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日本100名城巡り<br />☆22城目☆箕輪城(No.16)<br /><br />群馬県の100名城は、<br />箕輪城(高崎市)<br />金山城(太田市)(スタンプ済)<br />の2城。<br />今回で群馬県の2城は制覇です。

箕輪城ちょこっと旅 日本100名城巡りの巻

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2017/05/03 - 2017/05/03

253位(同エリア697件中)

ケー

ケーさん

日本100名城巡り
☆22城目☆箕輪城(No.16)

群馬県の100名城は、
箕輪城(高崎市)
金山城(太田市)(スタンプ済)
の2城。
今回で群馬県の2城は制覇です。

  • 2017年5月3日(水)<br /><br />まずは、スタンプ設置場所の「高崎市箕輪支所(箕郷公民館)」に向かいます。<br />高崎駅西口2番バス停から「箕郷行き」バスに乗ること約30分。最寄りのバス停「四ツ谷」で下車。<br />バス停から歩いて「高崎市箕輪支所」へ。<br />祝日なので箕郷支所はお休みですが、裏の守衛室に受付窓口がありスタンプをもらえました。<br />ここからが大変。箕輪城跡まで歩く歩く!

    2017年5月3日(水)

    まずは、スタンプ設置場所の「高崎市箕輪支所(箕郷公民館)」に向かいます。
    高崎駅西口2番バス停から「箕郷行き」バスに乗ること約30分。最寄りのバス停「四ツ谷」で下車。
    バス停から歩いて「高崎市箕輪支所」へ。
    祝日なので箕郷支所はお休みですが、裏の守衛室に受付窓口がありスタンプをもらえました。
    ここからが大変。箕輪城跡まで歩く歩く!

  • 日頃の運動不足で坂道の登りがきつい。。。

    日頃の運動不足で坂道の登りがきつい。。。

  • バスは出ていますが本数が少ないです。

    バスは出ていますが本数が少ないです。

  • 道に迷いながら箕輪支所から32分ほど歩いて、ようやく箕輪城の「搦手口」に到着。というか他の入口から入った方が近かった!

    道に迷いながら箕輪支所から32分ほど歩いて、ようやく箕輪城の「搦手口」に到着。というか他の入口から入った方が近かった!

  • 「【搦手口】<br />長野氏時代から北条氏時代までは、ここが大手口(追手)だったが、井伊氏時代に城の南方に城下町が築かれ、ここが搦手口(裏手)になったといわれている」<br />(説明板より)<br />「搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。ここにも「馬出し」があった。長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口となったといわれている。」

    「【搦手口】
    長野氏時代から北条氏時代までは、ここが大手口(追手)だったが、井伊氏時代に城の南方に城下町が築かれ、ここが搦手口(裏手)になったといわれている」
    (説明板より)
    「搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。ここにも「馬出し」があった。長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口となったといわれている。」

  • 搦手口には、花が綺麗に植えられています

    搦手口には、花が綺麗に植えられています

  • 菜の花も咲いています。春ですね~

    菜の花も咲いています。春ですね~

  • 箕輪城跡マップ

    箕輪城跡マップ

  • 「【二の丸】<br />二の丸は縦横各80メートル程の郭で、本丸が持久防御のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。」<br />(説明板より)

    「【二の丸】
    二の丸は縦横各80メートル程の郭で、本丸が持久防御のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。」
    (説明板より)

  • 「【本丸門馬出し】<br /> 東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。<br /> 本丸の南側の突き出している部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。」(説明板より)

    「【本丸門馬出し】
     東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。
     本丸の南側の突き出している部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。」(説明板より)

  • 本丸が見えてきました。

    本丸が見えてきました。

  • 「【本丸】<br />本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。」(説明板より)

    「【本丸】
    本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。」(説明板より)

  • 【箕輪城跡の碑】<br /><br />「【箕輪城】 歴史<br /> 箕輪城は、明応、永正年間(1492~1521)に長野尚業(なおなり)(業尚)が築城し、子憲業(のりなり)、孫業政(なりまさ)により強化された。<br /> 長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。<br /> 特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り城兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は、<br /> 春風にうめも桜も散りはてて 名のみぞ残る箕輪の山里<br />という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は60余年である。<br /> 武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。<br /> 天正18(1590)年、北条氏滅亡後、徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。<br /> 構造 箕輪城跡の標高は270メートル。面積は47ヘクタールに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼。東と北とは水堀を回らして守りを固めている。<br /> 城は深さ十数メートルに及ぶ大堀切で南北に二分され、更に西北から東南の中心線に沿って深く広い空掘に隔てられた多くの郭が配置されている。<br /> 御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸などによって城の用水は完備していた。殊に法峯寺郭は江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。<br /> 六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。」<br />(説明板より)

    【箕輪城跡の碑】

    「【箕輪城】 歴史
     箕輪城は、明応、永正年間(1492~1521)に長野尚業(なおなり)(業尚)が築城し、子憲業(のりなり)、孫業政(なりまさ)により強化された。
     長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。
     特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り城兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は、
     春風にうめも桜も散りはてて 名のみぞ残る箕輪の山里
    という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は60余年である。
     武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
     天正18(1590)年、北条氏滅亡後、徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
     構造 箕輪城跡の標高は270メートル。面積は47ヘクタールに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼。東と北とは水堀を回らして守りを固めている。
     城は深さ十数メートルに及ぶ大堀切で南北に二分され、更に西北から東南の中心線に沿って深く広い空掘に隔てられた多くの郭が配置されている。
     御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸などによって城の用水は完備していた。殊に法峯寺郭は江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。
     六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。」
    (説明板より)

    箕輪城 名所・史跡

  • 「この石垣は、土塁の土が崩れないように作られたものです。三段ほどに積まれ堀にそって長く続いているようです。石垣の上は「犬走り」と呼ばれる通路になっています。城の改築のときに作られたものでしょうが最近の発掘でみつかりました。」<br />(説明板より)

    「この石垣は、土塁の土が崩れないように作られたものです。三段ほどに積まれ堀にそって長く続いているようです。石垣の上は「犬走り」と呼ばれる通路になっています。城の改築のときに作られたものでしょうが最近の発掘でみつかりました。」
    (説明板より)

  • 【本丸 北虎口】の説明板<br />

    【本丸 北虎口】の説明板

  • 本丸と御前曲輪の間の空堀

    本丸と御前曲輪の間の空堀

  • 「【御膳曲輪】<br /> 御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。<br /> 落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。」<br />(説明板より)

    「【御膳曲輪】
     御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。
     落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。」
    (説明板より)

  • 「【御膳曲輪 井戸】<br /> 昭和2(1927)年8月15日、豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで古井戸が確認されました。<br /> 深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出されました。」<br />(説明板より)

    「【御膳曲輪 井戸】
     昭和2(1927)年8月15日、豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで古井戸が確認されました。
     深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出されました。」
    (説明板より)

  • 【箕輪城武士慰霊碑】

    【箕輪城武士慰霊碑】

  • 【御前曲輪西虎口門跡】

    【御前曲輪西虎口門跡】

  • 「御前曲輪西虎口門跡」の説明板

    「御前曲輪西虎口門跡」の説明板

  • 「【御前曲輪 芭蕉句碑】<br /> 夏草や 兵どもが 夢の跡<br /> 筆者は安田一雨(箕郷町東明屋)だといわれています。<br /> 一雨(元文5(1740)年~文政11(1828)年)は通称磯右衛門といわれ、前橋の松井素輪に俳句を学びました。」<br />(説明板より)

    「【御前曲輪 芭蕉句碑】
     夏草や 兵どもが 夢の跡
     筆者は安田一雨(箕郷町東明屋)だといわれています。
     一雨(元文5(1740)年~文政11(1828)年)は通称磯右衛門といわれ、前橋の松井素輪に俳句を学びました。」
    (説明板より)

  • 彰忠碑の前にあった砲弾。。。<br />はっ!!<br />これは、金山城の本丸にもあった砲弾では!同じ群馬県のお城だし関係あるに違いない!しかしここにも説明書きがなく謎のまま。。。

    彰忠碑の前にあった砲弾。。。
    はっ!!
    これは、金山城の本丸にもあった砲弾では!同じ群馬県のお城だし関係あるに違いない!しかしここにも説明書きがなく謎のまま。。。

  • 「【御膳曲輪北堀】<br />ここで堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪の3つの郭が、それぞれくちばし状にここに集まっている。3つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くことができる。」(説明板より)

    「【御膳曲輪北堀】
    ここで堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪の3つの郭が、それぞれくちばし状にここに集まっている。3つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くことができる。」(説明板より)

  • 【新曲輪】

    【新曲輪】

  • 【稲荷曲輪】<br />草ぼうぼうで立ち入りにくいです。

    【稲荷曲輪】
    草ぼうぼうで立ち入りにくいです。

  • 「稲荷曲輪」の説明板

    「稲荷曲輪」の説明板

  • 平坦で広い曲輪です。

    平坦で広い曲輪です。

  • 【稲荷神社】<br />説明板に書いてある櫓台を登ってみました。

    【稲荷神社】
    説明板に書いてある櫓台を登ってみました。

  • 稲荷曲輪と新曲輪の間にある堀跡。

    稲荷曲輪と新曲輪の間にある堀跡。

  • パンフレットがないので、今どこにいるのかわかりません。

    パンフレットがないので、今どこにいるのかわかりません。

  • 地図発見。<br />現在地はここのようです。

    地図発見。
    現在地はここのようです。

  • 三ノ丸に向かいます。

    三ノ丸に向かいます。

  • 三の丸へと続く堀の中の道。<br />左上が本丸、左前方が二の丸です。

    三の丸へと続く堀の中の道。
    左上が本丸、左前方が二の丸です。

  • 【三の丸】

    【三の丸】

  • 【三の丸発掘調査】の説明板

    【三の丸発掘調査】の説明板

  • 「【三の丸門跡と石垣】<br />城中の石垣で、比較的良く残っているのはここである。三の丸は二の丸の外にある郭である。入口の三の丸門には西側の石垣の上を渡した櫓があり、その下が通路であった。」(説明板より)

    「【三の丸門跡と石垣】
    城中の石垣で、比較的良く残っているのはここである。三の丸は二の丸の外にある郭である。入口の三の丸門には西側の石垣の上を渡した櫓があり、その下が通路であった。」(説明板より)

  • 「【三の丸の石垣】<br /> 追手門から本丸へ至る大手ルートを固めている井伊時代に使われていた石垣です。1999年の発掘調査で基部が1m埋まっていることが確認され、当時の高さは4.1mにも及んだことが明らかになりました。城内では最も高く、関ケ原の戦い(1660年)以前の関東地方の城郭でも有数の規模です。河原石を用いた野面積みで、一人では運べない大きめの石を用いています。」(説明板より)

    「【三の丸の石垣】
     追手門から本丸へ至る大手ルートを固めている井伊時代に使われていた石垣です。1999年の発掘調査で基部が1m埋まっていることが確認され、当時の高さは4.1mにも及んだことが明らかになりました。城内では最も高く、関ケ原の戦い(1660年)以前の関東地方の城郭でも有数の規模です。河原石を用いた野面積みで、一人では運べない大きめの石を用いています。」(説明板より)

  • 「【大堀切】<br /> この大堀切は東西に走り城を北と南の二つに分けている。<br /> こういう大規模な堀を、鍬と「もっこ」で築いた人々の労苦がしのばれる。<br />  昭和59年1月 箕郷町」(説明板より)<br /><br />ここからでは木が多すぎて下はよく見えませんでした。

    「【大堀切】
     この大堀切は東西に走り城を北と南の二つに分けている。
     こういう大規模な堀を、鍬と「もっこ」で築いた人々の労苦がしのばれる。
      昭和59年1月 箕郷町」(説明板より)

    ここからでは木が多すぎて下はよく見えませんでした。

  • 【二の丸】

    【二の丸】

  • 「【大堀切】<br />この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見せている。」(説明板より)

    「【大堀切】
    この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見せている。」(説明板より)

  • 【大堀切】

    【大堀切】

  • 【土橋】

    【土橋】

  • 「【郭馬出】<br /> 郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出るところである。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。<br /> 高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。<br /> 昭和57年1月 箕輪城跡保存会」<br />(説明板より)

    「【郭馬出】
     郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出るところである。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。
     高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。
     昭和57年1月 箕輪城跡保存会」
    (説明板より)

  • 【郭馬出】

    【郭馬出】

  • 【郭馬出西虎口門】

    【郭馬出西虎口門】

  • 「郭馬出西虎口門」の説明板

    「郭馬出西虎口門」の説明板

  • 「【木俣】<br />通路が二俣、三俣のように五つの方向に分かれるのを木俣という。ここはその形をしているので木俣とよばれる。」(説明板より)

    「【木俣】
    通路が二俣、三俣のように五つの方向に分かれるのを木俣という。ここはその形をしているので木俣とよばれる。」(説明板より)

  • 「木俣の発掘調査」の説明板

    「木俣の発掘調査」の説明板

  • 【木俣】

    【木俣】

  • 郭馬出西虎口門から木俣曲輪方面を眺めます。

    郭馬出西虎口門から木俣曲輪方面を眺めます。

  • 東側の大堀切の底より東方面(搦手口方面)を見ます。<br />左上が二の丸です。

    東側の大堀切の底より東方面(搦手口方面)を見ます。
    左上が二の丸です。

  • 東側の大堀切の底より郭馬出方面を見ます。<br />大堀切の底を歩けるのが嬉しいです。

    東側の大堀切の底より郭馬出方面を見ます。
    大堀切の底を歩けるのが嬉しいです。

  • 搦手口に戻ります。

    搦手口に戻ります。

  • JR高崎駅に到着。<br />ここから家までは2時間30分。まだまだ先は長いです(^_^;)

    JR高崎駅に到着。
    ここから家までは2時間30分。まだまだ先は長いです(^_^;)

    JR高崎線 乗り物

  • 「高崎市箕輪支所(箕郷公民館)」で押した100名城スタンプ。<br />デザインは、本丸にあった「箕輪城跡」の石碑です。

    「高崎市箕輪支所(箕郷公民館)」で押した100名城スタンプ。
    デザインは、本丸にあった「箕輪城跡」の石碑です。

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