2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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中津城の城下町の紹介です。『京町』は、黒田氏が中津に入封した際、京町中ノの町屋・伊予屋を本陣として中津城をつくったという説があり、京町は古くから存在していたようです。京都からの移住者がいたことが由来とされます。その町名は黒田時代に描かれたとされる「黒田如水縄張図」にも記されています。
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イチオシ
中津駅前の『福沢諭吉像』のズームアップ光景です。天保5年12月12日(1835年1月10日)に生まれ、明治34年(1901年2月3日)に亡くなりました。幕末から明治の日本の、武士 、啓蒙思想家、教育者でした。慶應義塾の創設者としても有名です。兄の勧めで、大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれていた、蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学びました。安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となりました。安政5年(1858年)、中津藩から江戸出府を命じられました。その時の、蘭学塾『一小家塾』が、のちの慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされています。(中津藩公式サイト)
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中津城址に向かって、中津旧市街を歩きながら、中津城の歴史紹介です。
『1575年(天正3年)、それまで三河山間部の小豪族に過ぎなかった奥平家の名が世に知れ渡る事となりました。織田・徳川連合軍が、武田軍を壊滅に追いやった「長篠設楽原の戦い」です。(中津城公式サイト)』
*写真は、立派な屋根を持った、観光案内看板の光景です。中津駅近くでした。 -
『この日本の歴史を変えたと言われる激戦で、家臣である鳥居強右衛門の決死の活躍などもあり甲は、、信長公から最高武勲と讃えられたのが奥平家第二代の貞昌公です。この時、信長公から「信」の一字を与えられ、以降、名を「信昌」とあらためました。また信昌公は、家康公の長女である亀姫をめとりました。(同上)』
*写真は、『中津駅北高札場』の案内立札です。 -
『信昌公は、娘婿の名に恥じぬ鬼神の働きぶりで幾多の戦果を上げ続け、徳川幕府創設のため大いに貢献しました。その後、家昌公をはじめとする子供たちの、親に劣らぬ働きもあり、奥平家は、徳川御連枝として譜代の名門の地位を確固たるものにしたのです。(同上)』
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『その後時を経て、1717年(享保2年)、前年将軍職に就任したばかりで、幕政改革に意欲を燃やす、第八代将軍・徳川吉宗公(在位:1716~1745年)から西国の抑えを期待され、奥平家第七代奥平昌成公が豊前中津城に入城しました。丹後宮津から一万石加増の十万石での栄転でした。(同上)』
*写真は、なまこ壁の町並み光景です。 -
『吉宗公は、家康公のひ孫にあたり、偉大な曾祖父を崇拝してやまなかったと言います。「諸事権現様(家康公)定めのとおり」と、政治手法も家康公を手本にしていた程です。同じ家康公の血を引く、昌成公へは期するものがあったようです。また、江戸幕府の第8代征夷大将軍の吉宗公は、徳川幕府中興の祖とも呼ばれます。(同上)』
*写真は、歴史を感じさせる町並みを意識した建物光景です。 -
『以後、奥平家は日本の蘭学の発展に貢献した第十一代昌高公をはじめ数々の名君を輩出し、1871年(明治4年)に第十五代昌邁公が廃藩置県を迎えるまで、中津城は、154年間に亘り奥平家の居城として城下町中津の繁栄を見守り続けました。廃藩置県の際には城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続しました。(同上)』
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イチオシ
『しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまいました。それから敗戦と言う激動の時代を経て1964年(昭和39年)、旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣が建造されました。以来、中津市の郷土の誇り、観光のシンボルとしての新城は、昭和、平成と時を重ねました。(同上)
*写真は、『島田神社』の扁額が懸かった神社の光景です。 -
『そして2011年、奥平家の魂を引き継いだ運営会社の元、新生中津城(奥平家歴史資料館)は、様々なイベントや企画を実施し、中津市民のために新たな人生を歩み始めています。(同上)』
*写真は、『島田神社』の石の鳥居の光景です。寛喜元年(1229年)に『貴船神社』として創建された由緒ある神社です。 -
次は、年代順の箇条書きによる、奥平家を主にした中津城の紹介です。
〇1575年(天正3年):長篠の戦い(奥平家では後々、家運を高めたこの戦を「開運戦」と呼び、現在では戦いに勝利した5月21日頃に戦勝記念である「たにし祭り」が行われています。
〇1576年(天正4年):織田信長公が、安土城を築城。 -
〇1582年(天正10年):本能寺の変。
〇1584年(天正12年):小牧・長久手の戦い()平家第二代信昌公が武勲。
〇1600年(慶長5年):関ヶ原の戦い(戦後、信昌公初代京都所司代に就任。西軍有力武将である安国寺恵瓊を捕縛)
〇1602年(慶長7年):信昌公が美濃国加納へ十万石で加増転封。 -
〇1616年(元和2年):奥平家第四代忠昌公が曾祖父家康公から白鳥鞘の鑓を拝領。
〇1717年(享保2年):奥平家第七代昌成公が中津十万石の領主として入城。
〇1746年(延享3年):平家第八代昌敦公が豊前国中津藩第二代藩主に。
〇1752年(宝暦2年):昌敦公、農政改革を開始。
*写真は、真っ直ぐ伸びる町並空き地も目立ちました目立ちました。 -
〇1758年(宝暦8年):第九代昌鹿公が15歳で豊前国中津藩第三代藩主となる。訴平賦均録という法令集を編纂し、藩政に尽力する。
〇1780年(安永9年):奥平家第十代昌男公が豊前国中津藩第四代藩主となる。
〇1786年(天明6年):奥平家第十一代昌高公が豊前国中津藩第五代藩主となる。
〇1810年(文化7年):昌高公の指導のもと蘭語訳撰が導入される。 -
〇1822年(文政5年):昌高公によりバスタールド辞書が出版される。
〇1825年(文政8年):奥平家第十二代昌暢公が豊前国中津藩第六代藩主となり、新田開発や藩法改正などの改革を行なう。
〇1833年(天保4年):奥平家第十三代昌猷公が豊前国中津藩第七代藩主となる。
〇1835年(天保6年):昌猷公が黒沢庄右衛門を登用し藩政改革、専売の強化。 -
〇1842年(天保13年):奥平家第十四代昌服公が豊前国中津藩第八代藩主となる。
〇1853年(嘉永6年):黒船来航。
○1855年(安政2年):この頃から砲台建設などの藩政改革に着手。
〇1863年(文久3年):城内に「松の御殿」を築く。
〇1868年(慶應4年):奥平家第十五代昌邁公が豊前国中津藩第九代藩主となる。 -
〇1869年(明治2年):明治維新の精神に従い藩政改革を行う。
〇1871年(明治4年):廃藩置県により中津城は廃城。小倉県中津支庁舎となる。昌邁公は維新の功により賞典禄二千両を受けて伯爵となる。
〇1877年(明治10年):西南戦争により中津支庁舎であった御殿が焼失。
〇1964年(昭和39年):旧藩主奥平家が中心となり再び中津城が築城される。 -
奥平家を主にした中津城紹介の締め括りです。
〇2011年(平成23年):新たな運営会社により新生中津城が誕生。「第一回中津城人間ひな飾り」、「第一回中津城たにし祭り」、「第一回中津城薪能」、「第一回中津城写生大会」など注目のイベントを次々と開催。家康公のひ孫である忠昌公をモデルにした中津城の公式キャラクター「おっくん」も誕生。(以上) -
『中津の偉人・賢人』の『水島銕也(てつや):1864~1924年』の紹介パネルです。水島銕也は、豊前中津藩士・水島家の長男として、大分県中津市金谷 (かなや)で誕生。1887年に東京商業学校 (後の東京商業高等学校) を卒業して、教員、校長心得、民間会社勤務を経て、新設の神戸高等商業学校校長に就任しました。実践を重視し、22年に亘って校長を務めました。(南部校区青少年健全育成協議会)
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『南部小学校にあった中堀の土塁~おかこいやま~』のタイトルがあった説明パネルです。左側の写中に緑色に塗られたところが~おかこいやま~です。緑色は、松林を表しています。かつての中津城は、内堀、中堀、外堀沿いに土塁とお堀が巡り、守りの固い構造でした。(同上)
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『中津の偉人・賢人』の『福沢諭吉:1835~1901年』の紹介パネルです。慶應義塾の創始者として紹介されていました。この地には、諭吉が創設した西日本有数の英学校の『中津市学校』があり、著書の『学問のすすめ』は、その生徒たちへの啓蒙書で、大ベストセラーになったことが紹介されていました。(同上)
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『生田(いくた)門と中津市学校』のタイトルの説明パネルです。南部小学校の校門の『生田門』は、明治維新後の廃藩置県後も『中津市学校』の校門として使われたことが紹介されていました。元々は、中津藩家老の生田家の門でした。この辺りは、江戸時代には『三の丸』だった場所です。(同上)
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『生田門』の光景です。中津の藩校時代から始まり、現代にも姿を見せる貴重な建造物と紹介されていました。明治4年(1871年)、福沢諭吉の建議により、生田家屋敷や奥平図書屋敷があった『大手屋敷』に、西日本随一の英学校の『中津市学校』が創立されました。(同上)
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中津城下町の紹介です。その祖形ができたのは細川の時代で、14町が形成されたといわれてきました。しかし、近年の調査で、黒田時代にある程度の町割りがなされ、細川以降の町割りは、その区画を踏襲したものであることが分かりました。(中津耶馬渓観光協会サイト)
*写真は、『中津市学校』の長塀です。 -
中津城下町の紹介が続きます。城下町は小笠原期に整備・拡張され、奥平期へと引き継がれました。また細川氏が城内にひいた水道(御水道は、小笠原期には城下町へと拡張されました。城下町は軍事的な防備を考えてつくられています。中津では、城の玄関口である大手門前に商人の町(京町・姫路町・片端町など)が置かれました。(同上)
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また、下級武士の組屋敷は城の東南の外郭内(鷹匠町・中間町・留守居町など)、北西の郭外(角木町・浦町など)、西南の郭外(古金谷・森ノ丁など)におかれ城下町の守備を固めました。また外郭沿いには神社・仏閣が配され(寺町など)、いざ戦闘のときには広い境内、大きな建物を利用できるようにしました。中堀・外堀沿いには『おかこい山』とよばれる土塁を巡らせ、城下町を守っていました。(同上)
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『中津の偉人・賢人』の『黒田官兵衛(孝高:よしたか):1546~1604年』の紹介パネルです。豊臣秀吉の軍師で、1587年に豊前六郷の領主として入国し、初代中津城主として紹介されていました。2014年のNHK大河ドラマの『軍師・官兵衛』の主人公としても紹介されていました。(南部校区青少年健全育成協議会)
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『中津の偉人・賢人』の『細川忠興(ただおき):1563~1646年』の紹介パネルです。1600年の関ヶ原の戦いの後、黒田氏に代わって、豊前(ぶぜん)、速見(はやみ)、国東(くにさき)の39万9千石の領主として入国したことが紹介されていました。また、小倉城から中津城に移って隠居したことで、現在の中津城の形がほぼ整ったことが紹介されrていました。(南部校区青少年健全育成協議会)
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城下町は、今でも当時の地名がそのまま使用されていて、直線的な城下町の町割りに、江戸時代のおもかげをたどることができます。旧中津城下町は、江戸時代に使われていた町名が現在でも残っています。特に東側に位置している「姫路町」、「京町」、「博多町(現在の古博多町)」は、黒田時代から町名がすでに存在していたようです。(中津耶馬渓観光協会サイト)
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『中津神社』の扁額が懸かった大鳥居の光景です。右手奥に、中津城の天守が見えていました。『中津大神宮・中津神社は中津城趾の公園地内にある神社です。中津大神宮は、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉斎し、「豊前の国のお伊勢様」として親しまれています。(神社公式サイト)』、と紹介されていました。
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中津城址の遺跡として残されている石垣とお堀の光景です。水の流れはないらしく、緑の藻が水面を覆っていました。中堀か、内堀跡のようです。石垣は、野面積と打込み接ぎを折衷したような積み方でしたが、右奥付近には、大きな石を使ったさんき罪がありあmした。推測ですが、その部分は、隅櫓があった石垣のようです。
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