2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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大分と福岡の名城巡り、岡城紹介の続きです。海抜325mの台地、岡城跡その広さは実面積でおよそ100万平方メートル、大野川の支流、稲葉川と白滝川に挟まれた舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つその姿はかつて「難攻不落」と言われた天然の要塞であったことを感じさせます。
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『国指定史跡・岡城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。長文の説明文の上に、岡城の縄張り図が表示されていました説明文文は、1185年(文治元年)、大野郡緒方庄の武将の『緒方三郎惟栄(これよし)』が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられることから説明が始まっていました。岡城の歴史は、この後、纏めて紹介します。(ウィキペディア)
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土井晩翠詩碑の光景です。『土井晩翠(どい・ばんすい:1871~1952年)』は、詩人で英文学者でした。男性的な漢詩調の詩風で、女性的な詩風の島崎藤村と並んで『藤晩時代』と称されました。1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現・宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の長男として生まれました。歴史的名曲の『荒城の月』の作詞家です。(同上)
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イチオシ
土井晩翠詩碑のズームアップ光景です。1898年に東京音楽学校から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)を作詩しました。同校がこの詩につける曲を公募し、瀧廉太郎の曲が採用され、1901年(明治34年)に「荒城の月」として発表、『中学唱歌集』に収められました。
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『竹田市』名前での土井晩翠詩碑の説明立札です。先ほどの詩碑が、土井晩翠の直筆を刻んだものであることが紹介されていました。その小学校唱歌の第二節は、
秋 陣営の 霜の色
鳴きゆく雁の 数見せて
植うる剣に 照りそいし
むかしの光 いまいずこ
です。この石碑では一行目の『霜の色』が、『夜半の霜』です。晩翠が尊敬した上杉謙信公の『九月十三夜陣中作』の『霜は軍営に満ちて秋気清し』の部分のオマージュとも解釈されています。(同上) -
岡城本丸に建てられていた石碑ですが、この石碑は、文字が読み取れませんでした。他の石碑にも、横に割れた筋がありましたが、この石碑にも上に近い場所に横筋がありました。推測ですが、地震で倒壊した時に折れてしまい、それを修復した跡のようでした。
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『岡城天満神社』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この神社は1593年(文禄2年)、岡城初代藩主の『中川秀成(ひでしげ:1570~1612年)』が入城した時に、城内東側にあった『天神洞』を移転・建立したものと紹介されていました。その後、歴代の中川家の藩主が守り神として崇拝してきた神社で、祀られているのは天神様の菅原道真公です。(同上)
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イチオシ
『岡城天満神社』の鳥居と拝殿の光景です。廃藩置県後は、城主に代わって、『大字竹田』の人々が氏子となって守ってきました。先ほどの説明文には、竹田城址の本丸、二の丸、三の丸が神社の境内と紹介されていました。拝殿に飾られている54枚の天井絵馬は、大分県内の三名の女性画家が、1年がかりで描いたものとも紹介されていました。(同上)
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『岡城天満神社』の右前に置かれた、石灯篭の光景です。標準的な、春日灯篭の様式のようでした。『春日灯篭(かすがとうろう)』は、竿(さお)が円形、笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・地輪(じりん)が六角平面で、背の高い標準的な石灯籠を指します。奈良県の『春日大社(かすがたいしゃ)』に多く用いられているところからの呼び名です。
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『岡城天満神社』の左前に置かれた、石灯篭の光景です。春日灯篭のついでに、『春日大社(かすがたいしゃ)』も説明しておきます。春日大社は、奈良公園内にある神社で、世界遺産「古都奈良の文化財」の構成要素です。同じく世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一要素である、「春日山原始林」を背景にしています。火袋の鹿のレリーフは、神使いの白鹿のようです。主催神は、次の四柱です。
〇武甕槌命 - 第一殿。藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
〇経津主命 - 第二殿。同上(下総国香取の神)
〇天児屋根命 - 第三殿。藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
〇比売神 - 第四殿。天児屋根命の妻(同上) -
岡城の歴史紹介です。
〇『築城伝説(1185年:文治元年):大野郡緒方荘(大分県豊後大野市)の武将緒方三郎惟栄(これよし)が源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられる。惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。(岡城の歴史:公式サイト)』 -
〇『志賀氏が城主になる(1369年:応安2年):『豊後国志』によると、豊後国守護大友氏の支族である志賀貞朝が、旧堡(古い砦)を修復・拡大し、岡城と称し居城とすると記されている。志賀氏の直入郡(現竹田市)への進出は応安2年(1369年)頃であるため、応安2年以降に志賀氏が岡城を居城としたと考えられる。(同上)』
*写真は、本丸に纏められた補修資材のようです。 -
〇『豊薩合戦(1586年:天正14年):豊薩合戦では島津氏の大軍が岡城を攻撃するが、わずか18歳の岡城主志賀親次は島津軍を撃退し、豊臣秀吉から感状を与えられた。島津軍は3度にわたって攻撃を行なったが、親次がこれをことごとく撃破したため、「難攻不落の城」として岡城の名を天下に轟かせることとなった。(同上)』
*写真は、本丸からの眺望、左から傾山、小富士山(中川氏墓所)、祖母山等です。 -
〇『志賀氏の岡城退去と中川氏の入部(1593年:文禄2年):大友義統が領地を没収され、大友氏の豊後退去に伴い、志賀親次も岡城を去る。翌・文禄3年(1594年)に中川秀成が、三木城(兵庫県三木市)から領地替えにより豊後岡へ入部し、岡城主となる。(同上)』
*写真は、整理番号を付けて並べられた石材です。石垣補修用の石材のようです。 -
〇『岡城普請成就(1596年:慶長元年):中川氏入部と同時に、志賀氏時代の岡城を総石垣の城郭へと大改築をおこなう。文禄3年(1594年)から慶長元年(1596年)にかけて普請が行われ、本丸を始めとした主要な曲輪、大手門などの登城口が完成した。(同上)』
*写真は、同じく整理番号を付けて並べられた石材の光景です。 -
〇『西の丸御殿完成(1664年:寛文4年):西の丸御殿は第3代藩主中川久清の隠居所であったが、時代と共に増改築されていき、城の中心部となっていった。(同上)』
*写真は、修復用の石材のようですが、まだ使用場所が決まっていないようでした。放置されたままです。 -
〇『火災により城の大半が焼失(1771年:明和8年):本丸、西の丸、御廟など城の大半を焼く大火が起こる。安永3年(1774)本丸御三階櫓が再建。安永8年(1779)に西の丸御殿が再建。岡城はたびたび火災・風水害・地震により破損し、その都度復旧をしている。(同上)』
*写真は、少し高い石垣の上から眺めた城内外の光景です。 -
〇『廃城となる(1874年:明治7年):13代(約280年間)続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住する。廃城令によって城内の建造物はすべて破却された。(同上)』
*写真は、少し高い石垣の上から眺めた城内光景です。概ね、西側方面の城域光景になるようです。 -
〇『瀧廉太郎が「荒城の月」を作曲(1901:明治34年):少年時代を竹田で過ごした瀧廉太郎は、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象から着想を得て「荒城の月」を作曲したと言われている。(同上)』
*写真は、同じく石垣の上から眺めた本丸方面の光景です。滝廉太郎が結核で亡くなったのは、満23歳、あまりの早過ぎた天才の死でした。 -
〇『国の指定史跡になる(1936年:昭和11年):12月16日、「岡城跡」として国の史跡に指定される。(同上)』
*写真は、『本丸趾』の文字が刻まれた石標の光景です。補修を待つ、石材群が背後に並んでいました。次は、滝廉太郎の略歴の紹介です。
〇1879年:東京市芝区で生まれる
〇1882年:3歳 父の仕事で横浜に転勤 各地を回る
〇1894年:15歳 東京音楽学校に入学、作曲の技術を学ぶ
〇1898年:19歳 東京音楽学校を卒業
〇1900年:21歳 四季(花が収録)を出版
〇1901年:22歳 荒城の月や箱根八里などを作曲。留学先のドイツで結核発症
〇1902年:23歳 ドイツから帰国し、自宅療養
〇1903年:23歳で結核で死去 -
滝廉太郎の名作の紹介です。
〇荒城の月:(作詞:土井晩翠:どい・ばんすい):1900年
中学唱歌:七五調の歌詞と西洋音楽のメロディが融合した滝廉太郎の名曲。
〇箱根八里:(作詞:鳥居 忱:とりい・まこと):1900年
中学唱歌:箱根の山は天下の嶮(けん)、函谷關(かんこくかん)も ものならず -
滝廉太郎の名作紹介の続きです。
〇花:(作詞:武島羽衣):1900年
組歌「四季」における第1曲、春のうららの隅田川
〇月(秋の月):(作詞:滝廉太郎):1900年
組歌「四季」における第3曲。作詞も瀧廉太郎が手掛けました。 -
滝廉太郎の名作紹介が続きます。
〇お正月:(作詞:東くめ):1901年
幼稚園唱歌(もういくつねると お正月)
〇はとぽっぽ:(作詞:東くめ):1901年
幼稚園唱歌(鳩ぽっぽ、鳩ぽっぽ。) -
滝廉太郎の名作紹介が続きます。
〇かちかちやま:(作詞:東くめ):1900年
幼稚園唱歌(かちかちなるのは、何の音)
〇ゆきやこんこん:(作詞:東くめ):1901年
幼稚園唱歌(雪やこんこん、あられやこんこん) -
滝廉太郎の名作紹介の締め括りです。
〇雀:(作詞:佐々木信綱):1901年
幼稚園唱歌(すずめ雀(すずめ) 今日(きょう)もまた)
〇憾(うらみ):(ピアノ作品):1903年
死の数か月前に書かれ、憾(うらみ)は、心残りの意味があるようです。 -
イチオシ
〇『岡城の魅力:難攻不落の堅城』:難攻不落の堅城と謳われる岡城です。その所以は周囲を囲う「断崖絶壁」と、その絶壁上に築かれている「石垣群」であると言えます。戦国時代末期の天正14年(1586年)、志賀親次の守る岡城に、薩摩の島津氏の大軍が攻め入ってきましたが、険峻な要害である岡城を落とすことができず、撤退したという歴史が残っています。(公式サイト:国指定史跡・岡城跡)
*写真は、見事な『切込接ぎ(きりこみはぎ)』の石垣です。その角の算木積部分の光景です。寸部の狂いもない石積でした。 -
〇『岡城の魅力:難攻不落の堅城(続き)』:文禄3年(1594年)に岡城主となった中川秀成(1570~1612年)が、島津氏撃退でも証明された要害堅固な地形を土台とし、「土の城」から「総石垣造りの石の城」へ大改修を行い、今の岡城を形成しました。近世初頭、中川氏により総石垣の城郭へと改修された岡城は、断崖絶壁上を石垣で取り囲み、その上に塀や櫓などの建物が立ち並ぶ大城郭となりました。(同上)』
*写真は、見事な『切込接ぎ(きりこみはぎ)』の石垣です。 -
〇『岡城の魅力:難攻不落の堅城(続き)』:明治に廃城となった後、城内の建物は取り壊されたため、現在は石垣しか残されていませんが、城内の各曲輪、門跡、櫓台などは全て石垣により構築され、大小さまざまな石垣が連なる圧巻の石垣群により、往時の大城郭の姿をうかがい知ることができます。(同上)』
*写真は、見事な『切込接ぎ(きりこみはぎ)』の石垣のズームアップ光景です。 -
〇『岡城の魅力:難攻不落の堅城(続き)』:中でも、主郭部である三の丸北側から二の丸にかけて続く絶壁上に築かれた高石垣は、壮大さと美しさを生み出しており、必見です。(同上)』
*高石垣は、屏風のようなジグザグの形をしています。これにより2方向から矢を放つことができ、敵を撃退するのに役立ちました。「横矢掛り」と呼びます。 -
『小河一敏翁之碑』の題字が刻まれた石標の光景です。『小河一敏(おごう・かずとし:1813~1886年)』は、岡藩士の子として、豊後国竹田に生まれ、朱子学、陽明学を学び、また詩歌や文章も善くし、早くから尊皇攘夷の志を抱いた人です。維新後は、堺県知事を務めましたが、1870年(明治3年)、氾濫で決壊した大和川の堤防の修築費用を、独断で発行した県札であてたことがとがめられ、免官となりました。しかし和泉・河内の民衆は記念碑を建てて、その功績を讃えました。その後、宮内省御用掛などを務めました。通称は弥右衛門です。(同上)
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『三の丸趾』の文字が刻まれた石標の光景です。岡城の中核部分の入口となるのが三の丸です。往時には、藩主が家臣や他藩からの使者などに対面した場所だとされています。『岡城天満神社』の説明パネルパネルには、本丸、二の丸、三の丸は、現在は神社の境内と紹介されていましたが、国の史跡にもなっていますので、正確なところは分かりません。(同上)
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