2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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大分と福岡の名城巡り、中津城の紹介です。大分県と福岡県の県境付近を流れるのが山国川です。中津城はその川の大分県側に建ちます。山国川は、中津市山国町英彦山(ひこさん)付近を源流として南東方向に流れ、上・中流域の渓谷は耶馬渓(やばけい)と呼ばれ、景勝地として有名です。
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小高い場所に建つ神社らしい造りの建物光景です。左右に背の高い石灯篭がありました。中央には、石の鳥居もありました。山国川を背にした場所です。左手に見える大きな石標には、『金刀比羅宮』の文字が刻まれているようでした。(中津神社・中津大神宮公式サイト)
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木の囲いの中に入っていたのは、目が丸く、歯並びの良い木製の魚でした。お祭りの時に出番があったのでしょうか、今は暇を持て余しているようでした。先ほど紹介した、土手の上の建物の中の光景です。公式サイトには、『大漁祈願を願って欅の一刀彫の鯛神輿』と紹介されていました。(同上)
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中津城の脇を流れる、『山国川(やまくにがわ)』の光景です。左手前方が川上方面になります。大分県と福岡県の県境付近を流れる、一級水系山国川水系の本川です。福岡県と大分県を分ける河川として知られています。大分県中津市山国町英彦山(ひこさん)付近を源流として南東方向に流れ、上・中流域の渓谷は耶馬渓(やばけい)と呼ばれ、景勝地として有名です。(同上)
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同じく、『山国川』の光景です。対岸は福岡県になります。上・中流域の耶馬渓は、青の洞門や猿飛の甌穴群など急流による渓谷が多く、観光客も多い景勝地です。大井手堰から上流は1923年(大正12年)に名勝に、鮎帰りの滝から上流は、1950年(昭和25年)に「耶馬日田英彦山国定公園」にそれぞれ指定されました。また、上中流域では11月後半の紅葉の季節は絶景です。(同上)
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中津城址にあった道案内標識です。同じ右向きの矢印で、城井(きい)神社と扇城(せんじょう)神社が表示されていました。これから向かう見学先です。『山国川』紹介の補足です。1600年(慶長5年)に細川忠興が中津城に入封しますと、金谷堤を築造して当時の山国川の本流だった大家川(おおえがわ)を締め切って中津城の外堀として利用し、当時派川だった中津川を本流としました。(同上)
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右手奥に見えてきたのが『城井(きい)神社』のようでした。段差がありましたので、移動しやすい場所まで坂を下りました。祀られているのは、戦国時代に城主だった『宇都宮(城井)鎮房(1536~1588年)』です。城井氏の16代当主で、城井谷城主と伝わります。怪力無双の人物で、強弓の使い手であったとも伝わります。(同上)
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『城井神社』が正面に見える場所まで移動しました。父・長房が本家筋の下野宇都宮氏の内紛への介入に熱心だったらしく、領国の管理を早くから任されていたようです。最初は大内義隆に属していましたが、義隆が陶(すえ)隆房の謀反で殺されると、豊前国に支配権を確立した大友義鎮(後の宗麟)に服属し、正室に義鎮の妹を娶り、義鎮から一字拝領し、鎮房と名を改めました。(同上)
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大友氏の勢力が衰えると、今度は薩摩国の島津義久に属しました。天正14年(1586年)より始まる豊臣秀吉の九州征伐により、鎮房も秀吉に従いましたが、自身は病気と称して出陣せず、息子の朝房に僅かな手勢を任せたことで、秀吉の不信を招いたようです。結局、黒田氏との戦いになり、和議の酒席で鎮房は謀殺されました。可哀そうだったのが長政との縁組予定だった鶴姫です。磔になりました。(同上)
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『城井神社』のタイトルがあった説明看板の光景です。神社の由来です。中津城で黒田氏に謀殺された宇都宮鎮房は、この地に埋葬されました。宝永2年(1705年)に中津藩主小笠原長円が宇都宮鎮房を「城井大権現」として、城の守護神として祀るようになりました。宇都宮(城井)鎮房(1536~1588年)は、豊前国の戦国大名で、城井氏16代当主でした。(ウィキペディア)
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左手に「扇城神社』立札,右手にこじんまりとした石の鳥居の光景です。小笠原氏は、兄で第3代中津藩主の長胤が悪政と乱行を理由に改易されました。しかし、小笠原氏は譜代の名門であり、藩祖の秀政(1569~1615年)らの祖先の勤労を評価されて、弟の長円が8万石から4万石に所領を削減された上で家督を継ぐことを許されました。(同上)
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『扇城神社』のタイトルがあった説明看板の光景です。扇城神社には黒田氏に殺された宇都宮氏の従臣が祀られています。城井神社と同じく宝永2年に、中津藩4代藩主の小笠原長円(1676~1713年)が、宇都宮氏の従臣を稲荷大明神として祀ったことが始まりです。従臣は合元寺などで殺され、当時の激戦の様子は、現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されています。(同上)
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絵馬掛けの光景です。合元寺の話に戻ります。天正15年(1587年)、黒田孝高に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派の開山空誉上人が開基したと伝えられています。天正17年(1589年)、孝高が城井鎮房を謀略を用いて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺で奮戦し最後を遂げました。以来、門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、赤壁にされたとの由来があります。(同上)
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見覚えがある建物です。先に紹介した『中津大神宮』の正面光景です。中津神社は、中津城址の松の御殿跡に鎮座しています。夏には、中津を代表するお祭りの一つ、『中津祇園祭』が執り行なわれます。『中津大神宮』が、『豊前の国のお伊勢様』と呼ばれるのは、『天照大神(あまてらすおおみかみ)』が分祀されているためのようです。(同上)
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イチオシ
左が、五層五階の『模擬天守』、右が二層二階の『大鞁櫓(だいひやぐら)』の光景です。この後、写真拡大しても紹介します。左端に見えているのが『奥平神社』の拝殿です。先ほど簡単に紹介した、城井鎮房が謀殺された話は、司馬遼太郎さんの『街道をゆく34の中津』のところで、秀吉も絡んだ背景が紹介されていますので、後ほど紹介します。(同上)
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『奥平神社』の拝殿光景です。奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌公三柱を祀った神社です。宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した七代目、奥平昌成公は中津城入城の翌年享保3年(1718)正月、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、11代目昌高公が天明7年(1788)、祈願所を長福寺と改名しました。(同上)
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中津城の模擬天守の光景です。中津城の模擬天守は、昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられました。奥平昌信が中心となって構想し、小倉城や名古屋城などの天守外観の復興に携わった、東京工業大学の藤岡通夫教授が設計を手がけました。 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、外観5重内部5階(5重5階)構造で、高さは23メートルです。(同上)
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模擬天守の近くに聳える、二層櫓の光景です。この望楼型の二重櫓は、『大鞁櫓(だいひやぐら)』と呼ばれるもので、『城主の馬具等を格納するところ』です。この場所には、かつて南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させている姿が写る古写真があるようです。(同上)
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模擬天守と、その回りの光景です。昭和39年(1964年)、旧藩主の子孫・奥平昌信氏が中心となり、本丸北東隅に模擬五重天守、その南側に復興二重櫓を建てました。右端には、階段状の白壁がありました。(同上)
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『日本風景街道・中津城』の文字が記された白い標識の光景です。左側面に『平成24年3月設置・豊の国風景街道推進協議会』の文字がありました。『豊の国・歴史ロマン街道』は、福岡県北東部から大分県北部に位置する日本風景街道の一つです。『小倉・足立山から宇佐の森へ』をサブタイトルとしています。全国で116番目、九州で10番目のルートとして選ばれたようです。(同上)
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『三百季(?)祭記念』らしい文字が刻まれた石標の光景です。背面に回れば、由緒が分かったかも知れませんが、ネットで調べても、詳しいことは分かりませんでした。奥平家か、中津城に関する300年記念碑のようでした。
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名前:『サザンカ(山茶花、茶梅)』
分類:ツバキ科ツバキ属
日本の固有種固有種です。
その他:ヒメツバキの別名を持ちます。 -
先ほど紹介した、赤いサザンカの花と、その背後の『打込み接ぎ』の石垣光景です。黒田家時代の石積のようです。りっぱな石材を使った、堂々とした石積でした。黒田孝高(よしたか・如水:1546~1604年)は、軍師としても、城造りの名人としても後世に名を残しました。(ウィキペディア)
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宣教師のルイス・フロイス著の『日本史』には、『カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。』として、黒田孝高の名をあげています。参謀や顧問、側近として幕僚にいたことは間違いないようです。(同上)
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ずらりと並んだ家中や掛け軸の展示光景です。奥平家の末期に近い藩主の甲冑が主体のようでした。この後ピックアップして紹介します、譜代大名の奥平家は、1717年~ 1871年に亘って10万石で9名の藩主が務めました。昌成に始まり、昌敦、昌鹿、昌男、昌高、昌暢、昌猷、昌服、最後が昌邁でした。昌邁公は、明治4年(1871年)の廃藩置県後、維新の功により賞典禄2000両を受けて伯爵となりました。(同上)
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〇『中津藩奥平家11代・第5代中津藩主・奥平昌高公着用鎧』
年代:江戸時代中期~後期
奥平昌高公(1781~1855年)の略歴:天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれました。母は側室・お登勢の方(慈光院)、ただし実母は直心影流剣術剣客鈴木藤賢の娘とされます。晩年、幕府が開幕以来始めて諸侯に鎖国か開港かと意見を求められた時には、「開国開放政策」の意見書を送るなど、聡明にして開明的な面を持ち合わせていました。(同上) -
『中津藩奥平家11代・第5代中津藩主・奥平昌高公着用鎧』の説明パネルです最上段に『蘭癖大名・フレデリック・ヘンドリック』の補油時がありました。天明6年奥平昌男の急逝により、6才にして中津藩の養子となり、藩主となりました。幼名富之進、寛政9年先代藩主昌男の娘千代姫と婚礼、実父島津重豪の影響で、江戸鉄砲洲の中津藩中屋敷にオランダ部屋を作り舶来品を収集展示していたようです。(同上)
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右側が『色々縅胴丸』、左側が『中津藩奥平家11代・第5代中津藩主・奥平昌高公』の説明パネルです。昌高公は、オランダ商館長ドゥーフから『フレデリック・ヘンドリック』の名をもらうほど、蘭学に傾注しました。結果として蘭学者やオランダ通詞の協力で「蘭語訳撰」(日蘭辞書)、「バスダード辞書」(蘭日辞書)、いわゆる『中津辞書』を刊行し『蘭癖大名』とまで呼ばれました。(同上)
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七文字だけの揮毫ですが、『九』の文字以外は、ほとんど読み取れませんでした。臨書されたものでしょうか、素人判断ながら、後半は筆の勢いがなくなっているようにも見えました。第5代藩主の奥平昌高公と、第6代藩主の昌暢公の甲冑の中間に置かれていました。
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〇『中津藩奥平家12代・第6代中津藩主・奥平昌暢公着用鎧』
年代:江戸時代後期
奥平昌暢公(1809~1832年)の略歴:文化6年(1809年)1月25日、第5代藩主・奥平昌高の次男として江戸で生まれました。長兄が早世していたため、生まれてすぐに世子となりました。文政5年(1822年)12月16日に従四位下・美作守に叙位・任官しました。文政8年(1825年)5月6日、父の隠居により家督を継ぎ、大膳大夫に遷任されました。父に先立ち、24歳の時に江戸で亡くなりました。(ウィキペディア) -
〇『中津藩奥平家12代・第6代中津藩主・奥平昌暢公着用鎧・茶色威革包金箔押伊予札縫延胴具足』の説明パネルです。細かく紹介されていましたが、兜には、高く尖らせた高角の鍬形と、軍配団扇が用いられている、と紹介されていました。「若き藩主の貴公子然とした姿に似合っていたのではないか」、との推測も記されていました。(同上)
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