京都)(No.21)
・八王子城(東京都)(No.22)
・小田原城(神奈川県)(No.23)

  • 2019年3月28日(水)<br /><br />横浜から新幹線こだまに乗って小田原到着。<br />小田原駅西口を出て、南方面にある小田原城へ向かいます。

    2019年3月28日(水)

    横浜から新幹線こだまに乗って小田原到着。
    小田原駅西口を出て、南方面にある小田原城へ向かいます。

    小田原駅

  • 遊歩道のように綺麗に整備されている「お堀端通り」<br />

    遊歩道のように綺麗に整備されている「お堀端通り」

  • お堀端通りの途中に【幸田門跡】があります。残念ながら作業中で中には入れませんでした。

    お堀端通りの途中に【幸田門跡】があります。残念ながら作業中で中には入れませんでした。

  • 「国指定史跡小田原城跡 三の丸土塁<br /> 指定昭和13年8月8日<br /> この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。<br />当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。<br /> この場所の西側に幸田門(こうだもん)という三の丸の入口がありました。<br />その跡の一部が発掘調査で見つかっています。<br /> 戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。」<br />(説明板より)

    「国指定史跡小田原城跡 三の丸土塁
     指定昭和13年8月8日
     この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。
    当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。
     この場所の西側に幸田門(こうだもん)という三の丸の入口がありました。
    その跡の一部が発掘調査で見つかっています。
     戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。」
    (説明板より)

  • 横にある駐車場(元・堀の跡)から「三の丸土塁」がちょっとだけ見えました。

    横にある駐車場(元・堀の跡)から「三の丸土塁」がちょっとだけ見えました。

  • お堀端通りを先に進むと右手に「二の丸東堀」が見えて来ます。<br /><br />「国指定史跡小田原城跡 二の丸東堀<br />   指定 昭和13年8月8日<br /> 小田原城は、江戸幕府の三代将軍家光の乳母、春日局の子稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。<br /> 二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中でもっとも大きなもので、幅は最大で約40mあり、現在よりもさらに北に約60m先まで続いていました。また、西は常磐木橋、南は南曲輪の前までつながっていました。<br /> 現在の石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものより高く、二の丸石垣として威厳のある姿を見せていました。」<br />(説明板より)

    お堀端通りを先に進むと右手に「二の丸東堀」が見えて来ます。

    「国指定史跡小田原城跡 二の丸東堀
       指定 昭和13年8月8日
     小田原城は、江戸幕府の三代将軍家光の乳母、春日局の子稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。
     二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中でもっとも大きなもので、幅は最大で約40mあり、現在よりもさらに北に約60m先まで続いていました。また、西は常磐木橋、南は南曲輪の前までつながっていました。
     現在の石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものより高く、二の丸石垣として威厳のある姿を見せていました。」
    (説明板より)

  • 【学橋(まなびばし)】

    【学橋(まなびばし)】

  • 【小田原城案内図】<br />正面入口(馬出門)から入る前に、「大手口門跡(鐘楼)」を見に行きます。

    【小田原城案内図】
    正面入口(馬出門)から入る前に、「大手口門跡(鐘楼)」を見に行きます。

  • 今回散策した順路<br />①小田原駅東口→お堀端通り<br />②幸田口門跡<br />③二の丸東掘→まなび橋<br />④大手門跡(鐘楼)<br />⑤馬出門土橋→馬出門→馬屋曲輪<br />⑥御茶壺曲輪→御茶壺橋<br />⑦御感の藤→南入口<br />⑧箱根口門跡<br />⑨住吉橋→銅門→二の丸<br />⑩本丸東掘跡→常磐木橋→常磐木門→本丸<br />⑪天守閣<br />⑫北入口→青橋→八幡山古郭東曲輪<br />⑬報徳二宮神社<br />⑭御用米曲輪→弁財天→城址の碑→北入口<br />⑮三の丸元蔵跡→お城通り→小田原駅東口<br />⑯小田原駅西口→北条早雲の像

    今回散策した順路
    ①小田原駅東口→お堀端通り
    ②幸田口門跡
    ③二の丸東掘→まなび橋
    ④大手門跡(鐘楼)
    ⑤馬出門土橋→馬出門→馬屋曲輪
    ⑥御茶壺曲輪→御茶壺橋
    ⑦御感の藤→南入口
    ⑧箱根口門跡
    ⑨住吉橋→銅門→二の丸
    ⑩本丸東掘跡→常磐木橋→常磐木門→本丸
    ⑪天守閣
    ⑫北入口→青橋→八幡山古郭東曲輪
    ⑬報徳二宮神社
    ⑭御用米曲輪→弁財天→城址の碑→北入口
    ⑮三の丸元蔵跡→お城通り→小田原駅東口
    ⑯小田原駅西口→北条早雲の像

  • 「【大手門跡】<br /> この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台があった場所にあります。<br /> 東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が建ち並んでいました。<br /> 大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が造られました。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保年間(1644~1648)に渡櫓門が建設され、延宝年間(1673~1681)には前面に冠木門が普請されました。渡櫓門と冠木門からなる大手門の規模は、銅門とほぼ同じです。<br /> 「寛永年間小田原城廓総図(通称「宮内庁図」)によると、渡櫓門の前には桝形勢溜が設けられ、さらに冠木門の外には長方形の馬出を設けて防御力を強化しています。城外とは幅9間半~11間(約17~20m)の三の丸堀で隔たられており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設けられていました。<br /> なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。」

    「【大手門跡】
     この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台があった場所にあります。
     東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が建ち並んでいました。
     大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が造られました。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保年間(1644~1648)に渡櫓門が建設され、延宝年間(1673~1681)には前面に冠木門が普請されました。渡櫓門と冠木門からなる大手門の規模は、銅門とほぼ同じです。
     「寛永年間小田原城廓総図(通称「宮内庁図」)によると、渡櫓門の前には桝形勢溜が設けられ、さらに冠木門の外には長方形の馬出を設けて防御力を強化しています。城外とは幅9間半~11間(約17~20m)の三の丸堀で隔たられており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設けられていました。
     なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。」

  • 「【鐘楼】<br /> この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。<br /> 時を知らせる「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行から遣わしている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。<br /> この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあっったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令を出し、鐘は応召される(「時鐘応召」と呼ばれた)。<br /> その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないということで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘がつくられた。これが現在の鐘である。」<br />(説明板より)

    「【鐘楼】
     この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。
     時を知らせる「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行から遣わしている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。
     この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあっったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令を出し、鐘は応召される(「時鐘応召」と呼ばれた)。
     その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないということで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘がつくられた。これが現在の鐘である。」
    (説明板より)

  • 二の丸東堀に戻ってお堀の周りをちょっと散策します。

    二の丸東堀に戻ってお堀の周りをちょっと散策します。

  • 二の丸東堀と二の丸隅櫓と学橋。

    二の丸東堀と二の丸隅櫓と学橋。

  • 馬出門と馬出門土橋(めがね橋)と二の丸隅櫓。

    馬出門と馬出門土橋(めがね橋)と二の丸隅櫓。

  • 二の丸東堀と馬屋曲輪東南石垣。

    二の丸東堀と馬屋曲輪東南石垣。

  • 二の丸東堀と馬屋曲輪東南石垣。

    二の丸東堀と馬屋曲輪東南石垣。

  • 馬出門土橋を渡って馬出門へ。<br /><br />「【馬出門】<br /> 馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。<br /> 石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。」

    馬出門土橋を渡って馬出門へ。

    「【馬出門】
     馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。
     石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門の二つの門から成ります。」

  • 【馬出門】<br /><br />「【石垣工事】<br /> 石垣は安山石という硬い石を使っています。門の南側は真鶴で産出する「小松石」を使い、北側は角石(すみいし)を除き石垣山一夜城近くで発見された、「早川石丁場」で出土した石を使いました。」

    【馬出門】

    「【石垣工事】
     石垣は安山石という硬い石を使っています。門の南側は真鶴で産出する「小松石」を使い、北側は角石(すみいし)を除き石垣山一夜城近くで発見された、「早川石丁場」で出土した石を使いました。」

  • 城内側から見た馬出門。<br />高さ約6.3m 幅約4.7m。<br /><br />「【馬出門桝形(うまだしもんますがた)】<br /> 馬出門桝形は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの在の場所に存在したと考えられますが、寛文12年(1672)に現在の姿に作り変えられたものです。<br /> 馬出門の整備事業は、平成15・16年度に発掘調査を行い、整備計画を立案し、平成17・18年度に石垣復元工事を、平成19・20年度で桝形の門と土塀(どべい)の復元工事を行いました。」

    城内側から見た馬出門。
    高さ約6.3m 幅約4.7m。

    「【馬出門桝形(うまだしもんますがた)】
     馬出門桝形は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの在の場所に存在したと考えられますが、寛文12年(1672)に現在の姿に作り変えられたものです。
     馬出門の整備事業は、平成15・16年度に発掘調査を行い、整備計画を立案し、平成17・18年度に石垣復元工事を、平成19・20年度で桝形の門と土塀(どべい)の復元工事を行いました。」

  • 「 【馬出門桝形の概要】<br /> 馬出門桝形は馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)の二つの門と周囲を土塀で囲まれた範囲をいいます。<br />二つの門は控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門(こうらいもん)形式」の門です。<br /> 馬出門 高さ約6.3m 幅約4.7m<br /> 内冠木門 高さ約5.3m 幅約3.6m<br /> 土塀 高さ約2.7m 地上高約4.3m 延長約88m<br /><br />【馬出門の発掘と整備計画】<br />発掘調査により桝形石垣の根石(基礎石)が見つかったことで、正しい門の位置が明らかになりました。これらの発掘の成果と絵図ばどの資料の検討を行い、復元整備計画が立てられました。」

    「 【馬出門桝形の概要】
     馬出門桝形は馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)の二つの門と周囲を土塀で囲まれた範囲をいいます。
    二つの門は控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門(こうらいもん)形式」の門です。
     馬出門 高さ約6.3m 幅約4.7m
     内冠木門 高さ約5.3m 幅約3.6m
     土塀 高さ約2.7m 地上高約4.3m 延長約88m

    【馬出門の発掘と整備計画】
    発掘調査により桝形石垣の根石(基礎石)が見つかったことで、正しい門の位置が明らかになりました。これらの発掘の成果と絵図ばどの資料の検討を行い、復元整備計画が立てられました。」

  • 内冠木門。<br />高さ約5.3m 幅約3.6m。

    内冠木門。
    高さ約5.3m 幅約3.6m。

  • 土塀。<br />高さ約2.7m 地上高約4.3m 延長約88m。<br /><br />「【門・土塀工事】<br /> 馬出門と内冠木門は、柱や扉は「ケヤキ」、屋根の下地は「サワラ」、<br />土塀の控柱は「クリ」、土塀などの柱などは「ヒノキ」が使われています。<br />土塀は、伝統的な工法により作られており、荒壁塗りから仕上げの漆喰塗りまで<br />7~8回も塗っては乾かすという、大変手間がかかる工程を経て仕上げられています。<br /> 門や土塀に葺かれた瓦は、発掘で出土した江戸時代の瓦を忠実に復元したものが使われています。」(説明板より)

    土塀。
    高さ約2.7m 地上高約4.3m 延長約88m。

    「【門・土塀工事】
     馬出門と内冠木門は、柱や扉は「ケヤキ」、屋根の下地は「サワラ」、
    土塀の控柱は「クリ」、土塀などの柱などは「ヒノキ」が使われています。
    土塀は、伝統的な工法により作られており、荒壁塗りから仕上げの漆喰塗りまで
    7~8回も塗っては乾かすという、大変手間がかかる工程を経て仕上げられています。
     門や土塀に葺かれた瓦は、発掘で出土した江戸時代の瓦を忠実に復元したものが使われています。」(説明板より)

  • 「【馬屋曲輪】<br /> 城址公園の南側に位置し、三の丸から二の丸に入る大手筋(正式な登城ルート)の重要な曲輪です。三の丸から馬出門、お茶壷曲輪からは中仕切門から馬屋曲輪へ入り洞門へと続きます。江戸城代では、登城者に対しての番所として機能していたようです。馬屋曲輪には大腰掛や馬屋、二重隅櫓などの建物があり、曲輪の外周は土塀と石垣で覆われていました。また内側は馬出門から大腰掛、馬屋、中仕切門と板塀が巡らされていました。」<br />(説明板より)

    「【馬屋曲輪】
     城址公園の南側に位置し、三の丸から二の丸に入る大手筋(正式な登城ルート)の重要な曲輪です。三の丸から馬出門、お茶壷曲輪からは中仕切門から馬屋曲輪へ入り洞門へと続きます。江戸城代では、登城者に対しての番所として機能していたようです。馬屋曲輪には大腰掛や馬屋、二重隅櫓などの建物があり、曲輪の外周は土塀と石垣で覆われていました。また内側は馬出門から大腰掛、馬屋、中仕切門と板塀が巡らされていました。」
    (説明板より)

  • 「【大腰掛跡】<br />登城者の待機所や番所として用いられた建物。<br />長さ 十二間(約23.64m)<br />奥行 三間半(約6.895m)」

    「【大腰掛跡】
    登城者の待機所や番所として用いられた建物。
    長さ 十二間(約23.64m)
    奥行 三間半(約6.895m)」

  • 「【切石敷井戸】(きりいししきいど)<br />円礫(安山岩)を積み上げ、上部は溶結凝灰岩(小田原石・水道石・風祭石とも言われる)の切り石で外周を円、内周を六角形に配した井戸。」

    「【切石敷井戸】(きりいししきいど)
    円礫(安山岩)を積み上げ、上部は溶結凝灰岩(小田原石・水道石・風祭石とも言われる)の切り石で外周を円、内周を六角形に配した井戸。」

  • 「【雁木】(がんぎ)<br />土塁上へ登るための階段。発掘調査で初めて確認され、溶結凝灰岩(小田原石・水道石・風祭石とも言われる)製。もともと斜めに設置されていた。」

    「【雁木】(がんぎ)
    土塁上へ登るための階段。発掘調査で初めて確認され、溶結凝灰岩(小田原石・水道石・風祭石とも言われる)製。もともと斜めに設置されていた。」

  • 「【馬屋跡】<br />登城者が馬を繋ぐための建物。徳川将軍家来城時専用の馬屋と考えられる。<br />長さ 二十一間(約41.37m)<br />奥行 三間半(約6.895m)」

    「【馬屋跡】
    登城者が馬を繋ぐための建物。徳川将軍家来城時専用の馬屋と考えられる。
    長さ 二十一間(約41.37m)
    奥行 三間半(約6.895m)」

  •  【 二の丸観光案内所】

    【 二の丸観光案内所】

  • 【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ)】

    【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ)】

  • 【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 御茶壺蔵跡】の説明板

    【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 御茶壺蔵跡】の説明板

  • 【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 御茶壺蔵跡】

    【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 御茶壺蔵跡】

  • 【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 番所跡】の説明板

    【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 番所跡】の説明板

  • 【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 番所跡】

    【御茶壺曲輪(おちゃつぼくるわ) 番所跡】

  • 御茶壺曲輪の【土塁】

    御茶壺曲輪の【土塁】

  • 【南堀の大賀(オオガ)ハス】<br />南曲輪南掘(御感の藤棚前)に群生しており、7月中旬から8月中旬ぐらいが見ごろです。

    【南堀の大賀(オオガ)ハス】
    南曲輪南掘(御感の藤棚前)に群生しており、7月中旬から8月中旬ぐらいが見ごろです。

  • 【小峰橋(御茶壺橋)】

    【小峰橋(御茶壺橋)】

  • 【御感(ぎょかん)の藤】(藤棚)<br />昭和32年3月30日 小田原市天然記念物指定<br />昭和59年12月 かながわの名木百選選定<br />樹齢約200年

    【御感(ぎょかん)の藤】(藤棚)
    昭和32年3月30日 小田原市天然記念物指定
    昭和59年12月 かながわの名木百選選定
    樹齢約200年

  • 【箱根口門跡】(はこねぐちもんあと)<br />石垣は、桝形の東の櫓台です。

    【箱根口門跡】(はこねぐちもんあと)
    石垣は、桝形の東の櫓台です。

  • 馬屋曲輪から見た銅門と天守閣。

    馬屋曲輪から見た銅門と天守閣。

  • 【銅門(あかがねもん)】<br /><br />「小田原城と銅門(あかがねもん)<br /> 銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔たられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。」<br />(説明板より)

    【銅門(あかがねもん)】

    「小田原城と銅門(あかがねもん)
     銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔たられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。」
    (説明板より)

  • 「【銅門(あかがねもん)】<br />江戸時代の二の丸正門に位置づけられている門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。<br /> 桝形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。<br /> 地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。<br /> 現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元しました。銅門の梁にはマツ、桂と扉にはヒノキが使われています。」<br />(説明板より)

    「【銅門(あかがねもん)】
    江戸時代の二の丸正門に位置づけられている門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。
     桝形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。
     地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。
     現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元しました。銅門の梁にはマツ、桂と扉にはヒノキが使われています。」
    (説明板より)

  • 一の門(内仕切門)

    一の門(内仕切門)

  • 二の門(櫓門)

    二の門(櫓門)

  • 飾り金具に銅を使用している扉。<br />梁にはマツと桂、扉にはヒノキが使われている。

    飾り金具に銅を使用している扉。
    梁にはマツと桂、扉にはヒノキが使われている。

  • 二の丸側から見た銅門。

    二の丸側から見た銅門。

  • 「小田原市指定天然記念物(昭和56年3月30日指定) <br /> 小田原城跡のビャクシン<br /> 所在 城内3-22<br /> 樹相 目通り幹囲 3.1m<br /> 株本周囲 約3.9m<br /> 樹高 約15m<br /> 枝張り状況 東西約12m、南北約15m<br /> ビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。<br /> この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。<br /> 小田原市教育委員会」(説明板より)

    「小田原市指定天然記念物(昭和56年3月30日指定)
     小田原城跡のビャクシン
     所在 城内3-22
     樹相 目通り幹囲 3.1m
     株本周囲 約3.9m
     樹高 約15m
     枝張り状況 東西約12m、南北約15m
     ビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。
     この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。
     小田原市教育委員会」(説明板より)

  • 「【伝 銅門礎石】<br /> この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。使用状況は、復元した銅門をご覧いただくと解りますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加<br />工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホソ穴に柱材を固定して礎石としました。<br /> 箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tもある立派なものです。」<br />(説明板より)

    「【伝 銅門礎石】
     この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。使用状況は、復元した銅門をご覧いただくと解りますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加
    工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホソ穴に柱材を固定して礎石としました。
     箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tもある立派なものです。」
    (説明板より)

  • 「【銅門 土塀模型】<br /> この土塀模型は、江戸時代の工法、技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。<br /> 使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たしました。<br /> 皆さんに古い建築の工法をわかりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合より寄贈を受けたものです。」<br />(説明板より)

    「【銅門 土塀模型】
     この土塀模型は、江戸時代の工法、技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち製作したものです。
     使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめるため重要な役割を果たしました。
     皆さんに古い建築の工法をわかりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合より寄贈を受けたものです。」
    (説明板より)

  • 【小田原城歴史見聞館】

    【小田原城歴史見聞館】

    小田原城NINJA館(歴史見聞館) 美術館・博物館

  • 「【二の丸御殿跡】<br /> 江戸時代の小田原城には、将軍の宿泊専用の「本丸御殿」と、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持った「二の丸御殿」の二つの御殿がありました。<br /> 「二の丸御殿」は、三大将軍家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間(1624~44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものでした。しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊し炎上してしまいました。その後再建され、徐々に増築されたものの、以前の姿には到底及ばないものでした。」

    「【二の丸御殿跡】
     江戸時代の小田原城には、将軍の宿泊専用の「本丸御殿」と、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持った「二の丸御殿」の二つの御殿がありました。
     「二の丸御殿」は、三大将軍家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間(1624~44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものでした。しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊し炎上してしまいました。その後再建され、徐々に増築されたものの、以前の姿には到底及ばないものでした。」

  • 【二の丸隅櫓】<br /> 江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平櫓がありました。この櫓は、関東大震災(大正12年:1923)後に再建された平櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれています。

    【二の丸隅櫓】
     江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平櫓がありました。この櫓は、関東大震災(大正12年:1923)後に再建された平櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれています。

  • 二の丸東堀から見た【二の丸隅櫓】

    二の丸東堀から見た【二の丸隅櫓】

  • 小田原市指定天然記念物(昭和49年3月30日指定) <br /> 【小田原城跡のイヌマキ】<br /> 所在 城内3-22<br /> 樹相 目通り幹囲 4.5m<br /> 株本周囲 約6m<br /> 樹高 約20m<br /> 枝張り状況 東西25m、南北13m

    小田原市指定天然記念物(昭和49年3月30日指定)
     【小田原城跡のイヌマキ】
     所在 城内3-22
     樹相 目通り幹囲 4.5m
     株本周囲 約6m
     樹高 約20m
     枝張り状況 東西25m、南北13m

  • 「【本丸東掘跡】<br /> 江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸堀とつながる水堀となっています。発掘調査によって、この本丸東掘の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常磐木橋で、水鳥の池は堀の名残と言えます。」<br />(説明板より)

    「【本丸東掘跡】
     江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸堀とつながる水堀となっています。発掘調査によって、この本丸東掘の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることがわかりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常磐木橋で、水鳥の池は堀の名残と言えます。」
    (説明板より)

  • 赤い橋は「常磐木橋」です。

    赤い橋は「常磐木橋」です。

  • 本丸東掘に架けられた常磐木橋を渡って本丸へ。

    本丸東掘に架けられた常磐木橋を渡って本丸へ。

  • 「【常磐木門(ときわぎもん)】<br /> 本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。<br /> 元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。<br /> 現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治初期に撮影した写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。<br /> 常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。」<br />(説明板より)

    「【常磐木門(ときわぎもん)】
     本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。
     元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
     現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治初期に撮影した写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。
     常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。」
    (説明板より)

    小田原城 常盤木門(SAMURAI館) 名所・史跡

  • 【常磐木門】

    【常磐木門】

  • 「【本丸跡】<br /> 小田原城本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央にはかつて本丸御殿が存在しました。本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました東南側の門は、本丸の正面にあたる常磐木門(ときわぎもん)、北側の門は、裏門にあたる鉄門(くろがねもん)とそれぞれ呼ばれています。<br /> 天守閣は、元禄16年(1703)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しましたが、宝永3年(1706)に再建されました。以後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)の廃城によって取り壊されました。<br /> 現在の天守閣は、昭和35年(1960)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリート造で復興されたものです。本丸御殿は、寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたもので元禄16年(1703)の地震により焼失して以来再建されませんでした。元禄年間の姿を伝える宮内庁図には、本丸の南側に七本松と呼ばれた松が描かれていますが、現存する巨松(おおまつ)は、七本松の最後の1本で樹齢400年を越えるものです。」

    「【本丸跡】
     小田原城本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央にはかつて本丸御殿が存在しました。本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました東南側の門は、本丸の正面にあたる常磐木門(ときわぎもん)、北側の門は、裏門にあたる鉄門(くろがねもん)とそれぞれ呼ばれています。
     天守閣は、元禄16年(1703)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しましたが、宝永3年(1706)に再建されました。以後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)の廃城によって取り壊されました。
     現在の天守閣は、昭和35年(1960)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリート造で復興されたものです。本丸御殿は、寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたもので元禄16年(1703)の地震により焼失して以来再建されませんでした。元禄年間の姿を伝える宮内庁図には、本丸の南側に七本松と呼ばれた松が描かれていますが、現存する巨松(おおまつ)は、七本松の最後の1本で樹齢400年を越えるものです。」

  • 「【小田原城跡本丸の巨(おお)マツ】<br />   和名:クロマツ(マツ科)<br />   かながわの名木100選 昭和59年12月選定<br /> 天保年間の相中雑誌「御本丸に七本松という老松・・・」とある松の生き残りと思われる城跡内最大の巨木である。<br /> 小田原市の天然記念物の指定されている。<br /> 樹高 30m、胸高 周囲5.3m、樹齢 約400年(推定)<br /> クロマツは、本州から九州の海岸に生える常緑の針葉高木で、アカマツとともに防風林、砂防林や街道の並木道に植えられることが多い。<br /> 樹高45m、胸高周囲10m、樹齢約800年に達するものもあるといわれている。」<br />(説明板より)

    「【小田原城跡本丸の巨(おお)マツ】
       和名:クロマツ(マツ科)
       かながわの名木100選 昭和59年12月選定
     天保年間の相中雑誌「御本丸に七本松という老松・・・」とある松の生き残りと思われる城跡内最大の巨木である。
     小田原市の天然記念物の指定されている。
     樹高 30m、胸高 周囲5.3m、樹齢 約400年(推定)
     クロマツは、本州から九州の海岸に生える常緑の針葉高木で、アカマツとともに防風林、砂防林や街道の並木道に植えられることが多い。
     樹高45m、胸高周囲10m、樹齢約800年に達するものもあるといわれている。」
    (説明板より)

  • 【サルの檻】<br />なぜお城の本丸にサルが?<br />以前はもっと動物がいましたが、施設は順次縮小されて現在残っているのはニホンザルの檻だけだそうです。

    【サルの檻】
    なぜお城の本丸にサルが?
    以前はもっと動物がいましたが、施設は順次縮小されて現在残っているのはニホンザルの檻だけだそうです。

    小田原動物園 動物園・水族館

  • 「【インドゾウのウメ子】<br />ウメ子は、昭和25年に推定3歳で来園したインドゾウです。<br />約60年にわたり多くの市民と観光客から親しまれていましたが、平成21年9月17年推定62歳で永眠しました。このレリーフ(作柏木康兵)は、ウメ子の来園に尽力いただいた西村楽天氏から昭和31年に寄贈されたものです。」<br /><br />インドゾウのウメ子ちゃんがいたんですね。大昔に小田原城に来たことがあったので私もウメ子ちゃんに会っていたかもしれません。

    「【インドゾウのウメ子】
    ウメ子は、昭和25年に推定3歳で来園したインドゾウです。
    約60年にわたり多くの市民と観光客から親しまれていましたが、平成21年9月17年推定62歳で永眠しました。このレリーフ(作柏木康兵)は、ウメ子の来園に尽力いただいた西村楽天氏から昭和31年に寄贈されたものです。」

    インドゾウのウメ子ちゃんがいたんですね。大昔に小田原城に来たことがあったので私もウメ子ちゃんに会っていたかもしれません。

  • 【本丸広場】<br />忍者の顔出しパネルが人気です。

    【本丸広場】
    忍者の顔出しパネルが人気です。

  • 【本丸広場】<br />売店の横にこたつ席がありました。まだ寒いからこたつでおでんもいいですね。

    【本丸広場】
    売店の横にこたつ席がありました。まだ寒いからこたつでおでんもいいですね。

  • 「【小田原城】<br /> 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。<br /> 北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。<br /> 明治3年(1670)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。<br /> 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。<br />  昭和35年(1960)?天守閣復興<br />  昭和46年(1971)?常盤木門再建<br />  平成?9年(1960)?銅門復元<br />  平成21年(2009)?馬出門復元<br />  平成28年(2016)?天守閣リニューアル<br />    常盤木門SAMURAI館オープン」(説明板より)

    「【小田原城】
     小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。
     北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。
     明治3年(1670)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。
     現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。
      昭和35年(1960)?天守閣復興
      昭和46年(1971)?常盤木門再建
      平成?9年(1960)?銅門復元
      平成21年(2009)?馬出門復元
      平成28年(2016)?天守閣リニューアル
        常盤木門SAMURAI館オープン」(説明板より)

    小田原城 名所・史跡

  • 「【小田原城天守閣】<br /> 「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。<br /> 江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。<br /> 江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。<br /> 寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。<br /> 元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。<br /> 現在の天守閣は、昭和35年(1960)の市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたももです。<br /> 復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。<br /> 天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。<br /> 標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。」<br />(説明板より)

    「【小田原城天守閣】
     「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。
     江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。
     江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。
     寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。
     元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。
     現在の天守閣は、昭和35年(1960)の市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたももです。
     復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。
     天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。
     標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。」
    (説明板より)

  • 天守の中に入ります。

    天守の中に入ります。

  • 天守内案内図<br />館内は撮影禁止です。

    天守内案内図
    館内は撮影禁止です。

  • 天守からの眺望<br />西(箱根方面)<br />最上階は展望フロアで、360度パノラマの高欄付廻縁からは海も山も眺められて最高です。

    天守からの眺望
    西(箱根方面)
    最上階は展望フロアで、360度パノラマの高欄付廻縁からは海も山も眺められて最高です。

  • 天守からの眺望<br />南(真鶴・伊豆半島方面)

    天守からの眺望
    南(真鶴・伊豆半島方面)

  • 天守からの眺望<br />東(相模湾方面)

    天守からの眺望
    東(相模湾方面)

  • 天守からの眺望<br />北(丹沢方面)

    天守からの眺望
    北(丹沢方面)

  • 天守1階のミュージアムショップにスノードームがありましたー♪<br />「丸ドーム」って初めて聞く名称!<br />金と銀の両方を大人買いです!

    天守1階のミュージアムショップにスノードームがありましたー♪
    「丸ドーム」って初めて聞く名称!
    金と銀の両方を大人買いです!

  • 一旦、小田原城址公園を出て、八幡山古郭東曲輪まで移動して来ました。

    一旦、小田原城址公園を出て、八幡山古郭東曲輪まで移動して来ました。

  • 【八幡山古郭東曲輪】

    【八幡山古郭東曲輪】

    八幡山古郭東曲輪 公園・植物園

  • 【八幡山古郭(はちまんやまこかく)・総構(そうかまえ)】の説明板

    【八幡山古郭(はちまんやまこかく)・総構(そうかまえ)】の説明板

  • 【八幡山古郭東曲輪(はちまんやまこかくひがしくるわ)】の説明板

    【八幡山古郭東曲輪(はちまんやまこかくひがしくるわ)】の説明板

  • 八幡山古郭東曲輪から見る天守。

    八幡山古郭東曲輪から見る天守。

  • 小田原城址公園に戻って来ました。<br /><br />【滑り落ちた本丸の石垣】

    小田原城址公園に戻って来ました。

    【滑り落ちた本丸の石垣】

  • 【滑り落ちた本丸の石垣】の説明板

    【滑り落ちた本丸の石垣】の説明板

  • 【報徳二宮神社 城址口鳥居】

    【報徳二宮神社 城址口鳥居】

    報徳二宮神社 (小田原市) 寺・神社・教会

  • 【小峯曲輪北堀】<br />報徳二宮神社の境内は北条氏によって造成された小峯曲輪にあたります。小峯とは天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名です。

    【小峯曲輪北堀】
    報徳二宮神社の境内は北条氏によって造成された小峯曲輪にあたります。小峯とは天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名です。

  • 【小峯曲輪北堀】の説明板<br />

    【小峯曲輪北堀】の説明板

  • 【御社殿】

    【御社殿】

  • 「【二宮金次郎像】<br /> 昭和3年、昭和天皇の即位御大礼記念として、神戸の中村直吉氏が寄贈したもので、制作者は三代目慶寺丹長、材質はブロンズ、その後これと同じ像は全国の小学校などに向けて約一千体制作されたが、戦時中、すべて供出に遭い、現在残っているのは、この一体だけである。<br /> なお、この像は当時のメートル法普及の意図を反映して、丁度1メートルの高さに制作されている」(説明板より)

    「【二宮金次郎像】
     昭和3年、昭和天皇の即位御大礼記念として、神戸の中村直吉氏が寄贈したもので、制作者は三代目慶寺丹長、材質はブロンズ、その後これと同じ像は全国の小学校などに向けて約一千体制作されたが、戦時中、すべて供出に遭い、現在残っているのは、この一体だけである。
     なお、この像は当時のメートル法普及の意図を反映して、丁度1メートルの高さに制作されている」(説明板より)

  • 【きんじろうカフェ】<br />神社内にはおしゃれなカフェがありました。

    【きんじろうカフェ】
    神社内にはおしゃれなカフェがありました。

    きんじろうカフェ グルメ・レストラン

  • 【御用米曲輪(ごようまいくるわ】<br />現在整備中で立ち入り禁止でした。

    【御用米曲輪(ごようまいくるわ】
    現在整備中で立ち入り禁止でした。

  • 【蓮池弁財天の記】

    【蓮池弁財天の記】

  • 【北入口前の城址の碑】<br />小田原城址公園北入口から出て小田原駅に帰ります。

    【北入口前の城址の碑】
    小田原城址公園北入口から出て小田原駅に帰ります。

  • 道の途中にあった【小田原城三の丸元蔵跡第Ⅱ地点・三の丸元蔵堀第Ⅱ地点の発掘調査】の説明板。

    道の途中にあった【小田原城三の丸元蔵跡第Ⅱ地点・三の丸元蔵堀第Ⅱ地点の発掘調査】の説明板。

  • この辺りは三の丸元蔵跡。

    この辺りは三の丸元蔵跡。

  • 小田原駅構内にあった「二宮尊徳(金次郎)像」<br /><br />小田原駅東口に戻ってから「北条早雲の像」を見に西口へ。

    小田原駅構内にあった「二宮尊徳(金次郎)像」

    小田原駅東口に戻ってから「北条早雲の像」を見に西口へ。

  • 【北条早雲の像】

    【北条早雲の像】

    北条早雲像 名所・史跡

  • スタンプは天守の入口受付で押しました。<br />デザインは、馬屋曲輪から見た銅門と天守閣です。

    スタンプは天守の入口受付で押しました。
    デザインは、馬屋曲輪から見た銅門と天守閣です。

44いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

この旅行記の地図

拡大する

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP