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大分と福岡の名城巡り、中津城の紹介です。中津城の展示室は、豊富な資料と説明資料が用意され、日本の科学の始まりとも評される、『解体新書』と、その翻訳苦心談などが記された『蘭学事始』のことが、詳しく紹介されていました。

2018暮、大分の日本百名城(18/31):12月20日(8):中津城(7):城内展示品、陣羽織

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

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大分と福岡の名城巡り、中津城の紹介です。中津城の展示室は、豊富な資料と説明資料が用意され、日本の科学の始まりとも評される、『解体新書』と、その翻訳苦心談などが記された『蘭学事始』のことが、詳しく紹介されていました。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
  • 〇展示室の入口付近の光景です。『蘭学の里・中津に夢と希望を』のキャッチ・フレーズと、『蘭学の泉ここに涌く』の添え字がありました。その下には、『中津ロータリー倶楽部創立50周年展示』と、中津ロータリー関係者らしい写真もありました。ここからは、復興二重櫓の中の展示室になるようです。(中津城公式サイト、ウィキペディア)

    〇展示室の入口付近の光景です。『蘭学の里・中津に夢と希望を』のキャッチ・フレーズと、『蘭学の泉ここに涌く』の添え字がありました。その下には、『中津ロータリー倶楽部創立50周年展示』と、中津ロータリー関係者らしい写真もありました。ここからは、復興二重櫓の中の展示室になるようです。(中津城公式サイト、ウィキペディア)

  • 見開きにされた『蘭学事始』です。高齢になった日本蘭学の先駆者・杉田玄白(1733~1817年)は、自身の死後に蘭学草創期の史実が後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意しました。文化11年(1814年)に書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させ、文化12年(1815年)に完成を見ました。白眉はオランダ医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳する苦心談です。(同上)

    見開きにされた『蘭学事始』です。高齢になった日本蘭学の先駆者・杉田玄白(1733~1817年)は、自身の死後に蘭学草創期の史実が後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意しました。文化11年(1814年)に書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させ、文化12年(1815年)に完成を見ました。白眉はオランダ医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳する苦心談です。(同上)

  • 〇『蘭引(らんびき)の蒸留部分』<br />*江戸時代に薬油や酒類などを蒸留するのに用いた器具で、「羅牟比岐」、「らむびき」、「らんびき」などとも表記されます。<br />*この蒸留器具の原型は、9世紀のイスラム帝国宮廷学者ジャービル・イブン=ハイヤーンが発明したアランビック蒸留器とされます。日本語の呼称も由来。(同上)

    イチオシ

    〇『蘭引(らんびき)の蒸留部分』
    *江戸時代に薬油や酒類などを蒸留するのに用いた器具で、「羅牟比岐」、「らむびき」、「らんびき」などとも表記されます。
    *この蒸留器具の原型は、9世紀のイスラム帝国宮廷学者ジャービル・イブン=ハイヤーンが発明したアランビック蒸留器とされます。日本語の呼称も由来。(同上)

  • ○『薬研(ヤゲン)』:薬研堀の語源にもなりました。<br />*藥?とは、薬材(生薬など)などを碾(ひ)いて粉末化したり、磨り潰して汁を作ったりするための伝統的器具のことです。<br />*舟形の溝を彫った碾(字義は石臼)の『薬研(やげん)と、軸の付いた車輪状の碾き具『薬研車(やげんぐるま)からなります。小さい頃は実物も目にしました。(同上)

    ○『薬研(ヤゲン)』:薬研堀の語源にもなりました。
    *藥?とは、薬材(生薬など)などを碾(ひ)いて粉末化したり、磨り潰して汁を作ったりするための伝統的器具のことです。
    *舟形の溝を彫った碾(字義は石臼)の『薬研(やげん)と、軸の付いた車輪状の碾き具『薬研車(やげんぐるま)からなります。小さい頃は実物も目にしました。(同上)

  • ○『一節切(ひとよぎり)』:銘・露とおしの復元品(本徳照光氏)<br />*日本の伝統的な楽器の一つとされます。『切』は『截』とも記されるようです。<br />*前野良沢が愛した笛とされ、一休宗純や雪舟も名手として知られます。<br />*尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛です。<br />*戦国時代最強と言われた上杉謙信所縁の笛とも言われます。(同上)

    ○『一節切(ひとよぎり)』:銘・露とおしの復元品(本徳照光氏)
    *日本の伝統的な楽器の一つとされます。『切』は『截』とも記されるようです。
    *前野良沢が愛した笛とされ、一休宗純や雪舟も名手として知られます。
    *尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛です。
    *戦国時代最強と言われた上杉謙信所縁の笛とも言われます。(同上)

  • 〇『解体新書』を巡る出来事と人々の紹介です。展示パネルの順に紹介します。<br />1.『解体新書』を巡る人々<br />*上段の写真左の『前野良沢(1723~1803年)』:豊前中津藩の藩医で蘭学者、のち江戸幕府の幕臣。『解体新書』の主幹翻訳者で、良沢は通称です。<br />*上段の写真中央の『奥平昌鹿(まさか:1744~1780年)』:中津藩の第三代藩主です。賀茂真淵に国学を学び、前野良沢を保護して蘭学研究を援けました。<br />*上段の写真右の『奥平昌高公(1781~1855年)』:薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれ、第5代中津藩主に迎えられました。多くの功績を残した名君とされます。<br />2.前野良沢の偉業が、初めてテレビドラマ化され、2018年1月1日に放映されました。その前日の大晦日に出演者らが中津市を訪問したようです。(同上)

    〇『解体新書』を巡る出来事と人々の紹介です。展示パネルの順に紹介します。
    1.『解体新書』を巡る人々
    *上段の写真左の『前野良沢(1723~1803年)』:豊前中津藩の藩医で蘭学者、のち江戸幕府の幕臣。『解体新書』の主幹翻訳者で、良沢は通称です。
    *上段の写真中央の『奥平昌鹿(まさか:1744~1780年)』:中津藩の第三代藩主です。賀茂真淵に国学を学び、前野良沢を保護して蘭学研究を援けました。
    *上段の写真右の『奥平昌高公(1781~1855年)』:薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれ、第5代中津藩主に迎えられました。多くの功績を残した名君とされます。
    2.前野良沢の偉業が、初めてテレビドラマ化され、2018年1月1日に放映されました。その前日の大晦日に出演者らが中津市を訪問したようです。(同上)

  • 2.日本とオランダとの交流の始まり<br />*1600年4月19日、現在の大分県の臼杵市の黒島にオランダ船が漂着したことが紹介されていました。<br />*東洋に向けてオランダを発ったのは5隻の帆船でしたが、無事に日本にたどり着いたのは、リーフデ号1隻だけでした。300トン、3本マストの木造帆船です。<br />*オランダ出発時は110名だったとされますが、黒島に漂着した時には24名、漂着した後にも6名が亡くなったと記録されています。<br />*リーフデ号そのものは現存しませんが、船尾に飾られていたというエラスムスの木像(1598年製作)が現存します。<br />*オランダ共和国の商船リーフデ号の船長はワッケルナック、乗員にアダムズ(三浦按針)やヤン=ヨーステンがいました。(同上)

    2.日本とオランダとの交流の始まり
    *1600年4月19日、現在の大分県の臼杵市の黒島にオランダ船が漂着したことが紹介されていました。
    *東洋に向けてオランダを発ったのは5隻の帆船でしたが、無事に日本にたどり着いたのは、リーフデ号1隻だけでした。300トン、3本マストの木造帆船です。
    *オランダ出発時は110名だったとされますが、黒島に漂着した時には24名、漂着した後にも6名が亡くなったと記録されています。
    *リーフデ号そのものは現存しませんが、船尾に飾られていたというエラスムスの木像(1598年製作)が現存します。
    *オランダ共和国の商船リーフデ号の船長はワッケルナック、乗員にアダムズ(三浦按針)やヤン=ヨーステンがいました。(同上)

  • 3.日本の解剖の始まり<br />*最上段左側の座像:『杉田玄白(1733~1817年)』です。江戸時代の蘭学医で、若狭国小浜藩医、私塾天真楼を主催しました。著名な実績に、『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の和訳があります。<br />*最上段右の著書:『山脇東洋(1706~1762年)著の『蔵志』です。長く禁令だった人の解剖を、幕府の立場で行い、公表した人です。<br />*中段の紹介人物:『三浦梅園(1723~1789年)』は、 江戸時代の思想家、自然哲学者で医者でした。生涯国東半島で過ごし、豊後聖人とも呼ばれました。<br />*最下段の紹介記事:日本最初の人骨図とされる『人身連骨真形図』です。1723年、根来東叔(江戸中期の京都の目医者)により描かれ、1741年に出版されました。愛教のある描き方とも評されています。(同上)

    3.日本の解剖の始まり
    *最上段左側の座像:『杉田玄白(1733~1817年)』です。江戸時代の蘭学医で、若狭国小浜藩医、私塾天真楼を主催しました。著名な実績に、『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の和訳があります。
    *最上段右の著書:『山脇東洋(1706~1762年)著の『蔵志』です。長く禁令だった人の解剖を、幕府の立場で行い、公表した人です。
    *中段の紹介人物:『三浦梅園(1723~1789年)』は、 江戸時代の思想家、自然哲学者で医者でした。生涯国東半島で過ごし、豊後聖人とも呼ばれました。
    *最下段の紹介記事:日本最初の人骨図とされる『人身連骨真形図』です。1723年、根来東叔(江戸中期の京都の目医者)により描かれ、1741年に出版されました。愛教のある描き方とも評されています。(同上)

  • 4.中津藩主・奥平昌鹿の強力な支援<br />*最上段の赤色の式服の人物:奥平昌鹿公(1744~1780年)』:中澤藩第三代藩主で、母の骨折を、長崎の蘭宝医が見事に治療したことが、蘭方医学に興味を持ったきかけになったエピソードが紹介されていました。<br />*2段目の2枚の写真:昌鹿公が前野良沢(1723~1803年)の勉学のために与えた医学書です。『ポイセン内科書のプラクテーキ』らしい表記でした。<br />*3段目の写真は、右が前野良沢、左がオランダ語通訳の『吉雄耕牛(よしお・こうぎゅう)』です。(同上)

    4.中津藩主・奥平昌鹿の強力な支援
    *最上段の赤色の式服の人物:奥平昌鹿公(1744~1780年)』:中澤藩第三代藩主で、母の骨折を、長崎の蘭宝医が見事に治療したことが、蘭方医学に興味を持ったきかけになったエピソードが紹介されていました。
    *2段目の2枚の写真:昌鹿公が前野良沢(1723~1803年)の勉学のために与えた医学書です。『ポイセン内科書のプラクテーキ』らしい表記でした。
    *3段目の写真は、右が前野良沢、左がオランダ語通訳の『吉雄耕牛(よしお・こうぎゅう)』です。(同上)

  • 5.『ターヘル・アナトミア』について<br />*『ターヘル・アナトミア』は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書のオランダ語訳書の、日本における呼称です。前段の説中見出しにもなっていました。日本では、杉田玄白、前野良沢らが翻訳して出版した『解体新書』の最も重要な底本です。<br />*後段の見出しは、『解体新書の歴史的意義』でした。『日本の科学は、この書により始まった』、と称賛されていました。(同上)

    5.『ターヘル・アナトミア』について
    *『ターヘル・アナトミア』は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書のオランダ語訳書の、日本における呼称です。前段の説中見出しにもなっていました。日本では、杉田玄白、前野良沢らが翻訳して出版した『解体新書』の最も重要な底本です。
    *後段の見出しは、『解体新書の歴史的意義』でした。『日本の科学は、この書により始まった』、と称賛されていました。(同上)

  • 6.1771年3月5日、翻訳開始<br />*『解体新書、出版への第1歩踏みだす』のタイトルの下の左上の写真が、『解体信書』を片手に腑分けを観察する良沢と玄白です。1771年3月4日のことです。<br />*中段の写真は、1771年3月5日、『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の翻訳が開始された中津藩中屋敷跡の現在の光景です。<br />*最下段の写真は、『解体新書』出版に至るまでを記した「蘭学事始』の紹介写真です。1813年、83歳になった杉田玄白によって書かれました。(同上)

    6.1771年3月5日、翻訳開始
    *『解体新書、出版への第1歩踏みだす』のタイトルの下の左上の写真が、『解体信書』を片手に腑分けを観察する良沢と玄白です。1771年3月4日のことです。
    *中段の写真は、1771年3月5日、『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の翻訳が開始された中津藩中屋敷跡の現在の光景です。
    *最下段の写真は、『解体新書』出版に至るまでを記した「蘭学事始』の紹介写真です。1813年、83歳になった杉田玄白によって書かれました。(同上)

  • 7.『解体新書』の解剖図<br />*解体新書に掲載する解剖図を描くにあたり、玄白・良沢の周りには、西洋画法に長けた適当な絵師がいませんでした。<br />*『角館に良い絵描きがいる』ことを知った玄白は、平賀源内(1728~1780年に依頼して、秋田藩主の佐竹氏の了解を得て、小田野直武(1750~1780年)を江戸に呼び寄せました。<br />*直武は秋田藩士で、 平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した人です。角館で、その絵を目にしましたので紹介しておきます。(同上)<br /> 2016春、奥羽の桜巡り(38/38:補遺):角館・青柳家展示品(2/2) <br /> https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11126330/   <br /> 

    7.『解体新書』の解剖図
    *解体新書に掲載する解剖図を描くにあたり、玄白・良沢の周りには、西洋画法に長けた適当な絵師がいませんでした。
    *『角館に良い絵描きがいる』ことを知った玄白は、平賀源内(1728~1780年に依頼して、秋田藩主の佐竹氏の了解を得て、小田野直武(1750~1780年)を江戸に呼び寄せました。
    *直武は秋田藩士で、 平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した人です。角館で、その絵を目にしましたので紹介しておきます。(同上)
     2016春、奥羽の桜巡り(38/38:補遺):角館・青柳家展示品(2/2) 
     https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11126330/   
     

  • 8.『解体新書』出版に当たっての背景<br />*『解体新書』出版当時、オランダに関する書物は、江戸幕府の厳しい監視下に置かれていました。<br />*1765年、本草学者の後藤梨春(1696~1771年)が『紅毛談』を出版しましたが絶版、遠島の刑に処されたことから、杉田玄白は慎重な作戦を練りました。<br />*1773年、玄白は5枚1組のパンフレットを作成し、有力者を通じて献呈し、幕府や公卿などの反応を窺いました。その結果は、好評を以って迎えられました。<br />*中段の人物像は、左から杉田玄白、前野良沢、吉雄耕牛です。(同上)

    8.『解体新書』出版に当たっての背景
    *『解体新書』出版当時、オランダに関する書物は、江戸幕府の厳しい監視下に置かれていました。
    *1765年、本草学者の後藤梨春(1696~1771年)が『紅毛談』を出版しましたが絶版、遠島の刑に処されたことから、杉田玄白は慎重な作戦を練りました。
    *1773年、玄白は5枚1組のパンフレットを作成し、有力者を通じて献呈し、幕府や公卿などの反応を窺いました。その結果は、好評を以って迎えられました。
    *中段の人物像は、左から杉田玄白、前野良沢、吉雄耕牛です。(同上)

  • 10.福沢諭吉・蘭学事始を復刻<br />*『復刻版により明らかになった良沢の功績』:良沢が辞書もない時代に苦労して<br />翻訳していた中津藩中屋敷跡に、1858年にオランダ語塾を建て、1868年に移転する時、その時代の年号をとり、『慶應義塾』と改称しました。<br />*『1869年、「蘭学事始」として復刻』:玄白が耕牛に序文を依頼していたことが「蘭学事始」により分かり、良沢が翻訳の盟主としての参加が分かりました。<br />*『1890、再復刻された「蘭学事始」』:福沢諭吉は友人の医務局長の「長代専斎」の依頼により、さらに1890年に再復刻しました。(写真のオレンジ本)

    10.福沢諭吉・蘭学事始を復刻
    *『復刻版により明らかになった良沢の功績』:良沢が辞書もない時代に苦労して
    翻訳していた中津藩中屋敷跡に、1858年にオランダ語塾を建て、1868年に移転する時、その時代の年号をとり、『慶應義塾』と改称しました。
    *『1869年、「蘭学事始」として復刻』:玄白が耕牛に序文を依頼していたことが「蘭学事始」により分かり、良沢が翻訳の盟主としての参加が分かりました。
    *『1890、再復刻された「蘭学事始」』:福沢諭吉は友人の医務局長の「長代専斎」の依頼により、さらに1890年に再復刻しました。(写真のオレンジ本)

  • 11.前野良沢の人柄<br />○『前野良沢の趣味:一節截(ひとよぎり)』<br />*日本の古代の尺八を得意としました。現代風に言えば、プロ以上の腕前です。<br />○前野良沢の自然思想<br />*『人間が自然界の一部を支配したりすることが出来ると、非常に傲慢になって自分の独力でしたように思う。自分の力は、自然界の力の一部という、謙譲の心が重要である』<br />*現代に通じる警句というより、ますます重要になってきているようです。(同上)

    11.前野良沢の人柄
    ○『前野良沢の趣味:一節截(ひとよぎり)』
    *日本の古代の尺八を得意としました。現代風に言えば、プロ以上の腕前です。
    ○前野良沢の自然思想
    *『人間が自然界の一部を支配したりすることが出来ると、非常に傲慢になって自分の独力でしたように思う。自分の力は、自然界の力の一部という、謙譲の心が重要である』
    *現代に通じる警句というより、ますます重要になってきているようです。(同上)

  • 紹介の途中、9番目の紹介パネルが飛んでしまいましたが、12番以降、15番目までパネルがありました。この後に、シーボルトなどの紹介も控えているようでした。紹介は端折りました。(同上)

    紹介の途中、9番目の紹介パネルが飛んでしまいましたが、12番以降、15番目までパネルがありました。この後に、シーボルトなどの紹介も控えているようでした。紹介は端折りました。(同上)

  • 異国情緒あふれる、二体の泥人形風の置物です。左手にパンフレット風のものがありましたが、置物の名前の特定には結び付きませんでした。推定すれば、オランダ交易のお土産品のように見えました。「泥人形」と表現しましたが、無釉の素焼きの焼物かも知れません。技術の高さを感じさせる、ユニークな表情と仕草の人形でした。(同上)<br />

    イチオシ

    異国情緒あふれる、二体の泥人形風の置物です。左手にパンフレット風のものがありましたが、置物の名前の特定には結び付きませんでした。推定すれば、オランダ交易のお土産品のように見えました。「泥人形」と表現しましたが、無釉の素焼きの焼物かも知れません。技術の高さを感じさせる、ユニークな表情と仕草の人形でした。(同上)

  • こちらは、カラフルな施釉がされた人形などの展示です。右から。天然素材を使った飾り物、秤を持った女性の物売り屋さん、体中に売物を身に着け、帽子を被った男性、開いた書物の背後に控える、頭を丸めた人物の像などです。開いた書物には、『La Prueba Cuadruple』の文字がありましたが、スペイン語機械翻訳では『4倍テスト』になりました。(同上)

    イチオシ

    こちらは、カラフルな施釉がされた人形などの展示です。右から。天然素材を使った飾り物、秤を持った女性の物売り屋さん、体中に売物を身に着け、帽子を被った男性、開いた書物の背後に控える、頭を丸めた人物の像などです。開いた書物には、『La Prueba Cuadruple』の文字がありましたが、スペイン語機械翻訳では『4倍テスト』になりました。(同上)

  • ガラスケースの上には、長篠の戦に纏わる『たにし祭り』の写真が展示してありました。たにしを食べて飢えをしのいで、籠城戦を見事に戦い抜いた故事を忘れないために、今も催されているようです。ガラスケースの中には、鬼瓦や、金色の軍配団扇等が展示してありました。(同上)

    ガラスケースの上には、長篠の戦に纏わる『たにし祭り』の写真が展示してありました。たにしを食べて飢えをしのいで、籠城戦を見事に戦い抜いた故事を忘れないために、今も催されているようです。ガラスケースの中には、鬼瓦や、金色の軍配団扇等が展示してありました。(同上)

  • 同じくガラスケースのカナの展示品の紹介です。左端に説明文がありましたが、タイトルは読み取れましたが、説明内容までは分かりませんでした。そのタイトルは『中津城下町や近郊の商店の引札』でした。『引札(ひきふだ)』とは、江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシのことです。(同上)

    同じくガラスケースのカナの展示品の紹介です。左端に説明文がありましたが、タイトルは読み取れましたが、説明内容までは分かりませんでした。そのタイトルは『中津城下町や近郊の商店の引札』でした。『引札(ひきふだ)』とは、江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシのことです。(同上)

  • 左端の図面には、『豊前中津藩備後領地○検図』の表示がありました。10万石の中津藩は、その所領の内、備後に2万石、筑前怡土郡にも飛領があり、管理が大変だったようです。備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、山陽道に属しました。その右の写真は、『小畠代官所表門』です。(同上)

    左端の図面には、『豊前中津藩備後領地○検図』の表示がありました。10万石の中津藩は、その所領の内、備後に2万石、筑前怡土郡にも飛領があり、管理が大変だったようです。備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、山陽道に属しました。その右の写真は、『小畠代官所表門』です。(同上)

  • 『奥平家歴代当主の肖像画』のタイトルがあった掛け軸の光景です。文字は全く読み取ることが出来ませんでした。13名ほどの肖像画でした。中津奥平家ですと、奥平家昌に始まり、奥平忠昌、奥平昌能、奥平昌章、奥平昌成、奥平昌敦、奥平昌鹿、奥平昌男、奥平昌高、奥平昌暢、奥平昌猷、、奥平昌服、そして奥平昌邁までの13名です。(同上)<br />

    『奥平家歴代当主の肖像画』のタイトルがあった掛け軸の光景です。文字は全く読み取ることが出来ませんでした。13名ほどの肖像画でした。中津奥平家ですと、奥平家昌に始まり、奥平忠昌、奥平昌能、奥平昌章、奥平昌成、奥平昌敦、奥平昌鹿、奥平昌男、奥平昌高、奥平昌暢、奥平昌猷、、奥平昌服、そして奥平昌邁までの13名です。(同上)

  • 文字が全く読み取れなかったので、推測になりますが、現在の呼び名では『耶馬日田英彦山国定公園』の山並み光景になるようです。大分県、福岡県、熊本県にまたがり、耶馬渓、日田盆地界隈及び英彦山が国定公園の指定区域となっています。眼下を流れるのが、山国川のようです。(同上)

    文字が全く読み取れなかったので、推測になりますが、現在の呼び名では『耶馬日田英彦山国定公園』の山並み光景になるようです。大分県、福岡県、熊本県にまたがり、耶馬渓、日田盆地界隈及び英彦山が国定公園の指定区域となっています。眼下を流れるのが、山国川のようです。(同上)

  • 復興二重櫓から眺めた、眼下の中津川の光景です。中津城は福岡県と県境にある中津川の河口沿いに位置していて、北は周防灘、西は中津川に面し、東は二重、南は三重の堀をつくり、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁を巡らせていました。

    復興二重櫓から眺めた、眼下の中津川の光景です。中津城は福岡県と県境にある中津川の河口沿いに位置していて、北は周防灘、西は中津川に面し、東は二重、南は三重の堀をつくり、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁を巡らせていました。

  • 同じく、復興二重櫓から眺めた、中津川方面の光景です。左手方向が川上方面になるようです。水門から海水が入って堀の水かさは潮の干満で上下する水城です。松城、今治城とともに日本三大水城の1つに数えられています。 また城郭の形が扇の形をしていることから『扇城』とも呼ばれました。(同上)

    同じく、復興二重櫓から眺めた、中津川方面の光景です。左手方向が川上方面になるようです。水門から海水が入って堀の水かさは潮の干満で上下する水城です。松城、今治城とともに日本三大水城の1つに数えられています。 また城郭の形が扇の形をしていることから『扇城』とも呼ばれました。(同上)

  • 先ほどまで、内部の展示品を見学していた、復興二重櫓の光景です。古写真に残る『隅櫓』は、「多門櫓」が連結していました。「下見板張り」の層塔形の外観で、二重櫓から多聞櫓には庇付きの出窓が3~4か所付いていました。現在の『復興隅櫓』は、櫓台の上に建っていますが、櫓の形式は「望楼型」になっていて、古写真とは異なった形式で1964年に再建されたものです。(同上)

    先ほどまで、内部の展示品を見学していた、復興二重櫓の光景です。古写真に残る『隅櫓』は、「多門櫓」が連結していました。「下見板張り」の層塔形の外観で、二重櫓から多聞櫓には庇付きの出窓が3~4か所付いていました。現在の『復興隅櫓』は、櫓台の上に建っていますが、櫓の形式は「望楼型」になっていて、古写真とは異なった形式で1964年に再建されたものです。(同上)

  • ○右の立札:『奉弔・仙千代君・福澤諭吉』:仙千代(10歳)は作手 亀山城 主 奥平貞能の次男で、元亀2年(1571年) 貞能と長男貞昌(後の 長篠城 主奥平信昌) が武田信玄に降伏した時、萩城 主奥平周防勝次の次男 虎之助(13歳)、岡崎の日近城主奥平貞友の娘 於フウ(13歳)と共に人質として甲斐に送られた。天正元(1573年)になって貞能父子は武田氏に背いて徳川家康 についたので、武田勝頼 は 奥平仙千代(仙丸)をここ金剛堂前で処刑した。この時、仙千代は元服前の13歳、虎之助 16歳、於フウ 16歳の若さだった。<br />○左の立札:『<br />

    ○右の立札:『奉弔・仙千代君・福澤諭吉』:仙千代(10歳)は作手 亀山城 主 奥平貞能の次男で、元亀2年(1571年) 貞能と長男貞昌(後の 長篠城 主奥平信昌) が武田信玄に降伏した時、萩城 主奥平周防勝次の次男 虎之助(13歳)、岡崎の日近城主奥平貞友の娘 於フウ(13歳)と共に人質として甲斐に送られた。天正元(1573年)になって貞能父子は武田氏に背いて徳川家康 についたので、武田勝頼 は 奥平仙千代(仙丸)をここ金剛堂前で処刑した。この時、仙千代は元服前の13歳、虎之助 16歳、於フウ 16歳の若さだった。
    ○左の立札:『

  • 『武運と戦勝・奥平神社御由来」のタイトルがあった立看板の紹介です。『ご神体は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。(公式サイト)』また、『享保3年(1718)正月、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、11代目昌高公が天明7年(1788)、祈願所を長福寺と改名。(公式サイト)』とも紹介されていました。

    『武運と戦勝・奥平神社御由来」のタイトルがあった立看板の紹介です。『ご神体は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。(公式サイト)』また、『享保3年(1718)正月、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、11代目昌高公が天明7年(1788)、祈願所を長福寺と改名。(公式サイト)』とも紹介されていました。

  • ○現地で入手できた『中津城』のタイトルのパンフレットの紹介です。見開きにした表と裏側です。表の写真は、中津城の石垣と模擬天守、長篠合戦図屏風が、裏面には地元が生んだ偉人・英雄の福沢諭吉と、大横綱の双葉山が紹介されていました。福沢諭吉(1835~1901年)は20世紀まで生き、第35台横綱の双葉山(1912~1968年)は20世紀に69連勝を含む大活躍をしました。(同上)

    ○現地で入手できた『中津城』のタイトルのパンフレットの紹介です。見開きにした表と裏側です。表の写真は、中津城の石垣と模擬天守、長篠合戦図屏風が、裏面には地元が生んだ偉人・英雄の福沢諭吉と、大横綱の双葉山が紹介されていました。福沢諭吉(1835~1901年)は20世紀まで生き、第35台横綱の双葉山(1912~1968年)は20世紀に69連勝を含む大活躍をしました。(同上)

  • ○現地で入手した『中津城』のパンフレットの、内側の見開き頁の紹介です。右側の頁には、奥平神社、奥平家系譜、天守閣、展示宝物、日本三水城のタイトルでの照会がありました。左側の頁には、『天正16年(1588)築城」の中見出しで、黒田孝高(如水)が築城した当時のことが紹介され、その下は『中津城歴代城主』のタイトルで、黒田時代、細川時代、小笠原時代、奥平時代の城主一覧でした。(同上)

    ○現地で入手した『中津城』のパンフレットの、内側の見開き頁の紹介です。右側の頁には、奥平神社、奥平家系譜、天守閣、展示宝物、日本三水城のタイトルでの照会がありました。左側の頁には、『天正16年(1588)築城」の中見出しで、黒田孝高(如水)が築城した当時のことが紹介され、その下は『中津城歴代城主』のタイトルで、黒田時代、細川時代、小笠原時代、奥平時代の城主一覧でした。(同上)

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