2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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大分と福岡の名城巡りの岡城の紹介です。別名は臥牛城です。難攻不落の城として有名で、『最強の城』とも呼ばれているようです。城の歴史は古く、1185年(文治1)の創建に遡り、江戸時代末期まで700年の歴史を持ちました。
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大分県竹田市大字竹田に位置する『岡城』の紹介です。『臥牛城(がぎゅうじょう)』、『豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)』とも呼ばれる、山城です。岡城が築かれた天神山は、標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及びます。(ウィキペディア)
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伝承では、鎌倉時代の文治元年(1185年)、緒方惟義(これよし:生没年不詳)が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりと伝わります。惟義は、宇佐神宮の荘園だった緒方庄の荘官でした。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされます。(同上)
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緒方惟栄(惟義)は、大物浦(現尼崎市)で義経を迎え、豊後へ出発しようとしました。しかし、運悪く夜半から大風が吹き荒れ船団は壊滅しました。義経は和泉浦に逃れ、惟栄等は捕らえられました。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたと記します。(同上)
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時は下って、天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すため、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次(こんつぐ:1566~1660年)の指揮のもと、再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年(1587年)正月3日付けの褒状を受けています。(同上)
*写真は、まるで城壁のような、自然石の岩壁光景です。 -
豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)、文禄の役で大友吉統(義統)が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなりました。翌、文禄3年(1594年)、播磨国三木から中川秀成(ひでしげ:1570~1612年)が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施しました。(同上)
*写真は、岡城の大手門光景です。 -
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この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けました。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口だった下原門に加えて、近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、3口としました。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備されました。(同上)
*写真は、『史跡・岡城阯』の文字が刻まれた石標の光景です。 -
豊後竹田7万石の中川氏は、関ケ原で東軍に属したため、所領を安堵されました。岡藩(竹田藩)2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営しています。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震(?)、火事などの被害を多く受けました。(同上)
*写真は、『国指定史跡・岡城跡』のタイトルの説明パネルの光景です。 -
写真は、『史跡・岡城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きています。箇条書きで紹介する、岡城の諸元です。
〇別名:臥牛城、豊後竹田城
〇築城年:文治元年(1185年)
〇築城主:緒方惟栄
〇天守構造:不明(1596年築・非現存)、複合連結型層塔式(1774年再・非現存)
〇遺構:石垣(同上) -
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみです。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として、20日間限定で模擬天守と大手門が復元されました。(同上)
*写真は、手前から見上げた、大手門の石垣光景です。 -
昭和11年(1936年)12月16日、『岡城址』として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月、日本100名城(95番)に選定されました。また、平成2年(1990年)には、『岡城公園』として日本さくら名所100選に選ばれています。城下の殿町『殿町武家屋敷通り』は、平成元年度手づくり郷土賞(歴史をいかした街並み)受賞、平成17年度同賞大賞しました。(同上)、写真は、麓方面の光景です。
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『難攻不落』と呼ばれた、岡城の石垣の紹介です。
〇難攻不落の堅城と謳われる岡城。その所以は周囲を囲う「断崖絶壁」と、その絶壁上に築かれている「石垣群」です。戦国時代末期の天正14年(1586)、志賀親次の守る岡城に、薩摩の島津氏の大軍が攻め入ってきましたが、険峻な要害である岡城を落とすことができず、撤退したという歴史が残っています。(岡城公式サイト) -
〇当時の岡城には現在見る石垣群は無く、土塁や空堀など土で造られた山城でした。文禄3年(1594)に岡城主となった中川秀成が、島津氏撃退でも証明された要害堅固な地形を土台とし、「土の城」から「総石垣造りの石の城」へ大改修を行い、今の岡城を形成しました。(同上)*写真は、左手に見える『かまぼこ石』と呼ばれる珍しい石組の光景です。
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〇近世初頭、中川氏により総石垣の城郭へと改修された岡城は、断崖絶壁上を石垣で取り囲み、その上に塀や櫓などの建物が立ち並ぶ大城郭となりました。明治に廃城となった後、城内の建物は取り壊されたため、現在は石垣しか残されていません。しかし、残された石垣から往時を偲ぶことが出来る岡城です。(同上)
*写真は、見事な『切込接ぎ(きりこみはぎ)』の石垣光景です。 -
〇城内の各曲輪、門跡、櫓台などは全て石垣により構築され、大小さまざまな石垣が連なる圧巻の石垣群により、往時の大城郭の姿を窺い知ることができます。中でも、主郭部である三の丸北側から二の丸にかけて続く絶壁上に築かれた高石垣は、壮大さと美しさを生み出しており、必見です。(同上)
*写真は、見事な『切込接ぎ(きりこみはぎ)』のズームアップ光景です。 -
〇岡城の入り口である大手門では、まるでヨーロッパの古城のような形の石垣を見ることができます。また、大手門の裏にはアーチ状に積まれた石垣があり、当時の城主である中川氏の美に対するこだわりをうかがうことができます。また、三の丸の高石垣は、屏風のようなジグザグの形をしています。これにより2方向から矢を放つことができ、このような構造は「横矢掛り」と呼ばれます。(同上)
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〇岡城の石垣は、阿蘇山の噴火によって川に流れ込んできた火砕流が冷やされ、石になったものを使用して築かれました。この石は加工がしやすく、石垣作りに向いていました。現在も城下の川で石を切出した跡を見ることができます。この石材は、『阿蘇山の溶結凝灰岩』と呼ばれています。(同上)
*写真は、大手門の石垣のズームアップ光景です。 -
〇築城の名手・藤堂高虎(1556~1630年)は、慶長16年(1611年)、肥後熊本藩の監国に赴くため、熊本城に向かう際、岡城に立ち寄りました。東向きの大手門は、朝日が当たると戦いで不利となることから、大手門を東向きの下原門から現在の西向きの大手門に改造すべきことを指摘しました。外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として徳川家康に重用された高虎です。その指摘に従った大手門です。(同上)
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〇大規模な火砕流堆積物は、一般に多量の火山灰と軽石などがほぼ均一に混じり合ったもので、堆積時に低温であれば「シラス」と呼ばれる非溶結の堆積物となります。堆積物がしばらく高い温度(約700度以上)を保っていた部分は、『溶結凝灰岩』と呼ばれる特徴のある岩石となります。「溶結」とは、高温のガラスどうしがくっつくようなものです。(同上)
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〇石垣之の積み方は次の3種が主で、岡城では、「切込接ぎ」「打込接ぎ」が多く見られ、特に太鼓櫓門では2mほどの巨石が「切込接ぎ」により積まれています。
*野面積:自然石をあまり加工せず使用する技法。
*打込み接ぎ:接合面や石の表面を多少加工し、隙間を少なくする技法。
*切込接ぎ:石を整形し、密着させ隙間をなくす技法。 -
〇また、岡城では「布積み」「谷積み」が多く、石垣の角は「算木積み」です。
*乱積み:不規則に積み上げられた石垣。
*布積み:石が横に一直線になるように積み上げられた石垣。
*谷積み:石を斜めに落とし込んで積み上げられた石垣。
*算木積み:石垣の角部に用いられる石積。(同上) -
〇岡城の石積の紹介の最後は『鏡石』です。鏡石とは、当時、職人の技術力や大名の力を外部にアピールするため、石垣に一際大きな石を埋め込むスタイルが各城で見られました。この大きな石を「鏡石(かがみいし)」と呼びます。岡城跡では大手門・太鼓櫓門などで見ることができます。
*写真は、大手門の土台石の光景です。『車敷』と呼ばれるようです。 -
次は、岡城の各所の紹介です。
〇総役所跡:『岡藩の行政機関・裁判所としての機能を持っていた施設で、藩内からの様々な案件を処理した場所です。現在は、駐車場及び来城者の受付として使用されています。(岡城公式サイト)』、親切な対応に、改めて有難うございました。
*写真は、『右本丸跡へ』、『左西ノ丸跡へ』の道案内標識です。 -
〇大手門跡:『大手門は、城の正面玄関であることに加え、防御施設でもある。大手門の石垣上には櫓が渡されており、櫓上から敵を攻撃できるようになっていた。現在残る石垣や礎石・車敷等から大手門の大きさが伺える。(岡城公式サイト)』、と紹介されていました。
*写真は、『国指定史跡・岡城跡』のタイトルがあった説明パネルです。 -
〇西の丸跡:『西の丸は、三代藩主中川久清の隠居後の住まいとして御殿が造営された。その後、政務の中心的な機能も西の丸へ集約される。西の丸には、御殿のほかに馬場や庭園等があり、城内で最も広い曲輪である。(同上)』、と紹介されていました。
*写真は、『岡城鳥瞰図』のタイトルがあった説明パネルです。 -
〇西中仕切跡:『城内で最も狭い場所で、石垣により通路を折り曲げ、敵が直進できないようにしている。また、その先を門により遮断することで、大手門方面から岡城中心部へ向かう敵の侵入を防ぐ機能を有していた。本丸の東側には東中仕切があり、西中仕切と同様に重要な防御施設の役割を果たした。(同上)』、と紹介されていました。
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〇太鼓櫓(たいこやぐら)跡・鐘櫓(かねやぐら)跡:『太鼓櫓は岡城の中心部への入口で、城内で最も重要な門である。2mほどの巨石を「切込接」という石積の技法を用い、隙間なく積まれた石垣は、藩主の権威の象徴であり、岡藩の石積技術の高さが伺えるものとなっている。(同上:続く)』
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〇『太鼓櫓(たいこやぐら)跡・鐘櫓(かねやぐら)跡(続き):太鼓櫓内には太鼓が設置され、城内に時を知らせるために太鼓が打たれていた。太鼓櫓に隣接して鐘櫓があり、火災や緊急時には、銅鐘が打ち鳴らされた。(同上)』
*写真は、長く続く本丸から西の丸に続くメインの大通りの光景です。 -
『中休所跡』の文字が刻まれた石標の光景です。ネット情報では、『中休所は大手門と桜の馬場の中間にあって、大きく張り出した土塁が特徴です。ここに櫓台があり、滑瀬坂周辺を監視していました。今日では、雑木にさえぎられて見えません。また、中休み所は数人いた藩医たちの詰める場所でもあったようです』と紹介されていました。
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〇三の丸跡:『三の丸は、他藩からの使者や家臣が、藩主と対面する場であったとされている。現在は、3代藩主に藩政に関する指南を行った熊沢蕃山や幕末の勤王の志士である小河一敏など、岡藩に縁のある人物の顕彰碑が建立されている。(同上)』
*写真は、左向きの矢印で、『中川屋敷跡(家老屋敷)』の表示があった場所です。茶人で著名な古田織部出身の中川家です。 -
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〇二の丸跡:『二の丸は、月見櫓や御風呂屋など、特徴的な機能を持つ建物が建てられていた。ここでは、来客の歓迎や藩主の愉しみの空間として利用された。現在は、来城者のための休憩所が建てられている。(同上)』
*写真は、幅広い石段の雁木のようです。
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