2017/04/28 - 2017/04/28
150位(同エリア511件中)
ケーさん
日本100名城巡り
☆20城目☆金山城(No.17)
群馬県の100名城は、
箕輪城(高崎市)
金山城(太田市)
の2城。
群馬県1城目の登城は金山城です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2017年4月28日(金)
12:05 久喜駅に到着。久喜駅 駅
-
久喜から太田までは、東武鉄道「特急りょうもう」で、37分ほどです。
-
13:01 途中駅の「足利市」。
太田駅と近いです。時間があったら金山城の後に栃木県の100名城「足利氏館」にも寄りたいです。 -
13:30 太田駅北口からタクシーに乗って15分ほどでモータープール(山上の駐車場)に到着。帰りも電話してタクシーに駐車場まで来てもらいます。
-
こちらはハイキングコースマップ。
-
こちらが金山城マップです。
【史跡金山城跡】
「太田市のシンボルである金山に築かれた金山城は、文明元(1469)年から天正18(1590)年まで「難攻不落」を誇った名城です。昭和9(1934)年に県内で初めて城跡として国の史跡指定を受けました。平成6(1994)年からスタートした史跡金山城跡環境整備事業では、発掘調査結果に基づいて、敵を惑わす複雑な「通路形態」の復元を目指した整備を行っています。復元された戦国時代の通路を歩きながら、当時の山城の状況に思いをはせてみてください。また通路周辺で発見された、中世における関東の山城では極めて珍しい「石垣」の復元整備も行っています。平成13(2001)年には、物見台から日ノ池までの1.4haの範囲における第1期整備事業が完成しました。天守閣のある城とは違う雰囲気を持つ「石垣の山城」金山城跡を、どうぞゆっくりご覧下さい。」(説明板より) -
金山城跡の碑の前からスタートです。
【金山城の歴史】
「金山城は、文明元年(1469)に新田(岩松)家純の命により築城されました(『松陰私語』)。その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏)が下剋上により実質上の金山城主となり、全盛を築きました。
越後上杉氏、甲斐武田氏、相模小田原北条氏など有力戦国大名の抗争の狭間にあった上野(こうずけ)で、金山城主由良氏は、上杉氏や小田原北条氏との従属関係を保ちながら生き残りを図りました。その間、金山城下は10数回もの攻撃を受けますが、金山城は一度も城の中枢にまで攻め込まれず、その堅固さを誇りました。ところが、天正12年(1584)金山城は小田原北条氏の謀略により直接支配下に入り、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原北条氏討伐により廃城となりました。」(パンフレットより)史跡金山城跡 名所・史跡
-
【西矢倉台西堀切(にしやぐらだいにしほりきり)】
西矢倉台西堀切は、西城から実城(みじょう)(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、通路の先は桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いています。また、通路の北側には柱穴(ちゅうけつ)(柱を支えるために掘られた穴)があり、敵兵の北側からの侵入を防ぐための柵があったと考えられます。
※堀切とは、山の尾根筋を意図的に分断し、敵の侵攻を防ぐための施設です。山城では土塁と共に基本的な防御施設です。 -
【西矢倉台西堀切】
-
【西矢倉台下堀切(にしやぐらだいしたほりきり)】
西矢倉台下堀切は、西矢倉台の西下に造られた防御施設で、西城から実城(みじょう)(本丸)へ向かう間の二番目の堀切となります。
比較的小さな堀切ですが、西側が3.4m、東側が7.4m の深さがあり、敵の侵入を阻んでいます。 -
西矢倉台跡へ向かう通路
-
西矢倉台跡からの眺望 (南方面)
-
【西矢倉台通路】
西矢倉台通路の発掘調査では、新旧2時期の通路が確認されました。 -
【西矢倉台通路】
西矢倉台と馬場曲輪をつなぐ内部通路です。
通路の向こうに馬場下通路の石垣が少し見えています。 -
【馬場下通路】
-
【馬場下通路】
-
【馬場下通路】
「物見台下虎口」です。
※虎口(こぐち)・・・城や曲輪への出入り口のこと。
※曲輪(くるわ)・・・尾根や傾斜地を人工的に平らにしたところ。 -
【物見台下虎口】
-
【物見台下堀切】
物見台下虎口の横にあり、写真右上に物見台があります。
岩盤を人工的に削って造った堀切です。 -
【馬場下通路】
写真の右奥に堅堀があります。 -
【堅堀(たてぼり)】
堅堀の脇には石垣で作った土塁があり、堀底には通路がありました。
※竪堀・・・斜面からの敵の侵入を防ぐために掘られた防御施設。 -
【馬場下通路】
-
馬場下通路内の「礎石建物址」
-
馬場下通路は、 敵を惑わせるため、行き止まりになっています。
階段を上がって物見台に向かいます。 -
物見台へ。
-
【馬場通路・石塁】
物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は、北の長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられています。さらに、長手口から、北側の岩盤を険しく見せるための視覚的効果を意識して、この石塁の上に築地塀(ついじべい)が造られていたと考えられます。しかし、調査では上部の崩落が著しく、塀の痕跡は発見されませんでした。
物見台から東の南側斜面際では、石敷きされた通路が発見されました。この通路は、物見台と東側に位置する馬場曲輪を結ぶと共に、途中で南下にある馬場下通路へと分岐しています。 -
【大手口馬場跡】
-
奥に見えるのが【物見台】です。
-
【物見台】
「物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。
この物見台からは、金山城の周囲が良く見渡せるため、敵(上杉謙信:天正2年)は、物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。
※矢倉台に残る4本の柱穴位置に遺構表示施設を造りましたが、物見矢倉を復元したものではありません。」 -
物見台からの展望。
南方面。太田市の方です。 -
【馬場曲輪(ばばくるわ)】
「物見台から、東に向う通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。
馬場曲輪の調査では、岩盤を剃り貫いた柱穴が240個以上見つかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。また、建物は少なくとも5回の建て替え、曲輪の生活面は3回の造成があり、頻繁に造り替えを行っていたことも明らかになりました。
廃城時期の馬場曲輪における、建物3棟のうち両側の2棟は平面表示としました。また、中央の1棟は柱穴の位置を利用して、新たに四阿(あずまや)を建てました。そのほか、曲輪の中央部分に石組み排水路、曲輪全体を囲む柵列の存在も明らかとなり、あわせて整備しました。」 -
【馬場曲輪】
建物址を利用して建てられた四阿(あずまや)。 -
【三ノ丸下塹壕】
-
馬場曲輪から先に進みます。
-
【大堀切】
-
【月の池】
「発掘調査前の月ノ池は、汚泥が堆積する窪地状の池でしたが、調査の結果、月ノ池も日ノ池と同様に上下二段の石垣で囲まれた戦国時代の池だったことが明らかになりました。下段の石垣は、石敷き平坦面から約2m下に積まれており、その内側からからは加工された建築部材や石垣の石が多量に投げ込まれた状況が見つかりました。なお、この石垣については、最上部以外に、戦国時代の石垣をそのまま残して整備しました。月ノ池の底は、粘度層になっており、谷斜面からの表流水や浸透水が溜まるようになっていたことが分かりました。また、月ノ池は、池の石垣が一段しかなかった時代があったことも分かりました。月ノ池は谷地形を利用して造られているため、一段の石垣だけでは集中豪雨時に水があふれたと考えられます。そのため、水があふれないように、かつ水をより多く蓄えられるように、池の中心を東に移動させ上下二段の石垣に改修したものと考えられます。」(説明板より) -
【月の池】
-
大手虎口へ。
-
【大手虎口(おおてこぐち)】
「虎口は、城や城内の各曲輪への出入口部を指し、「小口」とも書かれます。敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に守られています。また一方、虎口の「構え」は、「格の高さ」を示す空間ともなっています。
金山城跡にも数多くの虎口がありますが、なかでもこの大手虎口は、一大防御拠点として、また「城の格」を示す象徴的な場所として、最も重要な虎口と言えます。大手虎口は谷地形を利用して築かれ、月ノ池脇から正面土塁までの大規模な「構え」となっていました。月ノ池脇の門から続く緩やかに曲げた大手通路、それを守るため見下ろすように両側に配した壇状の曲輪とそこを守り場とした兵達の各種建物、大手通路の行く手をふさぐよう築かれた正面土塁、横矢を射るために築かれた壇状の土塁などがありました。このような大規模で複雑な虎口の構造は、全国的にも特徴的であり、「難攻不落」を誇った金山城を象徴する場所の一つと言えましょう。また、通路脇や曲輪内を走る石組み水路は、城の維持のために効果的に排水を行う往時の工夫であったと考えられます。」(説明板より) -
【大手虎口】
-
大手虎口の石垣。
-
大手虎口の石垣。
-
【日ノ池】
「日ノ池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や、二ヶ所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷きの下からは日ノ池へ通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。これらの調査の結果をもとに、往時の姿を可能な限り再現しています。石垣や石敷きはできる限り当時のままで残しました。
日ノ池は、山の上では希な大池であり、金山城における象徴的な場所の一つです。ここは単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。
また、水の信仰とかかわる平安時代の遺物も発見されており、日ノ池が立地する場所は築城以前から神聖な場所であったようです。」(説明板より) -
【御台所曲輪】
南端側に新田神社の二の鳥居があります。 -
【御台所曲輪】
「本城」の説明板が立っています。
【本城】
「金山城の中枢で、水ノ手郭を中心として約1万坪ある。実城とも言い城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。主要郭は六ヶ所、腰郭は三ヶ所、武者造り、堀切りは壕内道を兼ねている。本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。」(説明板より) -
【金山の大ヒノキ】
「ケヤキは、落葉高木で東アジアの一部と日本に分布します。日本では本州・四国・九州に分布、暖地では丘陵部~山地、寒冷地では平地まで自生し、高さ20~25mの大木となります。本樹木は金山山頂にある、樹高17m、目通り周6.79mの大ケヤキです。樹高はそれほど高くはありませんが、目通り周においては県内でも上位に位置し、枝張りも40mを越えます。金山山頂の金山城実城域にあり、推定樹齢800年ほどとも伝えられる大木で、金山のシンボル的存在です。樹勢が良好で、まとまった幹を持っており樹形も大変趣があります。また神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われます。昭和初期までケヤキの大木は7本あったといわれていますが、現在は1本のみです。推定樹齢800年ほどであるとすれば、金山城の興亡を見てきた歴史の証人ともいえます。」(説明板より) -
石段を上がると本丸(実城)跡です。
-
「史跡金山城阯」の碑。
-
本丸跡には、新田義貞を祀る新田神社があります。
【新田神社】
「本城金山城の中枢で、水ノ手郭を中心として約1万坪ある。実城とも言い城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。主要郭は六ヶ所、腰郭は三ヶ所、武者造り、堀切りは壕内道を兼ねている。本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。(看板資料より)天主曲輪本城最高位の郭で、戦前本丸と言われたところである。西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は「神水」と呼ばれていた。廃城後は、新田義貞を祀る新田祠という小さな石宮があった。構造上の特徴としては、東北の角を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。」(説明板より) -
【金山城主系図】
-
【三嶽神社】
-
【三嶽神社の由緒】
-
【梅若稲荷神社】
-
新田神社の狛犬。
-
新田神社の狛犬。
-
新田神社の狛犬の後ろ姿。
「かまえ型(勇み型)」の狛犬だそうです。 -
【天主曲輪】
「本城最高位の郭で、戦前本丸と言われたところである。
西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は「神水」と呼ばれていた。
廃城後は、新田義貞を祀る新田祠という小さな石宮があった。
構造上の特徴としては、東北の角を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。」(説明板より) -
【宮城遥拝(きゅうじょうようはい)所】
-
謎の砲弾。説明板がないので詳細はわかりません。
柵に「金山239m」の表示板が付いています。 -
本丸跡からの眺望。
-
【南曲輪】
【史跡金山城跡】
「今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元(1469)年に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12(1584)年小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。天正18年、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を残す結果となっています。昭和9(1934)年には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や竹・下草で覆われ、城の面影は失われてしまいましたが、調査の結果大規模かつ複雑な虎口形態を持っていたことや、更に曲輪斜面の石垣、石敷通路や土塁石垣など随所に石を多用している山城であったことが明らかとなって来ました。往時(中世末)における関東の山城としては、極めて珍しい「石垣の城」という様相が明らかとなりつつあります。太田市では、この貴重な文化遺産を護り、難攻不落の堅固な金山城の姿を可能な限り再現し、市民の「憩いの場」「歴史学習の場」として広く活用されることを願っております。」(説明板より) -
【中島知久平の胸像】
富士重工業の前身の中島飛行機の創業者です。 -
4月に紅葉?
綺麗です。 -
【井戸跡】
「虎口曲輪で生活していた武士達が使用していた井戸と思われます。井戸底に補強のための木枠が残っています。」(説明板より) -
【金山城跡地形模型】
-
【日本百名城の碑】
-
【南曲輪休憩所】
ここが休憩所で、日本100名城スタンプ設置所です。 -
【金山小鳥がさえずる森】
-
大手虎口前から曲輪下の舗装道路を歩いて駐車場の辺りに戻り、見附出丸へ。
-
【見附塹壕】と【西城筋違城門】の標柱。
-
【見附出丸】
「見附出丸は、金山城の西側を守る最前線としての性格が考えられる場所です。北土塁と筋違いに位置する南土塁は、発掘調査の結果、北土塁ののように石垣ではなく、厚く堆積した砂層の上に土を叩き締めながら作られていることがわかりました。そして北脇には「排水」を意識していたと考えられる拳大の凝灰岩が見られました。また土塁の上面からは柱穴列が見つかりました。この柱穴列により、柵があった可能性が考えられます。」(説明板より) -
100名城スタンプのデザインは、大手虎口と日の池です。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
日本100名城巡り
-
江戸城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2015/11/22~
丸の内・大手町・八重洲
-
姫路城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2015/12/06~
姫路
-
松阪城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2016/01/16~
松阪
-
名古屋城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2016/01/18~
名古屋
-
犬山城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2016/03/26~
犬山
-
明石城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2017/01/15~
明石
-
金山城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2017/04/28~
太田
-
足利氏館ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2017/04/28~
足利
-
箕輪城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2017/05/03~
高崎
-
千早城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2017/05/20~
河南・太子
-
和歌山城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2017/06/11~
和歌山市
-
福岡グルメと観光とお城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2018/02/17~
福岡
-
竹田城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2018/04/02~
朝来・生野
-
小田原城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻
2019/03/27~
小田原
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 日本100名城巡り
0
72