2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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この地を治めていた大友氏の居館に、慶長2年(1597年)に入った石田三成(1560~1600年)の妹婿の福原直高(?~1600年)が、大分川の河口に築城を開始し、2年後に四重天守を持つ城を完成させたのが、大分府内城の始まりです。
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かつての府内城の曲輪の一つ、『山里丸跡』に建つ『松栄神社』の拝殿光景です。慶長末期、上州水沼村に松平家の祭神・近正八幡宮として創始されたのがこの社の起源です。享保14年(1729年)、豊後府内藩主・近儔公直参の宮として城内の山里丸に祭祀されました。(府内城・公式サイト)
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『松栄神社』が遷座する、かつての『山里丸』の光景です。寛政11年(1799年)、近正八幡宮は、牧村・松栄山(現在の大分市牧,護国神社社地)に遷宮され、松栄神社となりました。さらに4年後、近儔公は氏神である松平一生公の霊を合わせて祀り、栖克(すみよし)大明神と改称しました。(同上)
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明治になり、鎮座する松栄山にちなんで社号を松栄神社と改め、さらに明治18年に社地が堀川町(現在の都町北部)に移されましたが、明治33年(1900年)、かつて祠のあった現在地に遷宮し、今に至っています。昭和20年(1945年)の敗戦後は衰微しましたが、昭和43年(1968年)、有志によって再建されました。(同上)
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『継続?力』の文字が陽刻された記念碑の光景です。その下の『碑文』の末尾に『私立大分夜間中学校・継続会有志』の表示がありました。教職にあった方が地元に帰って家業を継ぎ、地元の若い人たちのために私立の夜間学校を開かれ、その教え子の方達が恩に報いるために建てられた石碑のようです。(同上)
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イチオシ
かつての『山里丸』と『西丸』との間に復元された『廊下橋』の内部光景です。大分府内城で再建された建物の一つです。他に再建された建物は、『大手門(多門櫓門)』、『着到櫓(東丸・西南隅櫓)』『東丸・北東二重隅櫓)』、『『西丸・西南隅櫓』等です。(同上)
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『廊下橋』の西丸側の出入口光景です。『廊下橋』は、平成8年(1996年)に復元されました。古絵図には大手門前に檜皮葺屋根で白漆喰塗壁の廊下橋が描かれていて、その姿を元に復元されました。(同上)
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かつての本丸か、西の丸の北側の長塀になるようです。現存施設ではなく、再建された白漆喰で塗られた風に見える長壁です。基礎部分や下部の石垣などは補修された遺跡が使われているかも知れません。(同上)
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シルエットで眺める、府内城跡公園の中の『バーチャル・イルミネーション』の骨組み光景です。まだ空が青い時間帯ですが、点灯されれば、かつての府内城の天守閣の姿になります。(同上)
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西南側から眺めた天守台跡方面の光景です。手前に見える石垣が、『北二重櫓跡』の石垣、その先に僅かに見えるのが『天守台跡』の石垣です。いずれも補修はされエチルかも知れませんが、府内城の遺跡になるようです。(同上)
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『人柱お宮』のタイトルがあった説明パネルです。『今からおよそ400年前、福原直高が、この地に荷揚城(現在の府内城)を構築する際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てる事になりました。上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救う為に立ち、弁財天の木造を抱いて人柱となりました。その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられた』と紹介されていました。(同上)
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天守台跡の近くから眺めた、『大手門』方面の光景です。『大手門』の正式な呼び名は『多門櫓門』です。この櫓門の一角に、24時間対応可能なように『続日本百名城巡りのスタンプ』が置かれていました。(同上)
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右端に見えるのが、『天守台跡』の石垣、左手前が『北二重櫓跡』の石垣です。縄張図を参照しますと、その間には平櫓の『北渡櫓』が設けられていました。その石垣跡も残っていました。(同上)
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『天守』と『北二重櫓』を繋いだ、平櫓の『北渡櫓跡』の石垣光景です。イメージ的には、明治の初めの廃城令で取り壊された跡のままに見えました。『天守』と『北二重櫓』の石ガキとの高さを保つためでしょうか、3~4重に低い石垣が積まれていたようです。(同上)
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全文が英文で解説された大分城跡公園の『バーチャル・イルミネーション・プロジェクト』のタイトルがあった説明看板の光景です。左下の図面には、かつての天守と天守台の大きさが、天守台の底辺が25*23メートル、全体の高さが29メートルと表示されていました。2017年2月に始まったプロジェクトです。(同上)
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大分城跡公園の『バーチャル・イルミネーション・プロジェクト』が建設した府内城の光景です。初見の時は、建設工事用の仮足場かと思いましたが、完成したイルミネーションで輝く仮想の府内城天守でした。(同上)
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タイル9枚で表示された説明パネルの光景で鵜s。『府内城跡』のタイトルがありました。昭和38年(1963年)2月に大分県の史跡に指定された施設が、人質櫓、宗門櫓、堀、土塀、石垣、櫓(天守台)跡であることが表示されていました。一見して、お堀での守りが堅固な府内城に見えました。(同上)
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かつての本丸エリアになるようです。本丸は北側が一乗目の外堀で区画され、東、南、西の三面が内堀で二の丸(東丸、西丸)と区画されていましたが、明治維新後の廃城後に内堀はすべて埋め立てられました。
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茜色に染まってきた西の空の光景です。西丸跡には1966年(昭和41年)に大分文化会館が建てられましたが、2013年(平成25年)10月に閉館し、その後、解体されました。城内に見える工事用の板囲いの部分は、その跡地のようです。中央やや右に見える櫓府は、西丸の西南角の再建隅櫓のようです。(同上)
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左手に見える芝生や庭木は、寄贈された日本庭園の一部です。この庭園は、この後、もう少し詳しく紹介します。中央やや右寄りに見える白漆喰の建物は、再建された『大手門(多門櫓門)』の側面光景です。(同上)
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『府内城絵巻』などの表示があった、府内城の臨時の観光案内施設の光景です。2019年2月14日までの期間限定の臨時施設でした。ボランティアガイドの方が詰めていましたので、日本百名城スタンプの置場を確認に入りました。(同上)
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ボランティアガイドの方と話をしながら、了解を得て撮影した室内展示の絵図面などです。この説明パネルには、『府内城の施設』のタイトルがありました。二階櫓、三階櫓、着到櫓や三の丸東口多門櫓などが紹介されていました。説明パネルの右側部分です。(同上)
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次は、説明パネルの左側部分の紹介です。右上に見えるのが天守です。その下に大手門の廊下橋や大手門(廊下橋多門櫓)などが紹介されていました。絵図には、北の丸、西の丸隅櫓、内内堀、宗門櫓なども見えました。(同上)
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こちらの説明御パネルには『府内城下町』のタイトルがありました。本丸、二の丸、三の丸と城下町はそれぞれ大きな堀に囲まれ、北側は大分川と海に面した『水城』であることが紹介されていました。左側の二つの図面は、航空写真に書き記されたかつての府内城の縄張りです。(同上)
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イチオシ
『大手門』の光景です。正式名は『多門櫓門』とされます。『二の丸』は、『東丸』と『西丸』からなり、その南面の中央付近に位置する櫓門です。ネット情報では、『重要な建物でありながら格式の低い切妻造で、妻面に火燈窓を設けるなど、他の城門には見られない少々変わった外観をしています』と紹介されていました。(同上)
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『大手門((多門櫓門)』近くの外堀光景です。現在は外堀の一部が埋め立てられて通路になっていますが、かつての絵図面には、廊下橋で繋がっていたことが記されていました。(同上)
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お堀にいた鳥さんの光景です。優しい顔をした、小さくはない鳥さんでしたが、嘴は鋭そうでした。普段見かけるアオサギさんとはイメージが異なるようでしたが、見る角度の違いかもしれません。アオサギは、ダイサギよりも大きな体をしています。若鳥だったかもしれません。(同上)
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『大手門(多門櫓門)』の北側から東に伸びた石垣と、東丸の西面の石垣の好天付近の光景です。縄張図を参照しますと、かつてはこの角の部分に平櫓が設けられていました。水が澱まないための水質保全のためでしょうか、噴水か、湧水施設が設けられていました。(同上)
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『大手門(多門櫓門)』の北側から東に伸びた石垣と、東丸の西面の石垣の好天付近のズームアップ光景です。やはり平櫓は再建されていないようです。ズームアップした石ガキは、打込み接ぎより、野面積に近いようでした。(同上)
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『東丸』の西面の石垣光景です。その石垣の先(南側端)に、現在修復作業中の二重隅櫓があります。『大手門(多門櫓門)』の守りの役割も持っていたようです。戦災に遭った、『着到櫓』です。(同上)
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イチオシ
『東丸・西南二重隅櫓)』のズームアップ光景です。『着到櫓』の名前でも呼ばれています。昭和41年(1966年)に再建された隅櫓です。全面に白漆喰が施されていました。角には石落しもあった隅櫓です。絵図面によれば、福原直孝段階(慶長2~4年/1597~1599年)では、本丸部分は二重の堀で、竹中重利段階(慶長6~19年/1601~1614年)には三重の堀で囲まれていました。この堀は福原時代と竹中時代一重目の外堀で、天守はさらに一堀で守られていたようです。因みに、府内城は『平城』に分類され、日本の三大海(水)城は、『讃岐高松城(香川)』、『伊予今治城(愛媛)』と『豊前中津城(大分)』です。(同上)
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