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日本100名城巡り<br />☆24城目☆和歌山城(No.62)<br /><br />和歌山県の100名城は、<br />和歌山城(和歌山市)の1城です。

和歌山城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻

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2017/06/11 - 2017/06/11

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ケー

ケーさん

日本100名城巡り
☆24城目☆和歌山城(No.62)

和歌山県の100名城は、
和歌山城(和歌山市)の1城です。

  • 2017年6月11日(日)<br /><br />JR和歌山駅から徒歩10分。<br />和歌山城に到着です。<br /><br />

    2017年6月11日(日)

    JR和歌山駅から徒歩10分。
    和歌山城に到着です。

  • 大手門と一の橋

    大手門と一の橋

  • 【大手門】<br /><br />「【史跡 和歌山城】<br />天正(てんしょう)13年(1585)、羽柴(はしば)(豊臣)秀吉(ひでよし)が奇襲を平定し、弟の秀長(ひでなが)に命じて岡山(虎伏山)(とらふすやま)の峰に創建したのが和歌山城。藤堂高虎(とうどうたかとら)らが普請奉行(ふしんぶぎょう)を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭(きんせいじょうかく)といえる。秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴(くわやましげはる)が城代(じょうだい)を勤めた。秀長家が途絶(とだ)えると、桑山氏が城主となる。豊臣・桑山時代に山嶺(さんれい)部分や岡口の整備に取り組んだ。<br /> 慶長(けいちょう)5年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長(あさのよしなが)が37万6千石の領主となり、城の大規模な増築を行なった。連立式(れんりつしき)天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。<br /> 元和(げんな)5年(1619)、徳川家康(とくがわいえやす)の十男・頼宣(よりのぶ)が55万5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立する。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋めたて、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は、「南海(なんかい)の鎮(しずめ)」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗(よしむね)、十四代将軍家茂(いえもち)を輩出した。<br /> 明治4年(1871)の廃藩置県(はいはんちけん)により、和歌山城は陸軍省の管轄(かんかつ)となる。明治34年和歌山公園として一般に公開され、昭和6年(1931)に史跡に指定された。」<br />(パンフレットより)

    【大手門】

    「【史跡 和歌山城】
    天正(てんしょう)13年(1585)、羽柴(はしば)(豊臣)秀吉(ひでよし)が奇襲を平定し、弟の秀長(ひでなが)に命じて岡山(虎伏山)(とらふすやま)の峰に創建したのが和歌山城。藤堂高虎(とうどうたかとら)らが普請奉行(ふしんぶぎょう)を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭(きんせいじょうかく)といえる。秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴(くわやましげはる)が城代(じょうだい)を勤めた。秀長家が途絶(とだ)えると、桑山氏が城主となる。豊臣・桑山時代に山嶺(さんれい)部分や岡口の整備に取り組んだ。
     慶長(けいちょう)5年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長(あさのよしなが)が37万6千石の領主となり、城の大規模な増築を行なった。連立式(れんりつしき)天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。
     元和(げんな)5年(1619)、徳川家康(とくがわいえやす)の十男・頼宣(よりのぶ)が55万5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立する。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋めたて、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は、「南海(なんかい)の鎮(しずめ)」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗(よしむね)、十四代将軍家茂(いえもち)を輩出した。
     明治4年(1871)の廃藩置県(はいはんちけん)により、和歌山城は陸軍省の管轄(かんかつ)となる。明治34年和歌山公園として一般に公開され、昭和6年(1931)に史跡に指定された。」
    (パンフレットより)

  • 和歌山市観光キャラクター「吉宗くん」の顔出しパネルがありました。

    和歌山市観光キャラクター「吉宗くん」の顔出しパネルがありました。

  • 「【伏虎像】<br /> 江戸時代、和歌山城は別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれている。これは、城の建つ山が、海上から見ると猛虎が伏している姿に似ているからである。現在では、「虎伏城」、「伏虎城」などとも呼ばれている。<br /> この像は、二代目にあたる、初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著『紀ノ川』にも登場するが、銅像であったため、戦時下の昭和17年(1942)に供出されている。」(説明板より)

    「【伏虎像】
     江戸時代、和歌山城は別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれている。これは、城の建つ山が、海上から見ると猛虎が伏している姿に似ているからである。現在では、「虎伏城」、「伏虎城」などとも呼ばれている。
     この像は、二代目にあたる、初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著『紀ノ川』にも登場するが、銅像であったため、戦時下の昭和17年(1942)に供出されている。」(説明板より)

  • 【二の丸広場】

    【二の丸広場】

  • 「【二の丸・表】<br /> 和歌山城は二の丸に殿様の居館や藩の政庁が置かれました。本丸が山上にあり、不便で手狭なためです。二之丸には東部から表・中奥・大奥に分かれます。表は藩主が謁見や儀式を行なう場所で、藩主は身分格式で座る部屋を決められていました。唐門は幕府の上使を迎える門で、通常は横の表玄関から入り、遠侍(来客や警備の侍の控室)・大広間(公式行事の場)・対面所(応接の場)と続きます。明治18(1885)年、大広間を中心とした建物は大阪城内に移築され、紀州御殿と呼ばれましたが、昭和22(1947)年占領軍の失火で焼失しました。<br /> 表は、藩の政庁として役人が政務を執る場所でもありました。脇玄関の中ノ口を入ると番所、控室、詰所、執務室などの御用部屋が設けられています。」

    「【二の丸・表】
     和歌山城は二の丸に殿様の居館や藩の政庁が置かれました。本丸が山上にあり、不便で手狭なためです。二之丸には東部から表・中奥・大奥に分かれます。表は藩主が謁見や儀式を行なう場所で、藩主は身分格式で座る部屋を決められていました。唐門は幕府の上使を迎える門で、通常は横の表玄関から入り、遠侍(来客や警備の侍の控室)・大広間(公式行事の場)・対面所(応接の場)と続きます。明治18(1885)年、大広間を中心とした建物は大阪城内に移築され、紀州御殿と呼ばれましたが、昭和22(1947)年占領軍の失火で焼失しました。
     表は、藩の政庁として役人が政務を執る場所でもありました。脇玄関の中ノ口を入ると番所、控室、詰所、執務室などの御用部屋が設けられています。」

  • 城内案内図

    城内案内図

    和歌山城 名所・史跡

  • 表坂からの登り口です。

    表坂からの登り口です。

  • 登ります。

    登ります。

  • 松の丸角櫓跡から岡口門が見えます。

    松の丸角櫓跡から岡口門が見えます。

  • 松の丸角櫓跡から動物園が見えます。

    松の丸角櫓跡から動物園が見えます。

  • 松の丸の「七福の庭」辺りです。<br />更に天守閣へ向かって登ります。

    松の丸の「七福の庭」辺りです。
    更に天守閣へ向かって登ります。

  • 天守の一の門跡辺りの枡形です。かなり登ります。もうへろへろですが天守閣はもうすぐです。

    天守の一の門跡辺りの枡形です。かなり登ります。もうへろへろですが天守閣はもうすぐです。

  • 楠門から天守閣の中に入ります。<br /><br />「【楠門】<br />天守閣二の門にあたり、総楠木造りであったため楠門と称されている。<br />弘化三年(一八四六)雷火消失に伴い嘉永三年(一八五〇)再建され国宝建造物として指定を受けていたが昭和二十年(一九四五)戦火のため、またもその姿を消した。<br />再建年月日 昭和三十三年十月一日<br />構造形式 楼門造り本瓦葺(太柱および門板は楠を使用)<br />建面積 延一〇二、四平方メートル」(説明板より)

    楠門から天守閣の中に入ります。

    「【楠門】
    天守閣二の門にあたり、総楠木造りであったため楠門と称されている。
    弘化三年(一八四六)雷火消失に伴い嘉永三年(一八五〇)再建され国宝建造物として指定を受けていたが昭和二十年(一九四五)戦火のため、またもその姿を消した。
    再建年月日 昭和三十三年十月一日
    構造形式 楼門造り本瓦葺(太柱および門板は楠を使用)
    建面積 延一〇二、四平方メートル」(説明板より)

  • 【二の門櫓】(小天守)

    【二の門櫓】(小天守)

  • 【天守入口】<br />左が小天守、右が大天守です。

    【天守入口】
    左が小天守、右が大天守です。

  • 「【天守閣】<br />和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓(いぬいやぐら)、二の門櫓、楠門を多聞(たもん)によって連結させた連立式天守閣である。<br />各層の屋根には唐破風(からはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を交互に配し、上層階には物見のための高欄(こうらん)をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。<br />とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。<br />現在の天守閣は、昭和二十年七月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和三十三年十月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。<br /> 再建年月日 昭和三十三年十月一日<br /> 天守台面積 二、六四〇平方メートル<br /> 大天守閣高 二三、四二メートル(海抜七二、三二メートル)」<br />(説明板より)

    「【天守閣】
    和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓(いぬいやぐら)、二の門櫓、楠門を多聞(たもん)によって連結させた連立式天守閣である。
    各層の屋根には唐破風(からはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を交互に配し、上層階には物見のための高欄(こうらん)をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。
    とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。
    現在の天守閣は、昭和二十年七月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和三十三年十月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。
     再建年月日 昭和三十三年十月一日
     天守台面積 二、六四〇平方メートル
     大天守閣高 二三、四二メートル(海抜七二、三二メートル)」
    (説明板より)

  • 【天守閣模型】

    【天守閣模型】

  • 【石落とし】

    【石落とし】

  • 【鬼瓦】

    【鬼瓦】

  • 【鯱】

    【鯱】

  • 大天守からの眺望。<br />東方面。<br />本丸御殿跡と内堀が見えます<br />

    大天守からの眺望。
    東方面。
    本丸御殿跡と内堀が見えます

  • 大天守からの眺望。<br />西方面。<br />乾櫓が見えます。遠くには淡路島と六甲山が見えます。

    大天守からの眺望。
    西方面。
    乾櫓が見えます。遠くには淡路島と六甲山が見えます。

  • 大天守からの眺望。<br />南方面。

    大天守からの眺望。
    南方面。

  • 大天守からの眺望。<br />北方面。<br />小天守と遠くに和泉山脈が見えます。

    大天守からの眺望。
    北方面。
    小天守と遠くに和泉山脈が見えます。

  • 【埋門(うずみもん)】

    【埋門(うずみもん)】

  • 「埋門」の説明板

    「埋門」の説明板

  • 【乾櫓】

    【乾櫓】

  • 【天守】<br />本丸跡から大天守を見上げます。

    【天守】
    本丸跡から大天守を見上げます。

  • 【天守】

    【天守】

  • 【楠門(二の門)】

    【楠門(二の門)】

  • 【小天守】

    【小天守】

  • 【鞠と殿さまの歌碑】

    【鞠と殿さまの歌碑】

  • 【鞠と殿さまの歌碑】の説明板

    【鞠と殿さまの歌碑】の説明板

  • 【新裏坂】

    【新裏坂】

  • 【鶴の門跡】

    【鶴の門跡】

  • 【鶴の渓】

    【鶴の渓】

  • 「鶴の渓」の説明板

    「鶴の渓」の説明板

  • 紫陽花(あじさい)が咲いていました。

    紫陽花(あじさい)が咲いていました。

  • 綺麗です。

    綺麗です。

  • 【西之丸庭園】<br />前方には御橋廊下が見えます。

    【西之丸庭園】
    前方には御橋廊下が見えます。

  • 【鳶魚閣(えんぎょかく)】

    【鳶魚閣(えんぎょかく)】

  • 復元された「御橋廊下(おはしろうか)」と「西之丸」の説明板

    復元された「御橋廊下(おはしろうか)」と「西之丸」の説明板

  • 【御橋廊下】

    【御橋廊下】

  • 【穴蔵状遺構】

    【穴蔵状遺構】

  • 「穴蔵状遺構」と「化石のある和泉砂岩」の説明板

    「穴蔵状遺構」と「化石のある和泉砂岩」の説明板

  • 【化石のある和泉砂岩】

    【化石のある和泉砂岩】

  • 「発掘調査により発見された江戸時代の遺構」と「二之丸(大奥部分)」の説明板<br /><br />「【二之丸(大奥部分)】<br />二之丸は、紀州藩の政治を執り行う場であり、藩主の生活の場でもありました。<br />そこには、多くの御殿がありました。御殿はその使われ方で表・中奥・大奥に分かれていました。表は藩主が謁見や儀式を行うとともに藩の政庁として諸役人が政務を執る場所でした。中奥は藩主の居間や家老や側近のものが詰める場所でした。<br />大奥は側室や奥女中が生活する場所で藩主のみしか入れませんでした。」

    「発掘調査により発見された江戸時代の遺構」と「二之丸(大奥部分)」の説明板

    「【二之丸(大奥部分)】
    二之丸は、紀州藩の政治を執り行う場であり、藩主の生活の場でもありました。
    そこには、多くの御殿がありました。御殿はその使われ方で表・中奥・大奥に分かれていました。表は藩主が謁見や儀式を行うとともに藩の政庁として諸役人が政務を執る場所でした。中奥は藩主の居間や家老や側近のものが詰める場所でした。
    大奥は側室や奥女中が生活する場所で藩主のみしか入れませんでした。」

  • 【二之丸(大奥部分)】

    【二之丸(大奥部分)】

  • 忍者体験をしました。<br />忍法隠れ身の術!

    忍者体験をしました。
    忍法隠れ身の術!

  • 100名城スタンプは天守前のチケット売り場で押しました。<br />岡口門から見た天守がデザインされています。

    100名城スタンプは天守前のチケット売り場で押しました。
    岡口門から見た天守がデザインされています。

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