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大分と福岡の名城巡り、続日本百名城の中津城紹介です。譜代大名の奥平家は、1717年~1871年の約160年余に亘って、10万石で9名が藩主を務めました。初代の昌成公に始まり、昌敦、昌鹿、昌男、昌高、昌暢、昌猷、昌服と続き、最後が昌邁公でした。

2018暮、大分の日本百名城(15/31):12月20日(5):中津城(4):奥平家藩主由縁の品

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

大分と福岡の名城巡り、続日本百名城の中津城紹介です。譜代大名の奥平家は、1717年~1871年の約160年余に亘って、10万石で9名が藩主を務めました。初代の昌成公に始まり、昌敦、昌鹿、昌男、昌高、昌暢、昌猷、昌服と続き、最後が昌邁公でした。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
  • 奥平家第十五代の『奥平昌邁(まさゆき:1855~1884年)』の揮毫と植物絵です。扇子の形をした揮毫には、『悠然得佳趣』の文字がありました。素直な字体の楷書でした。落款は、『乙丑夏書・昌邁』です。1865年に乙丑の年がありましたから、昌邁公の10歳頃の書になるようです。絵は、風になびく竹が題材のようです。(ウィキペディア)

    奥平家第十五代の『奥平昌邁(まさゆき:1855~1884年)』の揮毫と植物絵です。扇子の形をした揮毫には、『悠然得佳趣』の文字がありました。素直な字体の楷書でした。落款は、『乙丑夏書・昌邁』です。1865年に乙丑の年がありましたから、昌邁公の10歳頃の書になるようです。絵は、風になびく竹が題材のようです。(ウィキペディア)

  • 2種類の『采配』の展示のようです。右が金色、左が銀色のイメージでした。『采配』は、戦場で軍勢を率いる際に用いた指揮具で、1尺ほどの柄に千切りの紙片や獣毛などを細長く垂らしたもので、振って合図を送るために用いられました。江戸時代には形式化が進み、金箔や朱塗りなど豪華な意匠が施され威儀具としての意味合いとなりました。(同上)

    2種類の『采配』の展示のようです。右が金色、左が銀色のイメージでした。『采配』は、戦場で軍勢を率いる際に用いた指揮具で、1尺ほどの柄に千切りの紙片や獣毛などを細長く垂らしたもので、振って合図を送るために用いられました。江戸時代には形式化が進み、金箔や朱塗りなど豪華な意匠が施され威儀具としての意味合いとなりました。(同上)

  • 『奥平昌邁公・奥平家第十五代』のタイトルがあった説明パネルです。『幕末の四賢候』と呼ばれた、伊予宇和島藩主の伊達宗城公の四男として江戸に生まれ、第八代・奥平昌服公の養子に迎えられた人と紹介されていました。『幕末の四賢候』とは、福井藩第14代藩主・松平慶永(春嶽)、宇和島藩第8代藩主・伊達宗城、土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬です。(同上)

    『奥平昌邁公・奥平家第十五代』のタイトルがあった説明パネルです。『幕末の四賢候』と呼ばれた、伊予宇和島藩主の伊達宗城公の四男として江戸に生まれ、第八代・奥平昌服公の養子に迎えられた人と紹介されていました。『幕末の四賢候』とは、福井藩第14代藩主・松平慶永(春嶽)、宇和島藩第8代藩主・伊達宗城、土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬です。(同上)

  • レプリカではなく、現存の甲冑の展示のようです。『奥平家十五代・中津城主・昌邁公鎧』の表示がありました。出身の宇和島・伊達家より贈られた物との添え書きがありました。伊達・宇和島藩は、慶長19年(1614年)12月、伊達秀宗が二代将軍・徳川秀忠より10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月に板島丸串城(宇和島城)に入城したことで成立しました。『伊達秀宗(1591~1658年)』は、戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子です。豊臣秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、偏諱を受けて秀宗と名乗りました。(同上)

    レプリカではなく、現存の甲冑の展示のようです。『奥平家十五代・中津城主・昌邁公鎧』の表示がありました。出身の宇和島・伊達家より贈られた物との添え書きがありました。伊達・宇和島藩は、慶長19年(1614年)12月、伊達秀宗が二代将軍・徳川秀忠より10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月に板島丸串城(宇和島城)に入城したことで成立しました。『伊達秀宗(1591~1658年)』は、戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子です。豊臣秀吉の猶子となり、秀吉のもとで元服し、偏諱を受けて秀宗と名乗りました。(同上)

  • 左側の陣笠風の被り物には、『御紋鑑・丸に竪三つ引・宇和島伊達藩』の表示がありました。その右は、甲冑の説明書きです。先ほど紹介した、昌邁公に宇和島伊達藩から贈られた、『錆地横矧五枚胴具足(江戸時代中期)』の鎧です。(同上)

    左側の陣笠風の被り物には、『御紋鑑・丸に竪三つ引・宇和島伊達藩』の表示がありました。その右は、甲冑の説明書きです。先ほど紹介した、昌邁公に宇和島伊達藩から贈られた、『錆地横矧五枚胴具足(江戸時代中期)』の鎧です。(同上)

  • まるで俳優のような、品格が感じられる美男子の第15代中津藩主の奥平昌邁(まさゆき)公の写真です。奥平昌邁公(1855~1884年)は、中津藩最後の藩主の美作守、明治時代は伯爵でした。慶應義塾に入学し、元中津藩士の福澤諭吉(1835~1901年)、小幡篤次郎(1842~1904年)に留学を勧められ、渡米しましたが、渡米時の病気が元で30歳の若さで亡くなりました。小幡篤次郎は、洋学者、教育家で、慶応義塾塾長だった人です。(同上)

    イチオシ

    まるで俳優のような、品格が感じられる美男子の第15代中津藩主の奥平昌邁(まさゆき)公の写真です。奥平昌邁公(1855~1884年)は、中津藩最後の藩主の美作守、明治時代は伯爵でした。慶應義塾に入学し、元中津藩士の福澤諭吉(1835~1901年)、小幡篤次郎(1842~1904年)に留学を勧められ、渡米しましたが、渡米時の病気が元で30歳の若さで亡くなりました。小幡篤次郎は、洋学者、教育家で、慶応義塾塾長だった人です。(同上)

  • 中津藩における、奥平家の歴代城主に関わる品々の展示光景です。軍配団扇や、陣笠織などが展示されていました。一番左に見える写真は、黒田家に関する『黒田節』の宣伝でした。関ヶ原の戦い前の1588年(天正16年)に中津城を築いたのが、築城の名人の黒田官兵衛(如水)でした。

    中津藩における、奥平家の歴代城主に関わる品々の展示光景です。軍配団扇や、陣笠織などが展示されていました。一番左に見える写真は、黒田家に関する『黒田節』の宣伝でした。関ヶ原の戦い前の1588年(天正16年)に中津城を築いたのが、築城の名人の黒田官兵衛(如水)でした。

  • 中津藩の歴代城主の奥平公の甲冑と書の展示光景です。新品のように見えましたが、実戦では使われたことがない、比較的新しい時代のオリジナルの品々のようでした。江戸中期から後期当たりの甲冑だったようです。

    中津藩の歴代城主の奥平公の甲冑と書の展示光景です。新品のように見えましたが、実戦では使われたことがない、比較的新しい時代のオリジナルの品々のようでした。江戸中期から後期当たりの甲冑だったようです。

  • 〇『御紋鑑・丸に立沢瀉(まるに・たちおもだか)』(中津団扇)<br />*沢瀉(おもだか)は、水田やため池などに自生する植物です。葉の形が矢じりに似ていることから『勝軍草』とも呼ばれ、武人に愛されました。また、『面高』と呼ばれるように『面目が立つ』という語呂にも通じます。<br />*戦国大名の毛利元就が、沢瀉にトンボが止まっているのを見たあとに戦に勝ったことから、吉祥のものとして毛利家の家紋とンりました。<br />*沢瀉紋の使用家:椎名、梁田、毛利、木下、浅野、酒井、堀越、沢井、水野、土井、福島など。

    イチオシ

    〇『御紋鑑・丸に立沢瀉(まるに・たちおもだか)』(中津団扇)
    *沢瀉(おもだか)は、水田やため池などに自生する植物です。葉の形が矢じりに似ていることから『勝軍草』とも呼ばれ、武人に愛されました。また、『面高』と呼ばれるように『面目が立つ』という語呂にも通じます。
    *戦国大名の毛利元就が、沢瀉にトンボが止まっているのを見たあとに戦に勝ったことから、吉祥のものとして毛利家の家紋とンりました。
    *沢瀉紋の使用家:椎名、梁田、毛利、木下、浅野、酒井、堀越、沢井、水野、土井、福島など。

  • 〇『御紋鑑・丸に立沢瀉(まるに・たちおもだか)』の名札の紹介です。『中津団扇』の呼び名もあるようです。<br />*『奥平家所蔵』の添え書きがありました。

    〇『御紋鑑・丸に立沢瀉(まるに・たちおもだか)』の名札の紹介です。『中津団扇』の呼び名もあるようです。
    *『奥平家所蔵』の添え書きがありました。

  • 〇『御紋鑑(ごもんかがみ)』(名札の右側の表示<br />右側に記された文字は、『御紋鑑(ごもんかがみ)』のほか、『中津団扇(なかつ・うちは(わ))』、『輪軍配団扇(わ・ぐんばいうちは(わ))』、『中津・奥平藩』の四行でした。左側が、モノクロの写真の御紋鑑です。

    〇『御紋鑑(ごもんかがみ)』(名札の右側の表示
    右側に記された文字は、『御紋鑑(ごもんかがみ)』のほか、『中津団扇(なかつ・うちは(わ))』、『輪軍配団扇(わ・ぐんばいうちは(わ))』、『中津・奥平藩』の四行でした。左側が、モノクロの写真の御紋鑑です。

  • 〇『奥平団扇(おくだいら・うちわ)紋』<br />*団扇は涼具として古くより用いられてきました。またアオグという行為は神を呼び寄せるものとして、また団扇そのものが神の依代として尊ばれてきました。<br />*団扇紋は、武蔵七党の一つで、その中心勢力であった児玉党の家紋として知られています。その家紋のなかでも、最も古い紋の一つともされています。<br />*軍配は、合戦のときに大将が手にして軍勢を指揮しました。『川中島合戦』で、謙信公の振るう太刀を、信玄公が軍配をもって防いだ故事はよく知られています。川中島の古戦場には、その謙信・信玄像が置かれています。(同上)

    〇『奥平団扇(おくだいら・うちわ)紋』
    *団扇は涼具として古くより用いられてきました。またアオグという行為は神を呼び寄せるものとして、また団扇そのものが神の依代として尊ばれてきました。
    *団扇紋は、武蔵七党の一つで、その中心勢力であった児玉党の家紋として知られています。その家紋のなかでも、最も古い紋の一つともされています。
    *軍配は、合戦のときに大将が手にして軍勢を指揮しました。『川中島合戦』で、謙信公の振るう太刀を、信玄公が軍配をもって防いだ故事はよく知られています。川中島の古戦場には、その謙信・信玄像が置かれています。(同上)

  • 〇『奥平団扇(おくだいら・うちわ)紋』のズームアップ光景です。<br />*団扇紋には丸い団扇と、羽団扇、男系の軍配団扇(唐団扇)の3種類があります。これは、軍配団扇のグループになるようです。<br />*団扇は道教の八仙の一人である鍾離権(しょうりけん)の持ち物で、死者を蘇らせる神通力があったとされ、瑞祥的な意義があるとされます。<br />*よく似た団扇に『桑名団扇』がありますが、左側半分が、竹のデザインです。因みに桑名藩の初代藩主は本多忠勝、その後も維新まで松平家の譜代大名でした。

    〇『奥平団扇(おくだいら・うちわ)紋』のズームアップ光景です。
    *団扇紋には丸い団扇と、羽団扇、男系の軍配団扇(唐団扇)の3種類があります。これは、軍配団扇のグループになるようです。
    *団扇は道教の八仙の一人である鍾離権(しょうりけん)の持ち物で、死者を蘇らせる神通力があったとされ、瑞祥的な意義があるとされます。
    *よく似た団扇に『桑名団扇』がありますが、左側半分が、竹のデザインです。因みに桑名藩の初代藩主は本多忠勝、その後も維新まで松平家の譜代大名でした。

  • 〇右側の名札:『家昌公着用陣羽織』<br />*宇都宮城主・第3代藩主家昌公着用の陣羽織。<br />〇左側の説明パネル:『ビロード紋織裾付陣羽織』<br />*江戸時代初期・宇都宮城主・第3代藩主家昌公着用の陣羽織。

    〇右側の名札:『家昌公着用陣羽織』
    *宇都宮城主・第3代藩主家昌公着用の陣羽織。
    〇左側の説明パネル:『ビロード紋織裾付陣羽織』
    *江戸時代初期・宇都宮城主・第3代藩主家昌公着用の陣羽織。

  • 上から眺めた、陣笠の光景です。先ほど紹介した、『奥平団扇紋』が三つ配されていました。陣笠は、一般には、戦国時代ごろから足軽、雑兵の用いた端に反りのない革製あるいは金属製で、兜の代用としての簡略な防具である塗り笠をさしましたが、近世では、上級武士の軍役、出火などの非常用や通常の遠行などの外出用としてもp用いられました。(同上)

    上から眺めた、陣笠の光景です。先ほど紹介した、『奥平団扇紋』が三つ配されていました。陣笠は、一般には、戦国時代ごろから足軽、雑兵の用いた端に反りのない革製あるいは金属製で、兜の代用としての簡略な防具である塗り笠をさしましたが、近世では、上級武士の軍役、出火などの非常用や通常の遠行などの外出用としてもp用いられました。(同上)

  • 〇『大阪城主・松平(奥平)忠明着用陣羽織』<br />*松平(奥平)忠明公は、元和元年(1615年)、大阪の陣後の論功行賞で第一位に選ばれ、大阪城主となりました。また、同5年10月、水野勝成の後をうけて12万石で郡山城主となりました。その大阪城主の時の陣羽織のようです。奥平松平家の祖とも呼ばれます。(同上)

    〇『大阪城主・松平(奥平)忠明着用陣羽織』
    *松平(奥平)忠明公は、元和元年(1615年)、大阪の陣後の論功行賞で第一位に選ばれ、大阪城主となりました。また、同5年10月、水野勝成の後をうけて12万石で郡山城主となりました。その大阪城主の時の陣羽織のようです。奥平松平家の祖とも呼ばれます。(同上)

  • 〇『松平忠明公着用陣羽織』の説明ペネルです。見出しの部分だけの紹介で、大方、紹介が済みそうです。<br />*大阪城の外堀・内堀を埋めた男。(命じたのは家康公です)<br />*道頓堀の名付け親。(大阪に数多くの都市開発跡を残しました)<br />*江戸幕府・大政参与、奥平松平・家祖。(何しろ、母が家康公の長女の亀姫です)

    〇『松平忠明公着用陣羽織』の説明ペネルです。見出しの部分だけの紹介で、大方、紹介が済みそうです。
    *大阪城の外堀・内堀を埋めた男。(命じたのは家康公です)
    *道頓堀の名付け親。(大阪に数多くの都市開発跡を残しました)
    *江戸幕府・大政参与、奥平松平・家祖。(何しろ、母が家康公の長女の亀姫です)

  • 〇『緑羅紗地大文字文様陣羽織』<br />*武田信玄公から拝領した、奥平忠勝公着用の陣羽織です。奥平忠勝(1512~1595年)公は、長篠の戦で武勲を立て、後に徳川家康公の長女の亀姫を娶った、奥平信昌公(1555~1615年)の祖父に当たる人と紹介されていました。戦国時代、織田と武田の強国に挟まれ、苦労をした小国藩主だったようです。(同上)

    〇『緑羅紗地大文字文様陣羽織』
    *武田信玄公から拝領した、奥平忠勝公着用の陣羽織です。奥平忠勝(1512~1595年)公は、長篠の戦で武勲を立て、後に徳川家康公の長女の亀姫を娶った、奥平信昌公(1555~1615年)の祖父に当たる人と紹介されていました。戦国時代、織田と武田の強国に挟まれ、苦労をした小国藩主だったようです。(同上)

  • 〇『陣羽織(第2代城主・奥平信昌公着用)』<br />*『奥平信昌(1555~1615年)公」は、父は三河国作手城主の奥平貞能の嫡男として、弘治元年(1555)にて生まれました。作手の奥平氏は山家三方衆と呼ばれた東三河の豪族のうちの壱つで、亀元年(1570)の姉川合戦には父とともに家康公の下で出陣しましたが、その後、甲斐の武田信玄に仕えています。しかし、信玄の没後に家康公に再出仕したため、これに激怒した武田勝頼が天正3年(1575)、1万5000の軍を率いて長篠城を囲みました。しかし信昌は城を死守、この後の長篠合戦で徳川・織田連合軍大勝に繋がりました。(同上)

    〇『陣羽織(第2代城主・奥平信昌公着用)』
    *『奥平信昌(1555~1615年)公」は、父は三河国作手城主の奥平貞能の嫡男として、弘治元年(1555)にて生まれました。作手の奥平氏は山家三方衆と呼ばれた東三河の豪族のうちの壱つで、亀元年(1570)の姉川合戦には父とともに家康公の下で出陣しましたが、その後、甲斐の武田信玄に仕えています。しかし、信玄の没後に家康公に再出仕したため、これに激怒した武田勝頼が天正3年(1575)、1万5000の軍を率いて長篠城を囲みました。しかし信昌は城を死守、この後の長篠合戦で徳川・織田連合軍大勝に繋がりました。(同上)

  • 〇『二代城主・信昌公着用陣羽織(桃山時代)』の説明文<br />*奥平家の宗家は美濃国加納藩を治めていました。初代・信昌は家康から長篠城を与えられ、長篠の戦いでは武田家の猛攻から城を守り抜いています。<br />*その後も信昌は戦功を立て、家康が関東に入ると上野国小幡藩3万石を与えられました。<br />*信昌は、最初の京都所司代に任命された人物です。本願寺に潜伏していた安国寺恵瓊を捕えるという功績も残しています。<br />*信昌は、家康の娘婿であり、信頼されていました。家康は東海道と中山道の分岐点に近い要衝・美濃国加納藩に信昌を転封し、石高も10万石に改めました。(同上)

    〇『二代城主・信昌公着用陣羽織(桃山時代)』の説明文
    *奥平家の宗家は美濃国加納藩を治めていました。初代・信昌は家康から長篠城を与えられ、長篠の戦いでは武田家の猛攻から城を守り抜いています。
    *その後も信昌は戦功を立て、家康が関東に入ると上野国小幡藩3万石を与えられました。
    *信昌は、最初の京都所司代に任命された人物です。本願寺に潜伏していた安国寺恵瓊を捕えるという功績も残しています。
    *信昌は、家康の娘婿であり、信頼されていました。家康は東海道と中山道の分岐点に近い要衝・美濃国加納藩に信昌を転封し、石高も10万石に改めました。(同上)

  • 〇『陣羽織』のタイトルの説明パネルです。陣羽織についての一般的な説明です。<br />*奥平家についての紹介が続きます。奥平家の宗家は3代・忠隆の代で途絶えてしまいました。<br />*以降、奥平家の宗家の家督は信昌の長男・家昌の血筋が継ぎました。こちらの奥平家は、すでに下野国字都宮藩10万石を領有していました。(同上)<br />*家昌の後を継いだ忠昌は1万石を加増され、下総国古河藩11万石に転封されます。その3年後、ふたたび宇都宮藩へと戻されました。(同上)

    〇『陣羽織』のタイトルの説明パネルです。陣羽織についての一般的な説明です。
    *奥平家についての紹介が続きます。奥平家の宗家は3代・忠隆の代で途絶えてしまいました。
    *以降、奥平家の宗家の家督は信昌の長男・家昌の血筋が継ぎました。こちらの奥平家は、すでに下野国字都宮藩10万石を領有していました。(同上)
    *家昌の後を継いだ忠昌は1万石を加増され、下総国古河藩11万石に転封されます。その3年後、ふたたび宇都宮藩へと戻されました。(同上)

  • 〇『ビロード紋織裾付陣羽織(江戸時代初期)』のタイトルの説明パネルです。宇都宮城主の奥平家昌公(1577~1612年)着用の陣羽織です。<br />*3代・昌能は、家臣が父・忠昌に殉死した件が殉死禁止令に違反することと、法要の際に家老同士が刃傷沙汰を起こしたことなどの責任を負い、2万石の減封と出羽国山形藩への転封を命じられます。<br />*しかし、次の昌章の代にはまたもや宇都宮藩へと転封され、3度目の入封となりました。<br />*そして5代・昌成の代に、丹後国宮津藩を経て1万石の加増の上、豊前国中津藩へ移り、ようやく落ち着くことになります。(同上)

    〇『ビロード紋織裾付陣羽織(江戸時代初期)』のタイトルの説明パネルです。宇都宮城主の奥平家昌公(1577~1612年)着用の陣羽織です。
    *3代・昌能は、家臣が父・忠昌に殉死した件が殉死禁止令に違反することと、法要の際に家老同士が刃傷沙汰を起こしたことなどの責任を負い、2万石の減封と出羽国山形藩への転封を命じられます。
    *しかし、次の昌章の代にはまたもや宇都宮藩へと転封され、3度目の入封となりました。
    *そして5代・昌成の代に、丹後国宮津藩を経て1万石の加増の上、豊前国中津藩へ移り、ようやく落ち着くことになります。(同上)

  • 〇ここから、説明が後回しになってしまった、中津城で憤死した、宇都宮(城井)鎮房についての紹介です。黒田如水(官兵衛)についての著作(播磨灘物語)がある、司馬遼太郎さんの『街道をゆく34:大徳寺散策、中津・宇佐のみち』からの引用です。如水の人柄と生涯から見て、凡そ似つかわしくない鎮房の謀殺だったようです。<br />*写真は、歴代藩主の『陣羽織』のようです。

    〇ここから、説明が後回しになってしまった、中津城で憤死した、宇都宮(城井)鎮房についての紹介です。黒田如水(官兵衛)についての著作(播磨灘物語)がある、司馬遼太郎さんの『街道をゆく34:大徳寺散策、中津・宇佐のみち』からの引用です。如水の人柄と生涯から見て、凡そ似つかわしくない鎮房の謀殺だったようです。
    *写真は、歴代藩主の『陣羽織』のようです。

  • 〇鎮房謀殺の話しの続きです。宇都宮氏は下野(しもつけ)の宇都宮の出身で、豊前国の城井郡の地頭、あるいは守護に任ぜられていたようです。源頼朝の鎌倉時代(12世紀頃)かのことです。宇都宮氏は四百年に亘ってこの地を治め、この一族は、善政を布いていたとも伝わります。(街道をゆく34)<br />*写真は、歴代藩主の『陣羽織』のようです。

    〇鎮房謀殺の話しの続きです。宇都宮氏は下野(しもつけ)の宇都宮の出身で、豊前国の城井郡の地頭、あるいは守護に任ぜられていたようです。源頼朝の鎌倉時代(12世紀頃)かのことです。宇都宮氏は四百年に亘ってこの地を治め、この一族は、善政を布いていたとも伝わります。(街道をゆく34)
    *写真は、歴代藩主の『陣羽織』のようです。

  • 〇この時代、宇都宮氏のような国人(こくじん)や、その配下の地侍は。名子(なご)と呼ばれる農奴を使役に使い、農業経営をしていました。豊臣政権の天下政策は、この名子を否定することにありました。国人・地侍を廃止し、その農地を名子に分与し、豊臣大名が、彼らから直に租税を取る仕組みとする、革命そのものでした。国人・地侍が選べる道は、①俸給を貰って武家奉公人になる、②農民になる(庄屋、名主を含め)、③反乱(一機)のいずれかでした。<br />〇特に九州は、彼らの不平で、台地が地鳴りするように鳴動していました。肥後では国人・地侍が蜂起し、秀吉が任命した佐々茂政だけでは収拾がつかない状況になり、秀吉は朝鮮派兵のこともあり、島津氏、黒田氏をはじめ、諸大名に大号令をかけ、隈部氏、城氏を担いだ一揆の鎮圧に全力を挙げました。(同上)<br />*写真は、歴代藩主の『陣羽織』のようです。

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    〇この時代、宇都宮氏のような国人(こくじん)や、その配下の地侍は。名子(なご)と呼ばれる農奴を使役に使い、農業経営をしていました。豊臣政権の天下政策は、この名子を否定することにありました。国人・地侍を廃止し、その農地を名子に分与し、豊臣大名が、彼らから直に租税を取る仕組みとする、革命そのものでした。国人・地侍が選べる道は、①俸給を貰って武家奉公人になる、②農民になる(庄屋、名主を含め)、③反乱(一機)のいずれかでした。
    〇特に九州は、彼らの不平で、台地が地鳴りするように鳴動していました。肥後では国人・地侍が蜂起し、秀吉が任命した佐々茂政だけでは収拾がつかない状況になり、秀吉は朝鮮派兵のこともあり、島津氏、黒田氏をはじめ、諸大名に大号令をかけ、隈部氏、城氏を担いだ一揆の鎮圧に全力を挙げました。(同上)
    *写真は、歴代藩主の『陣羽織』のようです。

  • 〇黒田如水も軍勢を率いて肥後一基の鎮圧に向かいましたので、宇都宮鎮房はその隙を狙ったようです。城井谷城に籠り、大軍で押し寄せた、如水の子の長政に大勝しています。<br />〇城井谷での長政の惨敗を聴いた如水は、重臣を秀吉のもとにやって、相談をさせました。どうやら、謀殺はこの時に決まったようです。秀吉は、関白の名において、子供だましの姦計を行いました。<br />〇余談ながら、私の母方の祖父が隈部氏、祖母が城氏の出身でしたから、熊本の一基の話は小さい頃によく聞かされました。幼いながらに、長い期間の籠城の時の戦いの苦しさの話が、一番記憶に残っています。そのこともあって、私のブログネームの一部に『くま(隈)』を使っています。(同上)<br />*写真は、『狩衣(かりぎぬ)』です。

    〇黒田如水も軍勢を率いて肥後一基の鎮圧に向かいましたので、宇都宮鎮房はその隙を狙ったようです。城井谷城に籠り、大軍で押し寄せた、如水の子の長政に大勝しています。
    〇城井谷での長政の惨敗を聴いた如水は、重臣を秀吉のもとにやって、相談をさせました。どうやら、謀殺はこの時に決まったようです。秀吉は、関白の名において、子供だましの姦計を行いました。
    〇余談ながら、私の母方の祖父が隈部氏、祖母が城氏の出身でしたから、熊本の一基の話は小さい頃によく聞かされました。幼いながらに、長い期間の籠城の時の戦いの苦しさの話が、一番記憶に残っています。そのこともあって、私のブログネームの一部に『くま(隈)』を使っています。(同上)
    *写真は、『狩衣(かりぎぬ)』です。

  • 〇『中津城下之図(中津市マップ:部分)』<br />*左上方面が中津城址、合元寺は中央右手に見えます。中津城での謀殺の酒宴の時、宇都宮(城井)氏の供の侍は合元寺に留め置かれ、全員が討ち死にしました。<br />*司馬遼太郎さんの『街道をゆく34』では、『諸本には、宇都宮鎮房、子の朝房、自決した老父の長甫も、みな堂々として潔かった』と記されています。(同上)

    〇『中津城下之図(中津市マップ:部分)』
    *左上方面が中津城址、合元寺は中央右手に見えます。中津城での謀殺の酒宴の時、宇都宮(城井)氏の供の侍は合元寺に留め置かれ、全員が討ち死にしました。
    *司馬遼太郎さんの『街道をゆく34』では、『諸本には、宇都宮鎮房、子の朝房、自決した老父の長甫も、みな堂々として潔かった』と記されています。(同上)

  • 〇『白鳥鞘の鑓(最上段)』:徳川家康公より拝領した奥平家の家宝とされます。三条小鍛冶宗近の作で、鎭西八郎爲朝が用いた鏃(やじり:平安時代末期)と伝わるようです。家康公が織田信長公より拝領した徳川家の家宝でしたが、家康公の曾孫にあたる奥平忠昌が、駿府での家康公の見舞いのため、元和2年(1616年)に初めての拝謁の際、当時六歳の忠昌公が、この槍を所望して拝領しました。(同上)

    〇『白鳥鞘の鑓(最上段)』:徳川家康公より拝領した奥平家の家宝とされます。三条小鍛冶宗近の作で、鎭西八郎爲朝が用いた鏃(やじり:平安時代末期)と伝わるようです。家康公が織田信長公より拝領した徳川家の家宝でしたが、家康公の曾孫にあたる奥平忠昌が、駿府での家康公の見舞いのため、元和2年(1616年)に初めての拝謁の際、当時六歳の忠昌公が、この槍を所望して拝領しました。(同上)

  • 〇『伝・一橋徳川家子爵持参長持』:三つ葉葵の御紋が入った長持(ながもち)です。長持は、主に近世の日本で用いられた民具の一つで、衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱です。この長持ちには付いていないようですが、箱の下に車輪を付けて移動の便をはかったものは『車長持』と呼ばれます。(同上)

    〇『伝・一橋徳川家子爵持参長持』:三つ葉葵の御紋が入った長持(ながもち)です。長持は、主に近世の日本で用いられた民具の一つで、衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱です。この長持ちには付いていないようですが、箱の下に車輪を付けて移動の便をはかったものは『車長持』と呼ばれます。(同上)

  • 〇左端の衣装『武家女子火事装束』:『女子用立烏帽子形火事頭巾』と呼ばれるタイプのようです。右下に着用した写真か、図がありました。<br />〇中央と右端の兜『女子用の兜?』:可愛らし造りの、少し小型の兜(2個)です。奥平家の軍配団扇の家紋が入っていました。

    〇左端の衣装『武家女子火事装束』:『女子用立烏帽子形火事頭巾』と呼ばれるタイプのようです。右下に着用した写真か、図がありました。
    〇中央と右端の兜『女子用の兜?』:可愛らし造りの、少し小型の兜(2個)です。奥平家の軍配団扇の家紋が入っていました。

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