2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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大分と福岡の名城巡り、中津城の紹介の続きです。奥平中津藩の最も重要な出来事が、『長篠の戦い』です。近世期には屏風絵などで合戦の様子が描かれました。その一つが『長篠合戦図屏風』で、10の作例が知られます。現存する作例のうち原本とされるのが、尾張徳川家の附家老で犬山藩主の成瀬氏に伝来した『長篠合戦図屏風』(犬山城白帝文庫所蔵)です。
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慶長10年(1605年)、加納城主の奥平信昌公が、息子の宇都宮城主(10万石)の家昌に書き送った書状と、その解読文と説明文の展示です。家康公が征夷大将軍将軍の宣下を受け、それを二代将軍の秀忠公に譲った時の徳川家の動向を知らせた書状でした。(中津城・公式サイト)
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イチオシ
奥平信昌公着用の陣羽織の展示です。『紺羅紗地沢潟紋様陣羽織(安土桃山時代)』の陣羽織です。シンプルな『沢瀉(オモダカ)』文様が印象的な陣羽織です。そのセンスの良さが、現代にまで伝わります。生地には、当時珍重された、ラシャが使用されています。ラシャ(ポルトガル語)は毛織物の一種で、平織、綾織、繻子織などがあり、密に織ったものを十分縮絨(しゅくじゅう)させたのち、毛羽(けば)の先端を剪毛して仕上げます。このため、表地からは組織の織目は見えません。(同上)
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『奥平信昌公着用・紺羅紗地沢潟紋様陣羽織(安土桃山時代)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。奥平信昌公は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主でした。初名は貞昌(さだまさ)、徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用されました。(同上)
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『奥平信昌公。従五位下美作守(みまさかのかみ)・肖像画』のタイトルがあった小振りの肖像画と、その説明文の光景です。『従五位下・美作守』は、官位を表しているようです。奥平信昌公(1555~1615年)は、三河国作手(つくで)の有力国人・奥平定能(貞能)の長男で、母は、牧野成種の娘です。(同上)
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『紺地打延五枚胴具足(安土桃山時代)』の甲冑の展示です。奥平信昌公が長篠の戦い(1575年)時に着用した鎧との説明書きがありました。兜の飾りは、桔梗に丸の沢潟紋です。長篠の戦いは、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦です。 奥平家興隆のきっかけとなりました。この後の説明は、ウィキペディアを参照しました。(同上)
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『錆地打延五枚胴具足(安土桃山時代)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。長篠城主だった奥平信昌公は、僅か500の兵で、1万五千の武田勝頼軍の攻めに耐え抜きました。その軍功で、信昌の『信」の一字は織田信長公から拝領したものです。(同上)』、長篠城は、宇連(うれ)川と豊川の合流地点の断崖の上に建つ堅城です。現在は、城址だけが日本百名城(46番)として残ります。(同上)
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イチオシ
『長篠合戦図(六幅掛軸)』の展示光景です。この後、分割して紹介します。1650年頃に描かれたとされますから、戦いから75年ほど経った頃になります。長篠の戦いは、天正年(5月21日、設楽原(新城市)において織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の決戦が行われました。(同上)
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1扇に長篠城と鳶ヶ巣山砦の攻防戦を描き、画面右側の2扇、3扇は進撃する武田軍を描いています。織田・徳川軍は馬防柵を立て、鉄砲隊を前面に出して、突撃を阻止しました。画面左側が織田・徳川軍の配置です。成瀬正一(成瀬正成の父)は4扇の馬防柵前に鉢巻姿で描かれています。
*写真は、『長篠合戦図(六幅掛軸)』の一番右側の一幅のズームアップ光景です。 -
改めて『長篠の戦い』についての紹介です。
*長篠の戦い(長篠の合戦などとも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦です。軍勢については、異説もあります。
*甲斐国・信濃国を領する武田氏は、永禄年間に駿河の今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へ侵攻していました。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛していて、当初は武田氏との友好的関係を築いていました。(同上)
*写真は、『長篠合戦図(六幅掛軸)』の右から一幅目と二幅目の光景です。 -
『長篠の戦い』についての紹介が続きます。
*しかし、将軍足利義昭との関係が険悪になると、元亀3年に反信長勢力を糾合した義昭が挙兵します。そこで義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国三河へ侵攻(西上作戦)したため、織田氏と武田氏は手切れとなりました。
*しかし、信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされました。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放、自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭しました。
*武田氏の撤兵に伴い、三河の徳川家康は武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めました。(同上)
*写真は、『長篠合戦図(六幅掛軸)』の右から二幅目付近の光景です。 -
*天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属しました。
*家康は、武田家より奪還したばかりの長篠城に奥平を配しました。つまり、対武田の最前線に置きました。
*信玄公の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始します。奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲しました。
*これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至りましたが、長篠・設楽原での戦端を巡っては、異説もあります。(同上) -
*1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵でしたが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻に何とか持ちこたえていました。
*しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められました。5月14日の夜、城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を密使として放ち、約65キロ離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにしました。
*夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って武田軍の厳重な警戒線を突破した鳥居強右衛門が、15日の午後にたどり着いた岡崎城では、既に信長の率いる援軍3万人が、家康の手勢8000人とともに長篠へ出撃する態勢でした。(同上)
*写真の右側(5枚目)の中心人物は、徳川家康公です。その周りを石川数正、佐久間信盛、榊原康政、柴田勝家などが護ります。左側の6枚目の中心人物は、織田信長公です。周りを護るのは、川尻重能、奥平貞能、水野忠重などです。 -
*鳥居強右衛門は、信長と家康に戦況を報告し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされました。強右衛門は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返しましたが、16日の早朝、城の目前まで来たところで武田軍に見つかり、捕らえられました。(同上)
*写真は、『長篠合戦図』のタイトルの説明パネルです。 -
*最初から死を覚悟の鳥居は、武田軍の厳しい尋問に臆せず、自分が長篠城の使いであることを述べ、織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定であることを堂々と語りました。鳥居の豪胆に感心した武田勝頼は、強右衛門に向かって、お前は城に向かって『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ、そうすれば、お前の命を助け、所領も望みのままに与えてやろう、と取引を持ちかけました。(同上)
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*鳥居は表向きこれを承諾しましたが、実際に城の前へ引き出された鳥居は、『あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ』と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫びました。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて鳥居を磔にして、槍で突き殺しました。(同上)
*写真は、『長篠の戦い』の人員配置と指揮者の解説のようです。 -
*しかし、この鳥居の覚悟の叫びのおかげで、援軍が近いことを知った貞昌と長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができました。(同上)
*写真は、長篠の戦で使われた火縄銃や陣笠のようです。関連する、各種の古文書も並べられていました。 -
*人数などに異説がありますが、信長軍30,000と家康軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣しました。
*信長側は、無防備に近い鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採ったようです。(同上)
*写真は、背後に見える『長篠合戦図(六幅掛軸)』と、合戦時のほら貝などです。 -
*一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれました。信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景・馬場信春・内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したといわれていますが、勝頼は決戦を行うことを決定しました。結果はよく知られるように、織田・徳川軍の大勝に終わり、武田家滅亡のきっかけになりました。(同上)
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*左が『鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)磔図』の掛け軸です。右の掛け軸は、絵の内容が読み取れませんでしたから、ピント外れのコメントになるかもしれませんが、花鳥図風でした。
*強いて推測するなら、鳥居強右衛門が、援軍を求めるために長篠城を抜け出した時の図かも知れません。
*卓上の右側には、『長篠合戦のぼりまつり』の表示がありました。
*天正3年(1575年)5月13日、武田軍から放たれた火矢により、城の北側の兵糧庫が焼失、長篠城は長期籠城の構えから一転、あと数日で落城の絶体絶命の状況になりました。大軍に取り囲まれた長篠城を決死の覚悟で抜け出し、岡崎城の家康公に援軍を求めたのが、先ほど紹介した鳥居強右衛門でした。(同上) -
*『長篠の戦い時使用・血染めの陣太鼓』のタイトルがあった写真です。
*オリジナルの「血染めの陣太鼓」は、長篠城跡の展示館で目にしましたので、紹介しておきます。
*2017初夏、日本百名城の長篠城(5/6):6月17日(5)
https://4travel.jp/travelogue/11257928 -
*『鳥居強右衛門勝商(とりい・すねえもん・かつあき)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。
*強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継ぎました。強右衛門勝商の子・鳥居信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属しました。現代まで家系は継続しています。(同上) -
〇『文部省検査・尋常小学読本・小学国語読本』のタイトルがあった展示品です。
*幸か不幸か、『鳥居強右衛門』の決死の行動は、明治期から昭和のかけての国定教科書に掲載されました。このため、戦後は知る人が少なくなったようです。
*武田軍には、長篠城の味方を救うために自分を犠牲にして忠義を尽くした強右衛門の勇気を称え、強右衛門の助命を求める家臣達もいたようです。(同上) -
〇『豊前中津城下大絵図』
*日本三大水城であることが納得できる、かつての縄張り図です。南と東方面からは、二重~三重の堀が巡らされていました。
*北と西側の守りは、中津川が主体です。
〇追記:江戸時代初期の絵図の原図(写)が民家で見付かりました。
*江戸初期の正保年間(1644~48年)に、幕府が全国の藩に命じて国単位で作製させた地図「正保国絵図」のうち、豊前国(福岡県東部と大分県北部)を描いたものが2020年6月、大分県中津市の民家で見つかりました。調査中の段階ですが、資料的価値が高いようです。
*各藩が幕府に提出した国絵図は、1647年の明暦の大火で焼失、豊前国絵図は現存が確認されていませんでした。(同上) -
〇『中津地図旧藩住所地区及云々』のタイトルがあった中津城下絵図です。
*先ほどの絵図より広範囲か記されていました。推定ですが、いずれも江戸時代の藩政時代の地図のようです。
*江戸幕府が全国の大名に計4回(慶長、正保、元禄、天保)作製させた地図作製事業で、正保元(1644)年に命じたものは、『正保国絵図』と呼ばれています。
*南海トラフ地震など自然災害を念頭に『江戸初期の詳しい地形が分かれば、川の流れの移動や、地震・津波による村落の消滅や地形の変化も分かり、防災の観点からも有用』との期待もあります。(同上) -
〇最上部の扁額『第6代藩主の奥平昌暢公の直筆の扁額』
*奥平昌暢(1808~1832年)は第5代藩主・奥平昌高の次男として江戸で誕生。
〇下段中央のポスター『黒官石』
*『人生のすべての戦いで勝利を』との願いが籠められた、1袋千円のお守りでした。朝鮮山城の『神籠石(こうごいし)』なら、破片でも価値がありそうです。 -
『奥平家第二代奥平信昌公養父・徳川家康公・没後400年・特別記念展示品』の表示があった展示コーナーの光景です。尾張徳川家に因む、名古屋の徳川美術館からの貸出し品のようでした。徳川美術館に保存されている『徳川家康公(1543~1616年)』の甲冑2点の展示でした。奥平信昌公は、奥平家の第2代ですが、中津城の城主は第7代の昌成公からです。(同上)
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イチオシ
〇『大水牛脇立熊毛植黒糸縅具足写』
*徳川家康公着用具足写(レプリカ)
*家康公の遺品として、尾張徳川家での小天守の特別室で長く保管。
*戦国時代の当世具足の特徴を持つ甲冑とされます。
*現在は徳川美術館所蔵。 -
〇『金陀美具足(きんだみぐそく)』(レプリカ?)
*松平元康(徳川家康)着用の甲冑。
*この甲冑にまつわる話として、徳川家康による決死の任務があります。それは、1560年(永禄3年)の『桶狭間の戦い』の時の『大高城兵糧運び入れ』です。
*金箔押しや金漆塗りで仕上げられた甲冑は一見絢爛豪華ですが、決して贅を尽くした物ではなく、素材などは一般武士と同等の物を用いていたようです。実戦での使用に耐えられる実用本位で仕立てられた甲冑です。 -
〇『金陀美具足(きんだみぐそく)』(レプリカ?)と太刀
*松平元康(徳川家康)着用の甲冑。
*松平元康(徳川家康)は今川方の将としてこの合戦に参加しており、信長とは敵対関係にありました。その理由は、家康は幼少の頃に今川の人質に出されていて、家康の一族である松平家自体が今川の従属下に置かれていたからです。
*大高城への差入れは成功し、家康の若い頃の武功ともされています。
*城址としてはあまり整備されていませんが、大高城跡の紹介です。
2015秋、家康所縁の大高城(1):JR大高駅から歩いて大高城へ
https://4travel.jp/travelogue/11088322 -
〇『大水牛脇立熊毛植黒糸縅具足写』の説明パネルです。
*徳川家康公着用具足写(レプリカ)
*家康公の遺品として、尾張徳川家での小天守の特別室で保管。
*戦国時代の当世具足の特徴を持つ甲冑とされます。
*現在は徳川美術館所蔵。
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2018暮、大分と福岡の名城巡り(上巻)
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